呉清源の囲碁哲学論考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.26日

 (囲碁吉のショートメッセージ) 
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 2017(平成29).12.7日  囲碁吉拝


【呉清源名言集】
 「呉清源 二十一世紀の打ち方」(NHK出版)より
碁は全局の調和です。 一手一手がよく釣り合いを保ち、全局面と調和するように工夫することです。例えば、建築でいいますと、玄関だけが見栄がよくても居間が悪くては困ります。居間がよくても台所がオンボロでは奥さんが怒るでしょう。家の造りも一局の碁も全体の調和があってこそ、立派だといえましょう。
私の好きな言葉に、「六合」(りくごう)というのがあります。古代中国の言葉ですが、「天地と四方(東西南北と上下)」を指す意味です。碁の一石一石は、すべからく六合に、つまりあらゆる方面と調和し、ピタリとその場に適合するのが望ましい。碁盤は平面ですから四方だけで十分ではないか、とも考えられますが、石には厚みがあり、重みもありますから、眼光紙背に徹して、やはり六合がよろしいでしょう。
数千年の昔から碁があり、二一世紀はもちろんのこと三〇世紀も四〇世紀も、多分、囲碁は存在し続けるでしょう。そして、この囲碁が、五千年くらい考えたところで、とても全体の十分の一もわかっていないところが、そら恐ろしいではありませんか。勉強すればするほどわからないことが出てきます。何とかわかろうとして、私、呉清源なども毎日毎日、碁盤に向かいます。盤に向かっている限り、毎日新しい発見があり、楽しくて仕方がありません。
私の希望としては、少なくとも百歳くらいまで生き、二十一世紀の碁がどうなっているかを見とどけると共に、まだまだ大いに研究を積んで碁界のお役に立ちたいと思っています。特に星打ちは歴史が浅く、まだまだ研究の余地が残されています。小目は先哲の研究 によってある程度の成果を見ましたが、星の研究はこれからの棋士の任務でしょう。碁に一層の厚味、深味を加えるためにも・・・。
 呉清源の名言は次の通り。「呉清源の囲碁哲学」その他参照
 概要「囲碁の理想は調和、共存共栄! 鏡の表面を磨かずに内面を磨け」
 「碁は調和の姿だと、私は考えます。碁は、争いや勝負と言うよりも、調和だと思います。一石一石がつり合っていて、最後に一局の碁が、調和したものとして打ち立てられるわけです」。
 「碁というものは、一つ一つの石を重ねてゆくのですが、その一つ一つの石には、働きというか、力というか、そういうものが、どこに石が置かれても、あるのですね。その一つ一つの石の力が、完全な調和を保つと、完全に綜合的な力を持つわけです。仮に三つの石があるとしても、その三つの力を合わせた力は、十五にもなれば十にもなる。いくつにでもなる。ですから私は、自分の石の一つ一つが、最高の働きと調和とを持つようにつとめるわけです」。
 「碁は調和ですから、無理はききません。一つ一つの石は、取られたり、死んだりするものではないはずなのに、無理があるから、取られたり、死んだりするのです」。
 「碁の勝負は普通の勝負とちょっとちがうと、私は思います。そこには人為的なものが少なく、ほとんど自然の現象というべきで、自然の現象を、ただ勝負と名づけただけではないでしょうか」。
 「全体的な視野を持って設計していくのが碁で、東西南北の空間と上と下の釣り合い、盤全体を見なくてはいけない」。
 「一局の碁が生きものである以上、その場その場において新型・新趣向が生ずるのは当然」。
 「水の流れるごとく自然に無理なく打つこと」。
 「石の形は固定的なものでなくて、その場に適合していることが重要である」。
 囲碁ではどんなことが大切なんですか、の問いに次のように語っている。
 「調和です。囲碁はもともと易経から来ているんですね。陰と陽のバランス。だから、碁盤の中では、片方が強すぎてもいけないし、弱すぎてもいけない。携わる人間がお互い最善の手を尽くすと、立派な局になる。それは政治でも経済でも言えることだと思いますね。勝ち負けは、自然に決まるもの。その場で最善を尽くせば、自然に結果もよくなるはずです」。
 世界選手権などで、日本人棋士がなかなか勝てずにいますが原因はどこにあるのでしょうかの問いに、次のように答えている。
 「定石中毒のせいですよ。昔は定石以外の手を打ったら破門されたほどですからね。しかし、定石とはいわば素人を教える方便です。日本人はひたすらそれを守るだけだから新しい発想が生まれないんですよ。私はいつも、定石は忘れろ、そしたら強くなると言っています」。
 「碁の考え方が悪いんです。勝てば官軍という考え方、すべて力ずくという考え方。そんな考えがはびこっているんじゃないかな。日本のレベルは一流ですが、わずか十年で中国が追い抜きましたね」。
 「老子はいきなり天元に布石した。孔子は隅の方から石を打ち始めた。老子の学は哲理が宏大無辺で、たやすく世人に理解されなかった。孔子の学は人の道を分かり易く組み立てたので一般に理解された。しかし、二人の学問の発したところは一つである。老孔は一如である。だから、人が道を行うのも、碁が大自然の道を求めて行くのも同じであると思う」。
 「相撲のあの息詰まるような一瞬の緊張をもって迎える立ち会いの呼吸には、何かしら碁の対局の心理に似たところがあるようにも感じる。立ち会いの一瞬の勝負は無念夢想の裡に、奇手が連発して局を結ぶのではないか。神授の一手が物を言うのであろう、経験の総合が輝くのであろう」。
 呉清源の「碁清談」。
 「よく人から棋道の上達法、研究方針を質問されますが、私は碁の修行には二つの途があり、それを併用してこそ、初めて優曇華(うどんげ)の花が咲くと信じております。昔から志は大きく持てと云います。棒ほど願って針ほど叶うのが又世の常ですから、私も無論大名人を目指して361路の精進を続けておるのですが、大名人たる為には、これから述べる修行の二途を措いては他に術がないような気がします。

 その二途とは、第一が手段の研究、第二が精神(こころ)の修行であります。第一の手段の研究は今更申すまでもなく、全ての専門家が夜を日に次いで没頭しつつあるところのもので、定石の解剖、新手の発見等々、詰碁の究理から対局の実戦熟練まで、これ皆な一つとして尊い踏み石ならざるはないのであります。これを鏡に例えれば、手段の研究はこの鏡の面に溜まった埃を一つ一つ払い去って行く工作でありませう。一歩一歩撓(たわ)みなき努力が払われねばならぬのは云うまでもないのであります。

 しかし、この手段の研究だけでは、大名人になれないのであります。何故なら盤上は変化無窮なのでありますから、経験の蓄積たる第一の研究法のみでは、臨機の慧(恵)光が閃かぬのです。『玄玄碁経』によりますと、8段を坐照としてあります。坐照の註に曰く、不労心思、神遊カツ内と。カツとは方寸の意です。又、名人を入神としてあります。神とは孟子にいわゆる、『聖而不可知之謂神』とある通り、その手段に至っても無にして而して有なるものでなければならないのです。

 ですから、この境地は、実に第二の精神の修養によって、やっと到達すべきところのものなのでありませう。精神の修養、これを鏡に例えてみますと、前者が表面の埃を拭い取る工作だったのに比して、これは鏡を奥底から、真底から光らせる作業なのであります。

 私は次のように考えております。即ち天地は春から夏にかけて力を出し、秋から冬にかけて力を養っているのだと。人間の腕でもそうです。グ-ッと伸び切る時が力を出す時、屈する時が力を養う時なのでありませう。従って棋士も力を出すばかりではなく力を養って行かねばならないのではないでせうか。そしてその養力は、前述の鏡を真底から光らせる作業だと信じます。

 宗教にも色々あります。例えば儒教は第一の方法たる鏡の表面の埃を一つ一つ拭って行くもののようであります。忠孝はその重要なる定石でありませう。これなれば間違いなく、又一歩は一歩と確実に前進改良されて行くのであります。これに対して仏教は神の如く悠然として悟りに入るもので、良知良能はかくてこそ達し得られるのではないでせうか。鏡を真底から光らせるのはこれだと思います。(以下略)」。

 呉は来日以来、期待通りの活躍を見せた。戦前から戦後にかけて当時の一流棋士と十番碁を戦い、悉く相手が一段下になるまで圧倒した。後に、「来日してから、どのくらい強くなられましたか」と尋ねられて、「半目くらいでしょうか」と答えている。呉は、天地と四方を意味する「六合」と云う言葉を好んで使い、「碁の一石一石がすべからく六合うに、つまりあらゆる方面と調和し、ピタリとその場所に適合するのが望ましい。囲碁は調和である」とする独自の囲碁観を持っていた。
 呉清源が次のように述べている。
 「盤上の複数個の石の集団には、一個の石にはない協同性という力が生まれる」。
 「神様と首を賭けて打つのだったら、5子置いても打てないだろう」。
 「神様と碁を打つと10手くらいで負けてしまう。勿論先番で打つのだが、先は4目半有利(昔のプロの碁はコミ4目半)。しかし神様は1手について半目くらいよい手を打つにちがいない。すると9手目を神様が打つとこちらの先番の利はなくなり、10手目にはもはや半目の負けになる。碁は白黒両者が調和を保って最善手を打てば、先に打った方が盤面で必ず残る。だから碁は勝負と言うより自然現象(一般的には数学の世界と表現した方が分かりやすい)だと思う。碁の勝負は他の勝負とちょっと違うと思う。そこには人為的なものが少なく、殆ど自然現象(数学)と言うべきで、それを勝負と名付けただけだと思う」。
 「勝負の秘訣は無理をしないことです。人間はだいたい無理をしたいんです。というのは、欲望というものがあるから、誰でもみな金持ちになりたいし、大臣になりたいし、権力の座につきたい。そこなんですよ。無理をして失敗するんです。欲張って失敗する」。
 「碁は中国神代の時からあったらしい。神技とは、まことにこのことをいうのであろう。邃遠幽玄、覗けば覗くほど天地下は広く深い。私ら、凡庸の頭からすれば碁は神が創造したとしか考えられないのである」。
 「碁というものは中国の哲学であるところの三百六十の陰陽-つまり天文学に関係しておこったものではないかと思います。碁盤の目は三百六十一、そして天体は三百六十から成っていますね。碁は最初は勝負事ではなかったのではないでしょうか。天文を研究する道具じゃなかったのでしょうか」。
 「碁盤の中央、天元(太極)の一点は数の始めであり万物の根源とみなす。三百六十は太陽が天をまわる日数を象(かたど)っている。また、盤を四分して一隅の九十路は四季それぞれの日数を表し、外周の七十二路は七十二候、そして白黒の石三百六十は陰陽にのっとっている」。





(私論.私見)