日本囲碁史考16、1989(平成元)年以降 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).7.10日
(囲碁吉のショートメッセージ) |
ここで、「日本囲碁史考16、1989(平成元)年以降-井山のタイトル戦登場までの囲碁史」を確認しておく。 2005.4.28日 囲碁吉拝 |
【日本囲碁史考13、平成時代~井山のタイトル戦登場までの囲碁史】 |
1989(平成元)年 |
1-4月、第13期棋聖戦「棋聖小林光一-武宮正樹」。 1.17-18日、第1局がアメリカ・ニューヨークで行なわれ、武宮が白番中押勝ちした。結局、●○○○○の4-1で小林棋聖が防衛した。 |
3月、第36期NHK杯「武宮正樹-小林覚」。武宮が優勝した。 |
4.5日、中国のプロ棋士の地位を捨ててオーストラリアに渡った呉淞笙が韓国に移住、韓国棋院の客員9段として同国の公式戦に参加する。韓国棋院の全面協力で決まった。 |
4月、第27回十段戦「十段・趙治勲-林海峯」。 3-0で趙が防衛した。 |
5.12日、第44期本因坊戦「本因坊・武宮正樹-趙治勲」。 第1局がスペイン・マドリードで行なわれ、趙が武宮本因坊に黒番中押勝ちした。6月、第44期本因坊戦「本因坊・武宮正樹-趙治勲」。●●●●の0-4で趙治勲が新本因坊に復位した。以後10連覇し25世本因坊の資格を得る。 |
5.15日、日本棋院、関西棋院、日本囲碁規約を40年ぶりに囲碁規約を改正した。改正されたのは、昭和24.10月に制定された規約70条、付属規定10条のうちルールに関する33条・判例4つに限られ、これまであいまいだった「隅の曲がり四目は死」などを理論化した。 |
7.12日、川本昇8段が9段に昇段。 |
7月、第14回碁聖戦「小林光一-今村俊也8段」。 小林が3-1で優勝する。 |
8月、第2回世界選手権富士通杯「武宮正樹(日本)-林海峰(日本)」、武宮*番勝、連続優勝。 |
9.3日、NHK衛星第二放送で新番組「囲碁将棋ウィークリー」始まる。 |
9.5日、第1回応氏杯世界プロ選手権戦「曺薫鉉(韓国)-聶衛平(中国)」。 曺薫鉉が3-2で第1回応氏杯を獲得した。 |
9.14-15日、第14期名人戦「名人・小林光一-淡路修三」。 第1局がイギリス・ロンドンで行なわれ、淡路が白番中押勝ちした。 小林名人が4-1で防衛した。 |
10月、第37期王座戦「加藤正夫-羽根泰正」。 加藤が3-1で優勝した。 |
12月、第15回天元戦「林海峯-趙治勲」。 林が3-2で優勝。以降5期連続して名誉天元を名乗る。 |
武宮が早碁選手権戦優勝。第1回テレビアジア杯優勝、以後四連覇。 |
王立誠が鶴聖戦で一般棋戦初優勝。 |
第8回NECカップ「大竹英雄 -石田芳夫」。大竹が優勝した。 |
第27回秀哉賞に小林光一(棋聖、名人、碁聖)が選ばれた。 |
この年、 3.30日、囲碁、オックスフォード・ディクショナリーに載る。世界最高の英語辞書といわれるOxford English Dictionary (OED) が61年ぶりの改訂され、サシミ、ショウユ、トウフ、フトンとともに柔道・剣道など日本古来のスポーツ、囲碁、将棋などが英語化した日本語として収録された。 |
この年、10.20日、日本棋院・囲碁研修センター、完成。強いプロ棋士を育てるため院生を徹底的に鍛えようと、日本棋院が千葉市幕張に建設していた「囲碁研修センター」の完工式が行われた。JR総武線幕張本郷駅から徒歩14分で鉄筋3階建て。院生は寄宿または通いながら修業に励む。外国人の囲碁指導者を育てるため研修も同時に行われる。(2004年に財政難で売却) 。 |
この年、日本棋院南米部囲碁会館開館。岩本薫がサンパウロに南米囲碁会館を建設する。その後、アムステルダムにヨーロッパ囲碁文化センター、シアトルとニューヨークに囲碁会館を建設するなど世界各地での普及に尽くす。 |
1990(平成2)年 | |
3月、第37期NHK杯「石田芳夫-大竹英雄」、石田*番勝、優勝。 | |
2-4月、第14期棋聖戦「棋聖・小林光一-大竹英雄」。 小林棋聖が○●○○○の4-1で防衛。 |
|
4月、第28回十段戦「十段・趙治勲-武宮正樹」。 武宮が3-2で優勝し、初の十段獲得。中国棋士の江鋳久9段が、3.28日の第2局に対して、「武宮先番のような手が打てたら、間違いなく選手権に手が届くだろうが、それが身に着くまでには百年ほど掛かるかも知れない」と述べている。 |
|
6月、第45期本因坊戦「本因坊・趙治勲-小林光一」。 趙本因坊が○●●●○○○の4-3で防衛。 |
|
7月、第15回碁聖戦「小林光一-小林覚8段」。 小林が3-0で優勝する。 |
|
7.31日、影山利郎7段が心不全のため、東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した(享年64歳)。昭和23年、全日本アマ本因坊戦に優勝してプロ入りし、52年7段。"囲碁レッスン日本一"と謳われアマ囲碁の普及に尽くした。著書に「アマの碁ここが悪い」など。 | |
8.10日、林海峰九段宅に初の内弟子。林海峰9段が自宅に内弟子を入れた。台湾からの張栩(ちょう・く)君(10歳)。8月半ばには同じ台湾から2人目の林子淵(11歳)君も来日の予定。 | |
8月、第3回世界選手権富士通杯。「林海峰(日本)-聶衛平(中国)」で林が優勝。 | |
8月、第15期名人戦が「小林光一-大竹英雄」で争われた。 小林名人が4-2で防衛。 |
|
第15期碁聖戦「小林光一-小林覚8段」。 小林が3-0で優勝する。 |
|
9.15日、今村俊也8段が9段に昇段。 | |
9.20日、内廼偉9段が日本棋院での活動を断られる:当時最強と云われていた日本棋士との対局を夢見て中国より来日した内廼偉9段は顔見知りの女性棋士に伴われ東京・市谷の日本棋院を訪れ「日本で碁を打たせて欲しい」と訴えたが、日本棋院の理事は約1ヶ月前に中国囲棋協会より送られてきた「海外に滞在する中国の国家段位を持つ棋士は中国囲棋協会が派遣、権限を与えた者以外、当該国(地域)のプロ棋戦に参加してはならない」と書かれた通知書を見せ、内廼偉9段の日本での対局を断った。 | |
10月、第38回王座戦「羽根泰正-加藤正夫」。 羽根が3-2で優勝した。 |
|
11.9日、名人戦の防衛を果した小林光一棋士が囲碁・将棋界を通じて初の一億円棋士になることが確実になった。名人戦の賞金・対局料は3080万円だが、棋聖防衛で3800万円を獲得したのをはじめ碁聖防衛で665万円、本因坊戦挑戦敗退で830万円など累計9494万円になった。現在戦っている天元戦をはじめ年内の対局ですべて敗れても1億円を突破することは間違いないという。 | |
12月、第16回天元戦「林海峯-小林光一」。 林が3-1で優勝。 |
|
12.22日、第34回全日本学生学生本因坊戦で大阪大の高野英樹氏(現プロ棋士)が優勝。小学生名人・中学生名人・高校選手権個人優勝に続いて学生個人戦優勝を決め全階級制覇を達成した。 | |
第2回テレビアジア杯で武宮が優勝。 | |
第9回NECカップ「林海峰-王立誠」となり林が優勝した。 | |
第28回秀哉賞に小林光一(棋聖、名人、碁聖)が選ばれた。 | |
この年、「竜星戦」ケーブルテレビで衛星放送開始。 | |
この年、岡山県矢掛町東三成に関西棋院・橋本宇揮毫(きごう)による「囲碁発祥之地」記念碑が建立(こんりゅう)された。吉備保光会が、この地が囲碁発祥の地であるとして次のように説明している。
2003年、この記念碑に隣接する西隣に、遣唐留学生・吉備真備が帰朝してから1250年になるのを記念して吉備真備公園が設置された。公園の小高い丘の上には吉備真備像が設置されている。 |
|
5.10日、大竹英雄、小川誠子監修「初・二段になれる囲碁教室4定石」発行。 | |
第25(再18)回1990日中囲碁交流戦(日中囲碁決戦)の戦績は次の通り。中国代表団団長・李春竜、廖桂永(2-0 大矢浩一)、王剣坤(2-1 恩田烈彦)、楊暉(2-0 青木紳一)、張璇(2-0 青木喜久代)、李星(0-2 趙善津)、方捷(2-1 泉谷英雄)、邵煒剛(2-1 酒井真樹)、劉菁(0-2 有村比呂司)、総成績38-18 。 |
1991(平成3)年 |
3.9日、加藤正夫9段が第10期NEC杯で初優勝した。 |
3.17日、第38期NHK杯「依田紀基8段-王銘エン8段」、依田*番勝、NHK杯初優勝。 |
3.18日、第13期鶴聖戦「鶴聖・大竹英雄-武宮正樹」。武宮が初優勝した。 |
2-4月、第15期棋聖戦「棋聖小林光一-加藤正夫」。 3.20日、●○○●○●○の4-3で小林棋聖が防衛。棋聖戦6連覇を達成し藤沢秀行名誉棋聖の記録と並んだ。 |
3.26日、「囲碁クラブ」誌の企画で「依田紀基8段-李昌鎬4段五番勝負」が開催され、依田が3勝2敗で勝利した。 |
4.5日、東京本院所属・久島国夫8段(44歳)と中部総本部所属・馬場滋8段(43歳)の二人が9段に昇段した。 |
4.25日、第29回十段戦「十段・武宮正樹-趙治勲」。 武宮が3-2で優勝し防衛した。以後3連覇する。 |
6.3日、故木谷実夫人の木谷春美さんが死去した(享年81歳)。 |
6.21日、島村俊廣9段が死去(享年79歳)。中部総本部に所属し活躍、タイトル獲得数は15に上る。棋風は地味ながら「いぶし銀の味」といわれた。門下に羽根泰正王座、山城宏9段ら。 |
6.25日、第4回日中天元戦「林海峰-聶衛平」。 林が2勝0敗で優勝した。 |
6月、第46期本因坊戦「本因坊・趙治勲-小林光一」。 |
7.18日、●●○○○○の4-2で趙本因坊が防衛。3年連続タイトル防衛(通算5期)。 |
7月、第16回碁聖戦「小林光一-小林覚8段」。 小林が3-2で優勝する。 |
8.3日、第4回世界選手権富士通杯。趙治勲が不戦勝優勝。決勝戦は8.3日午前10時から東京・芝の東京プリンスホテルで打たれることになっていたが、8.1日昼前、中国囲棋協会から読売新聞社に「銭宇平が突然発病し、頭痛が激しいので入院治療の必要があり、決勝戦には出場できない」との連絡があった。しかし競技規定には「対局時刻」の項に「遅刻が30分を超えた場合は不戦敗とする」としか決めていないので、3日午前10時30分、趙治勲の不戦勝と初優勝が正式に決定した。不戦勝、不戦敗は、世界囲碁選手権・富士通杯では初めて。また3位決定戦の小林光一も、2日昼すぎから40度を超す熱で対局場に現れず、規定により午前10時30分、不戦勝で王立誠の3位が決定した。 |
8.10日、第2回日本コンピュータ囲碁選手権大会開かれる。 |
8.18日、第1回竜星戦、趙治勲9段が初の竜星位に。第1回竜星戦「趙治勲-石田芳夫」。趙治勲が初の竜星位に就いた。 |
8.26日、第13期女流鶴聖戦「青木喜久代4段-宮崎志摩子2段」。青木喜久代4段が初の女流鶴聖位に。 |
8.27日、第3回テレビ囲碁アジア選手権戦「武宮正樹(日本)-曹大元(中国)」、武宮*番勝、3連覇した。 |
8.27日、第16期碁聖戦「小林光一-小林覚」。 小林光一が3勝2敗で4連覇した。 |
8月、第16期名人戦「名人・小林光一-林海峰」。 小林名人が4-1で防衛。 |
9.13日、上村邦夫8段が9段に昇段。 |
9.16日、第16期新人王戦「趙善津6段-柳時熏4段」、趙善津が*番勝、初優勝した。 |
9.28日、第24回早碁選手権戦「趙治勲-結城聡7段」、趙治勲*番勝、2年連続、3度目の優勝。 |
9月、囲碁将棋チャンネル主催の竜星戦が開始する。「趙治勲-石田芳夫」が争い、趙が第1回優勝者となる。 |
10.24日、第16期名人戦「小林光一-林海峰」。 小林が4勝1敗で4連覇(通算5期)を達成した。 |
10.28日、第39期王座戦「藤沢秀行-羽根泰正」。 藤沢が3勝1敗で勝ち、史上最高齢66歳で王座タイトルを獲得した。 |
11.3日、藤沢朋斎が勲四等旭日小綬章を授章。 |
11.7日、第32期王冠戦「小県真樹-羽根泰正」、小県*番勝、4連覇した。 |
11.10日、第10期女流本因坊戦第1局が女流棋戦初の海外対局(ハワイ・ホノルル市)となった。 |
12.2日、第10期女流本因坊戦「中沢彩子2段-小林千寿5段」。 中沢が2勝1敗で20歳で初防衛に成功した。 |
12.12日、第4回日中名人戦「小林光一-馬暁春」。 小林が2勝0敗で勝ち4連覇を達成した。 |
12.19日、第17回天元戦「天元・林海峯-加藤正夫」。 林が3-1で3連覇した。 |
第13期鶴聖戦で武宮が優勝。 |
第3回テレビアジア杯で武宮が優勝。 |
第10回NECカップ「加藤正夫-大竹英雄」、加藤*番勝、優勝した。 |
第29回秀哉賞に小林光一(棋聖、名人、碁聖)が選ばれた。 |
第26(再19)回1991日中囲碁交流戦(日中囲碁決戦)の戦績は次の通り。日本代表団団長・丸山元弘読売事業開発部次長、森山直棋七段(7-0)、中小野田智巳五段(4-3)、柳時熏四段(4-2-1)、楊四段(2-5)、榊原史子三段(0-7)、関山利道三段(2-5)、宮崎龍太郎三段(0-7)、中澤彩子初段(1-6)、総戦績20-35-1。 |
1992(平成4)年 |
1.7日、東京駅八重洲口わきの国際観光会館5階にある日本棋院中央会館が全面改装されて、「八重洲囲碁センター」として新たにオープンした。碁盤が100面から130面に増えた。(2002.5.25日閉館) |
1.13日、藤沢朋斎9段が現役を引退した。 |
1.27日、第3回東洋証券杯世界選手権戦「李昌鎬5段(韓国、16歳)-林海峰」。 李昌鎬が3勝2敗で優勝。16歳6ヶ月、史上最年少の世界チャンピオンが誕生した。 |
2.5日、第4期女流名人戦で「杉内寿子8段-青木喜久代5段」。 杉内が2勝0敗で3連覇を達成した。 |
2.13日、坂田栄男が1000勝を達成した。史上初めて。達成時の年齢は71歳11ヶ月。 |
2.17日、IGS誕生。世界初のインターネット囲碁サーバIGS(Internet Go Server)が米国・ニューメキシコ州立大学で無料で稼動した。設計者はTim Casey、管理人はtweetであった。 |
3.2日、第14期鶴聖戦「林海峰-大竹英雄」、林*番勝、2度目の優勝をした。 |
3.7日、第11期NEC杯「加藤正夫-小林光一」、加藤*番勝、2連覇した。 |
3.15日、中国棋院、完成:中国の棋類(囲碁、中国象棋、チェス)活動の拠点になる中国棋院(天壇東路)が完成、落成記念式が行われた。日本から関西棋院・橋本宇太郎理事長夫妻や日本棋院・大枝雄介常務理事ら中国各地から約350人が出席した。 |
3.19日、第16期棋聖戦「棋聖・小林光一-山城宏」。 小林光一が●●○○●○○の4-3で7連覇を達成した。 |
3月、第39期NHK杯「趙治勲-王立誠」、趙*番勝、優勝。 |
3.29日、第22期新鋭トーナメント戦「趙善津6段-大矢浩一7段」。趙善津が初優勝した。 |
4.20日、王銘宛8段が9段に昇段。 |
4.29日、日中の国交回復と同時に始まり第20回大会を迎えた日中囲碁交流戦が今回で終了した。最後の3回は若手交流戦だったが3年連続の負け越しであった。 |
4月、第30回十段戦「十段・武宮正樹-小林光一棋聖」。 武宮が3-1で3連覇した。 |
5.5日、8段在籍18年という日本棋院の最長記録を持っていた大枝雄介8段(57歳)が9段に昇段した。 |
5.19日、日韓コンピューター通信囲碁対抗戦開催。日本棋院と韓国棋院は共同で「日韓コンピューター通信囲碁対抗戦」を東京と韓国・ソウルを結んで行われ、日本チームは3人とも敗れた。石田芳夫は曺薫鉉に半目、石倉昇8段は張秀英8段に、M・レドモンド7段は梁宰豪7段に、それぞれ中押負した。持ち時間は各1時間半。 |
5.29日、宮沢吾朗8段(42歳)が9段に昇段した。 |
6.20日、第5回日中天元戦「聶衛平-林海峰」。 聶衛平が2勝0敗で中国初勝利を飾った。 |
6月、第47期本因坊戦「本因坊・趙治勲-小林光一」。 7.23日、趙治勲が3連敗後4連勝(●●●○○○○の4-3)で大逆転し4連覇した。 |
7.2日、今年初めから負けなしの24連勝を続けていた関西棋院の結城聡7段(20歳)に土がついた。負かしたのは陳嘉鋭7段。同棋院の大手合がその舞台。これまでの記録は昭和38年から39年にかけて坂田栄男が作った29連勝、単年では1977年、林海峰の24連勝だが、結城7段は林の記録に並んだ。 |
7.15日、アメリカ在住の江鋳久(30歳、陳祖徳、轟衛平、馬暁春、曹大元に続く中国5人目の9段)が、第2回応昌期杯世界プロ囲碁選手権に招かれて来日、内廼偉(28歳)と2年ぶりに再会したのを機会に日本で結婚した。二人は中国在住当時は恋人同士だった。内廼偉の言は次の通り。「法律的なことは別にして結婚しました。いずれ私が彼の住んでいるサンフランシスコに行くでしょう」。 第2回応昌期杯は、天安門事件との絡みで中国の主力、8点(日本式では7目半)コミ問題で日本の一部(小林光一名人、加藤正夫)が出場しなかったが、内廼偉が1回戦で小松英樹、2回戦で韓国の李昌鎬、3回戦で韓国の梁宰豪を倒し大会を盛り上げた。 |
7月、第17回碁聖戦「小林光一-小林覚8段」。 小林光一が3-1で優勝する。 |
8.1日、第5回世界選手権富士通杯「大竹英雄(日本)-王立誠(日本)」、大竹*番勝、初優勝した。 |
8.16日、第2回竜星戦「大竹英雄-趙治勲」、大竹*番勝、初優勝した。 |
8.18日、趙治勲9段がが初めて内弟子を取った。韓国ソウル市出身の金秀俊君(13歳)と同水原市出身の金光植君(12歳)の2人で10月から日本棋院の院生になる。趙本因坊はガレージをつぶして内弟子の部屋を作り、「2人とも天才ではないかもしれないけど秀才は間違いなし。頑張り屋だし…」と期待している。 |
8.26日、第17期碁聖戦「碁聖・小林光一-小林覚」。 小林光一が3勝1敗で5連覇した。 |
8月、第17期名人戦「名人・小林光一-大竹英雄」。小林光一名人が兄弟子・大竹英雄を挑戦者に迎え、第7局では、終盤まで劣勢であった小林がヨセでワリコミの妙手を放ち逆転に成功。この一局は名人戦史上に残る名勝負といわれる。この時、大竹が、何度もトイレに駆け込み、尋ねられた時に「吐き気を催さないような碁は碁じゃないんだ」の言を遺している。結果、4-3で小林名人が防する。 |
9.5日、第4回テレビ囲碁アジア選手権戦決勝戦「武宮正樹(日本)-曺薫鉉(韓国)」、武宮*番勝、4連覇した。 |
9.9日、世界初のインターネット中継。日本の第17期名人戦挑戦手合7番勝負第1局がオランダの首都Amsterdamで行われ、オランダの囲碁ファンJansteenなどにより棋譜が入力され、IGS(Internet Go Server)上で初めてプロ対局が中継され、世界の100人以上の囲碁ファンがプロ棋戦を観戦した。 |
9.21日、第14期女流鶴聖戦「青木喜久代5段-吉田美香5段」、青木*番勝、2連覇した。 |
9.29日、第17期新人王戦「小松英樹8段-Mレドモンド7段」。 小松が2勝0敗で2度目の新人王になった。 |
9月、第2回竜星戦「大竹英雄-趙治勲」、大竹*番勝、優勝する。 |
10.25日、第25回早碁選手権戦「趙治勲-王立誠」、趙*番勝、3連覇。 |
10月、第40期王座戦「藤沢秀行-小林光一」。藤沢が小林の挑戦を3勝2敗で退けた。67歳での七大タイトル獲得は最年長記録。50代でがんを患い、その後も大病を繰り返していて体力的には厳しかったが節制して対局に臨んだという。 |
11.3日、坂田栄男が文化功労者に。 |
11.5日、第33期王冠戦で羽根泰正が9年ぶりに王冠位を奪還した。 |
11.12日、第17期名人戦「名人・小林光一-大竹英雄」。 小林が4勝3敗で5連覇を達成した。 |
11.24日、第11期女流本因坊戦「中沢彩子3段-加藤朋子初段」。 加藤が2勝0敗でタイトルを奪取した。 |
11.25日、第40期王座戦「藤沢秀行(67歳)-小林光一」。 藤沢が3勝2敗で王座となり、最高齢タイトル記録を更新した。 |
11.26日、関西棋院第1位決定戦「清成哲也(30歳)-倉橋正蔵8段」。 第3局で、清成が白番1目半勝ちし2勝1敗で初優勝した。 |
12.9日、日本、中国、韓国による三国対抗戦「第1回真露杯世界囲碁最強戦」(農心杯の前身)がソウルで開幕。結果は韓国、日本、中国の順となった。 |
12.9日、第18回天元戦「天元・林海峯-山城宏」。 林が3-1で4連覇を達成した。 |
12.18日、第5回日中名人戦「馬暁春-小林光一」。 馬が2勝1敗で中国側初勝利を飾った。 |
第4回テレビアジア杯で武宮が4連覇。 |
小林覚がIBM早碁オープン戦優勝。 |
第11回NECカップ「加藤正夫-小林光一」。加藤が優勝した。 |
第30回秀哉賞に小林光一(棋聖、名人、碁聖)が選ばれた。 |
この年、10.22日、財団法人関西棋院(橋本宇太郎理事長)と家主の日本文化会館(大阪市中央区北浜二、佐藤全社長)が家賃の値上げをめぐって争っていた訴訟が大阪地裁民事9部で和解が成立した。家賃は従来通りの月額1万円、11月から別に維持管理費として同19万円を会館側に払うことで提訴以来3年半ぶりに決着した。会館は、昭和43年8月、関西棋院と後援者が出資して建てた。地上9階、地下2階建てで、うち7階294平方メートルを関西棋院が対局場に使用し、「賃料は月1万円、公租公課や近隣賃料が変動しても増減しない」とする20年間の賃貸契約を交わしていた。昭和62年3月、大阪国税局が「正当な賃料は最低月50万円」とし、その半分を会館の収入として課税したため、会館側は同年6月から月25万円に値上げすると通告していた。 |
この年、11.10日、宗教法人「阿含宗」(桐山靖雄管長)が「囲碁の普及に役立ててほしい」と日本棋院に5000万円の寄付をした。 |
この年、5.9日、岩本薫が私財を寄付した「岩本基金」でブラジル、オランダのアムステルダムに囲碁会館「ヨーロッパ囲碁文化センター」を建てている。ヨーロッパの囲碁普及の拠点にと開設した。開設式には岩本薫9段ら日本棋院所属のプロ棋士が多数出席して指導碁会が行なわれた。オランダの日本間は「薫和」と名付けられている。 |
この年、5.18日、杉内雅男が勲四等旭日小綬章を授章。 |
この年8.2日、日本で初めて囲碁9段になった藤沢朋斎(旧名庫之助)さんが、胃カイヨウのため神奈川県の病院で亡くなった(享年73歳)。タイトル獲得数は7、藤沢秀行王座は叔父にあたる。 |
この年8.20日、鯛中新9段(関西棋院)が死去(享年80歳)。 |
この年9.2日、関山利夫(関西棋院)が死去(享年55歳) 。 |
この年10.10日、田中三七一7段(たなか・みないち、日本棋院所属)が心不全のため東京都世田谷区の病院で死去(享年88歳)。武宮正樹の師匠として知られる。 |
第27(再20)回1992日中囲碁交流戦(日中囲碁決戦)の戦績は次の通り。中国代表団団長・李桂明、馬石(0-2 森田道博)、方捷(1-2 三村智保)、邵煒剛(2-1 楊嘉源)、楊士海(0-2 大森泰志)、常昊(2-0 有村比呂司)、趙棟(2-1 加藤充志)、羅洗河(1-2 高尾紳路)、葉桂(2-0 青木喜久代)、総成績32-24 。1992年の第20回で終了した。 |
1993(平成5)年 |
2.3日、第6期女流名人戦「女流名人・杉内寿子8段-小川誠子5段」。 2勝1敗で杉内が4連覇した。 |
3月、第40期NHK杯「依田紀基8段-加藤正夫」、依田*番勝、優勝した。 |
2-4月、第17期棋聖戦「棋聖・小林光一-加藤正夫」。 小林棋聖が●●○●○○○の4-3で防衛。小林光一が名人、碁聖各6連覇。 |
4.17日、新聞21社、テレビ3局で構成する関西囲碁将棋記者クラブが「関西囲碁将棋記者クラブ賞」を新設、平成4年度の成績を基準に選考し、将棋の谷川浩司9段と囲碁の結城聡7段を選んだ。結城7段は8割を超える勝率が決め手になった。 |
4.26日、関西棋院・橋本理事長が高齢で辞任。財団法人関西棋院は、高齢を理由に辞意を表明していた橋本宇太郎理事長(86歳)に代行を置くことを決め、水田ノブ博総務担当理事・9段(55歳)を理事長代行に選んだ。 4.27日、朝田静夫・前理事長が日本棋院総裁に。財団法人・日本棋院は代議員会を開き、朝田静夫・前理事長(81歳)を第7代総裁として選出した。 |
4月、第31回十段戦「大竹英雄-武宮正樹」。 大竹が3-1で優勝した。 |
依田紀基がテレビ囲碁アジア選手権戦優勝。9段になる。 |
6月、第48期本因坊戦「本因坊・趙治勲-山城宏」。 趙本因坊が○●○○○の4-1で防衛。 |
7月、第18回碁聖戦「小林光一-林海峯」。 小林光一が3-0で優勝する。 |
8.20日、台湾出身の鄭銘コウ8段(30歳)が9段に昇段した。昭和53年に来日し、富田忠夫8段門下。王銘ワンは実兄、鄭銘キ6段は実弟。兄弟棋士は小林千寿、覚、健二、孝之四兄弟ら数多いが、9段2人は石井衛、邦生兄弟、宮本直毅、義久兄弟に次いで3組目。外国出身では初めて。 |
8月、第6回世界選手権富士通杯「劉昌赫(韓国)-曺薫鉉(韓国)」。劉昌赫が優勝。 |
8月、第18期名人戦「名人・小林光一-大竹英雄」。 小林名人が4-1で防衛。 |
第49期本因坊リーグ戦「林海峰-小松英樹8段」。 |
9.23日、第1局で、公式戦史上初の「長生」(ちょうせい)無勝負が成立した。無勝負はトーナメント戦では打ち直しが規則。ただしリーグ戦はそのままで半星扱いとすることになった。 |
9月、第3回竜星戦「趙治勲-柳時熏」。趙が優勝する。 |
10.1日、小県真樹8段が9段に昇段。中部総本部の9段棋士の7人目。 |
10月、第41期王座戦「王座・藤沢秀行-加藤正夫」。 加藤が藤沢を3連勝で破り4期ぶりの王座に返り咲いた。通算11期となり、のちに「やはり相性が良かったということなのでしょうか」と振り返っている。 |
10.29日、依田紀基8段が9段に昇段。 |
12月、第19回天元戦「林海峯-片岡聡」。 林が3-1で優勝。 |
第12回NECカップ「依田紀基-加藤正夫」、依田*番勝、優勝した。 |
第31回秀哉賞に小林光一(棋聖、名人、碁聖)が選ばれた。 |
この年1.3日、増淵辰子8段、死去(享年88歳)。門下に坂田名誉本因坊、大窪一玄9段ら。 |
1994(平成6)年 | |
3月、第41期NHK杯「大竹英雄-加藤正夫」。大竹が優勝した。 | |
2-4月、第18期棋聖戦「棋聖・小林光一-趙治勲」。 趙治勲が●○○○●○の2-4で新棋聖になる。翌年小林覚に奪われるも、翌々年再び奪還、以後4連覇する。 |
|
4月、第32回十段戦「大竹英雄-小林光一」。 大竹が3-2で優勝した。 |
|
6月、第49期本因坊戦「本因坊・趙治勲-片岡聡」。 趙本因坊が4-3で防衛。 |
|
7月、第19回碁聖戦「林海峯-小林光一」。 林が3-1で優勝する。 |
|
7月、第19期名人戦が「小林光一-林海峰」で争われた。 7.24日、小林名人が4-0で防衛、名人七連覇。 |
|
8.4日、林海峰9段が1000勝達成。史上2人目。達成時の年齢は52歳2ヶ月。 | |
8月、第7回世界選手権富士通杯。「曺薫鉉(韓国)-劉昌赫(韓国)」で曺薫鉉が優勝。 | |
9.4日、第4期竜星戦決勝戦「森田道博7段(23歳)-林海峰(52歳)」、森田*番勝、初優勝した。 | |
10月、第42期王座戦「趙治勲-加藤正夫」。 趙が3-2で優勝した。 |
|
11.20日、日本棋院創立70周年を記念してアマ7段を創設。 | |
11.19-20日、東京ドーム・プリズムホールで開かれる段位認定大会に7段戦が登場、優勝者に7段が贈呈された。アマ7段は、これまで世界アマ代表など限られた人しか与えられなかった。アマ段位のインフレを助長する懸念が生まれた。 | |
12.8日、第20回天元戦。柳時熏6段が天元戦挑戦者となり、「心の底から尊敬する」という林海峰天元との五番勝負に向かった。「天元・林海峯-柳時熏(りゅうしくん)6段」。柳が、23歳の誕生日である12.8日の4局目に勝って3-1とし天元位を獲得した。史上最年少で天元となる。趙治勲の18歳、石田芳夫の21歳に次ぎ、林海峰と並ぶ23歳でのビッグタイトル獲得は年少記録としてベスト3に入る快挙。また入段から6年8ヶ月での七大タイトル獲得は史上最短記録となった。直後のインタビュ-での柳の言葉。
|
|
大竹英雄がテレビ囲碁アジア選手権戦で優勝。 | |
第1回阿含・桐山杯「王立誠-趙治勲」。王が優勝する。 | |
第13回NECカップ「小松英樹-趙治勲」。小松が優勝した。 | |
第32回秀哉賞に趙治勲(棋聖、本因坊、王座)が選ばれた。 | |
この年1.24日、日本棋院関西総本部副本部長・藤田梧郎7段が死去(享年91歳)。門下に林海峰9段、坂口隆三9段ら。 | |
この年2.2日、安永一氏(囲碁評論家)が逝去した(享年92歳)。昭和7年、編集者として日本棋院に入り、翌8年、木谷実、呉清源両氏の編み出した“新布石法”に理論的体系を与えた著書「新布石法」、「実戦新布石」を刊行、囲碁界に革命的新風を吹きこんだ。日本棋院を去った後は、在野の立場から伝統的な棋界の考え方に鋭い論評を加え続け、またアマチュア棋士としては78歳で世界選手権の日本代表になり3位に入賞するなど囲碁界の名物男だった。日中囲碁交流にも貢献、日中友好協会理事を務めた。プロ棋士の門下生として小松英樹8段、石毛嘉久夫7段らがいる。 | |
この年7.24日、関西棋院の総帥で囲碁界現役最長老の橋本宇太郎9段が亡くなった(享年87歳)。 | |
橋本宇太郎9段履歴 | |
大正9年、大阪から上京し、瀬越憲作5段(のち名誉九段)門下となり、大正11年初段、昭和29年に9段となる。昭和18年、関山利仙本因坊からタイトルを奪い、本因坊昭宇と号し、昭和19年に疎開で関西に戻った。昭和25年に本因坊位を持ったまま日本棋院から独立して関西棋院を創設。昭和28年、新設の王座戦に優勝して第1期王座に、昭和37年には初代の十段位も獲得した。生涯に得たタイトルは本因坊、王座各3回、十段、NHK杯争奪トーナメント各2回など。昭和44年に紫綬褒章、昭和52年に勲三等旭日中綬章を受章。昭和60.5月から平成5.4月まで関西棋院の理事長を務めた。 |
1995(平成7)年 |
3月、第42期NHK杯「小林覚-清成哲也」。小林が優勝した。 |
2-4月、第19期棋聖戦「棋聖・趙治勲-小林覚」。 小林覚が○●○●●●の2-4で新棋聖になる。 |
4月、第33回十段戦「十段・大竹英雄-依田紀基」。 依田が3-0で優勝し、初の番碁で十段位を奪取した。以後2連覇する。 |
5.24日、第6回東洋証券杯世界選手権戦「馬暁春-聶衛平」。 決勝5番勝負第4局で馬暁春が聶衛平9段を下し、3勝1敗で優勝した。自身初の世界戦優勝であると同時に中国初の国際棋戦優勝となった。 |
6月、第50期本因坊戦「本因坊・趙治勲-加藤正夫」。 趙本因坊が○●○○○の4-1で防衛。 |
7.1日、日本棋院米国西部囲碁センター(シアトル)開館。 日本棋院ニューヨーク囲碁センター開館。岩本薫9段の寄付金をもとに日本棋院はニューヨークに「ニューヨーク囲碁センター」を開設した。(2010.11.30日に閉館となった) 。 |
7月、第20回碁聖戦「小林覚-林海峯」。 小林が3-2で優勝する。 |
8月、第8回世界選手権富士通杯「馬暁春(中国)-小林光一(日本)」。馬暁春が優勝。 |
8月、第20期名人戦「名人・小林光一-武宮」。 第5局、武宮は攻め合い負けと見えた石を第一線マガリの妙手で逆転。小林は局後に「恐ろしいものを見た」と何度もうめいたといわれる。この局も名人戦史上に残る一番として名高い。4-1で武宮が初の名人位に就く。「木谷三羽烏」と呼ばれながら名人戦に縁のなかった武宮正樹が小林の8連覇を阻んだ。 |
9.14日、第17期女流鶴聖戦「小林千寿5段-中沢彩子3段」、中沢*番勝、初優勝した。 |
10月、第43期王座戦「王座・趙治勲-王立誠」。 王が3-0で優勝し初タイトルを獲得した。 |
12.1日、韓国で囲碁専門チャンネル創設。韓国棋院は囲碁ファンの要望に応えて韓国棋院内に囲碁専門チャンネルを創設した。 |
12月、第21回天元戦「柳時熏6段-小林光一」。 柳が3-2で優勝。 |
第2回阿含・桐山杯「加藤正夫-小林覚」。加藤が優勝する。 |
第14回NECカップ「小林光一-趙治勲」。小林が優勝した。 |
結城聡が早碁選手権戦の決勝で林海峰に勝って初タイトル。 |
第33回秀哉賞に小林覚(棋聖、碁聖)が選ばれた。 |
1996(平成8)年 |
3.6日、第8期女流名人戦「加藤朋子4段-西田栄美4段(26歳)」。西田が初優勝した。 |
3.24日、第26期新鋭トーナメント戦「羽根直樹5段(19歳)-三村智保7段」。羽根が初優勝した。 |
3月、第43期NHK杯「小林覚棋聖-趙治勲」。趙が優勝した。 |
2-4月、第20期棋聖戦「棋聖・小林覚-趙治勲」。 趙治勲が○●●●○○●の3-4で新棋聖を奪還する。 |
4月、第34回十段戦「十段・依田紀基-王立誠」。 3-1で依田が優勝し初防衛した。 |
5.23日、加藤正夫が1000勝達成した。史上3人目。達成時の年齢は49歳2ヶ月。 |
6.15日、若手の育成を目的に小林礼子6段が創設した第5回鳳雛戦で秋山次郎5段が蘇耀国4段を下し、優勝した。 |
6月、第51期本因坊戦。柳時熏7段が、本因坊戦リーグ5-2でプレーオフを制し、石田芳夫以来25年振りにリーグ初参加で挑戦者となる。 「本因坊・趙治勲-柳時熏」。 趙本因坊が4-2で防衛。 |
7月、第21回碁聖戦「依田紀基-小林覚」。 依田が3-0で優勝する。 |
8月、第9回世界選手権富士通杯「李昌鎬(韓国)-馬暁春(中国)」。李昌鎬が優勝。 |
8月、第21期名人戦。趙治勲が12年ぶりに名人戦の舞台に登場した。趙は棋聖に復帰、本因坊戦で8連覇の二冠を保持して今期の名人戦に臨んだ。 |
碁聖戦「小林覚-趙治勲」。 3-0で趙治勲が碁聖を奪取した。以後三連覇。 |
9月、第5回竜星戦「小林覚-中小野田智己」。小林が優勝する。 |
10.22日、1990.9月に来日し、日本での公式戦参加の道を閉ざされ続けた内廼偉が、来日後に結婚した中国国家チームの先輩・江鋳久と米国に向け飛び立った。米国にプロ組織を設立し米国代表として世界選手権に出場するのが目的であった。 |
10月、第44期王座戦「柳時熏7段-王立誠」。3-0で柳が優勝した。柳時熏が王座を獲得し天元と合わせて2冠となる。同じ2冠の趙治勲、依田紀基と並び三強とも呼ばれた。90年代後半に入ってからは、ようやく衰えを見せた木谷一門に代わり若手が活躍を始めた。趙、小林の活躍とともに王立誠、依田紀基、王銘エンらが覇権を争う。 |
11.7日、第21期名人戦「名人・武宮正樹(45歳)-趙治勲(40歳、棋聖)」。趙治勲が名人復帰を果たし、以降4連覇する。これにより棋聖、本因坊、名人の大三冠を達成した。趙棋聖の“大三冠”は、名人、本因坊だった1983年、藤沢秀行棋聖(現在名誉棋聖)を下して棋聖になって以来2回目。しかしその時は、同年の本因坊戦で防衛に失敗し5ヶ月で終わっている。 |
12月、第22回天元戦「柳時熏6段-林海峯」。 柳が3-2で優勝。 |
第3回阿含・桐山杯「加藤正夫-依田紀基」。加藤が優勝する。 |
第3回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦「劉昌赫(韓国)- 依田紀基(日本)」。 3-1で劉昌赫が優勝した。依田の準優勝。 |
第1回三星火災杯世界オープン戦「依田紀基 -劉昌赫(韓国)」。 依田が2-1で世界戦初優勝。 |
第15回NECカップ「大竹英雄-林海峰」。大竹が優勝した。 |
この年、朝田総裁退任。90年代後半に入ってからは、ようやく衰えを見せた木谷一門に代わり依田紀基・王立誠らの若手が活躍を始めた。 |
第34回秀哉賞に趙治勲(棋聖、名人、本因坊)が選ばれた。 |
この年、3.3日、「囲碁データベース」誕生。日本で第3番目の囲碁サイトとして「囲碁データベース」が開設された。日本棋院『情報会員』サービス開始。 |
4.16日、小木谷実の娘で小林光一夫人の小林礼子6段が死亡した。実娘は小林泉美。 |
この年、羽生善治九段(当時25歳)が七冠達成。1991年に初タイトルを獲得して以降、27年に渡りタイトルを保持し続け、2023年10月時点の通算獲得タイトル数は99期。 |
1997(平成9)年 |
3月、第44期NHK杯「王立誠-小林光一」。王が優勝した。 |
3.22日、第3期JT杯・星座囲碁選手権戦で、依田紀基9段(碁聖)が柳時熏7段(天元)を下して初優勝した。 |
2-4月、第21期棋聖戦「趙治勲-小林覚」。 趙棋聖が○○●○○の4-1で防衛。趙治勲、高川秀格の九連覇を超える本因坊十連覇達成。 |
4.1日、日本棋院ホームページ開設が開設された。 |
4.21日、関西棋院の結城聡8段(27歳)が9段に昇段した。 |
4月、第35回十段戦「十段・依田紀基-加藤正夫」。 加藤が3-2で優勝した。 |
5.1日、光の碁採録名局・第22期名人戦リーグ「依田紀基碁聖-林海峰九段」、白半目勝ち(コミ5目半)。名局の誉れが高い。 |
5.15日、第9回テレビ囲碁アジア選手権戦決勝戦「兪斌(中国)-王立誠(日本)」。兪斌が初優勝した。中国棋士としては初めての優勝となる。 |
5.15日、日本棋院中部総本部所属の中野寛也8段(27歳)が9段に昇段した。 |
6.1日、韓国の大学に囲碁学科誕生。韓国の明知大学体育学部に囲碁を学問として研究する囲碁学専攻が創設された。主任教授には韓国棋院の鄭壽鉉九段が就任した。 |
6月、第52期本因坊戦「本因坊・趙治勲-加藤正夫」。 趙本因坊が○○○○の4-0で防衛。 |
7月、第22回碁聖戦「碁聖・依田紀基-結城聡」。 依田が3-1で優勝、防衛する。 |
8月、第10回世界選手権富士通杯「小林光一(日本)-王立誠(日本)」。小林が優勝。 |
8月、22期名人戦「名人・小林光一-趙治勲」。 2-4で趙治勲が11年ぶりに名人奪取 (以後4連覇)、二度目の大三冠達成。翌年も保持。 |
8.27日、応昌期氏死亡(享年85歳)。台湾の中国囲棋会会長・応昌期(おう・しょうき)氏が大腸ガンのため台北市の病院で死亡した(享年85歳)。台湾の囲碁普及のため「応昌期囲棋教育基金会」を設立し、1984年に世界青少年囲碁大会を創設、1986年には4年に1回開催される「応氏杯世界プロ囲碁選手権戦」を創設し、1990年にはヨーロッパ応氏杯大会と北米応氏杯大会を創設する等、国際化に努めた。 |
8.28日、日中囲碁対抗戦にならって1994年から始まった中韓囲碁対抗戦第4回大会を終了し、中国が韓国に9勝5敗して優勝、通算3勝1敗とした。中韓囲碁対抗戦は1998年、韓国のIMF不況の影響で終了となった。 |
9月、第6回竜星戦「小林光一-小松英樹」。小林が優勝する。 |
10月、第45期王座戦「山田規三生7段-柳時熏7段」。25歳の同年齢対決となり、「ぶんぶん丸」の山田が3勝1敗で柳を制した。関西では橋本昌二王座以来のタイトルで、日本棋院関西総本部の所属棋士では発足から初めてとなった。 |
12.4日、第23期天元戦第3局で、白番の挑戦者・工藤紀夫九段は202手目にコウダテをせずコウを取る反則を犯し反則負けした。1988.10.27日の第36期王座戦第1局で武宮正樹がコウダテをせずコウを取る反則負けをして以来4度目の出来事。 |
12.15日、第23回天元戦「工藤紀夫(57歳)-柳時熏7段」。 工藤が3-1で優勝。 |
第4回阿含・桐山杯「依田紀基-加藤正夫」。依田が優勝する。 |
依田紀基が第3期JT杯星座戦初優勝。 |
第16回NECカップ「加藤正夫-小林覚」。加藤が優勝した。 |
第1回任天堂子ども囲碁大会開催。 |
林海峰が中華民国暦86年のこの年、台湾に海峰囲棋基金会を創設し、アマチュアの大会の主催など囲碁の普及や、棋士の育成にも力を注ぐ。 |
第35回秀哉賞に趙治勲(棋聖、名人、本因坊)が選ばれた。 |
【韓国ソウルにある明知大学が世界で初めての囲碁学科を設置】 |
1997(平成9)年、韓国ソウルにある(?)明知大学が世界で初めての囲碁学科を設置した。現在は学士だけでなく、修士、博士も取得できるため世界中から学生が集まっている。囲碁学科は1学年が30人。4学年で120人位が在籍している。修士課程には中国人が多い。トルコやヨーロッパからも来ている。囲碁学科では囲碁教育論、囲碁史、文化論などがあり、囲碁実習もある。日本の大学の体育学科で実技があるのと同じ。囲碁学科を卒業すると雑誌やインターネットの記者、囲碁道場の運営をする人などが多い。韓国では囲碁を専門に教える高校もある。日本に商業高校や工業高校があるのと同じ。 日本でも囲碁を学校教育に取り入れるところが散見されるが、その数も少なく、あくまでもクラブ活動の一環位にしか考えられていない。日本棋院などの囲碁関連団体、文科省などを連携して、もっと囲碁の普及に系統的に取り組まないと益々世界に立ち遅れてしう。(「立ち遅れている日本の囲碁!」) |
1997年、韓国の明知大学(京畿道龍仁市処仁区南洞山38-2)に世界史上初の囲碁学科が設置された。正式名称は「明知大学校・芸体能大学囲碁学科」。前年の1996年、李昌鎬9段が初めて富士通杯で優勝している。以降、韓国が国際棋戦を席巻し始め、続く中国棋界の隆盛、中韓決戦へと続く。明知大学囲碁学科史はその時期と重なる。 同学部の1学年は凡そ20名、学部全体で100名ほどを受け入れる少数精鋭制を敷いている。韓国人だけでなく世界各国からの学生もいる。大学院では修士号、博士号を取得することができる。学生たちは、囲碁の技能のみならず、囲碁史、囲碁教育論などを学び、将来の囲碁界リーダーを期待されつつ研鑽を続けている。同学科教授は韓国棋院所属棋士でもある南治亨(ナム・チヒョン)、鄭寿鉉教授はじめほか数名。中国の上海外国語大と交流が深い。 |
1998(平成10)年 |
3.2日、林海峰9段が史上初の通算1100勝を達成した。 |
3.14日、第4回JT杯星座選手権戦で、若獅子・加藤充志6段(23歳)が趙治勲大三冠を倒し優勝した。 |
3月、第45期NHK杯「依田紀基-本田邦久」。依田が優勝した。 |
2-4月、第22期棋聖戦「趙治勲-依田紀基」。 趙棋聖が○○○●●○の4-2で防衛。 |
4.4日、囲碁将棋ジャーナル、放送開始。NHK衛星放送第2で土曜日昼に囲碁情報番組「囲碁将棋ジャーナル」が始まった。初代の囲碁の司会者は小山竜吾五段だった。 |
4.23日、第36期十段戦「加藤正夫-彦坂直人(36歳)」。 彦坂が3-2で初優勝し、初タイトルを獲得した。 |
6月、第53期本因坊戦「本因坊・趙治勲-王立誠」始まる。 7.13-14日、第6局が茨木県久慈郡大子町「袋田温泉ホテル」で打たれ、趙治勲本因坊が勝ち○○●○●○の4-2で、故高川秀格本因坊の持つ9連覇の記録を38年ぶりに更新し、1989年第44期から1998年第53期まで本因坊位10連覇の偉業を達成した。王立誠の敗者の弁は「力が及びませんでした。いい勉強をさせていただきました」。 |
7月、第23回碁聖戦「碁聖・依田紀基-苑田勇一」。 依田が3-0で優勝、3連覇防衛する。 |
8月、第11回世界選手権富士通杯「李昌鎬(韓国)-常昊(中国)」。李昌鎬が優勝。 |
8月、23期名人戦「名人・趙治勲-王立誠」。 趙名人が4-2(1無勝負)で防衛。 |
第23期碁聖戦「依田紀基-苑田勇一」。 依田が3-0で優勝する。 |
9月、第7回竜星戦「加藤正夫- 趙治勲」。加藤が優勝する。 |
10.5日、第23期新人王戦決勝戦「山下敬吾6段(20歳)-高尾紳路6段(21歳)」。 第3局で、山下が高尾を下し2勝1敗で初優勝した。山下6段は以降、新人王戦4連覇を果たす。 |
10.13日、藤沢秀行名誉棋聖が引退表明した。 |
10.15日、7番勝負史上初の三コウ無勝負。趙治勲名人に王立誠9段が挑戦する第23期名人戦挑戦手合第4局(10月14.15日)で七番勝負史上初の三コウ無勝負が生じた。 |
10月、第46期王座戦「王立誠-山田規三生7段」。王が3期ぶりに王座カムバックを果たした。「逆転の王」との異名通り、王が3局ともやや不利な形勢を持ち前の強腕で逆転勝ちし3-0で山田を制したた。王はこの年から3連覇することになる。 |
11.28日、小林光一が1000勝達成。史上4人目。達成時の年齢は46歳2ヶ月。 |
12.17日、第24回天元戦「工藤紀夫-小林光一」。 小林が3-2で優勝。12年ぶりに天元にカムバックした。 |
12.26日、中国初の世界戦、第1回春蘭杯・世界選手権戦が開幕。日本から6棋士が参加。依田紀基(碁聖・王座)がベスト8進出(北京市「保利大厦」) 。 |
第5回阿含・桐山杯「小林覚-趙治勲」。小林が優勝する。 |
第17回NECカップ「依田紀基-趙治勲」。依田が優勝した。 |
坂田が23世本因坊を名乗ることを認められる(それ以前から9段ではなく名誉本因坊を名乗っていた。23世本因坊となったのは規定変更によるもの)。 |
第36回秀哉賞に趙治勲(棋聖、名人、本因坊)が選ばれた。 |
この年12.11日、大平修三9段が心筋梗塞で死亡した(享年68歳)。 |
1999(平成11)年 |
2.10日、江鋳久、内廼偉夫婦が韓国棋院に客員棋士として迎えられる。 |
2.18日、大竹英雄が1000勝達成した。史上5人目。達成時の年齢は56歳9ヶ月。 |
3.18日、加藤正夫が林海峰に次いで史上2番目となる通算1100勝を達成した。 |
3月、第46期NHK杯「依田紀基-東野弘昭」。依田が優勝した。 |
2-4月、第23期棋聖戦「棋聖・趙治勲-小林光一」。 趙治勲が○○●○●○の4-2で防衛。 |
4.9日、江鋳久、内廼偉夫婦の韓国棋院客員棋士としての生活が開始された。 |
4.23日、杉内寿子8段が女流棋士初の勲四等宝冠章受章。 |
4月、第37回十段戦「十段・彦坂直人-小林光一」。 3-0で小林が初優勝した。小林がさらに碁聖位を獲得する。 |
5.21日、加納嘉徳が逝去した(享年71歳) 。 |
6月、第54期本因坊戦「本因坊・趙治勲-趙善津」始まる。 7-5-6日、第6局が静岡県西伊豆の土肥温泉・玉樟園新井で打たれ、挑戦者の趙善津が勝ち●○●○○○の4-2でタイトル奪取に成功した。趙治勲の防衛記録は10連覇で途絶え、大三冠の一角も崩した。趙善津新本因坊の弁は「えらいことをしてしまった」。 |
7.19日、碁ワールド創刊。棋道と囲碁クラブが統合され碁ワールドが創刊された。 |
7月、第24回碁聖戦「小林光一-依田紀基」。 小林が3-2で優勝する。 |
8.12日、趙治勲が公式戦通算1000勝を達成した。6人目の快挙である。達成時の年齢は43歳1ヶ月。 |
8月、第12回世界選手権富士通杯「劉昌赫(韓国)-馬暁春(中国)」。劉昌赫が優勝。 |
8.25日、世界初のインターネット対局中継。韓国棋院(www.baduk.or.kr)はLG精油杯プロ棋戦決勝5番勝負第1局(徐奉洙9段対劉昌赫9段戦)を世界で初めてインターネットで生中継した。当日は5000余人の韓国囲碁ファンが観戦した。 |
8月、24期名人戦「名人・趙治勲-依田紀基」。 趙名人が4-1で防衛。 |
9月、第8回竜星戦「山田規三生-森田道博」。山田が優勝する。 |
10月、第47期王座戦「王立誠-趙治勲」。 王が3-1で優勝した。 |
11.1日、「日刊囲碁」創刊。日本初の日刊囲碁新聞がインターネット上に創刊される。 |
11.22日、藤沢秀行名誉棋聖が日本棋院からの脱退、及び「秀行塾・塾頭」名で独自の免状発行事業を開始することを記者発表(2003.7.1日に和解復帰) 。 |
12月、第25回天元戦「小林光一-工藤紀夫」。 小林が3-0で優勝。 |
12.14日、日本棋院(利光松男理事長)は、常務理事会において、独自免状の発行を企てたとして藤沢秀行氏の段位剥奪と除名処分を決定する(2003年7月1日に和解復帰) 。 |
第6回阿含・桐山杯「小林光一-高尾紳路6段」。小林が優勝する。 |
依田がテレビ囲碁アジア選手権戦優勝。 |
第18回NECカップ「小林光一-王立誠」。小林が優勝した。 |
第37回秀哉賞に趙治勲(棋聖、名人)が選ばれた。 |
この年、棋道と囲碁クラブが合併、月刊碁ワールド創刊。 |
この年、日本の少年漫画の週刊少年ジャンプ(集英社)の2・3合併号から「ヒカルの碁」が連載開始。少年少女の囲碁熱を掻き立てた。ほったゆみ(原作)と小畑健(漫画)による囲碁漫画で、日本棋院所属の女流棋士・梅沢由香里が監修を務め、2003(平成15)年の33号まで続いた。テレビアニメ、小説、コンピューターゲームなど様々な形でのメディアミックスも行われている。単行本は全23巻(完全版では全20巻)、累計発行部数は2500万部。2000年に第45回小学館漫画賞 、2003年に第7回手塚治虫文化賞新生賞を受賞した。 |
この年11.29日、岩本薫が肺炎のため死去(享年97歳)。 |
2000(平成12)年 |
テレビ棋戦・女流棋聖戦「女流棋聖・小林泉美4段-知念かおり3段」。 3番勝負第2局(サテライトカルチャージャパンスタジオ)が放映され、知念が白番半目勝ちで下し、2勝0敗で初優勝した。 |
2.21日、第43期国手戦「国手・曺薫鉉-内廼偉」。内廼偉が初優勝した。女流棋士が国手を獲得したのは初めて。 |
3.4日、中環集団社長・翁明顕氏が基金を拠出して台湾棋院を創設した。台湾囲碁のプロ職業化に努め、10年以内に国際棋戦で優勝者を出すことを目指す。 |
3月、第47期NHK杯「依田紀基-今村俊也」。依田が優勝した。 |
2-4月、第24期棋聖戦「棋聖・趙治勲-王立誠」。 王立誠が○●○●●●の2-4で新棋聖になる。王立誠が以後3連覇する。 |
4.19日、1998年第3回大会で中断されていた中国囲碁ペア戦の再開が発表された。8組の男女ペアが6.24日から26日まで上海で対戦する。 |
4月、第38回十段戦「十段・小林光一-中野寛也」。 小林が3-0で優勝し防衛。依田紀基がテレビ囲碁アジア選手権戦優勝。 |
6.17日、若手の育成を目的に小林礼子6段が創設した第9回鳳雛戦で河野臨五段が望月研一初段を下し優勝した。1992年に始まった仁風会・鳳雛戦は9回(2000年)をもって終了した。 |
6月、第55期本因坊戦「本因坊・趙善津-王銘琬」。 王銘琬が○●●○●●の2-4で新本因坊になった。 |
7月、第25回碁聖戦「碁聖・小林光一-山下敬吾7段」。 山下が3-2で優勝し初タイトルを獲得する。 |
8月、第13回世界選手権富士通杯「曺薫鉉(韓国)-常昊(中国)」。曺薫鉉が優勝。 |
8月、第25期名人戦「名人・趙治勲-依田紀基」。 4-0で依田が4連覇中の趙を破り、前年の雪辱を果たすとともに初の名人位に就く。これにより名人位が23年ぶりに木谷一門の手から離れることとなった。依田は趙の二度にわたるリターンマッチ、史上最年長での挑戦となった林海峰などを撃破し、以後4連覇する。 |
9月、第9回竜星戦「高尾紳路-高木祥一」。高尾が優勝する。 |
10月、第48期王座戦「王立誠-趙治勲」。 王が3-1で優勝した。 |
12月、第26回天元戦「天元・小林光一-柳時熏7段」。 柳が3局連続半目勝ちし3-0で優勝、天元位に復帰する。 |
12.26日、第3回春蘭杯に出場のため中国に遠征中の小林覚が酒席で柳時熏天元の頬をうち負傷させるという不祥事を起こした。 |
12.31日、日本棋院緊急理事会は、第3回春蘭杯で不祥事を起こした小林覚の引退届を受理せず、2001.12.30日までの1年間の謹慎処分を言い渡した。 |
高尾紳路がNEC俊英戦優勝。 |
山下敬吾が新鋭トーナメント戦優勝。7段昇段。 |
第7回阿含・桐山杯「趙善津-趙治勲」。趙善津が優勝する。 |
第19回NECカップ「趙治勲-加藤正夫」。趙が優勝した。 |
坂田が体力と視力の衰えにより80歳の誕生日をもって引退した。 |
第38回秀哉賞に山下敬吾(碁聖、新人王三連覇他)が選ばれた。 |
この年、2.12日、囲碁・将棋チャンネル(CATV)で放送される |
この年2.5日、山部俊郎9段が死去(享年73歳)。 |
2001(平成13)年 |
3月、第48期NHK杯「石田芳夫-趙治勲」。石田が優勝した。 |
2-4月、第25期棋聖戦「棋聖・王立誠-趙善津」。 王が●○○●○○の4-2で防衛。 |
4.5日、張栩6段(21歳)が第56期挑戦者リーグ戦最終局で挑戦者に決定した。21歳2ヵ月の挑戦は最年少記録。 |
4月、第39回十段戦「十段・王立誠-小林光一」。 3-2で王が優勝。以後4連覇する。 |
6.12日、今春に京大医学部を卒業、医師国家試験にも合格したばかりの坂井秀至(ひでゆき)(28歳)の関西棋院へのプロ入りが認められた。その後7、8月に試験碁が行われ飛付き5段が認められた。 |
6月、第56期本因坊戦「本因坊・王銘琬-張栩」。 王本因坊が●○●○●○○の4-3で防衛。 |
6.28日、日中スーパー囲碁戦、終了。日中プロ棋士各8人の団体勝ち抜き戦として1984年10月に始まった日中スーパー囲碁戦が杭州で打たれた第16回で終了した。中国に爆発的な囲碁ブームをもたらした17年の功績は小さくない。 |
7月、第26回碁聖戦「小林光一-山下敬吾7段」。 小林が3-2で優勝する。 |
8月、第14回世界選手権富士通杯「曺薫鉉(韓国)-崔明勲(韓国)」。曺薫鉉が優勝。 |
8月、第26期名人戦「名人・依田紀基-林海峰」。 依田名人が4-2で防衛、名人二連覇。 |
8.31日、小林覚が2000.12.26日、春蘭杯の最中に引き起こした柳時熏天元頬殴打事件で柳時熏天元と和解し、日本棋院の機関紙「週刊碁」に8.31日付けで「お詫び」を掲載した。和解を受け、日本棋院は小林覚の謹慎期間中の公式戦出場停止処分を9.1日をもって解除した。 |
9月、第10回竜星戦「加藤正夫-張栩」。加藤が優勝する。 |
10.10日、囲碁アニメ「ヒカルの碁」放送開始。子供たちに爆発的人気の「ヒカルの碁」(少年ジャンプに連載中)のテレビアニメ化が決まった。放送開始は10月10日(水)から。夜7時27分から55分まで、テレビ東京系(テレビ東京、テレビ大阪、テレビ愛知、テレビせとうち、テレビ北海道、TVQ九州放送)で。(2003年3月まで放映) 。 |
10月、第49期王座戦「趙治勲―王立誠」。 趙が3-0で優勝した。 |
11.8日、羽根泰正9段(57歳)が公式戦通算1000勝(486敗5引分け)を達成した。7人目。達成時年齢は57歳4ヶ月。 |
12月、第27回天元戦「羽根直樹8段-柳時熏7段」。 羽根が3-1で優勝。 |
第8回阿含・桐山杯「趙善津-王立誠」。趙善津が優勝する。 |
趙治勲が早碁選手権戦優勝。 |
第20回NECカップ「趙治勲-加藤正夫」。趙が優勝した。 |
21世紀に入ってからは張栩、高尾紳路、山下敬吾、羽根直樹の平成四天王がタイトル戦線を割拠する時代に入る。 |
第39回秀哉賞に羽根直樹(天元、最多勝、最多対局)が選ばれた。 |
2002年(平成14年) |
2.1日、李昌鎬9段が通産1000勝達成。徐奉洙、曺薫鉉)に続く国内3人目。1986年入段からわずか16年で1000勝を記録したことになり、これは世界最短記録である。 |
2.20-21日、王立誠棋聖に柳時熏7段が挑戦した第26期棋聖戦7番勝負の第5局(白番王棋聖、黒番柳挑戦者)でダメ詰め事件が発生している(「終局問題」)。これは、二日目の終局直前、ダメ詰めを残すのみとなった段階で先番の柳時熏が盤面9目の優勢と目されていた。298手目に王立誠棋聖が6子へのアタリを打った。ここで、柳は299手目にそれを継がず他所へ打った。ここまでは確定された史実であるが、これ以降に於いて、王が抜いて悶着したのか、抜いても良いかどうか確認を求めて悶着したのかどうかで史書の記述が分かれている。ここでは、後者の説を採る。王は、「僕は終わったとは言ってない」と言い、当りにしている六子を取っても良いのかどうか立ち会い人の石田芳夫9段を呼び確認を求めた。これにより、石田と主催者読売新聞社が協議し終局したかどうかの判定のため約一時間にわたり中断した。確認するのに、その前の白番296手、黒番297手はダメ手を打ってダメをつめあっている。普通は、ダメばかりになったら対局者同士の「終わりましたね」という阿吽の合意が形成され、終局問題が起こることはない。この合意があったかどうかで揉めることになった。石田立会人は次のように裁定した。従来多くの対局で対局者が「終わりですね」と確認しながらダメ詰めが行なわれていたが、 概要「黒293(12の十四)で黒が半劫をつないだ時点で実質的に勝負は終わっている。黒の3目半勝ちの流れで、後はダメ詰め及び手入れを残すのみとなっていた。黒番の柳は、293手目を打った直後、白番の王に対し『終りましたね』と言ったと主張するが、王は『聞こえなかった。(僕の方は)終わったと言っていない』と述べ合意を否定している。柳は王が同意したと勝手に思い込んだまま294手目以降につき手順を尽さずダメ詰めしていった。これにより6子アタリを放置する局面となった。この時点まで終局について合意した形跡は認められない。規約によると、作り碁の場合、終局が成立するには両者の合意が必要とされている。普通はダメばかりになったら自ずと対局者同士の『終わりましたね』という合意があるが、合意があったかどうかで紛議する事態となるならば検証する以外になく、ビデオ等で確認する限り王が合意した形跡が認められない。故に日本囲碁規約に照らして対局続行中と解するほかない」。 これにより対局続行となり、王はアタリの6子を抜き柳はここで投了した。(既に打ち上げ説では、「白が打ち上げたのは何ら問題にはなり得ない」と裁定したことになる) この事件を機に、日本棋院は棋士アンケートを行い、2006.1月からプロ棋士の終局手順を多数意見だった「ダメ詰め手入れを行なって両者が着手放棄をしたら対局停止とし終局とする」と改めた。 |
2.16日、韓国の第2期興倉杯・世界女流選手権戦「内廼偉-朴鋕恩3段」。 内廼偉が2勝1敗で2連覇した。興倉杯は第2期をもって終了した。 |
2.28日、小林光一が林海峰、加藤正夫に次いで史上3番目となる通算1100勝を達成した。 |
3.17日、第49期NHK杯「張栩7段-羽根直樹8段」。張栩7段がNHK杯初出場で優勝した(初出場、初優勝は第15回NHK杯の大竹英雄8段以来2人目)。 |
3.21日、加藤正夫が史上初の通算1200勝達成。55歳0カ月で最年少、入段から37年11カ月で最速、勝率6割6分6厘で最高勝率である。 |
2-4月、第26期棋聖戦「王立誠-柳時熏」。 王棋聖が○●●○○○の4-2で防衛した。5目半のコミではまだ黒が有利ということで、また国際棋戦との整合性のため、タイトル戦ごとに順次コミを6目半に改めた。正式の棋戦では、2004年(平成16年)からコミが完全に6目半に改定された。 |
4.4日、趙治勲が公式戦通算1100勝を達成した。林海峰、加藤正夫、小林光一に続く史上4人目の快挙である。 |
4.6日、本年4月から小中学校が完全週休二日制になったことから、日本棋院(東京本院)はこれまで月2回土曜日開催だったジュニア囲碁教室を毎週土曜日開催に変更した。最近「ヒカルの碁」ブームで囲碁人気が高まったこともあって小中学生180人が集まった。 4.6日、日本棋院八重洲囲碁センター閉館。東京駅八重洲口わきの国際観光会館5階にある八重洲囲碁センターが47年の歴史に幕を閉じた。再開発の伴う会館建て替えで7月中に近くのビル内で再開。 |
4.18日、林海峰が通算1200勝達成。加藤正夫に次いで史上2人目。林海峰名誉天元は59歳11カ月で、入段から47年0カ月で達成し、達成時の勝率は6割2分9厘。すべて加藤正夫にはかなわなかった。 |
4月、第40回十段戦「王立誠-武宮正樹」。 王が3-2で優勝。 |
6月、第57期本因坊戦「本因坊・王銘琬-加藤正夫」。 加藤が○○●●●●の2-4で新本因坊に復位した。加藤は55歳3か月で23年ぶりに本因坊位に復位、史上最年長の本因坊となった。 |
7.25日、羽根直樹8段が9段に昇段した。入段から11年3ヶ月(最短記録))。 |
7月、第27回碁聖戦「碁聖・小林光一-結城聡」。 小林が3-1で優勝、防衛する。 |
7月、加藤正夫が日本棋院副理事長に就任。 |
8.3日、第15回富士通杯決勝戦(東京・日本棋院)「李世石3段(19歳、韓国)-劉昌赫(36歳、韓国)」。李世石が初優勝した。19歳5ヶ月での優勝は最年少世界戦優勝記録更新。韓国棋院の規定(世界戦優勝3段昇段)により6段に昇段した。 |
8月、第27期名人戦「名人・依田紀基-趙治勲」。 依田名人が4-1で防衛。名人3連覇。 |
9月、第11回竜星戦「小林光一- 王銘エン」。小林が優勝する。 |
10.7日、日本棋院(利光松男理事長)が黒番の「コミ」を従来の5目半から6目半に改定することを決め、各棋戦主催社に申し入れた。 |
10月、第50期王座戦「王座・趙治勲-王銘エン」。 |
10.31日、第2局で、秒読みに入っていた趙が白番の王銘宛が打ったことに気づかず、相手の手番だと思い込み、記録係が「秒読み」をしているのにもかかわらず打たず、時間切れ負けした。 3-2で王が優勝した。 |
11.14日、山下敬吾7段(24歳)が挑戦者決定戦で柳時熏7段(30歳)を破り、史上最年少で棋聖戦挑戦者に決まった。 |
12月、第28回天元戦「羽根直樹8段-趙善津」。 羽根が3-0で優勝。天元防衛。 |
第9回阿含・桐山杯「趙治勲-張栩7段」。趙が優勝する。 |
趙治勲が早碁選手権戦も優勝。 |
羽根直樹が11年3ヶ月で9段到達。 |
依田が第24期鶴聖位獲得。日中天元戦で黄奕中天元破る。 |
第21回NECカップ「依田紀基-王立誠」。依田が優勝した。 |
第1回トヨタ&デンソー杯世界王座戦開始。 |
第40回秀哉賞に張栩(NHK杯、新人王)が選ばれた。 |
この年、7.13日、八重洲囲碁センター・オープン。1954年に設立され2002.5月に閉鎖された旧・八重洲囲碁センター(旧国際観光会館5F)に替わり、新・八重洲囲碁センターが八重洲口会館9Fに新装オープンされた。 |
この年、携帯電話サイト「碁バイルセンター」サービス開始。 |
この年2.14日、瓊韻社の富田忠夫名誉9段が心不全で死亡した(享年91歳)。昭和16年、雁金準一が瓊韻社創設した直後に雁金準一門下に入り、飛付3段。平成9年、日本棋院より名誉9段を贈られる。昭和38.1月、渡辺昇吉(瓊韻社)と共編で「雁金準一打碁選集」を瓊韻社より刊行。昭和43.12月、「雁金準一名局集」を編集刊行。門下に王銘宛、黄孟正、郭求真、渋沢真知子ほか。 |
2003年(平成15年) |
1.17日、中国NEC杯・早碁戦決勝戦(北京)「王磊8段-周鶴洋」。王磊が黒番1目半勝ちで下し、初優勝した。 |
1.20日、日本棋院(利光松男理事長)が、2003年度から大手合廃止、新昇段基準制定すると発表した。大手合(おおてあい)は75年の歴史に幕を下ろした。 |
2.20日、日本棋院(利光松男理事長)は各棋戦の予選制度を改革すると発表した。 |
2月、第27期棋聖戦「棋聖・王立誠-山下敬吾7段(24歳)」。 2.27日、第5局で山下が王立誠9段を破り、山下が●●○●●の1-4で新棋聖になった。24歳での棋聖位獲得は最年少記録。 |
3月、第50期NHK杯「三村智保-王立誠」。三村が優勝した。 |
4.1日、日本棋院が大手合を廃止し新昇段制度を開始した。新昇段制度は、公式棋戦である12棋戦(棋聖戦、名人戦、本因坊戦、十段戦、天元戦、王座戦、碁聖戦、富士通杯、トヨタ&デンソー杯、竜星戦、阿含桐山杯、新人王戦)の成績を対象に昇段を決めるもので、「タイトル獲得等による昇段」、「勝ち星による昇段」、「賞金ランキングによる昇段」が三本柱となる。 |
4.1日。新昇段基準に基づき、棋聖を獲得した山下敬吾7段が9段に昇段した。24歳6ヶ月の9段昇段は日本第2位の最年少昇段記録(第1位は橋本昌二の23歳7ヶ月) 。 |
新昇段基準に基づき、天元位通算4期の実績の柳時熏7段が9段に昇段した。 |
4月、第41回十段戦「王立誠-高尾紳路8段」。 王が3-2で優勝。 |
6月、第58期本因坊戦「本因坊・加藤正夫-張栩」。 張栩が○●○●●●の2-4で新本因坊になった。 7.11日、入段から9年3ヶ月(23歳5ヶ月)で本因坊位を獲得した張栩8段が9段に昇段した。23歳5ヶ月の9段昇段は日本の最年少昇段記録(従来の最年少記録は橋本昌二9段の23歳7ヶ月) 。 |
6.29日、初のインターネット公式対局。第6回BCカード杯韓中新人王戦は初めてインターネット対局で行われた。 |
7.1日、藤沢秀行が「独自免状の発行は行わない」と確約。 |
7.7日、世界選手権富士通杯「李世乭(韓国)-宋泰坤4段(韓国)」。李世乭が白番中押勝ちし2年連続で優勝した。韓国棋院規定(世界戦優勝3段昇段)により9段に昇段した。20歳4ヶ月5日での9段昇段は韓国の最年少記録(2004.7.5日に朴永訓に更新される) 。 |
7月、第28回碁聖戦「依田紀基-小林光一」。 依田が3-2で優勝する。 |
8月、第28期名人戦「名人・依田紀基-山下敬吾」。 4-1(コミ6目半に移行) で依田名人が防衛。山下敬吾棋聖の挑戦を退け、名人4連覇。 |
9.7日、第15回テレビ囲碁アジア選手権戦決勝戦で「周鶴洋(中国)-三村智保(日本)」。周鶴洋が初優勝した。中国棋士としては1997年の兪斌に続き2人目の優勝となる。 |
9月、第12回竜星戦「小林光一- 羽根直樹」。小林が優勝する。 |
10月、第51期王座戦「張栩―王銘エン」。「ゾーンプレス」の王銘琬に挑んだ平成四天王の一人の張が挑んだ。 12.4日、第4局で、張栩(ちょうう)が3勝1敗で初優勝し、本因坊、王座を獲得し二冠となった。張はここから3連覇し、いったん途切れるが、さらに4連覇を遂げて通算7期王座を獲得する。その間、七大タイトルをすべて経験する「グランドスラム」を達成した。 |
12月、第29回天元戦「羽根直樹8段-山下敬吾」。 羽根が3-2で優勝、防衛した。 |
第10回阿含・桐山杯「加藤正夫-張栩」。加藤が優勝する。趙治勲が韓国の朴永訓に勝利し三星火災杯世界オープン戦優勝。 |
高尾紳路が新鋭トーナメント戦優勝。 |
結城聡が鶴聖戦優勝。 |
第22回NECカップ「柳時熏-高尾紳路」。柳が優勝した。 |
藤沢秀行が日本棋院に復帰。 |
第41回秀哉賞に依田紀基(名人四連覇、碁聖)が選ばれた(依田が秀哉賞を初受賞)。 |
この年、1.16日、ドイツ出身のハンス・ピーチ6段(34歳)が中米グアテマラで囲碁普及活動中、強盗に撃たれて死亡。 |
2004年(平成16年) |
1.12日、張栩本因坊と小林泉美女流本因坊・女流名人の結婚式が沖縄県のリゾート地で行われた。 |
3月、第51期NHK杯「小林光一-趙治勲」。小林が優勝した。 |
2-4月、第28期棋聖戦「棋聖・山下敬吾-羽根直樹」。 羽根が●●●○○○●の3-4で新棋聖になる。羽根が二冠となる。7番勝負で○○○●●●○という経過での勝利は史上初。 |
4.1日、謝依旻が14歳5ヶ月で入段。女流最年少入段記録を更新した。また台湾出身の女流棋士としては潘坤鈺初段に続いて2人目。 |
4月、第42回十段戦「王立誠-張栩」。 王が3-1で優勝。 |
5.2日、中国のテレビ棋戦・第3回招商銀行杯「古力7段-兪斌」。古力が初優勝した。招商銀行杯はCCTV杯の後継棋戦。 |
6.8日、利光松男理事長の辞任に伴い加藤正夫が理事長に就任した。財政赤字の改善、大手合の廃止、予選・昇段制度の改革などに取り組んだ。 |
6月、第59期本因坊戦「本因坊・張栩-依田紀基」。 張栩本因坊が○○●○●○の4-2で防衛。 |
7.5日、第17回富士通杯世界囲碁選手権戦「朴永訓6段(韓国)-依田紀基(日本)」。朴永訓が黒番1目半勝ちし初優勝した。これにより韓国棋院の規定(世界戦優勝3段昇段)により9段に昇段した。19歳3ヶ月4日での9段昇段は韓国の最年少記録。 |
7.22日、大竹英雄名誉碁聖(62歳)が公式戦通算1100勝を達成した。史上5人目。通算成績は1100勝664敗(5持碁1無勝負)で、勝率6割2分4厘。62歳2カ月、入段から48年3カ月での達成。林海峰名誉天元の42年11カ月を越える史上1位のスロー記録となった(スピード記録は趙治勲25世本因坊の34年0カ月)。通算勝数第1位は林海峰名誉天元の1252勝。大竹名誉碁聖は1碁聖7期、十段5期、名人3期、王座1期など通算タイトル獲得数は46。 |
7月、第29回碁聖戦「碁聖・依田紀基-山田規三生8段」。 依田が3-1で優勝、防衛する。 |
8月、第29期名人戦「名人・依田紀基-張栩(24歳)」始まる。 |
9.10日、王座戦の対局者の持ち時間が各33時間に短縮されることになった。国際棋戦で一般化している持ち時間3時間制を国内棋戦としていち早く導入し、「世界に通用する棋士が勝つ棋戦」との位置付けを明確にする。現在、囲碁王座戦の持ち時間は本戦トーナメントが4時間、五番勝負が5時間。対局環境の急変を避けるため3年がかりで移行し、2005年度(53期)から予選を3時間に、2006年度(54期)から本戦トーナメントを3時間に、2007年度(第55期)から5番勝負を3時間にする。 |
9月、第13回竜星戦「高尾紳路-山田規三生」。高尾が優勝する。 |
9.27日、関西棋院の滝口政季8段が大手合で前田亮6段に白番中押勝ちし9段に昇段した。 |
10.11日、週刊碁、関西棋院の手合成績、掲載開始。「週刊碁」が10.11日号から従来の日本棋院の手合成績に加え、関西棋院の手合成績も掲載されるようになった。 |
10.12日、日本棋院、ネット対局サービス開始。日本棋院は韓国棋院の子会社「世界サイバー棋院」と提携してインターネット対局サービス「幽玄の間」を開始した。 |
10月、第52期王座戦「張栩―山下敬吾」。 張が3-1で優勝した。 |
11.4日、第29期名人戦「名人・依田紀基-張栩(24歳)」。 張栩が4-2で名人位を獲得する。張栩が坂田栄男、林海峰、石田芳夫、趙治勲に続く戦後5人目の「名人・本因坊」となる。「名人・本因坊」としては最年少。 |
11.15日、日本棋院は創立80周年記念事業の一つとして囲碁殿堂資料館を日本棋院内に開設した。第1回囲碁殿堂入りは徳川家康ら4人が選ばれた(碁打衆を保護し御城碁の基盤を築いた徳川家康。第1世本因坊で近世囲碁史の開祖である本因坊算砂。近世囲碁の基盤を確立し“碁聖”とたたえられた本因坊道策。道策同様“碁聖”と称され近代布石の基礎を築いた本因坊秀策の4人)。有識者、棋士、マスコミ関係者ら18人からなる囲碁殿堂表彰委員会が、事前にノミネートされた10人の候補(第1回は江戸時代に限定)から選出した。次点として、本因坊丈和(1787~1847)、中村道碩(1582~1630)本因坊秀和(1820~1873)、安井算知(1617~1703)、安井算哲(1639~1715)、本因坊秀甫(1838~1886)の6名が選ばれた。 |
11.17日、第44期王冠戦「王冠・羽根直樹-山城宏」。羽根が山城を下し王冠位を3連覇した。 |
12月、第30回天元戦「山下敬吾-羽根直樹」。 山下が3-0で優勝。 |
第11回阿含・桐山杯「羽根直樹-小林光一」。羽根が優勝する。 |
河野臨が第1回JAL新鋭早碁戦で優勝。 |
結城聡が鶴聖戦の後継棋戦のJALスーパー早碁で連続優勝。 |
第23回NECカップ「小林光一-三村智保」。小林が優勝した。 |
第1回小中学生囲碁団体戦開催。 |
第42回秀哉賞に張栩(名人、本因坊、王座)が選ばれた。 |
この年、ネット対局サービス「幽玄の間」開始。 |
この年、今井敬総裁就任。 |
この年、12.30日、加藤正夫9段が脳こうそくのため入院先の都内の病院で逝去した(享年57歳)。 |
加藤正夫9段履歴 |
福岡県出身。木谷実門下。「殺し屋」と呼ばれた力強い碁風が持ち味。通算で名人2期、本因坊4期、十段6期、王座11期など、タイトル獲得数は歴代5位の47。通算成績は1253勝664敗2ジゴ。2002.7月、赤字が続くなどした日本棋院の改革を訴えて副理事長に就任。その後も公務の傍ら50代として初めて本因坊(第57期)となるなど碁でもトップとして活躍した。12.7日に脳梗塞で入院していた。 |
2005年(平成17年) |
1.1日、関西棋院が、2004.10月をもって大手合を廃止し、2005.1.1日より新しい昇段制度を開始した。関西棋院の新昇段制度は、公式棋戦である12棋戦(棋聖戦、名人戦、本因坊戦、十段戦、天元戦、王座戦、碁聖戦、富士通杯、トヨタ&デンソー杯、三星火災杯、関西第1位戦、新人王戦)の成績を対象に昇段を決めるもので、「タイトル獲得等による昇段」、「勝ち星による昇段」、「賞金ランキングによる昇段」が三本柱となる。日本棋院は2003.4月から新昇段制度を実施している。 |
1.26日、関西棋院の中野泰宏8段が9段に昇段した。 |
1.27日、趙治勲25世本因坊(48歳)が公式戦通算1200勝目を挙げた。通算成績は1200勝616敗3持碁4無勝負。勝率(6割6分1厘)こそ加藤正夫名誉王座にわずかに及ばなかったものの最年少、最速両部門の記録を3年ぶりに塗り替えた。 |
3月、第52期NHK杯「張栩-依田紀基」。張栩が優勝した。 |
2-4月、第29期棋聖戦「棋聖・羽根直樹-結城聡」。 羽根棋聖が○●○●●○○の4-3で防衛。 |
4.27日、第43期十段戦「十段・王立誠-趙治勲」。 趙治勲が3勝2敗で勝ち、四連覇中の王立誠から十段位を奪還した。史上最多タイトル獲得数68に更新した。 |
4.20日、第9回LG杯世界棋王戦「張栩-中国・兪斌」。 張栩が3勝1敗で優勝した。25歳3ヶ月での世界戦優勝は日本最年少記録。日本代表棋士史上8人目の世界戦優勝。 |
5.11日、関西棋院所属の川村和憲8段が9段へ昇段した。兵庫県出身の51歳。 |
5.12日、日本棋院所属の時本壱8段が9段へ昇段した。沖縄県出身の57歳。門下に知念かおり女流本因坊・女流棋聖。 |
6月、第60期本因坊戦「本因坊・張栩-高尾紳路」。 高尾が●●●○●の1-4で新本因坊になった。高尾はリーグ戦初参加で挑戦権を獲得し、本因坊位を奪取した。 |
6.29日、高尾紳路8段が9段に昇段した。 |
7月、第30回碁聖戦「碁聖・依田紀基-結城聡」。 依田が3-0で優勝、碁聖3連覇、通算6期獲得する。 |
8月、第18回世界選手権富士通杯「李世乭(韓国)-崔哲瀚(韓国)」で李世乭が優勝。 |
8月、第30期名人戦「名人・張栩-小林覚」。 張栩が4-3で防衛。 |
9.1日、小林光一が通算1200勝(598敗2持碁)を達成した。故加藤正夫名誉王座、林海峰名誉天元、趙治勲十段に次いで史上4人目。達成時の勝率は6割6分7厘で、加藤の6割6分6厘を抜いて史上1位。入段から38年4カ月での1200勝達成は趙治勲9段の36年9カ月、加藤正夫の37年11カ月に次ぐ第3位。 |
9月、第14回竜星戦「結城聡-張栩」。結城が優勝する。 |
10.8日、第12期阿含桐山杯全日本早碁オープン戦「井山裕太4段(16歳)-小林覚(46歳)」。プロ4年目の井山が黒番6目半勝ちして初優勝した。張栩、王立誠、趙治勲、小林覚という超一流棋士を連破しての優勝であった。井山4段は一般棋戦初優勝で規定により7段に昇段した。一気に3段昇段するのは初めて。16歳4カ月での棋戦優勝は1973年に趙治勲5段(当時)が新鋭トーナメント戦で優勝した17歳0カ月を抜く最年少記録になった。全棋士参加の棋戦優勝は、1975年に趙治勲6段がプロ十傑戦で優勝した18歳10月を抜く新記録で、記録ずくめの優勝になった。 |
10.20日、第24期女流本因坊戦(共同通信社主催)「女流本因坊・女流棋聖・知念かおり(31歳)-矢代久美子5段(29歳)」。 5番勝負第3局で、矢代が知念を白番中押勝ちで下し3勝0敗で初タイトルを獲得した。 |
10.27日、黄翊祖が名人戦最終予選でを下し名人戦リーグ入りを決めた。18歳6ヶ月での名人戦リーグ入りは史上最年少リーグ入り記録。 |
10月、第53期王座戦「張栩―山下敬吾」。 張が3-0で優勝した。 |
12月、第31回天元戦「河野臨7段-山下敬吾」。 河野が3-2で優勝、初のビッグタイトルを獲得した。これにより8段へ昇段。 |
井山裕太が他にも第2回中野杯・U20選手権でも優勝、以後この大会で3連覇。 |
第24回NECカップ「張栩-柳時熏」。張栩が優勝した。張栩が第43回秀哉賞受賞。 |
第43回秀哉賞に高尾紳路(本因坊)が選ばれた。 |
この年、日本棋院関西総本部、大阪梅田・阪急ファイブアネックスビルに移転。 |
2006年(平成18年) |
1.13日、山田規三生8段が9段に昇段。 |
2.9日、武宮正樹(55歳1ヶ月)が1000勝を達成した。史上8人目。 |
2.24日、第7回農心杯「日本・依田紀基-韓国・李昌鎬」。 依田が3連勝で優勝した。日本は農心杯で初優勝した。 |
3.13日、第54回NHK杯第1回戦で、黒番の中野泰宏9段が盤面で10目以上黒が良い局面でダメヅマリに自ら突っ込み黒5子を捕られ、投了した。相手は石田芳夫。 |
3.19日、第53回NHK杯決勝「羽根直樹-今村俊也」。 羽根が黒番中押勝で下し、初優勝した。中部総本部の棋士としては第1回の島村利博8段(当時)以来、52年振りの優勝となる。 |
2-4月、第30期棋聖戦「棋聖・羽根直樹-山下敬吾」。 山下が●●●●の0-4で新棋聖に復位する。 |
4.13日、第44期十段戦「十段・趙治勲-挑戦者・山下敬吾」。 趙治勲が3勝1敗で防衛し、タイトル獲得数を69に更新した。 |
4.21日、10期LG杯で、中国・古力7段(23歳)は中国・陳耀燁5段を下して初優勝し9段に昇段した。中国囲碁協会で25人目。 |
4月、第44回十段戦「十段・趙治勲-山下敬吾」。 趙が3-1で優勝。趙治勲が山下棋聖を相手に十段位を防衛した。 |
5.3日、日本のシステム会社・CSKが主催する日本、中国、韓国、台湾の4チームによる対抗戦で、2002年に創設されたCSK杯アジア囲碁対抗戦の第5回大会で中国が優勝し、第5回で終了した。 |
5.16日、韓国棋院、大韓体育会の準加盟競技団体に。2002年1月、(財)韓国棋院が大韓体育会の認定団体としての承認を受けて始まった囲碁のスポーツ化は2005年創立の囲碁協会がバトンを受け継ぎ、2006年5月16日大韓体育会の準加盟競技団体となった。 |
6月、第61期本因坊戦「本因坊・高尾紳路-山田規三生」。 高尾本因坊が○●○○●○の4-2で防衛に成功。 |
7月、第31回碁聖戦「張栩-依田紀基」。 張栩が3-0で優勝する。 |
8月、第19回世界選手権富士通杯「朴正祥(韓国)-周鶴洋」。朴正祥が優勝。 |
8月、第31期名人戦「名人・張栩-高尾紳路(30歳)」。高尾紳路が名人戦史上初のリーグ初参加、初挑戦。 11.3日、高尾が張栩を4-2で降して坂田栄男、林海峰、石田芳夫、趙治勲、張栩の各9段に続く実力制6人目の名人本因坊になった。このシリーズ第4局はコウ争いに次ぐコウ争いとなり、364手という激闘となった。これを制した高尾はその勢いのまま名人を奪取した。 |
9.25日、中国の正式な国家体育競技戦「中国個人戦」で王檄が優勝した。中国個人戦は男女別に開催され、男子はスイス方式で11局打ち順位を決める。最も伝統があり若手の登竜門的な棋戦である。 |
9月、第15回竜星戦「張栩-結城聡」。張栩が優勝する。 |
10.19日、林海峰(64歳5ヶ月)が1300勝達成した。達成時の成績は1300勝793敗1持碁2無勝負。入段から51年6カ月。通算勝利第2位は故・加藤正夫名誉王座の1254勝。門下に張栩名人・王座・碁聖がいる。 |
10月、第54期王座戦「山下敬吾―張栩」。 山下が3-1で優勝した。初の二冠王に。 |
12.25日、女流最強戦決勝戦「謝依旻3段(17歳)-小西和子8段」。謝依旻が白番中押勝ちで初優勝した。17歳1ヶ月での優勝は女流最年少記録。 |
12月、第32回天元戦「天元・河野臨7段-山下敬吾棋聖・王座」。 河野が3-1で優勝、天元位初防衛。タイトル2期獲得により9段へと昇段。 |
第13回阿含・桐山杯「張栩-羽根直樹」。張栩が優勝する。 |
第25回NECカップ「趙善津-小林覚」。趙が優勝した。 |
大和証券杯ネット囲碁オープン戦が創設され、山下が第1回大会に優勝し同年の賞金ランキング1位に輝く。 |
第44回秀哉賞に高尾紳路(名人、本因坊)が選ばれた。 |
この年、「囲碁少年少女育英資金」設立。 |
この年、岡部弘が理事長就任。 |
この年、7.2日、韓国囲碁界の元老で韓国棋院創始者の趙南哲が病気で逝去した(享年83歳)。 |
2007年(平成19年) | |
3月、第54期NHK杯「趙治勲-結城聡」。趙が11年ぶりに優勝した。 | |
2-4月、第31期棋聖戦「棋聖・山下敬吾-小林覚」。 山下棋聖が○○○○の4-0で防衛。タイトル防衛は初。 |
|
4月、第45回十段戦「十段・趙治勲-山下敬吾」。 趙が3-2で優勝、防衛。タイトル獲得数を71へ更新した。 |
|
6.14日、陳耀燁5段が2006.4月のLG杯戦準優勝に続いてテレビ囲碁アジア選手権戦で準優勝して、中国棋院9段(27人目)に昇段した。17歳5ヶ月28日での9段昇段は世界最年少記録。 | |
6月、第62期本因坊戦「本因坊・高尾紳路-依田紀基」。 高尾本因坊が○●○○○の4-1で防衛、3連覇を達成した。本因坊3連覇達成後の就位式で雅号を「秀紳」とすることを発表した。命名は師の藤沢秀行。「秀」は本因坊家ゆかりの字であり師匠から一字を受け継いだ形ともなった。 |
|
7月、第32回碁聖戦「碁聖・張栩(27歳)-横田茂昭(38歳)」。 8.9日、張栩が3勝0敗で優勝する。 |
|
8月、第20回世界選手権富士通杯「朴永訓(韓国)-李昌鎬(韓国)」。朴永訓が優勝。 | |
8月、第32期名人戦「名人・高尾紳路-張栩」。3-4で張栩が名人位に復位した。 | |
9月、第16回竜星戦「張栩-結城聡」。張栩が優勝する。 | |
10月、第55期王座戦「王座・山下敬吾―今村俊也」。 「世界一厚い碁」の今村が挑戦したが、平成四天王のひとりの山下敬吾が3勝1敗で防衛した。この年から持ち時間は各3時間に。国際棋戦で一般的になっていた持ち時間で、七大タイトル戦で初めて取り入れた。第53期の5時間から第54期の4時間を経て3年がかりでの移行だった。 |
|
12.10日、国際棋戦で何度も優勝している韓国の李世石が韓国の伝統棋戦・第51期国手戦で初優勝した。 | |
12月、第33回天元戦「天元・河野臨7段-山下敬吾」。 河野が3-1で優勝、天元三連覇する。 |
|
第14回阿含・桐山杯「張栩-趙治勲」。張栩が優勝する。 | |
第26回NECカップ「張栩-高尾紳路」。張栩が優勝した。 | |
週刊碁創刊1500号。第1回大和証券杯ネット囲碁レディース開始。 | |
第1回大和証券杯ネット囲碁アマチュア選手権開始。 | |
この年の「若手四天王」は次の通り。
|
|
第45回秀哉賞に山下敬吾(棋聖、王座)が選ばれた。 |
2008年(平成20年) | |
2.14日、王立誠9段が1000勝達成。史上9人目。公式戦通算1000勝(543敗1持碁1無勝負、達成時勝率0.648)。入段から35年10ヶ月、49歳3ヶ月での達成。 | |
2.21日、第9回農心杯「中国・常昊-韓国・朴永訓」。第13局(最終局前)で常昊が朴永訓を破り、常昊の4連勝で幕を閉じた。中国は農心杯で初優勝した。 | |
2.29日、周俊勲をはじめとする12人の台湾棋士が台湾棋院が求めた同意書への署名を拒否して台湾棋院を離脱した(2009.9.30日、全員復帰した) 。 | |
2-4月、第32期棋聖戦「棋聖・山下敬吾-趙治勲」。 山下棋聖が○●○○●●○の4-3で防衛。棋聖3連覇を達成。 |
|
3月、第55期NHK杯「張栩-趙治勲」。張栩が優勝した。 | |
4月、第46回十段戦「十段・趙治勲-高尾紳路」。 高尾が3-0で優勝。高尾紳路が挑戦権を獲得し、趙治勲に3連勝で十段位を奪取した。 |
|
6月、第63期本因坊戦「本因坊・高尾紳路-羽根直樹」。 羽根が○○○●●●●の3-4で新本因坊になった。羽根直樹が本因坊戦で高尾紳路に3連敗後4連勝し本因坊を奪取。7番勝負での3連敗4連勝は史上6例目、林海峰・趙治勲に次ぎ3人目。 |
|
6.4日、第20回テレビ囲碁アジア選手権戦決勝戦で韓国の李世石が韓国の趙漢乗を下し、2連覇を達成した。 | |
7月、第33回碁聖戦「張栩-山下敬吾」。 張栩が3-1で優勝する。 |
|
7.28日、第13回三星火災杯世界囲碁オープン国際予選が7.28日から8.2日まで韓国棋院予選対局場で開かれ、韓国196人、中国51人、日本47人、台湾19人、アマチュア6人の計319人が出場した。参加者数は史上最多。 | |
8.15日、第33期碁聖戦「碁聖・張栩-山下敬吾」。 張栩が3連覇した。 |
|
8月、第21回世界選手権富士通杯「古力(中国)-李昌鎬(韓国)」。古力が優勝。 | |
8月、第33期名人戦。井山が史上最年少19歳で名人戦挑戦者となった。「名人・張栩-井山裕太」。 張栩が4-3で防衛した。石井邦生著「わが天才棋士 井山裕太」が次のように記している(「囲碁日記」参照)。
|
|
9月、第17回竜星戦「河野臨-張栩」。河野が初優勝する。 | |
10.3日、第1回頭脳オリンピック開催。北京オリンピック後の行事として国際知力運動連盟(IMSA)が主催する第1回頭脳オリンピックが10.3日~18日に北京で開幕式が行われた。100個以上の国家・地区から約3000名選手が出場し、囲碁は約60個の国家・地区から約600名の選手が出場した。10月、頭脳の祭典開催、第1回ワールドマインドスポーツゲームズが北京で開催。囲碁男子団体戦に高尾紳路、依田紀基、山下敬吾、羽根直樹、河野臨が日本代表チームとして出場、銅メダルを獲得。 | |
10月、第56期王座戦「張栩―山下敬吾」。 張栩が3-1で優勝した。 |
|
12月、第34回天元戦「張栩-河野臨」。 張栩が3-0で優勝。 |
|
第15回阿含・桐山杯「張栩-高梨聖健8段」。張栩が優勝する。 | |
第27回NECカップ「河野臨 - 趙善津」。河野が優勝した。羽根直樹が王冠位防衛。21世紀に入ってからは張栩、高尾紳路、山下敬吾、羽根直樹の四天王がタイトル戦線を割拠した。 | |
第1回大和証券杯ネット囲碁グランドチャンピオン戦開始。 | |
第46回秀哉賞に張栩(名人、天元、王座、碁聖、阿含桐山杯、NHK杯)が選ばれた。 | |
この年、大竹英雄理事長就任。 | |
この年、林海峰が創設していた海峰囲棋基金会を海峰棋院に改名し、プロ棋士の棋戦棋王戦を台湾棋院などとともに創設、及び日本と台湾の若手棋士による日台精鋭プロ選手権(中日精鋭職業圍棋賽)を創設した。 |
2009年(平成21年) |
2.4日、韓国棋院、大韓体育会の正式加盟団体に。2002.1月、(財)韓国棋院が大韓体育会の認定団体としての承認を受けて始まった囲碁のスポーツ化は2005年創立の囲碁協会がバトンを受け継ぎ、2006.5.16日大韓体育会の準加盟競技団体となった。2009.2.4日、大韓体育会の第25回理事会で、(社)囲碁協会が正式加盟団体として承認された。(社)囲碁協会が大韓体育会の55番目の正式加盟競技となり2001年から行なわれた囲碁界の努力は約9年ぶりに実を結んだ。 |
3.16日、第8期西南戦決勝戦「古霊益5段-古力」。古霊益が3連覇を達成した。 |
3月、第56期NHK杯「結城聡-武宮正樹」。結城が優勝した。 |
2-4月、第33期棋聖戦「棋聖・山下敬吾-依田紀基」。 山下棋聖が○○●●○○の4-2で4連覇達成。 |
4月、第47回十段戦「張栩-高尾紳路」。 張栩が3-1で優勝した。張栩が初の十段位を獲得する。張栩が1977年に現行の七大タイトル制になって以降では史上初の五冠を達成した。山下敬吾が天元戦で張を3-2で破り4年ぶりに天元を奪還。 |
5.4日、第1回BCカード杯世界囲碁選手権で、中国の古力9段が韓国の趙漢乗9段を3勝1敗で下し、初優勝。これで古力9段はLG杯、トヨタ&デンソー杯、富士通杯、春蘭杯、BCカード杯の世界戦5冠王になった。 |
6.8日、韓国囲碁リーグの不参加を表明し、中国囲碁甲級リーグに参加していることから批判を浴びている李世石の実兄の李相勲(イ・サンフン)7段が韓国棋院ハン・サンヨル事務総長に面談して休職届を提出した。休職期間は2009年6月30日から2010年12月31日まで18ヶ月間で2011.1月に復職することになる。 |
6月、第64期本因坊戦「本因坊・羽根直樹-高尾紳路」。 羽根本因坊が○●○○●○の4-3で防衛。 |
7月、第34回碁聖戦「張栩-結城聡」。 張栩が3-0で優勝する。 |
8月、第22回世界選手権富士通杯「姜東潤(韓国)-李昌鎬(韓国)」。姜東潤が優勝。 |
この年、5.8日、藤沢秀行(ふじさわ・ひでゆき、本名・保=たもつ)名誉棋聖が誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都内の病院で逝去(享年83歳)。 |
【藤沢秀行(ひでゆき、しゅうこう)履歴】 |
(1925(大正14).6.14日 -2009(平成21).5.8日) |
藤沢秀行は日本の囲碁棋士。本名は「藤沢 保(たもつ)」。横浜市生まれ。昭和9年、10歳で院生になる。15年初段、21歳4段。この頃から山部、梶原、藤沢が「アプレゲール(戦後派)三羽ガラス」として注目される。27年7段、34年8段、37年第1期名人位に就いた。38年、坂田に名人位を奪われ、39年、リタ-ンマッチするも成功しなかった。 棋聖戦6連覇、史上最年長67歳でのタイトル保持者などに輝いた昭和を代表する棋士の1人。「ひでゆき」が正しい名前の読み方だが、生涯を通じて「しゅうこう」と呼ばれ続けた。棋風は豪放磊落であり、厚みの働きを最もよく知ると言われた。ポカ(うっかりミス)で好局を落とすことも多かったが、「異常感覚」とも称される鋭い着想を見せ、「華麗・秀行」とも呼ばれた。「序盤50手までなら日本一」とされ、序盤中盤の局後検討で結論がでない場合は「秀行先生に聞こう」というのが、かつての日本棋院での決まり文句だった。 盤上での活躍の一方、盤外では酒、ギャンブル、借金、女性関係など破天荒な生活でも有名な「最後の無頼派」であった。癌の手術以前はアルコール依存症の禁断症状と戦いながらの対局を重ねていた。高利貸しから億単位の借金がありその大半を好きな競輪につぎ込んだ。政財界に藤沢のファンがおり、そのうちの一人である元法務大臣の稲葉修が「せめて借金先は銀行へ」と替えさせ借金の保証人になったという。1976年に創設された棋聖戦(第1期の優勝賞金は1700万円、現在は4500万円)を六連覇し借金を返済した。数々のタイトル賞金は、借金返済に充てただけでなく、なじみの芸者に銀座で店を持たせるためにぽんと出してやるなど、あっという間に消えていった。妻や家族のもとに賞金がやってきたことはなかったという。 |
引退してすぐ、藤沢は独自の段位免状を発行すると発表した。数万円以上する日本棋院の免状料が高すぎることに対する異議だった。免状発行権は日本棋院の肝にあたる事業だ。藤沢は日本棋院から除名処分を受けたが、2003年に免状を発行しない確約の下、復帰した。2009年、83歳で死去。そのとき、夜明け前の空には雷鳴がとどろいたという。 |
(私論.私見)