日本囲碁史考、戦後昭和

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).3.28日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「日本囲碁史考、戦後昭和の廃墟から復興、経済成長期の囲碁史」を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【日本囲碁史考11、戦後昭和の廃墟から復興、経済成長期の囲碁史】

【囲碁のタイトル戦の日程】
 囲碁のタイトル戦の日程は次の通り。
1―3月 棋聖戦 序列1位 7番勝負 読売 4500万
3月末 NHK杯
3―4月 十段戦 序列4位 5番勝負 産経 700万
5―7月 本因坊戦 序列3位 7番勝負 毎日 3200万
7―8月 碁聖戦 序列7位 5番勝負 新聞囲碁連盟 800万
9―11月 名人戦 序列2位 7番勝負 朝日 3700万
10―12月 王座戦 序列6位 5番勝負 日経 1400万
11―12月 天元戦 序列5位 5番勝負 3社 1400万

 棋聖戦→NHK杯→十段戦→本因坊戦→碁聖戦→名人戦→王座戦→天元戦の順となる。
 碁聖戦NHK杯十段戦天元戦阿含・桐山杯、NECカップ囲碁トーナメント戦

【戦後混乱期】

 1945(昭和20)年
 日本国憲法公布。

 8.15日、終戦。本因坊戦は2番で打ち分け、暫く中止となった。戦後しばらく日本棋院は都内各所の料亭などに場所を借りて対局を行っていた。日本中がすさんだ時期、瀬越憲作と岩本薫らが中心となって日本棋院の再建をめざした。
 11.1日、1943年に日本から帰国していた趙南哲が韓国に漢城棋院を設立する。
 11.11日、本因坊戦第3局が東京の橋本文治宅で再開され、橋本が先番3目勝。
 11.15日、第4局も橋本邸で打たれ岩本が先番3目勝。
 11.19日、第5局が野田の茂木邸で打たれ橋本が先番中押勝。
 11.23日、第6局が野田の茂木邸で打たれ岩本が先番中押勝。
 ●○○●○●、3勝3敗となる。申し合わせ通り本因坊の座は日本棋院預かりとなった。 

【呉清源の璽宇教活動のめり込み】
 この年秋、日本に帰化して呉泉と云う日本名を持っていた呉清源が夫人と共に中国に復籍した。但し、帰国せずそのまま日本に留まった。この時期の呉は、名横綱双葉山らと共に璽光尊の璽宇教活動にのめり込んでおり、呉の棋界復帰は絶望と見られた。

 1946(昭和21)年

 4.24日、大手合再開。日本棋院会館(溜池)焼失で中断されていた大手合が1年ぶりに神田須田町に近い小料理屋「お座敷本郷」の2階で再開された。集まった棋士は少数だった。この時の大手合は春8局、秋8局、成績優秀者は昇段、不良者は降格制度であった。秋は牛込の「河田町会館」で、翌22年春は「東華邸」。
 橋本宇太郎戦が8段昇段。
 8.15日、前年より引き続き3-3のまま日本棋院預かりとなっていた第3期本因坊戦(橋本と岩本の本因坊戦再決戦三番勝負)が始まり、その第1局が高野山金剛峯寺の塔頭の総寺院で行われた。最初の二手を広島廿日市の蓮教寺で、原爆犠牲者供養の打ち初め式を設営し打たれた。岩本薫(45歳)が第1局白番5目勝ち、第2局黒番勝ちの2連勝して、8月、本因坊に就位、薫和と号する。
 8月、関西別院が関西本部と改称。大阪市西区に事務所を置いて再建活動を開始した。理事長光原伊太郎7段、副理事長に細川千ジン6段を選び、関西大手合を開始した。東京の大手合に参加できない疎開者らも含めて30人もが参加した。

【呉清源打込み十番碁4「呉清源9段-橋本宇太郎8段」】
 8月、読売新聞が社告で呉の棋界復帰を発表した。
 8.28日、呉清源打込み十番碁4「呉清源9段-橋本宇太郎8段」(22年まで)。両者早打ちのため1日打切りの持時間各7時間。戦後初めての争碁対局として、呉と兄弟子である橋本宇太郎8段との十番碁が行われた。
8.28日 第1局「」 橋本宇勝
9.11日 第2局「呉清源8段-橋本宇太郎8段(先) 呉白番1目勝
10.8日 橋本宇太郎-呉(先) 呉先番勝
10.24日 呉-橋本宇太郎(先) 呉白番8目勝

 第1局は東京世田谷区の(甲州財閥)若尾鴻太郎邸で行われ橋本が楽勝し、「呉さんも打てなくなりましたね」と係りの記者に述懐している。呉清源はこの間2年ほど新興宗教の璽宇教に専心し(入信は1944 年)囲碁から遠ざかっていた。教祖璽光尊の許しを得て碁界に復帰する。ところが、第1局では精彩を欠いたものの2局目で白番1目勝ち。3局目の対局場は千葉県野田町(現野田市)の個人邸で黒番中押勝ち。以降、橋本を圧倒し始め2局目から4連勝、8局目まで6勝2敗で先相先に打込む。第10局まで打たれ呉清源の6勝3敗1ジゴ(手合直り後1敗1持碁)。1948.1.28日の新聞掲載で終了した。

 この年、瀬越憲作、岩本らが引き続き日本棋院の再建に尽力し、瀬越が日本棋院初代理事長に就任した。
 8.25日、囲碁雑誌「棋道」復刊第1号(9月号)が博文館より刊行された。

 1947(昭和22)年

 1月、璽光尊(教祖・長岡良子)手入れ事件の際、信者の呉と双葉山が注目を浴びる。
 第4期本因坊戦が「岩本薫-木谷実」で争われ、初のコミ4目半を導入した5番勝負となった。岩本本因坊が●○○●○の3-2で防衛した。
 4月、東華亭事件。
 5.18日、日本棋院の若手棋士8名(前田陳爾7段、坂田栄男7段、梶原武雄5段、山部俊郎4段、桑原宗久3段、塩入逸造3段、児玉国男3段、石毛嘉久夫2段)が旧態依然の日本棋院に不満を訴え囲碁界革新を唱えて日本棋院を脱退、「囲碁新社」を結成する。その際の趣意書を安永一が依頼されて執筆した。「囲碁春秋」誌も囲碁新社の機関誌となった。日本棋院は8人を除名した。(1949.3月、全員が日本棋院に復帰する)
 「呉-橋本第一次十番棋」。
9.1日 第7局「橋本宇太郎-呉(先) 呉先番勝
9.20日 橋本宇太郎-呉(先) 呉先番勝
10.1日 呉-橋本宇太郎(先) 呉白番勝
12.1日 第9局「呉-橋本宇太郎(先)

 以降、第8局で打ち込んで、一段違いに相当する先相先とし、復帰後初の十番碁を飾ることができました。橋本さんとは昭和25年から、本因坊昭宇となった彼と先相先の第二次打ち込み十番碁を打ったことも記憶に残ります。
(構成・牛力力)
 戦後しばらく日本棋院は都内各所の料亭などに場所を借りて対局を行っていたが、自前の対局所を持つべきだという声が強まる。8月、瀬越憲作理事長が舌下事件で辞任、津島寿一総裁(終戦前後の大蔵大臣)を委員長とする復興建築委員会を発足させて棋院会館建設基金を調達することになった。10月、一口百円で一般公募したところ、寄附が募金目標の300万円を百万円もオ-バ-し、芝・高輪にあった約400㎡の水産会社の寮を買い、建設着工した。
 関西本部が軌道に乗り始めた頃、東京から新館建設のため50万円の棋譜割り当てが来た。寄附の半額を地元の関西で利用するという条件付きで募金活動したところ、関西財界が応援し、忽ち百万円もの大金が集まった。結局、募金は天王寺の細工谷の新館購入に当てられることになった。
 この年、加藤正夫が福岡県朝倉郡朝倉町(現朝倉市)にて誕生。

 1948(昭和23)年
 

 2月、読売新聞社が呉と坂田七段の三番碁を企画し、呉清源打込み3番碁「呉-坂田3番碁」が打たれ、呉が向先相先で3勝、坂田は先相先で3連敗する。5年後、呉は坂田と先相先で打ち込み十番碁を打つ。
2.23日 呉-坂田栄男(先 呉白番1目勝
4.6日連載 坂田栄男-呉(先 呉先番中押勝
5.5日 呉-坂田栄男(先 呉白番1目勝
 次いで梶原も先番逆コミで呉に敗れて意気消沈する。

 4月、日本棋院会館(港区芝高輪北町43)が開館した。高輪の棋院会館は1971.11.22日に日本棋院市ヶ谷本館ができるまで使われた。

 4月、NHK第二放送で、日曜日の午後1時と、テキスト講座を続けるかたわら、大手合の好局を選んで解説し始めた。
 5月、日本棋院関西本部が大阪府の財団法人認可を得て関西棋院を立ち上げた。但し、分裂したのではなく日本棋院傘下であった。これより関西棋院の独立問題がくすぶり続けることになった。
 5.31日連載、「呉-木尾(先)」。呉白番5目勝。
 6.6日、日本棋院に院生制度ができ、第1回の院生研究会が行われた。
 6.27日、関西棋院創立発会式が行われ、関西の新囲碁会館(大阪市天王寺区細工谷町)がオープンした。理事長に大屋晋三(帝人社長)、副理事長に橋本宇太郎。他に鯛中新、窪内秀知ら合計27名。2ヵ月後には関山利仙(第1期本因坊)、翌年には半田早巳(道玄)も加わった。
 囲碁規約制定の直接の契機となる「手入れ問題」発生する。

【呉清源打込み十番碁5「呉清源・岩本薫8段打込み十番碁」】
 7.7日、呉清源打込み十番碁5「呉清源・岩本薫8段打込み十番碁」開始。読売新聞は「呉清源打込み十番碁」の第5弾として呉清源9段と岩本薫8段の打込み十番碁を開始した。長考派のため持ち時間13時間、3日打切り。
7.7日 第1局呉-岩本薰8段(先) 呉白番1目勝
7.20-21日 第2局「岩本薰-呉(先) 呉先番勝
9.1日 第*局「呉-岩本薰(先) 岩本先番3目勝
9.27日 第*局「岩本薰-呉(先) 呉先番勝
10.19-21日 第*局「呉-岩本薰(先) 呉白番8目勝
11.16-18日 第*局「岩本薰-呉(先) 呉先番12目勝
第*局「」
12.1日 第*局「呉-岩本薰(先) 呉白番3目勝
12.21-23日 第*局「呉-岩本薰(先)
翌1.1日 第*局「岩本薰-呉(先) 呉先番勝
1.19日 第8局「呉-岩本薰(先) 呉白番3目勝
1.26日 第9局「岩本薰-呉(先) 呉先番勝
2.22-24日 第10局「呉-岩本薰(先) 岩本先番3目勝

 第1局( 「呉-岩本薰8段(先)」)は東京小石川の紅葉で行われ、呉白番1目勝。終局図で、黒が白1子を抜いて終われば白2目勝ち、コウ立てが多いとして黒が抜かずに終われば白1目勝ちです。立会人の瀬越憲作先生も解決できず「白1目ないし2目勝ち」の発表となった。、数日後、「コウ材が多ければ手入れせずに終局する」との日本棋院審査内規があったことが判明し、白1目勝ちが確定した。これが直接の契機となって、昭和24年に「日本棋院囲碁規約」が制定され、現在のルールでは手入れが必要となった。同じ局面が11年後、呉と高川格本因坊との対局でも現れた。半目勝負で、手入れの有無によって勝敗が分かれ呉は手入れを拒否したが、囲碁規約の整備を条件に半目負けを受け入れた。
 坂口安吾「本因坊・呉清源十番碁観戦記」が次のような観戦記を記している。(読売新聞第二五六九二号、第二五六九三号/1948(昭和23)年7月8日、7月8日。インターネット図書館/青空文庫http://www.aozora.gr.j)
 上
 対局前夜、夕方六時、対局所の小石川もみじ旅館に両棋士、僕、三人集合、宿泊のはずであった。翌日の対局開始が、朝九時、早いからである。僕が第一着、六時五分也。本因坊、六時五十分。さて、あとなる、呉氏が大変である。ジコーサマの一行が呉氏応援に上京し、呉氏の宿所へ、すみこんだ。すみこむだけならよかったのだが、即ち、これ宗教なり、よってオイノリをやる、一日中、やるのである。宿所のオヤジ、カンシャクを起して告訴に及ぶ。哀れ、神様及びそのケン族は、警察に留置さる。呉氏、慌てふためき、これをもらい下げる。時に対局二日前の夜也。呉氏ら、リュックサックをかつぎ神様をまもって、警察の門からネグラをもとめて行方をくらましたが、ウカツ千万にも、日本中の新聞記者が、この行先をつきとめることを忘れていたのである。キチョウメンな呉氏が、約束の時間に現れないから、さてこそ神託によって禁足か。捜索隊が東京、横浜に出動する。徒労。悲報のみ、つゞいて至る。深夜、十二時十分前、もみじ旅館の玄関に女中たちのカン声が上った。呉氏がひとりヒョウ然と現れたのである。僕らのまつ部屋へ現れるや、ボク、おフロへ、はいりたい。すぐ、フロへはいる。そこで、僕及び新聞社の人々、別室へ去る。両棋士にゆっくり眠ってもらうため也。翌朝、八時に、両棋士を起す。呉氏、食卓へ現れるや、食膳を一目みて、オミソ汁、と言う。オミソ汁が呉氏のところになかったのである。持参の卵ひとつ、リンゴひとつ、とりだして、たべる。世紀の対局は、閑静な庭の緑につゝまれた二階である。実質的に、名人戦である。呉氏が勝つや、囲碁第一人者は、中国へうつる。これが日本の棋界は怖くて、名人戦がやりにくかったのかも知れないが、そんなに狭いケツの穴ではいけない。各種の技芸に日本が世界の選手権をめざす今日、他国人に選手権をとられることを怖れてはならぬ。むしろ、それが国技の世界的進出ではないか。この対局を受諾した本因坊は、偉い。彼は実に美しく澄んだ目をしている。本因坊も、呉氏も、羽織、はかまに改めて、対局場へ現れる。試合開始、サンマータイム、九時十七分。そのとき呉氏、記録係りに向い、対局の時計だけ、今を九時にしましょう、という。そうする。盤に向って、呉八段石を握る。本因坊、丁先と言う。丁。本因坊、先である。むしあつい。両氏、羽織をぬぐ。本因坊、温顔、美しい目に微笑をたゝえて、考え、石を下していたが、一時間ほどたち、十四手目ぐらいから、顔が次第にきびしくしまって、鋭く盤を睨みはじめた。温顔のころは四十五、六の顔に見えたが、鋭くひきしまると、二十四、五の書生の顔になり、逞しく、美しいのだ。こゝに本因坊の偉さがこもっているのだと私は思った。世評には、さしてその実力をうたわれず、然し木谷の挑戦をしりぞけて、二年本因坊を持続しているではないか。彼の実力は、目立たないが、然し、目立つ人々よりも悠々と逞しいのである。それが、このひきしまって鋭く、目の美しい、二十四、五の書生の面影の中に、こもっている。二時間、たった。二十五手目、本因坊が考えている。呉氏、目をとじ、ウツラ、ウツラしている。目をとじ、からだを左右にゆさぶっているのは呉氏のクセであるが、どうやら本当にねむいらしく、コックリやり、パッと目をあけ、慌てゝ立ち上る。四五分して、目をパッチリさせて、新しい顔で、もどってきた。
 下
 横綱前田山、観戦に現れる。前田山、先般、月刊読売誌上に、呉氏に八子で対戦、敗北したが、角界随一の打手の由である。とたんに、呉氏、キッと目をあげて、「双葉関は、どうしていますか」。有無を言わさぬ、ノッピキナラヌ語調である。前田山は、クッタクがない。「今、上京しとります」。「ホテル、ですか」と、突きこむごとし。「部屋を建設中で、両国にいます」。前田山の返答はクッタクがないが、とたんに読売の記者の面々、サッと、顔色を失ってしまう。正午から、安田画伯が現れて、スケッチにかゝる。両棋士の気魄が鋭くて、胸に食いこんで、苦しい、ともらし、三時ごろ、スケッチを終る。「六時です。封じ手です」。六時五分、本因坊、紙をうけとり、後方へ横ざまに上体を捩じ倒して、封じ手、六十七手目をかきこむ。これを封筒に収めて、第一日を終った。

 本因坊は自宅へ忘れ物をしたので、とりに行きたい、といいだした。本因坊と一緒に入浴中これをきいたか、呉氏が、浴室からでてくると、読売の係りの者に、対局中は旅館から一歩もでてはいけない。それがタテマエでしょう。特にこんな大事な対局ですから、と、言葉はきわめて穏かであるが、奥にこもる気魄と闘志、もの凄まじい。けだし、呉氏がまだ五段のころ、本因坊秀哉名人と何ヶ月にわたって骨をけずるような対局をした。そのとき、秀哉名人が封じ手のあと、一門とはかって、次の手を考えて妙手を発見したとやら、風説があるのである。そんなことがあるから、勝負に必死の呉氏、言葉は静かであるがゆずらない。自動車で家へ戻って、玄関から中へ上らず、忘れ物を受けとって、すぐ戻る、と呉氏が深く信頼している読売の黒白童子を立会人とし、自動車に同行せしめることゝして、呉氏承諾。この車に同車して僕も一応家へ帰る。本因坊に、今日の勝負の感想を問うと、まだ分りません。二日目の午後、三日目の午前中が勝負どころになるでしょうと、答えた。翌朝八時に、もみじ旅館へ到着すると、ようやく呉氏が起きてきたところだ。食事です、という女中の知らせにも拘らず、食卓へ現れず、しきりに荷物をゴソ/\かきまわしているから、さては持参の卵とリンゴを探しているな、と女中が察して、「卵は半熟が用意してございます。リンゴもおむき致しましょうか」、「えゝ、朝はね」と、うなずいて、食卓についた。ミソ汁と卵とリンゴ、ゴハンは朝はたべない。

 今日は階下の奥座敷で対局。呉氏、今日は半袖ワイシャツに白いズボン。昔、金満家の大邸宅だったというこの旅館の庭は、深い緑が果てもなく、静寂が、目に心にしみてくるのであるが、こう猛暑では、何がさて、あつい。私も色々の対局を見たが、対局に、こんなに思いやりを寄せる旅館は、初めてだ。こゝのマダムが囲碁ファンで、まだ若い美人にも似ず、相当に打つのだそうである。今日は、立会人のほかは、全然見物なし。呉氏も今日は、目をパッチリと、ねむそうだった昨日の面影はミジンもない、貧乏ゆすりをしながら、食いこむように、かがみこんで考えている。本因坊は、まさしく剣客の構えである。眼は、深く、鋭く、全身、まさに完全な正眼だ。両方で、時々、むずかしい、と呟く。十時にビワがでる。本因坊はアッサリ食べ終り、呉氏はビワと格闘するように食べ終って、ギロリと目玉をむいて、盤を睨む。国籍異る世界最高、第一人者が名誉をかけて争う国際試合は、日本の歴史において、これが最初だ。果して、この歴史的争碁が、いかなる結果に終るであろうか。
 第6局終了時点で呉清源の5勝1敗。先相先に打ち込む。第10局まで打たれ呉清源の7勝2敗1ジゴで1949.2.24日に終了した。

 8.29日、読売新聞社主催の第1回社会人団体選手権大会決勝戦を日本棋院で挙行、荒物商組合が優勝。
 12月、藤沢朋斎(ほうさい)、杉内雅男5段ら若手棋士9名が黎明会を結成、会員はその後12名。囲碁新社メンバーが日本棋院に復帰すると合流した。3段から8段まで全員が互先4目半コミ出しで対局するという仕組みで、棋譜は東京日日新聞に掲載されたが、1950年に東京日日新聞が毎日新聞に合併されて解散した。
 瀬越が読売新聞紙上での失言により理事長を辞任。岩本薫が日本棋院理事長に就任した。岩本薫が本因坊2期の実績により当時の最高段位8段に推挙された。

【升田幸三物語】
 2019.12.27日、将棋ライター /松本博文 「名人に香車を引いて勝つ」「たどり来て未だ山麓」「新手一生」升田幸三元名人の名言と戦後の将棋史」。
 【前記事】

 将棋史上の大天才・升田幸三 その唯一の弟子・桐谷さんが師匠を語る

 年末年始、テレビでは特番が放映されます。そうした中で、石田九段将棋チャネルでは、12月30日に「大山、升田の知られざるエピソード」、1月2日に「空前絶後、大山、升田の香落戦」が配信されるそうです。石田九段と桐谷七段が昭和の巨匠の思い出話を語り、新進気鋭の佐々木勇気七段が升田-大山の歴史的な対戦を語る。これは見逃せません。

 オールドファンであれば、木村義雄14世名人(1905-86)、升田幸三九段(1918-91)、大山康晴15世名人(1923-92)による戦後の将棋史は既にご存知のことと思います。本稿では新しいファンのためその概略と、升田九段の多くの名言をご紹介したいと思います。

 升田少年は広島県三良坂町(現三次市)で生まれ育ちました。そして将棋指しをこころざし、母の反対を振り切っての実家を飛び出します。その際に、物差しの裏に「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書き置きを残しました。升田少年はまだ将棋界のことをよく知らなかった。広島市内で一番強い将棋指しに勝ったら、さらなる飛躍を求めて大阪に行くという意味だったようです。ただし少年の夢であった、日本一の将棋指しになるという決意がよく示されていることに違いはないでしょう。この言葉は後年、「名人に香車を引いて勝つ」と表されるようになります。これはまた、夢のような話です。古来、名人が下位者を相手に香車を引く(香落のハンディで指す)ことは多くありました。しかし香車を引かれるようなことは、制度上ありえませんでした。

 升田幸三少年は知遇を得た人の紹介によって、大阪の木見金治郎八段(後に九段)の門下となります。升田少年は内弟子として木見八段の家に住み込み、将棋以外の雑多な仕事をこなしました。そこではずいぶんと苦労をしたそうです。「一人前になるには五十年はかかるんだ」。升田少年は自らにそう言い聞かせながら、修行に励みました。

 【参考記事】

 「四段」「八段」「タイトル防衛」将棋界における「一人前」という言葉の使われ方

 升田少年は才能があり、また努力も怠りませんでした。順調に実力を伸ばし、やがて木村義雄名人の後継候補の筆頭にも目されるほどに強くなります。しかし升田青年にとって不幸だったのは、二十代半ばの指し盛りの時期が、戦争と重なってしまったことでした。升田青年は一人の兵士として南方のポナペ島(ポンペイ島)に送られ、そこで危うく命を落とす危機にも遭っています。

 戦後、日本に帰国した升田青年は、実力通りに名人位に近づいていきます。1946年に始まった第1期順位戦では、B級からA級に昇級しました。1947年。戦前に不敗を誇った木村義雄は、名人戦七番勝負で塚田正夫(1914-77)に敗れます。ここで実力制名人戦史上初めて、名人位が交替しました。第2期順位戦。升田八段はA級で1位の成績を挙げました。現在の規定であれば、これで名人挑戦権獲得です。しかしこの時の規定ではA級1位、2位、3位とB級1位がプレーオフをおこなうことになっていました。前年に升田がB級で抜群の成績をあげたためにその変更がなされたわけですが、運命は皮肉な形で、升田八段に不利にはたらいたことになります。そしてまた皮肉なことに、升田八段が名人挑戦者決定戦で対戦することになったのは、B級から勝ち上がってきた大山康晴七段でした。両者は同じ木見金治郎八段(没後追贈九段)門下で、兄弟弟子の関係にありました。兄弟子の升田は常に弟弟子の大山に先行する立場でした。「打倒木村」を標榜する升田に、いつしか大山が追いついてきていたわけです。

 挑戦者決定戦の三番勝負は、真冬の高野山でおこなわれました。下馬評ではもちろん、升田八段圧倒的有利。しかし大山七段の実力は既に、兄弟子に迫るところまでに来ていました。 1勝1敗で迎えた第3局。大熱戦を経て、最終盤は升田八段必勝となりました。大山七段は飛車を成り込んで升田玉に王手をかける。対して升田八段が手堅く合駒を打てば、ほぼそれまででした。しかし升田八段はそうせずに玉を逃げてしまう。そして大山七段が升田玉を詰め上げるという、世紀の大頓死となりました。「錯覚いけない、よく見るよろし」。升田八段はそう言って、悲しくおどけたそうです。もしここで升田が名人挑戦権を得て、相性のいい塚田名人に挑戦していれば、升田は名人となり、名人戦で連覇して、木村の次の永世名人になっていたかもしれない。多くの升田ファンは後に、そんなことを思って慨嘆することになります。

 1948年。塚田名人は大山八段の挑戦を退けました。翌1949年。今度は木村前名人が塚田名人にリターンマッチを挑んみます。そして木村名人復位となりました。木村名人と升田八段は戦後、熾烈な競争を繰り広げました。両者は盤上だけではなく、盤外でも張り合いました。1949年、金沢でおこなわれた全日本選手権の対局の前夜。木村名人と升田八段の間では、豆腐は木綿ごしがいいのか、それとも絹ごしがいいのかという、他の人にとっては「どっちでもええやないか」ということまで、言い争いのタネとなりました。

 木村さんがトウフを突っつきながら、「トウフってのは、うまいもんだね。それももめんごしがいい。絹ごしってのは、歯ごたえがなくていけないよ」という。名人のお言葉だから、関係者一同、ヘイさようでございと相槌を打つ。その図がいかにもおかしかったんで、私はついこういってからかった。「もめんごしなんて、ニガリが強くて食えたもんじゃない。トウフは絹ごしが上等と決まっとるんだ。名人は貧乏人の息子だから、絹ごしの味がわからんのと違うか」。自分が五反百姓のせがれなのはそっちのけで、いいたいことをいう。続くこの後が、将棋史中、白眉の名シーンです。そのうちバカバカしくなって、 「名人がなんだ。名人なんてゴミみたいなもんだ」といってやった。これには木村さんもムッとして、「名人がゴミなら君はなんだ」 と切り返してきた。「私ですか、さあ、ゴミにたかるハエみたいなもんですな」 。(出典:升田幸三『名人に香車を引いた男』) この一連のやり取りは「ゴミハエ問答」と呼ばれます。「名人なんてゴミみたいなもんだ」。将棋界の第一人者である名人を前にしてそんな発言をする棋士は、後にも先にも、升田八段ぐらいでしょう。

 1951年。升田八段はついに名人戦七番勝負に名乗りをあげ、木村名人に挑むことになります。しかしこの時は2勝4敗で退けられました。1952年。第1期王将戦の七番将棋において、今度は升田八段は木村名人を圧倒します。そして4勝1敗という成績を挙げました。現代の王将戦「七番勝負」では、どちらかが4勝をあげた時点で閉幕です。しかし当時の王将戦「七番将棋」の規定では、そうではなかった。3番差がついた時点で王将位が確定し、その上で手合が改められ、「半香」(平手と香落が一組の手合)に指し込まれることになりました。つまりこの時、升田八段は木村名人を相手に香を引いて指すことが決まったのでした。升田少年が描いた「名人に香を引いて勝つ」という途方もない夢の「名人に香を引く」というところまでは達成されたわけです。ただしその香落番は指されませんでした。升田新王将が対局を拒否したためです。この大事件は対局場の名にちなんで「陣屋事件」と呼ばれます。陣屋(現在の名称は「元湯 陣屋」)とは神奈川県・鶴巻温泉の名宿です。将棋界では現在もここで、多くのタイトル戦がおこなわれています。木村名人との香落番がおこなわれる前日。升田新王将は付添もなく、一人で陣屋を訪れることになった。そして入口でベルを鳴らしても誰も来なかった。升田は腹を立て、日頃の不満が爆発して対局を拒んだ・・・というのが一応の概略です。ただし升田の本心は名人にの権威に傷をつけたくなかったという点にあり、ベルがどうこう、というのは口実だったようです。

 当時の若女将(おかみ)宮崎カズヱさんは「ベルは飾りでした。升田先生はそれをご存じでした」という。出典:谷口牧生「朝日新聞」1995年6月9日夕刊

 激しい気性と思われる升田には、実はそうした繊細な一面がありました。

 升田は栄光から一転、将棋連盟の理事会側から対局拒否をとがめられ、出場停止の処分を科されそうになります。将棋界は升田非難と升田擁護の二派にわかれ、大変な騒動となりました。そこで事件の当事者であり、また将棋界の中心人物でもある木村名人が裁定が一任され、升田の行為は実質的に不問に付されることになりました。升田は当時の心境を色紙に書き、陣屋に残しています。「強がりが雪に轉んで廻り見る」。

 同じ1952年。名人位は47歳の木村義雄から29歳の大山康晴へと移りました。「良き後継者を得た」 。名人戦で敗れた直後、木村はそんな言葉を残しています。ほどなく、木村は現役生活を引退することになりました。兄弟子の升田に先んじて名人になった大山は、着実に将棋界の第一人者としての実績を積み重ねていきます。このまま大山名人の天下が続くかと思われたところで、升田八段は反転攻勢に出ました。

 1955年度。升田八段(当時)は王将戦七番将棋で、大山康晴王将(名人)に挑戦しました。そしてこれまでのうっぷんを晴らすかのように3連勝で圧倒します。名人を半香の手合に指し込んだ升田新王将は、香落番でも勝利。「名人に香車を引いて勝つ」という、少年時の夢を達成しています。

 1957年。王将位、九段位を併せ持つ升田二冠は、大山名人から、名人位も奪いとりました。当時のタイトルは、その3つしかない。升田は史上初めて、三冠同時制覇を達成したわけです。そこで升田三冠はこんな言葉を残しました。「たどり来て未(いま)だ山麓」。数ある名言の中でも、特に人気が高い言葉です。これは升田の謙虚さの表れでもあり、また自戒の言葉でもあったのでしょう。升田が普段自宅で使っていた駒箱の蓋には、次のように記されていたそうです。 「たどり来て未だ山麓 大名人 升田幸三」。謙虚な言葉を残す一方で「大名人」「超名人」「名人の上」など、思わず笑ってしまうような威勢のいい肩書を名乗るあたりも、升田幸三の魅力と言えるのでしょう。

 「新手一生」(しんていっしょう)。これが升田九段生涯のモットーです。お墓にもその言葉が刻まれています。升田九段は将棋界史を変えるような創造的、革命的な新構想をいくつも編み出した上で、木村14世名人、大山15世名人といった史上最強クラスを相手に、目の覚めるような鮮やかな勝利を収めてきました。さて、数ある升田名言の中で、筆者が特に印象深い一つを選ぶとすれば、元日に詠んだというこの一句です。「昨年のままで結構 女房殿」。人間・升田幸三の魅力と優しさを伝えて余りある、名句ではないでしょうか。

 松本博文 将棋ライター

 フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力し、「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『あなたに指さる将棋の言葉』(セブン&アイ出版)など。


 1949(昭和24)年
 中華人民共和国建国。 

 4.27日連載「呉-藤沢秀行(先)」、呉白番5目勝。
 5.18日、囲碁新社を創立して日本棋院を離脱した8人の棋士(前田陳爾7段、坂田栄男7段、梶原武雄5段、山部俊郎4段、桑原宗久3段、塩入逸造3段、児玉国男3段、石毛壽久夫2段)全員が日本棋院に復帰した。
 5.19日、藤沢庫之助8段(31歳)が春の大手合で前田陳爾7段に勝ち、昇段点に達したことから9段に昇段した。日本棋院創立以来の大手合制度による初の9段として藤沢庫之助(朋斎)9段が誕生した。
 5.26日、「呉-杉内雅男(先)」、杉内先番4目勝。

【藤沢庫之助8段が史上初めて9段に昇段】
 6.8日、藤沢庫之助8段が大手合の圧倒的成績で9段に昇段する。大手合制度が始まって以来 初の9段が誕生した。これにつき、週間碁(2022.8.1日号)の秋山賢司「碁界の礎百人/連載25」が次のように解説している。
 「昭和10年代後半から20年代前半の碁界を賑わせたのは、呉清源を中心とする十番碁(読売新聞)、本因坊戦(毎日新聞)、そして昇段を争う大手合(朝日新聞)である。木谷實と呉が昭和17年に8段昇段を果たしてからは、どちらが先に9段に進むのかが焦点だった。しかし両者の白番が多くなったため成績は落ち、9段は遠くなるばかり。しかも呉は19年秋からすべての対局を休み、宗教活動にのめり込む始末だった。(戦後の昭和)21年には橋下宇太郎と藤沢庫之助、23年には岩本薫が8段に昇り、9段一番乗りを争った。

 この中で圧倒的な勢いで勝ち進んだのが最も若い藤沢だった15歳入段、16歳2段、17歳3段、18歳4段、19歳甲組4段、21歳5段、23歳6段、25歳7段、28歳8段と、最速昇段を記録。24年春には9段の昇段点に達したが、内掛けや不戦の碁を加味したもので、他から文句をつけさせないためにも、残る3戦(対前田陳爾、坂田栄男、岩本薫)に白番で2勝する必要があった。まず前田に勝ち、迎えたのが少年時代からの好敵手の坂田戦だった。

 白14でまね碁。藤沢は白番でしばしばまね碁を試みている。白16で変化。黒41からの接近戦がすさまじい。黒65、39はしのぎの坂田らしい冴え。対する藤沢の白120もしのぎの好手。これがないと、黒147、白145、黒Aで窮する。白126から黒153までの大振変わりはわずかに白有利。こうして藤沢は31歳で大手合制初の9段に昇り、頂点をきわめた」。
 藤沢庫之助のプロフィ-ルは次の通り。

 大正8年、横浜市生まれ。7歳の時東京目白のしろうと囲碁大会に5級で出場、優勝。日本棋院の院生となり昭和8年に入段、とんとん拍子に昇段、21年に8段、24年日本棋院初の9段に押され、最短昇段の記録を立てた。しかし26-8年、再度の呉清源との十番碁に敗れ、棋院を脱退。31年、庫之助を朋斎と改名し、34年棋院に復帰。以来、5、6期早碁名人、高松宮賞などを獲得。39年、半田10段を3対2で破り、関西棋院から10段位を奪取する立役者となった。

 6月、5期本因坊戦「岩本薫-橋本宇太郎」。
 橋本宇太郎が●●●●の0-4で新本因坊となった。橋本の本因坊就位式の席上、津島寿一・日本棋院理事長が、「これまで1期2年であった本因坊戦を、時代の要求に従って来期から1期1年に改めたい」と発言し、事前に一言の相談も受けていなかった橋本を始めとする関西棋士の面々が激怒するところとなった。これが尾を引き、関西棋院独立へと経緯する。

【「呉対日本棋院高段者10名総当たり打ち込み十番碁」】
 呉清源を9段に昇段させ、打ち込み十番碁によって事実上の名人を決めるべし という機運が高まった。9段昇段のための試金石として「呉対日本棋院高段者10名総当たり打ち込み十番碁」が始まった。手合割りは六段定先、七段先相先、10局中8局が呉の白番でコミなし。
6.27日連載 呉-小泉重郎(先) 呉白番中押勝。
8.1日 呉-長谷川章7段(先) 呉白番5目勝。
8.24日 呉-梶原武雄6段(先) 呉白番勝。
9.1日 呉-梶原武雄(先) 呉白番勝。
9.20日 呉-窪内秀知6段(先) 窪内先番4目勝。
 この十番碁は1949年7月から翌年2月にかけて打たれた。相手は、長谷川章七段、梶原武雄六段、窪内秀知六段、高川格七段、細川千仭七段、宮下秀洋六段、林有太郎七段、前田陳爾七段、炭野武司六段、坂田栄男七段。窪内六段が黒番4目勝ち、炭野六段が持碁。呉の8勝1敗1持碁で終了した。その成績が評価され日本棋院から呉に九段位が贈られた。呉35歳の時。

 10.2日、日本棋院が、大手合で初の9段として藤沢庫之助9段が誕生したことを受け「日本棋院囲碁規約」(10章70条で構成)を制定し発表した。「名人位に関する規定」は、(1)段位9段であること。(2)七段以上と18局打ち平均65点以上の成績。(3)本因坊戦で優勝経験者、の三条件を満たしたら「名人選考委員会」にかけるとしていた。これが「名人戦創設前の名人ルール」となる。但し、具体的な棋戦などは定めていない。

 10.18日、「高川秀格-呉(先)」、呉先番勝。
 11.8日、「呉-細川千仞7段(先)」、呉白番2目勝。
 12.1日、「呉-宮下秀洋7段(先)」、呉白番勝。
 第6次呉清源十番碁(7勝1敗1ジゴ)岩本薫8段。
 「藤沢庫之助8段-坂田栄男」。
 12.4日、「呉-宮下秀洋(先)」、呉白番勝。
 11.18日、日本棋院は呉清源8段を名誉客員にすると発表した。(呉清源8段は1947.8月、本人に無断で日本棋院を除籍されていた)
 12.15日-16日、「前田陳爾(先相先)-呉清源(先)」、呉先番中押勝。
 3.22日、前日本棋院総裁/牧野伸顕生没(享年89歳)。

 1950(昭和25)年
 朝鮮動乱始まる。

 1.1日、「呉-林有太郎7段(先)」、呉白番1目勝。
 1.31日、「前田陳尔7段-呉(先)」、呉先番勝。
  2.15日、日本棋院は、藤沢庫之助9段誕生を受け、戦前より当時の一流棋士たち相手に十番碁を何度も行い、その全てに勝利し8勝1敗1ジゴと圧倒した実質碁界NO1実力者の呉清源8段の9段認定問題を審議し、日本棋院から九段に推挙される形で、理事会で名誉客員にして9段を贈呈することを正式に決定した。日本棋院で2人目の9段になった。2.25日、贈呈式が行われた。呉清源は「昭和の棋聖」と呼ばれた。
 2月、日本棋院と関西棋院の間で東西対抗戦が行われた。東軍が7-5で勝ち、続いて行われた勝ち抜き戦でも梶原武雄6段が橋本まで4人抜きした。
 「橋本宇太郎-山部俊郎(先)」、橋本(宇)白番中押勝。橋本宇太郎が西軍の主将として出場し、東軍の山部俊郎5段に勝つ。この碁では黒番山部が第1着を天元に打ち、白は2手目でその石にケイマにカカるという破格の序盤で話題になった。勝ち抜き戦では橋本が最終局に登場し梶原武雄6段に敗れた。

 呉が九段に昇段したのを機に、読売新聞社が主催して「呉対七・八段戦」が50年春から51年秋にかけて行われた。七段にはオール向先、八段には向先相先の手合で、13人と対局し、呉の黒番は1局。

 2.28日、「呉-炭野武司6段(先)」、。
 3.31日、「呉-坂田栄男7段(先)」、呉白番勝。
 3月、第5期本因坊リーグが橋本宇太郎 5-1、藤沢庫之助 3-3、木谷實 3-3、林有太郎 3-3、長谷川章 3-3、高川格 3-3、鈴木憲章 1-5となり、橋本宇太郎がほ挑戦権を得る。岩本薫和本因坊と挑戦者・橋本宇太郎による7番勝負が始まり、第1、2局は日本棋院、第3、4局は大阪の関西棋院で行われ、挑戦者の橋本宇太郎が4連勝し、第3期に岩本に奪われた本因坊位を奪還した。橋本は2度目の本因坊位獲得。観戦記を、第1局は火野葦平、第3、4局を京大の貝塚茂樹、高坂正顕が執筆した。
 第5期本因坊リーグから「参加棋士/日本棋院(関西棋院を含む)の棋士の5段以上。5段級予選、6・7段級予選の勝ち抜き者4名と八段位3名の計7名による挑戦者決定リーグ戦を行う。 コミは4目半。持時間は、リーグ戦は各10時間、挑戦手合は各12時間」、予選トーナメントを経て挑戦者決定リーグ、挑戦手合7番勝負へ進むという、その後の本因坊戦の仕組みが定着し、また掲載紙の毎日新聞では七番勝負の観戦記を作家が執筆するのが慣例となった。
 5.1日、「呉-加藤信8段(先)」、呉白番4目勝。
 5.11日、瀬越憲作8段が、ハワイ棋院の招請により横浜出帆。
 5.19日、橋本昭宇本因坊の第5期本因坊継承式典挙行。
 5.25日、「呉-林有太郎7段(先)」、呉白番勝。
 5月、第5期本因坊の就位式で、日本棋院理事長・津島寿一が、これまでに1期2年だったのを次期から1期1年に改めたいと発言(「本因坊戦は第6期から1期1年制とする」)し、これを橋本らに根回ししていなかった為に関西棋院独立派が激しく反発し、日本棋院からの独立を決定的なものにした。

 6.13日、「呉-前田陳尔7段(先)」、呉白番4目勝。
 7.4日、「呉-坂田栄男(先)」、呉白番勝。

 7月、毎日新聞社主催で【呉・本因坊昭宇(橋本宇太郎)三番碁】が始まる。呉3勝0敗。

【呉清源打込み十番碁6「橋本宇太郎との第2次十番碁」】
 7.25日、読売新聞主催の呉清源打込み十番碁6「橋本宇太郎との第2次十番碁」が始まる。岩本薫和を破って本因坊に返り咲いた橋本宇太郎(本因坊 昭宇)8段との第二次打ち込み十番碁となった。手合割は第一次の結果を引き継いで橋本の先相先、二日間打切り、持ち時間各10時間。読売新聞の観戦記が五代目多賀谷覆面子から六代目覆面子山田虎吉の担当になった。この時、読売新聞が次のような社告を出して盛り上げようとしている。
 「呉氏と藤沢庫之助九段との顔合わせは呉氏がいつでも受けて立つ気構えでいるにもかかわらず、なぜか藤沢九段は打とうとしないために実現せず、しかも昇段後の藤沢九段はスランプ気味で、(中略)橋本本因坊が本因坊戦に優勝するに及んで碁界の関心は『呉・藤沢』の顔合わせから今や完全に『呉・橋本』に移った感があり、本社は藤沢九段の立ち直る日を期待しつつこの『呉・橋本』十番碁を行うことになった」。

 藤沢九段は即座に「棋道」8月号に反論を掲載し、盤外戦が火花を散らしていた。
 2回目の十番碁。手合いは一段差の先相先。対局場は箱根の強羅。呉の白7目勝ち、十番碁の初戦を飾った。第2次十番碁第5局で、ここまで呉の2勝1敗1持碁。呉の黒番中押勝ち。この十番碁は呉の5勝3敗2持碁。本因坊を相手に一段差の先相先の手合での好成績となった。

【関西棋院独立騒動】
 7月、大阪で日本棋院から関西独立の声が高まり関西棋士は橋本宇太郎(43歳)らの独立派と光原、細川らの協調派に分かれた。独立派は数名の仲間といっしょに独立宣言して「関西棋院」(総帥・橋本宇太郎)を創設した。
 9.2日、関西棋院と日本棋院の対立がさらに紛糾し、関西棋院が評議員会を開き、これまで事実上日本棋院の下部組織だった実態から完全に独立した組織となることを宣言した。具体的には、関西棋院が独自の免状の発行権を持つこと、新聞社との契約を日本棋院とは別に自由に持つこと、本因坊戦と大手合に関西棋院棋士の参加を認めることを申し入れた。これにより日本棋院の最高位であった本因坊位が関西棋院に奪われた形となった。本因坊家が本因坊位を日本棋院に託した経緯もあり日本棋院には「本因坊位を剥奪しろ」という強硬な意見もあったが「実力で取り返すべき」という意見が大勢をしめ、翌期以降の本因坊戦は日本棋院と関西棋院の両方の棋士の参加で行われることとなった。
 9.13日、日本棋院新会館(高輪)創設の資金集めをきっかけに従来から東京中心の棋院運営に不満を持っていた関西棋院の棋士が橋本宇太郎8段を頭にして、関西棋院独立を宣言した。

 9.13日、「呉-光原伊太郎7段(先)」、呉白番勝。
 「呉-橋本第2次十番碁」
9.28日 呉-橋本宇太郎8段(先)」 
10.1日 呉-橋本宇太郎(先) 橋本先番1目勝
翌2.1日 呉-橋本宇太郎(先) 橋本先番勝
 10.1日、「呉-宮下秀洋7段(先)」、宮下先番勝。
 11.1日、「呉-宮下秀洋(先)」、宮下先番勝。
 12.1日、日本棋院関西総本部規定が制定される。
 12.20日、関西棋院の設立式が行われた。関西の日本棋院協調派(光原伊太郎、細川千*刃、瀬川良雄ら)が「日本棋院関西総本部」を創設する。以後、関西棋界は関西棋院と日本棋院関西総本部に分裂し、両立したまま現在に至っている。
 12.4日、福田6段が北米行脚に出帆。
 12月、読売新聞が、藤沢と呉の二人の9段のどちらが強いのかを争わせる両者の十番碁を企画し、読売が紙上で「なぜか藤沢庫之助九段が十番碁に参戦しない」と煽り、藤沢が棋道で「私はいつでも立つ」と反論していた件で、和解が成立。翌年、呉-藤沢の十番碁が始まることになつた。
 9.10日、瀬越8段等が、御城碁譜整理配布委員会により御城碁譜十巻刊行開始。
 5.10日、喜多文子6段が生没した(7段追贈)。

【戦後復興期】

 1951(昭和26)年、。
 対日講和条約締結、日米安全保障条約調印。

 1.1日、「呉-細川千仞(先)」、呉白番6目勝。
 1.15日、「呉-長谷川章7段(先)」、呉白番勝。
 第1期日本棋院最高段者トーナメント「坂田栄男-細川千仭」。
 坂田が2-0で勝ち初の棋戦優勝。
 2.15日、日本棋院、毎日新聞社共同主催のアマチュア5段獲得戦始まる。
 4.11日、「岩本薫-呉(先)」、岩本白番3目勝。
 5.17日、「岩本薰-呉(先)」、岩本白番3目勝。

【第6期本因坊戦「橋本宇太郎-坂田栄男7段」】
  5.30ー6.1日、第6期本因坊戦「橋本宇太郎-坂田栄男7段」。「火の玉宇太郎-カミソリ坂田(31歳、7段)」の闘いとして注目された。日本棋院の若きエース坂田がビッグタイトルに出た最初の決定戦だった。第1局は、歴代本因坊の菩提所となっている東京巣鴨の本妙寺で打たれた。「橋本宇太郎-坂田栄男(先)」で坂田が先番中押勝。第2局は宇治の花屋敷で打たれ、「坂田栄男-橋本宇太郎(先)」で橋本が先番4目半勝。第3局は、岐阜の下呂温泉の湯之島館で打たれ、坂田の先番2目半勝。第4局は、鶴巻温泉の陣屋で打たれ、坂田が白番中押勝。坂田3勝1敗で橋本をカド番に追い込んだ。

 橋本のファンが「もう勝負のことはどうでも良いから、関西棋院のことなど忘れて立派な碁を打って来い」を始めとする激励の手紙が数多く寄せられたという。坂田に対しては日本棋院が激励会を開いたが、その雰囲気は既に祝勝会だったと云う。橋本(本因坊昭宇)は、第5局の行われる昇仙峡に向かう途中で身延山に参詣し、対戦場に着くと「昇仙峡の水で首を洗って来ました」と記者にコメントを残し対局に臨んだ。他方、坂田の心境は次のように述懐している。
 もう負けることなど考えなかった。橋本さんもみんながいうほど強くない、俺が一番強いんじゃないか。本因坊になったら名前を何とつけようか、などと甘ったれ、気分は宙に浮いていた。

 第5局「甲府昇仙峡の昇仙閣、橋本が白番10目半勝」。橋本は本局も非勢で、黒番の坂田が黒99の前に黒122とフクれ白121と交換すれば勝ちが決まっており、黒145の手で146なら勝勢だった。橋本は白146の妙手で白番10目半勝した。「昇仙峡の逆転劇」と語り継がれる。

 第6局「三朝温泉の岩崎旅館、橋本の黒番10目半勝」。坂田は好局を落とした。
 第7局「伊勢長島の賢島観光ホテル、橋本が黒番3目半勝」。対局は27日-28日となっているが終局は翌29日午前0時45分。橋本が3連勝し、●○●●○○○の4-3でタイトルを防衛した。坂田は3勝1敗と相手を角番に追い詰めながら3連敗の大逆転で敗れた。「関西棋院の命運を決した昭和の大争碁」となった。橋本は後に次のように述懐している。
 「碁が終わったとき、流れる汗を拭きながら、私は身体中の関節ががたがたとはずれて行くような気がした。この7番勝負は、50年にわたる私の棋歴の中でも、一番ずっしりとした重みを持った勝負であった」。

 破れた坂田は次のように述懐している。
 「カド番に追い詰めて気持ちが浮つき、集中力を欠いてしまった」。
 「5局目は中盤まで良かったが、早く決めたいと焦り、自滅してしまった。その後、6、7局ともズルズルと負けてしまった。そこで思うんだが、勝負では3勝まではできるんですよね。野球の日本シリーズで3連勝4連敗の例もあるように、4勝が如何に難しいことか、当時の私は知らなかった。何しろ初めての挑戦だったから、3勝したから勢いで4勝できると思った。それが浅はかで、雑念が入った。3勝と4勝の差を身にしみて感じました。その後の十年が長かった。大きな意味でのスランプだったのでせうね。小さなタイトルは取ったが、本因坊の挑戦者になれず、十年後に挑戦者になり、やっと念願の本因坊を手に入れたのです」(「勝負の世界2」21P)。

 橋本宇太郎の大逆転勝利は、関西棋院の存亡の危機を凌ぎ、組織を固める大幸運となった。

 6.20日、「呉-高川格(先)」、高川先番3目勝。
 6月、第1期全日本女子選手権戦(女流本因坊戦)伊藤清子優勝。
 7.9日、「呉-篠原正美7段(先)」、呉白番2目勝。
 7月、「呉-本田辉子(2子)」、本田先番中押勝。
 8.9日、読売新聞主催の呉清源打込み十番碁6「橋本宇太郎との第2次十番碁」の第10局。1950年7.25日にスタートした呉・橋本第二次打ち込み十 番碁は1951年8.9日に第10局を打ち終え、結果は呉清源の5勝3敗2ジゴに終わった。第9局と第10局の間に丸々4か月のブランクがあるが、その間橋本は一期一年に改められた第6期の本因坊戦七番勝負(4月14日~6月28日)を戦い、坂田7段を退けて防衛に成功している。独立間もない関西棋院(1950年~)の総帥として命運を 賭けた戦いだった。
 9.1日、「呉-島村利博7段(先)」、白番3目勝。
 9.21日、「呉-瀬越憲作8段(先)」、呉白番勝。「呉対七・八段戦」の最終局。対局場で師の瀬越が下座に着こうとするのを呉が反対し上座に着いてもらう。着座してすぐ、「論語に、知者は動き仁者は静なりとあるが、呉さんは仁者だね」、「先生、そりゃ違います。私はリキがつく方で、ジンリキシャです」の会話。呉の勝ち。
 日本棋院最高段者トーナメント戦(新聞囲碁連盟)坂田栄男。同棋戦は昭和33年第4期で終了、日本棋院第1位決定戦に発展する。
 10.1日、毎日新聞主催で呉清源と藤沢朋斎の4番碁が行われる。【呉清源が藤沢庫之助9段と毎日新聞「決戦四番碁」】、先番4目半のコミ制で呉4勝0敗、藤沢が4連敗する。
 10.14日連載「呉-鲷中新(先)」、鯛中先番3目勝。

【呉清源打込十番碁7「呉清源-藤沢庫之助9段」(第2次十番碁)】
 10.20日、読売新聞主催の呉清源打込み十番碁7「呉清源-藤沢庫之助9段との打ち込み十番碁」(第2次十番碁、27年まで)。当時、2人しかいない九段の対決であり、読売新聞社は一面の社告で大々的に宣伝した。事実上の名人決定戦たる呉・藤沢両九段の打込み十番碁は、二年越しのごたごたにようやく収まりがつき、1951年10月20日に晴れて第1局が行なわれる運びとなった。持ち時間は長考派の藤沢が13時間、呉が10時間を主張し、呉が譲歩して三日間打切り、持ち時間各13時間、互先手合となった。読売社告が7月に掲載され、「全国の囲碁ファンが久しい間熱望してやまなかったもの」とした。

 打ち初め当日の読売新聞朝刊には「素人五段」鳩山一郎の談話が載り、翌日の経過速報に合わせて梅崎春夫の観戦記も掲載された。梅崎春夫の観戦記は第1局の決着が付いた10月23日の翌日の朝刊にも続編が掲載されるという念の入れようだった。「昭和 最大の争碁」と大見出しで謳いあげられた。

 「世紀の打込み十番碁」は、前半戦において藤沢が2勝1敗1ジゴとリードしたが、天王山の第5局を制した後は呉が一気呵成に寄り切った。9局目で呉6勝2敗1持碁で先相先に打込む。そのまま第10局も勝って7勝2敗1ジゴで打ち終えた(1952年7月4日)。

10.20-22日
第1局 「呉清源-藤沢庫之助(先)」、呉白番中押勝
( 日光輪王寺「聖跡の間」)
 実戦は終局直前、白4までで黒が一手足らず投了し
たが
勝負を決める攻め合いで、両者共通の見落とし
で白番の呉が勝つというハプニング局となった。正しく
は中から詰めるのが妙手で黒有利な一手ヨセコウだっ
た。終局直後、記録係の塩入逸造四段が指摘し有名
になった。
11.10-12日 第2局 藤沢庫之助-呉(先)」、藤沢白番6目勝
第3局 「呉清源-藤沢庫之助(先)」、ジゴ
第4局 「藤沢庫之助-呉(先)」、藤沢白番勝
ここまで、白番を2局勝った藤沢が2勝1敗1ジゴのリ
ード。
第5局 「呉清源-藤沢庫之助(先)」、呉白番勝
第6局 「藤沢庫之助-呉(先)」、呉先番勝
1952.4月 第7局 「呉清源-藤沢庫之助(先)」、呉白番勝
(福島県飯坂温泉)
第8局 「」、呉*番勝
藤沢は4連敗を喫して先相先に打ち込まれるかどうか
のカド番に追い込まれた。
第9局 「呉清源-藤沢庫之助(先)」、呉白番勝
藤沢が先相先に追い込まれた。

 8.8日、日本棋院東海本部が、名古屋市中区酒井六段宅で棋士会を開き、差別待遇廃止要求案を決議し、日本棋院足立理事長宛に8.20日までの期限付きで回答を求めた。この要求が受け入れられない場合は日本棋院を離脱、関西棋院に合流するとした。東海本部所属棋士は6段1人、5段2人、4段8人、3段2人。
11.1日 藤沢朋斎-呉(先)」   藤沢白番6目勝
11.10-12日 藤沢庫之助-呉(先) 藤沢白番6目勝
12.1-3日 藤沢庫之助-呉(先) 呉先番5目半勝
12.10-12日 呉-藤沢庫之助(先) 呉白番2目半勝
12.22-24日 呉-藤沢庫之助(先)
 この年、初の女流棋戦「全日本女流選手権戦」(東京タイムズ)が始まる。第1期を制したのはベテランの伊藤清子(のち友恵と改名。1907-1987)。
 この年、朝日新聞が、呉清源、藤沢庫之助、橋本宇太郎、木谷實による四強争覇戦を企画したが、立ち消えとなる。
 1951年、江戸時代の御城碁の棋譜を収めた御城碁譜整理配布委員会(会長・大川鐵雄、瀬越憲作監修?)「御城碁譜」全10巻発行。
 この年2.1日、誠文堂新光社より月刊「囲碁」が創刊された。
 10.19日、高部道平棋正さ社9段が生没(享年70歳)。碁界の離散集合を多々主導したことで策士とも評されているが、中国での交流活動が評価されている。碁については、「形はいいが力が弱い」との呉清源評がある。
 この年、大竹英雄が9歳の時、北九州を訪れた木谷実9段に井目手合いで打ち、片っ端から白石を取りに行き、逆に惨々な目に遭わされた。局後、大竹少年が大声を上げて泣き出し、泣き止まなかった。その見事な泣きっぷりが見込まれて、木谷門下に迎えられることになった、と云う逸話を遺している。

 1952(昭和27)年、。

 1.29日連載「呉-杉内雅男(先)」、呉白番中押勝。
 1.31日、「藤沢庫之助-呉(先)」、藤沢(庫)白番勝。
 2.8日、日本棋院は、従来アマの最高位は4段までとしていたが、4段が増えたことにより最高位5段に踏み切った。
 当時唯一の実力最強者決定戦であった本因坊戦の第7期リーグ戦は木谷實、坂田栄男、宮下秀洋、鯛中新と高川の5人が4勝2敗の同率であったが、高川が鯛中、決定戦で坂田を破って挑戦者となった。

 1951年10月から53年3月にかけて、呉と藤沢庫之助九段は、読売新聞「打ち込み十番碁」と毎日新聞「決戦四番碁」で計20局対局した。「決戦四番碁」は呉が3連勝し4局目を迎えた。「十番碁」はコミなしなのでマネをしてもつまらないが、「四番碁」は先番4目半のコミがあり、藤沢は常用のマネ碁を打ってきた。本局はその後、115手まで黒の中押勝ち。
 「呉-藤沢第2次十番棋」。
2.20-22日 第*局「藤沢庫之助-呉(先) 呉先番勝
3.11ー13日 第*局「呉-藤沢庫之助(先) 呉白番勝
4.1-3日 第*局「藤沢庫之助-呉(先) 呉先番勝
4.24-26日
(福島県飯坂温泉)
第7局「呉-藤沢庫之助(先) 呉白番勝
5.14日 第8局「藤沢庫之助-呉(先) 呉先番勝
6.11-13日 第9局「呉-藤沢庫之助(先) 呉白番3目勝
7.1日 第10局「呉-藤沢庫之助(先) 呉白番勝

 第2次十番碁は、第5局まで2勝2敗1持碁、不思議なことに二人ともコミなしの黒番で勝てなかった。第6局で呉が黒番で勝ち呉の5勝2敗1持碁で、藤沢庫之助はカド番を迎えた。第7局の1日目の打ち掛けの後、両対局者は地元の卓球愛好家から誘いを受け、しばしラケットを握って気晴らしをしたという。卓球は呉の趣味のひとつだった。第7局も呉が白番勝ち。

 第9局は、白22まで白が好調だったが、終盤には黒が負けようがない碁になった。ところが藤沢に大錯覚があり、呉が勝って打ち込むことになった。藤沢九段大錯覚の様子を当時の観戦記は次のように伝えた。
 「藤沢氏の面上には名状すべからざる表情が浮かんでいる。序盤の非勢を中盤から終盤において営々挽回し、今となっては勝ちは動かぬと思われた碁が如何なる悪魔のみ入ったものか寸秒の間にドンデン返ったのである(中略)」。

 呉は第5局から一気の5連勝で藤沢9段を先相先に打ち込んで決着した。呉はテレビのインタビューに次のように答えている。
 「私は勝負は運だと思っています。私に運があれば勝つし、なければ打ち込まれたかもしれない」。

 当時の観戦記は次のように伝えている。
 「藤沢氏の面上には名状すべからざる表情が浮かんでいる。序盤の非勢を中盤から終盤において営々挽回し、今となっては勝ちは動かぬと思われた碁が如何なる悪魔のみ入ったものか寸秒の間にドンデン返ったのである(中略)」。

 第10局まで打たれ、呉の7勝2敗1持碁で終了した。

 3.24日、福田6段が北米行脚より帰国。
 6月、第7期本因坊戦「橋本宇太郎-高川格7段(37歳)」。対戦前評判は、「若手ナンバーワンの坂田が勝てなかったのだから、非力な高川では----」の声が多かった。第1局は、「碁の歴史で1、2を争う高川の尻抜け見損じ」を演出して、「やっぱり」との話題になった。
 第7期本因坊戦第4局 本因坊昭宇(先番)-高川格

 左下は高川の好みの定石。白は手厚く打ち、左辺の黒の打ち込みにも中央を止め、68手目の△の手は1時間半の長考で、その後左右の黒をにらみながら中央の地を大きくまとめた。立会人の岩本薫から「高川七段の傑作である」と評され、白番の名局として知られている。持ち時間については、高川が渉外理事の立場で毎日新聞と交渉し、第8期からは10時間と確定させた。


 8月、高川格が○●●●●の4-1で第7期本因坊となり、秀格を号す。橋本が「相手がぬるい手を打つので気合が入らない」とぼやいていたとか。高川は本因坊秀格と号した。これにより日本棋院は、本因坊位を持ったまま関西棋院として独立した橋本から本因坊位を奪い返したこととなった。高川は以降本因坊位を9連覇する。

 雁金準一が全本因坊全8段戦に出場、橋本昭宇に白番半目負け。
 8.4日連載「呉-宮下秀洋(先)」、呉白番中押勝。
 8.8日、「呉-黄水生(先)」、呉白番中押勝。
 8.29日、呉9段が訪台し大国手の称号を受けた。歓迎会の席上、林海峰少年(10歳)と6子局を打ち、1目勝つ。10月、林海峰少年の才能が認められ来日のきっかけとなった。
 9.1日、高川格7段の第7期本因坊継承式典挙行。(本因坊秀格と号す)
 10.1日、呉-藤沢第2次6番碁「呉-藤沢庫之助(先)」、呉白番勝。

【毎日新聞主催「呉・高川三番碁」】
 10.1日、毎日新聞による「呉-高川秀格本因坊三番碁」(高川の先相先)が開始する。呉の白番勝ち。椅子席の対局で、当時としては珍しい画期的な試み。第2局からは従来通り座敷で座って打った。
 10.*日、2局目。呉の白番勝ち。
 10.25-27日、呉-高川秀格第1次第3局「
呉-高川秀格(先)」、呉白番7目半勝。呉が3勝0敗。

【呉清源打込十番碁8「呉清源-藤沢庫之助9段の第三次打込十番碁」】
 10.10日、読売新聞主催の呉清源打込み十番碁8「呉清源-藤沢庫之助9段との第三次打ち込み十番碁」第1局。藤沢九段がリターンマッチを挑んできたことで成立した。覆面子の観戦記に曰く「藤沢九段には相当休養の期間を与えるべきだとの論もあった」(10月12日朝刊)という。前回、呉が打ち込んでいるので先相先の手合割りとなった。結果的に見れば頭に血が上った藤沢を冷静な呉がうまくいなした格好となり、5局まで呉の4勝1敗。第6局は藤沢のカド番で、対局前に「ぼくは辞表を懐にしてきた」と吐露。大フリカワリとなり黒勝ち。呉清源の5勝1敗で藤沢9段を定先に打ち込んだ(1953年3月4日)。

 第6局の後、川端康成が新聞に寄稿している。
 「今日の呉さんももちろん神の存在を思い、天を心に持っている。呉さんの早打ちは明敏な早見えのせいばかりでなく、おそらくこの天のせいでもあって、天才の天に対しなければ、呉さんには容易に勝てないのかもしれない(抜粋)」。

 呉は、この十番碁で再度藤沢を打ち込み、規定によりこの十番碁はここで打切りとなった。呉は藤沢と51年10月から1年半ほどの間に20局も対局し、呉の16勝3敗1持碁。昔から「名人」は同時代に一人しか許されず、トップの座の両者の対決が促され、呉が圧勝で決着させた。
 この頃の呉が愛用した星打ちと小目への一間高ガカリの布石は多くの棋士に用いられ、「昭和の1、3、5」と呼ばれた。 3月16日の読売新聞には川端康成が「日に新たなる者 呉清源の印象」と題さ れた長文の論評を寄せている。「初めの十番碁で打ちこまれた藤沢九段が、時をおかないで再び十番碁を挑んだのは、結果論からばかりではなく、どうかと思われる」と、川端は藤沢に対して手厳しい。打込み制は棋士生命をかけた戦いでもある。通常のタイトル・マッチなら負けても次があるが打込み制だとそうもいかない。二回連続して打込まれた藤沢は結局日本棋院を脱退し(1959年復帰)、名を庫之助から朋斎と改める仕儀となった。
11.10-12日 呉-藤沢庫之助(先) 藤沢(庫)先番勝
12.11-13日 藤沢庫之助-呉(先) 呉先番勝

 12.30日連載「呉-岩本薰(先)」、呉白番1目勝。
 この年、朝日新聞社は、大手合を発展させて将棋と同様の順位戦制度による名人戦を企画、呉清源にも出場の承諾を得て、契約金1千万円を提示した。日本棋院では渉外担当理事の高川格がこの推進役だったが、木谷實の「名人は作るものではなく、自然に生まれるまで待つべきもの」といった反対論も根強かった。棋士全員による評議委員会では1票差で賛成多数となったが、僅差であることを懸念した高川が理事長の三好英之と相談の上でこれを撤回し、高川ら賛成派理事は辞任した。また朝日側の根回し不足から、関西棋院も不参加を表明。朝日はついに断念し、朝日・毎日・読売の新聞三社と日本棋院で、名人戦の呼称は使用しないことなどを申し合わせた。
 この年、女流棋戦「全日本女流選手権戦」(東京タイムズ)第2期「伊東清子-本田寿子(ひさこ)」で挑戦者の本田が2連勝でタイトル獲得。本田派同年、大手相による女性初の5段に昇った。
 この年、呉が 台湾より大国手の称号を受章。
 この年、林海峰が来日する。
 7.14日、加藤信8段が逝去した(享年62歳)。

 1953(昭和28)年、。

 第8期本因坊戦「高川格-木谷実」。
 高川本因坊が●○○○●○の4-2で防衛。

 「呉-藤沢第2次6番棋」。
1.10日 呉-藤沢庫之助(先) 呉白番勝
2.5-7日 呉-藤沢庫之助(先) 白番4目勝
3.11-13日 第6局「藤沢庫之助-呉(先) 呉先番勝

 第5局まで呉の4勝1敗。藤沢が定先に追い込まれるかどうかのカド番。対局前、藤沢は、「ぼくは辞表を懐にしてきた」と述べている。藤沢が優勢に打ち進めるも、100手過ぎで持時間り13時間を使い果たし、残り1分の秒読みに入った。時間に追われて打った白148が無念の敗着となり、呉が、本局で再度、藤沢を打ち込み、二段差の定先に打ち込んで終わった。呉と藤沢は51年10月から1年半ほどの間に20局対局し、呉の16勝3敗1持碁。この第6局の後、川端康成が新聞に次の文面で寄稿している。
 「今日の呉さんももちろん神の存在を思い、天を心に持っている。呉さんの早打ちは明敏な早見えのせいばかりでなく、おそらくこの天のせいでもあって、天才の天に対しなければ、呉さんには容易に勝てないのかもしれない(抜粋)」 。

 5.1日、呉-藤沢第2次十番棋「
藤沢朋斎-呉(先)」、呉先番勝。

 1.31-2.1日、「呉-高川秀格(先)」、呉白番勝。
 3.26-27日、「呉-橋本昌二(先)」、呉白番中押勝。
 4.1日、ABクラス別制度改革の日本棋院大手合開始。
 4.12日連載「呉-山部俊郎(先)」、山辺先番2目勝。

 5.1日、呉-坂田6番棋第1局「呉-坂田栄男(先)」、呉白番6目半勝。

 呉の打ち込み十番碁の次なる相手として白羽の矢が立ったのは新進気鋭の坂田栄男8段。段差からすると先相先の手合となる。打ち込み十番碁の相手としてふさわしいかどうか見極めるための前哨戦として六番碁が企画された。この六番碁で4勝1敗1ジゴと坂田が勝ち越したためにいよいよ御膳立てが整った。
5.27-28日 第*局「呉-坂田栄男(先) 白番6目勝
6.11-12日 第*局「坂田栄男-呉(先) 白番3目勝
7.5-6日 第3局「呉-坂田栄男(先)
7.16ー17日 第*局「呉-坂田栄男(先) 先番2目勝
8.1日 第*局「呉-坂田栄男(先) 先番2目半勝
8.11-12日 第*局「坂田栄男-呉(先) 白番1目勝
9.1-2日 第*局「呉-坂田栄男(先) 先番1目勝

 5.11日連載「呉-曲励起(先)」、呉白番中押勝。
 7.8日、「呉-岩本薰(先)」、。
 雁金準一が、瀬越憲作、鈴木為次郎とによる三長老戦で3勝1敗で優勝。
 7.28日、「呉-窪内秀知7段(先)」。
 10月、日本経済新聞主宰の第1期王座戦(2日制、持時間各10時間)決勝「橋本宇太郎8段-前田陳爾7段」が椿山荘で争われる。

 11.12日、「天才宇太郎」「火の玉宇太郎」と称された橋本宇太郎8段が前田陳爾7段を下し優勝し第1期王座になった。橋本は関西復権を叫んで関西棋院を立ち上げたばかりだったが、その後も3、4期と連覇。続いて橋本昌二(7期)、半田道玄(8期)が優勝するなど、創設当初は「関西棋院旋風」が吹いた。

【呉清源打込み十番碁9「呉清源-坂田栄男8段との打込み十番碁」】
 11.4-5日、読売新聞主催の呉清源打込み十番碁9「呉清源-坂田栄男8段との打込み十番碁」(一段差の坂田先相先)。持ち時間は各10時間、どちらかが四番勝ち越すと打ち込みとなり、そこで打ち切り。呉39歳、坂田33歳。東京都千代田区の「福田家」で打たれ、当日の朝刊には川端康成と岸信介が、それぞれ呉と坂田を応援する立場からコメントを寄せている。

 
1局目「呉-坂田栄男(先)」、11月4-5日、東京都千代田区の「福田家」で、坂田の黒番3目勝ち。
 2局目「坂田栄男-呉(先)」、11月19-20日、水戸市の「水戸観光ホテル」で、初手を小目に打ったのは20年ぶり。呉の黒番中押勝ち。1勝1敗となる。局後、瀬越憲作が次のように評している。  
 「この碁は呉清源の名局かと思っていたが、途中、中央の2子をポン抜くようでは、せっかくの評価も取り消さざるを得ないな」。

 第3局が天王山だったようで,中盤まで優勢だった黒番の坂田が時間に追われて決めそこね勝ち切るチャンスを逃してしまう。2勝2敗で迎えた第5局を落として以降呉清源の壁はいよいよ厚く、第8局終了時点(1954年6月25日)で6勝2敗となり坂田も定先に打ち込まれ十番碁が打ち切られた。

【呉と橋本の「呉清源対橋本第2次3番棋」】
 橋本宇太郎の王座戦の優勝を機に日本経済新聞社が呉と橋本の「呉清源対橋本第2次3番棋」を企画。
12.1日 第1局「橋本宇太郎-呉(先) 呉先番中押勝

 三番碁は、呉が2勝1敗で勝つ。

 12.1日、藤沢9段が日本棋院脱退を声明する。
 2.27日、津島寿一氏が日本棋院総裁、大倉七郎氏名誉総裁に推戴される。
 この年、本田寿子が女流初の大手合5段昇進。
 10.1日、NHKテレビ開局に合わせてNHK杯トーナメント(50名のトップ棋士のトーナメント形式で争う早碁棋戦)が創設された。「囲碁の時間」の後に放映される。当初はラジオ放送であった。1963.10.7日の10回からテレビ放送となる。
 11.30日、理事会に列席中の藤沢庫之助9段が、「日本棋院の運営方針に自分は不満な点があるので脱退したい」と申し出て退席した。藤沢9段は1951(昭和26).10月以来、大手合と本因坊戦に出場せず、本因坊戦最終予選出場を常務理事会で否決されていた。(1959.2.6日復帰する)
 高川秀格本因坊がこの年の棋道9月号に「たぬき論」と題して次のように語っている。
 「某棋士が、『(高川は)ふだんの手合いはあまり成績は良くないが、本因坊戦とか昇段をかけた手合いには必ず勝つ。あれは曲者で、たぬきみたいな男だ』と発言したことから僕はたぬきという甚だ有難くないニックネームを頂戴することになった。(中略)手合いの朝は、老母が仏壇にせんこうをくべて、たぬきの様にいぶり出され、棋院へ行くと仲間からたぬきと云われるし、今にしっぽが生えて来るのではないかと心配である」。

 高川は大局観とバランスの碁で、且つ勢力や厚みを模様としてではなく位として使っているのが特徴、と評されている。
 この年、朝日新聞社が、名人戦騒動の経緯から最高位戦を開始した。
 10.4日、アメリカ囲碁協会のロバート・ギルリー氏に対する免状授与式挙行。

 1954(昭和29)年、。

 「呉-坂田十番棋」。
1.7-8日 第*局「呉-坂田栄男(先) 呉白番2目勝
2.13-14日 第*局「呉-坂田栄男(先) 坂田先番2目勝
3.27-28日 第*局「坂田栄男-呉(先) 呉先番10目勝
4.1日 第6局「呉-坂田栄男(先) 呉白番勝
4.27-28日 第*局「呉-坂田栄男(先) 呉白番勝
5.23日 第7局「呉-坂田栄男(先) 呉白番勝
6.24-25日 第8局「坂田栄男-呉(先) 呉先番7目勝ち

 1953年11月から打ち始めた呉と坂田栄男8段との十番碁は、2勝2敗から呉が3連勝し、第7局までで5勝2敗、次の第8局が坂田のカド番になった。

 6.24-25日、第8局が岩手県・花巻温泉で打たれた。対局前日、二人は盛岡で行われた歓迎囲碁大会で大勢のファンに囲まれ、その後、小岩井農場を見学し、搾りたての牛乳に舌鼓を打った。呉は馬に乗ることを希望したが、あいにく適当な馬がおらず、これは断念したという。

 「
坂田栄男-呉(先)」、呉の先番7目勝ち。これで第十次呉清源十番碁で「呉清源-坂田栄男8段」が呉の6勝2敗となり、四番勝ち越しの「打ち込み」となったので十番碁は約定により打ち切り終了した。

 1.16日、関西棋院の橋本宇太郎8段が関西棋院の大手合成績により9段に昇段した。関西棋院では初めての9段で、日本棋院と合わせると3人目の9段になった。

 1.30日、第1期NHK杯決勝戦「島村利博8段-高川格7段」。島村8段が優勝し第1期NHK杯者になった。 ラジオ対局であり第10期からテレビ対局になる。

 2.20日、増渕5段が訪米行脚より帰朝。

 2.24-25日、「岩本薰-呉(先)」、呉先番中押勝。
 5.9-10日、「
呉-岩本薰(先)」、。

 3.13日、「呉-林海峰1級(2子)」、呉白番10目勝。
 5.1日、第1期日本棋院選手権戦(新聞三社連合)決勝戦「高川秀格-篠原正美7段」。高川が優勝し、第1期日本棋院選手権戦者になった。(第2期から8期までは挑戦手合い3番勝負、第9期から22期までは挑戦手合い5番勝負になっている。昭和50年第22期で終了、天元戦に発展し今日に至っている)
 5.4日、「囲碁クラブ」復刊第1号(6月号)を刊行する。

 第9期本因坊戦「本因坊・高川格-杉内雅男」。
 高川本因坊が○●○●○○の4-2で防衛。

 8.10-11日、「呉-山部俊郎7段(先)」、山部先番勝。
 9.3-4日、「呉-藤沢秀行7段(先)」、呉白番勝。
 10.1-2日、「呉-炭野武司7段(先)」、炭野先番4目勝。
 10.2(11.23?)日、東京駅八重洲口に日本棋院中央会館(現八重洲囲碁センター、丸の内)の開館式が行われた。初代館長は岩本薫8段。
 10月、第2期王座戦「高川格8段-宮下秀洋8段」。
 12月、2-1で高川が優勝した。王座戦は2期から15期までは決勝3番勝負、第16期から挑戦手合い3番勝負、第32期より5番勝負となっている。
 10.27-28日、「呉-前田陳尔7段(先)」、前田先番勝。
 11.13日、「呉-半田道玄(先)」、半田先番中押勝。
 12.6-7日、「呉-窪内秀知(先)」、呉白番中押勝。
 12.13日、坂田栄男8段が秋の大手合で昇段点に達し、日本棋院で3人目の9段に昇段した。関西棋院と合わせると4人目。
 12.17-18日、「呉-佐藤直男(先)」、呉白番2目勝。
 12.28日、日本棋院が名誉9段制を導入し、瀬越憲作8段が初の名誉9段に推挙された。
 この年、本田が女流選手権戦(東京タイムズ)連覇。杉内雅男と結婚。その後、6段に進み、女流選手権戦4連覇を果たした。その後、出産、育児の為に長期休場する。代って伊藤友恵が復活し、女流選手権戦5連覇を飾る。杉内寿子は本田3姉妹(杉内寿子、本田幸子、楠光子)の長姉(ちょうし)。
 この年、木谷實(44歳)が高血圧症からくる脳出血で突然病に倒れた。自宅療養は2年近くに及ぶことになる。
 この年、1.8日、韓国で韓国棋院が設立された(漢城棋院として創立され大韓棋院に名前を変えていた)。
 高松宮賞東京新聞社杯争奪選手権戦。

【戦後昭和の成長経済期】

 1955(昭和30)年、。

 1.11-12日、「呉-橋本昌二(先)」、呉白番中押勝。
 1.13日、最高位戦始まる。大手合順位戦を9名のリーグ戦に改革したもの。
 第2期NHK杯「岩本薫8段-藤沢朋斎」。岩本が優勝した。坂田が三冠だった高川秀格から日本棋院選手権を奪い以後7連覇する。
 2.14日連載「呉-鲷中新(先)」、呉白番5目勝。
4.22-23日 第*局「呉-杉内雅男(先) 杉内先番勝 
5.26-27日 第*局「杉内雅男-呉(先) 杉内白番中押勝
6.14-15日 第*局「呉-杉内雅男(先) 呉白番1目勝
 5.17日、「呉-宮下秀洋(先)」、呉白番中押勝。
 6月、第10期本因坊戦「本因坊・高川格-島村利博」。
 高川本因坊が○○○○の4-0で防衛。
 ?第2次三番碁(互先)(呉3勝0敗)。

呉清源打込十番碁10「呉清源-高川秀格本因坊の第三次打込十番碁」
 7.19日、読売新聞主催の呉清源打込み十番碁10「呉清源-高川秀格本因坊との第三次打ち込み十番碁」持ち時間は10時間。第1局は呉の先番3目勝ち。呉-高川秀格本因坊十番碁は1年4か月をかけて打たれた。初戦で勝利した呉は第1局から3連勝、第4局はカド番になった高川がしのぎ、次に呉が勝ち、第6局の再度のカド番を高川がしのぐ展開となった。
7.19-20日、「高川格-呉(先)」、呉先番3目勝。
8.16-17日、「呉-高川格(先)」、呉白番勝。
9.1日、呉-高川第2次3番棋第2局「高川格-呉(先)」、呉先番勝。  
10.1日、呉-高川十番棋第3局「高川格-呉(先)」、呉先番勝。

 呉と「打ち込み十番碁」を戦ったのは、木谷実、雁金凖一、藤沢庫之助(第3次まで)、橋本宇太郎(第2次まで)、岩本薫、坂田栄男、そして高川である。17年間続いた「打ち込み十番碁」は、この高川戦を最後として幕を閉じた。呉は当時の一流棋士すべてに勝ち、手合割を一段差の先相先か二段差の定先に打ち込んだ。読売新聞は打ち込み十番碁の企画そのものを取りやめてしまう。呉清源が強すぎたために「イベント企画」としての新味を失つたものと思われる。呉清源の黄金時代を飾ると同時に日本近代囲碁界の中軸を形成した打ち込み十番碁はこうして幕を閉じた。坂口安吾曰く「読売新聞は碁の方は呉清源を一手に握っているから、朝日の棋院大手合、毎日の本因坊戦に比べてまさるとも見劣りのない囲碁欄である」。

 9.4日、毎日新聞主催、日本棋院後援のアマ本因坊戦創設される。第1回全国アマ本因坊戦の優勝は平田博則。アマチュア初の6段を獲得する。 
 9.20日、「宮下秀洋-呉(先)」。黒番中押し勝ち。
 第3期王座戦が「橋本宇太郎-島村利博8段」。
 2-1で橋本が優勝した。
 11.6日、囲碁文化会(会長/荒木直*、副会長/三田村篤四郎)が主体となり、国際囲碁トーナメント開催。
 11.18日、「呉-村島谊纪(先)」、先番12目勝。
 この年、瀬越憲作と鈴木為次郎が名誉9段に推される。
 9.5日、正式に韓国棋院が創立された。
 12.19日、日本棋院創立30周年式典が行われた。
 秋、木谷が手合いに復帰する。

 1956(昭和31)年、。

 2.7-8日、「島村利博-呉(先)」、呉先番中押勝。
 2.8-9日、「
呉-島村利博(先)」、島村先番中押勝。
 3.21日、「
呉-村島谊纪(先)」、呉白番2目勝。
 第3期NHK杯が「橋本宇太郎-坂田栄男」。橋本が優勝した。
 十段戦が始まる。
 3月、9名リーグ戦の最高位戦で、坂田栄男が6勝2敗で杉内雅男7段と6勝2敗の同率1位となり、前年度リーグ1位の坂田が優勝し第1期最高位になった。(昭和36年第6期で終了)。
 4.4日、呉-高川格十番棋第7局「高川格-呉(先)」、呉先番勝。
 「呉-高川格本因坊」がカド番に追い込まれる。
 4.17日、「呉-窪内秀知(先)」、呉白番中押勝。
 5.3日、「
窪内秀知-呉(先)」、呉先番中押勝。
 5.22-23日、「
呉-窪内秀知(先)」、呉白番5目勝。
 6月、第11期本因坊戦「本因坊・高川格-島村利博」始まる。
 8.1日、高川本因坊が○●●○○○の4-2で防衛、5期連覇なる。
6.6日 呉-前田陳尔(先) 前田先3目勝
6.20-21日 前田陳尔-呉(先) 呉先番中押勝
7.24-25日 呉-前田陳尔(先) 呉白番中押勝
 7.4-5日、「呉-杉内寿子()」、呉白番中押勝。
 8.6日、「呉-加納嘉德(先)」、加納先番5目勝。
 8.16-17日、「呉-加田克司(先)」、加田先番1目勝。
 9.18日、「呉-大平修三(先)」、呉白番中押勝。
 9月、呉-高川格十番棋第8局「高川格-呉(先)」、呉先番勝。第8局の時点で6勝2敗となり、またもや呉の前に先相先へ打込まれてしまう。第9局、第10局は高川先番の先相先の手合。高川は両局に勝ち意地を見せた。最終的には6勝4敗で決着した(1956年11月27日)。

この第8局まで5か月かかりました。もっともその間に、高川さんは本因坊5連覇を果たされ、それだけに本局にかける意気込みを感じました。
 高川さんの初手はいつも星ですが、本局は「実戦図1」の黒1と珍しく小目でした。
 白24は、定石では「参考図」の白1のポン抜きですが、黒2と締まられ、白3には黒4のツケが好手。黒8まで先手で頭を出され10の好点に回られると、黒の下辺の勢力は広大で、右辺の白よりずっと大きい。ですから私はあえて手を抜いたのです。
 「実戦図2」の黒35は待望の伸びですが、白46から56まで先手で生き、58と回って白が成功したと思いました。
 本局は私が勝って、高川さんを先相先に打ち込みました。
 17年間続いた「打ち込み十番碁」は、この高川戦を最後として幕を閉じました。当時の一流棋士すべてに勝って、私との手合割を一段差の先相先か、二段差の定先としたことは私の誇りであり、「十番碁」の終了には、ほっとすると同時に一抹の寂しさもあり、感無量のものがありました。
(構成・牛力力)

●メモ● この十番碁は第10局まで打たれた。第9局、第10局は先相先の手合。いずれも高川の先番で、高川は両局に勝ち、意地を見せた。呉と「打ち込み十番碁」を戦ったのは、木谷実、雁金凖一、藤沢庫之助(第3次まで)、橋本宇太郎(第2次まで)、岩本薫、坂田栄男、そして高川である。

 10月、第4回王座戦「橋本宇太郎-坂田栄男」。
 橋本が2-0で優勝した。
 10.18日、「呉-岩田正男(先)」、岩田先番3目勝。
 11.12日、産経新聞主催の第1期早碁名人(十段戦の前身、持時間4時間)「坂田栄男-曲励起7段」。坂田9段が優勝した。
 11.13日、「呉-鈴木越雄(先)」、鈴木先番8目勝。
 12.9日、「呉-大洼幸雄(先)」、呉白番2目勝。
 12.12-14日、最高位戦「木谷実8段-前田陳爾8段」。
 第二期から出場した木谷がリーグ戦7局目で前田を破り、40局平均67点の昇段点を確保、9段に昇段した。呉清源は日本棋院に所属していないので日本棋院3人目(全体で5人目)の9段になる。通算7勝1敗で第1位になり全盛期の入り口にあった坂田最高位に挑戦することになった。
 この年、中国で囲碁が奨励され、韓国では第1期国手戦がスタートした。

 1957(昭和32)年、。

 1.1日、「呉-藤沢朋斎(先)」、藤沢(朋)先番勝。
 1.9日、「
呉-藤沢朋斎(先)」、藤沢(朋)先番勝。
 2.15-16日、最高位戦5番勝負第3局「木谷-坂田(先)」、木谷白番10目勝。
 2.20-21日、「高川秀格-呉(先)」、呉先番中押勝。(於/静岡県伊豆)
 3.8日、東京新聞主催の第1期囲碁選手権決勝戦(東京新聞)「木谷実-林有太郎7段」。木谷9段がが優勝した。名局を打った者に与えられる高松宮賞は林有太郎7段が獲得。

 囲碁選手権戦は日本棋院所属の5段以上によるトーナメントで、挑戦手合制ではなく決勝進出者が3番勝負で優勝を決める、コモ5目、ジゴは後日の打ち直し、敢闘者には高松宮杯が贈られる特色ある棋戦だった。
 3月、第4期NHK杯「坂田栄男-藤沢朋斎」、。坂田が優勝した。
 4.14-15日、「呉-木谷実(先)」、呉白番勝。
 5.23-24日、「坂田栄男-呉(先)」、呉先番勝。
 6月、第12期本因坊戦「高川格-藤沢朋斎」。
 高川本因坊が●○○○●○の4-2で防衛。
 6.2日、「呉-KogaYoshio(*)」、呉白番勝。
 7.2-3日、「呉-坂田栄男(先)」、呉白番4目勝。
 7.16日、全日本学生囲碁連盟発会。同時に毎日新聞共催、日本棋院後援の第1回学生本因坊戦開催、九州大学の上月武志氏が優勝。
 10.17日、5段から7段までが出場する若手の登竜門の首相杯争奪戦(共同通信社)が創設され、第1期決勝戦で「藤沢秀行7段-大平修三7段」の対戦となり、藤沢が優勝した。
 10月、第5期王座戦「島村利博8段-半田道玄8段」。
 2-0で島村が優勝した。
 木谷が坂田栄男最高位に挑戦。
 木谷が第4局も制し3-1で最高位奪取。木谷の初タイトルとなった。第1期争奪囲碁選手権決勝戦(東京新聞)に続く快進撃となった。翌年の最高位戦でも防衛を果たす。
 中山典之「碁狂ものがたり」の「戦慄の譜」部分要約。

 昭和32年の第2期最高位決定戦の第4局。坂田栄男・最高位 対 挑戦者・木谷實九段。記録係・中山典之。
   
 コミなしの五番勝負は第1局から荒れ模様で、何と第3局まで白番勝ちが続き、1勝2敗と負け越して、後のない坂田九段は第4局を白番で迎えた。敵は大豪木谷である。坂田九段は世にも恐ろしい形相で盤面に食いついた。苦心の高目作戦に出て、一手一手にそれこそ血のにじむような努力を払ったのである。序盤十数手を並べてみると、追いつめられた坂田九段の焦燥感が、今でもひしひしと感じられる。私は一流プロ棋士の気迫というものを、このとき初めて肌で感じたのであるが、木谷九段の方には、案外のゆとりが感じられた。鬼才坂田をコーナーに追いつめて、とどめのパンチを見舞うというムードではなく、後輩坂田と、かくも真剣な碁を打てるということは、無上の快心事であるといっているように見えたのである。

 黒77手目のとき、木谷九段はこの先37手目に生じる一手ヨセコウを読み切っていた。木谷九段は自軍のコウ材有利を確かめて、その一手ヨセコウを争う決意を固めていたのである。幸か不幸か、坂田九段がこの注文を受けなかったので、その変化は盤上に現れていない。もっとも、黒73・75・77は、必然ともみえる手であるから、黒71と行動を起すときに、すでにヨセコウを読んでいたのだろうか。 
 図略

 この碁が終わって、感想戦になった。観戦していた棋士の誰かが、両対局者に聞いた。「ツケでなく、ハネだしていたら、どうなりますか?」。一同がうなずいた。誰もが聞きたかった手どころである。「そう、そう。その手は、少し読んでみたんだ。どうも、ヨセコウになるらしい」。木谷師の声に、一同キョトンとする。どこで、どのようにヨセコウが生じるのか、全く見当がつかないのである。やおら、木谷師が石を並べた。参考図黒39までである。「このヨセコウがあると思っていたんだ」。 
 図略

 相手の坂田九段は、「へえー」とカン高い奇声を発して絶句した。半徹夜で観戦していた高川、山部両棋士が、互いに顔を見合わせた。グルリと盤を囲んでいた、腕に覚えのある若手棋士どもも声を呑んだ。二十人ほどもいる部屋がシーンと静まり返ったのである。「無理筋みたいな一手ヨセコウだが、黒がコウ材豊富で面白い。中の三子を取ることにでもなれば、隅を捨てても厚いと思う」。私は、このときの、控えめに述べる木谷師の声を、本因坊道策師の声とも、天の声とも聞いたのである。参考図には、白4・黒23など、なかなか発見できぬ妙手さえ含まれている。のちに高川本因坊語るところによると、「あのように先の先まで読まなければ碁が打てないものならば、僕らは碁をやめるしかないね」。これをもって、当時、五期連続本因坊位に輝く高川師が木谷師に及ばないというのではない。高川師には、バランスと形勢判断に乗っかった「高川の碁」がある。ただ、読みの深さにおいて、木谷師の碁は当代随一と断定したのである。

 「何手先を読むか」というのは、「その読みの範囲が、何手先に及んでいるか」というのが正しい。この直後、木谷師は、89手目に大見損じをし、白に94とポン抜かれている。これによって、これを見ると、89手目では木谷九段は一手先も読めなかったといえるが、果たしてそうであろうか。四十手先を読むにあたり、木谷師のヨミには無数の枝道があったろう。そのうち少しでも有力なものには身をもって分け入り、その行きつく先を確認したに相違ない。無数の枝道を整理した結果、「坂田君が、もし白78でハネ出して来たならば、四十歩先には、きっとここに来るだろう」と推定し、白94にポン抜かれることになった黒85を、そこに伏兵として置いたに過ぎないのである。坂田師が、その手段を選ばなかったのは、四十手先を読まなかったかもしれぬが、何となく前途に無気味なものを感じて、これを回避したのであろう。してみると、木谷師のヨミは徒労に帰し、二手目から狂っていたのだという人があるだろうか。「何手先を読むか」というのは、「その読みの範囲が、何手先に及んでいるか」というのが正しく、読みの当否は神様だけが知っているのである。
10.5-6日 呉-藤沢朋斎(先)」  藤沢(朋)先番1目半勝
10.15日 藤沢朋斎-呉(先) 呉白番中押勝。
12.15日 藤沢朋斎-呉(先) 呉先番勝。
 12.22日、第1回全日本大学団体選手権戦が日本棋院京都支部で開催され、中央大学が優勝。
 この年1.4日、TBSテレビが新春囲碁対戦と題し呉、高川も参加する1時間の特別番組を放送開始する。
 この年、1956年まで「呉清源の十番碁」を開催していた読売新聞社が、「実力名人を決める」と謳った日本最強決定戦を開始した。
 4.12日、(中華人民共和国成立後、中国から日中友好協会を通じて日本棋院へ訪中が依頼されたが、この時は「時期尚早」として見送る)日中友好協会の訪中要請を断り、瀬越憲作名誉9段はじめ4人の棋士(団長瀬越憲作、宮下秀洋、長谷川章、村島誼紀)、3人の役員が台湾を訪問(4.19日、帰国) 交流する。
 7.28日、西独のクックスハーヘンで第1回ヨーロッパ碁コングレス(欧州囲碁大会)が始まった。海外の囲碁も着実に広まっていった。
 この年、将棋の升田幸三棋士(当時39歳)が最初の三冠制覇を達成した。その功績から、自身の名前が冠された「升田幸三賞」という賞が、現代に受け継がれている。

 1958(昭和33)年、。

 1.1日連載「呉-島村利博(先)」、呉白番中押勝。
 3月、第5期NHK杯「坂田栄男-木谷実」、坂田が優勝した。
 3.10日、「呉-橋本昌二(先)」、呉白番中押勝。
 4.30日、「木谷実-呉(先)」、呉先番10目勝。
 5.1日、読売新聞主催の第1期日本最強決定戦(6人リーグ戦、旧名人戦の前身)。(参加棋士は呉、高川、坂田、橋本宇、藤沢朋) 
 呉清源が8勝2敗で優勝した。(昭和35年12月、第3期で終了)
 5.6日、「呉-酒井通温(先)」、呉白番中押勝。
 6.2日連載「呉-鲷中新(先)」、呉白番7目勝。
 6月、第13期本因坊戦「本因坊・高川格-杉内雅男」。
 高川本因坊が○○●●○○の4-2で防衛。
 7.17日、「岩田達明-呉(先)」、呉先番勝。
 8.26日連載「呉-[木神 (先)」、呉白番中押勝。
 9.3-4日、「呉-刘谷启(先)」、呉白番中押勝。
 9.24-25日、「呉-坂田栄男(先)」、坂田先番5目勝。
 10.1日、「
呉-坂田栄男(先)」、呉白番1目半勝。
 10月、第6期王座戦「藤沢朋斎-半田道玄8段」。
 藤沢(朋)が2-0で優勝した。
 木谷が島村利博の挑戦を3-2で退け最高位を防衛、2連覇した。
 日本最強決定戦(読売新聞)の第1期日本最強決定戦で呉清源が8勝2敗で優勝する。同棋戦は昭和36年第3期で終了、旧名人戦に発展する。
 10.13日、「呉-木谷実(先)」、木谷先番2目勝。
 10.22日、「杉内雅男-呉(先)」、呉先番中押勝。
 この年11.3日、瀬越憲作名誉9段が紫綬褒章を受章する。

 1959(昭和34)年、。

 1.1日連載「藤沢朋斎-呉(先)」。呉先番中押勝。
 1.10日、毎日新聞主催の本因坊三番碁第2局で終局手入れの問題が起った。呉清源の譲歩でその場は収まったが、日本棋院は規約改善に努力し円満解決をはかった。
 2.6日、東京品川の日本棋院で開かれた棋士総会でかねて日本棋院に復帰を希望していた藤沢朋斎9段の復帰が満場一致で可決、正式に復帰が決まった。藤沢朋斎9段は1953(昭和28)、棋院の運営に不満があるとの理由で同院を脱退、それ以来、個人の資格で本因坊戦その他の棋戦に出場していたが、棋院の棋士ではないので大手合には参加していなかった。今後は大手合にも出場することになった。
 2月、「呉清源-高川格本因坊の三番碁」の第3局「呉-高川秀格(先)」が打たれ、高川が黒番7目勝ちした。
 3月、第6期NHK杯「坂田栄男-高川格」。坂田が優勝した。
 3.18-19日、最高位戦「杉内雅男8段-中村勇太郎7段」。杉内が勝ち9段に昇段。日本棋院4人目(全体で9人目)の9段となる。
 3.18ー19日、「呉-岩田正男(先)」。呉白番勝。
 4.13日、第1回女流アマ選手権戦が開催され、岡本伸子3段が優勝。
 4.29日、「呉-[木尾 (先)」。呉白番中押勝。
 6月、第14期本因坊戦「本因坊・高川格-木谷実」。
 高川本因坊が●○○●○○の4-2で防衛。
 7.15-16日、「坂田栄男-呉(先)」。坂田白番4目勝。
 8.13日、日本棋院中部総本部新館会館の会館式が行われる。日本棋院中部総本部会館は1973.12.22日に新会館ができるまで使われた。
 9.1日、日本棋院が有段者名簿を初めて発行する(有段者総数約4万人)。
 9.4日、第5回アマチュア本因坊戦で、神奈川の菊池康郎氏が3年連続優勝。
 9.29日、第1期日本棋院第1位戦(地方紙囲碁連盟)の決定戦が「藤沢秀行8段-宮下秀洋8段」となり、藤沢秀行が2勝1敗で下して優勝した。
 9.30-10.1日、「呉-坂田栄男(先)」、呉白番中押勝。
 10月、第7期王座戦「橋本昌二-山部俊郎8段」。
 2-0で橋本(昌)が優勝した。

 この時代の王座戦は挑戦手合制ではなくトーナメントを勝ち上がった同士による3番勝負決勝で王座を決めるシステムだった。決勝に進んだのは橋本と山辺8段33歳。橋本の2連勝で関西棋院の株を上げた。これらの功績により、橋本宇太郎が大橋本、橋本昌二(1935-2009)が小橋本と呼ばれる。小橋本は12歳で入段。関西棋院独立の時は4段。以後関西棋院の大手合で毎年のように昇段し23歳で9段になる。これは9段の最年少記録であった。橋本は昭和生まれ初のタイトルホルダーとなった。
 最高位戦「木谷-坂田栄男」。
 3-2で木谷が優勝。
 日本棋院第1位決定戦(新聞囲碁連盟)が開設され、藤沢秀行が第1期を優勝する。(昭和43年第7期で終了、全日本第1位決定戦に発展)。
 第1回女流アマ選手権戦開催。
 10.20日、「呉-山部俊郎(先)」、呉白番中押勝。
 11.4日、「坂田栄男-呉(先)」、呉先番22目勝。 
 12月-翌1月、読売新聞社主催の第3期日本最強決定戦。出場者は呉清源9段、坂田栄男9段、木谷実9段、橋本宇太郎9段、橋本昌二9段、岩田正男(後に達明と改名)7段ノ6人リーグ戦。コミなしで黒、白1局ずつ、計10局の対局。
12.1日 呉-坂田栄男(先) 呉白番1目半勝
12.9-10日 呉-坂田栄男(先) 呉白番1目勝

 最終的に呉と坂田がともに6勝1持碁3敗で首位を分け合った。日本最強決定戦はこの第3期で幕を閉じた。第1期は呉、第2期は坂田が優勝。坂田栄男が日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固める。
 この年、1月、雁金準一(瓊韻社)が一門の推薦で9段に昇る。

 2.6(21)日、瓊韻社(けいいんしゃ)の雁金準一名誉9段(瓊韻社)が東京都板橋区の自宅で逝去する(享年81歳)。日本棋院が名誉9段を追贈する。墓所は顕本寺。秀栄は、手の見える碁と評していた。また性格温厚、人格高潔であったと世に言われている。下に、渡辺昇吉9段、富田忠夫8段ら。鄒海石、笠井浩二も少年時代に指導を受けた。富田門下には王銘琬9段、鄭銘瑝9段らがおり、王の本因坊位獲得により、孫弟子の代で本因坊位に就いたとも言える。
 この年、自民党衆議院議員の松村謙三が訪中し、北京交渉の時、周恩来、陳毅副総理との会談後、話が囲碁に及び、「東洋のすぐれた室内ゲームである碁を、積極的に国内に普及したいと考えている。日本の専門棋士を中国に招きたい」との希望が伝えられた。松村は帰朝すると、そのことに奔走した。それがきっかけで、交流の道が開けることになる。読売新聞社及び日中友好協会主催の定期的な囲碁交流が開始されることになった。
 1.1日、ドイツ囲碁連盟発足。会長はストラック氏。
 4.2日、シッキム王国のS・ナムギャル皇太子が来日し日本棋院中央会館を訪れ、伊予本館長を相手に17路盤で最初に石を6個ずつ置くチベット碁を紹介。
 この年、将棋の大山康晴棋士(当時36歳)が三冠達成。1960年に追加された王位、1963年に追加された棋聖の2つのタイトルも獲得し五冠を達成している。

 1960(昭和35)年、。
 安保反対闘争激化する。

 1.1日連載「呉-橋本昌二(先)」、呉白番3目半勝。
 1.23-24日、「岩田正男7段-呉(先)」、呉先番6目勝。
 1.27-28日、第5期最高位戦(朝日新聞)が「藤沢秀行-坂田」の対戦となり、この日第4局「藤沢秀行-坂田(先)」を制し3-1で藤沢が優勝する。最高位戦(朝日新聞)は本因坊戦(毎日新聞)、最強戦(読売新聞)と並ぶ当時の三大棋戦で、藤沢は難敵中の難敵を倒してビッグタイトルを獲得し藤沢の名を高からしめた。
 2.16-17日、呉清源.高川格本因坊第6次三番棋第3局「高川秀格-呉(先)」、高川白番勝。
 2.26-27日、「呉-橋本昌二(先)」、橋本(昌)先番勝。
 3月、第7期NHK杯「木谷実-藤沢朋斎」、木谷白番勝、優勝。
 4月、「木谷実-呉(先)」、呉先番7目勝。
 4.1日、「呉-橋本昌二(先)」、橋本(昌)先番勝。
 4.4-5日、「木谷実-呉(先)」、呉先番7目勝。
 5.30日、瀬越憲作を使節団団長とする7人の棋士による日中囲碁交流団が第1回訪中。結果は日本チームの26勝2敗1ジゴ(向先の手合いで33勝2敗)。(6.22日、帰国)。
 5-6月、第15期本因坊戦「高川格-藤沢秀行」始まる。藤沢秀行が最高位戦を制した勢いに乗って本因坊戦の挑戦者に躍り出て来た。第1局は藤沢勝ち、第2局は高川、第3局は藤沢。

 第4局は5.30-31日、佐賀県の嬉野温泉で打たれ高川が白番2目半勝ち。本局は藤沢の黒77が絶賛された妙手。黒85まで筋に入る。高川が白108以下コウの勝負手を放つ。白122が「問題の無コウ」のところ黒123がお付き合いの大失着。コウを解消して良く、白123と切られても、黒175以下一手勝ちだった。すぐ無コウに気づいた藤沢が腐り、その後悪手や失着を繰返し優勢な碁を負けにした。黒195が最後の敗着で、203と棒についでおけば細かいながらもまだ残っていた。

 6.23日、高川が第5局から連勝して、結局4-2で高川本因坊が防衛、9連覇を飾る。

 9連覇史は次の通り。
西暦 和暦 対戦相手 勝敗数値
1952 27 本因坊昭宇 4-1で奪取
1953 28 木谷實 4-2で防衛
1954 29 杉内雅男 4-2で防衛
1955 30 島村利博 4-0で防衛
1956 31 島村利博 4-2で防衛
1957 32 藤沢朋斎 4-2で防衛
1958 33 杉内雅男 4-2で防衛
1959 34 木谷實 4-2で防衛
1960 35 藤沢秀行 4-2で防衛 ×〇×〇〇〇
 
 実に第7局までもつれたことが1回もない。内容は別にして勝ち負けだけで見れば圧倒の9連覇である。
 6.27日、「呉-木谷実(先)」、呉白番14目勝。
 6.29-30日、最高位戦「宮下秀洋8段-藤沢朋斎9段」。宮下が勝ち9段に昇段する。日本棋院5人目(全体で10人目。
 8.3日、「橋本宇太郎-呉(先)」、橋本(宇)白番勝。
 8.18日、「橋本昌二-呉(先)」、呉先番勝。
 8.30日、「呉-岩田正男7段(先)」、。
 9.20日、「藤沢秀行-呉(先)」、呉先番中押勝。
 10.12-13日、高川格8段が最高位戦で杉内雅男9段に勝ち9段に昇段。日本棋院6人目(全体で11人目)。島村俊宏8段が9段に昇段。日本棋院7人目(全体で12人目)。
 10.19日、「呉-坂田栄男(先)」、坂田先番中押勝。
 10.20日、窪内秀知8段が9段に。関西棋院で5人目(全体で13人目)。
 10月、第8期王座戦「半田道玄-宮下秀洋8段」。
 半田白番勝、2-0で優勝した。
 藤沢秀行が坂田栄男を破り第5期最高位戦奪取。
 12.1日、呉-高川第7次3番棋「呉-高川秀格(先)」、高川先番勝。
 12.1日、「呉-橋本宇太郎(先)」、橋本(宇)先番勝。
 この年、渉外担当理事となった藤沢秀行が、物価上昇に比べて棋戦契約金が増えず、また棋士の増加もあって財政難となりつつあった日本棋院の窮状打開策として名人戦創設を計画する。藤沢はこの年の本因坊戦の挑戦者となるが、対局料が1局6万円という安さだったのもその意識に拍車をかけた。当初朝日新聞に提案したが交渉はうまくいかず、次いで読売新聞と交渉して契約金2500万円で話をまとめ、棋士総会でも70対4の圧倒的多数で承認された。こうして関西棋院所属棋士や呉清源も参加する名人戦が読売新聞の主催で創設された。しかし朝日新聞はこれを機に大手合、最高位決定戦のスポンサーを降りることとなった。
 7.14日、鈴木名誉9段著「囲碁大辞典」の増補改訂版完結する。
 11.3日、鈴木為次郎名誉9段が紫綬褒章受章。
 11.20日、鈴木為次郎名誉9段が逝去する(享年)。
 この年、瀬越憲作を団長とする第1回日中囲碁交流戦日本代表団(団長・瀬越憲作名誉九段)5名が訪中。以後、中国代表団による訪日と交互に行われるようになった。ルールは、日本で対局する場合は日本ルール、中国で対局する場合は中国ルール、但し第1回訪中団では日本ルールとした。手合割は、互先、及び定先、置碁もありとした。戦績は次の通り。
総戦績32-2-1
瀬越憲作名誉九段 (3-1-1)
坂田栄男九段 (6-0)
橋本宇太郎九段 (6-0)
瀬川良雄七段 (5-1)
鈴木五良七段 (6-0)

 第1回は、全て中国側が先で打って2勝しか挙げられなかった(王幼宸−瀬越憲作、劉棣懐−瀬川良雄)。

【梶原武雄九段】(1923年2月25日─2009年11月28日)
 1960年、梶原と関西の雄・橋本昌二九段との王座戦が2日制対局。両者とも長考派で1日で9手しか進まない。1日目の仕舞いになり、「封じ手です」と記録係に言われた梶原が、「そうか、封じ手か……」。ため息をついて「おとうちゃまは、くたびれたぞよ」と続けた。隣で打っていた棋士が「なんです、まだ4つしか石を置いていないのに」とからかうと、梶原は一言「きょうの蛤は重い」と宣った。黒石は那智黒、白石は蛤から切りだしていることから、白番・梶原の歴史的名言として語り継がれている。

 長いのは碁だけではない。愛する詩吟を浪々と披露したり、祝宴などでのスピーチも長かったという。最後の「甚だ簡単ではありますが……」の言葉に客が苦笑したという話が笑い話として伝わっている。

 梶原は日本棋院院生師範を務めた後、木谷實九段が四谷に「木谷道場」を移転したときに、木谷の体調が思わしくないことを受けて内弟子たちの指導を請われ引き受けている。道場があった町名から「三栄会」と名付けられた研究会に、梶原は週に1度木谷家を訪れて門下生の碁を見た。弟子たちはひとりずつ梶原の前に出て自分の碁を並べ講評を受ける。一手目を置くと、「なぜそう打つ?」と梶原が問う。「なぜといわれても……」と門下生が口ごもっていると、「みんながそう打つからか?」と畳みかけられる。そこで「はい」などと答えたら最後、30分くらいひたすら説教された。説教も長かったのだ。しっかり自分の考えを語れれば、怒られることはなかった。当時門下生だった小林覚九段は、「とにかく怖くて門下生は皆固まっていました。『こんな手、昔ならキセルが飛んだ』と言われながら、すくんでいました。梶原先生があまりに怖かったおかげで、学校の先生が怒っても全く怖くなかった。今思えば、梶原先生の愛情ですよね」と振り返った。平成になると今度は梶原自ら「面倒をみようか」と申し出て、緑星学園(多くのプロを育てた囲碁塾)で、再び若手棋士たちを鍛えた。山下敬吾九段、青木喜久代八段、秋山次郎九段、加藤充志九段、溝上知親九段ら多くのトップ棋士が梶原の薫陶を受けている。木谷道場と緑星学園、どちらも昭和の終わりから平成にかけて、時代のトップ棋士たちが切磋琢磨した修業の場だ。梶原の影響を受けた棋士は3ケタはくだらない。 

 囲碁棋士は「勝負師」「芸術家」「学究肌」の3つに分けられるといわれている。その中で、「学究肌」の最右翼として挙げられるのが梶原武雄だ。「碁は序盤こそが学問。中盤は戦争屋に、終盤は能吏に任せておけばいい」の梶原名言を遺している。
 (内藤由起子「碁だけではなく祝宴スピーチも長かった「学究肌」棋士」参照)

【戦後昭和の高度経済成長/池田政権期】

 1961(昭和36)年、。

 1.11-12日、「坂田栄男-呉(先)」、坂田白番2目勝。
 1.18日、秀哉名人の死去以来、長らく空位になっていた名人位のタイトルを争う新たなタイトルとなる名人戦が読売新聞主催で創設された(昭和50年第14期で終了、主催が朝日新聞に移り名人戦になる)。こうして新聞碁でもタイトル戦が中心となり始めた。

 第1期名人戦は、9段全員とタイトル保持者13名による総当りのリーグ戦で最多勝利者を名人とすることにした。「十番碁の覇者である呉清源を初代名人に推戴して始めるべきだ」との声もあったが、結局呉を含めた9段11名、8段2名の当時のトップ棋士13名による大型リーグ戦で第1期名人を決定するした。選出された棋士は呉清源、坂田栄男、高川格、木谷実、藤沢庫之助(朋斎)、藤沢秀行、杉内雅男、宮下秀洋、島村俊広、橋本宇太郎、橋本昌二、半田道玄、岩田正男(後に達明と改名)。9段が原則だったが、藤沢秀行8段は当時最高位にある、9段より上席が与えられた。岩田は7段だったが、最強戦リーグの活躍が認められた。5目コミ、持碁白勝ち但し半星扱いルール、持時間は各10時間。日本棋院、関西棋院の協力を得、呉清源、故雁金名誉9段統率のけん韻社の後継者/渡辺昇吉8段ら日本全棋士の総参加となった。第2期からは9人のリーグ戦で名人への挑戦者を争うこととなった。
 読売社告(一部略)は次の通り。
 「囲碁界では『名人』の名は久しく聞かれず、徳川初期から数えて十人目の名人だった二十一世本因坊秀哉が昭和十五年一月になくなってから二十年間空位のままでした。碁界の発展と明朗化のために、困難をのりこえ、待望の名人戦を実現することができました」。
 2月、坂田栄男が藤沢秀行最高位を降して第6期最高位獲得、3度目のタイトル獲得。(最高位戦終了)
 3.8日、「宮下秀洋-呉(先)」、呉先番勝。
 3.25日、本田幸子3段、輝子3段、木谷礼子2段の3人の女流棋士が囲碁使節として3か月の予定で渡米、大歓迎を受けた。
 3月、第8期NHK杯「坂田栄男-木谷実」、坂田勝、優勝。
 4.26-27日、「呉-藤沢秀行8段(先)」、藤沢先番中押勝。
 4.29日、日本初のテレビ対局が放送された。プロアマ本因坊戦「高川秀格-村上文祥」の二子局で、解説・村島誼紀、聞き手・林裕、棋譜読み上げ・大石久子。解説者は棋譜読み上げの声を聞いて、磁気利用の大碁盤に石を並べる。持ち時間は25分、1時間にまとめられた。放送時間中に114手まで進み、終局後2分間の解説が付け加えられた。
  6月、第16期本因坊戦。第6期本因坊戦で橋本宇太郎に敗れてからの坂田はなぜか本因坊戦に縁が薄くなり、毎年のように挑戦者争いの本命視されながらもリーグ2位が多く挑戦者になれなかった。「こうなったら区切りの良い高川さんの10期目に挑戦します」と語り、その言葉通り同率決戦で木谷實に勝って坂田栄男が9連覇中の高川格に挑戦することになった。

 6.17日、「高川格-坂田栄男」。
 坂田先番勝。坂田栄男が●●●○●の4-1で勝って高川の十連覇を阻止し新本因坊となった。本因坊栄寿と号す。「栄寿」の名の由来は次の通り。
 「『栄』は、名人の栄男からとったことはすぐ分かる。『寿』は故本因坊秀哉の本名、田村保寿からとったものである。日本棋院総裁の津島寿一氏のとひろへ相談に行ったら、『それはまことに結構。私の名前にも寿の字がある』とその場で決まった」。

 坂田は以後7連覇し名誉本因坊の資格を得る。坂田は高川から本因坊、王座、日本棋院第一位の3タイトルを奪った他、最強戦、最高位、日本棋院選手権、王座、NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る。
 6.28-29日、「木谷実-呉(先)」、呉先番勝。
 7.3日、朝日新聞主催第1回アマ十傑戦開催。千葉県の安藤英雄優勝。
 7.20-21日、「本因坊栄寿-呉(先)」、坂田白番11目半勝。
 8.24日連載「本因坊栄寿-呉(先)」、呉先番2目勝。
 10月、第9期王座戦が「坂田栄男-高川秀格」。
 2-1で坂田が優勝した。坂田が初めて王座に就いた。坂田は本因坊を高川から奪い、NHK杯で優勝するなど計7タイトルを獲得して「七冠王」と称されることになる。
 11.14日、「呉-本因坊栄寿(先)」、呉白番中押勝。
 11.29-30日、「半田道玄-呉(先)」、呉先番勝。
 12.20-21日、「岩田达明8段-呉(先)」、呉先番勝。
 呉が第3期日本最強戦優勝。
 8月、呉清源が、音羽通りで、自動車を降りた途端に走って来たオートバイに撥ねられる交通事故に遭い、その後は精彩を欠くことになる。「私は交通事故の後、対局中に極度の頭痛、吐き気に悩み、勝負に対する粘りが次第に薄れていきました」。代わって碁界を制覇したのが坂田栄男であった。坂田は高川格から本因坊位を奪い取った後に7連覇することになる。
 2.21日、中央会館より英文月刊誌「Monthly Go Review」が創刊された。
 9.13日、囲碁親善使節団、訪中。日本棋院の有光次郎理事長をはじめとする日本囲碁代表団が2回目の訪中をした。棋士は5人(曲励起8段、小山靖男7段、伊藤友恵5段、菊池康郎、安藤英雄)が同行し、結果は日本チームの34勝5敗1ジゴだった。
 朝日新聞は名人戦主宰から降ろされたのを機に大手合、最高位決定戦のスポンサーも降りることとなった。代わりに朝日アマ十傑戦、プロ十傑戦、日中交流戦の三つの柱を創設した。朝日アマ十傑戦は田岡敬一が創設に協力し、以後朝日新聞で白鳥人の名で観戦記を十数年間執筆した。呉、坂田、橋本宇太郎による三強リーグ戦(白黒二局、コミなし)の総当たりが企画され呉が優勝した。続いて次代を担うと期待された林海峰7段、大竹英雄5段の三番碁(大竹の先)が企画され大竹の2勝1ジゴ。さらに藤沢秀行と橋下昌二の三番碁が企画され、藤沢の2勝1敗。若手8名による新鋭トーナメントが企画され大竹優勝。
 プロ十傑戦が企画された。アマ十傑戦地方予選出場者が十名連記で投票し、上位4名をベスト8にシード。5位から16位までの12名と予選通過した4名を加えてのトーナメント戦となった。第1期の人気投票上位4名は坂田、高川、木谷、藤沢秀行の順。9位大竹、10位林。決勝三番勝負に進出したのは坂田と高川。坂田が2連勝して初のプロ十傑戦優勝者となった。
 10.4日、第1回全日本都道府県対抗戦。全国8ブロック代表で争われ、関東代表神奈川県が優勝した。
 日本棋院本院(市ヶ谷)の最上室「幽玄の間」に掛かる軸は川端康成の直筆の「深奥幽玄」。川端は「名人」を著わし、21世本因坊秀哉と木谷實が半年がかりで打った秀哉名人引退碁を描写している。川端の随筆に「私の知る限り、碁ほど精神を集中し、沈潜するわざはほかにない」とある。「西洋にもいろいろと勝負事は多からうが、碁はそれらと自ずから趣を異にし、心境を尚ぶ東洋精神が籠もってゐる」とも書いている。
 この年、木谷道場が平塚から四谷へ移転している。
 この年8.21日、囲碁の家元四家の中で最後まで家元として残ったのは幻庵因碩を輩出した井上家で、その16代井上因碩を襲名していた恵下田仙次郎(栄芳)が逝去した(享年)。後継者の指名はされていなかった。この時点で井上家にいた専業棋士は、当時碁会所を経営していた津田義孝3段と潮伊一郎四4段だけだった。名門衰亡を惜しむ人々に推されて津田義孝3段が17代井上因碩を襲名しようとしたところ、恵下田未亡人ミネが難色を示し、ミネが井上因碩を名乗ることを禁止することを求めて裁判に訴えたる事件が勃発した。「跡目が決められずに家元が死亡した場合、未亡人に跡目を指定する権利があるのか。そういう例が囲碁家元の慣習として存在していたかどうか」が裁判の争点となった。大阪地裁は、そのような慣習はないと認めた。判決文の要旨は次の通り。
 「徳川時代囲碁界における名跡の承継は、通常各家元がその存命中にそれぞれ跡目を定め幕府に許可を願い出てその許可を受けておき、家元の死亡又は隠居により跡目がこれを承継するという方法によってなされていたが、たまたま家元が跡目を定めないで死亡したときは一門の棋士が評議して跡目を選び、これを他家の家元が幕府に跡目として推薦し、幕府がこれを許可するという方法によってなされていた」。
 「明治維新以降井上家家元となった第一四世大塚因碩・第一五世田渕因碩はいずれも前因碩が跡目を定めず死亡したため同門の棋士に推挙されて名跡を継いだものである」。
 「家元が跡目を定めず死亡した場合には一門の棋士が評議のうえこれを選定していたものと推測することはできても、原告主張のように家元の相続人又は未亡人が跡目を指定したり、その同意がなければ名跡を継ぐことができないとする慣習があったとは認めがたい」。
 「もともと前近代的な家元制度の中では、家元の未亡人は一門の棋士から師匠の身内として尊敬され、また名跡を継ぐ者は未亡人から代々家元に伝わる遺品類の引渡を受けなければならなかつたこともあって、跡目を選ぶのに未亡人の意向が影響を及ぼし、また名跡を継ごうとする者がその継承に当り未亡人に相応の礼を尽くしたであろうことは容易に推測できるけども、それ以上に、未亡人が跡目を決めるとか、未亡人の同意がなければ名跡を継げないという慣習が存在しているとは、特に徳川時代および第一四、一五世井上因碩の襲名の経過に照らせば認めがたい」。

 ミネの方は大阪高等裁判所に控訴したが、高裁は地裁の見解を支持する判決を打ち出し、ミネが最高裁まで持ち込まなかった為、判決が確定した。津田が17代井上因碩となって6段に昇段し、1983年に逝去している。
 マンスリー・ゴ・レビュー創刊。
 9月、第2回1961日中囲碁交流戦。戦績は次の通り。日本代表団団長・棋院理事長の有光次郎、曲励起八段(8-0)、小山靖男七段(7-1)、伊藤友恵五段(8-0)、アマの菊池康郎(7-1)、安藤英雄(4-3-1)の5名。プロは中国側定先、アマは互先で、総戦績34-5-1。この年から、朝日新聞が経費を負担し、日中友好協会が仲介役を担い、1年ごとに訪問し合う約束が成立した。

 1962(昭和37)年、。

 1.9-10日、「呉-本因坊栄寿(先)」、坂田先番半目勝。
 2.7-8日、「呉-藤沢朋斎(先)」、藤沢(朋)先番8目勝。この時、呉清源は4勝2敗で優勝戦線に踏みとどまっていた。対する藤沢朋斎は1勝6敗と誰が見ても陥落はほぼ確定的だった。呉はオートバイ事故の後遺症いまだ癒えず椅子席を希望したが、藤沢は「私は大事な対局を椅子でやったことがない」と断固拒否した。観戦記者の覆面子が一計を案じ、畳一枚をはめこんだ台を作らせた。両者これで納得し、藤沢は台の上で正座、呉は椅子での前代未聞の対局となった。珍しく新聞の観戦記に写真がのった。ちなみにこの碁は藤沢が勝ち、以後全勝の打ち分けで見事残留した。呉は手痛い一敗を喫し名人位はほぼ絶望的となった。
 2.28日、「呉-本因坊栄寿(先)」、坂田先番1目勝。
 3.14ー15日、「呉-杉内雅男(先)」、呉白番中押勝。
 3月、第9期NHK杯「坂田栄男-橋本宇太郎」、坂田勝、優勝。
 3.29-30日、「橋本昌二-呉(先)」、呉先番9目勝。
 4月、第1回十段戦「橋本宇太郎-半田道玄」。
 橋本が3-1で優勝した。
 6.4日、日本棋院中央会館派遣により大山寿子3段、尾崎加与子初段が、約1年の予定でニューヨークに出発。
 6月、第17期本因坊戦「本因坊・坂田栄男-半田道玄」。
 坂田本因坊が○○●○○の4-1で防衛。
 7.8日、中華人民共和国より囲碁代表団(団長/李夢華)来日。
 8.1日、趙治勲少年(6歳)が韓国から来日。7月に6歳になったばかりで碁を覚えてわずか1年余りの少年だが、すでにアマチュア高段者並みの実力になった天才。
 8.2日、木谷一門百段祝賀会。木谷実九段一門の百段突破記念大会が東京大手町の産経ホールで行われた。セレモニーに引き続いてアトラクションとして木谷道場に入門するため韓国から来た趙治勲少年(6歳)と台湾から囲碁留学して日本棋院棋士となった林海峰(20歳)で五子局で対局し、趙治勲中押勝。
 初代名人を選ぶ第1期名人戦リーグ戦は大詰めで、藤沢秀行8段(9勝2敗)、呉清源(8勝3敗)、坂田栄男(8勝3敗)の三者による優勝争いとなった。

 8.5-6日、「
呉-坂田(先)」(虎の門の旅館)、「藤沢秀行-橋本昌二」(紀尾井町の福田家旅館)の二局が同時に打たれた。各自10時間の二日かける対局で、9勝2敗の藤沢が橋本に勝てば文句なしの1位のところ二日目の午後早目に敗れた。呉と坂田は共に8勝3敗で勝った方が藤沢と同率決戦する格好になっていた。藤沢は坂田が優勢だと小耳にしつつ銀座に出向き一人で酒を飲んでいた(異聞として、ヤケ酒をあおって家で寝ていた)。最後の対局となった「呉-坂田(先)」の勝負は、終盤呉の猛追によりジゴ(コミ5目)となり、それまでひと勝負もなかったジゴが最後の78局目の対局に現れた。名人戦の規定ではジゴは白勝ちとしており呉が権利を得たと思われたが、ジゴ勝ちは本当の勝ちに劣る「半星扱い」とするルールが適用され、同じ9勝3敗だが藤沢8段が呉を「半星」上回る形で第1期選手権制名人位に就くことになった。藤沢は宿敵坂田との再対局を予想しながら酒に思う存分酔った明け方に知らせを聞いた。呉清源の師匠瀬越憲作は嘆いた。「呉清源は結局、名人にならないみたいだ!」。藤沢は渉外担当として名人戦設立に当たり、自ら名人位を手中にするというドラマチックな幕切れであった。
 8.15日、東京タイムズ主催の女子選手権戦で、伊藤友恵5段が挑戦者/武田みさを3段を降して5連覇。
 9.5日、「鈴木越雄-呉(先)」、呉先番中押勝。
 9月、朝日新聞主催のプロ十傑戦が開始された。(昭和50年第12期で終了、新名人戦へ移行)。
 10.7日、NHKテレビ主催の囲碁対局開始。昭和30年以降になると各新聞社によるプロアマ棋戦が充実し、テレビ囲碁番組、国際アマ大会などが始まった。
 10月、第10期王座戦が「宮下秀洋-加田克司8段」。
 2-0で宮下が優勝した。
 藤沢朋斎が提唱した敗者復活方式(2敗で失格)を採用した十段戦(産経新聞)が16名のトーナメントで争われた。

 11.8日、第1期十段戦「半田道玄(勝者組)-橋本宇太郎(敗者組)」。関西棋院同士の決勝5番勝負となり、橋本が3-1で優勝し初代の十段となった。
 4月、日本棋院会員制度改正。会員誌「碁」発行。(昭和42年6月号終刊、昭和48年11月号復刊)
 この年、韓国で韓国棋院が設立された。
 7.8日、日本自民党顧問の松村謙三氏らの招請で中日囲碁交流の中華人民共和国代表団が初来日(昭和42年以降中断)。国家体育運動委員会・李夢華副主任を団長とし、劉棣懐、孫平化(後の駐東京連絡事務所の首席代表)を副団長、過惕生(55)、黄永吉、張福田、陳錫明、陳祖徳(18歳)の5選手が初めて来日した。訪問中、日本棋院は囲碁の対局の場を設け「囲碁交流会」を催した。囲碁の門外漢の孫平化氏が日本の棋院代表者と碁を打った時の様子が次のように伝えられている。
 「最初の1手目は完璧だった。自分が主導権を握れる場所に碁を打ち、周りも賞賛の目を向けていた。しかし、彼のにわか仕込みの知識は3手目の時にばれてしまう。なんと彼は、囲碁の「いろは」の「い」さえも分かっていないような場所に碁を打ったのだ。それを見た周りの人はと言うと、ちゃんと気持ちを汲み取ってくれていて、会場は大きな笑い声と拍手に包まれ、大いに沸いたのである」(「中日囲碁外交~見破られてしまった副団長の秘密」)。

 7.8日、第3回1962日中囲碁交流戦。中国の囲碁使節が日本に来た。戦績は次の通り。中国代表団団長・李夢華、劉棣懐、孫平化、黄永吉(1-6)、過惕生(2-5)、陳祖徳(4-3)、張福田(3-4)、張錫明(2-5)、中国側の総戦績12勝23敗(日本側の総戦績23勝12敗)。
 

 7.11日の初日の戦績は次の通り。日本チームが全勝した。
前田陳爾ー黄永吉 前田中押勝
梶原武雄-過*生 梶原中押勝
茅野直彦-陳祖得 茅野中押勝
平田博則-張福田 平田25目勝
村上文祥-陳錫明 村上7目勝

 7.13日の二戦目の戦績は次の通り。日本チームが全勝した。
前田陳爾ー過*生 前田14目勝
梶原武雄-陳祖得 梶原中押勝
茅野直彦-黄永吉 茅野7目勝
平田博則-陳錫明 平田6目勝
村上文祥-張福田 村上16目勝
 9.7日、第3回訪中使節団(団長/杉内雅男)出発。33勝19敗1ジゴ。

 1963(昭和38)年、。

 1.30-31日、「呉-林有太郎(先)」、呉白番6目勝。
 2.7日、第7期囲碁選手権戦決勝第1局「杉内雅男-林海峰(先)」、林先番中押勝。先勝した林は第2局、3局と連敗し、初優勝ならず、高松宮杯授与にとどまった。
 2.27日、「半田道玄-呉(先)」、呉先番中押勝。
 3.6日連載「呉-大竹英雄(先)」、大竹先番2目勝。
 3.21日、「呉-林海峰(先)」、林先番12目勝。
 3月、第10期NHK杯「橋本宇太郎-藤沢秀行8段」。
 4月、第2回十段戦「半田道玄-橋本宇太郎」。
 半田が3-1で橋本を破って十段を奪取した。初期の十段戦は関西棋院が大活躍の場となった。
 4.5日、「木谷実-呉(先)」、木谷白番2目勝。
 4.25-26日、「呉-橋本昌二(先)」、呉白番中押勝。
 5.9日、佐藤直男8段が9段に昇段した。同日、前田陳爾8段(55歳)が9段に昇段した。山部俊郎8段(36歳)が9段に昇段した。日時は分からないが、大平修三が昭和生まれで初め日本棋院9段に昇段した。
 6月、第18期本因坊戦「本因坊・坂田栄男-高川格」。
 坂田本因坊が4-2で防衛。坂田は、この時の38年より42年にかけて本因坊戦17連勝を飾ると云う記録を作っている。(38年の対局最後の2連勝、39年の対高川戦4連勝、40年の対山部戦4連勝、41年の対藤沢戦4連勝、42年の対林戦に3連勝)
 6月、第1回女流都市対抗戦開催。
 6.30日、日本労働組合総評議会の第1回囲碁大会が開催され、団体戦で京都府チームが優勝した。
 7.5日、「呉-坂田栄男(先)」、坂田先番勝。
 8月、林が、名人戦最終戦決勝で杉内を破りリーグ入りを決め、トップ戦線に跳び出した。
 8月、第1期名人の藤沢秀行への挑戦者を決める第2期名人戦は、坂田がリーグ最終戦で呉清源を破り6-1で挑戦権を獲得した。「この時の7番勝負は後々に語り継がれる死闘と呼ばれるに相応しい」ものとなった。9月、第2期名人戦「名人・藤沢秀行(38歳)-坂田栄男(43歳)」が始まり、第1、2局を坂田が制し、第3局以降を藤沢が3連勝し、カド番となった第6局を坂田が快勝し、最終戦を迎えた。
 9.29-30日、第7局「本因坊栄寿(坂田栄男)-名人・藤沢秀行(先)」、坂田白番中押勝、178手完。坂田の「終生思い出の局」となった。

 坂田本因坊が藤沢秀行名人を破り、4-3で史上初の「名人・本因坊の栄冠」を併せ持つ棋界の第一人者となった。坂田はこの年、30勝2敗という驚異的な成績を残し、十段を除く当時のタイトルを独占した。最後の名人秀哉没後二十年、実力制の新名人が誕生した(「
実力制名人誕生」)。
 「握って私の白番となったが、ここまで来ては、白も黒もない。精神力の戦いである。黒3と名人は、私の得意とする三3を打って来た。序盤の駆け引きである」。
 「白番坂田の120手目△が妙手として後世にまで語り継がれている。ここまで互角の形勢で、ここからの終盤で中央の力関係で地の付き方が問題となりそうなところ、一間トビを逆ノゾキする(逆側からノゾくのが普通の発想であるため逆ノゾキと呼ばれる)という手で優勢を築き、名人位獲得となった。解説を務めていた呉清源はこの手を『天来の妙手』と激賞し、藤沢はしばらく考えた後に『そんな馬鹿な』と呻いたという」。

 中山典之著「実録囲碁講談」は次のように記している。
 打たれたときは、坂田も秀行も、別に妙手とも思っていなかったらしいフシがある。ともに当然といった態度だった。ところが、しばらく秀行名人が考えているうちに、次第にその顔が紅潮し、息づかいが荒くなってきたものである。遂に独り言が出た。噛んで吐き捨てるように、「そんなバカな」。
 10.1日、第1回インターナショナル・ゴ・トーナメント(International Amatur Go Tournament)(中央会館主催)が開催された。参加国および順位は日本、大韓民国、中華民国、西ドイツ、アメリカ、ユーゴスラビア、オランダ、オーストリア、イギリス。
 10月、第11回王座戦「坂田栄男-藤沢朋斎」。
 坂田勝、坂田が2-0で優勝した。
 10.16日、「呉-中村勇太郎 (先)」、呉白番2目勝。
 10.18日、藤沢秀行8段(38歳)が9段に。日本棋院で10人目。(全体で17人目)。
 11.18-19日、「呉-林海峰7段(先)」、呉白番中押勝。
 12.2日、「呉-本因坊栄寿(先)」、坂田先番中押勝。
 3.6日、日本棋院が秒読みに新方式。日本棋院では昨年末から残り時間1分以降の秒読み方式を改めた。これまでは「30秒、40秒、50秒、55秒、58秒」と連呼して、それでも打たないときは「打ってください」と念を押していたが、今度は50秒から1,2,3と数え、10までに打たないと、その後時間切れ負けになることになった。
 この年、プロ十傑戦(朝日新聞)始まる。
 この年、日本共産党機関紙赤旗主催の赤旗名人戦が開始される。
 この年、第1回女流アマ都市対抗戦。
 この年、21世本因坊秀哉名人の偉大な業績を永く記念するため秀哉賞が創設され、第1回秀哉賞に坂田栄男(名人・本因坊)が選ばれた。
 2.3日、大倉喜七郎日本棋院名誉総裁が逝去。大倉氏は大正13年の日本棋院創設に尽力し、その後も物心両面で絶大な援助を行なった。7.17日、日本棋院は2.3日に亡くなった大倉喜七郎日本棋院名誉総裁に「名誉九段」を贈呈した。
 10.3日、中国の周恩来総理、陳毅副総理が中国を訪問していた日本囲碁代表団と面会した。この時の写真が遺されており、前列左から田岡敬一アマ7段、桑原宗久7段、西園寺公一(日中友好交流民間大使)、宮本直毅8段、陳毅副総理、杉内雅男9段(団長)、周恩来総理、岩村三千夫(日中友好協会秘書長)、村上文祥アマ7段、川上操六。後列左から陳先(時任国家体委群体司司長)、過惕生(中国選手)、江培柱(外交部日本語通訳)、劉棣懐(中国選手)、陳祖徳(中国選手)、呉淞笙(中国選手)、羅建文(中国選手)、黄永吉(中国選手)、朱金兆(中国選手)、沈果孫(中国選手)、李政洛(時任中国国家囲碁チーム領チーム)。
 9.13日、第4回1963日中囲碁交流戦。日本囲碁代表団、訪中。日本棋院の坂田栄男を代表とする日本囲碁代表団が3回目の訪中をした。棋士は5人(杉内雅男、宮本直毅8段、桑原宗久7段、田岡敬一アマ)が同行した。戦績は次の通り。
 日本代表団団長・杉内雅男九段(11-0)、宮本直殻八段(7-4)、桑原宗久七段(5-6)、アマの田岡敬一(4-5)、
村上文祥(6-4-1)。9.27日、中国棋士・陳祖徳が杉内雅男を破り、初めて中国棋士が日本のプロ9段を破った。陳祖得が日本の5選手に全勝し話題になった。総戦績は日本チームの33勝19敗1ジゴ。杉内雅男団長が、中国囲棋協会の陳毅名誉主席に日本棋院と関西棋院による名誉7段を贈呈している。  
 この年の4.13日頃、中国に囲碁の段位制度ができた。国家体育委員会が管掌し、段位は日本と同じく初段から9段まで、5段4名、4段13名、3段10名、2段8名、初段8名が登録された。

 1964(昭和39)年、。

 この年、坂田栄男が絶頂に登りつめる。その軌跡は次の通り。坂田は再度8タイトルのうち7タイトル(名人、本因坊、日本棋院選手権、プロ十傑戦、王座、日本棋院第一位、NHK杯)を制覇した。年間成績は30勝2敗。
1月 日本棋院選手権戦 挑戦手合い5番勝負で、高川格を3-0で破りタイトル獲得。
3月 日本棋院第一位決定戦 挑戦手合い3番勝負で、大平修三を2-0で破りタイトル防衛。
第11期NHK杯 1.5日、「藤沢秀行-呉(先)」。坂田が藤沢を白番8目半勝ちで優勝。
4月 第1期プロ十傑戦 4.11日、「坂田栄男-高川秀格」。決勝3番勝負で、坂田が高川を2-0で破り優勝。(9月、第1期プロ十傑戦(朝日新聞)、坂田栄男優勝)。同棋戦は昭和50年第12期で終了、新名人戦へ移行する。
5月 第19期本因坊戦 挑戦手合い7番勝負で、坂田栄男が高川格を4-0で破り防衛。敗れた高川が次の言葉を遺している。
 「どうもやられてしまうね。しかし坂田にもアキレス腱はあるはずなんだ」。
9月 第3期名人戦 挑戦手合い7番勝負で、藤沢秀行を4-1で破り防衛。
10月 第12期王座戦 決勝3番勝負で、梶原武雄8段を2-0で破り優勝。
 1.21日、囲碁「秀哉(しゅうさい)賞」の第1回表彰式が1.21日正午から東京丸の内の日本棋院中央会館で行われ、坂田栄男本因坊・名人が受賞した。「秀哉賞」は故21世本因坊秀哉名人を記念する賞で日本棋院の秀哉賞選考委員会で毎年1回、前年に最優秀の成績を上げた専門棋士に贈る。
 1.23-24日、「宮本直毅-呉(先)」、呉先番中押勝。
 1.29日、「林海峰7段-呉(先)」、林白番勝。
 4.11日、出場棋士をファンの人気投票で選ぶ第1回朝日プロ十傑戦で、1位坂田、2位高川となり、ファン投票と同じ結果となる。
 4月、第3回十段戦「藤沢朋斎-半田道玄」。3-2で藤沢が優勝した。
 4.18日、「呉-藤沢秀行(先)」、呉白番勝。
 4月、第1期プロ十傑戦で、坂田栄男が優勝した。
 4.14-15日、「呉-藤沢朋斎(先)」、呉白番中押勝。
 5.12ー13日、「呉-木谷実(先)」、木谷先番5目勝。
 5.26日、第19期本因坊戦で、坂田本因坊が、高川9段の再度のリターンマッチを斥け4連覇する。
 7.3日、「藤沢秀行-呉(先)」、藤沢(秀)白番2目勝。
 7月、坂田栄男が7タイトル独占、年間成績30勝2敗の記録樹立。
 10.14-15日、「大平修三-呉(先)」、大平白番21目勝。
 12.6日、名古屋市東区高岳町の日本棋院中部総本部で開かれた第3回朝日女流アマ囲碁のつどいA組戦(5級以上)で、13歳の聖霊中学2年生の小川誠子さんが優勝した。愛知、岐阜、三重県下から参加した50人余の女性囲碁ファンを驚かせた。
 12.9日、「林海峰-呉(先)」、林白番勝。
 12.9-10日、「
林海峰-呉(先)」、林白番中押勝。
 第2回秀哉賞に坂田栄男(名人・本因坊)が選ばれた。坂田の39年の戦績は空前絶後の30勝2敗。
 この年、7.25日、藤沢秀行が阿佐ヶ谷の自宅で、茅野直彦、当時十代であった林海峰、大竹英雄、工藤紀夫、高木祥一、小島高穂ら十数人による月2回の研究会(藤沢教室)を始めた。
 7月、第1回大倉賞が、瀬越健作、遠山元一、F・デュバルに贈られる。
 6月、第5回1964日中囲碁交流戦。中国側が来日した。戦績は次の通り。中国代表団団長・寥井丹、陳祖徳(5-4)、呉淞笙(4-5)、波果孫(3-4-2)、王汝南(4-5)、羅建文(3-6)、陳錫明(1-6-2)、総戦績20-30-4。この時、中国側は、「9段には2子、8-7段には定先、6段以下とアマの手合いは互先」手合いを提案している。

【戦後昭和の高度経済成長/佐藤政権期】

 1965(昭和40)年、

 1.13日、「呉-木神(先)」、先番3目勝。
 2.7日、NHK杯「半田道玄-呉(先)」、呉先番半目勝。
 3.7日、「呉-宮下秀洋(先)」、宮下先番中押勝。
 3.24日、「呉-藤沢朋斎(先)」、藤沢(朋)先番3目勝。
 3.24日、「橋本昌二-呉(先)」、橋本(昌)白番中押勝。
 3月、第12期NHK杯「坂田栄男-宮下秀洋」、坂田勝、優勝。
 4.14日、朝日新聞に囲碁将棋コラム「盤側」が初登場。
 4月、第4回十段戦「高川秀格-藤沢朋斎」。
 高川勝、3-1で優勝した。
 6月、第20期本因坊戦「本因坊・坂田栄男-山部俊郎」。
 坂田本因坊が4-0で防衛。その第1局で、山部挑戦者は坂田本因坊のドキンドキンと脈打つ心臓の鼓動が聞こえたと云う。次のように述懐している。
 「私だって信じられなかった。本当に聞こえたんだ。僕のような弱敵を相手にしても、気持ちを高ぶらせて臨む坂田さんの凄さを知らされた」。
 7.7日、「呉-藤沢秀行(先)」、藤沢(秀)先番11目勝。
 7.7日、「藤沢朋斎-林海峰(先)」、林先番中押勝。(於/静岡県伊豆山)名人挑戦を決めた藤沢朋斎とのリーグ戦。
 7月、全国高校選手権大会開催。
 第4期名人戦は囲碁史の大きな転換点となった。木谷實が高血圧のドクターストップがかかりリーグ全休。呉清源は全敗でリーグ落ちした。昭和を代表する両雄が名人戦の舞台に戻ることは遂になかった。
 8月、第4期名人戦に外国出身棋士(中国上海)として初めて且つ史上最年少の23歳の林海峯が挑戦者として登場して来た。林海峯が次のコメントを遺している。
 林「挑戦者になれたのが夢のような話で、あとはただ坂田先生に教えていただくつもりで、一番一番を大事に打って勉強したいと思います」。

 「本因坊・坂田栄男-林海峯」。第1局、紀尾井町の福田家で打たれ、坂田の先番中押し勝ち。坂田名人が次のコメントを遺している。
 「二十代の名人はあり得ない」。

 第2局、沖縄で打たれ、林が粘り抜いて逆転の先番4目勝ち。第3局、札幌で打たれ、林の白番ジゴ勝ち。第4局、九州で打たれ、林の先番3目勝ち。林が坂田をカド番に追い込んだ。第5局、芦屋の*旅館で打たれ、坂田の勝ち。


 9.18-19日、第6局が石川県七尾市の和倉温泉「加賀屋旅館」で打たれ、林が先番12目勝ち。林8段は第1局を失った後、第2、第3、第4局を立て続けに勝って名人をカド番に追い込み、第5局は坂田名人が一矢を報いたが、第6局では黒番を持った林8段が好調の波に乗り、必死に名人防衛を努める坂田名人を振り切った。結果、林海峯が4―2で坂田を降し、23歳史上最年少名人に就く。坂田が碁盤の前に座り続け、「石も名人も、みんな取られちゃった」の言葉を遺している。「坂田時代に待ったをかけた林海峰」の囲碁史地位を得る。林海峰は、これを皮切りに坂田の牙城を崩していった。この林に対抗したのが木谷実門下の大竹英雄であり、竹林時代を作る。
 10月、第13期王座戦「半田道玄-大窪一玄8段」。
 半田白番勝、2-0で優勝した。
 藤沢秀行が第2期プロ十傑戦優勝。
 11.14日、高校選手権戦が創設され第1回全国高校囲碁選手権大会開催。34校74人が参加して宮崎商高の上村陽生君(現プロ棋士)が優勝。
 12.3日、日本棋院が評議会を開き、帰属問題でもめている中央会館(八重洲口)の常任委員・伊予本桃市6段を除名処分にした。理由は理事会、評議会に従わず独断の行為があったこと、同会館を日本棋院とは別個の団体として東京地裁の仮処分を受けたことの2点である。
 第1回東洋三国アマ対抗戦。
 第3回秀哉賞に林海峯(名人)が選ばれた。
 この年11.5日、木谷実が紫綬褒章受章。
 この年、小林光一が13歳の時、小学校を卒業してすぐ上京し、木谷實9段門下の内弟子となる。当時、木谷九段の元には錚々(そうそう)たる顔ぶれが集っていた。小林名誉九段が「NHK囲碁講座」2014年4月号で次のように語っている。
 「当時、木谷先生のお宅には、僕を含めて8人の内弟子がいました。その他、昼過ぎになると東京に自分の実家がある人も通ってくるといった具合で、加藤正夫さんや石田芳夫さんを筆頭に兄弟子たちは皆、強い人ばかり。ちなみに武宮正樹さんは、私のちょっと後から入ってきまして、もうプロになっていました。今から思うと、錚々(そうそう)たる顔ぶれでしたね。そして木谷先生ですが、私が入門したとき、先生はもう体を悪くされておられました。ですから先生と“対局”という形で教えていただいたことはないのです。先生はですね、碁を一局打とうとすると、弟子との対局はもちろん、九子を置かせたアマチュア相手の指導碁でも、それこそ一日がかりになってしまうんですよ。先生にとって碁盤というのは「真理を追求する場所」ですから「一手もおろそかにしてはいかん」という思いだったのでしょう。ですから、体調を崩されて以降に入門した私は残念ながら、先生に打っていただく機会はありませんでした。一度だけ「頭の体操」みたいな感じでお相手をさせていただいたことはありましたが、それは対局というようなものではなかったので…。

 木谷先生は、本当にすごい人でした。碁そのものに対してはもちろんですが、囲碁界に対する愛情の深さが桁違いだったのです。体を悪くされたので、私が最後の弟子となるはずだったのですが、私の後にも続々と入ってきまして、十何人が入段しているのですから…。ご自身の体調よりも囲碁界の将来を最優先したということで、こんなにすごい先生は、もう現れることはないでしょうね」。
 3.30日、第6回1965日中囲碁交流戦。戦績は次の通り。日本代表団団長・梶原武雄八段(6-2-1)、工藤紀夫六段(7-2)、安倍吉輝五段(6-2-1)、総戦績19-6-2。中国側が徐々に実力差を詰め、1965年、陳祖徳岩田達明九段に初めての日本の九段に互先勝利を挙げた。中国ではこの勝利を記念して、この時の布石を図案とした切手を発行した。
 5.11日、第二陣として女流アマ使節が乗り込んだ。日本代表団団長・伊藤友恵五段、アマチュア女流棋士12名の総戦績は7-28-1。
 中国代表団団長・姚耐、陳祖徳(2-5)、呉淞笙(4-3)、王汝南(4-2-1)、美国震(1-6)、黄進先(0-6-1)、戦績11-22-2。
 日本代表団団長・岩田達明九段(9-1)、刈谷啓八段(7-3)、谷宮悌二五段(8-1-1)、木谷禮子四段(5-5)、原田実(5-5)、西村修(6-2-2)、総戦績40-17-3。
 日中韓の東洋三国対抗戦が結成され、この年の11月、京城で催された。

【昭和40年代前半の坂田と林の角逐】
 昭和40年代前半(1965年~)、坂田と林がトップを激しく争う時期となった。両者の角逐を名人戦と本因坊戦の二大棋戦に限って見る。
40年 第4期名人戦 林が4勝2敗で坂田からタイトル奪取。
41年 第5期名人戦 林が4勝1敗で坂田の挑戦を退ける。
42年 第22期本因坊戦 坂田が4勝1敗で林の挑戦を退けて7連覇。
第6期名人戦 林が4勝1敗で坂田の再度の挑戦を退け3連覇。
43年 第23期本因坊戦 林が4勝3敗で坂田からタイトル奪取。
45年 第24期本因坊戦 林が4勝0敗で坂田の挑戦を退けて連覇。

 45年を最後に両者の名人戦と本因坊戦の対決はなく、通算で林の5勝1敗。覇者交代を印象づけた。

 1966(昭和41)年、。

 1月、40年から41年にかけての第13期日本棋院選手権戦で、大平修三が坂田を圧倒して初のタイトルに輝いた。その後、林、山部、宮下の挑戦を退けて4連覇し日本棋院選手権男の異名を取る。
 1.5日、NHK杯「呉-本因坊栄寿(先)」、呉白番4目半勝。
 3.6日、「呉-藤沢秀行(先)」、藤沢(秀)先番16目半勝。
 3月、第13期NHK杯「高川秀格-藤沢秀行」、高川白番勝、優勝。
 4月、第5回十段戦「坂田栄男-高川秀格」。
 坂田勝、3-1で優勝した。
 5.7日、瀬越憲作名誉9段が勲二等瑞宝章受章。
 6月、第21期本因坊戦「本因坊・坂田栄男-藤沢秀行」。7番勝負は箱根石葉亭の第1局を皮切りに打たれ、坂田本因坊が4-0でタイトルを防衛。
 7.13日、「呉-曹薫鉉 ()」、白番1目勝ち。
 8月、第5期名人戦「名人・林海峰-坂田栄男」。林が対極前の決意を次のように述べている。
 「挑戦を受けるなどと云う気持ちではなく、坂田先生の胸を借りるつもりで打ちます」。

 結果、林海峰が4-1で防衛。坂田が林にリターンマッチし敗れる。防衛直後の林名人の言葉は「勝負だけにツイていた感じです。第2局以外は皆な私の悪い碁でした」。坂田本因坊の敗戦の弁は概要「もう林君の顔を見ただけで勝てないような気がして来た。第4局といい、第5局といい、あんな好局を負けるようじゃ僕もそろそろ引退だ」。
 10月、第14期王座戦「坂田栄男-林海峯8段」。坂田が20代の新鋭、林を2-1で破り優勝した。坂田はのちに「林さんには前年に名人位を奪われ、この年は逆に林名人に挑戦して敗れていただけに、王座戦では負けたくないとの思いが強かったのです」と語っている。
 11月、日生公開早碁シリーズ開始。(昭和42年9月終了)
 藤沢秀行が第10期囲碁選手権戦優勝。
 12.18日、NHK杯「呉-木谷実 (先)」、呉白番1目半勝。
 第4回秀哉賞に林海峯(名人)が選ばれた。
 この年、2.29日、林名人が中国囲碁協会に招かれ、台北で蒋総統と会見している。接見は総統府で行われるのが常のところ、自宅に招かれ、国手の称号を贈られている。
 6.10日、第7回1966日中囲碁交流戦。(6.10日、第1回日中囲碁対抗戦が開始された。中国囲碁代表団が来日し、結果は日本の19勝6敗 ?)。戦績は次の通り。
中国代表団団長・仰柱、呉淞笙(2-3)、王汝南(3-2)、黄良玉(1-4)、沈果蓀(0-5)、黄進先(0-5)、黄徳勲、総戦績6-19。日本代表団団長・島村俊広九段(6-0)、宮本義久八段(1-4-1)、家田隆二五段(4-2)、石田芳夫四段(5-0-1)、加藤正夫四段(5-1)、武宮正樹二段(4-2)、総戦績24-9-3。中国の文化大革命により1967-72まで中断する。この時、日本の一流アマと中国選手の双方5名による各5局、総当り対抗戦が企画された。日本側は平田博則、菊池康郎、村上文祥、佐々木修、西村修。日本側が圧勝した。
 11.10日、島村俊宏団長の下に、宮本義久、家田隆二、石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹の5選手が訪中。
 9.20-22日、日中韓の東洋三国対抗戦第2回大会が台北で盛大に開催された。日本からは、菊池康郎、原田稔、石井成幸の3名が代表選手として参加している。

 1967(昭和42)年、

 1.6日、NHK杯「呉-佐藤直男(先)」、呉白番10目半勝。
 1月、第11期囲碁選手権戦で、高川秀格が優勝する。(本棋戦終了)
 2.17日、NHK杯「呉-藤沢朋斎(先)」、藤沢(朋)先番中押勝。
 3月、第14期NHK杯「橋本昌二-藤沢朋斎」、橋本(昌)勝、優勝。
 4月、第6回十段戦「坂田栄男-藤沢朋斎」。
 坂田白番勝、3-2で優勝した。
 4.26日、第6期日本棋院第1位決定戦「坂田栄男-大竹英雄」。
 大竹先番勝、2-1で初タイトルを獲得する。全日本第1位戦移行後も5期連続、通算7連覇。大竹が次のように評されている。
 「林海峰といえば大竹英雄。少年時代から『チクリン』と呼ばれ、次代の大成を期待された二人だった。先行したのは林だった。しかし大竹も負けてはいない。昭和40年、林が坂田栄男から名人位を奪うと、その2年後の42年には、やはり坂田から日本棋院第1位の座を奪い、全日本第1位と名前が変わって50年まで、7連覇をやってのける」(秋山賢司「日本棋院創立100周年連載55/大竹、タイトル戦線へ」部分転載)。
 5.29日、「関山利夫-呉(先)」、呉先番中押勝。
 6.1日、岩本薫8段が9段に昇段した(65歳)。
 6月、第22期本因坊戦「本因坊・坂田栄男-林海峰」。
 第1局、箱根の*旅館で打たれ坂田の白番3目半勝ち。第2局、坂田の黒番中押勝。6.12-13日、第5局、坂田の白番10目勝。結局、坂田本因坊が○○○●○の4-1で防衛、7連覇した。坂田は、高川戦4-0、山部戦4-0、藤沢戦4-0、林海峰戦3-0まで17連勝と圧倒的な強さを見せた。
 8月、第6期名人戦「名人・林海峰- 坂田栄男」。
 4-1で林が防衛。坂田が再度のリターンマッチで又も敗れる。
 9.20日、「呉-藤沢秀行(先)」、藤沢(秀)先番10目半勝。
 10.19日、第15回王座戦「王座・橋本昌二-藤沢秀行(42歳)」。
 藤沢(秀)勝、2-0で初王座を獲得した。
 12.7日、「大平修三-呉(先)」、呉先番中押勝。
 第5回秀哉賞に加藤正夫(四段で本因坊戦リーグ入り)が選ばれた。
 この年、11.3日、岩本薫棋士が紫綬褒章受章。
 呉が大倉喜七郎賞受賞。
 この年、津島寿一総裁没、後任は足立正。

 1968(昭和43)年、

 1月、棋道賞創設、第1回最優秀棋士に坂田栄男が選ばれる。
 1.11日、「呉-大窪一玄(先)」、呉白番4目半勝。
 囲碁1月号「呉-东野鸿昭 (先)」、呉白番中押勝。
 2.3日、「林海峰名人-呉(先)」、呉先番中押勝。
 2.29日、「呉-本因坊栄寿(先)」、坂田先番5目半勝。
 3月、第15期NHK杯「大竹英雄8段-橋本昌二」、大竹白番勝、優勝。
 囲碁3月号「呉-宮本義久(先)」、呉白番15目勝。
 4月、第7回十段戦「坂田栄男-藤沢秀行」。
 坂田白番勝、3-1で優勝した。
 4月、日本棋院関西総本部新会館竣工する。
 囲碁5月号「呉-大山国夫(先)」、呉白番5目勝。
 5.4日、「林海峰名人-呉(先)」、林白番1目半勝。
 5.23日、「呉-窪内秀知(先)」、呉白番6目半勝。
 6月、第23期本因坊戦「本因坊・坂田栄男-林海峰」。
 第1局/坂田白番中押勝。第2局/林8目半勝。第3局/林12目半勝。第4局/坂田1目半勝。第5局/林2目半勝。第6局/坂田1目半勝。

 6.28日、第7局が箱根の*旅館で打たれ、林の勝ち。結局、林海峰が4-3で新本因坊になった。林海峰が選手権史上2人目の名人本因坊になった。坂田は次のように述懐している。
 「昭和43年に私は最後の牙城と頼んでいた本因坊を林海峰さんに奪われた。私は高川さんの9連覇を超えたいと思っていただけに7連覇で終わったことにガッカリしてしまった。48歳でした」(「勝負の世界2」22P)。
 囲碁7月号「呉-石井新藏(先)」、石井先番1目勝。
 7月、第1回全国日本棋院支部対抗戦開催。
 第1回アマ・プロ十傑戦開催。
 8月、第7期名人戦「高川格-林海峰(26歳)」。
 4-1で高川が防衛。1961(昭和36)年、坂田9段に敗れて本因坊戦10連覇がならなかった高川が4-1で下し、53歳で初の名人位を獲得した。

 高川は、昭和36年、坂田に本因坊戦10連覇を阻止されたものの、37、38年には日本棋院選手権戦を連破し、40年には十段を獲得、41年はNHK杯に優勝している。39年から42年まで4期連続でプロ十傑戦準優勝と云う珍記録も作っている。この年、名人戦挑戦の名乗りを上げ、1勝1敗の後の天王山の3局目を黒番3目勝ちし、第4、5局を連勝し名人位についた。名人位就位式で、「序列1位の名人になってこんなうれしいことはない。一年だけ名人を預からせせてもらいます」と述べ、その言葉通り、翌44年に林に名人を奪還される。
 8.13日、「橋本昌二-呉(先)」、橋本(昌)白番2目半勝。
 8.31日、「呉-窪内秀知(先)」、窪内先番6目半勝。
 囲碁9月号「呉-本田邦久(先)」、呉白番中押勝。
 9.15日、「梶原武雄-呉(先)」、梶原白番中押勝。
 10月、第16期王座戦「王座・藤沢秀行-坂田栄男」。
 2-0で藤沢が優勝し防衛した。囲碁王座戦は第16期から、前年の覇者と挑戦者決定トーナメントを勝ち上がった挑戦者が三番勝負でタイトルを争う挑戦手合い制に移行した。この年の三番勝負は、前期優勝者の藤沢にトーナメントを勝ち抜いた坂田が挑んだが、藤沢が2連勝で防衛した。新設棋戦にめっぽう強く「初もの秀行」とよばれたが、藤沢はのちに「これも『初もの』の一つ」と振り返った。
 第1回全国日本棋院支部対抗戦開催。
 10.6日、東京12チャンネル主催の第1期早碁選手権戦が開設され、「藤沢秀行(43歳)-藤沢朋斎」。藤沢秀行が優勝する。
 第1回アマ・プロ十傑対抗戦開催。
 石田芳夫が首相杯争奪戦優勝。
 藤沢秀行がプロ十傑戦優勝。
 11.2日「呉-加藤正夫(先)」、呉白番中押勝。
 11.15日、「呉-张吕祥二级(2子)」、呉白番25目勝。
 12.27日、「呉-島村俊宏(先)」、島村先番中押勝。
 第6回秀哉賞に高川秀格(名人)が選ばれた。
 この年、4.24日、日本棋院関西総本部の大阪囲碁会館(大阪市北区西天満)竣工、開設。

 1969(昭和44)年、

 1.9日、第16期日本棋院選手権「大平修三-挑戦者・宮下秀洋」。大平が勝ち4連覇を達成した。
 1.26日、「呉-橋本昌二(先)」、橋本(昌)先番1目半勝。
 3月、第16期NHK杯「藤沢秀行-藤沢朋斎」、藤沢(秀)勝、優勝。
 4.17日、加藤正夫5段(22歳)が史上最低段の本因坊戦挑戦者となった(2001.4.5日に張栩6段が21歳で挑戦者にとなり記録を更新)。
 4月、第8回十段戦「大竹英雄8段-坂田栄男」。
 3-0で大竹が優勝した。十段戦トーナメントは敗者復活戦を採用していた。大竹は1回戦で林に負けて敗者組に回り、羽根泰正、大平修三、藤沢秀行、林、そして藤沢朋斎を破って挑戦者になった。坂田との5番勝負は、1局目を白番中押勝、2局目は大竹必敗の碁を拾い、3局目に勝ってストレートで自由段奪取した。
 4月、第1期早碁選手権戦(東京12チャンネル)、藤沢秀行優勝。
 6.1日、第1回新鋭トーナメント戦で、石田芳夫6段(20歳)が石井邦生8段を下し優勝した。
 6.19日、「呉-大竹英雄(先)」、大竹先番4目半勝。
 6月、第24期本因坊戦「本因坊・林海峰-加藤正夫」。
 加藤24歳の時、最終的にプレーオフで藤沢秀行を下し挑戦者になった。結果、林海峰本因坊が○●○○●○の4-2でタイトルを防衛。この時の加藤の挑戦が木谷一門の怒涛の進撃の起爆剤となったと云う囲碁史上の地位を占めている。加藤が30歳を少し過ぎた頃、「今までの棋士人生で一番の思い出は?」の質問に対し次のように答えている。
「挑戦手合いに出掛ける朝、木谷實先生、お母様、それに内弟子全員が玄関を出て、見送ってくれました(のが私の一番の思い出です)」。
 7.6日、第2回アマ・プロ十傑対抗戦開催。会場の東京新宿の厚生年金会館大ホールは幾重にも人垣ができ冷房が全く効かないほど盛況だった。結果は次の通り。
坂田栄男 アマの3目コミ貰い 村上文祥 黒の3目勝ち
林海峰 2子 平田博則
高川格 菊池康郎
藤沢秀行 山下定男
武宮正樹 赤松弘
橋本昌二 京極文一
大竹英雄 池上清隆
久井敬史 千場一徳
橋本宇太郎 原田実
10 本田邦久 今村文明
 7.25日、第2次藤沢教室が始まる。藤沢秀行が不動産業のために代々木に開いた事務所に、林海峰、曺薫鉉のほかに当時四谷にあった木谷道場の石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、趙治勲ら若手棋士が集まって研究会を始めた(事務所を閉じる1978年まで続いた)。
 8月、第8期名人戦「名人・林海峰-高川格」。
 4-2で林が防衛。
 9.19日、「大平修三-呉(先)」、呉先番中押勝。
 10月、第17期王座戦「王座・藤沢秀行-大竹英雄8段」。
 2-0で藤沢が優勝、王座位を防衛した。
 11.20日、「工藤紀夫-呉(先)」、呉先番中押勝。
 12.11日、「大平修三-呉(先)」、呉先番中押勝。
 12.16-17日、第17期日本棋院選手権戦5番勝負「大平修三-石田芳夫」(4目半コミ出し)。第1局/石田(21歳)先番中押勝。第2局に敗れるも、通算3勝1敗で初のタイトルをものにした。次のように評されている。
 概要「昭和40年代前半のタイトル戦線でまず飛び出したのは林海峰、続いて大竹英雄である。さらに戦後生まれの加藤正夫も加わって、大正世代を圧倒する。この状況で登場したのが21歳の石田芳夫だった。21歳でのタイトルホルダーは最年少である。石田は翌年、20歳の武宮正樹の挑戦を退けて、日本棋院選手権戦連覇」(秋山賢司「碁界の礎百人/連載56」)。
 12.24日、第16期女流選手権戦で本田幸子4段が初の女流選手権を獲得。
 12.26日、「藤沢秀行-呉(先)」、藤沢(秀)白番8目勝、第1期早碁選手権戦優勝。
 この頃より、石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹の三人が、当時低段ながら8段、9段陣をなぎ倒し始め、「黄金トリオ」、「木谷三羽烏」と呼ばれた。
 第7回秀哉賞に林海峯(名人、本因坊)が選ばれた。
 この年11.21日、橋本宇太郎が紫綬褒章受章。
 10月、正力松太郎没。
 第1回 日韓専門棋士交流対局。

 1970(昭和45)年、
 大阪で万博開催。

 3.5日、第1期全日本第1位決定戦で大竹英雄7段が優勝した。
 3.9日、「木谷一門200段突破記念大会」が東京大手町の産経ホールで行われた。
 3.11日、第25回本因坊戦「本因坊秀格(高川秀格)-加藤正夫(先)」。加藤先番勝。加藤が相手の石を苛烈に攻め立てる。普通ならば到底死なないような石を取ってしまうことから「殺し屋加藤」の異名を取った。対局後、高川が「こんな石がとられるのかねえ」と嘆いたのは有名。
 3月、第17期NHK杯「林海峯-坂田栄男」。林が優勝した。
 6月、第25期本因坊戦「本因坊・林海峰-坂田栄男」。
 林海峰本因坊が○○○○の4-0でタイトルを防衛した。
 6月、万国博参加。「囲碁の祭典」。
 6.24日、「橋本昌二-呉(先)」、呉先番中押勝。
 7.16日、「呉-梶原武雄(先)」、呉白番中押勝。
 8月、第9期名人戦「名人・林海峰-藤沢秀行」。
 2-4で藤沢秀行が林海峰を破り名人位獲得。
 10月、第18期王座戦「王座・藤沢秀行-坂田栄男」。
 再び坂田と藤沢がまみえ、2連勝で坂田が雪辱を果たした。坂田は久々の無冠に陥っていただけに、喜びもひとしおだった。
 11.19日、「呉-本田邦久(先)」、呉白番中押勝。
 11.20日、石田芳夫7段(22歳)が、4段時1967年から71年にかけて連勝し、大手合30連勝を記録した。
 11.20日、「呉-大竹英雄(先)」、大竹先番中押勝。
 12.13日、第1回達人杯争奪戦(近畿テレビ)で、大竹英雄7段(28歳)が優勝した。
 石田芳夫6段が第26期本因坊戦リーグに入った。
 新聞囲碁連盟主催の全日本第1位決定戦が創設され、第1期は大竹英雄が制した。同棋戦は昭和50年第5期で終了、碁聖戦に発展する。
 日本棋院選手権戦「石田芳夫6段-大平修三」。
 3-1で石田が初タイトル獲得した。「木谷三羽烏(加藤、石田、武宮)の中で、石田が一番出世が早かった」。石田は同年、7段に昇段した。
 第8回秀哉賞に石田芳夫(日本棋院選手権者)が選ばれた。
 万国博、囲碁の祭典。
 1.15日、関山利一棋士が逝去(享年71歳)。

 関山利一
 プロフィールは次の通り。

 明治42年、兵庫県尼崎出身。8歳のときに父盛利4段から碁の手ほどきを受ける。1922年に恵下田栄芳(井上因碩16世)に師事する。1924年、上京して鈴木為次郎門下となる。1926(大将15)年初段、1929年4段。1932()年に時事新報主催の勝ち抜き戦「時事碁戦」で呉清源が18連勝した際に19人目として対戦し、関山が白番3目勝ちして連勝ストッパーとなった。1934年の大手合で春期秋期連続して優勝し5段昇段。1938年にも春秋連続優勝し、1939(昭和14)年6段昇段。1941(昭和16)年、実力制第1期本因坊となり利仙(りせん)と号す。1943(昭和18)年、第2期本因坊戦で橋本宇太郎の挑戦を受け、2局目途中で倒れ、。以後公式戦から身を引く。昭和25年、関西棋院に加入。昭和36年9段となる。1970(昭和45)年1.15日、関山利一棋士逝去(享年71歳)。

 日本棋院、関西棋院所属、鈴木為次郎名誉9段門下。関山利夫9段は長男。門下には梶原武雄、赤木一夫、山崎祐男、小山靖男、白石裕、徳永汎久、倉橋正蔵らがいる。大阪駅の西北、北区茶屋町の関山家の門には「以後指南」と書いた大きな表札が掲げられていた。1973年に創設された関西棋院賞では敢闘賞が「利仙賞」と名づけられた。

 内助の功は道枝夫人。長女/宜子は橋本昌二夫人、次女は倉橋正蔵の夫人。また長男利夫の妻の父は小山久義6段、利夫の妻は関西棋院囲碁学園子供教室の総合指導を務める。関山利道9段と倉橋正行9段は孫にあたる。関西棋院の囲碁一家という。




(私論.私見)