客 |
「今晩は」。 |
主 |
「オヤお出でなさい、どうもお気の毒様、ツイ無人(ぶにん)だもんですから、ちょっと使いでも上げればようございました」。 |
客 |
「イエナニ別の用もないからブラ/\来ました。また明晩伺います」。 |
主 |
「イヤ、少し待って下さい。明日の晩もいけないんで」。 |
客 |
「じゃァ明後日(あさって)」。 |
主 |
「明後日にもなんにも当分碁が打てない事ができちまって」。 |
客 |
「ヘエー」。 |
主 |
「今朝(けさ)家内がな、碁の事について、少し愚痴を言いました」。 |
客 |
「ヘエー、しかしお互い様に碁を打つために、夜更しをして、商売を外にすると言う訳じゃァなし、昼間一日稼いで夜の楽しみに打つんで、それも時間を極(き)めて十時をチンと打てばマァ打ち掛けていても止めて、明日打ち直すという事にしているんだから、差し支えないじゃァありませんか」。 |
主 |
「イヤそれは俺(わし)もそう言った。ところが女房のいうには、外(ほか)に何もいう所はないが、火の用心が悪いからどうか碁だけは打ってくれるなと言うんで」。 |
客 |
「ヘエ火の用心が」。 |
主 |
「なんで火の用心が悪いのかと聞いて見た所が、奥の六畳へ行って見てくれというから行って見た」。 |
客 |
「ウム」。 |
主 |
「六畳といえば、毎時(いつも)碁を打つ座敷だ。昼間は敷物が敷いてある。この敷物を上げてこの通りだと言われた時には、我が身ながら慄然(ぞっ)としたね」。 |
客 |
「どうして」。 |
主 |
「碁盤の周囲(まわり)は焼け焦げだらけ、因果と二人ながら噛むほど煙草が好きだし夢中になって碁を打ちながら喫うので、吹き殻が畳の上へ落ちる。この吹き殻のために火事になった事が昔も今も有りがちの事で、如何(いか)にも無用心だから、なにか外(ほか)に安心のできる慰みと変えて碁だけは打ってくれるなと、こう言われて見ると、それでもやるという訳にはいかない」。 |
客 |
「ハァー、また因果と煙草が好きだからなァ。困ったねえどうも、火事を出して構わないという訳もなし、私の宅(うち)へお出でを願うと言ったところが子供が多いからゴタ/\騒々しくっていけず、どうにか一つ火の用心をして、これならば安心という事にしてやろうじゃァありませんか」。 |
主 |
「そこだてね。安心と言ったところで煙草を喫(の)まねぇということはできない」。 |
客 |
「それはできないけれども…じゃァ庭の池を拝借しましょう。池には水があるから吹き殻が落ちてもチュウ/\消えてしまう」。 |
主 |
「それはいいが水の中は冷たい」。 |
客 |
「冷たいぐらい我慢をしなければならない。好きな道だから」。 |
主 |
「好きな道だって私ゃァ身体(からだ)が弱いから到底(とても)池の中へなんぞ入ってる事はできない」。 |
客 |
「それでは畳をトタンで張るということにしては」。 |
主 |
「そんな事は今夜の間に合はない」。 |
客 |
「それだから今夜だけ池でやりましょう」。 |
主 |
「どうも池じゃァ碁盤が仕様がない、水の中に立っちゃァ」。 |
客 |
「首から紐を下げて両方に吊っていれば差し支えはない」。 |
主 |
「どうも首から吊ってるのは勝手が悪いねえ。しかしそれはマァいいとして、碁器(ごけ)はどうする。石を袂(たもと)に入れてちゃァ重くっていけず、一掴み出すというのも工合(ぐあい)が悪い」。 |
客 |
「それは腰へ魚籠(びく)を提げてその中へ入れる」。 |
客 |
「それじゃァ釣りだ。馬鹿/\しい」。 |
主 |
「馬鹿/\しいと言わないで、これならばやれるという所を一つ御相談をしよう、モウそう寒くもなし、アノお座敷へ二人楯籠って」。 |
客 |
「中は全然火の気なし。マッチ一本置かない事にしたら、幾ら喫みたくっても、火の気のない所では煙草は喫めない」。 |
主 |
「それはいけない。お互いに碁が好きか、煙草が好きかといえば、碁の方は去年の暮れなどは十日ばかり商法が忙しくって休んだ事もある位だから、この方は我慢もできるが、煙草の方は十日はたて置いて、只の一時間でも我慢ができない」。 |
客 |
「成る程」。 |
主 |
「シテ見ると、碁より煙草の方がつまり好きの度が強い」。 |
客 |
「もちろん」。 |
主 |
「如何(いか)に碁が面白いといった処で、それより以上好きな煙草が喫めないということになると、物に譬(たと)えて見れば頭を擦(さす)られて尻の方を打たれる理屈でつまらない」。 |
客 |
「イヤ全然喫まないということは到底(とても)ない話しだが、一石(せき)の勝負が何時間掛かるというものじゃァない。大体こりゃァどっちが負けだと見切りを立って半ばで毀(こわ)しちまうような碁ばかり打ってる我々だから、十分か十五分で形(かた)が着く。その間はピッタリ我慢をして、次の間(ま)へ火を置いて戴いて勝負が着いてからその喫煙室へ行って煙草を喫む。腹に溜まるものじゃァないから随分喫み置きもできる」。 |
主 |
「そんなに沢山喫みゃァ目が眩(まわ)る」。 |
客 |
「マァ眩暈(めまい)のするほどウンと喫んでまた盤に向かって碁を打つ、一石打ってしまったら煙草を喫む。碁は碁で片を着け、煙草は煙草と、こう別にやれば大丈夫だと思う」。 |
主 |
「成る程。それは気が着かなかった。碁は碁でやって、煙草は煙草で喫む。イヤそれならいいだろう…。エヽ其方(そっち)で何を笑ってるんだ。笑うどころじゃァない。どうか安心なことをしてやりたいと思って種々(いろいろ)相談しているんだ。なにも可笑(おか)しいことはないじゃァないか。エヽ、そんならは差し支えないッて、当然だ。火のない所でやって差し支える道理がない。サァどうぞ此方(こっち)へ」。 |
客 |
「じゃァ早い方がいい。一石も余計に打ちたいから」。 |
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奥へ通って盤へ向かったらモウ夢中で、 |
主 |
「エヽト、碁は碁で打って煙草は煙草と」。 |
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(碁を打つ動作) |
客 |
「今日は最初から甚(ひど)く考えてるのは可笑(おか)しいね。どうしました」。 |
主 |
「イヤ今夜の碁は難(むつか)しい、煙草は煙草と」。 |
客 |
「ハァ仰(おっしゃ)るね、それなら此方(こっち)でも、煙草は煙草、碁は碁と、こんなものだ」。 |
主 |
「ウーム、煙草は煙草、碁は碁と」。 |
客 |
「お前さんも煙草と仰るから、此方でも煙草は煙草と…アヽ悪いなァこれは、こういけばこうとどうも、全然遣り損なった。エーッ煙草とやっちまえ」。 |
主 |
「ウム成る程。道理です。そう来ればまた此方でも…煙草と行くかな」。 |
客 |
「どうもこれは裏門からお出でなすったな。コウッ…と渡ると…渡らせんと、これを打ち切る、覗いて来る。継ぐの一手、サァ悪い石ができたよ。これは、煙草は煙草と、…待って下さいよ。ここだけは考えものだ」。 |
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もう盤へ気が入って二人ながら、全然夢中、煙草入れを出して、幾ら夢中でも煙草は詰めたが火がない。これはある道理がございません。 |
主 |
「オイまだ此処(ここ)へ火が来ていないよ。どうしたんだ、火を持って来なよ」。 |
妻 |
「アラ持ってッちゃァいけないよ。困ったねえ、モウ例の通り全然夢中になって在(いら)っしゃるんだよ」。 |
下女 |
「どう致しましょう。持って来いと仰(おっしゃ)いますが」。 |
妻 |
「今夜ばかりは大丈夫だと思って、いい敷物を敷いて置いたら、あれもまた焼け穴だらけにしちまっては仕様がない。御自分でしといて、後(あと)でお小言だから困っちまう。持ってッちゃァいけませんよ」。 |
主 |
「オーイ火を持って来ないか」。 |
下女 |
「アラまた言ってらっしゃいますよ」。 |
妻 |
「なにか火の代わりになるものはないかい」。 |
下女 |
「炭を入れてきましょうか」。 |
妻 |
「炭じゃァ黒くっていけない。なにかないかねえ、煙草盆ばかりじゃァ持って行かれない。アヽこうおし、縁側の庇(ひさし)の裏に烏瓜(からすうり)が吊るしてあるだろう」。 |
下女 |
「烏瓜」。 |
妻 |
「アヽあれを一つもぎってお出で、黄色いのがあるけれども、真っ赤になってるんでなくっちゃァいけないよ。…ナァニ夢中で分かりゃしないよ。スッカリ埋(い)けて、なにを笑ってるのさ、笑って持ってッちゃァいけないよ。笑わずにいいかえ」。 |
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両人(ふたり)は気がつきません。 |
主 |
「後(あと)を閉めてけ(スッパ/\煙草を吸い付ける動作)ハテナ…碁は碁煙草は煙草」。 |
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烏瓜の頭を持ってっては、スパ/\やっておりますが、幾らスパ/\やっても烏瓜の頭から火が発するする訳がありません。煙管(きせる)を咬(くわ)えて見てはまた烏瓜の頭を撫でている。これなら安心と細君は下女を連れて風呂へ参りました。
両人は差し向かい、表の方は誰もおりません。そこへ入ったのが因果と奥の二人より碁が好きという泥棒で、大きな包みを造(こし)らえて、それを背負(しょっ)て逃げ出そうとした時が、モウ十時近い刻限、パチリ/\と碁石の音、これが耳に入ったから堪(たま)りません。 |
泥棒 |
「イヤ蔭(かげ)で聞いても快(い)い心地(こころもち)だな、どこだろう」 |
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と音に引かされて、泥棒が奥の方へノソリ/\包みを背負たまゝ入って来た。 |
泥棒 |
「アヽここだな。気が散るといけないというので、ピッタリ閉め切って差し向かいだ、アヽふっくりとした、いい石だな。碁石がいいと平常(つね)より二目(にもく)方(がた)強く打てるというが真実(まったく)だね。いい石だ、塩煎餅(しおせんべえ)の生(なま)見たように、反(そ)っくり返った石じゃァ面白くない。甚だ失礼ですが。互先(たがいせん)ですな、碁は互先に限りますな。ハァ、その大きな石が攻め合いになってますな。力の入る碁だ。コウッとここは切れ目と、ここを…アヽ貴所(あなた)その黒は悪うございますよ。それは継ぐの一手だ」。 |
主 |
「いな。黙ってゝ下さいよ、見物は黙ってゝ下さい。見ているのは構わないが、口を出しちゃァ…岡目八目助言は御無用と、一つこれへ打って見ろい」。 |
客 |
「助言御無用とは御道理私も助言は御無用と」。 |
泥棒 |
「アヽヽ、アヽ手を放しちまっては仕方がないが、攻め合いの石を、あなたダメを埋めてくれなんて、そんな…」。 |
主 |
「蒼蝿(うるさ)いな、また口を出して…、オヤ/\あまり平常(ふだん)見たことのない人だ…、エーコウッ…と。あまり平素見たことのない人だと…。大きな包みを背負てますね。大きな包みだと」。 |
客 |
「これは大きな包みと」。 |
主 |
「大きな包みを背負てお前は誰だい…と一つ打って見ろ」。 |
客 |
「成る程、お前は誰だいは恐れ入ったな。それでは私もお前は誰だいといきますかな」。 |
主 |
「じゃァ私も…お前は誰だい」。 |
泥棒 |
「ヘヽヽヽ、エヽ泥棒」。 |
主 |
「フーン泥棒」。 |
客 |
「成る程、お前は泥棒かと」。 |
主 |
「これは泥棒さん、アヽよくお出でだねッ」。 |