柳田格之進
 落語「柳田格之進」は古典落語の演目です。別名「柳田の堪忍袋」(やなぎだのかんにんぶくろ)もしくは「柳田の碁盤割」(やなぎだのごばんわり)として知られております。誇り高い武士の生きざまを描いた人情噺でございます。元は講釈ネタであったものを落語にしております。三代目春風亭柳枝が得意としました。近年では五代目古今亭志ん生、そして子息の十代目金原亭馬生三代目古今亭志ん朝の得意ネタでした。

 原話は江戸後期の碁打ち林元美著「爛柯堂棋話」。原話では、浪人は猪飼某。泉州堺で娘と二人暮らし、手習師匠をして生計を立てていた。時々商人宅へ碁を打ちに行くうち、金を盗んだ疑いをかけられ、返却後、出奔した。その後、商人宅で金が出てきた。が、猪飼は行方知れず、5年後商人の雑談から娘が京の島原遊廓にいることがわかった。娘に聞けば、父は郡村というところで小作をしているとのこと。番頭はすぐに郡村に行き、許しを乞うて金を返そうとしたが猪飼は拒絶する。追い返された番頭は、京の有力商人を介して詫びたが猪飼は聞かず、娘の身請けも許さず、置いていった金には手を触れぬまま郡村で生涯を終えた、となっている。これでは人情噺にならないので落語「柳田格之進」ではハッピーエンドにさせています。
 「ウィキペディア柳田格之進」その他を参照する。「立川志の輔 柳田格之進 YouTube」、「古今亭志ん朝 (三代目) 柳田格之進」、「古今亭志ん生(五代目) 柳田格之進 」、「古今亭志ん朝 柳田格之進 」、「春風亭昇吉 柳田格之進」。
 映画「碁盤斬り」は。白石和彌監督初の時代劇で草彅剛主演。

 囲碁吉版「柳田格之進」
 エ-、お運び有り難く、厚く御礼申し上げます。『格之進堪忍袋の碁盤割り』の一席でございます。
 柳田格之進は伊勢の津藩、藤堂家の家臣。幼少より文武(ぶんぶ)両道に優れ、長じては剣術と文筆、囲碁が城内一、二を争う腕前でござった。その性情、清廉潔白。能力高く律義者故に上役の覚えめでたく、次第に頭角を現わし、江戸詰めに登用されました。江戸藩邸では留守居役の輔弼(ほひつ)を勤め、手際良く職務をこなし、将来を期待されておりました。ここまでは順風満帆だったのですが、『能ある鷹は爪を隠す』にしておれば無難のところ、才気が余ります故にどうしてもはみでてしまいます。『出る杭打たれる』日が早晩来るような予感がございました。

 そういう心配をしていました折の或る時、格之進、江戸藩邸内の不祥事に行き当りました。贈収賄に纏わる二重帳簿を目にして筆を止め、筋が通らぬ事が大嫌いな故に見て見ぬ振りができず、内々に上役に上申致すところとなりました。今でいう内部告発でせうナ。これが仇となって讒言(ざんげん)により閑職に廻され、挙句の果てに主家追放の身にされてしまいました。こういう事は大昔から当時も今もあるようでございます。果たしてどう振舞うのが宜しいのでせうナ。

 浪人になりしよりは浅草阿部川町の裏長屋に身を寄せておりました。この間、妻に先立たれ、娘のおきぬは『鬼も十八 番茶も出花』のうら若き色白細面の美形でございました。その一人娘おきぬとの二人暮らし。

 格之進は近所の子供相手の手習い師匠を始め、おきぬも針仕事なぞをこなして、細々と生計を立てておりました。暮しぶりは楽ではございませんが、かの日々の窮屈大儀なお武家暮しよりよほどマシ、長屋暮らしもオツなものと『武士は食わねど高楊枝』で嘯(うそぶ)いておりました。その中でも武士の誇りと凛とした気品を失っておられなかったのはさすがでありました。

 ここまでの噺し、実は話の筋が幾つもありまして、例えば、ここでは津藩藤堂氏の家臣としておりますが、江州(ごうしゅう)彦根藩井伊氏の家臣とする話の方が多うございます。主家放逐のいきさつを詳しく語るものもあります。妻に先立たれたのがいつのことか武家の頃か失職後なのか等々も話の筋が分かれております。この辺りは本筋ではないと思われますので省かせていただきます。ここでは、格之進様が剣と文、碁に格別秀でた文武両道の士にして、天下一品の律義者という下りをつまんで下されば宜しいのでございます。このことが後の下りに大いに関係して参ります。

 そんな日の或る時、
おきぬ 『お父上、家の中で書を読むばかりしていては身体に障ります。足腰も弱りますヨ。父ほどの腕前の方が碁が打てないのは寂しゅうございませう。近くの材木町に碁会所があるとお聞きしました。気晴らしにお出かけなされては如何ですか』。
亡き妻の代わりとして明るく振舞う娘に勧められます。
格之進 『おぅおぅそなたは次第に母上の口ぶりになりつつあるな、気づかい済まぬ。なるほど合点、久しぶりに街の空気を吸うとするか、ついでに碁を嗜(たしな)もう』。
と腰を上げる運びとなりました。

 ここからの件(くだり)は詳しく語ります。私の噺の真骨頂のところでございます。

 格之進が初めて碁会所に顔を出しました時、『お初のお方とお見受けしました。お宅様はどれぐらい打たれるのでせうか』と声掛けしたのが、浅草馬道(うまみち)に住んでいる両替商質屋の萬屋(よろづや、以下「万」)源兵衛。世話役でございます。
初めての者が来れば段級を上手に聞きだして手合い合わせをしてくれるのが世話役です。こういう世話役がいるところは繁盛し、逆は逆になりますネエ。

 格之進の返答を引き出す前に、手強そうな雰囲気を察知したのでせう、『私がお相手いたしませう』となったのでございます。
年の頃、源兵衛初老の六十代、格之進はその一周り下ぐらいでせうか。
源兵衛 『初手合いですので互先(たがいせん)で参りませうか』。
互先とは同じ格の手合ということでございます。
格之進 『お受け致します』。
源兵衛 『しからば私が握らせていただきます』。
源兵衛が碁笥(ごけ)から白石を取り出し僅かに握り、
格之進 『半先』(はんせん)。

 源兵衛が握った手のひらを開き、石を数えますと奇数、半となりましたので格之進の先番となりました。先番は黒石、後手番は白石と決まっております。 

 いよいよ対局開始となりました。格之進『パチッ』、源兵衛『パチリ』。打ち下ろした音の響き、その時の手指のしなりの仕草で高段者であることが分かります。

 
ここで両者の棋力の凡そを推理しておきます。噺の展開上はお二人が下手の横好きレベルであろうと、中級者であろうと構わないように思われますが少し気になります。察するところ、お二人の棋力はそんじょそこらに滅多にいない高段者なんですな。今風で言えば地方の県大会ベスト8レベル以上、ひょっとしてその上の県代表レベルとした方がリアリティ-を増します。

 この辺りの高段者になれば相手に困るようになります。それが悩みの種なんですナ。手合差があった場合、将棋は駒落しで加減しますが、碁は置き石の数を増やしたり減らしたりでミリ単位まで調整できます。ですが、やはりなんといっても同じ棋力の互先と云う握り手合がおもしろうございます。そういう訳で、源兵衛、格之進の両者は碁の神様がお導きしてくれた稀なる五分五分の好敵手、碁仇(ごがたき)ということになります。
そういうことにしておきませう。

 対局者には、打ち進めるうちに、手応えで相手の棋力が伝わります。押すところはオシ、引くところでは控え、ハネるところではハネ、切るところではキル、辛抱するときは辛抱し、戦うべきところでは戦う。その調子で棋力が分かるものでございます。おぅ何たる廻りあわせか、両者の棋力が不思議なほど伯仲しております。お二人は直ぐに夢中になられました。

 
源兵衛、格之進両者の対局中の態度も共に品が宜しい。姿勢よく、背筋を立てて手を膝に乗せ、他方の手には年季のはいった扇子があり、時にパチンとします。手どころではじっと考え、ほぼ決まりきったところでは流れで早打ちし、石を正しく置き歪めず、要所で腕組し沈思黙考、相手をチラリと見やる等々対局姿勢も互角でございました。

 勝負は何と、最初の1局目は格之進の勝ち、二局目は源兵衛の勝ち。打ち分けになりました。1局に1刻(2時間)、2局で2刻(4時間)の熱戦となり、周囲の手空(あ)きの者が観戦し始め、その輪が次第に増えて行く見世物になりました。決戦の3局目が所望される雰囲気でしたが、「今日はここまでにしておきませう。疲れましたヘトヘトですワ」と両者とも声にし、次回のお楽しみにしました。

 棋力がこうまで揃う相手は滅多といやしません。棋力に加えて人柄でもウマが合うことを感じ取ったお二人は以来、お互いに姿を認めるや否や目配せして、挨拶そこそこに打ち始めるようになりました。

 番数(ばんかず)を重ねましたが、何番打っても勝ったり負けたりの一進一退。時に連勝すれば次に連敗を喫すという按配で、互いに勝率5割の振り子を行きつ戻りつしておりました。

 この二人はもはや、碁会所へ来て、お互いにお目当ての相手が見当たらぬとなると、寂しくてしょうがありません。お相手が来るまでの間、他の人と打つこともありますが、大抵は鶴首亀首(つるくびかめくび)で今か今かと待ち受けしておりました。その様子が碁会所でからかわれるほど公認の仲になっ゚て行きました。これこそ紛れもなく『負けて悔しい、勝ってうれしい、憎くて恋しい、今日も会いたや』の碁仇(ごがたき)の仲ですナ。

 そのうち、源兵衛が云う。
源兵衛 『どうでしょう柳田様。時には私どもの屋敷においでくださいませ。そうすれば閉店時刻を気にせずゆっくり打てませう。その後で軽く一献というのもオツなものでございます』。
格之進 『拙者は流浪の身、それを承知でお招き下さるか。かたじけない、そちら様さえ良ければ手前に異存はありませぬ』。

 と云う訳で、格之進が出向くと、立派な商家の造り構え。奉公人が忙しく働いております。『柳田と申し候、主人の源兵衛殿にお取次願います』と用件を伝えるや女中頭に迎えられ、案内されるままに進むと、一間の渡り廊下を伝って趣(おもむき)のある植栽(しょくさい)、庭石(にわいし)、灯篭(とうろう)の庭前(にわさき)を通り、心地よい風鈴の音(ね)を聞きながら離れの八畳間に辿り着きました。

 座布団が向かい合わせに敷かれており、その真ん中に四寸脚の本榧(ほんかや)六寸碁盤が用意されておりました。碁石はと云えば、白石は日向(ひゅうが)産の蛤(はまぐり)、黒石は那智黒(なちぐろ)。囲碁の愛好家なら一度は打って見たい垂涎(すいえん)の名品を揃えての贅(ぜい)を尽した囲碁冥利座敷でござった。

 それからというものの、折々に万屋邸でも打つようになり、終われば一献傾けて楽しんでおりました。格之進の娘おきぬは、出掛ける父を横目で見やるたび、元気を増して行く様子が見て取れ、それを見やるのが嬉しく、『お父上、ゆるりと行ってらっしゃいませ』と笑顔で送り出しておりました。

 頃は中秋の名月の夜、『今日は十五夜、月見としゃれながら一番いきましょう』との誘いで、万屋宅に招かれました。豪勢なお弁当に酒、肴(さかな)に舌鼓(したつづみ)したのは言うまでもありません。こうして月見の宴を張った後、奥座敷で打ち始めました。『パチリ』、『パチリ』。風流の極みですな。

 暫くして、二人が対局しているところへ、番頭の徳兵衛がやって来ました。『だんな様、お楽しみのところ失礼致します。今朝がた仰せられました御用達しの売掛金を届けに参りました。お(礼)文も頂戴していますのでお目通しをお願いいたします』。ところが源兵衛は既に碁に夢中で上の空、生返事ばかり。番頭はしかたなく革財布を主人の膝の上に乗せて部屋を出ました。

 格之進酔い機嫌の帰宅後、番頭が財布のお改めを願うと、あらまッ手元にありません。番頭『旦那さまのおひざに確かに置きましたヨ』。源兵衛『それは承知している』と言うばかり。使用人を集めて座敷の隅々まで隈なく探しましたが出て参りませんでした。こうして五十両紛失事件勃発とあいなりました。

番頭 『云いにくいことではありますが、疑わしいのは柳田様だけ。あの晩はいつもよりご酩酊の様子でした』。
源兵衛 『徳兵衛!その先を言うんじゃありませんヨ。碁を打てば相手の人とナリが伝わるものです。柳田様の碁は謹厳実直碁。人様に後ろ指指されるようなことをする方じゃありませんゾ』。
番頭 『人には魔がさすことがあります。着物だってツギアテだらけ。流浪の身であれば何か間違いがあってもおかしくないでしょう。つい、うっかりということだって、、』。
源兵衛 『よしんば万々が一そうあってもダ、柳田様にはよほどの仔細あってのこと。私の方から咎め立てする気はありません。あのお金は、私が集金の帰り道どこかに落としたことにしませう。それで良い、そう処理しなさい。この話は金輪際他言無用、これでお仕舞ですゾ』。

 番頭は納得がいきません。翌朝、主人への忠義立てとばかりに格之進宅を訪れ、ことの真偽を糺しました。
番頭 『ごめんくださいませ』。
格之進 『おっ、これは万屋の番頭だな。昨晩はたいへん馳走になった。どうしたのか? 何かあったのか?』。
番頭 『へぇ、ちょっと忘れ物がございました。忘れ物をお届けに参ったわけではございません。逆です。ひょっとしてお預けしているものがありはしないかと思いまして、ご確認に寄せていただきました』。
格之進 『預け物だと? どういうことだ』。
番頭 『お心当たりはございませんか』。
格之進 『何のことかさっぱり分からぬが』。
番頭 『そう来られるならば仔細をご説明申し上げます。実は昨日、だんな様に集金して来ました五十両を渡しました。柳田様も居合わせでしたからご存知だと思います』。
格之進 『それは拙者も覚えておる』。
番頭 『だんな様は既に碁に夢中で生返事ばかりでした。仕方ありませんのでそのままにして、柳田様がお帰りになりましたところで、財布のことを尋ねますと、これがあちこちをいくら探しても見当たらないのでございます』。
格之進 『その疑惑を拙者に振られるのは迷惑千万』。
番頭 『だんな様は碁を打っている間じゅうは碁盤の脇に置いておいていたと思うと申します。柳田様に何かこころ当りがありはしないかと・・』。
格之進 『拙者がその金銭に手を掛けたというのか』。
番頭 『いえ、そこまでは申しておりません。お酒も入っていることですし、ひょっと手違いで、帰りしなに土産袋と一緒にされたか、お手元近くに寄っていたものを何気なしに懐にしまわれたりしておりませんかと・・』。
格之進 『たわけた事を申すな。浪人はしていても痩せても枯れてもいやしくも身共は武士、人様の金子などに手を付けることはない。無礼なるぞ』。
格之進が激昂しました。番頭が言い返します。
番頭 『さよう言い張るのであれば致し方ございません。何しろ五十両の大金でございます。かくなるうえは、お奉行所へ届け出て、お上のお取調べで白黒つけさせてもらいます』。

 格之進はこれには参った。と云うのも、この時まさに藤堂藩内に格之進を呼び戻せの声が起り、元の主家への復職のツテが繋がろうとしていたのでございます。ここでお上の御取調べの身になると、帰藩に差し障りが出る恐れがありました。お白洲で疑いは晴れても、お白洲の厄介になったという汚名は消えません。藤堂家への復職の道が遠のくのが必定(ひつじょう)でございます。

 そういう事情があり、格之進『それは困る。訴えはご免蒙りたい』と頼む。番頭はそう云われればそれみたことかと逆に怪しいと思う。格之進はしばし押し黙りました。然るのちに尋ねます。
格之進 『番頭、ときに今日ここに参ったのは番頭の一存か? あるいは主人源兵衛殿のお指図か?』。
番頭 (口ごもりながら)それはもう、みどもの主人も柳田様に聞いて参れ、行って返してもらっておいで、と申しております。こうして私が参ったというわけでして』。
格之進思案六法。やがて口を開いて申す。
格之進 『あいわかった、もはや押し問答無益。ご集金入りの財布紛失の件、天地神明に誓って身に覚えのない事ではあるが、その場に居合わせたのが拙者の不運、不徳の致すところ。

 そちらがお白洲裁きに出るのは、今仕官待ちの身の拙者には具合が悪い。拙者がそう云えばそちらは余計に不審する。これではどうにもならん。やむをえん、何とかして五十両用立ててお返ししよう。ただし今はない。よし、近日中に用立てよう。その節は当方より連絡申し上げる。それまでの間、武士の魂である二本差しを預ける。何とぞこれでよしなに頼む』。
格之進深々と頭を下げました。番頭が云う。
番頭 『柳田様分かりました。どうぞお頭(かしら)をお上げくださいませ。二本差しは申し出だけで結構でございます。私どもは五十両が戻って来れば良いだけの事、ご用意できましたらお呼び下さいませ』。 
 
 格之進はかく約束したものの、五十両の大金を貸してくれるアテがあった訳ではありませんでした。頼みの綱は番町の叔母でした。文箱より巻紙を取り出し、かくかくしかじか、このままでは武士の面目が立ち申さぬ。近々元の藤堂藩へ帰参の見込みの筋がある故、その際にきっとお返し候云々と認(したた)めた手紙を、おきぬに持って行かせようとしました。

 
格之進が云う。
『おきぬ、この文を叔母のところへ届けて来てくれ。久し振りの叔母宅だから積もる話もあろう、今日はゆっくりして来るが良い。何なら泊めてもらいなさい』。

 おきぬの耳には、格之進と番頭のやり取りが入っております。手渡された文が五十両の工面であることがうすうす分かるおきぬは、ゆっくりして来るが良いと云われると急に不安がよぎって参りました。そこで身を伏せて云う。
 
おきぬ 『お父上、もしや早まったことを考えあそばされているのでは。母なき今、たった一人の親でございます。どうかご自害だけはお止(とど)まりくださいまし。このことをお約束くだされなければ出掛ける訳には参りません』。
格之進 『----』。
格之進が黙って聞く。
おきぬ 『お父上、私も武士の娘。御家名(ごかめい)を大事にしとうございます。容疑をかけられたままでは無念でございます。そもそも碁会所行きをお勧めしたのは私でございます。かくなる上はその五十両、私が苦界に身を沈めて用立てませう』。
格之進 『それはならぬならぬ』。
おきぬ 『外聞を憚(はばか)るのであれば、私との親子の縁を切ればようございませう』。
格之進 『馬鹿なことを申すな』。
おきぬ 『他に術がありませぬでせう。番町の叔母が用立ててくれるかどうか、身内には違いありませんが。いざの時に頼りになるのは身内の中の身内の親子でせう。さぁ親子の縁を切ってくださいませ』。
格之進 『ならぬならぬ』。
おきぬ 『私は構いませぬ。覚悟を決めております』。
格之進 『なき母上が悲しむ』。
おきぬ 『この数ヶ月、父上はとても楽しそうでした。職を失いしよりこのかた、決してみせることのなかった笑顔でした。万屋様とのお付き合いを感謝しておりました。それがこういう事になるとは思いも及びませんでした』。
格之進 『それはわしも同じ』。
おきぬ 『父上、どうか事を荒立てませぬように。真実は一つ、いずれ疑いの晴れるときが参りませう。ここは一つ私も堪(こら)えます。父上も堪忍して生き延びて下さいませ。身の潔白を証す為だけのご自害は口惜(くや)しゅうございます』。

 格之進暫し目をつむる。濃厚な沈黙が流れます。やがて、深く首を垂れ『かたじけない面目ない』。こうして断腸の思いで娘を吉原に売ることになりました。翌日、女衒(ぜげん)に連れられておきぬと一緒に吉原へ行き、一番格式の高い半蔵松葉という店に掛け合い、五十五両の支度ができました。

 この当時の五十両は今の貨幣価値で幾らぐらいでせうか。時は元禄か化政文化か幕末頃か、恐らく300万円あるいはもっと値が高く500万円するのでせうか。遊郭事情に明るい人に調べてもらいとうございます。


 二日後、訪ねて来た番頭に約束の五十両を手渡しました。
渡し終えて、格之進が申します。 
格之進 『ただし番頭。金子が出てきたらその時はなんとする』。
番頭 『屋敷中をあれだけ隈なく探して出てこないのですから、宜しゅうございます何なりとお命じ下さいませ』。
格之進 『番頭、その方の首を申し受けるが、よいか』。
番頭 『へいへい。その際は腹を括りませう』。
格之進 『二言(にごん)ないな』。
番頭 『へい二言ありません』。
格之進 『番頭、そなたの話では主人源兵衛の言いつけで訪ねて来ておるナ。そうであれば源兵衛殿も同罪。源兵衛殿の首も貰い受けよう』。
番頭 『へい』。
(オイオイ番頭が主人の首を差し出す約束を勝手にして良いのでせうか。それはともかく) 
格之進 『しかと約束したぞ』。
番頭 (平身低頭して)はぁぁ-』。

 番頭が万屋に戻り、柳田様から五十両を回収したことを源兵衛に報告します。それを聞いた源兵衛。
源兵衛 『なんてことを…番頭、余計な事をする。あたしはね、この度の事、私と柳田様の囲碁繋がりの信頼の絆(きずな)の前では他愛ないこと。いらざる忠義立てだ。主思いの主倒しとはお前のことだ。もし、柳田様が手を掛けていたのなら、よほどの深い事情があっての事。その時は、この五十両が役立ったと思えばよいのだ』。
番頭 『----』。
源兵衛 『ここ何ケ月もの間、柳田様と碁を打ち、酒を酌み交わし、胸襟を開いて世の中を語り、時に天下国家を論じた。何と楽しかったことか。あれほどの器量の人物であれば、今は浪人の身であるが抱えられる日も来るであろう。商いで鍛えた私の目に狂いはない。

柳田様のようなひとかどの者と知り合うことができたというのに、その方(かた)をかようなことで失うことの方(ほう)が口惜しい。お金で人物を失いたくないのだ。このことが分からんようでは、お前はまだまだ一人前の商人(あきんど)とはいえん、商人になっておらん』。
  
 番頭を叱り飛ばし、急ぎ謝罪に行かせました。ところが、既に格之進は家を引き払っていました。
(この件を面白可笑しく語る噺もありますが、ここでは委細カット致します)

 さて、年末のすす払いでとんでもないことになりました。何と、例の金子が出てきたのです。源兵衛が小用で厠に着いたところで、財布を持ったままであることに気づき、御不浄を憚(はばか)り、直ぐ前の部屋の欄間と額との隙間に預け置きしました。用足し後、頭の中が碁のことで一杯でしたので、
(脳内がテンパっていたんですナ。そちらに気をとられて)財布のことをすっかり失念したまま奥座敷に戻り、そのままになったのでした。今そのことを俄かに思い出したのです。源兵衛『そうそうそうだった。おうおうこれこれこの革財布だ。あぁ我れ一生の不覚なり。柳田様に合わせる顔がない、申し訳が立たぬ』。

 番頭を叱り飛ばし、急遽すす払いを止めさせ、店の者を八方手分けして送り出し、柳田様の行方を捜させました。ようやく柳田様の転居先が見つかりましたが、その家も立ち退いており、それ以降の行方は杳(よう)として分かりませんでした。

 (この件を面白可笑しく語る噺もありますが、ここでは委細カット致します。代わりに碁の話を入れております)
 (一呼吸置いて)


 年が明けてまた明けて数年もなろうとする正月四日、番頭の徳兵衛がいつものように年始回りをし、その帰りに湯島天神の切り通しにさしかかったそのとき、シンシンと雪が降る中を、下る番頭、上る蛇の目傘をさし、宗十郎頭巾を被った身なりの立派な武士と擦れ違いました。
『これ、そこに居るは浅草馬道の万屋の番頭とみたが』。
と声をかけられます。
番頭 『へい。仰せの通り手前は万屋の番頭、徳兵衛でございます。して、あなた様はどちらさまで』。
聞き覚えのある声だと思いながら、軽く会釈して見やると、
『拙者の顔を見忘れたか』。
番頭 『あっ!あっあっ!柳田様!。お懐かしゅうございます』。
格之進 『いかにも。何をそんなに驚いておる』。
番頭 『御無沙汰をしております。…それにしてもご立派なお姿になられまして』。
格之進 『源兵衛殿は達者にしておるか?』。
番頭 『へ、へぇ、おかげさまで』。

 聞けば、格之進は主家への帰藩が叶い、今や江戸留守居役三百石に出世しているとのことでありました。番頭は、格之進に濡れ衣を着せたまま今日を迎えていることに忸怩(じくじ)としております。身の縮む思いで受け答えしておりました。
格之進 『雪の中での立ち話では体が冷える。どうだ時間が取れるか、湯島の境内に旨い物を食べさせる店がある。一献傾けぬか』。
誘われるまま茶屋に向かいました。番頭にしてみれば、まるで閻魔様に連れて行かれるようで生きた心地がしません。気もそぞろ、針の筵(むしろ)で畏(かしこ)まりました。
格之進 『まずは一献』。
と差し出す。徳利を受ける盃を持つ手も震えが止まりません。
格之進 『どうした、まだ寒いのか』。
番頭 『い、いえ、寒いのではありません』。
格之進が四方山話(よもやまばなし)をする。一向に五十両の話を切り出しません。番頭は暫くは問われるままに返答していました。
格之進 『こうして酒を飲んでいると源兵衛殿を思い出すな。あれほどの碁仇は居らず心残りしている』。
『来たツ』と思った徳兵衛。あのとき、一本気な性格で押しかけ、持ち帰った五十両を忠義の誇りにしていたが、大過ちであったことがはっきりしています。約定(やくじょう)では首がかかっております。とはいえ、これ以上シラを切り通すことは無理です。遂に決心して金子発見の経緯を告白、涙ながらに粗忽(そこつ)を詫びました。
番頭 『実は、あのことですが柳田様、五十両は、私どもの厠の前の部屋の壁掛けから出て参りました。だんな様が御不浄に出向いた際に置いたとのこと、碁に夢中になってすっかり忘れてしまったとのことでございます。柳田様に伝えねばと、以来、柳田様を八方手分けして捜しました。が、聞きつけて行けば一歩遅く、今日までと相なっております。申し訳ありません』。
格之進 『ほう、出て来たとな、それはなにより。では拙者の疑いは晴れたというわけだナ。それはめでたいめでたい、今日は吉日じゃ』。
番頭 『申し訳ありません申し訳ありません。あぁ心苦しい』。
格之進 『よくぞ伝えてくれた、その心映え殊勝なり』。
番頭 『何とお詫びして良いものやら。あのときの非礼は五十両を倍にしてでも、主人と相談しまして三倍に掛け合ってでもお返しいたします。なにとぞご勘弁を』。
格之進 (声を落して)勘弁するも何も番頭、話は決まっておる』。
番頭 『ハッハッハ-』。
格之進 『確か、五十両が出てきたときの約束がしてあったナ。そちも二言ないと云い切っていたナ。よもや忘れてはおるまい』。
番頭 『ハッハッハ-』。
格之進 『あの五十両は娘が身を落してこしらえたものだ。いまさら五十両を百両にして返されても元の生娘(きむすめ)に戻るわけでもない』。
番頭 『誠に申し訳ありませぬ』。
格之進 『拙者の一存ではどうにもならぬ。おきぬとは以来会っておらぬが、これから出向いて、罪が晴れたことを伝えよう。それから始末を相談し掛け合いしてみよう。明日の昼頃に万屋に伺う』。
番頭 『ハッハッハ-』。
格之進 『そう云えば思い出した。娘と辛い別れをした時、『もし金が出てきたら相手様の首を討ち取って武士の面目(めんぼく)を守ってください』と頼まれておる。番頭、今日は長湯して世を惜しめ。念入りに首の辺りを洗って待っておれ』。
 
 そう言い残して去って行きました。その足で、格之進は吉原の半蔵松葉に出向き、おきぬと再会しました。久し振りのおきぬはかっての明るさを失い、かなりやつれておりました。かくかくしかじかと伝え、明日、万屋へ出向くこと、その際の始末を相談しました。
おきぬ (煮て食おう焼いて食おうとどうであれ)成り行きはお父上のご一存にお任せします。私が苦界に身を落した無念を晴らしてくださいませ』。
格之進 『あいや分かった』。

 翌日、格之進が万屋に出向く。源兵衛が飛んできて詫びる。
源兵衛 『これはこれは柳田様!お久しゅうございます。お待ちしておりました。ご立派になられておられましてうれしゅうございます。五十両の件では大変な粗相をしてしまい合わせる顔がございません、まことに申し訳ありませぬ』。
額を畳にこすりつけて詫びる。
格之進 『おお万屋殿か、久方ぶりじゃ』。
源兵衛 『仔細は番頭から聞いております。まずはこちらへ』。
源兵衛の案内で奥座敷に通されました。番頭の徳兵衛が従う。
格之進 『懐かしい座敷であるな』。
暫く懐旧の雑談をし、続いて番頭が五十両の顛末を語りました。格之進がひと通り聞いたところで、源兵衛は番頭を去らせました。去ったのを見届けて襖を締め、振り返りざま、
源兵衛 『柳田様、このたびの不始末は主人の私の誤ちでございます。疑う番頭に負け、そうまで云うのなら柳田様のもとに行って確かめて来いと申しました私の優柔不断が悪いのでございます。番頭はまだ若うございます。この源兵衛の首でご容赦下さいませ』。
源兵衛が泣き濡れながら詫びました。立ち去ったと思っていた番頭が引き返し飛び込むように入って来ます。
番頭 『旦那様!いけません。斬られるのは私です』。
源兵衛 『番頭!なぜ入って来るんだ。良いから下がれ!』。
番頭 『そういう訳には参りません。もし柳田様!全て私の一存でお取立てを強い、かくなる赤恥を晒している手前です。このことにウソ偽りはございません。旦那様を巻き添えにする訳には参りませんのです。お願いでございます私一人の首にしてくださいませ』。
源兵衛 『ならぬならぬ、店の後のことはお前に頼んだぞ。奉公人の不始末は番頭が、番頭の不始末は主人(あるじ)である私が負わねば示しがつくまい。柳田様、どうかこの隠居の首でご容赦下されませ』。
と互いにかばい合う。
格之進 『黙れ黙れ!もうよい両名ともそこに直れ!直れ!。約束通リ成敗してくれん』。

 ああ、万事休す。覚悟を決めて、二人は揃ってその場に座り、頭を垂れ目を閉じました。覚悟の念仏を唱え始め、『シ-ン』としたその一瞬の静寂の後、剣豪格之進の刀の鍔(ツバ)がチンと鳴るや、切れ味の鋭さで知られる名刀来国次(らいこくじ)の長刀が抜かれました。『家名の無念、おきぬの無念を晴らしてくれよう』。  

 格之進『エエイッ』と気合一閃(いっせん)、来国次が振り下ろされました。『パシーン』。ものが砕けたような音。首が二つ転げ落ち、赤い血しぶきが辺りに飛び散る-----。
(一息入れる)と思いきや、床の間の碁盤、その上に置かれた碁笥と碁笥の真ん中を刃が選(え)り分けて袈裟掛(けさが)け斬りし、碁盤が真二つに割れていました。
『そなたたちを斬り捨てようと思うたが、自分の命を惜しまず、互いに相手を慮(おもんばか)り庇(かば)い合う主従の真心。それがこの柳田の心に響いて手元を狂わせたようだ。一度振り下ろした以上、二度の剣はない。これにて一件落着としよう。名品の碁盤斬りに免じてそなたたちを許そう』。

 命びろいした二人は呆然とするやら安堵するやら感激するやら。源兵衛、徳兵衛同時に『今、お嬢様はどちらへ』と聞く。格之進『吉原の半蔵松葉に預けておる』。源兵衛が駕籠を呼び寄せ、急ぎ遊郭に向かい、半蔵松葉に身請けを申し出ました。

 この先は台本によって幾筋にも分かれております。ここではこうなります。

 半蔵松葉がおきぬの気持ちや如何にと尋ねたところ、おきぬ『全て父上に任せております。私の方から申すことはございません』。この言葉を請けて、万屋と半蔵松葉の身請け話しが纏まり、おきぬは万屋に貰われることとなりました。格之進と源兵衛の仲が元通りになり、奥座敷から『パチリ』の音が聞こえるようになりました。

 それから何と、おきぬと番頭徳兵衛の間に恋が芽生えたようでございます。おきぬは万屋に連れてこられた当初は随分やつれていました。が、番頭が責任を感じてでせう、名医を呼び寄せ、処方させつつ養生させるうちに、元々の色白細面のお武家の子女の品と格、明るさを取り戻して参りました。

 二人はやがて結ばれ、万屋の夫婦(めをと)養子となりました。追って男の子を授かり、柳田家の跡目を相続させました。次男を授かり、万屋を継がせたそうナ。こうしてめでたしめでたしと相なりました次第でござります。『なる堪忍は誰でもする、ならぬ堪忍するが堪忍』。『格之進堪忍袋の碁盤割り』の一席でございます。

 ここで、格之進が仕えた津藩をスケッチしておきます。
 津藩は藤堂高虎が初代藩主。高虎は近江国藤堂村出身。没落した元小領主・藤堂虎高の家に生まれました。初め浅井長政に仕え、姉川の戦いなどで武功を挙げます。浅井家滅亡後は織田信長に降り、織田家に降った浅井家旧臣阿閉貞征、次いで同じく浅井家旧臣の磯野員昌に仕えました。その後は津田信澄に仕えるも長続きしませんでした。


 その後、羽柴秀吉の弟・羽柴長秀(秀長)に仕え、中国攻めに従軍する。本能寺の変発生後も彼に付き従い、賤ヶ岳の戦い(対柴田勝家)、紀州征伐(対雑賀衆)、九州征伐(対島津義久)などに参加しております。賤ヶ岳の戦いの活躍で大名に昇進し、以後も順調に石高を上げていきます。 豊臣秀長の死後は、彼の甥で養子だった豊臣秀保に仕え、秀保の代理として文禄の役に出征しています。秀保が早世した後は出家しています。

 しかし、その才を惜しんだ豊臣秀吉に請われて還俗し、大名として復帰します。慶長の役にも水軍を率いて参加しています。この頃から加藤嘉明と仲が悪いことで有名になります。秀吉の死後は徳川家康に急接近。関ヶ原の戦いでは東軍側に付き、会津征伐(対上杉家)に参加。石田三成の挙兵後は、織田秀信が守る岐阜城を攻撃。関ヶ原本戦では大谷吉継と死闘を繰り広げました。その一方で毛利輝元の四国出兵の撃退や、西軍諸将への調略でも手腕を発揮しています。戦後はこれらの功で今治20万石の大名となりました。戦国時代から江戸時代にかけて活躍し「築城の名手」と云われた戦国武将です。

 1608(慶長13)年、二度の加増転封により、伊予(現在の愛媛県)の今治藩主から伊勢(現在の三重県)津藩の初代藩主となり伊賀へ移封しました。
その後、大坂の陣に徳川方として参加、長宗我部盛親と激闘を繰り広げました。その功で32万石に加増されています。以後は藩政の確立に努め、幕命で会津藩(蒲生家)、高松藩(生駒家)、熊本藩(加藤家)の後見も行っています。

 1630(寛永7)年10.5日に逝去(享年75歳)。全身に数多くの戦傷があり、死後に遺骸を検めた時には右手の薬指と小指、左手の中指、左足の親指が欠損または一部欠損していました。高虎は生前、みずからの経験を教訓として数多く残し、死後に家臣が遺訓として「高虎公遺訓二百ケ条」を書物にまとめています。家臣として伊賀忍者の元締め百地三太夫とか剣豪の荒木又右衛門とかが有名であります。
 人の寄る所は何処でも、碁会所も然りで、店毎にそれぞれの風格があり、その品と格に相応しい者が出入りするようになります。そういう釣り合いの法則があるんですネ。

 碁会所には席亭、師範が居て、客筋はほぼ皆勤の常連客、時々やって来る馴染み客、お初の飛び入り客からなります。常連の中より世話役が生まれて来れば運営がスム-ズになります。子どもと女流が来始めたら活気づきます。床屋政談、湯屋話しという言葉がありますが、碁会所も然りで昔から政談する処となっております。今でも変わらず打ちながらの政治風刺座談が日常でございますナ。
 (一呼吸置いて)
 ここで、囲碁の対局要領をかいつまんで説明しておきませう。碁盤は縦横19×19の361路からなる少宇宙になっています。線と線が交叉するところに交互に好きなところへ打てば良いル-ルですが、石の効率が問われております。そこに頭脳が要る訳ですネ。最終的に地換算で地数の多さを競います。その間のやり取りが囲碁の醍醐味で、序盤から中盤、終盤に至る過程が桃源郷になる訳でございます。一局を一生になぞらえることができます。大抵の方が数局打ちますので、碁会所で何度も人生を味わえる余得がありますネ。


 中盤より互いの石が絡んで参ります。道中、石の攻め合い、イジメ合い、殺し合いが避けられません。盤上でこれをやるものですから、打ち終えた後はいわば抜け殻になって大人しくなっております。碁を知らない人が碁打ちを見ますと、先ほどまでの盤上での丁々発止がウソのように、どなたもこなたもさっぱりした気分の温厚紳士淑女風になっている訳でございます。本当に紳士淑女なのかどうか、これは何とも言えませんなハツハツハツ。

 こういう碁の魅力に一度引き込まれますと、滅多な事で足抜けすることができません。碁を知らない人生は詰まらない、勿体ないと思うようになる訳でございます。

 
『碁打ちは親の死に目に会えん』と云われます。その本当の意味は少し違うのですが、ここでは述べません。またの機会に譲ろうと思います。嵌まると云う意味では本当ですネ。
 ここでお手をお借りしませう。本日のお客様で碁を打たれる方は何人ほど居られますですか。お手を挙げて教えてください。ひィふゥみィよゥ---***人ほど居られますネ。お幸せな方でございます。ネエそうでしょう。(ここで、客との掛け合い。例えば、碁を楽しんでいますか、碁を覚えて良かったですか等々と問う。客の反応に合わせて、そのノリで座を盛り上げる) 
 
まだご存知ない方は今からでも遅くありません、碁会所にお出かけ下され、手ほどきを受け、碁の魅力に触れてくださいませ。続けさえすればそのうちどこかで歯車がカチッと噛み合う日が参りませう。その日があなたの囲碁の打ち手としての独り立ちです。寝床に就くと、天井に碁盤が出て参りまして、ああでもないこうでもない、シマッタあそこはこう打つべきだったなどと独り学習し始めます。楽しゅうございますヨ。これをやる人はつおくなりますね。
 この時分は現代碁のように後手番不利を補填するコミがありません。そこでジゴ白勝ちにしております。ジゴとは、打ち終わった後で互いの地を整地し、数えて集計した地の目数が同数と云う意味でございます。つまり引き分けですナ。勝負を引き分けにしたらエンドレスになります為に、後手番白の半目勝ちと取り決めております。
 ここで碁打ちを品評致します。碁打ちにもいろんな流儀がありまして、宜しくないのは、碁笥(ごけ)の中に手を入れたまま、思案を廻らすたびにガチャガチャ音立てする者がございます。(手真似する)無意識にやっているわけですが、これをみんなが一斉にやりますとやかましい事この上ありません。高段者になるほどしなくなり、考え深くなるほど静かさを好むようになりますナ。

 口三味線(くちじゃみせん)と申しまして、自分でしゃべくりながら打つ者がございます。しゃべることで調子を取ろうとしているのでせうが、相手の迷惑お構いなしはいけません。

 但し、局面にピッタリの名言を吐く方がおられます。これはなかなかオツなもので、座を和ませ楽しゅうございます。打ちながら自然に出てくる呟(つぶや)きは、その方(かた)に徳分があれば耳障りでなく逆に味があります。但し、同じことを云っても徳分がなければ嫌われますゾ。何年に1回かヤイ表に出ろなどの騒ぎになりますがみっともないですネ。


 石を碁盤の線の交叉する真ん中に置かず少しズラす者がございます。トラブルの元です。
 優勢になれば成るほど鼻歌しながら打つ者がございます。耳障りになります。
 相手が苦しい局面なのに『参った参った』を連発する者がおられます。嫌味にならぬよう頼みます。
 自分も長考するのに相手が考え始めると柱時計に目をやりせかす者もおられます。
 貧乏ゆすりしながら打つ者もおられます。マッタ専門の方、打った石を剥がす方、逆に石を剥がした剥がしたと因縁つける方、何かの拍子に石を動かす方、打ちながらキョロキョロばかりする者がいます。


 という具合に、碁打ちにも碁打ちにはというべきか、なくて七癖いろんな癖性分があります。碁の話はこれぐらいにして又の機会に譲りませう。
 噺はそれますが、ここで遊郭事情についてお話させていただきませう。かねがね気になっていることがありまして、遊郭で遊ぶには今のお金でいったい幾らぐらい持ち合わせせねばならなかったのでせうかネ。それも、今風で云うこ1時間ほど遊ぶことができたのか。その際のセット料金は幾らだったのでせうか。

 入店する資格や条件があったとしてどのようなものだったのでせうか。入店すれば遊女の手練手管で延長料金になり、その場合平均で幾らかかったのでせう。寝床を共にした場合の時間と料金。一泊朝帰りの場合の時間と料金も知りたいです。それと遊女が一日に相手する客の数は平均何人だったのでせう。案外と人の心理を上手に掴んでいて、情緒もあって、現代の浴室嬢の方がよほど殺風景、過酷労働になっているのではないかという気がします。


 遊女の日当給金は幾らだったのでせうか。その給金を、現在のクラブの夜の蝶のそれと比較してみたいです。どちらが割の合わない商売をしているのでせうか。これらを知っておくことは、江戸時代がどういう時代だったのか、現代と比較するために必要な事のように思います。案外とこういうところを何も知らされていませんネ。遊郭の話もこれぐらいにして又の機会に譲りませう。もとへ。
 ここで「来国次」の説明をしておきますと、「来国次」は山城国(現在の京都府南部)で栄えた「来一門」の4代目当主で南北朝時代に活躍した刀工です。「来国俊」(らいくにとし)の弟子、あるいは「来国光」(らいくにみつ)の従兄弟とも伝えられています。「来国次」は、相州伝の実質的な創始者である名工「正宗」(まさむね)の十人の高弟と称された「正宗十哲(じってつ)」の一人に数えられ「鎌倉来」と呼ばれていました。作風は、それまでの来一門のものとは異なり、乱れ主張で沸(にえ)の強い相州伝を多分に強調した出来口を示していなす。本太刀においても、身幅が広く腰反りは深く付いて大鋒(きっさき)となる南北朝時代の典型的な姿に、刃文は浅い湾れ(のたれ)に金筋・砂流しを交えて沸が付くなど、相州伝の気質が窺えます(「太刀 銘 □□次(伝来国次)」)。もとへ。