囲碁川柳、俳句、短歌、狂歌、もじり歌 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.10日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで囲碁川柳、俳句を確認しておく。江戸期に生まれた川柳は雑俳の一種で前句付の点者だった柄井八右衛門(1718年-1790年)が柄井川柳と号して祖となり大流行したものである。江戸期のものを古川柳と呼ぶ。囲碁を題材とした川柳は多く詠まれ、歌舞伎や人形浄瑠璃の中でも生き続けた。「残念坊の囲碁川柳」、「江戸川柳1囲碁」、「春風亭華柳さん(1)「囲碁川柳」仲間と楽しむ(寄稿連載)」(読売新聞 2010/09/21掲載))、「江戸の囲碁川柳 (連載中)」、「指手のいろいろ 」、「文芸美術における囲碁の影響」その他より採録する。 2014.10.18日 囲碁吉拝 |
明和2年、俳風柳多留が刊行される。1840(天保11)年まで167編刊行される。その中に碁を詠んだ句が相当数ある。 |
1703(元禄16)年、立羽不角が俳諧広原海を刊行。著者は、俳諧師として多くの門弟を集め一派を為した。 |
明和期、万句合を刊行。1万を超える句が集まったという。1779(安永8)年、万句合を刊行。 |
【川柳/碁の人生論】 | ||||||||||
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【川柳/置き碁】 | |||
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【川柳/定石、格言】 | |||||
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【川柳/碁の打ち方】 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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【川柳/コウ】 | ||
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【川柳/シチョウ】 | |||||
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【川柳/中手】 | ||||
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【川柳/せき】 | ||
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【川柳/如来手(にょらいしゅ)】 | ||||
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【川柳/持碁(ジゴ)】 | ||
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【川柳/碁のマナー】 | ||
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【川柳/碁石音楽】 | ||||
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【川柳/マッタ】 | ||
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【川柳/碁の半目差、一目差の泣き方】 | ||||
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【川柳/囲碁上手、名人本因坊】 | ||||||||||
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【川柳/下手碁】 | |||||||||||
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【川柳/勝ち碁】 | ||||||||||
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【川柳/負け碁】 | |||||||||||||||
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【川柳/碁の検討】 | ||||
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【川柳/碁仇、碁楽】 | |||||||
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【川柳/碁狂(きち)、女房の碁嫌い】 | |||||||
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【川柳/見物碁】 | ||||
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【川柳/囲碁風景】 | ||||
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【川柳/碁会所】 | ||||
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【川柳/ユーモア】 | ||||
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【川柳/エチケット】 | ||||
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【川柳/厠(かわや)】 | ||||
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【川柳/色艶】 | ||||
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【川柳/宿屋川柳】 | ||||
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【川柳/川止め川柳】 | ||||
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【川柳/番屋川柳】 | ||||
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【川柳/医者、和尚、殿様】 |
医者川柳 お医者には 似合ぬ碁也 殺しとは 医者なれば 石の余命の 脈を見る 三度目の 使いで医者は 碁を崩し (万句合) |
和尚川柳 つぶし碁を 打って和尚の 高わらい 僧からに合わぬ和尚 せきごなり (せき碁=急き碁で早碁の意味) 和尚は碁 打ち所化衆は 将棋指し (所化衆=修行僧) おめえの碁 如来様だと 和尚言い |
殿様川柳 殿よりも 一目強い 国家老 殿様の 囲碁の相手は 風柳 碁の勝負 殿の後ろに つよいやつ 殿の御碁 たてばかりにて 手は見えず (たて=定石) |
【川柳/助言百景】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「助言のいろいろ」。
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【川柳/口シャミセン】 |
まいったな 口癖だけの ずるい人 |
【川柳/碁盤】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
「碁盤と碁石」。
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【川柳/碁石】 | ||||||||
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【川柳/碁笥】 | ||||
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【囲碁俳句】 |
「中田敬三、(1)芭蕉の俳句に碁のかけ言葉(寄稿連載)」(読売新聞 2005/01/17掲載) 囲碁や将棋を詠んだ川柳は多いが、俳句は少ない。の江戸時代の芭蕉門の其角、嵐雪、杉風や蕪村、一茶らに囲碁句が見られる。明治になってからも子規、碧梧桐や虚子にもある。 俳聖といわれる芭蕉の千近い俳句(発句)には「碁」の字が入った句はない。付け句(連句)に二句ある。尾張の俳人たちと巻いた歌仙「冬の日」の一句。「美濃で打った碁譜を旅のつれづれに思い出そうとしたが、思い出せなかった」という評注がある。「道すがら美濃で打ける碁を忘る」。「野ざらし紀行」の一部の写本にある。「碁の工夫二日閉ぢたる目をあけて」。芭蕉が碁を題材にしたからといって碁を打ったと短絡はできないが、「碁譜を思い出す」のは棋力がなければできない。紀行文「笈(おい)の小文」には、伊良湖崎を訪れる途中「碁石(白石になる貝)を拾ふ」と書いてある。また、芭蕉の俳諧(はいかい)観を伝えた「三冊子(さんぞうし)」に、芭蕉がある人の俳句を「碁ならば二、三目跡へ戻してすべし」と言ったことが載っている。俳諧の教えに碁を引くのは、碁を知らない人にはできない。ほかにも、芭蕉と碁に関する傍証がある。 |
【囲碁】 | ||||||
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【囲碁短歌】 | ||
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【囲碁狂歌】 |
淋しさは 碁の相手 さらになかりけり 手もやや寒き 秋の夕暮れ (家つと) |
1729(享保14)年、「家つと」は油煙斎(鯛(たい)屋)貞柳の著作。貞柳は菓子商の家に生まれ、幼いころから文人の素養を身につけ、狂歌師として江戸中期に活躍。一時期下火になっていた狂歌の人気を復活させたことから「狂歌中興の祖」とも呼ばれる。 |
年もはや 碁ならけちさす 時分にて かつ色見えて 梅もゑみぬる (家つと) |
今年も碁ならば終局の局面であり、仄かに勝ちが見えて来ており自然と笑みがこぼれる |
碁を打ちに 居るべき筈を けふよそへ 行くとは理屈に たがひせん哉 (万載狂歌集) |
1783(天明3)年、「万載狂歌集」は選者/四万赤良(太田南畝)で、江戸勤めの幕府の御家人として高位に上りながらも狂歌師としても名を残した。特に、上方が中心だった狂歌の流行を江戸に広めた功績で知られる。表題の「万載」は平安時代末期の勅撰和歌集「千載和歌集」になぞらえている。安土桃山時代に興った芸能「三河萬歳」にもかけている。は油煙斎(鯛(たい)屋)貞柳の著作。 |
斧の柄を くたせし碁とは うつてかえ 象戯のさしも もろき常なき (狂歌柳下草) |
作者は、油煙斎(鯛(たい)屋)貞柳に学び、狂歌の隆盛に尽力し、その作風から「栗派」と呼ばれる一派を為すまでになった栗*か亭木端。本作は囲碁伝説のランカの故事を基に詠んでいる。木端の弟子の柏木遊泉は狂歌柳下草の詠者でもあったが、好きな将棋を指しながら天寿を全うしたことを追悼して師が詠んだ作である。 |
打ち寄する 碁石の数に 日はみちて 暮れ行く年に かこふ手もなし (狂歌君が側) |
1762(宝暦12)年、狂歌君が側が上方狂歌として発刊された。 |
(私論.私見)