日本囲碁史考17、井山のタイトル戦登場以降

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).7.10日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
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 2005.4.28日 囲碁吉拝


【日本囲碁史考14、井山のタイトル戦登場以降の囲碁史】

 2009年(平成21年)
 8月、第34期名人戦。井山裕太が名人リーグを8戦全勝で張栩名人に対する挑戦権を獲得する。「名人・張栩(29歳)張栩-井山裕太8段(20歳)」。10.15日、第5局が熱海市の「あたみ石亭」で打たれ、挑戦者の井山が白番中押勝ちし通算4勝1敗で名人位を奪取した。井山は名人位を20歳4か月で獲得し、名人戦-7大タイトル戦でのタイトル獲得の最年少記録を更新した。これまでの記録は名人戦では65年に第4期旧名人戦(読売新聞社主催)で林海峰八段(現名誉天元)が作った記録・23歳4か月。これを44年ぶりに更新し史上最年少記録となった。7大タイトル戦では趙治勲が王座を獲得した20歳5か月)。

 10.16日、9段に昇段した。入段から8年10か月で9段になり、9段昇段の最短記録を更新した。
 9.14日、公式戦史上2度目の長生無勝負。世界選手権富士通杯予選Bの王銘宛―内田修平3段の対局で「長生」(ちょうせい)が発生し無勝負となった。公式棋戦での「長生」無勝負は1993年9.23日の本因坊リーグ 林海峰天元―小松英樹8段戦以来2回目。
 9.25日、第18期竜星戦決勝戦「井山裕太8段(20歳)-張栩(29歳)」。井山が張栩を下し初優勝した。20歳での優勝は竜星戦最年少優勝記録。
 9.30日、2008.2.29日に台湾棋院が求めた同意書への署名を拒否して台湾棋院を離脱した周俊勲9段をはじめとする12人の台湾棋士は台湾棋院に復帰した。
 10月、第57期王座戦「張栩―山田規三生」。
 張栩が3-0で優勝した。
 11.28日、梶原武雄9段が急性腎不全のため東京都中央区の病院で逝去(享年)。佐渡島出身。1937年、プロ入り(初段)。終戦後、各棋戦で活躍し、藤沢秀行、山部俊郎(ともに故人)と並んで「戦後三羽ガラス」と呼ばれた。1965年、9段。本因坊戦リーグ入り3回、名人戦リーグ入り7回。解説会などでの歯切れのいい弁舌は「梶原節」と呼ばれ研究会を開いて若手棋士を育てた。2000年、引退。「梶原流革命定石」など著書多数。
 12月、第35回天元戦「山下敬吾-張栩」。
 山下が3-2で優勝。
 第16回阿含・桐山杯「羽根直樹-張栩」、羽根*番勝、優勝する。
 第28回NECカップ「羽根直樹-張栩」、羽根*番勝、優勝した。
 生活文化普及支援事業「みんなで学ぶ楽しい囲碁入門教室」を全国で開催。
 第47回秀哉賞に井山裕太(名人、竜星)が選ばれた。

 この年、12.2日、橋本昌二が心筋梗塞のため逝去した(享年)。昭和22年に入段。師匠は橋本国三郎7段。昭和25年の関西棋院独立時から橋本宇太郎とともにエースとして活躍し、入段から11年のスピードで9段に昇段した。49年には坂田栄男九段を破り第12期十段位に就いたほか、王座戦2回、NHK杯3回の優勝経験がある。名人戦リーグにも10期在籍。深い読みの力戦型、長考派で気迫あふれる棋風から「重戦車」の異名を取った。通算成績は1037勝631敗。2009.11.11日まで対局していた。平成6年から10年までは関西棋院の理事長を務め囲碁の普及に尽力、あわせて後進の育成にあたった。

 2010年(平成22年)
 1.11日、李世石が2009.6.30日から約6カ月の休職を終え正式に復帰した。この日、兄のイ・サンフン7段とともに韓国棋院を訪れ、所属棋士の内部規定遵守、中国リーグでの収入の一部を棋士会に納付すること、棋譜著作権の棋士会への委任に同意する文書に署名した。李9段はその後、韓相烈(ハン・サンヨル)事務総長、チェ・ギュビョン棋士会長と1時間ほど対話した。韓国棋院は1.8日に開かれた常任理事会で、本人が直接出向いて署名するという条件で、李9段の復職を承認した。李9段は1.16日から開催される第2回BCカード杯64強戦が復帰戦となる見通し。
 2.28日、第34期棋聖戦「棋聖・山下敬吾-張栩」。
 張栩が●●●○●の1-4で山下棋聖を降し初の棋聖位を獲得した。同時に趙治勲に続く史上二人目のグランドスラム(棋聖、名人、本因坊、十段、天元、王座、碁聖の挑戦手合制七大公式タイトル)を達成した。山下の5連覇による名誉棋聖獲得はならなかった。
 3月、第57期NHK杯「結城聡-井山裕太」。結城が優勝した。
 4.1、全日本囲碁連合、設立。中国・広州で2010年11月開催される第16回アジア競技大会に、囲碁が初めて正式種目として採用され、日本棋院など国内囲碁組織は3月9日までに、大会参加団体として「全日本囲碁連合」を設立することで合意した。3月中にも日本オリンピック委員会(JOC)に承認申請する。日本オリンピック委員会(JOC)は3月11日の加盟団体審査委員会で、全日本囲碁連合、日本クリケット協会、日本ローラースポーツ連盟の3団体を新たに承認団体として認める方針を固めた。囲碁、クリケット、ローラースケートの3種目は11月に中国・広州で開催されるアジア大会で新種目に採用された。大会参加のためにはJOCの加盟団体か承認団体となる必要がある(2011年3月31日開催)。
 4月、第48回十段戦「張栩-山下敬吾」。
 張栩が3-0で優勝した。

 5.20日、石田芳夫が1000勝を達成した。史上11人目の達成。
 6月、第65期本因坊戦「本因坊・羽根直樹(33歳)-山下敬吾(31歳)」。
 6.29日、第5局が秩父市で行われ、山下が羽根本因坊を破り、●○○○の4-1で自身初となる本因坊位を奪取した。8.20日の就位式で「本因坊道吾(どうわ)」の号が披露された。
 7月、第35回碁聖戦「坂井秀至7段-張栩」。
 坂井が3-2で優勝する。
 8月、第23回世界選手権富士通杯「孔傑(中国)-李世乭(韓国)」。孔傑が優勝。
 8月、35期名人戦。高尾紳路が第35期名人戦リーグで8勝1敗で挑戦権を獲得。
 「名人・井山裕太-高尾紳路」。
 井山名人が4-0で防衛。
 第35期碁聖戦「碁聖・張栩(30歳)-坂井秀至7段(37歳、関西棋院)」。
 8.27日、日本棋院で打たれ、坂井が白番2目半勝ちで下し3勝2敗で碁聖を獲得した。張栩の碁聖5連覇はならなかった。坂井の37歳での7大棋戦獲得、28歳で入段した棋士の7大棋戦獲得、大卒棋士での7大棋戦獲得はいずれも史上初めて。関西棋院の棋士としては29年前の橋本昌二王座以来、29年ぶりの7大タイトル獲得となる。
 9月、第19回竜星戦「山下敬吾-中野寛也」。山下が優勝する。
 10月、第58期王座戦「張栩―山田規三生」。
 張栩が3-0で優勝した。
 11.5日、第54期関西棋院第1位決定戦「第1位・結城聡(38歳)-村川大介5段(19歳)」。
 3番勝負第2局で、村川が黒番半目勝、2勝0敗で関西棋院第1位のタイトルを獲得した。19歳での関西棋院第1位獲得は最年少。村川5段は規定により7段に昇段した。第36期碁聖戦「天元・山下敬吾(32歳)-結城聡(38歳)」。
 11.16日、第3局が佐賀県唐津市で打たれ、結城が黒番2目半勝ちし3勝0敗のストレートで7大棋戦の初タイトルを獲得した。結城は09、10年にNHK杯で連続優勝するなど力戦派の実力者として知られていたが6度目の7大タイトルへの挑戦で手にした。
 11.26日、アジアオリンピックで囲碁が正式種目に。中国・広州で開催された第16回アジア大会で囲碁が「スポーツ」として、初めて大会の正式競技に採用された。日本からは山下敬吾らトップクラスの棋士計10人が参加。団体男子(11月23日-26日)、団体女子(11月23日-26日)、混合ダブルス(11月20日-22日)の3種目で金メダルを目指した。日本は団体男子は銅メダル、団体女子は第4位、混合ダブルスは第9位に終わった。
 高尾紳路が第3回大和証券杯グランドチャンピオン戦優勝。
 山下敬吾が第19期竜星戦にて優勝。全棋士参加の早碁棋戦での初タイトルとなる。
 第17回阿含・桐山杯「山下敬吾-趙治勲」、山下*番勝、優勝。
 結城聡がテレビ囲碁アジア選手権戦で準優勝。
 第29回NECカップ「河野臨-羽根直樹」。河野が優勝した。
 この年、第16回アジア競技大会に囲碁種目(ペア碁、男女団体)が採用され、プロ棋士が参加。
 第48回秀哉賞に張栩(棋聖、十段、王座)が選ばれた。
 この年、11.30日、ニューヨーク囲碁センター閉館。岩本薫の寄付金をもとに1995年7月1日にニューヨークに開設された「ニューヨーク囲碁センター」は日本棋院が賃料を払えないという理由で2010年11月30日に閉鎖となった。
 この年、韓国の李昌鎬9段(35歳)が囲碁記者出身のイドユン(24歳)と結婚式を挙げた。

【坂田栄寿履歴】
 (1920(大正9).2.15日 - 2010(平成22).10.22日)

 10.22日、坂田栄寿(23世本因坊栄寿)が日本赤十字社医療センター(東京都渋谷区広尾)にて胸部大動脈瘤破裂で死去した(享年90歳)。正四位に叙せられた。


 1920(大正9)年、東京都生まれ。1929年、9歳小学3年生の時、増淵辰子4段に入門した。35年にプロ入り(初段)。順調に進み26歳で7段となる。1951年、日本棋院最高段者トーナメント戦を制し、初優勝。1955年、9段。1961(昭和36)年、高川秀格本因坊(当時)の10連覇を阻止して新本因坊となった。以後連続4期防衛に成功した。同年、7タイトル制覇を達成した。1963(昭和38)年、念願の名人位を獲得。1964(昭和39)年にも名人・本因坊など再び7タイトルを制覇。年間30勝2敗、公式戦29連勝という大記録を打ち立てた。67年まで本因坊戦7連覇。23世本因坊の資格を持ち坂田栄寿の号を名乗っている。「カミソリ坂田」、「シノギの坂田」と呼ばれる切れ味鋭い棋風で相手を圧倒。65年名人位を、68年に本因坊位を失うが、その後も十段、王座などのタイトルを獲得、トップ棋士として息長く活躍した。1978年から1986年まで日本棋院理事長を務めた。1992年、文化功労者。2000年、体力の衰えを理由に引退した。通算成績は1117勝654敗16ジゴ(日本棋院調べ)、タイトル獲得・優勝回数は64回(歴代2位)。著書は「坂田一代 勝負師の系譜」、「坂田の碁」など。

 12.23日、日本棋院にて坂田栄寿お別れの会が行われた。ニックネームとして「カミソリ坂田」、「シノギの坂田」、「なまくら坂田」、「攻めの坂田」などがある。坂田の全盛期、山部俊郎はそのあまりの力の差を「坂田は遠くなりにけり」と言って嘆いた。また宮下秀洋は「坂田さんには、僕らは二子打たれるんじゃないですか」と述べている。その傑出した実績から「大坂田」と呼ばれることも多い。
 坂田には次のような逸話が遺されている。
 「高川格は坂田を苦手として多くのタイトルを奪われ、タイトル戦での対戦成績は坂田の14勝1敗になっている」。
 「趙治勲は六段時に、日本棋院選手権で坂田への挑戦で2連勝後に3連敗して以降、坂田に12連敗し、大いに苦手とした。 」。
 「坂田が名人本因坊となったのは43歳の時であり、名人戦で23歳の林海峰八段の挑戦を受けた際には「20代の名人などあり得ない」と語ったが、2勝4敗で名人を奪われる。
 「林海峰に本因坊他のタイトルも次々と奪われ、投了目前の局面で『「名人も取られた。何もかも取られてしまった』とうめいた」。
 「林海峰は坂田について次のように語っている。『(大きなタイトルに的を絞る藤沢秀行と比較し、)あらゆる棋戦に全力投球、“”ぜんぶ勝つ“”というすごみがありました』、『感想戦も絶対に譲らない。対局で負かされた相手は、同じ日に2度負かされる』、『対局中の“”参った“”、“”弱った“”というぼやきだけは信用なりませんでしたね』」。

 次のようにも評されている。
 概要「芸を代表する碁打ちが藤沢秀行なら、勝負を代表する碁打ちは坂田栄男である。身も蓋もない実戦主義や、えげつない打ち回しが坂田碁の魅力でもある。『碁は正しいかどうかではなく、勝つかどうかである』このように考える勝負派の代表であった。藤沢秀行の追悼番組に出演したときの毒舌コメントも坂田らしい。現役時代から建前を言わず、常に本音 100% で生きているような人だったが、藤沢秀行追悼時に於ける憎まれ口は衰えるどころかパワーアップしていた。碁打ちは年齢を重ねても頭脳明晰であり続ける人が少なくない。たばこを吸いまくって90歳は長く生きた。さわやかな風が通りすぎていったような大往生であろう」。
 秀行忍ぶ会での坂田栄男発言「秀行と私は仲が悪いんだよ」。
坂田 「秀行のちょうちんを持つような番組なんか出たくないんだけどね。秀行は無頼派の棋士というけど、嫌いなの 僕は… 正反対だよ」。
坂田先生はなんで秀行さんの偲ぶ会に参加しようと思ったんですか。
坂田 「新聞で見たから。知らなかった おれ。通知ももらわないもん。おれがくるとは思わなかったもんな向こうは。最期だから行ったんだ」。
どうして行こうと思ったんですか。(なぜかしつこく突っ込むインタビュアー)
坂田 「お別れだから。お別れだ。最期の」。

 (本因坊・坂田 VS 名人・藤沢)
坂田 「勝った方が即日本一だよ。しかも秀行と私は仲が悪いんだよ。だから両方舌戦の、今じゃ想像できないくらいの、お互いに大勝負だったんだよ」。
坂田 「三連敗したときは大ショックだよ。このままじゃ勝ち目はないと思ってね。それからが本当に命を削ったね」。

 第2期・名人戦・第6局、黒:藤沢秀行、白:坂田栄男、1963-09-20,21
 普通は定刻間際に時間を使って考えていた方が「封じ手」を受け持つという暗黙のルールがある。しかし、坂田本因坊は白52手目を打つ。自分を「封じ手」番にしようとしていることに怒りを感じた 藤沢秀行名人は黒53を打つ。ところが本因坊はすぐ54。 ここで一言、名人が「頭にきた」と言って腕組みした時、立会人が定刻を告げたのである。
藤沢 「もう言いたくないね。腹が立つことは山ほどある」。
坂田 「あれも勝負のうちだと思って… 気合い負けしちゃいかんと思うから。それでああいうバカなことをやったんだ」。
藤沢 「おれみたいに神経がピリピリしているやつは損なんだよね。図太いやつはそういうの乗らないでしょ」。
坂田 「考えてみるとね あの勝負でね。やっぱり寿命縮めたね。心身ともにもうガックリしちゃった」。
勝ったのに?
坂田 「だから おしまいなんだ。あれが最後なんだよ。ああいう勝負は。僕と秀行で終わりなの!」。

 2011年(平成23年)
 2-4月、第35期棋聖戦「棋聖・張栩-井山裕太」。
 張栩棋聖が●○●○○○の4-2で防衛。
 趙治勲が囲碁マスターズカップ優勝。タイトル獲得数72となる。
 3.11日、女流名人戦第2局の最中に東日本大震災が発生し、女流名人戦が打ちかけになった。女流名人戦の打ちかけは初めて。
 3.27日、第58期NHK杯「山田規三生-依田紀基」、山田*番勝、初優勝。
 3.28日、財団法人・日本棋院(大竹英雄理事長)が公益財団法人への移行が内閣府に認められたと発表した。
 高尾紳路が第4回大和証券杯グランドチャンピオン戦優勝、2連覇。
 高尾紳路が第36期棋聖戦Bリーグ優勝。挑戦者決定戦でAリーグ優勝の井山裕太を破り初の挑戦権を獲得。
 4.1日、全日本囲碁連合が3月末で解散したと発表した。2010.11月のアジア大会(中国・広州)に日本代表選手を派遣して設立当初の目的を達成したためとのこと。同連合は広州アジア大会で初採用された囲碁に選手を送るため、日本棋院、関西棋院、日本ペア碁協会の3団体を統括して2010.4.1日に設立された。
 4月、第49回十段戦「井山裕太-張栩」。
 井山が3-2で優勝した。
 6月、第66期本因坊戦。羽根直樹が第66期本因坊リーグで6-1の成績を挙げ挑戦権を獲得。前年のリターンマッチとなった。「本因坊・山下敬吾-羽根直樹」。
 山下本因坊が○○○●●●○の4-3で初防衛。
 7月、第36回碁聖戦「羽根直樹-坂井秀至8段」。
 羽根が3-2で優勝する。
 8月、第24回世界選手権富士通杯「朴廷桓(韓国)-邱峻(中国)」。朴廷桓が優勝。
 8月、第36期名人戦「名人・井山裕太-山下敬吾」。自身8年ぶりの名人挑戦となった。
 山下が井山を4-2で破り、初の名人位を獲得すると共に史上7人目の名人・本因坊となった。
 8.14日、第24回富士通杯世界囲碁選手権戦「朴延桓(18歳、韓国)-邱峻8段(28歳、中国)」。朴延桓が史上最年少で初優勝した。井山9段(22歳)は第3位だった。この棋戦は1988年始まり2011年の第24回で終了した。
 9月、第20回竜星戦「井山裕太-結城聡」、井山*番勝、優勝。
 10月、第59期王座戦の挑戦者決定戦で羽根が井山裕太を下し挑戦権を獲得する。
 「王座・張栩-羽根直樹」。
 張栩が3-0で優勝した。
 12月、第37回天元戦「井山裕太-結城聡」。
 井山が3-0で優勝。
 第18回阿含・桐山杯「井山裕太-山下敬吾」、井山*番勝、優勝。
 第30回NECカップ「張栩-山下敬吾」、張栩*番勝、優勝。
 第1回エステー&フマキラー 囲碁マスターズカップ開始。
 東日本大震災復興イベントを各地で開催開始。
 支部復興支援「タケフ基金」創設。
 第49回秀哉賞に山下敬吾(名人、本因坊)が選ばれた。

【日中韓囲碁覇権考】
 2011.9.6日付け朝日新聞記事「囲碁界、中韓2強時代 日本の低迷続く
 世界一の囲碁強国だった日本が長い低迷に苦しんでいる。中国と韓国に追い抜かれ、世界戦(国際棋戦)優勝回数で大きく水をあけられた。中韓との違いは若手の層の厚さ。差は歴然だ。

 8月、日中韓3カ国の名人が中国常徳市に集まって開かれた第2回世界囲碁名人争覇戦で、日本の井山裕太(22)は昨年に続き最下位に終わった。中国メディアの関心は、優勝した韓国の朴永訓(26)よりも日本の名人に向いた。なぜ日本は勝てないのか。井山は答えた。「日本は中国、韓国に比べ、僕より若い世代に強い棋士が少ない。僕も含め、もう少し頑張らなければいけない」。一昨年に日本の史上最年少名人となった井山は、国際的にも高く評価される日本のエース。張栩(31)、山下敬吾(33)らはすでに三十路を超え、若手としては井山の孤軍奮闘といえる。3カ国の中で最も勢いがあるのは中国だ。数年前から古力(28)、孔傑(28)らが世界戦で優勝。韓国1強時代を終わらせた。さらに陳耀(21)、柁嘉熹(20)、江維傑(19)ら若手が国際舞台で活躍する。

 中国に正式なプロ制度ができたのは20世紀後半で、中国棋院の設立は1992年のこと。国家体育総局に属する中国棋院では、「国家チーム」とも呼ばれるエリート集団に入れなければ世界戦に出場することはまずできない。国家チームの棋士は中国棋院で研鑽(けんさん)を積み、ほか大勢は周辺の道場などで猛勉強しながら国家チーム入りを目指す。北京に棋士が結集して競い合う構造が若い才能を開花させる。

 国家的態勢が実を結んだのが中国ならば、韓国は一人のヒーローの出現が国全体の実力を押し上げた。92年、李昌鎬が16歳の若さで世界戦優勝を飾ると、国内でブームが起こり、子どもがこぞって囲碁を始めた。韓国ではいまも10代後半の逸材が毎年のように輩出する。道場で集団生活するのは韓国も同じ。30代でも好成績を維持できる中韓の棋士は、ひと握りしかいない。

 日本では、棋士が毎日のように集団で学ぶことは少ない。日本棋院や関西棋院のプロ予備軍「院生」の活動も土日限定だ。若手を鍛える環境整備は中韓より遅れている。日本棋院は昨年から、有望な若手を数日間、中国に送り、当地の若手との対抗戦をする「強化合宿」を始めた。韓国の道場で寮生活をしながら学ぶ若手も出てきた。いまは日本が中国、韓国に学ぶ時代。いつか、海外でもまれた日本の棋士が世界一になる時代がくるかもしれない。(伊藤衆生)

 ■若手育成遅れ、落日の日本

 囲碁の世界戦は、およそ四半世紀前に始まった。その歴史は、日中韓3国の力関係の軌跡でもある。隆盛を誇った日本が強かったのは草創期の数年だけ。長い韓国1強時代を経て、中韓の2強時代に入っている。

 プロが出場する世界戦で最も伝統があるのは1988年創設の世界囲碁選手権・富士通杯。武宮正樹、趙治勲ら日本勢が第1回から5連覇するなど、90年代半ばまで日本は世界一の強国だった。だが、韓国に王座を奪われた後は衰退が進み、06年の同杯開幕直前には、韓国の強豪、李世から「日本は近年優勝から遠のいているので、今年は優勝してほしい」との“エール”まで飛び出した。同じころ中国が急成長、韓国と肩を並べた。06年以降、日本は主要な世界戦で一度も優勝していない。

 いまや約70カ国・地域にまで広がりをみせる囲碁。日本には古代に中国から伝えられ、徳川幕府の保護を受けて繁栄した江戸時代には、家元制度による競争の中で飛躍的にレベルが向上。囲碁を「国技」と呼ぶ人もいた。20世紀になると呉清源をはじめとする逸材が来日。世界の囲碁界の中心地となった。中国・上海出身で後に台湾に渡った林海峰や趙治勲(韓国出身)、張栩(台湾出身)らは日本棋院所属棋士だ。日本は国際普及にも主導的な役割を果たし、特に中国とは交流を重ねた。長く中国を指導する側だったが、今や立場は逆転した。


 2012年(平成24年)
 3月、第59期NHK杯「結城聡-羽根直樹」、結城*番勝、優勝。
 2-4月、第36期棋聖戦「棋聖・張栩-高尾紳路」。
 張栩が●○●○○●○の4-3で棋聖を防衛した。
 井山裕太が一挙に五冠王となり、23歳にして第一人者の地位に就いた。
 3.17日、高尾紳路が第31期NECカップ初優勝。
 4月、第50回十段戦「井山裕太-張栩」。
 井山が3-1で優勝した。
 5月、第67期本因坊戦「本因坊・山下敬吾-井山裕太」始まる。
 第1局は、本因坊誕生400年の節目に当たる寂光寺で打たれ、若き井山が制し、その勢いでタイトル獲得に向かった。

 6月、第67期本因坊戦「本因坊・山下敬吾-井山裕太」。
 井山が●●○○●○●の3-4で新本因坊になった。山下の3連覇はならなかった。井山は寂光の大川定信住職の揮毫により「文裕」を名乗ることになった。「文」は文殊菩薩の文の字を貰っている。たまたま「文裕」に囲碁を教えた祖父の鐵文の文とも被っていた。
 7月、第37回碁聖戦「井山裕太-羽根直樹」。
 井山が3-0で優勝する。
 8月、第37期名人戦「名人・山下敬吾-羽根直樹」。
 山下名人がフルセットの末に4-3で初防衛した。
 9月、第21回竜星戦「井山裕太-林漢傑」、井山*番勝、優勝。
 10月、第60期王座戦「王座・張栩-井山裕太」始まる。
 張の地元、台湾で開幕した。ここで王座初挑戦だった井山が2連勝し、11.22日、第3局も制して3-0でタイトル奪取、井山が初の王座位を獲得した。井山は王座獲得で張に次ぐ史上2人目の五冠となり23歳にして第一人者の地位に就いた。2016年に史上初の七冠独占。いったん途切れたものの翌年には2度目の七冠を達成した。
 12月、第38回天元戦「天元・井山裕太-河野臨」。
 3-0で井山が優勝。
 第19回阿含・桐山杯「張栩-林子淵7段」、張栩*番勝、優勝。
 第31回NECカップ「高尾紳路-趙治勲」、高尾*番勝、優勝。
 12.11-13日、第17回三星火災杯世界囲碁マスターズの決勝三番勝負が打たれ、韓国の李世ドル(イ・セドル、ドルは石の下に乙)9段が中国の古力9段を2勝1敗で破り、4大会ぶり4度目の優勝を飾った。2勝は、いずれも半目勝ちだった。
 12.30日、第11回囲碁アマチュア竜星戦決勝が放送され、アマ名人の洪●義(●は夾の人がそれぞれ百、ホン・ソッギ)が小野慎吾を破って優勝した。アマ竜星戦は、第10回まで続いた全国ケーブルテレビ局選抜囲碁選手権大会を改称したもの。今回から決勝進出者はプロの竜星戦予選に出場できる。
 インターネット棋戦「大和証券杯ネット囲碁オープン」が公式戦化。週刊碁の企画「尊敬する棋士、好きな棋士」で呉が第1位に選ばれた。
 この年、井山が51勝12敗(勝率8割1分)の圧倒的な成績を残し、勝ち星、対局数、勝率の3部門で2位以下を大きく引き離して1位となった。井山が50勝以上を挙げたのは初めて。連勝部門の1位は張豊猷八段(31)の13連勝。井山は10連勝を2回記録した。勝ち星部門では、名人戦の最終予選に進んだ余正麒三段(17)が2位、国際棋戦の本戦に勝ち進んだ伊田篤史三段(18)が4位。一力遼二段(15)を加えた10代3人がベスト20入りした。20代前半までを含めると9人の若手が上位に入った。
 第50回秀哉賞に井山裕太(本因坊、天元、王座、碁聖、十段の23歳五冠、竜星)が選ばれた。
 この年、NECカップは当期で終了した。
 この年、和田紀夫理事長就任。
 この年、6.22日、日本棋院において「囲碁殿堂表彰委員会」が開催され、第9回日本棋院囲碁殿堂入りとして、安井算哲(渋川春海)、陳毅が選ばれた。有識者、棋士からなる出席委員7名により、事前にノミネートされた候補者の中から投票により選出された。

 1. 囲碁殿堂入り決定者の経歴と主な業績
 2代目安井算哲(渋川春海) 1639(寛永16)年 ― 1715(正徳5)年
江戸初期を代表する棋士であり、囲碁四家の一つである安井家の一世算哲の子として京都に生まれる。17歳で御城碁に初出仕。1684(天和3)年まで17局を勤めた。1690(寛文10)年の御城碁で本因坊道策に対し第一着を天元に打つ。しかし負けてしまいそれ以降は天元に打つのを止める。日本初の国産歴(貞享暦)を編纂し評価され天文方に任命
 陳 毅(ちんき、チェン・イー) 1901年 ― 1972年
中国の政治家、軍人、外交官。中国共産党の十大元帥の一人。外交部長(外務大臣)などを務めた。囲碁の普及教育活動に取り組まれ、その中心人物となり、1962年に中国囲棋協会が設立された際、名誉主席に就く。1960年、公式に「訪中棋士団」(団長瀬越憲作)を受け入れる。その後も毎年日本からの訪中団を受け入れ、杉内雅男、宮本直毅、梶原武雄らが訪中し、「日中囲碁交流」が行われた。日中囲碁文化発展の功績により1963年日本棋院と関西棋院から名誉七段が贈られた。

 2. 今回のノミネート者
 安井算哲、井上(幻庵)因碩、大久保利通、喜多文子、雁金準一、川端康成、陳毅、橋本宇太郎。

 3. 過去の殿堂入り
 第1回特別創設記念表彰 徳川家康、本因坊算砂、本因坊道策、本因坊秀策
 第2回特別創設記念表彰 本因坊丈和
 第3回表彰 本因坊秀和、大倉喜七郎
 第4回表彰 本因坊秀甫
 第5回表彰 本因坊秀栄、本因坊秀哉
 第6回表彰 瀬越憲作
 第7回表彰 木谷実
 第8回表彰 岩本薫
 【この件に関する問い合わせ】日本棋院囲碁殿堂資料館 : 03-3288-8601
 この年、2代目安井算哲(渋川春海)を主役とする映画「天地明察」(原作・生方丁、春海役・岡田准一)が全国公開された。

 2013年(平成25年)
 2-4月、第37期棋聖戦「棋聖・張栩-井山裕太」。 
 3.14日、井山が●●○○●●の2-4で新棋聖になる。井山は初の棋聖位獲得し、史上初の六冠となり、史上三人目のグランドスラムも達成(最年少記録)した。 
 3月、第60期NHK杯「結城聡-井山裕太」、結城*番勝、優勝。
 4月、第51回十段戦「十段・張栩-結城聡」。
 結城が3-2で優勝した。結城が6冠を保持していた井山十段を破り、関西棋院では橋本昌二(1974年)以来39年ぶりとなる十段位を獲得した。
 山下敬吾が第22期竜星戦で河野臨を下し優勝。三コウ無勝負打ち直しの末の勝利であった。
 山下敬吾が第38期名人戦で井山裕太棋聖に4-1で敗れ無冠となる。
 6月、第68期本因坊戦「本因坊・井山裕太-高尾紳路」。
 井山本因坊が○●●○○●○の4-3で防衛。
 7月、第38回碁聖戦「井山裕太-河野臨」。
 井山が3-2で優勝する。
 9月、第22回竜星戦「山下敬吾-河野臨」。三劫無勝負により再戦の結果、山下が優勝する。
 10.17日、38期名人戦「名人・山下敬吾-井山裕太」。
 井山が4-1で山下名人を下し史上2人目の大三冠を達成した。
 10月、第61期王座戦「井山裕太―張栩」。
 井山が3-1で優勝した。
 12月、第39回天元戦「井山裕太-秋山次郎」。
 井山が3-0で優勝。
 第20回阿含・桐山杯「村川大介7段-志田達哉6段」。村川が優勝する。
 日本棋院プロ棋士対コンピュータ囲碁の公式定期戦第1回「電聖戦」開催。囲碁ナショナルチームを創設。

 2014(平成26)年
 3月、第61期NHK杯「結城聡-河野臨」。結城が優勝した。
 2-4月、第38期棋聖戦「井山棋聖(24歳)-山下敬吾(35歳)」。
 井山棋聖が○○○●●○の4-2で初防衛。棋聖の優勝賞金は4500万円。井山棋聖は名人、本因坊、天元、王座、碁聖と合わせて六冠を堅持した。囲碁界の7大タイトルのうち6冠を保持する若き第一人者となった。今期の7番勝負はスペインで開幕した。第1局で半目勝ち、 第2局、第3局でも山下の仕掛けを切り返して勝負を決めた。第6局では長期戦模様の中で、巧みな手段で下辺の一団を生還させ一気に試合を決めた。
 2月、高尾紳路が第52期十段戦挑戦者決定戦で六冠王井山裕太に勝ち目前に迫っていた七大タイトル制覇を阻む。
 4月、第52回十段戦「高尾紳路-結城聡」。
 高尾が3-2で優勝した。6年ぶりのタイトルとなり無冠を返上した。
 6月、第66期本因坊戦「井山裕太-伊田篤史」。
 井山本因坊が○○○●○の4-1で防衛。
 10月、第62期王座戦「井山裕太―村川大介」。
 村川が優勝した。
 呉清源逝去
 呉清源履歴
 11.30日、戦前から戦後にかけて日本の囲碁界に君臨し「昭和の碁聖」と称され、100歳記念を済ませたばかりの呉清源が老衰のため神奈川県内の病院で死去した(享年100歳)。喪主は次男の昌樹氏。中国共産党機関紙・人民日報系の国際情報紙「環球時報」などによると、11月には呉氏の100歳を祝う会が北京市内であり、王汝南・中国囲碁協会主席のほか、中国の物理学者や京劇役者ら数百人が祝いに駆けつけた。また、中国人民対外友好協会は8月、呉氏に「平和発展貢献賞」を授与。呉さんを囲碁の国際化と中国囲碁界の発展を促したと称えた。

 2015(平成27)年
 10月、第63期王座戦「井山裕太―村川大介」。
 井山が3-0で優勝した。
 第52回秀哉賞に井山裕太(棋聖、名人、本因坊、碁聖の四冠防衛)が選ばれた。

 2016(平成28)年
 4.20日、囲碁のタイトル6冠を保持する井山裕太本因坊(26歳)が、東京都千代田区の日本棋院で打たれた第54期十段戦五番勝負(産経新聞社主催)の第4局で同日午後5時21分、163手で伊田篤史十段(22)に黒番中押し勝ちし、3勝1敗でタイトル十段を奪取し、史上初の全7大タイトルの同時制覇「7冠」を達成した。

 過去の記録は、井山の6冠以外では2009年に張栩(ちょう・う)九段が達成した5冠(名人、王座、天元、碁聖、十段)が最高。将棋界では1996年、羽生善治名人が7冠を制覇した。井山は13年3月に棋聖を奪取して初めて6冠となった。翌月、十段を失うも同年10月に名人を獲得、再び6冠に復帰。しかし、14年は十段戦の挑戦者になれず、7冠挑戦の機会を逃した。同年12月には王座、天元を相次いで失い4冠まで後退したが、翌15年すぐに取り戻し三たび6冠に。今期は十段戦の挑戦者になり7冠に挑んでいた。来月9日、広島県尾道市で開幕する第71期本因坊戦七番勝負(毎日新聞社主催)で7冠達成後初の防衛戦に臨む。

 井山裕太本因坊の話。

 「悔いのないようにやるだけと臨んだ。今の自分の力は出しきれたかなと思う。さらに今後、精進していかなければいけないという気持ちだ。未熟と感じることが多いので、常に少しでもレベルアップしていきたい」。師匠の石井邦生九段話。「ミスをした後も気持ちを切らさず、引きずらないのが井山の強さだ。7冠達成までには、負けていた碁を何局か拾っており、強運も備えている。過密スケジュールの合間を縫って出場している国際棋戦でも実績を上げており、世界一強いと思っている」。
 10月、第64期王座戦「井山裕太―余正キ」。
 井山が3-0で優勝した。
 第53回秀哉賞に井山裕太(棋聖、名人、本因坊、王座、天元、碁聖の六冠の獲得に加え、阿含、桐山杯、棋戦優勝者選手権戦優勝の実績)が選ばれた。

【井山七冠王崩れる。崩したのは第41期囲碁名人戦で高尾紳路】
 11.3日、第41期囲碁名人戦7番勝負(朝日新聞社主催)の第7局が甲府市の常磐ホテルで打たれ、2日目の午後6時59分、挑戦者の高尾紳路(しんじ)9段(40)が七冠の井山裕太名人(27)に251手までで白番2目半勝ち。高尾九段は4勝3敗でシリーズを制し、10期ぶりに名人に返り咲いた。井山名人は4連覇を逃した。これにより、4月に前人未到の七冠独占(名人、棋聖、本因坊、王座、天元、碁聖、十段)を達成した井山名人は半年余り(197日)で六冠に後退、七大タイトル戦のシリーズ連勝記録も10でストップした。

 高尾九段は2期目の名人獲得。千葉市出身で、1991年、14歳でプロ入りした。2005年から本因坊3連覇。06年に名人となった。今シリーズは第1局からの3連勝でタイトル奪取に迫ったが、その後3連敗して決着が最終局までもつれていた。就位式は12月2日、東京都文京区のホテル椿山荘東京で開かれる。(伊藤衆生)

 井山裕太七冠(27)はどこまで走り続けるのか、絶対王者からタイトルを奪うとすれば誰か。日本囲碁界の最大の関心事に答えが出された。「井山1強」の状態を崩したのは、台頭する新勢力ではなく、経験豊かな元名人の高尾紳路(しんじ)九段(40)だった。

 高尾・新名人の話。3日夜、高尾は王者を破った心境をこう語った。「井山七冠を破るのは井山さんよりも若い棋士だと思っていた。勝てるなんて夢にも思っていなかった」、「信じられない。奇跡が起きたような気がしています。自分の実力以上のものが出せたが、三つ勝ってから遠かった。ずいぶん長く感じた。運がよかったとしかいいようがない」。

 4日朝、常磐ホテルで次のようにコメントしている。「(2カ月を超える激闘を振り返り)3連勝してから、もしかしたら行けるのではと思ったのが間違い。そこからが非常に長かった」、「(一夜明けての心境につき、)なんとなくふわふわしている。まだ勝てたことが信じられない」、「(昨夜は知人や友人からたくさんの祝福のメールや電話があり、)少しずつ実感がわいてきている」という。「(久々の返り咲きに、)自分には未熟な部分、弱い部分がたくさんある。少しずつ改善して、一歩ずつ努力を積み重ねて、名人の名にふさわしい棋士になりたい」、「今回の経験は自信にもなった。これに満足することなく、さらに精進したい」。(伊藤衆生)

 井山名人の話「出だしの3連敗は反省点が多かった。最終局までこられたのはよかったが、力が及ばなかった。もちろん七冠をもう少し続けたい気持ちもあった。いまの実力ではこれが精いっぱいだった」。


【人工知能アルファー碁の後継機マスターの快進撃】
 12.29日、人工知能アルファー碁がさらに進化した後継機「Master」(マスター)がインターネット囲碁サイト「東洋囲碁」に登場し、非公式ながら同国のトッププロ相手に39連勝を飾った。翌2017.1.10日からは中国発の囲碁サイト「野狐囲碁」に出没し、1.5日までに同じくトッププロ相手に30連勝、合わせて60連勝、勝率100%となった。

 2017(平成29)年
 3.20日、日本棋院が新たに設けた世界大会「ワールド碁チャンピオンシップ」(WGC) 大会前日のこの日、選りすぐりの世界のトップ棋士が大阪市内のホテルでそろって記者会見に臨んだ。日本は、去年、国内で史上初の七冠独占を果たした井山裕太九段。中国は、国内ランキング2位で、予選で代表権を勝ち取ったミ・イクテイ九段。韓国は、国内ランキング1位のパク・ジョンファン(朴廷桓)九段。もう1人壇上に上ったのが「DeepZenGo」の開発者、加藤英樹。「DeepZenGo」は、囲碁ソフトの開発を長年続けてきた加藤さんのほか、東京大学の人工知能の研究室やIT企業のドワンゴがチームを組み、去年11月、日本で史上最多のタイトル獲得記録を持つ趙治勲名誉名人に1勝を挙げ、今回さらに大きな舞台に挑むことになった。日中韓の囲碁トップ棋士とAI(人工知能)の4者が総当たりで戦う。

 3.21日、大会初日。「DeepZenGo」と中国のミ九段が対戦。接戦が続く中、僅差の駆け引きが続いていた終盤の「ヨセ」で、突然、これまでの手を台なしにする悪手を打ち、その後も単純なミスが続き、加藤さんが投了を告げた。

 3.22日、2日目、「DeepZenGo」と韓国のパク九段。「DeepZenGo」が終盤に失速し損な手を連発し2連敗した。

 3.23日、対戦3日目(大会最終日)、大阪市北区の日本棋院関西総本部で行われ、井山裕太十段(27歳)は国内最強AI「Deep Zen Go」と対戦し敗北、3戦全敗で最下位に終わった。優勝決定戦は、韓国代表の朴(パク)廷桓(ジョンファン)九段(24歳)と中国代表の●(=くさかんむりの縦棒に挟まれた一を縦棒にし下に牛のノを取る)(み)●(=日の下に立)廷(いくてい)九段(21歳)が対戦し、朴氏が3戦全勝で優勝を決め、優勝賞金3千万円を手にした。

 井山九段が語る。「人工知能がいくら強くなっても、囲碁というゲームが解明されるというところには程遠いと思っています。最強の人工知能と、まったく同じ強さの人工知能が勝負しても、どこかで勝ち負けは必ずつくので、より優れた一手はいつでも存在するということになります。これからは人工知能の力も借りて、お互いを高めあいながら、少しでも囲碁の真理に近づいていきたいです」。
 井山七冠、LG杯決勝進出!。日本最強棋士の井山七冠が、国際棋戦のLG杯で決勝進出した。決勝戦は2018年2月5日、7日、8日に日本棋院で行われる。
 10月、第65期王座戦「井山裕太―一力遼」。
 井山が3-0で優勝した。
 この頃から村川大介伊田篤史、3棋戦でのタイトル挑戦を決めた一力遼八段、竜星戦や新人王戦で優勝、名人戦と本因坊戦ではリーグに入った芝野虎丸七段、阿含桐山杯優勝の六浦雄太七段など平成生まれの若手棋士が大暴れし始めた。

 2017.10.20日、「アルファ碁が進化した最新囲碁ソフトが誕生 対局データなしに独学で最強に」。
 囲碁のルールだけを教えられた後は棋士の対局データなしに独学で「勝つ手」を学ぶ最強の囲碁ソフト「アルファ碁ゼロ」を開発した、と米グーグル傘下の英国ベンチャー企業ディープマインド社が発表した。3日間で「自己対局」を490万回繰り返して世界トップクラスの棋士を破った旧作ソフト「アルファ碁」に100戦全勝した。開発に関する論文は19日付の英科学誌ネイチャーに掲載された。同社によると、「アルファ碁ゼロ」は人工知能(AI)の新しい設計思想により誕生したが、囲碁以外の広い分野で応用できる可能性があるという。

 旧作囲碁ソフトの「アルファ碁」には、コンピューターが人間の神経細胞を模した多層構造のネットワークを使って自動的に学習する「ディープラーニング(深層学習)」と呼ばれる技術が使われた。またコンピュター自身が「試行錯誤」を繰り返しながら独学する「強化学習」の手法が取り入れられていた。昨年3月に世界トップクラスの韓国人プロ棋士を相手に4勝1敗で勝利し、その後も改良されて進化していた。これらの囲碁ソフトは強い棋士の対局データ(棋譜)など「先人の知恵」を活用していた。

 ネイチャー掲載論文やディープマインド社によると、「アルファ碁ゼロ」は新しい設計思想の下、膨大なデータなしに「強化学習」だけで優れた結果を出せるようになった。「アルファ碁ゼロ」は今回、囲碁の基本的なルールだけを教えられた後は一手0.4秒という速さで3日間に約490万回の自己対局を繰り返した。最初はランダムに石を置いていたが、自己対局を速い速度で繰り返しながら自ら「勝てる手」を学んで“先輩”の「アルファ碁」に100戦100勝の成績を挙げた。40日後には自己対局数は2900万局に達し、進化していた最新鋭の「アルファ碁」にも勝利したという。

 「アルファ碁」は「定石」をデータから学んだが、「アルファ碁ゼロ」は指し手や盤面での対局相手との優劣から「定石」を独学で学んだ。深層学習用のプロセッサ「TPU」は「アルファ碁」には48個使用されていたのに対し、「アルファ碁ゼロ」は4個で、コンピューターの省力化にもなっている。ディープマインド社の研究開発担当者らは、AIの「アルファ碁ゼロ」の開発成果が幅広い分野での応用を実現する新たな挑戦につながる、としている。

 この年11.21日、杉内雅男九段が死去(享年97歳)。妻は寿子(90歳)で現役。

【将棋の羽生棋聖の活躍考】
 2017.12.5日、将棋の第30期竜王戦7番勝負の第5局が鹿児島県指宿市で行われ、挑戦者の羽生善治棋聖(47)が渡辺明竜王(33)を87手で破り、通算4勝1敗で15期ぶりに竜王位を奪還し、前人未踏の「永世7冠」を達成した。羽生棋聖はこれで竜王を通算7期獲得。連続5期か通算7期以上の保持者に与えられる「永世竜王」の資格を手にした。羽生棋聖はこれまで名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖のタイトルで永世称号の資格を得ていた。将棋界の8大タイトルのうち、永世称号の規定がない叡王戦をのぞく7つのタイトルすべてで永世称号を獲得する偉業となった。羽生棋聖に次いで永世称号獲得の多い棋士は大山康晴15世名人と中原誠16世名人の5つ。1996年に将棋界で初めて7大タイトル独占を成し遂げた羽生棋聖。これでタイトル獲得数も通算99とし、こちらも前人未踏の100の大台に大手をかけた。渡辺竜王は9連覇を含む通算11期竜王位を獲得。2008年には羽生棋聖と「初代」の永世竜王の資格をかけて対戦し、この時は渡辺竜王が3連敗から4連勝で逆転防衛に成功。連続5期を満たし永世竜王の資格を得た。10年にも羽生棋聖を挑戦者に迎えたが、4勝2敗で退けた。今回は2人にとって竜王戦3度目の対決だった。渡辺竜王は棋王の1冠に後退した。

 ◆羽生棋聖の獲得した全タイトル
 竜王 7期(連続2期が2度)
 名人 9期(連続3期が2度)
 王位18期(連続9期)
 王座24期(連続19期)
 棋王13期(連続12期)
 王将12期(連続6期)
 棋聖16期(連続10期・継続中)

2018(平成30)年

【政府が将棋の羽生、囲碁の井山に国民栄誉賞授与を正式決定】
 1.5日、政府は、将棋で史上初の「永世七冠」を達成した羽生善治氏(47)と囲碁で2度目の七冠独占を果たした井山裕太氏(28)に対する国民栄誉賞の授与を正式に決定した。表彰式は2月13日で、棋士の受賞は初めてとなる。安倍晋三首相は昨年12月13日に両氏への国民栄誉賞授与を検討するよう指示。有識者の意見を聞いたうえで正式決定した。菅義偉官房長官は5日午前の記者会見で「歴史に刻まれる偉業を達成し、多くの国民に夢と感動を、社会に明るい希望と勇気を与えた」と授賞理由を述べた。

 国民栄誉賞は77年に創設。「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったもの」が対象で、過去に23人、1団体が受賞している。羽生氏は1996年に囲碁・将棋界を通じて初めて七つのタイトルを独占。昨年12月には通算7期目の竜王となり、全てで永世称号を保持する「永世七冠」資格を史上初めて獲得した。井山氏は2016年に囲碁界で初めて七大タイトルを独占。名人位を一時失ったが17年に奪還し、囲碁・将棋界で初の2度目の七冠独占を達成した。

 国民栄誉賞受賞に関する井山裕太七冠のコメントは次の通り。

 「この度、国民栄誉賞を受賞させていただく事となり、大変光栄であるのと同時に、身の引き締まる思いです。棋士としてまだまだ発展途上の自分がこのような賞をいただいて良いのかという思いはありますが、今後に期待していただいているものと理解しております。少しずつでも前に進んでいけるよう、これからも誠心誠意、囲碁に向き合っていきたいと思います」。

 羽生善治竜王 のコメントは次の通り。

 「大変に名誉ある賞を頂き、驚きと共に身が引き締まる思いです。将棋界の先人の方々が長年に渡って築いて来られた歴史の継承があったからこその選考と受け止めています。また、現在進行形で囲碁の進化と記録を作り続けている井山さんと同時の発表に縁を感じました。私も井山さんの独創性溢れる棋風にあやかりたいです。今後も協力をして伝統文化の世界を発展させ、時代を担う世代にも伝えて行ければと思っています。棋士の道は途方もなく長いので今回の受賞は今後の道のりへの激励も含まれていると考えています。いつも温かく応援し、見守って頂いているフアンの皆様に厚く御礼申し上げます」。

 1.27日、「中国テンセントの囲碁AIが、「世界最強の棋士」に勝利した理由──猛攻の影には「AlphaGo」あり」。
 中国の大手インターネット企業であるテンセントが開発した囲碁の人工知能AI)プログラム「Fine Art」が、トップ棋士の柯潔(カ・ケツ)を倒した。世界最強の囲碁AIとして知られてきた「AlphaGo」と対決した柯潔に勝利したことで、中国の囲碁AIが急速に進化を遂げてきたという事実が浮き彫りになった。

 テンセントの創業者で最高経営責任者(CEO)のポニー・マー(馬化騰)。PHOTO: LINTAO ZHANG/GETTY IMAGES

 グーグル傘下のDeepMindが開発した人工知能(AI)の「AlphaGo」が、囲碁で世界5位の実力をもつイ・セドルを破ったのは2016年3月のこと。囲碁のような複雑なゲームで、AIが人間を打ち負かすという偉業を成し遂げたのだ。

 この分野で、中国のインターネット企業テンセント(騰訊控股)が大きな成果を出したと主張している。自社のAIプログラム「絶芸(Fine Art)」が同国のトップ棋士、柯潔(カ・ケツ)を倒したのだ。1月17日に行われた対局では柯潔に2子のハンディキャップが与えられ、AIが勝利した。柯潔は3年間にわたり世界首位の座を維持していたが、最近は2位に転落している。

 絶芸の勝利は、人間と機械との差が大きく広がっていることを示すものとして、囲碁界で大きな注目を集めた。このニュースは一方で、AI分野でアメリカと中国の差が縮まっている事実も示している。

 中国政府は昨夏、2020年にアメリカに追いつき、30年には追い抜くことを目標にしたAIの国家戦略を明らかにした。中央政府だけでなく省や地方レヴェルでも、この分野の研究と企業に多額の補助金がつぎ込まれている。

 「AlphaGo」の勝利が猛攻のきっかけに

 テンセントはインスタントメッセンジャーから決済サーヴィスまで幅広い分野でビジネスを展開し、昨年11月には国内のテック大手4社とともに、政府から中国の「AIナショナルチーム」に指名された。シンクタンクの新アメリカ安全保障センターで非常勤フェローを務めるグレッグ・アレンは、アメリカはテクノロジー分野における中国の野心を真剣にとらえる必要があると指摘する。「絶芸は中国がAI技術で驚くべき進歩を遂げていることを示す新たな証拠なのです」

 中国がAIに本腰を入れ始めた原因のひとつが、冒頭でも触れたAlphaGoの勝利だ。AI戦略で中国政府から諮問を受けた大学教授らは『ニューヨーク・タイムズ』の取材に対し、AlphaGoの勝利は、商用から軍用まで幅広いテクノロジーで中国はアメリカに後れをとっていることに当局が気づいた「スプートニク的瞬間」だったと話している。

 囲碁は3,000年以上前に中国で発明されたボードゲームで、現在も同国の文化遺産の重要な一部と考えられている。プレイヤーは縦横19本の線からなる格子が描かれた版に石を置いて陣地を争い、その複雑さはチェスをはるかに上回る。

 レヴェルの異なるプレーヤーが戦う場合は、条件を平等にするためにハンディキャップが与えられる。絶芸と柯潔の対局でも元世界チャンピオンは2子を置くことを許されていたが、AIは人間に勝った。つまり両者の差はわずかなものではなく、絶芸は人間とは異なる次元の強さをもっているということだ。

 ドイツのフリードリヒ・シラー大学イェーナの教授で囲碁の専門家でもあるインゴ・アルトフェーアによると、一般的には全知全能の“囲碁の神”なら3子のハンディキャップでも最強の人間に勝てると考えられている。アルトフェーアは「絶芸は完全無欠の領域に達しつつあります」と話す。

 彼は柯潔は「人間ではおそらく最強」だと言う。なお、AlphaGoはこれまでのところ、公開での置き碁(ハンディキャップ戦)の申し入れには応じていない。

 グーグルが自社のAIの力を示すのに囲碁を利用したことは、中国当局者の一部を非常に苛立たせた。昨年5月に行われた“フューチャーGOサミット”(Future of Go Summit)では、メインイヴェントとなる対局でAlphaGoが中国最強と言われる柯潔を打ち負かした。中国の国営放送は直前に放送予定を変更したほか、国内のインターネットプロヴァイダーは試合開始から30分が経過した時点で、中国語による放送をブロックしている。

 米国企業の論文による恩恵

 テンセントが絶芸をつくったのは16年で、これまでに柯潔を含む複数のプロ棋士を破ったという。その後もアップグレードを繰り返し、最新版は1月9日から始まった一連の置き碁対決で再びプロ棋士たちと対決。17日に行われた20歳の柯潔との対局がハイライトだったということになる。

 それでも絶芸は完璧というわけではない。国際囲碁連盟の記録では、プロ棋士相手に合計34回の2子の置き碁を戦い、30勝を上げている。

 AI分野における中国の躍進と同様に、この成績の背後には、グーグルの親会社のアルファベットやそのほかの米国企業から受けた恩恵がある。テンセントは、絶芸の最新版はDeepMindが公開したAlphaGoの改良版「AlphaGo Zero」に関する論文からインスピレーションを得たと認めている。アルファベットやマイクロソフト、フェイスブック、そのほか多くの米国企業が、論文やソフトウェアの発表などにより、AIへの世界的な関心の高まりに貢献してきた。

 アルトフェーアがいま望んでいるのは、テンセントとアルファベットが絶芸対AlphaGoという究極の囲碁対決を行うことだ。


【上野愛咲美女流棋聖誕生】
 1.29日、第21期女流棋聖戦で、上野愛咲美(ウエノアサミ / Ueno Asami)が謝依旻(しぇい・いみん)六段を2-0で破り初タイトル獲得。☆16歳3ヶ月での獲得は、女流棋聖戦史上最年少タイトル獲得記録となった。

【ワールド碁女流最強戦2018】
 女流碁界でも中韓の2強時代が続いている。開催8回を数える中国の女子世界戦「穹窿山兵聖(きゅうりゅうざんへいせい)杯」の優勝者は、中国が3回、韓国が5回と分け合つている。 

 3.14日、日中韓台湾の女流トップ棋士ら8人が優勝を争う囲碁の世界戦「ワールド碁女流最強戦2018」が開幕し、東京・市ケ谷の日本棋院で1回戦4局が始まった。日本での女性棋士の世界戦は初めて。トーナメント戦で、1回戦の組み合わせは、藤沢里菜女流三冠(19)―ロシアのアマチュア五段ナタリア・コヴァレヴァさん(30)▽謝依旻(しぇい・いみん)女流本因坊(28)―中国の於之瑩(オ・シエイ)六段(20)▽向井千瑛(ちあき)五段(30)―韓国の崔精(チェ・ジョン)九段(21)▽牛(にゅう)栄子二段(18)―台湾の黒嘉嘉(コク・カカ)七段(23)。

 3.15日、日本代表でただ一人残っていた藤沢里菜女流三冠は「1000年に1人の美女棋士」、「囲棋女神」などと呼ばれている台湾代表の黒嘉嘉(こく・かか)七段に敗れ、日本勢は姿を消した。黒嘉嘉(こく・かか)七段は準優勝、賞金300万円を獲得した。

 黒嘉嘉(こく・かか)七段はオーストラリア人の父と台湾人の母の間に生まれた。日本の漫画「ヒカルの碁」がきっかけで、6歳ごろに囲碁を覚えた。2010年に台湾棋院に入段。オセアニア代表として出場した同年の世界女子選手権では、青木喜久代八段(49)らを破り、16歳で準優勝に輝いている。この年の広州アジア大会で採用された囲碁の女子団体戦でも、日本で活躍する謝依旻(しぇい・いみん)女流本因坊(28)らと組んだ台湾チームで、銅メダルを獲得している。台湾で開催される「女子囲棋最強戦」では昨年まで3連覇を果たした。16年のペア碁ワールドカップなどで、たびたび来日しているが、今回の「女流最強戦」は規模が大きな公式戦だったため、より注目度が高まった。

 藤沢里菜(ふじさわりな、1998年9月18日 – )は、11歳の時にプロ入りした日本棋院東京本院所属の囲碁の女流棋士、三段。洪道場出身。埼玉県所沢市出生の東京都新宿区出身。 2017年女流 タイトル四冠。第33期・35期女流本因坊、第29期女流名人。史上最年少タイトル獲得者。囲碁棋士のプロ入り最年少記録保持者。他多数の最年少記録を保持している。 2017年には賞金ランキングで全棋士の中で4位。祖父に藤沢秀行名誉棋聖、父に藤沢 一就八段、従兄弟伯父に藤沢朋斎九段を持つ、囲碁棋士の家系に生まれた サラブレッドである。

 井山裕大(いやま ゆうた、1989年5月24日 – )は、日本棋院関西総本部所属の囲碁棋士。九段。大阪府東大阪市出身。石井邦生九段門下。名誉棋聖・二十六世本因坊・名誉碁聖の名誉称号資格保持者。号は本因坊文裕(もんゆう)囲碁界・将棋界通して史上初の2度の七冠達成者であり史上初の年間グランドスラム(その年の七大タイトルをすべて独占)達成者。また、囲碁界史上初の七冠達成者・六冠達成者。世界戦ではLG杯世界棋王戦準優勝、テレビ囲碁アジア選手権戦で優勝を果たしている。七大タイトル・三大タイトル獲得数歴代2位、タイトル総獲得数歴代4位記録。史上2人目の大三冠達成者。史上3人目のグランドスラム達成者。また、七大タイトルの数々の最年少記録を保持している。2013年から5年連続棋道賞最優秀棋士賞を受賞。2011年から7年連続賞金ランキング1位。天元位歴代最多獲得、碁聖位最多タイの連覇記録保持者。2012年7月24日から現在まで5年と254日間、七大タイトルのうち四冠以上を保持し続けている。
 10.26日、第66期王座戦五番勝負「井山裕太―一力遼」。
 井山が3-2で優勝した。「令和三羽がらす」のひとりの一力が2年連続の挑戦。前年の王座戦から、天元戦、棋聖戦と連続挑戦して井山に10連敗していた。この年に国民栄誉賞を受賞した井山をフルセットまで追い込んだが、一歩及ばなかった。井山は王座獲得で七大タイトル通算42期と趙治勲の最多記録にならび直後の天元戦で塗り替えた。





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