家永教科書訴訟経緯

 (最新見直し2006.3.2日)

【第一次教科書訴訟提訴】
 「ウィキペディア(Wikipedia)の家永教科書裁判」、「歴史教科書問題」、 「教科書問題のページに戻る」その他を参照する。

 1965(昭和40).6.12日、当時、東京教育大学教授・家永三郎氏(「ウィキペディア(Wikipediaの家永三郎」参照」)が、旧文部省の不合格処分などを不服として第一次教科書訴訟を起こした。

 6.12日、家永教授は次のように声明している。

 「私はここ一○年余りの間、社会科日本史教科書の著者として、教科書検定がいかに不法なものであるか、いくたびも身をもって味わってまいりましたが、昭和三八・九両年度の検定にいたっては、もはやがまんできないほどの極端な段階に達したと考えざるをえなくなりましたので、法律に訴えて正義の回復をはかるためにあえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました。憲法・教育基本法をふみにじり、国民の意識から平和主義・民主主義の精神を摘みとろうとする現在の検定の実態に対し、あの悲惨な体験を経てきた日本人の一人としてもだまってこれをみのがすわけにはいきません。裁判所の公正なる判断によって、現行検定が教育行政の正当なわくを超えた違法の権力行使であることの明らかにされること、この訴訟において原告としての私の求めるところは、ただこの一点に尽きます」(「家永訴訟」)。

 家永氏は、裁判の目的について、「勝敗を度外視して正論を世間に訴えることだ」としていた。「家永訴訟」は、末川博氏や中野好夫氏、松本清張氏ら当時を代表する「進歩的知識人」の応援を受けながら争われていった。

 その経緯は次の通り。1962年、家永氏は、高等学校用日本史教科書「新日本史」(三省堂)を執筆し、62年度教科書検定に臨んだ。家永氏は同書で、それまでの教科書と違って大東亜戦争の戦争責任について論述し、日本軍の軍靴の爪痕につき、それまでの教科書に比べて踏み込んだ記述をしていた。そのうち、字句の誤り等を含めた323箇所が不適当と指摘され、特に南京大虐殺、731部隊、沖縄戦などについて記した箇所が文部省検定にかかり、「戦争を暗く表現しすぎている」、「史実的検証が曖昧」等の理由により不合格とされた。修正を加えた後、翌1963年の検定では条件付合格となった

 家永氏は、「1962年度、1963年度の検定における文部大臣の措置により精神的損害を被った」として文部省を被告とする国家賠償請求訴訟に踏み切った。家永氏は、「教科書の発行に関しては、自由発行・自由採択であるべきだ」との観点から、この裁判で、概要「教科書検定制度及び検定意見による教科書記述規制は、憲法で禁じられた『検閲』であり、『学問の自由の侵害』などにあたる」として、教科書検定そのものの是非を争った。

 裁判は、1965(昭和40).6月の第一次訴訟、1967年提訴の第二次訴訟、1984年提訴の第三次訴訟と続き、1997年の第3次教科書裁判最高裁判決がでるまでの32年間にわたって訴訟が続くことになった。「最も長い民事訴訟」としてギネスブックに認定された。これを仮に「家永訴訟」と命名する。


【家永訴訟の論点と波紋】(「家永訴訟(第一次) 訴状全文」、「第一次家永訴訟 訴状全文」)
 家永訴訟は、争点を教科書検定制度に向け、次のように主張していた。
 概要「教科書検定制度のような制度を通し、教育内容を国家機関によって一元的に統制することは憲法、教育基本法に反する。教科書検定は憲法違反である」。

 法理論を次のように展開していた。
 「第一に、文部省の教科書検定制度が日本国憲法第13条(個人の尊重)、21条(表現の自由)、23条(学問の自由)、26条(教育を受ける権利)、教育基本法10條(教育行政)に違反する。第二に、教科書検定の際、政府行政が行なう改善意見、修正意見と呼ばれる行政指導は、行政の裁量権の範囲を逸脱して不当行為にあたる」。

 家永訴訟はこの二点の裁判であった。これを賠償請求訴訟で行った。

 「家永訴訟」は、文部省の検閲制を問題にしていたが、家永教授が記述し文部省に訂正要請された歴史事項の内容にも関心が寄せられた。家永氏は、南京事件や慰安婦問題を記述に新規に盛り込もうとしたことで文部省審議官と対立していた。国内のみならず、アジア近隣諸国からも大きな注目を浴びた。

 後に、文部省が旧日本軍による「侵略」を「進出」と書き換えるように教科書会社に求めたことが発覚し、これが国際問題に発展し政治問題化した。家永氏が第三次訴訟を起こした1984(昭和59)年以降は、中国や韓国などからの外圧もあって、家永教科書を上回る記述が登場しており、家永氏の主張が受け入れられた形になった。但し、事件の真偽を廻る論争は未だ決着を見ていない。

【1967年、第二次訴訟提訴】
 1967.6.23日、家永氏は、1966年の検定における「新日本史」の不合格処分取消を求める行政訴訟に踏み切った。これが第二次訴訟となった。

【1970年、第二次第一審、東京地裁判決(杉本判決)】(第二次家永訴訟 第一審判決(杉本判決)
 1970.7.17日、第二次訴訟の第一審として東京地裁判決(杉本判決)が出された。判決は、国民の教育権論を展開して、教科書の記述内容の当否に及ぶ検定は教育基本法10条に違反するとした。また、教科書検定は憲法21条2項が禁止する検閲に当たるとし、処分取消請求を認容した。原告・家永氏側の全面勝訴となった。7.24日、被告控訴。

【1974年、第一次第一審、東京地裁判決(高津判決)】
 1974.7.16日、第一次訴訟の第一審として東京地裁判決(高津判決)が出された。判決は次のように述べていた。
 概要「現行検定制度は、憲法26条違反には当らない。教科書検定は表現の自由に対する公共の福祉による制限であり受忍すべきものであり、憲法21条が禁じる検閲に当たらない。現行検定制度そのものは違憲とまでは言えないが、その運用を誤り、審査が教科書の思想内容の審査、学術的研究の成果としての学説の審査、史観、歴史的事象の評価などに及ぶときは違法となる。

 教育課程その他の教育内容については一定の限度を越えて権力が介入をすることは不当な支配となる。検定は、客観的に明らかな誤りやその他の技術的事項にとどめるべきである。また教師は、子どもに考える力、知る力、想像する力をつけさせるものであるので教師に学問の自由と教育の自由が保障されなければならない。

 検定意見の一部に裁量権濫用があるとして国側に10万円の賠償命ずる」。

 家永氏の請求を一部認容した上で、教科書検定合憲とする判決となった。7.26日、原告控訴。

【1975年、第二次第二審、東京高裁判決(畔上判決)】
 1975.12.20日、第二次訴訟の第二審として東京高裁判決(畔上判決)が出された。判決は、文部大臣の検定は、「一貫性、安定性を欠くまま気ままに出た行政行為」とし違法であり、行政としての一貫性を欠くという理由で、国の控訴を棄却した。原告・家永氏側のの勝訴となった。杉本判決の論旨を踏襲していた。12.30日、被告上告。

【1982年、第二次最終審、最高裁判決(判決)】(第二次家永訴訟 第三審判決(丹野判決)
 1982.4.8日、第二次訴訟の最終審として最高裁判決が出された。判決は、処分当時の学習指導要領がすでに改訂されているから、原告に処分取消を請求する訴えの利益があるか否かが問題になるとして、破棄差戻し判決を下した。

【1984年、第三次訴訟提訴】
 1984.1.19日、家永氏は、1982年の検定を不服として国家賠償請求訴訟を提訴した。これが第三次訴訟となった。

【1986年、第一次第二審、東京高裁判決(鈴木判決)】(第一次訴訟の東京高裁判決
 1986.3.19日、第一次訴訟の第二審として東京高裁判決(鈴木判決)が出された。判決は、国の主張を全面的に採用し、また裁量権濫用もないとして請求を全部棄却。原告・家永氏の全面敗訴となった。1986.3.20日、原告控訴。

【1982年、第二次差戻審、東京高裁判決】
 1989.6.27日、第二次訴訟の差戻審で、東京高裁判決が出された。判決は、学習指導要領の改訂により、原告は処分取消を請求する利益を失ったとして、第一審判決を破棄、訴えを却下した。

【1989年、第三次第一審、東京地裁判決(加藤判決)】
 1989.10.3日、第三次訴訟の第一審として東京地裁判決(加藤判決)が出された。判決は、検定制度自体は合憲としながらも、「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的であること」と位置づけ、検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊の記述に関する検定を違法とし、国側に10万円の賠償を命令した。10.13日、原告控訴。

【1993年、第一次最終審、最高裁判決(可部判決)】(第一次家永訴訟 第三審判決(可部判決)
 1993.3.16日、28年続いた第一次訴訟の最終審として最高裁判決(可部判決)が出された。判決は、教科書検定制度を「合憲、合法」とした第二審の鈴木判決をほぼ踏襲し、「看過し難い過誤」はないとして上告を棄却した。原告・家永氏側の全面敗訴となった。

【1993年、第三次第二審、東京高裁判決(川上判決)】
 1993.10.20日、第三次訴訟の第二審として東京高裁判決(川上判決)が出された。判決は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊に加え南京大虐殺、「軍の婦女暴行」の記述に関する検定も違法とし、国側に30万円の賠償を命令した。10.25日、原告控訴。

【1997年、第三次最終審、最高裁判決(大野判決)】(第三次家永訴訟 第三審判決(大野判決)

 1997.8.26日、第三次訴訟の最終審として最高裁第三小法廷で最高裁判決(大野判決)が出された。これが家永教科書最後の判決となった。判決は、検定制度自体は合憲としながらも検定における裁量権の逸脱を一部認め、草莽隊他に加え731部隊、「南京戦における婦女暴行」の記述に関する検定も違法とし、国側に40万円の賠償を命令した。

 判決は、これまでの判決同様検定制度を「合憲」とした。次のように述べている。
 「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」。

 この教科書検定制度合憲判決により、家永側の実質的敗訴が確定した。学説の大多数もこの判例を支持している。

 検定制度が必要という合理的な理由としては、子どもの批判能力がまだないこと、教育内容が正確、中立、公正であること、それが全国的に一定の水準であること、教育内容が子どもの心身の発達段階に応じたものにしなければいけないことが要請された。またこの検定制度について、「看過し難い過誤」として従来の「草莽隊」、「南京大虐殺」、「南京戦における婦女暴行」」のほかに、「731部隊」が新たに違法とされたのである。


 1980年代の教科書検定をめぐり、書き換えを命じられた家永三郎・東京教育大名誉教授が、国に損害賠償を求めた第3次教科書訴訟の上告審口頭弁論が18日、最高裁第3小法廷で開かれ結審した。提訴以来、13年半にわたった3次訴訟もいよいよ8月29日には判決が出る。

 83歳の家永氏は最後の意見陳述で美濃部達吉博士が1939年「帝国大学新聞」に寄せた一文を読み上げ、長かった裁判闘争を締めくくった。
 「司法権の独立は、単に政府の圧迫に屈しないことによって保たれるものでなく、それより大切なことは、司法当局が進んで政治勢力に迎合するような傾向がいささかなりともあってはならないことである」

 最高裁第三小法廷は、制度は合法であるが、行政裁量権の逸脱があって不当行為であるとして国家賠償を行うべきである、と判決した。

 検定制度については、次のように判決した。 教育基本法10条で、文部行政に於ける「諸条件の整備」が要請されている。検定制度は「諸条件の整備」にあたる。よって、検定制度は合憲である。

 それを踏まえて、検定に伴う改善意見、修正意見を政府行政が行なってよいのかどうか。政府行政が行なうことは「不当な支配」になるのではないかという面が問われた。判決文は、改善意見、修正意見は文部大臣が行ったとしており、厳密な意味では「不当な支配」にあたることになる。よって、政府行政の裁量権の範囲として「裁量基準」枠を設ける必要がある。「学説状況、教育状況についての認識を逸脱しない」を基準にすべし。

 文部大臣は次のように談話した。
 「判決は教科書検定制度の正当性と必要性を確認した上で、検定意見の一部について違法と判断した」。

 菱村幸彦(国立教育研究所所長・前初中局長)氏は次のように談話した。
、「この裁判によって教育界に実りをもたらしたものは何一つないと考える。これからの教育論議は法律の用語ではなく、教育の言葉で真摯に、穏やかに話し合いたい」(朝日新聞8月30日)。

 ドイツのように関係国の専門学者による会議制にすべきですよ。

 歴史記述については、次のように判決した。二審は、次の歴史事項記述につき、行政裁量権の逸脱(不当行為)があったと認定した。1・「南京大虐殺」、2・「日本軍の残虐行為」、3・「草莽(そうそう)隊」。最高裁第三小法廷は新たに4・「七三一部隊」、5・沖縄戦の「集団自決」をめぐる検定意見の違法性を加え、計5項目が行政の裁量権の範囲を逸脱した不法行為に当たり、国家賠償を行なうべきであるとした。

 家永教授は次のようにコメントした。
 「判決は検定意見が違法を含むものだということを最高裁が認めた。違法としなかった部分でも裁判官の意見は違法、合法で割れている」。






(私論.私見)


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