幻庵履歴と対戦一覧表

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.20日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで日本囲碁史考7として「日本囲碁史考10、秀策入門から幕末まで」を確認しておく。

 2005.4.28日 囲碁吉拝


【井上幻庵因碩(いのうえ げんなんいんせき)】
 1798年(寛政10年) - 1859年(安政6年)。江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の十一世井上因碩、八段準名人。井上家は代々因碩を名乗ったため、隠居後の号である幻庵を付けて幻庵因碩と呼ぶ。相続前には橋本因徹、服部立徹、井上安節と改名。名人の技倆ありと言われながら名人とならなかった棋士として、本因坊元丈安井知得仙知本因坊秀和とともに囲碁四哲と称される。本因坊丈和との名人碁所を巡る暗闘(天保の内訌)でも知られる。碁盤全体を使うスケールの大きな棋風が特色。別号として橘齋もある。

 1798(寛政10)年、出生地、実名は不明。姓は橋本とされる。自著「囲碁妙伝」では「武門の生」と記している。字は可義。
 1803(享和3)年、6歳の時、井上家の外家である
服部因淑に入門する。
 1809(文化6)年、12歳の時、初段となり、師の因淑の元の名である因徹を名乗る。翌年服部家の養子となって服部立徹と改名。
 1819(文政2)年、跡目として井上家に入り井上安節を名乗る。幼少からの厳しい修行により、この時には奥歯4本が抜けていたという。同年五段で、御城碁に初出仕、本因坊元丈に先二の二子局でかろうじて1目勝ちとし、この碁は元丈一生の出来栄えと言われる。
 1824(文政7)年、十世井上因砂因碩が隠居して家督を継ぎ、十一世井上因碩となり、六段昇段。
 1827(文政10)年、林元美とともに上手に昇段。
 1828(文政11)年、8段準名人となる。この文政7、8年に「的然として昇達」と自身で述べ、8年の仙知に先番10目勝ちの碁に対し
関山仙太夫は「黒打方極妙」と評している。
 1835(天保6)年7月、松平家の碁会。
 1839
(天保10)年、42歳の時、12月、名人願書を幕府に提出した。
 1840
(天保11)年、本因坊秀和との四番争碁を打つ。第1局は打ち掛け7回の末に秀和先番4目勝ちとなり、途中二度下血した因碩は碁所願いを取り下げた。
 1846(弘化3)年、7から8にかけて大坂にて本因坊秀策と対局した。
 1847
(弘化4)年、島原を訪問した。
 1848
(嘉永元)年、隠居して幻庵を号す。秀徹が12世井上因碩となる。しかし秀徹は1850(嘉永3)年に門人斬殺の事件を起こして退隠、後継者を予定していた服部正徹が旅行中であったため、林家門人の松本錦四郎に家督を継がせて13世井上因碩(井上松本因碩)とした。

 1859(安政6)、没(享年62歳)。

 名は別に因徹、立徹、安節。著作に「奕筌」(えきせん)、編著に「囲碁妙伝」など。
 棋風

【「天保の争碁」】
 1840(天保11)年、11月、本因坊13世丈策、林11世元美、跡目林柏栄らが井上11世因碩(幻庵)相手の争碁に丈策の跡目の秀和を指名する。

 11.29日、「天保の争碁」として知られる先相先 「井上因碩幻庵-秀和(先)」の「4番碁第1局」が、寺社奉行稲葉丹後守正守の神田小川町邸で打たれ、四番争碁が始まる。因碩幻庵8段は42(43?)歳、秀和7段は21歳。因碩は4番とも白石を持って打ち、悪くても2勝2敗の打ち分けで名人碁所に任命される筋書きを書き、先相先"を拒否し、8段と7段の対戦であるとして秀和の定先を主張し、これが受け入れられて秀和の先番となった。因碩と秀和の対局は初めてではなかった。両者は前年の天保10年に3番手合せをしている。初対局は秀和先番で因碩の6目勝ち。2局目は秀和1目勝ち。両者1勝1敗後の第3局はジゴ。互角のこの前哨戦を経て両雄は本因坊家―井上家の面子をかけた大一番に向かった。手合せ時間は毎日、朝9時から申(さる)の上刻(午後5時30分)までの7時間と定められ、稲葉丹後の守以下の役員のほか安井算知、太田雄蔵ら当時の一流棋士たちが観戦した。

 第1局、秀和と因碩はともに死力をつくし、初日は31手までで打掛けとなった。翌30日は45手まで。12.1日は71手まで。12.2日には91手まで進んで中盤戦に入った。両者互いに最善の手を打ち、いずれが優勢ともいえない展開となった。12.3日、碁は5日目に入り、因碩優勢に見えたが秀和の巧みな凌ぎにより逆転模様となってきた。因碩の体調がおかしくなり吐血。この日は、わずか8手しか進んでいなかったが対局は一時休止された。5日間の中断のあと、12.9日、再開。因碩から打ちつがれたが2日間打って再び倒れたのでまた中断した。二度中絶したことになる。1日休んで再開した。12.11日、第7日目、因碩が懸命に劣勢を挽回しようと打ち回したが差は縮まらず第8日目に入った。最後は夜を徹して朝方に白264で終局し秀和の黒番4目勝ちとなる。結局、打ち掛け7回、八日七夜の通算9日間にわたって打ち続けられたことになる。因碩は途中二度下血(吐血?)しており、身体でも盤面でも文字通りの死闘だった。「秀和が生涯で最も力を傾けた一局」と評されている。 因碩幻庵が「囲碁妙伝」に次のように記している。
 「初めより敵に先を置かせて確かに勝つべしと思う一心絶えず故に却って全き勝つこと能わず。大いに孫子の意に違えりと云うべきか」。

 秀和との争碁に臨んだ因碩は、第1局の秀和先4目勝ちの手ごたえを見て四番碁の継続を断念し、名人碁所の願書を取り下げることとなった。その後、1842(天保13)年にも秀和と二度対局するが、秀和の先番を破れず、名人碁所を断念する。その後1845(弘化2)年、丈和の長男戸谷梅太郎が水谷琢順の養子(水谷順策)となっていたのを井上家跡目に迎え井上秀徹とする。同年太田雄蔵と十番碁を行うが(雄蔵先)、棋譜は3局までのみ残っている。

 秀和は史上最強の棋士として名が挙がるほどの実力であったが、名人位を望んだ時には世は幕末の動乱期に突入しており、江戸幕府はすでに囲碁どころではない状況に陥っていた。本因坊丈策が三家の推薦で7段に昇進する。「天保の内訌」最終章となる。
(私論.私見)
 「井上因碩幻庵-秀和(先)」は黒番4目勝ちとなった。当時はコミなしルールであり、その約定の下での打ち回しであるから幻庵負けは動かし難いが、現下のコミありルール、しかも「白番6目半コミ貰い」で測れば様相が大いに変わる。黒番4目勝ちは白番2目半勝ちとなる。この碁に限らず、幻庵の戦績を現下の6目半コミ制で見直すと、道策、丈和に匹敵する非凡な戦績を残していることに気づかされる。例えば、前年天保10年の両者の3番手合せは、1局目/秀和先番で幻庵の6目勝ちとなったが現代では幻庵の12目半勝ち、2局目/秀和1目勝ちは幻庵の5目半勝ち、3局目/ジゴは幻庵の6目勝ちとなる。「耳赤の棋譜」で知られる1846(弘化3)年の「幻庵-秀策(先)」は黒3目勝ちであるので現代ルールでは白3目半勝ちとなる。当時のコミなしルール下での幻庵負けの相当数が現代ルールではひっくり返ることになる。「当時はコミなしルールの約定の下での互いの打ち回し」であることを承知しつつ、それを踏まえてもなお幻庵負けの相当数が割り引かれるべきと考える。この目線で捉えると、幻庵の碁聖ぶりが浮かび上がって来るのではあるまいか。

 2022.2.20日 囲碁吉拝

対戦日 白番 黒番 結果 現代碁コミ検算
1812(文化9).4.15 丈和 幻庵 (2子)ジゴ (2子)ジゴ負
 丈和との初手合。
1813(文化10).2.11 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
1813(文化10).10.1 丈和 幻庵 先3目勝 3目半負
1814(文化11).1.15 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
1814(文化11).2.21 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
1814(文化11).7.25 丈和 幻庵 先2目負 8目半負
1814(文化11).8.15 丈和 幻庵 先4目負 10目半負
1814(文化11).9.11 丈和 幻庵 先11目負 17目半負
 双方の死石150の大激戦。
1815(文化12).1.17 丈和 幻庵 先4目勝 10目半勝
1815(文化12).519 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
1815(文化12).9.9 丈和 幻庵 先2目勝 4目半負
1815(文化12).12.2 丈和 幻庵 先9目負 15目半負
1816(文化13).8.26 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
1818(文政元).6.29 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
1818(文政元).8.19 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
1818(文政元).9.15 丈和 幻庵 先5目勝 1目半負
1819(文政2). 元丈 幻庵 (2子)1目勝 (2子)1目勝
 御城碁
1820(文政3).11.17 林元美 幻庵 先11目勝  17目半勝
 御城碁
1821(文政4).10.27 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
1821(文政4).11.17 丈和 幻庵 先12目負 18目半負
 御城碁第392局/白の名局。
1821(文政4).12.8~ 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
幻庵的好局 (sgf)
1822(文政5). 安井知得仙知 幻庵 (2子)中押勝 (2子)中押勝
 御城碁/
1822(文政5).閏正月3.12 丈和 幻庵 先中押勝 中押勝
1822(文政5).8.10 安井仙知 幻庵 先中押勝
1822(文政5).9.5(10.3) 幻庵 四宮米蔵 白中押勝 中押負
 ShinomiyaYonezo vs InoueAnsetsu (sgf)
1822(文政5).10.19 幻庵 四宮米蔵 白中押勝 中押勝
1822(文政5).10.23 幻庵 四宮米蔵 白中押勝 中押勝
1823(文政6).11.17 服部因淑 幻庵 先2目勝 4目半負
 御城碁/
1824(文政7).11.17 元丈 幻庵 先2目勝 4目半負
 御城碁/
1825(文政8). 幻庵 林伯悦 (向2子)中押勝 (向2子)中押勝
 御城碁/
1826(文政9).11.17 安井知得仙知 幻庵 先13目勝 6目半勝
 御城碁/
1828(文政11).9 丈和 幻庵 打挂 打挂
1830(天保元). 幻庵 安井俊哲 (向2子)中押負 (向2子)中押負
 御城碁第413局/
1832(天保3). 幻庵 林伯栄 (向2子)中押負 (向2子)中押負
 御城碁第416局/
1833(天保4).11.6 幻庵 赤星因徹 白中押勝 中押勝
1835(天保6).7.19 幻庵 安井俊哲
1835(天保6).閏7 赤星因徹 幻庵 先中押勝 中押負
1835(天保6). 幻庵 赤星因徹 白3目勝 9目半勝
1835(天保6).11.17 幻庵 安井俊哲 白ジゴ 6目半勝
1836(天保7). 幻庵 安井俊哲 白ジゴ 6目半勝
 御城碁/
1839(天保10).3.10 幻庵 秀和 白6目負 半目勝
1839(天保10).4.4 幻庵 秀和 先相先/先1目負 5目半勝
1840(天保11).11.29 幻庵 秀和 白4目負 2目半勝
 争棋 (sgf)
1841(天保12).4.19 幻庵 安井算知
1841(天保12).9.10 幻庵 服部正徹 白9目勝 15目半勝
1842(天保13).5.16 幻庵 秀和 白6目負 半目勝
 失去棋所的名局 (sgf)
1842(天保13).11.17 幻庵 秀和 白4目負 2目半勝
 御城碁第444局御好み/ (sgf)
1842(天保13).11.17 幻庵 安井算知 白1目負 5目半勝
 御城碁
1846(弘化3).7-20 幻庵 秀策 打挂 打挂
 秀策 vs 幻庵6/1 (sgf)
1846(弘化3).7.21.24-25 幻庵 秀策 白2目負 4目半勝
 秀策 vs 幻庵  (sgf)
1846(弘化3).7.25 幻庵 秀策 白3目負 3目半勝
 耳赤的名局 (sgf)
1846(弘化3).7.28 幻庵 秀策 打挂 打挂
 秀策 vs 幻庵6/3 (sgf)
1846(弘化3).7.29-30 幻庵 秀策 白中押負 中押負
 秀策 vs 幻庵6/4 (sgf)
1846(弘化3).8.4-5 幻庵 秀策 白2目負 4目半勝
 秀策 vs 幻庵6/5 (sgf)
1849(嘉永2).正月 幻庵 勝田栄輔 白中押勝 中押勝
 勝田栄輔 vs 幻庵 (sgf)
1849(嘉永2).正月2 幻庵 勝田栄輔 打掛 打挂
 勝田栄輔 vs 幻庵 (sgf)
1852(嘉永5).1/15 幻庵 井田 (向4子)8目負
1852(嘉永5).1/16 幻庵 三上豪山 (向3子)8目負不明
 三上豪山 vs 幻庵 (sgf)
1852(嘉永5).11/17、19、23 幻庵
勝田栄輔
白1目勝 7目半勝
 勝田栄輔 vs 幻庵 (sgf)
1855(安政2).3-6,8,10,11,19 幻庵 秀策 白中押負 中押負
 秀策 vs 幻庵 (sgf)
1857(安政4). 幻庵 吉田半十郎 (向2子)
1859(安政6).

【趙治勲の幻庵評、百田尚樹氏の著作評】
 2020.7.21日、趙 治勲 (名誉名人・二十五世本因坊)「江戸時代の天才囲碁棋士たちは、なぜ命を賭けて闘ったか」。
 私は囲碁を六十年近くやってきましたが、つくづく思うのは、囲碁を知らない人に言葉で伝えるのは至難の業だ、ということです。囲碁は、非常に複雑で奥が深い、特殊なゲームです。その世界を知らない人にとっては、はっきり言ってしまえば、ゼロの世界です。たとえルールがわかったとしても、ある程度の力量に達しないと、碁という存在自体が無意味なのです。たとえば音楽なら、全くその世界を知らない人でも子供の頃から聴いている人は多いので、言葉で説明されれば、何となくわかります。絵画というジャンルも、絵を見たことのない人はいないので、同様に言葉で説明ができます。同じ盤上のゲームでいえば、将棋は駒に「王将」や「香車」などと書かれているので、将棋について書かれている文章を読めば、役割や動きも含め、盤上で何が起きているかを何となくイメージしやすいかもしれない。しかし囲碁は、白石と黒石があり、敵と味方があるだけで、あとは何一つわからない。技術的に、「ツケて、ハネて、ノビて、切って」と具体的に書かれていても、プロでさえ棋譜なしに完全に理解するのは非常に難しいのです。このわかりにくさが、囲碁小説を成立させる、高いハードルになっています。

 私が囲碁小説といって思い当たるのは、川端康成の長編小説『名人』くらいのものです。これは、二十一世本因坊・秀哉(しゅうさい)名人の引退碁の観戦記を小説の形にまとめたもので、勝負相手の大竹七段は、私の師匠である木谷實(きたに・みのる)(二十世紀を代表する棋士。自宅を「木谷道場」として内弟子をとり、タイトルを争うトップ棋士を多く育てた)先生をモデルにしています。その『名人』が発表されてから半世紀以上が経ち、現代のベストセラー作家である百田尚樹さんが、江戸時代の囲碁棋士たちのめくるめくような戦いの歴史を描いてくれました。百田さんご自身が碁を打ち、またアマチュアでも相当な強さであることは推測できますが、それにしても『名人』の七倍ほどに当たる、上中下巻約千ページという大部の作品を書かれたのは、迸るような囲碁への愛情ゆえでしょう。

 囲碁は、厳密な技術のゲームです。もちろん棋譜に間違いがあってはいけないし、具体的な勝負の記述は極めて精緻に書かれなくてはなりません。普段は自由に想像力を羽ばたかせて作品を書く作家であっても、大きな制約がある中で読者を飽きさせない面白い物語として成立させなくてはならないわけで、これは相当に困難な作業であったことは想像に難くありません。そのような困難を超えて、これほど圧倒的な物語を書かれたことは、驚嘆に値することです。

 本作の舞台である江戸時代には、約三千年といわれる囲碁の歴史において、非常に稀なことが起こりました。世界で初めて、盤上ゲームのプロ組織が作られたのです。囲碁家元四家(井上家、本因坊家、安井家、林家)は幕府から禄を貰い、囲碁を庶民に普及させる使命を帯び、また何とか自分の家から名人を出そうと鎬を削ることで、囲碁というゲームが飛躍的に発展しました。これは、世界史上でも類を見ない日本独自の文化です。

 江戸時代は電気もなければ、交通手段も情報も非常に限られていたわけです。その中で、インターネットやAIが発達した現代から見ても、遜色のない、膨大な数の棋譜が残っています。碁打ちの贔屓目で、祖先を大事にしたいという気持ちがあるのは確かです。しかしそれを差し引いたとしても、この作品に登場する先人たちが命がけで─―この時代の囲碁は時間制限なしの打ち掛けが当たり前で、文字通り体力勝負、命がけです。朝から始めて翌日の深夜、明け方まで打つのは日常茶飯事ですから、桜井知達(さくらい・ちたつ)や奥貫知策(おくぬき・ちさく)、赤星因徹(あかぼし・いんてつ)といった、惜しくも早世した天才棋士たちが多くいたのも頷けます─―碁を打ってくれたおかげで、今日の囲碁があるわけです。それは私たち碁打ちにとって、ちょっと想像を絶するほどに奇跡的なことなのです。

 現在の囲碁の世界は、韓国や中国がすっかり強くなってしまい、残念ながら日本の棋士では敵わなくなっています。しかし、韓国や中国の囲碁の歴史というのは、たかだかここ三十年ぐらいのものです。私も韓国や中国に講演などで訪れることも多いのですが、あちらでは碁打ちに対する尊敬の念というものは、あまり感じられません。私の実力が五だとしたら、扱いは二ぐらいのものです。しかし、日本では段違いに尊敬の念を感じます。私が三だとしたら、十くらいの扱いをしてくれる(笑)。これはやはり、本因坊算砂(さんさ)から数えて四百年以上の、日本の囲碁の歴史、文化が大いに関係しているのでしょう。

 さて、百田さんは江戸時代の華麗なる天才囲碁棋士たちの中でも、井上家十世当主(のち十一世)の幻庵因碩(げんなんいんせき。以後、幻庵)を主人公に選びました。彼は自著『囲碁妙伝(いごみょうでん)』の「学碁練兵惣概」に、「余いまだ何心なき六歳の秋より、不幸にしてこの芸を覚え始めつる」と記しています。江戸時代は数え年ですから、六歳は今の五歳です。私も六歳で韓国から日本にやってきて木谷道場に入門しましたから、境遇はよく似ています。幻庵は「不幸にして」と自ら韜晦(とうかい)していますが、私の場合は記憶も曖昧で、何とも言いかねるところがあります。しかし、少なくともさほどの幸福感はないので、幻庵の気持ちは理解できます。

 私が門下になった翌日に、木谷一門百段突破祝賀会が開かれ、そのアトラクションの一つとして当時六段だった林海峰(りん・かいほう)先生(現・名誉天元)に五子置きで打ち、中押し(ちゅうおし。囲碁において、地合いの差が大きく開いて優劣がはっきりした際に、終局まで打たずに対局の途中で勝負が決まること)で勝ちました。幻庵の場合は、本作では、井上家外家の服部家当主・因淑(いんしゅく)が三人の弟子志願者と七子置きで打ち、吉之助(きちのすけ)という名前だった幼い日の幻庵のヨミの鋭さを認め、内弟子に取ることを許す、という物語になっています。この時の棋譜は、残念ながら残っていません。同じ年齢で幻庵と比較すれば、たぶん私の方が強かったと思いますが、それは私の時代には棋譜も情報も多く存在していたからであって、何もない時代に「鬼因徹(おにいんてつ。因徹は服部因淑の若いころの名前。江戸時代の囲碁棋士は、名前を頻繁に変えた)」とまで呼ばれた人が認めたわけですから、才能という点では幻庵の方がずっと優れていたことでしょう。幻庵の最初の棋譜というものを、ぜひ見てみたかったです。

 木谷道場には『本因坊全集』があり、碁の最初の勉強として、棋譜を研究したり定石を学んだりするのに使っていました。道策(どうさく)、丈和(じょうわ)あたりの棋譜ももちろん載っているのですが、私たちの世代は、秀和(しゅうわ)、秀策(しゅうさく)あたりを勉強するのが一般的でした。秀和、秀策は突出した天才で、近代碁の夜明けのような碁を打った人たちです。特に、秀和の碁は革命的でした。飄々と打っていき、細かいところを捨て石にして、盤全体を見ていく。これはそれまでになかった碁です。本作でも、「戦わずして勝つ碁」、「強いのか弱いのかわからない、不思議な碁」と書かれています。秀策は、近代碁の中でも圧倒的な評価を得ています。しかし秀策は秀和という天才がいたからこそ登場した棋士であるはずで、さらに言えば、秀和は、幻庵、丈和という二人の天才が残した膨大な棋譜を見て修行したはずです。幻庵、丈和の碁は「勝ち抜く」碁ですが、この二人は、いわば江戸時代の碁と近代碁のターニングポイントになった棋士だと考えられます。そして、秀和は大天才で革命児なのですが、その秀和の時代より確実に情報が少なかった時代の棋士である幻庵、丈和もまた、秀和に負けず劣らない才能だったことは間違いありません。

 重要なのは、幻庵と丈和が、十一歳差ではありますが、同時代に存在したという点です。その上の世代の、元丈(げんじょう)・知得(ちとく)時代にも言えることですが、家元制度の下でのことですから、そもそもライバルが少ない。そんな中で同じ力量のライバル─幻庵と丈和は「悪敵手」と表現されていますが─に出会い、生涯で何十回も戦うこと自体がまた奇跡なのであり、この二人のどちらかが欠けてもその後の囲碁の発展はなかったかもしれません。

 現代でも棋士のライバル関係は、もちろんあります。私でいえば、木谷道場の同門である小林光一(こばやし・こういち)さんとは、百何十戦も戦って、ほぼ五分五分です。ただ、現代の囲碁のタイトルは、いわばプロテニスに似ているところがあります。対局は一年中あり、国内外に数々のタイトルがあり、連覇したり、取ったり取り返したりしているわけです。しかし、江戸時代のライバル関係は、家名を背負いますし、何より「名人」という地位の重みの次元が違いますから、勝負に賭ける思いも、憎しみの感情も、今とは比べ物にならなかったのではないでしょうか。

 それが具体的な形になって現れたのが、名人碁所をめぐる幻庵と丈和の「天保の内訌(ないこう)」です。ここで戦いは盤上のみならず、盤外の駆け引きや権謀術数へと広がり、この物語の大きな読みどころになっています。興味深いのは、この辺りから幻庵は流転の人生を歩み始めるところです。彼はその後も、名人碁所へのわずかな望みを繋ぎつつ、ことあるごとに碁を打ちますが、一方で、実人生においては突飛とも思える行動を繰り返し、いくつもの大きな挫折を経験します。中でも、清国への密航を企てた点は、幻庵の囲碁人生をよく表しています。この時代の密航は見つかれば死罪ですが、彼にはそんなことは関係ない。百田さんも書かれているように、当時の清国は太平天国の乱で混乱していて、囲碁などといういわば「遊び」を広めたところで、何にもならないかもしれない。しかし彼の中では、当たり前に筋が通っているのです。彼にとって、囲碁は何よりも尊い。囲碁の世界は、現実の政治や社会を超越している、とさえ思っていたわけです。ここに他の棋士とは違う、彼の天才性とスケールの大きさを感じます。

 幻庵の数々の挫折の中でも最大のものは、天保六年(一八三五年)の松平家碁会において、弟子の赤星因徹を丈和と対局させたことでしょう。その顛末は、本文を読んで頂ければと思いますが、それにしても、幻庵が自分で打たなかったことは、返す返す惜しかった。しかし、彼は弟子の才能に惚れ抜いてしまっていたのでしょう。芸事においては、仕方のないことかもしれません。それほど赤星因徹の才能がずば抜けていたのです。

 幻庵は名人碁所に執着する一方、「恥ずかしい碁は打ちたくない」と考えています。この気持ちは全ての碁打ちにあるものです。私も、いくら数多くのタイトルを取ろうが、そんなことは本当に重要なことではないと思っています。恥ずかしい棋譜だけは後世に残したくない。棋譜を見ればその棋士が強かったか弱かったか、一目で分かってしまうからです。これが碁の恐ろしさでもあり、尊さでもあります。晩年の幻庵が、ある棋譜に万感の思いを込めて人生を振り返るシーンがありますが、そのような棋譜を一つでも残せたら、碁打ちにとってこの上ない幸福なことでしょう。幻庵は実人生においては敗者だったのかもしれませんが、囲碁の世界では紛れもない勝者だったのです。

 最後に、現代囲碁におけるAIに言及しておきます。本作品が単行本として出版されたのは二〇一六年十二月のこと。それから三年半の間、AIは日進月歩の進化を遂げ、今やAI同士が対局し続けて鎬を削るようになり、人間は完全に敵わなくなってしまいました。百田さんはもちろんその辺りの事情にも明るく、加筆や付記といった形で最新情報を紹介されています。私は決してAIに詳しくはないのですが、中国の「GOLAXY」が検討した「吐血の局」と「耳赤の局」の棋譜を見ますと、AIが席巻してもなお残る、人間の打つ囲碁の魅力というものを感じます。「丈和の三妙手」や「耳赤の手」は、勝つためには確かに最善手ではなかったのかも知れません。しかし人間の感性からすると、やはりただの石である碁石をそこに打った瞬間に、体が震えるほどの感動を覚える手というものがあるのです。そして驚異的なのは、AIは今なお進化を続け、そのような芸術的な手を打ち始めている、という点です。局面では簡単なミスをしても、常に大局を見ている、つまり究極の人間とも呼ぶべきAIまで登場している。これは既に攻略されきった将棋やチェスの世界では、考えられないことでしょう。囲碁がいかに他のゲームとは違った奥深さを持っているか、ということです。

 囲碁は勝敗がつくゲームですが、しかし打つ手によって何ものでもないただの石が生きたり死んだりする、そこに感動がある芸術でもあります。繰り返しになりますが、力量のない人が簡単に理解できる世界ではないし、私自身はそれでいいと思っています。しかし囲碁を愛する者にとって、囲碁は何にもまして素晴らしいものなのだ、と思うことは、決して不遜なことではないと思います。百田さんは囲碁を愛する作家で、その気持ちはこの作品の隅々にまで表れています。また、さすが現代を代表する作家ですから、囲碁をまったく知らない人が読んでもその魅力が十分に伝わるように書かれており、読者は、その深遠な世界と、幻庵をはじめとする棋士の壮絶な人生に触れ、果てしないロマンを感じることと思います。私は一人の碁打ちとして、このような作品を書いて頂いた百田さんには、感謝の念しかありません。そして願わくは、この小説が江戸時代の囲碁棋士たちを知り、現代へと脈々と繋がる囲碁の歴史を知るバイブルにもなって欲しい、と思います。





(私論.私見)