武宮正樹の囲碁哲学論考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
 ここで、「武宮正樹の囲碁哲学論」を確認しておく。

 2017(平成29).12.7日  囲碁吉拝


【武宮正樹名言】
 「四隅取られて碁を打つな」。隅は地を取るのに最も効率のよい場所であるため、四つの隅とも敵に取られてしまってはまず勝てないという教え。ただし大模様作戦を得意とする武宮正樹などは、四隅を取らせて勝ってしまった碁も数多い。
 「武宮正樹先生の名言をつぶやくbot」。
石を外へどんどん発展させるのが自然の動きというものです。自分から好きで隅や辺に閉じこもってしまうなど、私には考えられません。
では、石の自然な動きととはいったいどんなものでしょうか。私にいわせれば、石は外部へ発展したがっており、思い通りに伸びていくことが自然の動きにほかなりません。植物とおなじですね。最初は地面から芽を出しますが、どんどん上に幹を伸ばしていきます。
見た眼にも、自然な動きは美しいのに対し、不自然な動きは不恰好なものです。ゴルフでも、上手な人のスイングはきれいでしょう。ボールを打つという目的に対し、無駄な動きがない。無駄がないということは自然だということで、だから美しく感じられるのです。
私はごく自然に打っています。というより、石の自然の動きというものを大切にしているのです。逆に、不自然な動きというのは大嫌いです。
治勲さんがよく三々へ打つものだから、三々へ打つ感じはいったいどんなものだろうと、七番勝負の合間をぬって他の棋戦で三々へ打ってみたことがあります。しかし、やはり私の感覚には合いませんでした。三々はあまり隅っこすぎて、石が盤から落っこちそうな気がしたものです。
私は、碁石を人間と見立て、できるだけたくさんの人間を生かしたいと考える。だから碁は「いかに人間を生かすか」というゲームだと思っています。いかがですか。私のほうが考え方の次元がずっと高いでしょう。
「碁とはいったい何か」と聞けば、ほとんどの人は「地を争うもの」と答えるでしょう。しかし私には「地を争うもの」という感覚がありません。前にもいったゆに、地はお金を連想し、「どっちが金持ちか」などと金の勘定をするようなことは嫌です。
ただ地を数え、その数だけで形勢判断をするのは、石の流れを見ずにストップモーションの画面を見るようなもの。これまでの石の流れを掴み、このあとどう流れていくか、動きを感じ取らなければ正しい形勢判断はできません。
私のばあい、感じで形勢をつかみます。「感じ」というと少し大ざっぱに聞こえるかもしれませんが、べつの言い方をすると、「石の勢い」というものをよく見極め、それで形勢判断をしているのです。
(私の師匠である)田中先生の口癖が、「戦って勝て」ということです。「碁はわざわざ地を作るものではない。戦うことによって、地は自然とできるもの」と教えられました。
私にいわせれば、私ほど自然に打っている者はいないのではないか。「昴」の歌詩ではありませんが、「心の命ずるままに・・・」です。ほかの人の碁をごらんください。布石にしても、昔から誰でも打っているようなことばかりやっています。人真似が多く、創造性が感じられません。
プロ棋士は勝負が直接生活にひびくので盤上であまり冒険もできず、つい既成の布石や定石に頼ってしまいます。しかし本当に碁を愛するなら、もっと自由に自分を表現すべきではないかと思います。
碁には定石や布石の型がありますが、「定石だからこう打つ」というのでは固定観念にハマってしまい、のびのびとした碁が打てません。定石は一つの例、目安ぐらいなものと認め、それに頼らないことが大切です。いつもいつも定石通り打って、どこがおもしろいのでしょうか。
みなさんはどんな心構えで碁盤に向かわれるでしょうか。「勝ちたい一心」なのではありませんか。勝ちたいのは誰でもおなじですが、その中にも「正着」を打って勝つという心構えが欲しいものですね。
調和を求めながら自分の打ちたいように打つ。その結果として勝ちを得る。これが私の理想とする碁に対する考え方にほかなりません。
自由にのびのびと打つといっても、「調和」を求めながらでなければなりません。目的も何もなしに自由に打つのでは糸の切れた凧のようなものです。
碁の芸術性の核をなすものは「調和」ではないでしょうか。手のよしあしを判断する基準も「調和感覚」であるし、芸術性ということえでゃ、「調和」は「美」そのものでしょう。
「勝ちたい一心」の度が過ぎればその精神状態はマイナスの方向に働き、足を引っ張られることになるでしょう。要するに碁は、勝とうと思って勝てるものではないということ。勝つ要素はもっとべつのところにあるのです。
碁に勝っても負けても堂々としていたい。勝って堂々は誰でもできますが、負けて堂々はなかなかむずかしいことなんですよ。負ければつい負け惜しみの一つもいいたくなるのが人情です。
「先生はいまでも碁の勉強はするのですか」とよく聞かれます。 とんでもありません。碁は人生とおなじ。死ぬまで勉強です。
碁を打っていて幸せを感じるのはどんなときでしょうか。私のばあい、碁を打つことそのものに充実感を感じているときです。とくにタイトル戦に出場し、多勢の注目を浴びながら最高の舞台で打っているときは幸せです。
「世は一局の碁なりけり」という歌がありますが、まさに一局の碁の中に喜びや悲しみ、人生の断片や縮図を見ることがあります。
(碁は)戦い抜くことのきびしさも教えてくれました。碁は技術だけ磨けばいいというものではない。あらゆるプレッシャーに負けないだけの『強靭な心も育てなければなりません。
碁を打つことに創造の喜びを感じますが、碁は単なる作品ではありません。碁は実にいろいろなことを教えてくれ、私の人間性を高めてくれます。いまある自分は、碁が創ってくれたといっても過言ではないでしょう。碁が私の感性を磨いてくれました。
私にとって碁とは何か。むずかしくて口ではいい表せませんが、碁に対して一体感を感じていることは確かです。
だいたい日本人の考え方では、思ったことを口に出さないで腹にしまっておくのが美徳とされているようですが、私は日本人離れしているのでしょうか。思ったことは口に出したくなる方です。
碁の勉強に苦痛が伴うようではいけません。何度もいうように、碁が好きになるのが上達の第一の秘訣ですから、勉強もリラックスして楽しくやるようにしてください。
私のばあい、「対局中、頭の中にメロディーが鳴る」というとみなさんに不思議がられますが、これも緊張を和らげる効果があります。私のばあい、「対局中、頭の中にメロディーが鳴る」というとみなさんに不思議がられますが、これも緊張を和らげる効果があります。 メロディーが浮かぶのはやはり局面がおだやかなときで、しかも碁にも一つのリズムがありますから、そのときそのときにふさわしいメロディーが自然に浮かんできます。 メロディーが浮かぶのはやはり局面がおだやかなときで、しかも碁にも一つのリズムがありますから、そのときそのときにふさわしいメロディーが自然に浮かんできます。
愚形というのは、石に働きがないことをわざわざ見せびらかしているようなもの。馬鹿丸出し、というやつですね。碁は美しくなければなりません。
プロの碁を何度も並べ、棋譜を見なくても並べるようになったら、手の味わいがわかり、「なるほど、いい手だなァ」と思うようになるでしょう。そこまできたらしめたもので、もし本に解説や参考図が出ていたら、それを読むことによってさらに理解が深くなります。
おなじ碁を二度も三度も並べてください。できれば、碁譜を見なくても一〇〇手ぐらいまで並べられるぐらいになるといいですね。そうすると着手の意味が自然にわかってきます。それも理屈抜きで、感覚的に理解できます。理屈ではなく肌でわかる、これが大切なことです。
フィーリングで上達するには、具体的にどういう勉強をすればよいか。それはプロの実践譜を並べることです。プロの打つ石のフィーリングを味わうということですね。なぜそこに打ったかという理屈など考える必要はありません。左脳には目かくしをしておいて、ただ右脳で感じながら並べるだけでいいのです。
碁は碁盤の上に自分の感じたことを自由に表現するものですから絵画に似ており、その意味でも右脳の働きを大切にしなければなりません。私のばあいは碁にリズムを感じ、ときには頭の中にメロディーが鳴ったりしますから、音楽にも大いに関係があります。
碁をフィーリングで覚えるとはどういうことかというと、絶対に理屈を考えず、見たまま、感じたままの印象を吸収するということです。
後悔しているとき、目は過去に向けられていますが、反省しているとき、気持は将来に向いています。「反省はするが後悔はしない」 これは私のモットーです。
勝ったときはご機嫌でなにやかや感想はいうのに、負けたときは口も利かないですぐ次の局に移るという人がよくいますが、こういう人は強くなれないタイプです。
失敗したばあいは事後処理が課題だといいましたが、もう一つ、失敗した原因を見つけ、反省することも忘れてはいけません。それをしないと、おなじ失敗を何回も重ねてしまいます。みなさんのばあいも、もし強くなりたいのなら少なくとも敗因を突き止めるぐらいの局後の検討はやってほしいものです。
碁で失敗を恐れるということは、負けることを恐れるということです。絶対に負けてはいけない、絶対に負けてはいけないと思いながら打つと、どうしても手が縮んでしまいます。碁もやはり負けることを恐れずにのびのびと打ちたいものです。
失敗は自分に課せられた課題みたいなもので、それをどう乗り越えるかの判断や実行力を身につけることによって成長していくものです。
碁は一手一手自分の考えで打つものであり、自分を表現するものです。そこには創造の喜びがあります。そう、もしも「なぜ碁を打つのか」と聞かれたら、「創造の喜びを味わいたいから」と答えたいぐらいですね。
未来の豊かな手が好きで、その場で終わる手は嫌い。碁盤は夢を広げる場所であり、勝敗のみを追っては気持ちを辺隅に落ち込ませます。
白番は、相手の動きをよく見ることから始まります。自分は不自然な手を打たず、相手の不自然な手はすかさずその歪みを拡大する。それがいつでも正しく行えるとはかぎりませんが、少なくともそうした意識を持つだけでも、自分の碁が変わっていくことを感じるでしょう。
自然流では、ヨミよりも発想を重視します。ヨミは修正可能ですが、発想は修正できません。 着手の選択は、一に方向、二に着点でしょう。局面で最も大切な場所はどの方向かを見定め、その方向に着手する意図をもっとも効果的に発現できる着点を選びます。
碁の勝敗は、最終的に地の大小で決まります。とはいえ、進行過程で地に固執するのは、木の実を青いうちに収穫しようとするようなもの。最終的な収量は、自然の恵みにはるかに劣るはずです。
囲碁も人生も、同じだと思うんです。全部わかっていたら、怖くて生きていけないじゃないですか。明日どうなるか、一年先がどうなるかわからないけれど、心配していても仕方がないし、つまらないでしょう。夢があるから楽しい。何にもわからないから楽しいのです。
碁は変化が無限です。どんな場面でもいろいろな変化が生まれ、何が起きるかわかりません。碁は100手先、200手先がわかるゲームではないのです。「知らぬが仏」。なるようにしかならないのが碁だと思います。
「勝ちにこだわりすぎると碁を打てなくなる。将来強くなりたければ、思った通りの手を打てばよい」というのが私の持論です。
無理をしないで自然体で生きても、最善手は必ず発見できます。それどころか、自然体で生きることが、最善手の発見につながるのです。 「自然体で生きてゆく」 そんな人間が一人でも、増えれば、きっと神様も手を打って喜ばれるでしょう。
最善手を模索しているとき、自分が盤と一体になれたと感じることがあります。そう思えるのは、本当に素直な気持ちで盤にむかえた時だけ。わずかでも欲が頭をもたげていたら、絶対にそれは起こりません。盤と一体になれたと感じた場合、自分の頭ではなく、盤面が着手を教えてくれる。そんな感じなのです。
「調和の心」の源泉は、「自然体」にあります。「素直」という言葉に置き換えてもよいでしょう。勝ち負けにこだわるのではなく、この局面での最善手を探す。この自然体が美を生むわけです。
抽象性、創造性、そして感性に訴える美的要素。 このように碁は、どの点をとっても神様の贈物としか考えられないのです。 神様は、人間が美しい芸術を創造するための道具として碁を贈ってくれた。これは間違いのないところです。
芸術には忘れてはならない定義があります。それは「美しくなければならない」ということです。この「美しさ」は、理屈(頭)ではなく、人間の感性(心)だけが受け取ることのできるものです。
無から何かを創造するという人間の能力と欲求。おそらくこれは、科学では永遠に解明されない人間の大きな謎でしょう。この「謎」を人間に与えてくれたのが神様なのではないでしょうか。少なくとも私はそう信じています。
どんな未来がやってきたとしても、自然体でそれを受け止める。私は、それで自分の人生を作ってきました。つまり、宇宙流で生きてきたわけです。
芸術には、多くの人が惹きつけられます。その魅力の根源は、「美」にほかなりません。世の中の美しいものの代表が芸術なのです。碁も、そうした芸術の一分野。創造性が豊かであり、優れた着手や構想は明らかに美しいものです。そんな世界に触れてみる。必ず豊かな精神をもたらしてくれると私は思います。
対局は生きている証を棋譜に刻む行為。
国家や組織に属していると、なにかしらの支配を受けるものです。 いっそ、そんなものがすべてなくなってしまったらどうか。さぞせいせいするだろう。ときどき、こんなことを夢想することがあります。
私のスローガンは、きわめてシンプルなものなのです。生き方の基本方針が単純であれば、進む方向に迷いがなくなります。迷いが無ければ、物事を澄んだ眼で見ることが出来る。そう、客観的に見、かつ判断できるというわけです。それで何が判るのか。物事の本質。これが正確につかめます。
私が「宇宙流」を発想したのは、碁の真理に近づきたいと考えたから。 「宇宙流」こそ、それを実現させるための本道。こう信じてスタートし、その考えは現在でもまったく変わりません。
「宇宙流」のような発想の碁は、それまで誰も打ったことはありません。こうした独創は、絶対に人に迷惑をかけない。それどころか「面白い」ということで、囲碁ファンが増えたのではないか。その意味で「宇宙流」は、碁界の発展に多少とも寄与したであろうと自負しています。
「人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」これが、私の父の教育方針でした。そして私は、父の教えを守り、その通りの生き方を貫いてきたのです。
「碁は、自分の『真実を見通す目』が晴れているか曇っているかをはっきりと映し出してくれる鏡」。このことは、碁を打てば一目瞭然になります。
「個性」は誰にでもあるものでしょう。子供の個性を見逃さず、それを伸ばしてやる方法を考える。これが、親にとって最大の役目なのではないでしょうか。私は父にそれをやってもらいました。そして、棋士という仕事を選んでこんな幸せなことはなかったと思っているのです。
「自分には、幸運をもたらしてくれるなにかがいてくれる」と思うこと。それを私は女神と呼んでいるのです。この女神、転びっぱなしで起き上がる意志のない人間は嫌いなようです。未来に向かって精一杯努力をし現在を生きる。そんな前向きの人間にだけ、女神は微笑んでくれる。それは間違いありません。
「私は神と遊んでいる」といいました。さて、私と遊んでくれている神様は、はたして男なのか、女なのか? 私の場合、それはどうも女神様のようなのです。というより、「どうせ遊ぶのであれば女神のほうが楽しい」と、勝手に思っているだけなのですが・・・。
碁は「人生観と人生観の闘い」と言うこともできるでしょう。碁盤は人生観を表現する場であり、そこに打たれる石は、その人生観を形にして明示する道具なのです。お互いが盤上で自分の人生観を表現し合う。これが、盤上での対話ということになるでしょう。
勝利であれ、敗北であれ、過去にこだわったりとらわれたりするのは、賢明な生き方ではない。私はそう考えています。過去がどうあれ、未来のために現在の対局に全力を尽くす。私の人生を貫いているのはこれなのです。
「棋譜が後世に残るような碁を打ちたい」。私は、いつもこう考えて対局に臨みます。これは私だけでなくほとんどの棋士に共通する思いのはずです。
私はしいて安定を求めようとは思いません。そんなことをしたら、私は私でなくなってしまいます。これでは、棋士・武宮正樹として生きてゆく甲斐がありません。
世界中の人が囲碁を覚えて、人間が本来持っている、素直で相手を思いやる心を取り戻せば、戦争から個人間の小さな行き違いまで、すべての争いがなくなるでしょう。囲碁にはそれだけの力があるのです。
囲碁とは「神様が人間のためにプレゼントしてくれた」としか思えないほど最高に素晴らしいゲームで、それを一生の職業とできたことは、本当に幸せだと実感せずにはいられません。
(私の第一の師匠)田中先生の教えというのが「地は忘れろ。戦って勝て」の徹底でした。 田中先生の教えこそが「実利にこだわらない」という私の碁の根本的土台となっていることは、疑う余地がありません。 したがって田中先生との出会いがなかったら、果たして「宇宙流」が生まれていたかどうか?
「石の働き具合」を見れば、互いの地を数えなくても、形勢は分かります。一方の石が明らかに石の効率が悪い形になっていて、もう一方の石が伸び伸びと無駄のない形になっていれば、これはもう地を数えるまでもないからです。
自分が打ちたいと感じたように打つ――これが最も楽しいことで、碁が強くなる秘訣でもあるのです。
見た瞬間に感じた手を打つのが一番いい――これが今の思いです。「第一感こそ大切にしたい」と言い換えてもいいでしょう。
私は「碁は神様からの贈り物」と常々言っていて、かくも素晴らしいゲームを職業とすることができた幸せに、いつも感謝しています。 碁はまさに「人間が一生かかって遊べるように」と神様がプレゼントしてくれたゲームなのです。
(碁の起源は)はっきりと確定されてはいないようですが、私には「人間が作った」とは思えません。 人知を超越した、あまりにも素晴らしすぎるゲームであり、行う人は皆、美しい心を育むことが出来る――このようなものを人間が作ることができたとは、どうしても思えないのです。
私は、治勲さんとの対局が楽しくてなりません。至福の時間と言っていいでしょう。 碁とは結局「人間対人間」のぶつかり合いですから、私とは対極に位置する治勲さんと一局の碁を作り上げる作業に対し「今回はいったいどんな碁になるだのだろう」とワクワクしてならないのです。
人それぞれ感性が違うのですから、碁において何を楽しいと思うかは、人によって異なります。したがって、どんな打ち方をしてもいいのです。
大事なのは、私も治勲さんも「打ちたいと思った手を打っている」という点です。誰の真似でもなく、言い換えれば「自分が楽しいと思う手を打っている」のです。
私は常々「碁とは最後に地が多い方が勝ちというゲームです」とお話しているのですが、この言葉の中で特に「最後に~」という部分を強調するようにしています。
盤上で自分を表現することも、人生で自分を表現することも、まったくイコール。そう思っているので、碁に対する信念が揺らいだことが無いように、人生に対する信念も、これまで揺らいだことはありません。
そもそも碁の着手とは、その人の人生観が打たせるもの。ですから、いくら隠そうとしても不可能なことで、自分の生き方が盤上に出てしまうのです。
碁とはどんな打ち方をしてもオーケーで、そこがこのゲームの最も素晴らしいところです。だから人がなんと言おうと、自分の信念を貫くべきだと思うのです。
碁とは石の効率を競うゲームですから、相手に働きのない手――何手もかけて眼二つで生きるようなことを相手に強制できれば、かなりの確率でその碁には勝つことができるでしょう。
(私の碁は)はじめから「大きな地を囲ってやろう」と意図しているのではないということです。ではなぜ大模様の碁になるのかというと、模様を張れば相手は入ってくるので、封鎖することができるからです。「入らせて封鎖することで、相手に縮こませた手、働きのない手を打たせたい」という考えなのです
物事、必ず変化するわけです。永遠になどということはあり得ません。もちろん「人間」でも同じで、そして私は「だからこそ、それこそが楽しい」と考えています。
私は「安定」よりも「変化」とか「可能性」を好むのですね。「変化こそが美しい」という感覚が、私の中に確実に存在しています。
私の囲碁感・人生観の中で、「発展性」「可能性」というものが、実に重要な位置を占めている――つまり私は「可能性のある碁が好き」なのです。
「勝ちたい一心」の心境になったからといって勝てるものかどうか。それで勝てるなら負けん気の強い者が勝つことになりますが、もちろんそんな単純なものではありません。
何が嫌だといって、「ああしてはいけない」「こうしてはいけない」と自由を束縛されるのが私はいちばん嫌いです。
日本が勝とうが中国が勝とうがたいした問題ではありません。碁に国境はないのです。たとえば中国にものすごく強い選手が現れて日本の棋士が太刀打ちできないとしても、この世界にそんな強い人が現れたことを喜ぶべきではないでしょうか。
「国」という垣根は碁にはなんの関係もないということ。碁のすばらしさはあくまで碁盤の中にあるのです。日本がどう、中国がどうと騒ぐのは二の次、三の次の話題であって、日本が負けたとしてもあまり深刻に悩むことではありません。
失着を打って、いっぺんに形勢をわるくしたとします。そのとき、カーッと血がのぼって冷静を失うようでは、挽回不可能です。多くの人はヤケッパチになるか、あきらめて闘志を失うかですが、どちらも感心したことではありません。
勝ちあせってもいけないし、辛抱してゆるみすぎてもいけない。自分の気持ちをどのようにコントロールするか、「勝ち碁を勝ち切る」のは本当にむずかしいことです。
「勝ちたい一心」で肩に力が入るのはよくありませんが、その反対に、ファイトが湧かないというのも決してよい心境とはいえません。無欲とファイトがわかないのは似ているようで全然違います。心の奥では戦意があふれているのに、それが表面にはまったく出ない、というのが無欲ではないでしょうか。
対局中、形勢がよくなったときにいろいろな邪念が貼るのも強敵の一つです。優勢を意識するのはべつにわるいことではありませんが、勝ったあとのことまで想像して内心ほくそ笑んだりするのは邪念が入っています。
その人にとっていちばんの強敵をライバルというのなら、私にもライバルはいます。これは本当にものすごい強敵。それはほかならぬ、私自身です。
私にいわせれば、最初から地を取りたがるような碁は魅力もなんにもありません。隅に縮こまった地なんか、ふえも減りもしない。「ふえもしないが、絶対減らない。そこが安心できるところだ」と実践派はいいたいのでしょうが、そこがいちばんおもしろくないところです。
厚みが相手に脅威を与え、相手の着手を制限するということもあるでしょう。積極的に厚みを働かせなくても、相手が意識してくれる。これも厚みの無言の働きです。
それから、「厚みは地にするな」という格言がありますが、地にしてはいけないという法はありあせん。いい見本が私の碁で、私は厚みを壁にして地模様を作り、許されればそのまま地にしてしまいます。
実践派が実利を重んじるのに対して、ロマン派は厚み勝負です。厚みの働きは多様であり、未知の魅力があり、ロマン派はそこに夢を求めます。厚みが地に還元されるのはずっとあとの話ですが、その過程に楽しみがあるのです。
治勲さんから見れば、「最善を尽くせば勝ちは自然に転がり込む」などというわれわれ理想主義者のセリフなんか、たわ言に聞こえるに違いありません。
治勲さんが、「碁に負けたら絶望しかない」といったのは有名です。私に、この半分も執念があったらなァ、と羨ましくなります。私なんか、「負けたって、明日があるさ」というほうです。
大きな対局にどんな心構えでのぞんだらいいのか。いえることは、いろんなことを意識すればかえってマイナスになるということです。最初にお話ししたように無の心境を作ることが理想的でしょう。しかしこれは口ではいえることであって、望んでできるものではありません。
まず、自分の打ちたいように打つのがいちばん大切で、その結果勝つことができれば最高というわけです。
勝って当然と思って、スタート地点についたのがそもそもの敗因でしょう。もっと無心にならなければなりません。林さんとの本因坊戦のときの心境とくらべて、なんという違いでしょう。とてもおなじ人間の心境とは思えません。人間というのは、これほど弱いものなんですね。
十段戦の負けは私としても不本意でした。小林さんの碁は私とはまるで正反対で、サル派とカニ派でいえばサル派の代表選手みたいな碁です。目先の欲にこだわる、夢のない碁なんですね。私にすれば、こんな次元の低い碁に負けてたまるかと思っています。(当時の言葉です。)
碁を打っているときも、碁盤の中に楽しいことを見つけようという気持がいつも働いているに違いありません。いつも気持を新たにし、イキのいい手を打とうと心がけています。私が宇宙流と呼ばれる碁を打つようになった要素の一つには、楽しいことを見つけたい好奇心もあるのではないかと思い当ります。
人生は楽しむためにあるようなものですから、何かのために楽しみを犠牲にするということは、私にとっては本末転倒ということになります。
私は楽天家ですから、楽しいことが大好きです。どこにいても何か楽しいことを見つけようとします。人見知りもしません。気持のいい人と会ったら、すぐ仲良くなっちゃいます。
最もいけないのは、臆病になることだ。失敗を恐れ、打ちたい手をやめてしまうのは良くない。自信のない石は、相手にも伝わるものだ。
人から何を言われようと「自分の打ちたい手を打つこと」、「信念を持つこと」を信条としている。
師匠や先人から学ぶことも有益だろう。しかし、操り人形であってはならない。あくまで助言として参考にして、自分の信念を持たないと、先人やコーチ以上に強くはなれない。
囲碁の好きなところは運の要素がないところです。だから勝ったときは100%自分の力です。逆に負けた時は100%自分のせいなのです。
私、人のせいにしたりする人嫌いなんですよねー。言い訳する人間のださいことださいこと・・・囲碁ならそれはない。100%自分の責任。それでも何かのせいにしていたら、言い訳するほどにその人の評価は下がっていきます。“自分が正しく打っていたら必ず勝てるゲーム”なのです。それがすべてです。
負けても堂々としている人はかっこいい。悔しい気持ちになりながらも、堂々としている人はもっとかっこいい。
「アマチュアの皆さんはどんなことを考えて碁を打っていますか?」武宮正樹九段と言えば、宇宙流。自由な発想から繰り広げる模様作戦に多くの囲碁ファンが魅了されてきました。しかし、その打ち方は実は非常に合理的で、アマチュアの参考になるものです。では、武宮流を真似すれば碁に勝てるか、というと、そううまくはいかないもの。その理由は、真似をされる多くの方は代名詞といえる「大模様」を張ることだけを真似されるからです。武宮流は闇雲に模様を張る碁ではなく、ある考え方に基づいて打ち進めると自然に外回りの碁になると言います。武宮の碁を構成する本質は、「碁は二人で打つゲーム」という考え方です。いかがでしょうか? 「当たり前じゃないか」という感想を持つ方が多いでしょうか。しかし、本当に理解できていますか?この考え方に基づいて、碁を打てていますか?
 この言葉の真の意味を理解したとき、あなたの碁は変わり、ぐっと棋力が上がるでしょう。本書で「武宮の常識」に触れれば、碁が一層楽しくなり、格段に上達することをお約束します。(「武宮の常識 ~どうしてもアマに知ってほしい碁の考え方~ 」)
 「勝負も人生も直感を大事に/囲碁棋士・武宮正樹が勝利のコツ語る」(2012年5月27日)を転載する。
 [映画.com ニュース] 「アンダーグラウンド」のミキ・マノイロビッチ主演「さあ帰ろう、ペダルをこいで」のトークイベントが5月27日、東京・シネマート新宿であり、囲碁のプロ棋士・武宮正樹氏が登壇。同作で重要な役割を担うボードゲーム“バックギャモン”と囲碁の共通点やゲームの醍醐味を語った。

 幼少期に両親とともに共産党政権下のブルガリアからドイツへ亡命した青年が、事故で両親と記憶を失い、再会した祖父とともに自転車で祖国へ戻る姿を描いたロードムービー。青年はかつて祖父に習ったバックギャモンを再び教わりながら旅をすることで、記憶から失われた自身の人生を見つめなおし、家族の絆を取り戻していく。「病気や事故で脳に損傷を受けた人が碁をやると回復が早いと言われています。囲碁と同様に1対1でやるバックギャモンにも不思議な力があるのでは」と、劇中のバックギャモンの使われ方を分析する。武宮氏は趣味でバックギャモンをたしなんでおり、こちらもプロ級の腕前。昨年の大会で国内最高位を獲得している。

 勝負に勝つコツを問われると、「自分が感じたままにプレーしなさいと言うんです。変化は無限で、答えが出ない場面がいくらでもある。だから人間は直感を大事にしなければ。考えすぎると不安が増して、失敗することが多い」という。そして、「バックギャモンも無限の広がりということでは囲碁と共通します。たかがゲームですが、相手がいて深いものがある。遊びの中には生きた知恵が詰まっているので、遊びから学ぶことが大事」と、プロならではの含蓄ある言葉で観客を感心させた。

 ●武宮九段の「上達アドバイス」
 プロの碁を並べること。細かい読み云々より碁の持っている雰囲気、ニュアンスを感じ取るのです。
 基本的な詰碁を解くこと。やはり即戦力となる読みの力を養い、手筋を詰碁を通して知るのです。
 失敗を恐れずに碁に愛情を注ぐこと。技術面だけでなく精神面の強化が必要です。ともかく碁が好きになること。
 「みやれー」の2017.12.7日付けブログ「武宮正樹 自然流の名局」が次のように記している。
 「こんにちは。みやれーです。今回紹介するのは武宮正樹九段。二回目ですね。前回はこちら。武宮九段といえば『宇宙流』で有名ですが、本人は『自然流』だ。と言うほどに、自然な流れで碁を打つ棋士です。自然な流れとはどういう事かと言うと、弱い石から動き、大きい所、広い所から打つという、囲碁の基本を守って打つのが自然な流れです。口で言うのは容易いですが、実際打っていたら細かい所も気になるし、目先の利益に目が眩んで広い所へ打てなかったり、自然に打つのは意外と難しいです。それを堂々と、わかりやすく、かっこよく打ってしまうのが武宮九段の魅力」。
 「白中押し勝ち。投了しましたが、盤面でも白が良いくらいです。本局はなんと言っても序盤、厚く自然な打ち回しで優勢をつかみ取り、それから終局までの100手以上を隙無く打ち切りました。どの手が良かったというより、一局を通して全ての手が綺麗で自然。上手く碁をコントロールしていました。こんなふうに美しく勝てるのはかっこいいですね。武宮九段の碁は、実際に一手一手を碁盤に並べてみてほしい。並べるだけで気持ち良くなる棋譜ばかりです」。

 高野圭介/編「武宮正樹宇宙流の名言」。
 人生観  碁は「人生観と人生観の闘い」と言うこともできるでしょう。

 碁盤は人生観を表現する場であり、そこに打たれる石は、
その人生観を形にして明示する道具なのです。

 お互いが盤上で自分の人生観を表現し合う。これが、盤上での対話ということになるでしょう。
 自然体  無理をしないで自然体で生きても、最善手は必ず発見できます。それどころか、自然体で生きることが、最善手の発見につながるのです。

 石の自然な動きととはいったいどんなものでしょうか。石は外部へ発展したがっており、思い通りに伸びていくことが自然の動きにほかなりません。植物とおなじですね。最初は地面から芽を出しますが、どんどん上に幹を伸ばしていきます。
 美的要素  抽象性、創造性、そして感性に訴える美的要素。

 このように碁は、どの点をとっても神様の贈物としか考えられないのです。神様は、人間が美しい芸術を創造するための道具として碁を贈ってくれた。これは間違いのないところです。

 愚形というのは、石に働きがないことをわざわざ見せびらかしているようなもの。馬鹿丸出し、というやつですね。碁は美しくなければなりません。

 安定」よりも「変化」とか「可能性」を好むのですね。「変化こそが美しい」という感覚が、私の中に確実に存在しています。

 見た眼にも、自然な動きは美しいのに対し、不自然な動きは不恰好なものです。ゴルフでも、上手な人のスイングはきれいでしょう。ボールを打つという目的に対し、無駄な動きがない。無駄がないということは自然だということで、だから美しく感じられるのです。
楽しくフィーリングで

 「発展性」「可能性」

 調和を求める

 碁をフィーリングで覚えるとはどういうことかというと、絶対に理屈を考えず、見たまま、感じたままの印象を吸収するということです。

 碁の勉強に苦痛が伴うようではいけません。碁が好きになるのが上達の第一の秘訣ですから、勉強もリラックスして楽しくやるようにしてください

 私の囲碁感・人生観の中で、「発展性」「可能性」というものが、実に重要な位置を占めている――つまり私は「可能性のある碁が好き」なのです。

 調和を求めながら自分の打ちたいように打つ。その結果として勝ちを得る。これが私の理想とする碁に対する考え方にほかなりません。

効率を競うゲーム  碁とは石の効率を競うゲームですから、相手に働きのない手――何手もかけて眼二つで生きるようなことを相手に強制できれば、かなりの確率でその碁には勝つことができるでしょう。

 私の師匠の口癖が、「戦って勝て」ということです。「碁はわざわざ地を作るものではない。戦うことによって、地は自然とできるもの」と教えられました。
 定石論  碁には定石や布石の型がありますが、「定石だからこう打つ」というのでは固定観念にハマってしまい、のびのびとした碁が打てません。

 定石は一つの例、目安ぐらいなものと認め、それに頼らないことが大切です。いつもいつも定石通り打って、どこがおもしろいのでしょうか。
 石の働き  見た眼にも、自然な動きは美しいのに対し、不自然な動きは不恰好なものです。無駄がないということは自然だということで、だから美しく感じられるのです。

 愚形というのは、石に働きがないことをわざわざ見せびらかしているようなもの。馬鹿丸出し、というやつですね。碁は美しくなければなりません。

 「碁とは最後に地が多い方が勝ちというゲームです」とお話しているのですが、この言葉の中で特に「最後に~」という部分を強調するようにしています。

 最初から地を取りたがるような碁は魅力もなんにもありません。隅に縮こまった地なんか、増えも減りもしない。「ふえもしないが、絶対減らない。そこが安心できるところだ」と実践派は言いたいのでしょうが、そこがいちばん面白くないところです。
形勢判断   「感じ」というと少し大ざっぱに聞こえるかもしれませんが、べつの言い方をすると、「石の勢い」というものをよく見極め、それで形勢判断をしているのです。

 ただ地を数え、その数だけで形勢判断をするのは、石の流れを見ずにストップモーションの画面を見るようなもの。これまでの石の流れを掴み、このあとどう流れていくか、動きを感じ取らなければ正しい形勢判断はできません。

 私は常々「碁とは最後に地が多い方が勝ちというゲームです」とお話しているのですが、この言葉の中で特に「最後に~」という部分を強調するようにしています。
碁とは何か    「碁とはいったい何か」と聞けば、殆どの人は「地を争うもの」と答えるでしょう。しかし私には「地を争うもの」という感覚がありません。地はお金を連想し、「どっちが金持ちか」などと金の勘定をするようなことは嫌です。




(私論.私見)