日本囲碁史考、大正期

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).5.8日

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 2005.4.28日 囲碁吉拝



【日本囲碁史考9、大正時代の囲碁史】

 1912(大正元)年7.30日、大正に改元。

 この年8月、諒闇に当り、各囲碁雑誌、一斉に巻頭に奉悼文を掲ぐ。
 9月、巌埼健造(方円社3代目社長)が引退を決意し、後任を2代目中川亀三郎(囲碁同志会盟主)に依頼する。2代目中川亀三郎が方円社4代目社長に就任、囲碁同志会は解散する。
 9.22日、稲垣兼太郎が本因坊秀哉より関西碁界を取りしきる監督に任ぜられた旨、大阪朝日新聞が報道。
 9.25日、神戸研究会で質疑応答。稲垣(29日)と秀哉(31日)より関西囲碁会に釈明。
 「泰策集」出版。
 11.1日(~3日)、大阪府箕面公園「一方亭」で第3回素人囲碁大会(大阪時事新報主催)挙行、五百余名が参加。関源吉(5段)、「棊界新報」、「囲碁雑誌」両誌(11月号)に方円社社長更迭問題に関し「中川、広瀬両氏に与ふる書」を発表。
 11.9日、日本の六段棋士である高部道平が清国に向けて出発、中国の一流棋士を次々に打ち負かす。この頃の中国は、アヘン戦争以降は国力が衰え、囲碁も不振であった。
 11.17(13?)日、「囲碁同志会」解散、決定。井上孝平(坊門)を除く他の全員が方円社に帰属し、二代目中川亀三郎の方円社社長就任の件に賛意を示す。雑誌「囲棊世界」は廃刊とし、関節蔵(星月)は方円社で雑誌編集を行うこととなる。
 11.18日、巌埼健造8段が引退し、2代目中川亀三郎二代(千治改め)が4代目方円社社長となる。

 1913(大正2)年

 1月、方円社、「囲碁初学新報」を改題し、囲碁同志会の「囲棊世界」を合併吸収する形で新たに月刊雑誌「棋道」を発行す。関星月が編集の任に当る。
 2.10日、秀栄七回忌、本妙寺東京巣鴨)で挙行。本因坊秀哉夫妻、土屋家遺族等出席。
 2.20日、矢野由次郎(晃南)、富之日本社より「虎之巻」(後に「囲碁虎之巻」と改題)を発行。
 2月、本因坊秀哉、名人となる。披露会を5月に予定するも、皇太后の逝去と次いで世界大戦のため結果的に大正6年まで延期となる。
 3.23日、稲垣兼太郎6段昇級披露会(名古屋市東区西魚町「近直楼」)。京都寂光寺28世日主、稲垣に「日省」の日号を贈る。
 4月、野沢竹朝4段が時事新報社の懸賞敗退碁で明治43.1月(4回目)以来3年ぷりに5人抜きを果たし、一社5回の新記録を達成。
 5月、博文館発行雑誌「地球」、囲碁を掲載。
 7月、同館「生活」、囲碁講座を解説。
 7.27、8.9日、時事新報連載「(坊)秀哉8段-(坊)秀元4段(先)」、秀哉白番勝。
 10.31ー11.19日、時事新報連載「(坊)秀哉-(坊)秀元(先)」、ジゴ。
 「本因坊秀哉-野沢竹朝(先二の2子)」が打たれ野沢1目勝。秀哉一代の傑作と呼ばれている。
 この年、先に中国元朝の厳師(字は徳甫)と晏天章は「玄玄碁経」の改編版「玄玄棊経俚諺抄」(げんげんごきょうりげんしょう)3巻が出版され、これを元にし、囲碁棋士の雁金準一、関源吉(1856-1925)の意見に基づいて図が改められた「玄々棊経」が出版されている。
 8.13日、巌埼健造、病状重きを悟り、知友に告別状を発す。
 10.2日、巌埼健造8段、没(享年73歳)。
 この年、12.18日、野沢竹朝が未亡人某と結婚。

 1914(大正3)年

 1.30日、大阪時事新報、「関西碁界の暗闘」と題し、井上家と中根派の紛争を暴露。
 2.2日、井門研究会(井上家)発会(大阪市西区江戸掘1丁目「杏林倶楽部」)。
 2.8日、囲碁同友会(中根派)結成会(大阪市京町掘「阿久」)。
 2.15日、安藤豊次(如意、49歳)、神戸研究会(関西囲碁会の分会、神戸「神港倶楽部」)席上で対局中、急逝。関西囲碁(研究)会の運営ならぴに月刊誌「棊」の経営編集は山田光(玉川)に一任することとなる。
 2.22日、岩佐ケイ(金偏に圭)、六段昇級披露会東京市上野新披下「伊香保楼」)。
 2月、小岸壮二、入段。
 3.18日、中根鳳次郎、神戸市「下山手青年会館」で門下生らの研究による幻燈応用の電気碁盤を披露し、5日問の講習会を開く。
 3.22日、発起人・秋山民五郎ほか4名が京都囲碁研究会を発会させる。
 3月、秀哉本因坊(41歳)が名人に就任した。
 4月、瀬越憲作4段、弟子の国崎節男初段(26歳)を米国に派遣(約1年滞在)。
 5月、方円社、段宏業(段祺瑞の子)に2段を贈る(中国人へ免状発行の噸矢)。
 5月、本因坊秀哉、41歳の時、推されて名人になる。
 7.5日、井門研究会、囲碁同友会の和解成立。両会は各方面に廃会を通知し、新たに合同研究会の組織に着手す。鴻原義太郎4段、井上宗家の允許のもとに道号を正広と撰定、井門研究会廃会趣意書の署名よりこれを用い始め、襲用することとする。これにより後に子息義勝(囲碁ライター)は2代目正広を名乗ることとなる。
 8.3日、「瀬越憲作-(坊)秀元 (先)」、秀元先番1目勝。
 9月、囲碁雑誌社(小林鍵太郎主宰)、初段以下の免許状発行を発表。
 この年、11.14日、広月綾(絶軒)が「碁海週報」を発刊(碁海週報社)。講評者/本因坊秀哉。
 この年、家元林家の11世/林元美「爛柯堂棊話」(嘉永2年初版)を、林家の分家から出た女流棋士である林きく(生没年不明)が出版している。
 2月、安藤如意生没。
 この年、4.22日、伊藤小太郎5段没(享年77歳)。
 この年6.12日(5.19日?)、呉清源が、中華民国福建省(福州)に生まれている。本名は呉泉(せん)、清源は成人後につけた字(あざな)。6才の時、父の呉毅(?~1926)に囲碁を習い始める。その後は独学で、日本に留学経験のある父が持ち帰った方円社発行の月刊誌棋書「囲棋新報」の合本「敲玉余韻」(本因坊秀策の打ち碁100局を納める)など数十冊を繰返し並べるのが唯一の勉強法で上達していった。

 1915(大正4)年

 2.3日、「本因坊秀哉-鈴木為次郎 (先)」、鈴木先番中押勝。
 3.9ー11日、時事新報が21路盤の対局譜(土屋秀元4段対宮坂莱二3段、本因坊秀哉講評)を掲載。
 「
(坊)秀哉-鈴木為次郎(先)」、鈴木先番中押勝。
 3.14日、大阪囲碁研究会、発会(大険市東区備後町「備一楼」)。
 鈴木為次郎4段が万朝報主催の「碁戦」で10人抜きを果たし、勇退。
 5.9日、野沢竹朝5段昇級披露会(東京市京橋区尾張町「松本楼」)。
 5月(~6月)、胡桃正見(薬石)が、「棊界新報」(5、6月号)に「名人論」、「続名人論」を発表。
 5月、高部道平、清国より帰国。「棊」第81、82号に「棋界革命の機」を発表。
 7.18日、池田太造(無段)が、〃鬼池田〃を〃おかめ池田〃と改称したとして披露囲碁大会を開く(東京市浅草区青野町「敷島園」)。
 8月、野沢竹朝が「囲碁虎の巻」に「評の評」を連載する。
 9.20日、鈴木為次郎が5段に昇進。
 9月、碁界新報(9月号)が「囲碁の規則」(日中ルールの比較、その他)を発表。
 10.2日、鈴木為次郎が中国巡遊に出発。
 10.17-29日、「本因坊秀哉-野沢竹朝(先二先番)」、野沢先番中押勝。
 10.31日、恵下田栄芳5段昇級披露会。本因坊秀哉も参加(大阪「備一楼」)。
 時事新報囲碁新手合 坊門敗退第121回 1915年10月17-29日 本因坊秀哉-野沢竹朝(先二先番)

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 下辺で黒が簡明に先行した後、白は1(48手目)から秀哉一流の強引な封鎖に出るが、黒も正面から切り結んで、16まで逆に白が攻められる立場に追い込んだ。その後も各所で激しい攻め合いになるが、的確に応対して黒中押勝となった。本局で竹朝が先二で3局勝ち越してカド番とし、秀哉との最後の対局となっている。

 8月、野沢竹朝が「囲碁虎之巻」8月号に「評の評」を掲載、意慾的な論説を発表した。既に名人の秀哉の碁を当時五段の野沢が評を加えるということが名人や方円社の権威を危うくするものに思われ、本因坊、方円社両派の干渉のため9月号に打止め記事を出し1回で打切りとなる。

 1916(大正5)年

 1.4日、雁金準一6段(前年、関西囲碁研究会会員となる)が山田玉川の招時に応じて西下。出廬を喧伝されるも、いくばくもなく帰京し、依然手合に参加せず。
 1.15日、中根鳳次郎6段、京都移住披露会(「京都倶楽部」)。
 1月、本因坊家が段級録を発刊。
 2.29日、高松警察署が、高額賭碁事件の拘引開始。26名を検挙。
 3.20日、賭碁事件判決(高松区裁判所)。
 4.3日、内垣末吉(6段)引退、満州転住のため坊社合同の送別会開催(東京上野「伊香保楼」)。
 4.22日、台北薪超荷「弘法寺」)で台湾全島囲碁大会。百余名が参加。
 5.1日、井上因碩15世が7段に昇進。
 6月、大阪朝日新開、坊社対抗戦を行う。選手各8名・喜多文子(方円社)、坊門側にまわる。
 7月、香川県大川郡長(細谷某)、郡市長会議に碁盤に対する課税案を提出。
 方円社、旧清国の粛親王に初段を贈る。 
 8.26日、大阪在日新聞、東西対抗戦を企画し、広瀬平治郎西下。「浜寺倶楽部」で恵下田栄労、木村広造と第一、二回の対局を行う。
 9.9―10日、大阪時事新報社主催、第7回箕面素人囲碁大会に三千名参加。村島義勝少年(後に誼紀、12歳)注目を浴びる。
 9月中旬、上海囲棋社、設立。
 9.24日、胡桃楽石、関星月、矢野晃南、広月絶軒ら月刊囲碁雑誌主筆主催による少年囲碁大会、東京日比谷公園「大松閣」に予定されるも延期となる。
 10.15日、井上因碩7段昇級披露会(大阪市備後町「備一楼」)。東京より本因坊秀哉、中川亀三郎らも参加する。
 1916(大正5)年、大阪朝日新聞にて坊社対抗戦(選手各8名、方円社の喜多文子は坊門側で出場)。

 1917(大正6)年
 ロシア革命。

 2月上旬、高部道平、北京より帰国し、下旬ふたたぴ北京に赴く。
 2.20日、恵下田栄労、東上し、万朝報、大阪朝日新聞、両紙の棋戦に参加。
 3.4日、旧臘除隊の久保松勝喜代、4段昇進と囲碁専業披露会を行う(大阪市「備一楼」)。
 3.21日、同気会(関西棋士の懇親会)第1回親睦族行(和歌浦)。
 5.6日、本因坊秀哉名人披露会、3年ぶりに開催(東京市麺町区有楽町「大松閣」)。
 5月、時事新報が坊社合同対局に踏み切り、「広瀬平治郎(方円社)-野沢竹朝(本因坊家)」の対局行われる。
 5月、秀哉本因坊の名人就任披露宴が日比谷の大松閣で挙行され、朝野の同好者500名が集まって盛況を呈した。
 6月、広月絶軒、初段を返上。
 9.8―9日、第8回箕面(大阪)素人囲碁大会に2300名が参加。
 11.13日、銘木為次郎、シンガポールより帰国・同月、内垣末吉も満州より帰る。
 12.2日、瀬越憲作5段昇級披露会(東京鴬谷「伊香保楼」)。
 12.21日、山口賛石、自宅に同門を集め、雁金準一を井上家跡目として東京より招致を決議。
 この年、時事新報で坊社合同対局、広瀬平治郎と野沢竹朝の対局が行われる。
 この年1月、胡桃楽石、「帝国囲棋館設立の議」を発表(「棊界新報」)。
 1月、広月絶軒が月刊「碁海」を創刊(碁海週報社)。
 年9.5日、土屋秀元・隠居本因坊、没(63歳)。東京巣鴨本妙寺に葬る。
 10.2日、巌崎健造生没(享年72歳)。
 11.23日、15世井上因碩7段(田淵米蔵)没(享年47歳)。

 1918(大正7)年

 1月、「広瀬平治郎-野沢竹朝」の万朝報対局は二日徹夜、三日がかりの対局となる。先番広瀬の勝利に帰したが、広瀬は憔悴して勝ち継の権利を放棄。暁鐘会(関西青年棋士の研究会)発足。
 4.14日、広源平治郎・恵下田栄方、八日二晩の長時間対局を記録。
 5.23日、広月絶軒、関星月、神田神保町に早碁奨励会を設ける。
 6.6日、伏見宮貞愛親王、大隈重信邸の碁会に参加。
 9.14日、大阪時事新報主催、第9回箕面素人囲碁大会に東京より本因坊秀哉、中川亀三郎も参加。審判、指導碁等で出席した関西諸棋士は前年7月より休会中の大阪囲碁研究会につき協義した結果、解散を決議。
 9.30日、広瀬平治郎が、中華民国・国務院総理・段祺瑞の招聘により中国に赴き、同国より弟子の岩本薫初段(17歳)を呼び寄せる。
 9月、長谷川章、向井一男、中山季丸(季麿)8段。
 1月、柴山俊雄(号は竹水)、雑誌「囲棋之明星」(名古屋、囲棋之明星社)を創刊。
 10.10日、高橋善之助が月刊誌「囲碁評論」を創刊する。野沢竹朝(1881-1931)は大正4年「囲碁虎之巻」(8月号)で一回限りで中絶していた「評の評」を復活させ、本因坊秀哉や中川亀三郎8段の評に対して遠慮のない是々非々を加えた。さらに同誌の人物評論「棋界月旦」欄の連載を開始し、秀哉の本因坊継承にまつわる裏話を暴露し秀哉から戒告を受けた。野沢がこれを無視したため、本因坊家より「宗家に対して不都合」として破門、段位を没収される。しかし野沢は「私の師は秀栄先生であって秀哉ではない」と、意に介さなかったという。神戸に移り住んだ野沢はこの後も五段の肩書きで評論活動を続け硬骨漢ぶりを発揮した。
 この年12.5日、本因坊秀哉が野沢竹朝に戒告状を発す。文面は次の通り。
 「今回、『評の評』及び棋界月旦の雑誌『囲碁評論』を以って発表相成り候件は、同門の士が宗家に対する言動として甚だ不都合につき、速やかに改悛相成りたし。この段情誼を以って戒告に及び候也 本因坊秀哉 野沢竹朝殿」。

 12.16日、秀哉、竹朝を本因坊家より破門、段位を没収。文面は次の通り。
 「先般、碁評に対し戒告を送付せるに係らず今に何らの回答なし。これは門中棋家の行為として重々不都合と認め、ここに破門に及び、そこ許(もと)の名義を削除候につき、この段通告件の如し 本因坊秀哉 野沢竹朝殿」。
 野沢は「囲碁評論」の誌面で従来通り5段の肩書を用いる。無所属5段の囁矢。次のように評されている。
 「野沢竹朝(1881-1931)が主に月刊誌『囲碁評論』の『評の評』欄で、名人の本因坊秀哉や方円社社長の二代目中川亀三郎(石井千治)らの棋譜講評を遠慮なく批評し悶着となった。初めのうちは抗議や戒告だった秀哉らも『努めよ秀哉』には我慢できなくなり、本因坊家より破門、段(当時5段)没収するに至った。この時、野沢は『秀哉はわが師にあらず』の言葉を遺している。秀哉も野沢も秀栄門下。野沢は5段の肩書きのまま『評の評』を続けた。その後、野沢は肺結核を患い、療養生活へ。秀哉とは和解したが日本棋院の創立には参加していない。院社対抗戦の番外として鈴木為次郎との十番碁が九局まで進んだところで病状が悪化し、翌年、波乱の生涯を終えている」。
 この年、広瀬平治郎が、中華民国の国務院総理であった段祺瑞の招きで、弟子の岩本薫を伴い訪中。1919年、瀬越憲作が満州、青島を歴訪、汪雲峰、伊耀卿、顧永如らと向2、23子であった。続いて同年、本因坊秀哉、広瀬、瀬越、高部らが訪中、秀哉は陶審安らに向4子で打った。中国での対局は中国ルールで行われることが通例であったが、この時秀哉は中国ルールでの対局を嫌ったと言われる。これらの対戦が、中国の棋士にとって大きな経験となる。
 この年、オスマン帝国、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解。ドイツでも11月にキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位に追い込まれた。ドイツ革命(11月革命)によって成立した臨時政府が11.11日、北フランス・コンピエーニュの森で連合国と休戦条約に調印し第一次大戦が終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された。

 1919(大正8)年

 2月、福井勘兵衛(碁盤師、73歳)引退。
 4.13日、雁金準一6段、13年ぶりに出廬。初手合を林徳蔵3段と先二、二子番手合いでと交絢社で打つ(時事新報主催)。
 4.15日及び17日に打ち継ぎ、雁金の中押勝となる。
 4.1日、関西囲碁会、移転(大阪市東区今橋5-14より同区高麗橋通5-18へ)。
 5.12日、「本因坊秀哉ー中川亀三郎」が打ち始め、7月終り頃終局する。 
 5月下旬、高部道平、中国より帰国。
 6.1日、雁金準一、関源吉、吉沢道三、小林鍵太郎ら大正囲棋会を設立(事務所は東京市京橋区岡崎町、小林鍵太郎方)。
 8.21日、銘木為次郎、再度シンガポールを日ざし、神戸に向け東京を出発。
 8.25日、東京雑誌協会、諸経費の高騰を理由に値上げを協議、囲碁雑誌も同調。
 8.27日、本因坊秀哉、段祺瑞の招きに応じ、北京に向け東京を出発。(案内役は高部道平、帰国は3.12日、神戸港)。
 12.10日、恵下田栄芳、16世井上因碩襲名を独断発表し、15世因碩未亡人を中心とする井上家(弟子一同)より破門される。(翌年4月和解)
 この年8月、増位貞次郎(号は九皐)、雑誌「碁技」(大匪、日東囲碁会)を創刊。
 この年、坊社を問わぬ青年棋士研究会として「六華会」が旗揚げされ、同11年の「稗聖会」創立に繋がる。
 瀬越憲作が汪雲峰、伊耀卿、顧永如らと向2、3子で対局している。

 5月初旬、本因坊秀哉、高部道平、広瀬平治郎、瀬越憲作、岩本薫の一行が訪中。満州より青島経由で中国に入る。秀哉は陶審安らに向4子で打った。この時秀哉は中国ルールでの対局を嫌ったと云われる。これらの対戦が中国の棋士にとって大きな経験となり日中交流および中国のレベル向上に寄与した。また高部との対局で刺激を受けた中国棋士達が後に少年時代の呉清源を育てる役割も果たすことになる。

 この頃、中国から日本に留学した際に囲碁を学ぶものも多く、呉清源の父呉毅も方円社に通うなどして初段に2子ぐらいの手合となり、帰国時には棋書を多く持ち帰った。また顧水如は日本に囲碁留学し喜多文子とは2子の手合だった。
 小岸壮二4段が、時事新報棋戦に於いて32人抜き。

 1920(大正9)年

 1月、小岸壮二4段、時事新報主催の敗退戦で32人抜き(大正6年9月掲載の小野田千代太郎2段との向先対局<小岸は3段>以来)。
 3.12日、徳川慶久、頭山満、犬養毅、細川護立などが、秀哉と雁金を打たせようと相談し、細川邸で対局することとなった。「本因坊秀哉-雁金準一6段(先番)」が16年ぶりに対局。この日は27手、以降13回打掛けで翌年1.30日に終局、雁金先番6目勝。
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 布石では白が働いたが、黒1(29手目)の打ち込みから5の打ち込み、続いて9の強手などから15までの実利を稼いだ。続いて微差ながらも白は中央を大きく囲い、下辺、左辺でコウ争いとなったが、左上隅で黒から絶妙のコウ立てがあり、黒6目勝に終わった。この碁は当時公開されず、これと同じ1920年に秀哉中押勝した碁の棋譜が時事新報に掲載された。
 坂田栄男が次のように評している。

 「始めから終わりまで徹底的に戦い、いたる所で血の吹き出るような一局だった」。
 「(われわれは)これほどまでに読み切っていない」。
 3.15日、関西囲碁会の機関誌「棊」、「碁範」と改題、発行所を「突秋社」と改めるも(通巻第125号)、間もなく主宰の山田光(玉川)没し、廃刊となる。
 4.2日、中外商業新報(日本経済新聞の前身)、紙上に常設囲碁欄を解説。坊社両派の混合敗退戦を企画し、第1局を方円社の岩佐銈(ケイ)6段-坊門の村井上孝平5段とする。
 4.3日、久保松勝喜代5段昇級披露会(大阪市北区網島町「鮒宇楼」)の席上、「本因坊秀哉-雁金準一」対局が注目を俗びる。29手で打掛け、翌4日、神戸市の久保松祝賀第二会場「神港倶楽部」に席を移して打ち継ぐも33手で再び打掛けとなる。
 4.19日、15世因碩夫人のぶ、恵下田栄芳の16世襲名撤回を諒とし、鴻原正広と連名で恵下田破門の取消し通知を出す。
 5.20日、時事新報主催で「(坊)秀哉-雁金準一(先)」、白中押勝。打掛け19回、12.28日終局、秀哉白番で中押勝。
 5月、蒲原繁治、小杉丁、田岡秀子、向井一男、瀬尾浩、村田一(後に整弘)の本因坊門と方円社の若手棋士6名が「六華会」を結成。爾後、次第に坊社両派の少年棋士が参加し、組織的となる。瀬越憲作、鈴木為次郎、井上孝平らに講評を依頼、小岸壮二を会友に迎えるなどし、九州日報社の内田好之輔の運動で棋譜が地方新聞に掲載されるようになり、その後も岩本薫、橋本宇太郎、木谷實、前田陳爾ら多くの若手棋士が参加、日本棋院結成時までには会員20数名を数えるまでになった。1921(大正10)年、中川亀三郎に八段を贈り、方円社顧問を委嘱。後の日本棋院設立(大正13年)で発展的解散する。
 7.16日、二代目中川亀三郎(千治)(53歳、7段)が方円社4代目社長を辞任。後任に広瀬平治郎(56歳、6段)が5代目社長に就任する。
 8.20日、広瀬平治郎6段が方円社社長に就任する。
 12.3日、**が正式に井上因碩16世を襲名し、挨拶状及び一門への通牒を発す。
 この年、坂田栄男が東京府大森町に生まれる。
 この年、橋本宇太郎が上京して方円社の瀬越憲作に入門。1922(大正11)年入段。その後若手棋士の研究会六華会にも参加する。

 1921(大正10)年

 1.2日、時事新報、前年(5月~11月)対局の本因坊秀哉・雁金準一対戦譜の掲載開始。
 1月、方円社、広瀬平治郎社長に7段を贈る。シンガポール在住の鈴木為次郎を6段に進め帰国を促す。瀬越憲作が6段に進む。
 2月、方円社、前社長中川亀三郎に8段を贈り、方円社顧問を依嘱する。
 3月上旬、鈴木為次郎、シソガポールより上海を経て帰国。
 5.9日、井上因碩、田村嘉平、久保松勝喜代、渥菓六郎ら、浪花会、暁鐘会を合併して関西囲碁研究会を再生。大阪市大達寺で発会式を行う。
 5.15日、16世井上因碩の襲名披露会(大阪市西区長裾「岸松館」)。東京より本因坊秀哉、中川亀三郎、広淑平治郎、雁金準一、加藤信、名古屋より稲垣日省も参加。
 9月、恵下田照雄(2段)が殺人事件を起し、井上因碩(実兄、恵下田栄芳)照雄を破門(照男は裁判の結果、死刑となる)。
 雁金準一、鈴木為次郎、高部道平、瀬越 憲作が裨聖会を設立。総互先、持時間制の採用など囲碁界に新風を吹き込んだ。
 この年、「突秋社」創立、段位認定状発行。社長に中根鳳次郎、副社長に阿部亀次郎。

 1922(大正11)年

 2月、矢野晃南、方円社の在野囲碁誌に対する棋士の協力統制令に反撥し、「広瀬平治郎膺懲の宜言」を社告(「囲碁虎之巻」第10巻第2号)。(3月に和解) 
 方円社、雑誌「棋道」を2月発行(第10巻第2号)で終刊、3月発行「囲棋新報」第500号を機に合併させる。
 3.28日、方円社、丸ビル移転の披露囲碁大会を「日本橋倶楽部」で開催。来会者6-7百名。本因坊秀哉も出席、来賓手合を打つ。
 3月、方円社〈広瀬平治郎)の在野囲碁誌協力統制につき妥協成立。矢野晃南、前記社告の取消しを発表(「囲碁虎之巻」第3号)。
 3月、田村嘉平が6段に昇進。雑誌「囲碁オーソリティー」創刊(金田徳治郎編集、「大阪囲碁協会」発行)。神戸囲碁研究会、再出発。第1回例会を開く。
 幸田露伴著「碁と将扶」出版(国史講習会)。
 7.2日、木村広造5段昇級接客会(和歌山市公園「事館」)。
 8月、本因坊秀哉、井上孝平5段を無断で新聞手合(山陽新聞)を打った簾により破門。
 11月、方円社の不満派が反乱し、雁金準一、鈴木為次郎、瀬越憲作の各6段、高部道平、岩佐銈(けい、後に不参加)の各5段の棋士名儀で「裨聖会」設立を声明した。「裨」は「副」、「裨聖」とは「聖所に次ぐ」の意であり、犬養木堂毅の命名と伝えられている。その檄文は次のように記している。
 「棋界伝統の陋習を打破し、組織を新にして、新時代の趨勢に順応せねばならぬ」云々。

 これにより碁界は、秀哉名人率いる中央棋院、方円社、裨聖会の三派鼎立となった。「裨聖会」を設立が逆に碁界大合同を望む下地を生むことになった。


 裨聖会は、総互先制、4目半コミ出し制、持ち時間制(16時間)、打掛制(それまでは上手が好きな時に打ちかけていた制を、定められた時間になったら手番の者が打ち掛ける制にした)、成績の点数制など当時としては画期的な手合制度を初めて導入した。裨聖会設立時、野沢竹朝は、後援者芳川寛治伯を経て勧誘されたが、定先に打込んでいた高部道平や鈴木為次郎と互先で打つことを拒んで参加しなかった。裨聖会手合は一人が三人と白黒各2局の4局、計12局を戦う3年がかりの棋戦になり、結果は雁金が8勝3敗1ジゴで優勝、瀬越6勝5敗1ジゴで2位、鈴木6勝6敗で3位、高部3勝9敗で4位となった。
 この年、橋本宇太郎、入段。1922-23年に本因坊対方円社敗退碁戦(地方新聞連盟)にて7人抜き、青年囲碁争覇戦で5人抜き。1924年に方円社特選敗退碁戦(東京日日新聞)にて8人抜き。「棋道」誌上、1926.3月号-1927.12月号の高段者対青年勝継戦で12人抜き。1935年に時事碁戦(時事新報)で13人抜きなどの好成績を収め「天才宇太郎」と呼ばれる。
 この年、第一次世界大戦後からの碁界合同の機運が高まり、時事新報の矢野由次郎や代議士の大縄久雄発起で、秀哉以下の坊門、方円社、16世井上因碩を始めとする関西の棋士、稲垣日省など中京の棋士が署名した「日本囲碁協会」の趣意書が配付され、政財界からも多くの賛同を受けた。1920年に方円社長となった広瀬平治郎はこの機運に乗じて社屋の丸ビル移転を計画し、財界有志による寄付金を募集、移転披露囲碁大会を「日本橋倶楽部」で開催などするが、病に倒れ計画は頓挫する。

 1923(大正12)年
 1923(大正12)年9.1日午前11時58分、関東大震災発生。

 大正12年頃、「先相先/久保松勝喜代-田村嘉平(先」、久保松白番3目勝。

 田村も久保松も大正13年の日本棋院創立に参加し、田村は関西支部長となった。久保松は後に7段に進み、多くの俊秀を関西から東京へ送り込む。
 1.16日、実力派の雁金準一、鈴木為次郎、瀬越憲作の3名が抜けて「裨聖会」を設立したことにより弱体化した方円社は坊門に接近し始め、副社長格岩佐銈と広瀬門下の加藤信は、本因坊秀哉との間で坊社合同を合議し、広瀬の集めた資金により丸の内ビルディング(通称「丸ビル」)7階に中央棋院を設立し、方円社が移転する。
 1.17日、古島一雄、築地「喜多野鼻」に本因坊秀哉と野沢竹朝を招き、喜多文子を立会人として和解調停。両者旧交を温めることに同意。
 1.19日、坊社合同の中央棋院設立集会。席上、古島一雄は秀哉、竹朝の和解を報告し、両者挨拶す。
 1.21日、方円社、本因坊両派が合同し、新設の丸ビル7階(方円社新会館)で中央棋院発会式を行なった。井上村瀬も参加。この時、 免状発行権を譲渡し、それが翌年創立の日本棋院に受継がれた。3ヶ月後に分裂する。
 1.22日、「囲碁統一協会」設立懇談会。裨聖会同人と岩佐ケイ(金偏に圭)の論争で不調に終る。
 2.8日、中央棋院、初手合。
 3月、本因坊算砂300年祭が行われ、関西の吉田操子や本因坊秀哉らの斡旋で、裨聖会を除く方円社や井上家などの棋士も勢ぞろいする盛況となり、合同への再度の動きの契機となった。また第一次大戦後の不況もあり、各派の経済事情も苦しくなってきたこともこれを促した。
 4.1日、資金運用を巡って加藤と本因坊派が対立し、中央棋院が分裂する。旧方円社派が一方的に合同取消しを宣言し、丸ビルの会館より旧坊門を閉め出す。旧方円社派の喜多文子、小野田千代太郎両名は合同の意志を継続して中央棋院と行動を共にす。これにより、碁界は、坊門系中央棋院、方円社、裨聖会の三派鼎立時代と呼ばれるようになる。(翌年7月に三派が合同し日本棋院ができる)  
 4.6日、旧方円社派が中央棋院の看板を外して方円社に変えた。 
 5.2日、旧坊門側は旧方円社側を脱退と看傲し、そのまま中央棋院を名乗り、新会館を東京市日本橋区川瀬石町15に開設、移転した。披露宴を行う。
 5.13日、稲垣日省の寿碑、名古屋に建立され除幕式挙行。中央棋院より本因坊秀哉、方円社より岩佐ケイ(金偏に圭)も参加。
 5.19日、初代本因坊算砂三百年祭を京都「寂光寺」で執行。殆どの棋士と七百名以上のファンが集まり、寂光寺の境内だけでは間に合わず隣の寺まで人があふれたという。霊前(墓前)献碁の中に本因坊秀哉と野沢竹朝の手合が組まれ(打掛け)、注目を集める。大僧正・本多日生師より日号日温と命名され、東京浅草永住町妙経寺に於いて野口日生師より得度を受けた。
 6.28日、中央棋院が、機関紙「棋院新報」を創刊(広月絶軒が実質上の編集者)。
 8.16日、兵庫県有馬温泉で碁界大合同促進の願いをこめて玄素混合16名の大連碁を催す。本因坊秀哉、井上因碩、高部道平(裨聖会)、加藤信(方円社)ら諸派が参加。

【関東大震災の打撃】
 9.1日、この状況の中で死者9万人といわれる関東大震災が発生し囲碁界も打撃を受けた。中央棋院は喜福寺(本郷赤門)、方円社は岩佐ケイ(金偏に圭)宅(四谷区)、裨聖会は瀬越憲作宅(中野・上の原)に仮事務所を移転。「囲碁評論」が関東大震災のために休刊を余儀なくされた。
 10月、矢野晃南、「囲碁虎之巻」10月号(9月号は震災のため休刊)を出して碁界活動に終止符。この苦境を乗り切るためには分裂は好ましくないとする碁界大合同の機運がめばえた。

 この時期、棋界は本因坊、方円社、ひ聖会の三派鼎立時代となっていた。これを確認するのに、中央棋院は次の通り。機関紙「棋院新報」の編集は広月絶軒。
秀哉 名人本因坊
宮坂宋二 5段 秀哉の師弟
小岸壮二 5段 秀哉の師弟
喜多文子 5段
小野田千代太郎 5段
福田正義 4段 秀哉の師弟
林徳蔵 4段
林有太郎 4段
村島義勝 秀哉の師弟

 方円社は次の通り。
中川亀三郎 8段
岩佐銈 6段
加藤信 5段 広瀬平次郎7段の師弟
古沢道三 5段
小林鍵太郎 4段
岩本薫 4段 広瀬平次郎7段の師弟

 裨聖会は次の通り。
雁金準一 6段
高部道平 6段
鈴木為次郎 6段 師弟に木谷実、関山利一
瀬越憲作 6段 師弟に井上一郎、橋本宇太郎
 この頃、坊(本因坊家)、社(方円社)の両勢力がしのぎを削っており、且つ社(方円社)の内紛が生じている。本因坊家の側も、18世秀甫が早世した後に19世として再襲した秀栄の後継ぎを巡り対立が生じている。加えて、有力棋士が裨聖会(ひせいかい)を結成して本因坊家、方円社と並ぶ三派鼎立時代に突入し、囲碁界は混とんとした状況を迎えていた。
 古島一雄の調停で、五年ぶりに本因坊秀哉と野沢の両者が築地の料亭で顔を合わせ、喜多文子を立会人として和解が成立した。野沢竹朝が喜多文子の立ち会いにより本因坊秀哉と和解した。その後にも坊社合同の中央棋院設立集会の席上で、古島一雄が秀哉、竹朝の和解を報告し、両者が挨拶して解決したかに思えたが両者の溝を埋めるまでには至らなかった。

大倉喜七郎が大同団結援助を申し出る
 関東大震災により各派は大きな打撃を受け、中央棋院と裨聖会は両者協議の上、方円社に合同を申し入れた。方円社の加藤信は、前の中央棋院の時の経緯で凝りているのでニベもなく断った。そこで両派は、「もし方円社が解散合同に賛成せぬのなら、爾今方円社との新聞手合を拒絶する」と迫った。雁金らを欠き、小野田の中央棋院行きなどもあって加藤信に続く棋士が岩本薫四段ぐらいとなっていた方円社はこれを受け入れた。
 関東大震災により各派の事務所が焼け出されるなどし、経済的に困窮する中、大倉喜七郎おおくらきしちろう1882-1963)が、「もし三派が一切の行きがかりを捨ててほんとうに大同団結を志し、国内の普及はもちろん、日本文化の誇りである碁を世界に普及しようという理想をもってやるのなら、経済的援助を惜しまない」と述べ、各派が真剣に合同を検討するようになった(林裕「囲碁風雲録」)。次のように述べたと云う。
 碁は中国で生まれたものだが、これを芸術にまで育てたのは日本だ。本因坊、方円社、ひ聖会の三者が一体になって復興に努力、碁を世界的に広める気持ちがあるなら、経済的な援助を惜しまない。

 これが日本棋院設立の契機になる。翌年7月、日本棋院が産声をあげる。

 1924(大正13)年

 1.6日、小岸壮ニが腸チフスのため重態。本因坊秀哉、小岸の再超不能を知り、生前に6段に昇段させる。1.7日、小岸生没(享年27歳)。小岸は秀哉から後継者として期待されていた。本妙寺(東京巣鴨)の本因坊歴代墓地に葬る。
 1.13日、方円社新年会。広瀬平治郎が前年来脳病を患い引退。岩佐銈(ケイ)が6代目社長、加藤信6段が副社長になる。
 この年、2月、田久江南(経営)、田中秀次郎(号は涛外、編集)、「囲碁虎之巻」を復刊、再発足させるも、4月に第12巻第3号を出したのみで止む。
 この年、日本棋院創設直前の頃、尼崎で生まれ、大阪と神戸に道場を開き多くの若手棋士を育てた久保松勝喜代(1894-1941)が神戸から上京して方円社の手合いに参加し6段に昇る。これを機に、村島義勝と前田陳爾を本因坊秀裁門に、橋下宇太郎を方円社の瀬越門に、木谷實を方円社の鈴木門に送り込んでいる。関西に定住した染谷一雄、刈谷啓、瀬川良雄、窪内秀知、鯛中新、鈴木越雄、松浦吉洋らが後に関西碁界の中心となって行く。田中不二男は夭折。1928(昭和3)年、34歳6段の時、大手合に参加。春秋の4か月だけ東京に滞在し、相撲の二所関部屋に寄宿する身となった。大手合いの成績は苦闘の連続で、13年間6段にとどまり、46歳の時7段に昇った。1941(昭和16)年秋、心臓疾患が悪化し入院の身で後期大手合に出場し、橋本宇太郎との最後の一戦に勝ち(その途中で倒れ)、12.15日死去。翌年、追贈8段。連珠8段でもあり久保松機山を名乗った。戦後に妻が亡くなった後、母と子供達は木谷實と同居し、娘は木谷の弟子となった(小林祐子初段)。2009年に日本棋院、関西棋院から名誉九段を追贈される。

【日本棋院創設経緯】
 1924(大正13)年3.12日、大倉喜七郎が主催し、日本棋院創設に向けて方円社、本因坊両派と裨聖会の3派が帝国ホテルで碁界合同問題の基礎協議をする碁界合同問題基礎協議午餐会を行った。大倉喜七郎、本因坊秀哉、雁金準一、岩佐銈(ケイ)、鈴木為次郎、高部道平、瀬越憲作、加藤信ら十数名出席。東都三派のほかに関西からも多数の棋士が出席した。宿老田村6段、木村5段、久保松5段、光原5段、その他低段の者も。東都の大御所格で旧本因坊系の吉田操子4段らも参加している。

 日本棋院創立趣意書は次のように述べている。
 「由来棋家は一に芸業に即し、専心他を顧みざるに於て始めてその堂奥に入るを得るべく、従って斯道の進歩発達には、まず有為の棋士を後援して後顧の憂いを絶ち、安んじて天職を尽くさしめざるべからず云々」。
 「爾今戦後人心の動揺やまず、加うるに*広*古の大震災の創*深く人心の不安思想の険悪その比を見ず、この時に際し、物外に超越して精神の慰安と平和を囲碁に求めんとす。これが保護奨励は現代社会事業の一助云々」。
 3.15日、「棋院新報」(中央棋院)復刊されるも合同問題のため最終号となる。
 3.29日、合同問題に関し、関西棋士、後援者と合議のため大倉、秀哉、岩佐銈(ケイ)、高部、瀬越、加藤、喜多ら西下。
 4.21、22日、東西棋士合同協議会(「帝国ホテル」)。大倉財閥の大倉喜七郎の援助を受けられることとなり関西の棋士らも参加して棋界合同協議開催。5月に方円社解散、7月に碁界大合同による日本棋院設立、方円社所属棋士は日本棋院所属の青写真が確認された。
 4.25日、合同協議の記念撮影(全国に呼びかけるための)。
 4.27日、28日、本因坊秀哉、中川亀三郎、以下十二棋士の合同記念大連碁。
 5.20日、都下各新聞記者を築地「錦水」に招き、「日本棋院」創立を披露した。
 5.22(21?)日、方円社、日本棋院設立に参加のため解散するに当り、中川ら23名、五反田「松泉閣」で記念の訣別宴を閃く。日本棋院新会館建設のため、東京市麹町区永田町に二宮坪の土地を求める計画を立案。牛込区船河原町、小岸壮二の旧居を日本棋院仮事務所とする。関西の井上家、合同協議参加の件につき保留を声明。
 7.12日、日本棋院創立発起人会を通知(主唱者十八名)。
 7.13日、日本棋院関西囲碁研究会第1回開催。

【日本棋院創設】
 7.17日、高部道平らの根回しにより帝国ホテル創業者として有名な財閥の大倉喜七郎の呼びかけにより方円社、本因坊両派と裨聖会の3派が大同集結して帝国ホテルで日本棋院創立発起人会が開催され日本棋院が創立された。(日本棋院は昭和39年、創立40周年記念事業を行うに当り、日本棋院創立記念日を定める必要を生じ、式典実行委員会でこの7.17日を創立記念日とすることを決議し、爾後、昭和49年の50周年もこの日に行われている)。総裁・牧野伸顕(しんけん、大久保利通の次男)、副総裁・大倉喜七郎が就任した。

【日本棋院創設碁の歩み】
 7.19日、日本棋院第1回理事会(「帝国ホテル」)。
 7.23日、日本棋院第2回理事会を開き、定款の成案完成。第1回定式手合。新手合割制定。
 この直後、高部道平が棋院副総裁大倉喜七郎の支援で訪中、10月頃帰国する。
 7.27日、日本棋院京都支部(京都囲碁研究会)発会式(寺町二条「妙満寺」)。
 7月、田中涛外、雑誌「棋友」(棋友社)を創刊。
 8月、日本棋院、創立趣意書を各方面に送付。
 9月、「六華会」解散。記念出版『六華新譜』刊行。
 10.1日、日本棋院が、新手合割り(従来の打込み制による二分の一子差を廃し、段割り三分の一子差とする)による対局を開始。日本棋院の機関紙「棋道」が創刊される。(1999.7.19日に「囲碁クラブ」と統合され「碁ワールド」になる)

【5棋士が造反、「棋正社」立ち上げ】
 10.2日、報知新開が、日本棋院の規定(日本棋院創設前は本因坊、方円社、ヒ聖会のそれぞれが独自に新聞社と棋譜掲載の契約を交わしていたが、日本棋院創設に伴い、碁譜は抽選により各新聞に配布し、棋士との個人契約をしてはならないとした)を無視し、雁金準一、鈴木為次郎、高部道平、加藤信(以上、6段)、小野田千代太郎5段の5棋士と特約、別個に棋戦を催すことを社告した。これは日本棋院の棋譜は新聞社には抽選で提供されるという規定に反発したもの。

 10.8日、日本棋院が統制違反のかどで五棋士に除名を通告。
 10.9日、被除名五棋士が公告文「私共の除名に就いて」を発表、脱退を宣言した。
 10.25日、雁金準一(1879-1959)を筆頭に脱退五棋士が新結社「棋正社」を組織し、報知新開によって勝継戦の続行を宣言した。
 11.16日、新結社「棋正社」、山王台「清風亭」で発会式。
 この結果、日本棋院の大手合は朝日新聞、棋正社の手合は報知新聞、日本棋院の新進打切碁戦は東京日日新聞(毎日新聞の前身)と云った棲み分けとなった。

 (その後、鈴木為次郎6段、加藤信6段、小野田千代太郎5段は日本棋院に復帰する) 日本棋院所属の棋士と棋正社所属の棋士が対局する「院社対抗戦」などが組まれたが、棋正社は次第に力を失っていき、囲碁界は最終的に日本棋院を中心とする新たな体制に落ち着くことになる。
 不参加組に名家の井上因碩がいる。大正14年1月号の日本棋院機関誌「棋道」誌上に、楽石生が「その理由を審(つまび)らかにせず云々」と書いている。

【その後の推移】
 11.27日、日本棋院が「末橋区銀座2丁目14番地」に移転。
 12.7日、都下学生囲碁連盟(東大、商大、中大、明大、日本医専)結成、発会式(「日本棋院」)。
 「中国から始まり韓国や日本に伝わった」という説もあるが、この頃の囲碁は日本のゲームとして世界に広まった。囲碁協会としては日本棋院が1924年の設立。韓国棋院は1955年、中国囲碁協会は1981年の設立となる。
 12月、「(坊)秀哉-中川亀三郎(先相先の先番)」、中川の先番3目勝ち。
 日本棋院創立に尽力した吉田操子(みさこ)(旧姓井上、1881-1944)は、その後、京都丸太町に吉田塾を開き、後進の育成に尽くした。昭和19年、6段63歳で逝去した。吉田塾は藤田梧郎7段に引き継がれ、藤田塾と名を変えて現在に至っている。
 黄遵憲は「日本国誌」の中で当時の日本における囲碁の広まりについて次のように記している。
 「囲碁こそ名人が最も多く、裕福な家庭の子弟や風雅な青年では心得ない者はなく、良友たちは宴で酒を酌み交わし興に乗ると碁を打ったものだ」。

 1925(大正14)年
 治安維持法。普通選挙公布。

 棋正社、雑誌「棋友」(田中涛外編集)を買収し、第2巻第1号より機関紙とする(大正15年4月、第3巻第4号で廃刊となる)。
 4.15日、日本棋院が、棋道姉妹紙として月刊誌「初学囲棋・欄柯」を創刊(同誌は昭和3年1月「囲棋倶楽部」と改題、順次「囲碁倶楽部」、「囲碁クラブ」と文字を変更)。秀策事跡保存会、広島県御調郡困の島で組織さる。
 5.5日(?)、日本棋院、新会館建設地鎮祭。
 5.16日、金沢市本多町の久遠山・本行寺境内に初代本因坊算砂の記念碑建立、除幕式挙行。本因坊秀哉、増淵辰子(初段)を伴い出席。
 5月、雁金準一が7段に昇進(棋正社)。
 10.5日、日本棋院、新会館上棟式。
 11.15日、日本棋院が「棋道」臨時増刊として「棋院棋譜」第一輯を刊行(以下、季刊)。
 12.28日、日本棋院会館(後に「赤坂溜池の棋院」と呼ばれる)が東京市麺町区永田町2丁目1番地に移転する。「本因坊秀哉名人-雁金準一」。本因坊継承の因縁を持つ二人の最後の決戦。「石取り碁の名局」。
 この年、藤沢秀行が横浜市で69歳の父重五郎と23歳の母きぬ子との間に誕生する。

 1926(大正15)年

 1.3日、日本棋院、新会館で名刺交換会。同月、鈴木為次郎、7段に昇進(棋正社)。
 3月、鈴木為次郎、棋正社を離脱。
 4.6日、鈴木為次郎、日本棋院に復帰。棋院、鈴木の棋正社における7段昇進に対する措置として、岩佐ケイ、瀬越憲作と共に改めて7段に推薦する。
 4.11日(~12日)、日本棋院新会館(東京麹町区永田町2ノ1)開館式及び祝賀会。大倉財閥の総帥・大倉喜七郎が私財を投じて(約20万円寄付)東京・赤坂溜池に約600㎡(約200坪)の土地を確保し、鉄筋2階建て(660平方メートル)の会館を建設。建設費用は当時の金で10万円と言われている。歌舞伎座のような立派な二階建ての建物で、図書室、婦人室、娯楽室があった。1945.5.25日、空襲で使用不能となった。参加棋士は38人。方円社所属棋士は日本棋院所属となった。ほとんどの棋士が参加し、その規模と事業はかつてない大がかりなものとなった。日本棋院の機関誌「棋道」(1999年休刊)が創刊された。題字は犬養毅の揮毫。野沢竹朝は合同協議会には出席したが日本棋院設立には参加せず、肺結核を患って神戸で療養生活を送った。
 5月、日本棋院、少年研究会(院生制度)を設ける。
 5.22日、日本棋院定式手合表彰式行われる。
 7.15日、日本棋院、初の夏季講習会を開く。
 7月、日本棋院、前年4月より本年3月まで1年問の定式手合成績を「棋道」(7月号)に公表。
  この頃、「呉清源の才能」が古美術、骨董商の山崎有民氏に注目され、日本棋院のその筋に連絡されている。

 夏、岩本薫6段(24歳)と小杉丁4段が訪中し、北京東城八宝胡同万歳屋で、「碁の天才少年」として評判をとっていた呉清源と手合せしている。呉(12歳)は岩本に3子で2連勝、2子で2目負け、小杉に2子で勝つ。これが呉が日本の碁界に知られるきっかけになった。後に岩本は、山崎に、「この少年を中国に置くのは惜しい。今のうちに日本に渡り、正しい棋道に励んだら大したものになろう」と伝え、呉の来日に向けた動きが加速し、2年後の1928年10月、呉が神戸の土を踏むことになる。
 8月、加藤信が鈴木為次郎に続き棋正社を離脱。棋正社は雁金、高部、小野田の3名となって危機を迎える。

【読売新聞の正力松太郎社長のお膳立てで院社(日本棋院・棋正社)対抗戦始まる】
 棋正社の動向に目をつけたのが、読売新聞社の社長に就任したばかりの正力松太郎だった。正力が社長に就任した1924年当時、一日平均の発行部数は朝日、毎日(東京日日新聞と大阪毎日新聞)は100万部を超えていた中で、5万部程度の弱小新聞に過ぎなかった。正力は、紙面の大衆化に努め、両国の国技館での納涼博覧会、ラジオ版や日曜夕刊の創出。釣り、競馬予想、麻雀欄などを紙面に織り込んだ。文芸欄、婦人欄、科学欄、農業欄なども設け、多数の漫画家を集めて漫画ページを作り少年読者を育成した。その正力が、囲碁、将棋欄にも目をつけ新聞拡充の目玉商品とした。野球にも目をつけ、1934年に大日本東京野球倶楽部(後の読売ジァイアンツ)を創設して以来、売上が飛躍的に拡大し、毎日を抜き去り、1977年には朝日も凌駕する日本一の新聞になった。

 8.20日、棋正社が日本棋院に院社対抗戦(正式名稱は「日本棋院対棋正社敗退手合」)を挑む。当時、本因坊秀哉名人と雁金7段は既に本因坊継承問題以来、水と油の仲だった。世論は二人の勝負を待望していたが実現は不可能視されていた。直近まで棋正社を異端者扱いにしていた大倉氏は「顔を洗って来い」と述べて取り合わず、内部に対しては「謀反人と打つことまかりならぬ」と強く拒否していた。この状況下で、8.23日、読売新聞社長の正力松太郎が社運を賭して公開状を寄せる。文面は次の通り。
 「我が棋正社は、かねて棋界の革新向上を信条とする同志集まりて設立したるものに之あり、表面本因坊秀哉氏の率いる日本棋院と相異なる旗幟(きし)の下に、両々相反目するが如き観を呈しおり候へども、その実到達すべき目的、履践すべき道程は、彼我同一に候へば、本因坊その人に対してはもちろん、他の所属棋士に対しても、何ら隔意あるにあらず、ただ偶然の行き掛かりに駆られて両立し来れる次第なるは、今に申し上げるまでもなき之と存じ候。かくて我が社同人は、爾来数年間、*々として斯道の研鑽に従い、あるいは先哲の規矩を質し、あるいは現代の手法を究め、互いに相考案して旦暮ただその及ばざらんことを恐れおり候ところ、不断の精進と熱誠とは少なくも今日に於いて報いられ、たとえ呉下の旧阿蒙たる域を離脱し得ざるまでも、やや前人未発の境地をうかがい得たるやの自信も、強むるに至りたるものに御座候。ついてはこの機会に於いて、日本棋院と交渉をひらき、名人秀哉氏とも自由なる対局を試みて、倶に大正棋壇の興隆に努力いたしたく(以下略)」。

 これを皮切りに、棋正社の雁金7段、小野田6段、高部6段らの談話を載せ、日本棋院の本因坊秀哉、渡邊鐵藏理事、林幾太郎専務理事、高橋錬逸幹事などのインタビューを連日記事にして煽っている。果ては当時立憲政友会代議士の鳩山一郎の「回避は卑怯だ、もろ手を挙げて試合に応ぜよ」なる談話から始めて数名の代議士や貴族院議員、法学博士などの意見を掲載し、徐々に外堀を埋めて行った。
 9.8日、日本棋院副総裁・大倉喜七郎、「棋正社ヨリ読売新聞ヲ通ジテ日本棋院二対シ発表シタル公開状二対スル回答書」を発表。棋院理事会は申し入れを拒絶。正力松太郎(読売新聞社長)が企画を練り直し、本因坊一門が除名された場合の対案「帝国棋院」設立を条件として秀哉の説得に成功し、大倉もついに受諾する。
 9.27日、読売新聞の正力松太郎社長のお膳立てで院社(日本棋院・棋正社)対抗戦が企画された。棋正社3名、日本棋院18名による前代未聞の対抗戦が、読売紙上に繰り広げられることになった。棋正社3名は、雁金7段、高部6段、小野田6段。日本棋院18名は本因坊秀哉、鈴木、瀬越、岩佐各7段。宮坂、岩本各6段。福田、林各5段。長谷川、向井、篠原、村島、小杉、橋本、木谷、前田各4段。井上、高橋の各3段。

 対抗戦の第一戦は、読売新聞社屋上(楼上)で、共に大将格の日本棋院・本因坊秀哉、棋正社の雁金準一の組み合わせによる「秀哉名人-雁金準一7段(先)」戦となった。この対局より持ち時間制が初めて採用され、一人の持ち時間は16時間となった。9.27日に始まり、双方激しい闘志で火花を散らせた。中盤、下辺の白模様に突入した雁金の黒石を、秀哉が強引に取りに行ったことから大乱戦となり、満天下を沸かせるスリリングな一戦となった。この碁は打ち掛け6回、最後は10.18日、254手で雁金の時間切れ負けに終った。時間があったとしても白勝ちは動かなかった。この一戦は大正の争碁の名にふさわしく大変な注目を集めた。正力は、この一局の為に、覆面子、井上宅治の観戦記以外に菊池寛、三上於兎吉、豊島与志雄、村松梢風、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)、笹川臨風、児玉花外、寺尾幸夫らの一流文士を観戦記者に動員して記事を載せ、上野、日比谷、大阪の中之島に六尺四方の大盤を出して速報した。棋正社の雁金、高部、小野田の談話を連日発表した。囲碁ファンの目がここに集中して、読売新聞の発売部数を一挙に3倍にさせたと伝えられている。安永一・氏は次のように証言している。
 「この一戦は、大正末期の囲碁界に一大センセーションをまき起した。文芸新聞であった読売は囲碁新聞と化した観があり、今日の本因坊戦や呉清源の十番碁の比ではない」。
 42ツグ(37) 44ツグ(35)

 下辺黒1(43手目)とカドに打ち込んだところから乱戦が開始された。秀哉は黒の眼を奪うが、雁金も包囲網の薄みをついて反撃、まれに見るねじり合いとなった。白58(100手目)以降も戦いが続き、秀哉はここで発生したコウをきっかけに優勢とし、最後は雁金の時間切れ負けとなった。

 「◆秀哉・雁金決戦などの目撃談」(03年03月02日、すばる )。

 田村竜騎兵・著『現代アマ強豪列伝』(昭和56年)の中に浅井秀俊氏紹介の一章がある。明治35年生まれ、親の理解と金力で、大正時代からあちこちの稽古所に日参して、数々のプロの稽古碁を重ね続けた....という羨ましい経歴の持ち主である。数々のプロ=秀哉師、鈴木為次郎、小岸壮二、橋本宇太郎、木谷実、関山利一などの錚々たるメンバー相手に、気楽に日々たくさん打っている。こういう人なので、数々の名場面にも遭遇している。本局はその一つ。
 【 秀哉・雁金戦の決戦 】

 大正13年、碁界の大同団結をうたって日本棋院が創設されたが、いくばくもなく有力棋士数人が脱退、棋正社を結成した。日本棋院の盟主は、いうまでもなく秀哉名人。棋正社の主将格は、秀哉とは因縁浅からぬ雁金凖一七段。読売紙を舞台に両巨豪が激突して、いわゆる院社対抗戦の幕が切って落とされる。天下の耳目を集めた決戦は、大正15年9月、読売新聞社の屋上で開始され、打ち継ぐこと6回、10月18日に終局した。これを浅井さんは、つきっきりで観戦したという。

 「関係者以外は入れないんだけれど、親父の友人に読売のエラい人がいて、特別にはからってもらったんです。屋上の対局室は広さが20畳くらい、三方がガラス張りで、アトリエみたいな感じでした。対局中の雁金さんは、眼光ケイケイ、ものすごい迫力だったですよ」。3回目の打ち継ぎのときだったか、両者とも盤の前にすわり、さて始めようというところで、「どうも体のぐあいがよくないので、今日は中止にしてもらえまいか」と、秀哉名人が申し入れたという。「対局場にきてから中止してくれとはおかしいが....」と雁金七段。つぶやくように低い声だった。

 なぜか棋院側は一人もおらず、室内には棋正社側の立会人の高部道平七段と時間係の小野田千代太郎六段、それに読売社長の正力松太郎氏。万事にドライな現在なら、こんな申し入れは通るはずもないし、大問題になったろう。そうならずに中止が認められたのは、それだけ当時の<名人>に重みがあり、周囲が遠慮せざるを得なかったのだと思う。

 この決戦は、雁金七段が持ち時間の16時間をつかい果たし、時間切れの負けで決着がつく。「最後の場面は、はっきり印象に残っています。対局者はもちろん、誰にも黒の負けはわかっている。刻々と制限時間が近づくのに、雁金さんは打たない。葉巻をくわえた高部さんは、横柄な態度で傲然と構え、小野田さんは手にした金側の腕時計を、じっと見つめていました」。重苦しい空気が室内に満ち、やがて小野田さんが高部さんに向かって、時間の切れたことを告げる。「この碁はこれまでです」。高部さんは大声でいい、「時間が切れましたので、終わりとします。黒の時間切れ負けです」と、あらためて宣言した。

 当時の記事によると、雁金さんがサッと顔色を変えたとあるが、そんなことはなかったという。雁金さんは勝者のように、胸を張って堂々としていた。勝った秀哉名人のほうが、悪いことでもしたかのように、ひっそりとうつむいていた。ややあって両者は一礼し、石を片づけ、雁金さんが先に部屋を去ったという。
 笹川臨風の観戦記は次のように記している。
 「名人の芸は精神が入って極度の緊張をしているから傍観者も肩がこる。肩がこるほどであるから、全く無念無想の境に逍遥する。棋道に暗いものさえ息もつけぬほどに面白みを感ずる。なんらの芸術もそこまで到達せねばウソである。間に合わせや、おざなりや、ごまかしや、まやかしの多い現代に、こればかりは真剣の絶品で天下の至芸である」。
 院社(日本棋院・棋正社)対抗戦の結果は日本棋院の圧勝に終わった。高部は2勝8敗。棋正社の敗色が濃くなるに及び、秀和の愛弟子にして秀哉に破門され神戸に居を移していた野沢竹朝が主催者である読売新聞から棋正社での出場を依頼され、野沢がこれを受け参陣した。対抗戦では、野沢の段位について日本棋院で議論があったものの、向井一夫(二子)、前田陳爾、宮坂寀二、長谷川章、小杉丁を破って4勝3敗として、実力を証明した。野沢は棋正社より6段を贈られ次いで7段に推薦される。結果は、棋正社の14勝26敗2持碁。
 11月、加藤信6段が日本棋院に復帰。
 1926(大正15)年、12.25日、昭和と改元。 

【犬養木堂の囲碁棋力考】
 大正末年、犬養木堂が岩佐ケイ6段と4子局の棋譜を遺している。堅牢着実に打ち回し白を碁にさせず押し切っている。この棋譜は囲碁雑誌「棋道」の1987.10月号付録の古今置碁名局選で取り上げられている。木堂が次のように評されている。
 「古来、碁を愛する政治家は数多いが、まず犬養首相の右に出るものはおるまい。棋士との付き合いも深く、本因坊秀栄名人とは友人同様の間柄であった。実力のほども素人の域を脱しており、秀栄名人には四子。今なら文句なしに名誉7段といったところであろう」。

【大正天皇が愛用した碁盤、碁石考】
 大正天皇が愛用した碁盤、碁石が保存されていると云う。これを確認しておく。週間碁ウイークリーの2017.3.13日版4面の「春秋子の観戦余話100、不思議(江戸時代の碁盤)」が次のように記している。関係のある下りのみ抜書きする。
 「数年前、静岡県沼津市の古刹から、白隠禅師(江戸中期の臨済宗の僧。禅宗中興の祖と云われる)と大正天皇がそれぞれ使用した碁盤と碁石があるから見に来ないかと連絡をうけたときも飛んで行きました。大正天皇が主に皇太子時代に愛用されたという碁盤と碁石は保存状態が良く、現在のタイトル戦で使ってもいいくらいの立派なものでした。天柾の盤の厚さは五寸弱。石は那智黒と上品な三河白」。

  「烏鷺光一の『囲碁と歴史』」の「大中寺の碁盤」。
 沼津市の大中寺には、臨済宗中興の祖・白隠禅師が使われたと言われる碁盤と、大正天皇が使われたと言われる碁盤が残されています。江戸時代、白隠禅師が住職を務める松陰寺と同じ宗派である大中寺に、白隠禅師は度々訪れ、住職とよく囲碁を打っていたと伝えられています。大中寺には江戸時代の碁盤が残されて、裏書などはありませんが、おそらく、白隠禅師が使われた碁盤ではないかと考えられています。 

 皇室とゆかりの深い大中寺で、昭和10年に照宮成子内親王(当時10歳)がお成りの際、恩香殿に、皇室ゆかりの品々が並べられたそうです。その中に碁盤があり、内親王は碁盤の上にあがり遊ばれたため、それを目撃した当時8歳であった医王寺定信和尚は、なんておてんばな方だと思われたそうです。ただ、天皇家では「着袴の儀」で碁盤から飛び降りる儀式があり、内親王にしてみれば特別な行動ではなかったのかもしれません。

 寺では、この時の碁盤は、大正天皇ゆかりの碁盤と伝わっていたそうですが、箱書きには大正10年に岡田氏寄贈と書かれていたため、ご住職は、その話に信ぴょう性があるのかわからなかったそうです。ところが、医王寺定信和尚より内親王お成りの際の話を聞き、確かに碁盤が皇室ゆかりの品であることの確信を持ったそうです。おそらく、寺には立派な碁盤が無かったため、天皇お成りの際に檀家から寄進を受けたのではないかとの事でした。どちらの碁盤も一般公開されておらず、今回、ご住職に無理をいって拝見させていただきました。大変ありがとうございました。静岡県沼津市中沢田457





(私論.私見)