史上の囲碁口入れ騒動譚
 「史上の囲碁口入れ騒動譚」を創作落語してみる。

 囲碁吉版「史上の囲碁口入れ騒動譚」
 囲碁将棋が日本のお家芸として今日まで伝えられておりますには太古よりの歴史がありましてのことでございます。この長い歴史には囲碁将棋の対局中に横から口入れしたばかりに騒動になった事件が数多くあります。その中でも極めつけのものを選りすぐってお話しさせていただきます。
 家康の算砂口入所望事件

 徳川家康様が晩年に滅法愛好致しまして囲碁三昧だったようでございます。(以下、人物の様づけを控えさせていただきます。頗(すこぶ)る活舌が良くなりまして、その分失礼のほどご容赦願います) 家康のお相手は専ら浅野長政だったようでございます。1611(慶長16)年に長政が逝去致しますと、家康は碁石を手にすることがなかったとも伝えられております。このお二人の囲碁逸話が次のように伝えられております。

 家康と浅野長政は天下無二の碁がたきでございました。或る日、家康が負けこんで、だいぶご機嫌が悪い。本日何番目かのこの碁も大石が死に掛かっており、気息奄々でありました。活きさえあれば勝ちなのだが、どう打てば活きるのかが分からない。


 そこへ当代随一の囲碁名人であります算砂がひょっこり姿を見せ盤側に座りました。『おお本因坊か。見らるる通り難儀をしているさいちゅうじゃ』。家康は心強い助け舟が現れたのを幸い、同意を求めるように話しかけました。『ここをハネるものか下がるものか、二つの一つだとは思うのじゃが---』。こう問われても相手があることですから、算砂は答えられるものではありません。家康が重ねて云う。『どうじゃ、ハネであろう。ハネならば確かに活きておる。な?』。こうまで云われては算砂も答えざるを得なかった。『御意。おハネになるがよろしゅうございましょう』。大石は活き、生きると同時に家康が勝った。勝った家康はカラカラと笑った。

 おさまらないのは長政である。退出する算砂を追って出てくると、眉を吊り上げ脇差に手をかけて云った。『こりゃ本因坊。余計なところにでしゃばりおって。お陰でわしの負けになったわ。もし今後もかような助太刀することあれば本因坊とて容赦せぬぞ。さよう心得ろ』。 
 家康と算哲の囲碁掛け合い譚

 家康には、『家康と算哲の囲碁掛け合い譚』も残されております。或る時、囲碁師の算哲が家康と碁を打ちながら云われました。『この石は活きているとおぼし召すか、死んでいるとおぼし召すか』。家康は暫く考え込み、『どうも死んでいるように思われる』と答えた。算哲『しからば存分に殺してご覧じませ。それがしは活きてお目にかけませう』。家康がその石を殺しにかかったところ、算哲は造作なく活きた。『なるほど活きたか。死んでいる石とばかり思ったぞ』。算哲『いやいや、まだ決着しておりません。はっきりしないところがあります。御所様がまこと活きているとおぼし召すなら、それがしが攻めて殺して御目にかけませう』。今度は家康が活きにかかったが、算哲が造作もなく殺してしまった。家康『これは稀代じゃ。活きと死にと、いずれが正しいのじゃ』。算哲『活きると仰せあれば死に、死ぬると仰せあれば活きる。即ち死中の活の妙機秘奥、詳しくは口伝に譲り申し候』。
 家元とお城碁譚

 1612(慶長17)年2.13日、家康の徳川幕府が、「碁打衆、将棋指衆御扶持方給候事」()として、当時の名だたる囲碁師、将棋師8名に俸禄を与え生活を保障した訳であります。これに与ったのが算砂、利玄、道碩、それに将棋の大橋宗桂らのお歴々でございます。扶持を受けた碁打ち衆のうち、相続をして家を継いだのは本因坊家、安井家(算哲)、井上家(道碩)、林家(利玄坊の弟子の門入斎)の四家でございまして、これが囲碁の家元となった訳でございます。家元制はその後凡そ230年間、幕府と共に続くことになります。

 時代が少しばかり下りまして、1626(寛永3)年9.17日、「道碩-安井算哲」が二条城の徳川秀忠御前で対局し、道碩が白番3目負けしております。コミのない時代でありますから負けておりますが、現代の6目半コミで評すれば逆に3目半勝ちになります。これを思えば、道碩の負けとするのは少々酷で、勝ちとは云わないまでも負けにはならないのではないかと思います。それはともかく、これより、寺社奉行の呼び出しによるという形式で家元四家の棋士が毎年1回江戸城の将軍御前にて勝負を競う御城碁が始まりました。1716(享保元)年、徳川吉宗の時代に家康の命日にちなんで毎月11.17日を対局日とすることが決められました。

 御城碁は特別な事情がない限り毎年欠かされることなく続き、幕末の1864(元治元)年に中止となるまでの230年余りに全部で536局対局、出仕した棋士は67名。出場資格は、本因坊、井上、安井、林の4家元の当主、届出を済ませた跡目相続人、7段以上の実力者でありました。こうして、毎年一回、江戸城中奥の黒書院で行なわれる御前試合として御城碁が始まりました。碁打ち衆にとりましては、これに出場することは最高の栄誉でありまして、四家が家元の面目を賭けて技量を競うことになりました。政治が芸能をこれほどに庇護した例は世界史に見当たりません。御城碁は家元の代表同士の真剣勝負となり数々の名局が遺されております。

 その一日は次のように明け暮れしました。明け六つ(午前6時)の開門と同時に三つ葉葵の紋のついた駕籠に迎えられた本因坊が江戸城へ登城し、寺社奉行の指図に従って準備を整え対局致します。いったん城内に入ったら、どんなことがあっても下城できません。これが「碁打ちは親の死に目にも会えぬ」の語源となっている訳でございます。将軍が出座すれば、終局まで打ち上げ、出座がなければヨセだけ残して出座を待ちます。将軍の都合がつかない時は、老中が全員出席して終局を見届けました。その後、下打ち制が生まれ、毎年11.6日に四家元が会合し、組み合わせを決めて奉行に届出、許可が下りると11日から16日までの間に対局し、当日は将軍の御前で手順を並べて見せることになりました。下打ちの6日間は誰との面会も外出も禁じられました。
 「本因坊算悦-安井算知の対局における松平肥後守の口入れ事件」

 1645(正保2)年、「史上初の争碁」となる「本因坊2世・算悦-安井家二世・算知の6番御城碁」が始まっております。二人は今や碁界の竜虎として空位の碁所を狙う地位にあり、この御城碁での勝敗は碁所決定をも左右しかねない重大な一戦でありました。まだ下打ちの習慣がなかった頃のぶっつけ本番の御城碁対戦でございます。手合は算知の先番で始まり、老中、若年寄、寺社奉行らが息を殺して見守りました。将軍はまだ出座しておりません。そこへ碁好きで名高い会津藩主で55万石大々名の松平肥後守(保科正之)がやって参りました。松平肥後守は二代将軍秀忠の妾腹の子で保科家に養子に入っている権勢家でありました。算知を贔屓しており、屋敷に住まわせ扶持も与えておりました。

 松平肥後守は甲斐守の脇に座って観戦し始めました。困ったことに一手打つごとに『ふぅん』と首をひねったり『なァるほど』と膝を叩いたり致します。算知が打ち込みを敢行した時、『うッ』とうなり声を上げ、『さても妙手。いかな本因坊も、よも勝つ手はあるまい(本因坊の負けと見ゆ)』と口を挟みました。


 算悦、これを聞きとがめ、やおら後ずさって盤の前を離れ、無人の将軍御座に向かって一礼しました。『本因坊、いかが致したぞ』。問いかける甲斐守に、背を向けたままの姿勢で、『この碁、もはやこれまでにてございます』。『負けだと申すのか』。『そうではありませぬ。打つことができないのでございます』。甲斐守『なんと』。算悦が言葉を続けた。『私どもは碁打ちにございます。碁をもってお上に仕えております。碁打ちが局に対するのは武人が戦場に臨むのと同じこと、私は本因坊家の当主、天下の上手(7段)として一手一局に命をかけております。そのやり取りに対しまして横から口挟みがあるようでは打てません、打つ訳には参りませぬ』。

 なかなかの棋家の見識であります。これに対しまして松平肥後守が如何に振舞われたか。ついと立ち上がり、御座に向かったままの算悦に正面から相対し、『本因坊、余が悪かった。この通りじゃ。本因坊、気分を直し、どうかいい碁を打ってくれい』。算悦『恐れ入ってございます。出過ぎたるふるまい、なにとぞお許し下さいますよう』。一座皆な胸をなでおろし対局が再開された。着手は遅々として進まず、定刻を過ぎ、対局場を甲斐守の役宅に移し、終局は未明に及んだ。結果は算悦の白番1目勝ち。算悦は大いに面目をほどこした。

 算悦が松平肥後守に対して見せた碁家の気節も立派、詫びを入れた松平肥後守も立派でございませう。これが賞賛され語り継がれております。『天晴れ算悦、よくも詫びたり天晴れ松平肥後守の巻』のお話し一席でございました」。