アマチュア囲碁史

 更新日/2019(平成31).1.18日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここでアマチュア囲碁史を確認しておく。

 2014.4.25日 囲碁吉拝



【アマチュア強豪棋士列伝】
 1950年代に台頭し1960年代から70年代にかけて長らく活躍したアマチュア強豪棋士4名(平田博則、菊池康郎、村上文祥、原田実)を「アマ四強」と呼ぶ。この「アマ四強」が大会初期のほぼ優勝を独占した。その後、1972年の優勝者で、何度も準優勝した西村修を加えて「アマ五強」、1975、76年連覇の三浦浩を加えて「アマ六強」と云う。彼らを超える強豪はなかなか現れず、80年代から6回優勝した中園清三を含めて「アマ七強」と云う。彼らはその実績からアマチュア棋戦で地方予選を免除され「招待選手」として全国大会から出場し、7人で計34回、十傑戦を制している。本因坊戦も加えれば更に数を増す。
 安永一(やすなが はじめ)(1901-1994)(ウィキペディア安永一
 本格的囲碁評論の先駆者。時の本因坊秀哉に二子の実力と伝わる。
 1901(明治34).12.3日、兵庫県氷上郡出身。 東京の叔父(臨済宗の住職)のもとで育ち、府立一中、蔵前工専に進み、東北帝国大学数学科中退。

 1928年の秋期大手合にて瀬越憲作と高橋重行の対局で生じた万年劫事件をきっかけに、それまで明文化された囲碁のルールが無かったためにこれを制定しようという機運が生まれ、安永、藤田梧郎、島田拓爾らによるルール研究会が持たれた。安永は1929年の「棋道」誌上でルール成文化を論じ、1932年に「囲碁憲法草案」を発表した。安永憲法と呼ばれることもある。

 本因坊秀哉門下で四段まで昇ったが、プロ棋士としては活動せず、日本棋院設立後の1932年から「棋道」誌編集長など務めた。

  1933(昭和8)年秋の大手合で木谷実と呉清源が新布石を実践し話題となり、その暮れに木谷、呉の研究に「棋道」編集長/安永が加わり、翌1934(昭和9)年、平凡社から「囲碁革命 新布石法」を出版しベストセラーとなった。安永はこの時の主なライターとされる。

 1934(昭和9)年、日満華囲碁親善使節団に、木谷、呉、
田岡敬一らとともに参加。
 1937(昭和12)年、雑誌「囲碁春秋」誌を岩谷書店から発刊して主幹となり、在野の立場から「碁の科学」(囲碁春秋社)、「打碁と評論」(講談社)等々多くの著述をものにした。編集長は
野上彰が務め、田岡敬一も編集者として参加。誌は1974年まで続き、アマチュア棋戦や、プロ棋士によるアマチュア指導碁などを多く掲載した。安永自身の対局も多数掲載され、ベテランプロには安永先番、若手プロやアマチュア強豪相手には、安永白番が多い。

 1938(昭和13)年、皇軍慰問団を組織し上海、南京を訪問。団長は安永一、塚田正夫。囲碁は田岡敬一梶為和藤沢秀行竹内澄夫。将棋は加藤治郎加藤恵三永沢勝雄松田茂行。囲碁将棋各5名の編成。

 1947(昭和22)年、日本棋院の若手棋士8名(前田陳爾梶原武雄坂田栄男ら)が囲碁新社を設立して脱退した際には、その趣意書を依頼されて執筆した。「囲碁春秋」誌も囲碁新社の機関誌となった。

 イス席で近代的碁会所の第1号となる東京囲碁会館を経営。後にプロ入りする影山利郎らを育成する。

 1962(昭和37)年、全日本アマチュア囲碁連盟設立。この時、理事長に就任。東京の「アマチュア研究会」で、
菊池康郎原田実とのちの「中国流」布石を研究。

 1963(昭和38)年、日本中国友好協会の常任理事だった安永は、やはり理事だった石毛嘉久夫7段とともに日本中国友好協会の代表として訪中、囲碁交流の道を開く。この日中囲碁交流において中国代表団に、愛用していた小目からのシマリを省略する布石法を紹介し、中国の陳祖徳らはこれを研究して、以後多用し好成績を挙げた。この布石は後に中国流布石と呼ばれる。

 1976(昭和51)年、安永一とアマ四強に、「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。

 1980年の世界アマチュア囲碁選手権戦に日本代表として出場し、3位に入賞。

 1980年大倉賞受賞。

 1994(平成6).2.2日、年に92歳で死去(享年92歳)。

 「天下の素浪人」を自称。著作では「拙安永一」と記述していた。叔父の広月絶軒本因坊秀哉の著作の執筆を行った、囲碁ライターの草分け。 独特の囲碁理論を持ち、安永定石と言われるものもいくつか残した。西村修らによる「安永一先生を偲ぶ会」が作られている。プロ棋士の育成もし、門下に小松英樹、谷口敏則、吉岡薫らがいる。

 平田博則(1926-)(ウィキペディア平田博則
 1926(大正15).6月、福岡県大刀洗生まれ。小学2年の時に一家で上京し、荒川区その後大田区蒲田に移って本屋を始め、囲碁好きの父の影響で碁を覚えた。大森の私立東京中学校に通ううちに囲碁に熱中し、増淵辰子門下の吉原一郎準棋士に指導を受けて二年ほどで二子に上達、15歳の時に増淵辰子の紹介で日本棋院院生となる。1942年の入段試験で岩田正男(岩田達明)らとともに初段を認められるが、戦争のために囲碁を打つ状況ではなかった。中学卒業後は東京高等師範理科に入学、しかし空襲で家も学校の遼も焼け出され、日光の古河製銅所で終戦を迎える。戦後1947年に東京文理大数学科入学、1952年に卒業して成蹊高校教師となる。下宿先の駒場の農学者末松直次邸での碁会で腕を磨き、当時早稲田大学学生の村上文祥とも渡り合った。1955年の第1回アマチュア本因坊戦で優勝し、アマチュアで初の六段位を獲得。その度もアマチュア棋戦で活躍し、菊池康郎、村上文祥、原田実とともにアマ四強と呼ばれる。1976年、安永一とアマ四強に、「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。

 1967年から昭和薬科大学に勤務、1968年助教授、その後教授としてコンビナトリックスを研究。早稲田大学講師も務める。全日本アマチュア本因坊戦4回優勝(名誉アマチュア本因坊)。朝日アマ囲碁十傑戦5回優勝。世界アマチュア囲碁選手権戦 日本代表決定戦8回優勝。1995年、世界アマチュア囲碁選手権戦で、69歳の史上最年長で優勝。2011年には84歳で出場し、5位の成績となった。1996年に昭和薬科大学を定年退官し名誉教授となる。 2002年、囲碁普及の功労者の一人として第32回大倉喜七郎賞を受賞。2010年に名誉アマチュア本因坊の称号が贈られた。過去4回以上の優勝者の菊池康郎、原田実、三浦浩、中園清三、平田博則の5名が主催の毎日新聞社より顕彰を受けた。

 菊池康郎(1929-2021)(ウィキペディア菊池康郎
 1929(昭和4).8.20日、大田区蒲田に生まれ。
 3歳頃に囲碁好きの父の影響で囲碁を覚え、碁会所で腕を磨く。
 高輪中学時代に横浜市中山に疎開し、相原忍三段や伊藤友恵、小泉重郎らの指導を受ける。 1948年、専修大学入学後、全日本アマチュア選手権戦(全日本アマチュア本因坊戦の前身)で神奈川県予選で優勝して東日本大会でベスト4入りし注目され、この大会で優勝した影山利郎と親交を得る。また審判長だった安永一に認められて師事。安永が主幹を勤める囲碁雑誌「囲碁春秋」、「囲碁の友」などでプロ棋士との対局が企画される。
 1950年、「囲碁春秋」で炭野武司六段に二子、先番で連勝する。この年、仲間内の研究会を作り後に「緑星会」と命名。
 1951年、関東大学囲碁リーグ戦出場のために囲碁部を作り、第1回リーグ戦では最終戦で村上文祥を破り11連勝で個人優勝するなど学生碁界で活躍した。

 1952-53年の「圍碁」誌でのプロアマ二子局(持時間5-6時間)で、トッププロを相手に9連勝(掲載順に宮下秀洋7段、瀬越憲作8段、雁金準一8段、坂田栄男8段、木谷實8段、鈴木為次郎8段、高川秀格本因坊、橋本宇太郎8段、岩本薫8段)し、プロがアマチュアに二子で負けるわけがないと言う当時の常識を覆した。その後は藤沢朋斎(庫之助)8段に苦杯を喫し、藤沢秀行7段に勝ち、通算10勝1敗。これで菊池の名が広く知れ渡った。
 この頃、既にプロ棋士となっていた影山利郎らにプロ入りを勧められるが、卒業後は八幡製鉄(現新日鉄)に入社。

 1955年の第1回アマチュア本因坊戦は仕事のために欠場、第2回は水野弘士に敗れて4位、1957年第3回に優勝し以後3連覇。その後計アマチュア本因坊戦優勝13回の他、アマ十傑戦優勝9回、世界アマ日本代表として優勝1回など多数の優勝を飾る。平田博則村上文祥、原田実と並んでアマ四強と称されて、長くアマチュア囲碁界最強の地位を占め、プロからもプロ六、七段は打てると評されている。
 1956年の「娯楽よみうり」誌でのアマ強豪との勝ち抜き戦で、アマチュア及びプロの大竹英雄初段に勝ち、続いて工藤紀夫2段に敗れるまで27連勝。その他にも雑誌の企画などでのプロ棋士との対戦で好成績を挙げる。
 1959年、プロ棋戦に参加させてはどうかという提案もなされ、「棋道」誌上でも論争された。

 1961年、日中囲碁交流の訪中団に加わる。その後も若手棋士を率いて中国、韓国との交流を積極的に行う等、国際囲碁交流にも尽力する。

 1975年、アマチュアの研究会「緑星会」を再設立。1979年にこれを発展させて、子供のための囲碁教室「緑青囲碁学園」を設立する。

 1976年、安永一とアマ四強に、「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。
 1981年、新日本製鉄を退社し、以降、緑星学園の活動に専念する。多くの有望な子供を育成。出身のプロ棋士も、村松竜一を第1号として青木紳一青木喜久代山下敬吾、加藤充志、秋山次郎、溝上知親、鶴丸敬一、高野英樹など多数に昇る。

 1992年、世界アマチュア囲碁選手権戦優勝。
 1992年、日本囲碁ジャーナリストクラブ賞を受賞。
 1994年、日本棋院より大倉喜七郎賞が授賞された。
 1998年、「東日本子供囲碁大会」を企画、開催し、その後「ボンドカップ全日本こども大会」へと発展した。
 2000(平成12)年7月、第40回アマ十傑戦で通算9回目の優勝となり、大会最多優勝記録を更新する。
 2003年、阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦予選では予選Cを勝ち抜き、予選Bでは柳時熏7段も破った。棋風は柔軟性に富み、創造性豊かな序盤も特長がある。
 2010年、名誉アマチュア本因坊の称号が贈られた。過去4回以上の優勝者の菊池康郎、原田実三浦浩中園清三平田博則の5名が主催の毎日新聞社より顕彰を受けた。

 国際囲碁友好会理事長、全国子ども囲碁普及会代表、一般社団法人全日本囲碁協会理事長。社交ダンスで全国大会十傑に入った経歴も持つ。

 2021(令和3).11.3日、老衰のため死去(享年92歳)。

 2022(令和4)5.15日、緑星囲碁学園生主催、公益財団法人日本棋院協力。「菊池先生を偲ぶ会」が日本棋院で行われる。

 緑星学園主宰・菊池康郎「1週間で消えたプロ入り話」(読売新聞岡目八目より)を転載しておく。
 昭和26~27年ごろ、青桐社の岩谷泉社長が雑誌「囲碁」(現・誠文堂新光社刊)で、トッププロ対アマ3人の2子局を企画してくださいました。アマは福田了三さん、渋谷雪雄さん、私。私たちは負けたら終わりですが、逆に勝てば次も打ってもらえるというルールでした。私は1局目に宮下秀洋先生に勝って勢いがつき、連戦連勝。なんと10連勝したのです。打って頂いたトップ棋士は、坂田栄男、高川格、雁金準一、瀬越憲作、鈴木為次郎先生といったそうそうたる顔ぶれでした。秒読みに慣れていらっしゃらないので、後半逆転というケースが多かったようです。持ち時間は各5時間でしたが、木谷実先生は「6時間」でなければ、ということで6時間持ちで箱根で打って頂きました。最後は藤沢庫之助(朋斎)先生に4目負かされましたが、勝てば呉清源先生ということで、惜しいことをしました。このシリーズの中で、私の運命を左右する出来事がありました。実は、瀬越先生との対局は、岩谷社長が仕組んで私の人物を見て頂く面接を兼ねていたのです。 その結果、八幡製鉄(その後、富士製鉄と合併、現在の新日本製鉄)の藤井丙午副社長に推薦して頂き、入社の運びとなったのです。ところが入社後、しばらくして岩谷社長から、「菊池君、プロにならないかね」と打診があったのです。おそらく日本棋院とある程度の話ができていたのかもしれませんが、八幡製鉄へ入社を勧めてくださった岩谷社長が、今度はプロにならないか、と。一瞬とまどってしまい、「1週間くらい考えさせてください」と答えるほかありませんでした。ところが1週間もたたないうちに、岩谷社長が脳出血で急逝されたのです。この瞬間、プロ入りの話は終局したのですが、もし岩谷社長から話があったとき、ノータイムで「お願いします」とご返事していたら、プロへの道を歩んでいたかもしれません。
 村上文祥(1932-1999)(ウィキペディア村上文祥
 1932年、広島県因島市生まれ、村上水軍の末裔という。小学3年の時に、入院中の父に命じられ、訳の分からないまま毎日のように棋譜並べして見せたことで囲碁を覚える。中学時代にはプロ棋士の関山利一九段が岡山県の疎開先で開いていた研究会に通った。この頃、向井一男七段、半田道玄四段などにも教えを乞い、天下四目を自称した。次のように語っている。
 「中学時代は尾道に下宿していたのですが、学校なんてさぼり放題。岡山県の笠岡に関山利一先生(第1期本因坊)が療養に来ておられ、近くの寺に小山靖男さんや宮本直毅さんが、関山先生の講評を聞きに集まっていました。私はそれが面白く、尾道から汽車で見に行ったものです。今でもはっきり憶えている碁があります。赤木さんがプロ入りする時の二子局試験碁で、相手は鈴木憲章4段。いつものように窓の外からのぞき込み、徹夜を覚悟していたら、関山先生が『坊や、入りなさい』と声をかけてくれました。この時は涙が出るほどうれしかったですな。いろいろな先生に打ってもらったのも中学時代です。食糧事情が悪くなって下宿におれなくなり、因島から尾道の中学まで、片道3時間半かけて40トンくらいの船で通っていたのですが、ある日、ふと見ると、向井一男先生が同じ船に乗っています。そこでさっそく先生に挑戦しました。方眼紙と鉛筆で。先生もびっくりされたでしょうな。『因島にナマイキな小僧がおるそうだな。わしのところへ来い』と、呼んでくれたのは伊予木さんです。関山先生と同じように療養生活をおくっていたのですが、四つ置かせて軽く片づけるつもりが、一日がかり。その晩は高熱を出したとか。病身を押して、命懸けで教えてくれたのです。有難いことですな。半田さんが4段の頃にも四子で打ってもらいました。たまたま私が勝ったところ、翌週また因島に来られて、『納得できないから、もう一番打とう』というのである。置いているとはいえ、プロの先生にアツくなって挑戦されるなんて愉快でしょう」。(1984(昭和59)年10月号囲碁クラブより)

 早稲田大学に入学すると「西の怪物」と呼ばれ、後にライバルとなる菊池康郎は村上と対戦するために専修大学囲碁部を作って関東学生リーグに参加、全勝同士で最終戦で対決し菊地が勝利したが、村上は学生時代の大会では、この菊池戦も含めて2敗しかしなかった(村上に勝利したのは菊池康郎のほか江島界雄(中央大学)のみである)。

 1955年、早稲田大学を卒業し荏原製作所入社。1960年、アマチュア本因坊戦で優勝。翌年の高川秀格本因坊との記念対局(二子で中押勝)は、テレビで初めての囲碁対局の放送となり、翌1962年からNHK杯戦がテレビ放映となった。その後数々のアマ棋戦で優勝し、アマ四強の一角を占める。1963年、日中囲碁交流に訪中団代表として出場、6勝4敗1ジゴなど国際囲碁交流でも活動した。

 1976年、安永一とアマ四強に、「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。

 1979年、第1回世界アマチュア囲碁選手権戦の日本代表となり、聶衛平、陳祖徳、陳嘉鋭に次ぐ4位入賞。第3回には邵震中、馬暁春に次ぐ3位となる。1994年、荏原製作所副社長。1996年、荏原総合研究所社長。1999.4.17日、死去。日本棋院より追悼八段。 全日本アマチュア本因坊戦優勝5回、朝日アマ囲碁十傑戦優勝6回。

 原田実(1936-) (ウィキペディア原田実
 1936年、鹿児島県に産まれる。1948年に囲碁をはじめる。 東京都立大学に進学し、1958年、1959年と全日本学生本因坊決定戦に優勝する。 1960年に日立製作所に入社する。

 1961年に全日本アマチュア本因坊戦に優勝。以後、1963年、1964年、1968年、1989年、1997年、2003年と優勝する。7回優勝。 2010年に「名誉アマチュア本因坊」の称号が贈られた。

 1964年に朝日アマ囲碁十傑戦に優勝。以後、1965年、1986年、1988年に優勝している。

 1970年、関西棋院から「アマチュア7段」。1976年、安永一とアマ四強に、「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。

 2000年に日立製作所を退社する。同2000年 アマチュア八段(日本棋院)。

 2008年に第37回大倉喜七郎賞を受賞。

 2010年に名誉アマチュア本因坊の称号が贈られた。過去4回以上の優勝者の菊池康郎、原田実、三浦浩中園清三平田博則の5名が主催の毎日新聞社より顕彰を受けた。

 日本棋院神奈川県支部連合会顧問、神奈川県囲碁連盟相談役、囲碁研究会「遊仙会」「みのる会」主宰、NPO法人日本福祉囲碁協会客員。

 西村修(-2018.12.31日)
 神戸大学囲碁部史において、第一期黄金時代を築いた。この時代に、後に読売新聞の観戦記者として活躍する神戸外大の赤松を神戸大の団体戦選手として試合に出場させた為、神戸大学囲碁部が関西学生囲碁連盟から懲罰として一年間試合に出れなくなる事件が起きている。但し、この種のことは双方から意見を聞かなければ見識を欠くと思われる。当時の西村御大が全国レベルの凄腕の赤松氏が大会に出られないのを惜しみ、義侠的に神戸大学囲碁部から出場させ共に囲碁に興じようとしていたのかもしれない。それは優勝なり入賞を狙っての作為というより無聊をかこつ赤松に囲碁団体戦の楽しさを味わそうとする囲碁好きが嵩じての酔狂だったのかもしれない。何と二人は元町の蕎麦屋の二階に同居していた間柄だったと云う。問答無用式に西村氏を詰(なじ)る方向に向かうのではなく、関係者から慎重に意見を聞き、なるほどの弁解を聞かされる場合には理解を示すのも度量ではなかろうか。かく構えるのが穏当と思われるので軽断を控えたい。

 S39年、在籍8年を堪能して神戸大学文学部卒。その後は、朝日アマ囲碁十傑戦、その後身の朝日アマ囲碁名人戦で長年活躍する。「ハレー彗星の舞」、「北斗七星の陣」といった独創的な布石でも知られた。高林共平(JR三宮駅北側の碁席「加賀」席亭)とどちらが強いか如何。「西村修・氏の実力は当時も今も並の5段では5子局では西村に勝てない」の評あり。西村氏は、菊地氏の東の緑星学園に対する西の遊星会を立ち上げ、結城、坂井をプロに送り出している。囲碁雑誌「囲碁梁山泊」(サロン・ド・ゴ経営者・斎藤謙明氏発行)同人で「我が闘魂の詩情」と題して連載寄稿し続けて来た。まさに「囲碁づくし」の人生を謳歌してきた。徹夜で碁の打てる新宿の碁会所「秀策」で、一番奥のすみに陣取り怪しい雰囲気で打っていた佐々木修氏と並び「二修」と称されている。

 以下、「ちいさな小熊雑貨店」参照。

 西村修少年の囲碁人生の最初のハイライトは、 14歳のとき、44歳の本因坊昭宇の橋本宇太郎先生と5子で打ち、12目勝ちをおさめる。但し、宇太郎先生は、無言で、ふところからピースの小箱を取り出し、少年が勝った盤上12目の空間にポンと置いた。田村竜騎兵氏の記述によると、「西村さん、確かにあなたは勝った。だがどれだけ勝ちましたか。たったピースの箱ひとつですよ。これではいけません。五つも置いたら、この箱が五つ入るくらい勝たなくては」。

 西村修が高校三年の時、アマ本因坊戦の兵庫県大会に出場し、準決勝で、古豪橋本紋次郎氏に負ける。これを契機に碁心復活。一浪して神戸大学入学。下宿が碁会所の2階。囲碁部へ。囲碁部キャプテンを3子で負かし、オール関西学生選手権で優勝。宇太郎から5段の免状をもらう。関西学生チャンプの直後、学生本因坊戦の関西代表となり上京。不本意にも第3位。「大学8年いってるねん、パパは」。 

 修の講演記録を読み進めると、師匠故鈴木越雄八段の遺訓「絶対に、プロの真似だけはするな。盤上に、自分のロマンを画け」を信条にしているそうだ。80歳を過ぎても老成したところがない。「修少年 14歳」のままだ。田村竜騎兵氏のことは、父修から聞いていて、「変わったおっさんやけど、えらい気に入ってもうて、かわがってもろうた」。田村竜騎兵氏はじめ、朝日の記者さん、父修の周りの方は、「西村修」の碁をみて、父修のことを「心臓に毛生えとうくらい図太い」と云う。  

 修曰く、「囲碁のプロは、正座の上、一人当たりの持ち時間が8時間。二人で一局打ったら朝の9時より始まり明け方の午前3時ごろというのが耐えられない」と。田村竜騎兵氏に以下のように語っている。「碁なんて、プロもアマも変わりなく一時間そこそこで、ポカスカ打ってしまうものだと思いきや、最初の時あまりに長いのにまず、びっくりした。それと、深夜の鬼気迫るような終盤戦。あの緊迫感が子供心に耐えられなかった。根っからの勝負師ではないということですわ」。

 昭和37年、2004年当時の中国棋院総裁の陳祖徳さん(当時20歳)、初の日中友好囲碁親善使節として訪日され、大阪の北浜の関西棋院で佐藤直男9段、橋本昌二9段ともども、関西プロアマ代表として持ち時間一人5時間の初の国際試合として対局する。「12時間の死闘の末に幸にも一目半勝ちし帰りの大阪駅のプラットホームで立ちくらみをおこし座り込んだのが忘れられない」と語っている。 昭和40年の夏、28歳のとき、第2回日中友好囲碁親善使節に選ばれて北京を訪問して、天安門の迎賓館で、昭和47年の田中角栄首相より7年も早く、周恩来首相との友好親善の握手をして感激している。「その手が、大きくあたたかった」と伝えている。

 田村竜騎兵曰く「なぁ、西村君、ワシかてな、 京大の理工や。それも航空学科や。株も飛行機も、上がったり、下がったりや。ちっとは、似たとこあるやろと、腹決めてこの世界に入った。まぁまぁなんとかやってる。人間やればできる」。こんな言葉で入社した西村。 「朝6時に起きて、会社行って、11時半に蕎麦屋行って、3時前に仕事終わって、サウナ行って碁打ってんねん」。 囲碁のおかげで、会社人生も70歳近くまで勤められ、定年後も囲碁つながりで神戸にある会社にて肩書きを貰い80歳位までお世話になった。

 修の信条は「不将不迎」(「おくらず、むかえず」)。原典は、「君子の交わりは鏡の如し、将らず、迎えず」。鏡は、見ることができるが絶対、中には入れない。そして鏡の中からも、絶対、出てこれない。このなんでもない制約が、別に「君子の交わり、淡き事、水の如し」 と表現されていると、修は述べている。

 朝日の大会、初日に三浦さんと市ヶ谷の「だるま」で飲む。三浦さんは奥様のことを「山の神」と云う。三浦曰く、「うちの山の神など、ワシが朝日で優勝した時、電話したら、『私は忙しい』とのたもうて電話を切りよった。優勝したのにこのざまじゃ」。西村修曰く、「そうそう、そうそう」と珍しく激しく相槌を打つ。観戦者曰く、「まぁまぁ。三浦さんと西村さんは明治時代の落ち武者や。刀持ってはるから血の気がねぇ」。

 朝日アマ囲碁十傑戦について。昭和36年に、朝日の名観戦記者/田村竜騎兵氏が発案。各県で1位だけでなくベスト10を選ぶ方式で、兵庫県の場合、神戸地区、姫路地区、豊岡地区と各地区で各々十傑を選び8・6・2と計16名が神戸に集結。県大会十傑戦をして全国大会に出場。1位でなくてもベスト10に入ると写真入りで地方版に出るのが受けた。第1回大会は全国で約1万人、兵庫県で385人が参加した。

 1972年7.7号の週刊朝日の 「西村修 悲願の優勝 朝日アマ十傑戦」記事。修の戦いの棋譜、相手の手などいろいろ書いてある。田村竜騎兵氏は、「朝日アマ囲碁十傑戦第12回は7300人と過去最高」と記している。西村修語る。「第1回から参加した私は、全国大会で準優勝4回」(母が、ほんま本番に弱い男や)。準優勝4回して第11回大会で特別招待選手に選ばれた。翌昭和47年の第12回大会で優勝した。これが「最初で最後の優勝」となった。この功により、長らく朝日アマ囲碁全国大会永世特別招待選手 、兵庫県囲碁連盟代表幹事、アマチュア七段になる。50年近く出場し1位から10位まで経験する。最後の数行、田村竜騎兵氏が次のように書いている。
 「実力はありながら勝負に弱いのが西村選手の欠点だった。これまで4度も決勝へ進出しながら4度とも敗れ去った。5回目のアタックで手に入れた日本一の座。朝日新聞社の講堂で満員のファンの前での表彰式のあと、記者に感想を求められて絶句したのは、熱いものがこみあげたせいだろう」 。

 囲碁の仲間というのはソウルメイト。大盤解説は父修の恒例行事。 大阪新聞の「西村修の囲碁解説」。朝日囲碁十傑戦の熱闘を書いた田村竜騎兵さんの著書を読むに、「関西では、なかなか東京のアマ強豪に勝てる人がこの時代には少なかったから」。修は、朝日十傑戦の時、試合ごとの棋譜をその場で書いて「ファクス」していた。勝った対局は神戸で応援してくれる人が喜ぶと。朝日囲碁十傑の強豪の招待選手の方の弁「お父さん、数えないんだよ。数えたら勝てるのに」(父修に伝えると大笑いしていた)。田村竜騎兵氏の「現代アマ強豪列伝」。西村が生きた昭和12年からの70年。「父修はやはり幸せだと思う。自分を認めてくれる囲碁の仲間と和気あいあい」。朝霧囲碁道場の師範代を務める。神戸市須磨区の名谷囲碁教室顧問。

 2018().12.31日没(享年81歳)。
 三浦浩()(ウィキペディア三浦浩)
 中園清三()(ウィキペディア中園清三)
 金沢盛栄()(ウィキペディア金沢盛栄)

【アマチュア棋史】
 アマチュアの囲碁史を確認する。
 1955(昭和30)年、毎日新聞社主催のアマ本因坊戦が開始される。
 1957(昭和32)年、全日本学生本因坊戦が開始される。以降、学生囲碁界も盛んになる。
 1959(昭和34)年、全日本女流アマ戦が開始される。
 1961(昭和36)年、朝日新聞社主催のアマ十傑戦が開始される。
 1964(昭和39)年、全日本学生十傑戦が開始される。
 1973(昭和48)年、学習指導要領の改訂にともなって必修クラブが導入され、囲碁が小中高校生に広まった。
 1975年、菊池康郎がアマチュアの囲碁研究会「緑星会」を再設立する。
 1976年、安永一とアマ四強に「アマチュア初の七段位」が日本棋院から贈られた。
 1977(昭和52)年、第1回高校選手権をスタートさせる。1965(昭和40)年から12年続いた旧高校選手権を発展解消させたものである。
 1979年、菊池康郎が「緑星会」を発展させて、子供のための囲碁教室「緑星囲碁学園」を設立する。
 1979(昭和54)年、第1回世界アマチュア囲碁選手権が開かれ、中国の聶衛平(じょえいへい)が優勝した。
 1980(昭和55)年、中学生以下の少年少女大会も始まった。
 1981(昭和56)年、中国でプロシステムが確立され、中国囲棋協会(ちゅうごくいききょうかい)が設立された。
 1981年、子供のための囲碁教室「緑星囲碁学園」を設立していた菊池康郎が新日本製鉄を退社し、以降、緑星学園の活動に専念する。門下生として、村松竜一を第1号として青木紳一、青木喜久代、山下敬吾、加藤充志、秋山次郎、溝上知親、鶴丸敬一、高野英樹など多数のプロを輩出させている。
 1992年、世界アマチュア囲碁選手権戦で日本代表の菊池康郎が優勝。その後、世界アマチュア囲碁選手権は約60ヶ国・地域から代表選手が出場する大規模な大会となっている。
 1996(平成8)年、スペースシャトルエンデバー船内で宇宙飛行士ダニエルバリーと若田光一が宇宙で初めての試みとして囲碁を楽しんだ。宇宙では無重力のため、加工された紙製の碁盤にペタペタ貼るシール碁石が使われた。
 2006(平成18)年、それまでの朝日アマ十傑戦を元に、第1回朝日アマチュア囲碁名人戦が開催される。
 2010(平成22)年、過去4回以上の優勝者に名誉アマチュア本因坊の称号が贈られた。主催の毎日新聞社より菊池康郎、原田実、三浦浩、中園清三、平田博則の5名が顕彰を受けた。

 【朝日アマ囲碁名人戦(旧アマ十傑戦)、毎日アマ囲碁本因坊戦履歴】
 「全日本素人本因坊戦」、「朝日アマ囲碁名人戦(旧アマ十傑戦)」、「毎日アマ囲碁本因坊戦 」の優勝者、準優勝者列伝を記しておきたいが、以下の如くにしか分からない。
1948 全日本素人本因坊戦 影山利郎
朝日アマ囲碁名人戦(旧アマ十傑戦) 毎日アマ囲碁本因坊戦
優勝 準優勝 優勝 準優勝
1955 () () 平田博則() ()
1956 () () 岡光雄() ()
1957 菊池康郎(神奈川) () 菊池康郎() ()
1958 菊池康郎(神奈川) () 菊池康郎() ()
1959 菊池康郎(神奈川) () 菊池康郎() ()
1960 () 村上文祥() ()
1961 安藤英雄(千葉) () 原田実 () ()
1962 平田博則(東京) () 菊池康郎 () ()
1963 村上文祥(東京) () 原田実 () ()
1964 原田実(東京) () 10 原田実 () ()
1965 原田実(東京) () 11 菊池康郎() ()
1966 石井成幸(群馬) () 12 菊池康郎 () ()
1967 村上文祥(東京) () 13 村上文祥() ()
1968 菊池康郎(神奈川) () 14 原田実 () ()
1969 村上文祥(東京) () 15 菊池康郎 () ()
1970 10 平田博則(東京) () 16 鳴海直() ()
1971 11 村上文祥(招待) () 17 三浦浩 () ()
1972 12 西村修(招待) () 18 菊池康郎 () ()
1973 13 平田博則(招待) () 19 菊池康郎 () ()
1974 14 村上文祥(招待) () 20 三浦浩 () ()
1975 15 三浦浩(招待) () 21 田口哲朗 () ()
1976 16 三浦浩(招待) () 22 村上文祥 () ()
1977 17 菊池康郎(招待) () 23 菊池康郎 () ()
1978 18 平田博則(招待) () 24 村上文祥() ()
1979 19 今村文明(宮城) () 25 三浦浩 () ()
1980 20 菊池康郎(招待) () 26 三浦浩 () ()
1981 21 菊池康郎(招待) () 27 村上文祥 () ()
1982 22 中園清三(埼玉) () 28 菊池康郎 () ()
1983 23 中園清三(埼玉) () 29 菊池康郎 () ()
1984 24 村上文祥(福岡) () 30 菊池康郎 () ()
1985 25 小森祥嗣(福岡) () 31 中園清三 () ()
1986 26 原田実(招待) () 32 平田博則 () ()
1987 27 菊池康郎(招待) () 33 中園清三 () ()
1988 28 原田実(招待) () 34 平田博則 () ()
1989 29 中園清三(招待) () 35 原田実 () ()
1990 30 中園清三(招待) () 36 中園清三 () ()
1991 31 菊池康郎(招待) () 37 田中正人 () ()
1992 32 三浦浩(招待) () 38 中園清三 () ()
1993 33 中園清三(招待) () 39 平田博則 () ()
1994 34 平田博則(招待) () 40 高野英樹() ()
1995 35 鮫島一郎(東京) () 41 中園清三 () ()
1996 36 平岡聡(静岡) () 42 坂井秀至 () ()
1997 37 菊池康郎(招待) () 43 原田実 () ()
1998 38 菊池康郎(招待) 三浦浩(招待) 44 田中正人 () 三浦浩()
1999 39 木下暢暁(京都) 金沢東栄(千葉) 45 三浦浩 () 森()
2000 40 菊池康郎(招待) 中園清三(招待) 46 岩井竜一 () 鮫島 一郎()
2001 41 中園清三(招待) 西村修(招待) 47 小森祥嗣 () 平岡聡 ()
2002 42 多賀文吾(京都) 平岡聡(東京) 48 鮫島一郎 () 菊池康郎()
2003 43 多賀文吾(京都) 西村修(招待) 49 原田実 () 平岡聡 ()
2004 44 王劭(愛知) 田中正人(愛媛) 50 田中伸拓 () 孫()
2005 45 田中伸拓(滋賀) 多賀文吾(招待) 51 平岡聡 () 中園清三()
2006 尹春浩() 中園清三() 52 村上深 () 中園清三()
2007 洪清泉
(マルグンセム)()
2-1 尹春浩() 53 瀧澤雄太() 洪清泉
マルグンセム()
2008 尹春浩() 2-1 洪清泉
マルグンセム()
54 洪清泉
マルグンセム()
坂本()
2009 常石隆志() 2-1 尹春浩() 55 平岡聡 () 佐藤()
2010 常石隆志() 2-1 河成奉(東京) 56 柳慎桓 () 伊達()
2011 洪爽義(ソッギ)() 永代和盛() 57 中園清三 () 平岡聡 ()
2012 洪爽義(ソッギ)() 2-0 河成奉() 58 平岡聡 () 中園清三()
2013 洪爽義(ソッギ)() 2-0 呉柏毅() 59 洪奭義(大阪) 佐藤洸矢(静岡)
2014 洪爽義(ソッギ)() 2-0 角田大典() 60 洪奭義() 平岡聡 ()
2015 10 大表拓都(招待) 芝野龍之介(神奈川) 61 芝野龍之介() 林隆羽 (埼玉)
2016 11 平野翔大() 村上深() 62 大関稔(招待) 趙錫彬(愛知)
2017 12 大関稔 2-0 平野翔大 63 林隆羽(埼玉)
2018 13 栗田佳樹 2-1 大関稔 64 平岡聡(東京)
2019 14 大関稔 2-0 栗田佳樹 65 大関稔(神奈川)
2020 15 COVID-19の影響で中止 66 COVID-19の影響で中止
2021 16 大関稔 2-0 北芝礼 67 平岡聡(招待)
2022 17 68
2023 18 69
2024 19 70
2025 20 71

 アマプロ対抗戦
 1968年から1982年まで、アマ十傑とプロ棋士の対抗戦が毎年行われた。プロ側出場者は、1975年まではプロ十傑戦の入賞者、1976年は名人及び名人リーグ参加者、1977年以降は選抜棋士。手合割は、1976年までは先番3目コミもらいまたは二子、1977年以降は定先。
 1968年 アマ3勝7敗
菊池康郎 × 藤沢秀行 先番3目コミもらい
村上文祥 × 坂田栄男 二子
西村修 × 山部俊郎 二子
野田浩次 × 高川秀格 二子
二口外義 × 林海峰 二子
豊田洸夫 × 呉清源 二子
川村容三 × 宮下秀洋 二子
井上要 × 武宮正樹 二子
今村正道 × 橋本昌二 二子
10 原田実 × 半田道玄 先番3目コミもらい
1969年 アマ3勝7敗
村上文祥 × 坂田栄男 先番3目コミもらい
平田博則 × 林海峰 二子
菊池康郎 × 高川秀格 二子
山下定男 × 藤沢秀行 二子
赤松正弘 × 武宮正樹 二子
京極文一 × 橋本昌二 二子
池上清隆 × 大竹英雄 二子
干場一徳 × 久井敬史 二子
原田実 × 橋本宇太郎 二子
10 今村文明 × 本田邦久 二子
 1970年 アマ4勝6敗
平山博則 × 橋本宇太郎 先番3目コミもらい
村上文祥 × 加藤正夫 先番3目コミもらい
岩城公順 × 大竹英雄 二子
西村修 × 石田芳夫 二子
下地玄忠 × 呉清源 二子
端山省三 × 梶原武雄 二子
田岡敬一 × 橋本昌二 二子
原浦健治 × 茅野直彦 二子
原田実 × 高川秀格 二子(原田は菊池康郎の代打ち)
10 池上清隆 × 坂田栄男 二子
 1971年 アマ4勝4敗2ジゴ
村上文祥 石田芳夫 先番3目コミもらい
西村修 × 梶原武雄 先番3目コミもらい
原田実 × 林海峰 二子
菊池康郎 × 大竹英雄 二子
平田博則 橋本昌二 二子
金沢盛栄 × 坂田栄男 二子
豊田洸夫 × 橋本昌二 二子
田中靖久 × 木谷禮子 二子
今村文明 × 藤沢秀行 二子
10 鳴海直 × 高川秀格 二子
 1972年 アマ3勝7敗
西村修  × 石田芳夫 先番3目コミもらい
菊池康郎 × 岩田達明 先番3目コミもらい
村上文祥 × 坂田栄男 二子
今村正道 × 橋本宇太郎 二子
竹内一雄 × 島村俊宏 二子
金藤兵蔵 × 半田道玄 二子
村岡利彦 × 杉内雅男 二子
二口外義 × 藤沢秀行 二子
玉山光雄 × 武宮正樹 二子
10 杉浦電太 高川秀格 二子
 1973年 アマ4勝6敗
平田博則 × 林海峰 先番3目コミもらい
村上文祥 × 橋本宇太郎 先番3目コミもらい
岩城公順 × 高川秀格 二子
西村修 × 藤沢秀行 二子
中園清三 × 坂田栄男 二子
三浦浩 × 杉内雅男 二子
原田実 × 石田芳夫 二子
吉村正之 × 趙治勲 二子
菊池康郎 × 大竹英雄 二子
10 竹内一雄 × 羽根泰正 二子
 1974年 アマ4勝6敗
村上文祥 × 林海峰 先番3目コミもらい
平田博則 × 武宮正樹 二子
原田実 × 加藤正夫 二子
菊池康郎 × 石田芳夫 二子
三浦浩  × 橋本宇太郎 二子
笹田惟之 × 羽根泰正 二子
竹原金太郎 × 大竹英雄 二子
石丸不二太 × 坂田栄男 二子
中園清三 × 大平修三 二子
10 二口外義 × 趙治勲 二子
 1975年 アマ3勝7敗
三浦浩 × 趙治勲 先番3目コミもらい
平田博則 × 加藤正夫 二子
鳴海直  × 林海峰 二子
西村修 × 小林光一 二子
趙祺衍 × 藤沢秀行 二子
村岡利行 × 梶原武雄 二子
菊池康郎 × 大竹英雄 二子
笹田惟之 × 橋本昌二 二子
金沢盛栄 × 山部俊郎 二子(山部は坂田栄男の代打ち)
10 今村文明 × 大平修三 二子
 1976年 アマ4勝6敗
三浦浩 × 大竹英雄 先番3目コミもらい
村上文祥 × 石田芳夫 二子
平田博則 × 藤沢秀行 二子
玉山光雄 × 坂田栄男 二子
菊池康郎 × 橋本宇太郎 二子
金沢盛栄 × 林海峰 二子
金藤兵蔵 × 山部俊郎 二子
荒井一十代 × 窪内秀知 二子
中園清三 × 梶原武雄 二子
10 原田実 × 工藤紀夫 二子
 1977年 アマ6勝4敗
菊池康郎 × 羽根泰正 定先
今村文明 × 久保勝昭 定先
金藤兵蔵 × 上村陽生 定先
遠藤喜久夫 × 長谷川直 定先
原田実 × 小林覚 定先
三浦浩 × 新垣武 定先
竹内一雄 × 橋本雄二郎 定先
丸山辰雄 × 郡寿男 定先
西村修  × 王立誠 定先
10 玉山光雄 × 清成哲也 定先
 1978年 アマ4勝6敗
平田博則 × 淡路修三 定先
村岡利彦 × 金島忠 定先
菊池康郎 × 川村和憲 定先
西村修  × 山城宏 定先
三浦浩  × 郡寿男 定先
田口哲朗 × 上村陽生 定先
唐木田憲嗣 × 片岡聡 定先
松田実 × 堀田陽三 定先
金沢盛栄 × 小林覚 定先
10 笠原洋一郎 × 園田泰隆 定先
 1979年 アマ7勝2敗1ジゴ
今村文明 × 佐藤昌晴 定先
村上文祥 × 星川信明 定先
金沢盛栄 × 小川誠子 定先
小森祥嗣 × 小林健二 定先
菊池康郎 × 田中秀春 定先
平田博則 × 清成哲也 定先
金沢東栄 神田英 定先
三浦浩  × 伊藤庸二 定先
吉村正之 × 鳴沢泰彦 定先
10 原田実 × 小松藤夫 定先
 1980年 アマ4勝6敗
菊池康郎 × 山城宏 定先
金沢盛栄 × 片岡聡 定先
村上文祥 × 長谷川直 定先
三浦浩 × 浅野英昭 定先
西村修 × 橋本雄二郎 定先
平田博則 × 新垣武 定先
原田実  × 王立誠 定先
小林国雄 × 松岡章 定先
今村文明 × 金川正明 定先
10 吉村正之 × 黄孟正 定先
 1981年 アマ5勝5敗
菊池康郎 × 宮沢吾朗 定先
西村修 × 時本壱 定先
村松竜一 × 土井誠 定先
村上文祥 × 彦坂直人 定先
金沢盛栄 × 依田紀基 定先
三浦浩 × 王銘琬 定先
青木英明 × 畠秀史 定先
松尾博文 × 石倉昇 定先
中園清三 × 後藤俊午 定先
10 小松宣宏 × M.レドモンド 定先
 1982年 アマ6勝4敗
中園清三 × 坂口隆三 定先
三浦浩  × 楠光子 定先
金沢盛栄 × 山下順源 定先
金藤兵蔵 × 郡寿男 定先
笠原知二 × 今村俊也 定先
金沢東栄 × 芦田磯子 定先
青木義生 × 梁川裕政 定先
吉村正之 × 小県真樹 定先
島田義邦 × 高群徹朗 定先
10 吉崎久博 × 森山直棋 定先

 プロアマ本因坊対抗戦
 1963年からプロアマ本因坊対抗戦が毎年行われ、プロは本因坊戦優勝者、アマは本棋戦の優勝者が出場する。手合割はアマの2子から始まり、前年の結果によって変動する。過去には、アマ先3目半コミもらいから3子までの間が行われた。
 過去の対戦成績(左がアマ本因坊)
1963 原田実 × 坂田栄男 二子
1964 原田実  × 坂田栄男 二子
1965 菊池康郎 × 坂田栄男 先5目コミもらい
1966 菊池康郎 × 坂田栄男 先4目コミもらい
1967 村上文祥 × 先5目コミもらい
1968 原田実 × 林海峰 先3目半コミもらい
1969 菊池康郎 × 林海峰 先4目半コミもらい
1970 鳴海直  × 林海峰 先3目半コミもらい
1971 三浦浩  × 石田芳夫 二子
10 1972 菊池康郎 × 石田芳夫 先3目半コミもらい
1973 菊池康郎 × 石田芳夫 先4目半コミもらい
1974 三浦浩 × 石田芳夫 先4目半コミもらい
1975 田口哲郎 × 石田芳夫 先4目半コミもらい
1976 村上文祥 × 武宮正樹 先4目半コミもらい
1977 菊池康郎 × 加藤正夫 先5目半コミもらい
1978 村上文祥 × 加藤正夫 先4目半コミもらい
1979 三浦浩 × 加藤正夫 先5目半コミもらい
1980 三浦浩  × 武宮正樹 二子
1981 村上文祥 × 趙治勲 先5目半コミもらい
1982 菊池康郎 × 趙治勲 二子
1983 菊池康郎 × 林海峰 先5目半コミもらい
1984 菊池康郎 × 林海峰 二子2目半コミ出し
1985 中園清三 × 武宮正樹 先5目半コミもらい
1986 平田博則 × 武宮正樹 先2目半コミもらい
1987 中園清三 × 武宮正樹 先5目半コミもらい
1988 平田博則 × 武宮正樹 先2目半コミもらい
1989 原田実 趙治勲 先5目半コミもらい
1990 中園清三 × 趙治勲 先5目半コミもらい
1991 田中正人 × 趙治勲 二子2目半コミ出し
1992 中園清三 × 趙治勲 二子
1993 平田博則 × 趙治勲 二子2目半コミもらい
1994 高野英樹 × 趙治勲 二子5目コミもらい
1995 中園清三 × 趙治勲 三子2目半コミ出し
1996 村岡利彦 × 趙治勲 二子5目コミもらい
(優勝者坂井秀至の代わりに準優勝者が出場 )
1997 原田実 × 趙治勲 三子2目半コミ出し
1998 田中正人 × 趙治勲 三子
1999 三浦浩 × 趙善津 三子2目半コミ出し
2000 岩井竜一 × 王銘琬 二子5目コミもらい
2001 小森祥嗣 × 王銘琬 二子2目半コミもらい
2002 鮫島一郎 × 加藤正夫 二子5目コミもらい
2003 原田実 張栩 二子3目コミもらい
2004 田中伸拓 × 張栩 二子3目コミもらい
2005 平岡聡 × 高尾紳路 二子6目コミもらい
2006 村上深 × 高尾紳路 二子3目コミもらい
2007 瀧澤雄太 × 高尾紳路 二子
2008 洪マルグンセム × 羽根直樹 二子3目コミもらい
2009 平岡聡 × 羽根直樹 二子
2010 柳慎桓 × 山下敬吾 二子3目コミ出し
2011 中園清三 × 山下敬吾 先6目コミもらい
2012 平岡聡 × 井山裕太 先3目コミもらい
2013 洪奭義 × 井山裕太 先6目コミもらい
2014 洪奭義  × 井山裕太 先3目コミもらい
2015 芝野龍之介 × 井山裕太 先6目コミもらい
2016 大関稔 × 井山裕太 二子3目コミ出し
2017 林隆羽 × 井山裕太 二子
2018 平岡聡 × 井山裕太 二子3目コミもらい
2019 大関稔 × 井山裕太 二子
2020 COVID-19の影響で中止
2021 平岡聡 × 井山裕太 先6目コミもらい
2022

【日本アマチュア囲碁選手権戦】
回次 年度 優勝者 2位 3位
1 1977 鳴海直
2 1978 今村文明 菊池康郎
3 1979 金沢盛栄 今村文明
4 1980 平田博則
5 1981 平田博則
6 1982 今村文明 三浦浩
7 1983 平田博則 玉井友希夫
8 1984 菊池康郎
9 1985 菊池康郎 今村文明
(「世界アマチュア囲碁選手権戦 日本代表決定戦」に改名して第9期となる)
1986 今村文明 菊池康郎
10 1987 今村文明
11 1988 平田博則 菊池康郎
12 1989 三浦浩 久代俊明
13 1990 今村文明 村上文祥
14 1991 菊池康郎 三浦浩
15 1992 平田博則 田中正人
16 1993 平岡聡 吉田晃
17 1994 平田博則 三浦浩
18 1995 平田博則 坂井秀至
19 1996 坂井秀至(兵庫) 今村文明(招待)
20 1997 平岡聡(招待) 坂井秀至(招待)
21 1998 坂井秀至(招待) 原田実(招待)
22 1999 坂井秀至(招待) 平岡聡(招待)
23 2000 金沢盛栄(招待) 平岡聡(招待)
24 2001 菊池康郎(招待) 中園清三(招待)
25 2002 中園清三(招待) 平岡聡(招待)
2003 SARS問題により中止
26 2004 菊池康郎(招待) 中園清三(招待)
27 2005 平岡聡(招待) 森洋喜(愛知)
28 2006 森洋喜(愛知) 多賀文吾(大阪)
29 2007 土棟喜行(東京) 中園清三(招待)
30 2008 金沢盛栄(招待) 平岡聡(招待)
31 2009 佐藤洋平(北海道) 土棟喜行(東京)
32 2010 平田博則(招待) 玉城大資(岐阜)
33 2011 中園清三(招待) 木下暢暁(埼玉)
34 2012 江村棋弘(岩手) 横塚力(東京)
35 2013 江村棋弘(招待) 若林大介(東京)
36 2014 平岡聡(招待) 大沢伸一郎(宮城)
37 2015
平岡聡(招待)
稲葉一宇(神奈川)
38 2016 坂本修作(招待) 諸留康博(兵庫)
39 2017 村上深(招待) 柳田 朋哉(京都)
40 2018 川口飛翔(埼玉)
江村 棋弘(招待)
41 2019
42 2020
42 2022

【世界アマチュア囲碁選手権戦】
 世界アマチュア囲碁選手権戦は、世界各国の代表選手による囲碁のアマチュア世界一を決める大会。1979年から毎年開催される。プロ・アマチュア含めて、囲碁で最初の本格的な世界選手権でもある。主催は開催国によって変わる。

 第1回大会には15ヶ国が参加。1位から3位を聶衛平ら中国勢が独占する。日本は安永一、鳴海直、菊池康郎、村上文祥、今村文明、亀倉芳子の6名が参加し、村上が4位となる。優勝者数は中国、日本、韓国、香港の順である。1985年に中華台北が、1991年に北朝鮮、シンガポールが参加する。1993年にオランダのR・シュレンペル選手が3位、2004年にフランスのベルンハルト・ヘルムステッター選手が4位、2008年にはアルゼンチンのフェルナンド・アギラール選手が3位に入る。

 第1回優勝の聶衛平など、中国においてプロ棋士制度が出来る前には国内最高レベルの選手が出場していたが、1982年にプロ棋士制度が開始されて以降は、純粋なアマチュア大会に移行する。日本のプロ棋士である坂井秀至、陳嘉鋭らも、アマチュア時代に本大会で優勝経験がある。

 成績

回次 年度 参加国数 優勝者 2位 3位
1 1979 15 聶衛平(中国) 陳祖徳(中国) 陳嘉鋭(中国)
2 1980 20 日本の旗今村文明 陳嘉鋭(中国) 日本の旗安永一
3 1981 24 卲震中(中国) 馬暁春(中国) 日本の旗村上文祥
4 1982 28 曹大元(中国) 楊晋華(中国) 日本の旗平田博則
5 1983 29 馬暁春(中国) 日本の旗三浦浩 日本の旗今村文明
6 1984 30 王群(中国) 劉昌赫(韓国) 日本の旗平田博則
7 1985 31 汪見虹(中国) 陳嘉鋭(中国) 日本の旗菊池康郎
8 1986 34 陳嘉鋭(中国) 日本の旗菊池康郎 宋雪林(中国)
9 1987 34 日本の旗今村文明 兪斌(中国) 李寛哲(韓国)
10 1988 36 張文東(中国) 日本の旗今村文明 オランダの旗R.シュレンパー
11 1989 38 車澤武(中国) 蔡文河(台湾) 日本の旗平田博則
12 1990 39 常昊(中国) 安官旭(韓国) 日本の旗三浦浩
13 1991 39 日本の旗今村文明 夏銜譽(台湾) オランダの旗R.シュレンパー
14 1992 40 日本の旗菊池康郎 李庸萬(韓国) 韓啓宇(中国)
15 1993 40 孫宜国(中国) 徐舜周(韓国) 日本の旗平田博則
16 1994 43 日本の旗平岡聡 周俊勲(台湾) 王存(中国)
17 1995 44 日本の旗平田博則 史泓奕(中国) 簡瑩(香港)
18 1996 46 劉鈞(中国) 日本の旗平田博則 李庸萬(韓国)
19 1997 46 劉鈞(中国) 日本の旗坂井秀至 文栄三(北朝鮮)
20 1998 50 金燦佑(韓国) 日本の旗平岡聡 趙文東(中国)
21 1999 55 兪在星(韓国) 日本の旗坂井秀至 李峰一(北朝鮮)
22 2000 56 日本の旗坂井秀至 朴虎吉(北朝鮮) ホン・マルグンセム(韓国)
23 2001 56 李岱春(中国) 日本の旗金沢盛栄 オーストラリアの旗D.M.リュウ
24 2002 62 付利(中国) ホン・マルグンセム
(韓国)
日本の旗菊池康郎
2003 SARS問題により中止
25 2004 64 李康旭(韓国) 頼宥丞(台湾) 付利(中国)
26 2005 65 胡煜清(中国) 趙大元(北朝鮮) 余承叡(台湾)
27 2006 68 日本の旗平岡聡 唐韋星(中国) 趙大元(北朝鮮)
28 2007 68 単子騰(中国) 禹東河(韓国) 日本の旗森洋喜
29 2008 68 河成奉(韓国) 国宇征(中国) アルゼンチンの旗F.アギラール
30 2009 66 胡煜清(中国) 柳愼桓(韓国) 陳乃申(香港)
31 2010 60 宋弘錫(韓国) 王琛(中国) 趙大元(北朝鮮)
32 2011 57 白宝祥(中国) 崔ウースー(韓国) アメリカ合衆国の旗E.ルイ
33 2012 55 喬智健(中国) 李炫准(韓国) 陳正勲(台湾)
34 2013 56 崔顯宰(韓国) 胡煜清(中国) ウクライナの旗アルテム・カチャノブスキ
35 2014 54 詹宜典(台湾) 魏太雄(韓国) 王若然(中国)
36 2015 57 金昌勳(韓国) 胡傲華(中国) 頼均輔(台湾)
37 2016 54 白宝祥(中国) 金基伯(韓国) 許家埕(台湾)
38 2017 49 白宝祥(中国) リー・サンビン(韓国) 頼宥丞(台湾)
39 2018 61 詹宜典(台湾) 金相天(韓国) 王琛(中国)
40 2019 59 王琛(中国) 李宰成(韓国) 陳乃申(香港)
2020 新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止
41 2021 27 馬天放(中国) 詹宜典(台湾) 金多彬(韓国)

【囲碁アマチュア竜星戦】
回次 年度 優勝者 2位
1 2002 大沢伸一郎
2 2003 石川展行
3 2004 日高雅博
4 2005 岩井理直
5 2006 永代和盛
6 2007 金井洋龍
7 2008 趙錫彬
8 2009 伊達昌希
9 2010 伊達昌希
10 2011 趙錫彬
11 2012 洪奭義 小野慎吾
12 2013 洪奭義 趙錫彬
13 2014 洪奭義 小野慎吾
14 2015 小野慎吾 坊屋鋪和拓
15 2016 諸留康博 土棟喜行
16 2017 諸留康博- 柳田朋哉
17 2018 諸留康博 小野慎吾
18 2019 森川舜弐 大関稔
19 2020 新型コロナウイルス感染拡大により中止
20 2021 新型コロナウイルス感染拡大により中止
21
22
23
24
25

 【祐徳本因坊戦】
 九州、山口、沖縄のアマチュア囲碁棋士が頂点を競う祐徳本因坊戦(祐徳稲荷神社、碁聖寛蓮顕彰会、西日本新聞社主催)。





(私論.私見)