ヒトラーの遺言考

 (最新見直し2006.10.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、「ヒトラーの遺言書」なるものが存在する事を迂闊にも知らない。数句の遺言めいたものは承知しているが、分厚いものは知らない。太田龍・氏の指摘で知った次第である。いずれ検証しようと思う。

 2006.10.22日 れんだいこ拝


【「ヒトラーの遺言」】
 太田龍・氏の2006.10.20日付れ「時事寸評bP839、今、「ヒトラーの遺言」を日本民族有志が読むべき時が来た」を転載しておく。(れんだいこ文責)
 今こそ、日本民族有志は、「ヒトラーの遺言(一九四五年二月四日〜四月二日)」(邦訳、篠原正瑛。原書房、一九九一年、絶版)を読むべきである。その中の、日本についての文章を引用する。
 「ユダヤ人には、すべての責任を負わせるべきである。そして最も恥知らずな悪徳をユダヤ人の責任だと考えても、それが誤解だったということは決してない。私は確信している――ユダヤ人は、黄禍の問題で遠大な計画を立てるとともに、白色人種の国の一つが、ユダヤ人の病菌に免疫で、しかもいまや列強にのしあがってきた黄色人種の島国を亡ぼしてくれる可能性まで読んでいたのだ、と」。 (前出、八十一頁)

 
このヒトラーの遺言は、今、痛切に我々日本人の心情を打つ。「白色人種の国の一つ」とは、いうまでもなく米国である。「ユダヤ人の病菌に免疫で、列強にのしあがってきた黄色人種の島国」とは、もちろん我が日本である。ユダヤは、米国をして、日本を滅亡させる計画である、と。

 しかし、ヒトラーもこのとき、ユダヤが、黄色人種の国である中国をもまた、共産主義と言うユダヤイデオロギーを以て支配下に置き、このユダヤ化した共産中国をも使って、ユダヤ化した米国と共に、日本に確実にとどめを刺さしめる、と言うところまでは、見えなかったのか。

 およそ人類の歴史始まって以来今日まで、ヒトラーのように、中傷誹謗悪口悪態の限りをつくしてたたかれ続けている個人は、存在しない。そしてヒトラーと同時に、ナチス党も。ナチスとは、ドイツ国家社会主義労働者党。

 昭和初期、戦時中、戦後、現在と、日本の上流貴族階級、ブルジョア、エリートインテリ階級には、強烈な反ヒトラー、反ナチスの感情が存在する。それは、ヒトラーとナチス党が、ドイツの君主制、王室、貴族、ブルジョアの腐敗を痛烈に告発弾劾したこと、そのためであろう。

 前出のヒトラーの遺言は、ベルリン首相官邸地下壕で戦争末期、指揮を取ったヒトラーの言を、マルティン・ボアマンが記録したものである。そのドイツ語版は、一九八一年、ドイツ国内で初版五千部出版されたが、すぐに売れきれ、そのあとは事実上の発行禁止。今こそ、心ある日本人が読むべき書である。(了)

マルティン・ボルマン

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Martin Bormann
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Martin Bormann

マルティン・ボルマン(Martin Bormann, 1900年6月17日 - 1945年5月2日)は、ヒトラーの秘書。のちにナチ党官房長となったが終戦時に自殺した。

目次

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プロフィール

生いたち

ドイツ中部のザクセン=アンハルト州のハルバーシュタット(de)近郊のヴェーゲレーベン(Wegeleben)で、元陸軍軍楽隊隊員で郵便職員の息子として生まれた。メクレンブルク州の農場で働くために学校を中退した。

軍人として

第一次世界大戦では砲兵連隊に従軍。敗戦後、右翼の義勇軍に参加し、1923年3月フランス占領軍に対する抵抗の英雄であるアルベルト・レオ・シュラゲターを裏切ったヴァルター・カドー殺害で、後にアウシュヴィッツ強制収容所の所長となるルドルフ・フェルディナンド・ヘスと共に懲役一年を宣告される。釈放後の1925年ナチ党に入党し、財務面で功績を認められる。1928年にはチューリンゲン管区指導者に任命され、ナチス党幹部への道を歩み始めた。同年には党財務責任者にも選任された。ベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘の改築でヒトラーに認められる。

ヒトラーの個人秘書

1933年ヒトラーの政権掌握と同時に副総統ルドルフ・ヘスの副官としてナチ党副官房長に就任。第二次世界大戦勃発前後はまだ地位を固め始めたばかりで、国家政策や党の方針決定に影響を持ってはいなかったが、1941年5月10日に副総統ヘスが独断で和平交渉のために英国へ飛び去った後、ボルマンはヘスの後任として党官房長に任命され、大きな影響力を得るに至る。以後ヒトラーの秘書として公私に渉り密接な関係を結ぶ。上司には媚びへつらう一方で部下には冷酷な態度を取ったため、党幹部や国防軍上層部からも疎まれた。

ドイツの敗色が濃くなってくると、ボルマンは次第に権力欲を顕にし、1945年3月には和平交渉に走ったヒムラーから指揮権を剥奪させた。4月22日ヘルマン・ゲーリングに「総統はかなり精神が衰弱しているので代りに指揮をとるように」と打電。それを受けて翌23日にゲーリングはヒトラーに指揮権の委譲を要求する。結果、ゲーリングは失脚した。これはボルマンの意図した通りであった。

ヒトラーの遺言執行人

4月30日、ヒトラーは遺言でボルマンを遺言執行人、そして次期ナチス党首に任命して自殺した。深夜になってボルマンはヒトラーの主治医であるSSの医師ルートヴィヒ・シュトゥンプフェッガーと共に総統地下壕を去った。彼が残した最後の日記には、『5月1日 脱出を試みる』と記されていた。しかし両名とも生きては帰らなかった。

自殺

5月1日深夜から2日未明にかけて総統官邸から北に数キロのヴァイデンダム橋で両名の遺体を目撃したという証言が戦後複数発表された。ニュルンベルク裁判では欠席のまま1946年10月1日に死刑判決が下された。1954年10月にはベルヒテスガーデン地方裁判所は彼の死亡を宣言した。しかし、遺体が見つからなかったので、ブラジルへ逃亡したという噂がまことしやかに語られるようになった。

1973年になって、ヴァイデンダム橋から遠くないレアター駅で見つかった二体の人骨はシュトゥンプフェッガーとボルマンであると公式に確認された。彼らが脱出に失敗し、青酸により自殺したことは確実である(遺体の口からガラス片が発見されている)。1973年4月にドイツの法廷でボルマンの死が公式に確認された。また、1998年には家族の要請でDNAテストが行われ、人骨がボルマンのものであることが科学的に証明された。その後遺骨は荼毘に付され、バルト海に散骨された。

家族

彼は、ゲルダ・ブーフと結婚し、10人の子供がいた。ゲルダは1946年に癌で死亡。子供たちは孤児院で養育される。

文献

関連項目


カール・デーニッツ

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カール・デーニッツ
Karl Donitz
カール・デーニッツ
ナチス・ドイツ 2代大統領
任期: 1945年5月1日 ? 1945年5月23日
出生日: 1891年9月16日
生地: グリュナウ(ベルリン近郊)
死亡日: 1980年12月24日
没地: 自宅
配偶者:
政党:

カール・デーニッツ(Karl Donitz, 1891年9月16日 - 1980年12月24日)は、ドイツ海軍軍人。最終階級は元帥ヒトラー死後の大統領を務めた。

[編集] 経歴

1910年フレンスブルク・ミュルヴィックの海軍兵学校 (de)に入学。1912年巡洋艦ブレスラウに士官候補生として配備される。1916年に潜水艦U39の先任将校として勤務。第一次世界大戦に潜水艦長として参戦。1918年、乗艦が潜行中に航行不能となり、急浮上をしたところをイギリス軍に捕らわれて捕虜となる。Uボートの艦長は絞首刑になるという噂を聞き、発狂したふりをして1919年本国送還となる。大戦終了後もヴェルサイユ条約によって縮小されたドイツ海軍に残ることができた。しかし、条約で潜水艦の開発、配備が禁止されていたため、デーニッツも水上艦艇の勤務となった。水雷艇艇長、駆逐艦艦隊司令、北海方面海軍司令部参謀を歴任後、1934年に軽巡洋艦エムデンの艦長に就任する。1935年にヒトラーのヴェルサイユ条約の軍備制限条項の破棄(再軍備宣言)による潜水艦部隊再建のため、大佐だったデーニッツが潜水艦隊司令(BdU)に抜擢された。

[編集] 第二次世界大戦

ドイツ海軍の潜水艦隊司令としてUボート作戦を指揮。開戦当初、Uボート稼働数はわずか22隻であったが、彼の巧みな作戦指揮や、後のUボートの優先生産計画に支えられ、「灰色の狼」と呼ばれる潜水艦乗りは連合国側から最大の脅威として恐れられた。本人は開戦直後「なんということだ!また戦争をせねばならんとは!」と叫んだという。

彼は、イギリスシーレーンを遮断して兵糧責めにするために、数隻単位で敵の輸送船団を襲うといういわゆる「群狼作戦」で、軍需・民需を海外からの輸入に依存するイギリスを苦しめ、一時、新規建造トン数を上回る撃沈数をあげたこともあった。

これらの功績により、1939年から1940年の間に、少将から中将に昇進。1943年1月レーダー元帥の後任として海軍総司令官に就任する。しかし、連合軍が新型レーダーによる位置探査システムを開発し、さらにイギリスがドイツの無線通信暗号エニグマを解読するに及んでUボートの戦果は減少、これに反比例するようにUボート撃沈数が急増していった。

このころからデーニッツはヒトラーへの追従を深め、反ユダヤ的な言動が増え、ナチス傾向を示した。元々彼は自己顕示欲が強く、功名心に駆られた結果であった。しかし、1943年5月19日にUボート乗組員だった次男ペーター、1944年5月13日には魚雷艇乗組員だった長男クラウスが戦死し、一年間に二人の子供を失ってしまう。

終戦間際ヒムラーゲーリングといった有力者が次々と失脚していく中で、1945年4月30日、ヒトラーの指名によって大統領兼国防軍総司令官となった旨の連絡が党官房長マルティン・ボルマンからあり、ヒトラーの死の翌日の5月1日、総統の死と自分が後継者であることを放送で伝えた。ヒトラーの遺言では大統領職のみを継承していたが、首相職を継承したゲッベルスは5月1日に自殺しており、デーニッツが大統領と首相を兼任していたと思われる。

部下などからは温厚な人として、また信頼できる指揮官として知られていた。『カールおじさん』、『ライオン』といったニックネームがあったという。

その後、総司令部をフレンスブルクに移して、連合軍との降伏交渉とソ連軍の迫るドイツ東部からの避難民のドイツ西部への海上避難に残存船舶のすべてを投入して、数百万人の同胞を救済した。ドイツは5月7日、無条件降伏した。まもなく彼は戦犯として捕らえられ、ニュルンベルク国際軍事裁判では無罪を主張したが、「侵略戦争の積極的遂行」などの罪で禁固10年の判決を受け、服役して1955年に釈放された。アルベルト・シュペーアによると、デーニッツはヒトラーの後継者になったことを激しく後悔し、自分をヒトラーに推薦したと信じていたシュペーアを逆恨みしていたという。

釈放後、回想録「10年と20日間」を執筆。晩年は信仰に拠り所を求め、ハンブルク近郊にあるアウミューレの自宅に引きこもって暮らした。老衰のため1980年自宅で死去。

[編集] 著作

ドイツの大統領
1945年4月−5月
先代:
アドルフ・ヒトラー
次代:

Wikiquote
ウィキクォートアドルフ・ヒトラーに関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズに、アドルフ・ヒトラーに関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84" より作成

ヒトラーの遺言


(1991年)






ボアマン直筆の記録



マルティン・ボアマンの記録した最後のヒトラー発言(45年4月2日)

「私がドイツと中部ヨーロッパからユダヤ人を根絶やしにしてしまったことに対して、ひとびとは国家(国民)社会主義に永遠に感謝するであろう。・・・」


----------------------------------------------
1945年4月29日

エヴァ・ブラウンとの結婚・・・・「生涯を終わるにあたって、・・・長い年月にわたる余に対する忠実な友情をまもって、みずから選んで、この、すでに敵の包囲網がほとんど完了した街に潜入し、彼女の運命を余の運命と分かち合おうとしている女性を妻にしようと決意した。彼女は、彼女自身の希望によって、余の妻として余とともに死ぬ。・・・・」

個人的所有物の処分

遺言書の執行人・・マルティン・ボルマン

遺体焼却・・・・「余並びに世の妻は
逃亡あるいは降伏の屈辱を逃れるために、死を選ぶ。われわれ二人の決意は、余が国民に奉仕した12年間のあいだ、毎日の仕事の最も多くの部分を遂行してきたそのおなじ場所で遺体がただちに焼却されることである。


ベロウ・・・ヒトラー付き空軍副官・・・署名のいきさつに関する証言(回想)




ヒトラーの政治的遺言

第一次大戦・・・・「仕掛けられた戦争」

30年間、「国民に対する愛と忠誠・・・・・」


39年からの戦争・・・・
「戦争は、ひとえに、あの国際政治家たち、すなわち自分自身がユダヤ系か、あるいはユダヤ人の利益のためにはたらいていた国際政治家たちによって欲せられて惹起されたものである。」

「この戦争の責任を余におしつけておくわけにはいかないだろう。・・・・」

「余は、不幸な第一次世界大戦の後に、イギリスに対して、いわんやアメリカに対して第二次世界大戦が起こることを欲したことは、けっしてない。」


悪いのは「
国際ユダヤ民族とそれに手を貸している国民」、と。





「余は、ベルリンにとどまっていて、総統ならびに宰相(首相)の座すらもはや維持できないと確信したとき、この場所で自発的に死を選ぶことを決意した。余は、戦線におけるわが軍の兵士たち、家に残された婦人たちの測り知れないほどの行動や功績、わが農民や労働者諸君や、歴史上他に例を見ない青少年たち、わが名を冠したヒトラー・ユーゲントの献身ぶり−これらの行動や功績は余にはよくわかっている−を目撃しつつ、よろこびにみちた心をいだいて死んでゆく。・・・」




「陸軍、海軍ならびに空軍の指揮官たちに対し余は、最後的な手段を用いてわが軍の兵士たちの抗戦の精神を国家(国民)社会主義の精神にのっとって強化するとともに、その際とくに、
余自身がこの運動の創設者として、卑怯な逃亡よりも、いわんや降服よりも、死を選んだことの指摘を忘れないようお願いする。・・・指揮官たるものは、・・・・すぐれた手本となって先頭に立ち、死にいたるまで忠実に義務を遂行すること・・・・」



-------------------------------
政治的遺言書(第二部

ゲーリングを追放。一切の権限の剥奪。

デーニッツ元帥を、ライヒ大統領並びに国防軍最高司令官に任命する。




新内閣任命



「世界のすべての国民に害毒をおよぼしているもの、すなわち国際的なユダヤ人集団に対する仮借ない抵抗・・・・・」


  (当然のことながら、ヒトラーのネロ命令に従わなかったシュペアー軍需大臣は、閣僚名簿にない。)












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PHP文庫

真実のアドルフ・ヒトラー―20世紀の怪物
ISBN:4569664989
341p 15cm(A6)
PHP研究所 (2005-11-18出版)

金森 誠也【著】
[文庫 判] NDC分類:289.3 販売価:\680(税込) (本体価:\648)

在庫が僅少です。品切れの場合お取り寄せとなります。

ナチスドイツの指導者となり、第二次世界大戦の口火を切って欧州を戦乱の巷と化したアドルフ・ヒトラー。
絵描き志望の不遇な若者だった彼は、いかにして人類史上最悪の独裁者となったのか。
本書は、数々の資料に残されたヒトラーの言葉を紹介しながら、その生涯、政治・外交・軍事戦略、人生哲学、パーソナリティ・性癖までを丹念に考察。
“20世紀の怪物”の真の姿に迫る。
第1章 ヒトラーの生涯と戦略―その全貌を概観する(目的なき青春;政権獲得から開戦まで ほか)
第2章 ヒトラーの対外政策―列強への対応(ヒトラーと日本人;ヒトラーと大島大使 ほか)
第3章 ヒトラーの人生哲学―思想・信条の底流にあるもの(ヒトラーの英雄崇拝論(カール大帝からナポレオンまで)
頭より体が大切だという教育論 ほか)
第4章 ヒトラーの部下たち―ゲーリングからボルマンまで(洒脱だが軽率なヘルマン・ゲーリング(一八九三〜一九四六)
狡猾な宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス(一八九七〜一九四五) ほか)
第5章 ヒトラーの遺産―後世いかなる影響を残したか(戦後も日本に期待したヒトラーの遺言;ネオ・ナチズムについて)

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著者紹介
金森誠也[カナモリシゲナリ]
1927年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務後、広島大学教授、静岡大学教授、日本大学教授を歴任。専門はドイツ文学、ドイツ思想(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


ゲッベルス
ヨゼフ・ゲッベルス(宣伝大臣)
Joseph Goebbels
(1897-1945)
−ヒトラーに追随し続けた宣伝の名人−
(2001.5.12、2002.11.4加筆)

 1897年10月29日、ラインラント地方の中都市Rheydtの中産階級でも比較的裕福な会社員のカトリック家庭に生まれた。4歳に患った小児麻痺の影響で左足に障害が残り、第一次世界大戦での徴兵検査で失格となっている。彼はこの身体的なことにコンプレックスを抱いていたが、それを逆バネに学業に打ち込み、1921年にはハイデルベルク大学でロマン派文学の研究で文献学の哲学博士の学位を取得。このころは、彼の思想は反ブルジョアであったが、反ユダヤ主義は見られない。彼はゲーテ研究家のユダヤ人文学史教授フリードリヒ・グンドルフの指導を受けていたし、昔の婚約者がユダヤ人であったりしている。
 卒業後は、ジャーナリストを目指していたが失敗し、Colohneの銀行で9ヶ月間働いた。この挫折し鬱屈した状態の時にヒトラーと運命的な出会いをし、ナチス党に入党(1925年)。当初彼は、党内左派の実力者グレゴール・シュトラッサーの秘書をなどをしていた。彼は党内左派であったため、ヒトラーをブルジョワとして追放の提案さえしていたという。ヒトラーは彼を1926年4月、ゲッベルスをミュンヘン一揆の記念すべきビアホールに招いて説得し、以来ヒトラーの忠実な部下となっていく。まもなく弁舌の才能を買われ、ヒトラーの選挙活動を任されるにいたる。入党翌年の1926年にはベルリン管区指導者に抜擢され、当地区を本拠地としていたドイツ共産党と激しい闘争を繰り広げ、またDer Angriff(攻撃)という新聞を発行し、ユーモアとウィット、皮肉に飛んだパフォーマンスで民衆を魅了し、ナチスの党勢拡大に大きく寄与し、ヒトラーの政権獲得に大きく寄与する。
 1928年には国会議員、そして1929年にはナチス党のプロパガンダ全国責任者を務め、あの「Heil! Hitler(ヒトラー万歳)」を導入したのは彼であり、ヒトラー神話の創世に務め、当初12しかなかったナチス党の国会議席を、当時の大不況の追い風にのって230までに大躍進するのに貢献した。
 1933年のヒトラー内閣成立により、新設の宣伝省の大臣となり、最期までこの地位を保持した。就任早々の1933年5月には反ナチス、ユダヤ的とされた大量の書物を焼くという焚書を行って言論弾圧を行い、徹底した言論操作を行って、ユダヤ人排斥運動をあおり、ドイツ国民を戦争に追いやった。
 大戦末期には、人前に出て演説を行わなくなったヒトラーの代理として、徹底抗戦の演説を行ったり、空襲で被災した都市を視察し、救助隊の組織をして国民の賞賛を得た。スターリングラード大敗北後に行われた1943年2月18日の「総力戦」という言葉を使って国民の語りかけた演説は有名である。ベルリン攻防戦の直前には、総統地下壕に妻子をともなって入り、ヒトラーと運命をともにすることを決意した。ヒトラーの遺言によって首相に任命されたが、時すでに遅く、ヒトラー自決の翌日の1945年5月1日、ともにいた6人の子供を毒殺し、自らは妻マグダとともに拳銃で自殺し、ヒトラーの後を追った。彼は、自らの権力基盤が完全にヒトラーに依存していたことをよく知っていたので、ヒトラーに徹底した盲従を示し、常にほかの側近と競い、嫉妬で身を焦がしながらヒトラーに献身した。その結果、ヒトラーの後を追って「殉死」したことは当然の帰結であるとも言える。夫妻の死体は部下によってガソリン焼却されたが、ガソリンが足りなかったため不完全な黒こげ状態でソ連軍に発見された。
 彼は生前、ナチス党幹部の権力を利用して私腹を肥やすことには全くの無関心で、閣僚になって以後も借金に追われ続けた。私生活面ではマグダ夫人との間に5人の子供を設けつつ、1937年から38年にかけてチェコの映画俳優との浮気スキャンダルが起きて一時妻との離婚騒動が起こるが、ヒトラーの仲裁で事なきを得た。また、彼は4歳に患った小児麻痺の影響で左足に障害が残り、右側に上下動する歩き方をし、終生これをコンプレックスとして気にしていたという一面もあった。

トップ人名辞典ドイツ−ヤ行−>トラウドゥル・ユンゲ

ユンゲ
トラウドゥル・ユンゲ(ヒトラー私設秘書)
Traudl Junge
(1920-2002)
−ヒトラーの生き証人−
(20051121作成)


 1920年3月16日ドイツ、ミュンヘンの生まれ。正式名はゲルトラウトであるが、通称名のトラウドゥルで知られている。ユンゲというのは、結婚後の姓である(旧姓フンプス)。生家はビール醸造業を営んでいた。元はダンサーになることを夢見ていた。
 数々の偶然から、第二次世界大戦の最中の1942年、当時22歳だったユンゲはヒトラーの私的秘書に採用される。採用された理由は、どうやらナチス旗揚げの地であるミュンヘンだということだったらしい。ヒトラーにとってはミュンヘンは懐かしく思い入れの深い場所であったのだ。東プロイセン地方の総統大本営「ヴォルフスシャンツ(狼の巣)」から、ベルリンのヒトラー最後の住処となる総統官邸地下の防空壕に至るまで、ごく身近な場所にいて、その私的な時間をつぶさに目撃した。まもなく、ヒトラー側近の一人で若い軍人ハンス・ユンゲと結婚するが、夫の早い東部戦線での戦死により、また独身に戻った。ヒトラーの遺言状も彼女がタイプした。
 終戦直後は、ロシア軍の捕虜となり、収容所に収監されたが、まもなく戦後のどさくさの中で彼女が何者だったのか、充分調査されることもなく釈放された。戦争犯罪人として裁判に掛けられたり、公職追放にもあっていない。その後『クイック』誌の編集長付秘書などの仕事を経てフリー・ジャーナリストとなる。彼女は戦後、いろいろな番組に出演し、ヒトラーについて証言しているが、(例えば、1996年、ドイツのテレビ局ZDFが、『ヒトラーと6人の側近たち』というシリーズ番組を制作した折に(日本で放映済み)、その第1回目「ヨーゼフ・ゲッベルス」の回に証人として登場している。)一度も自分がヒトラーのそばにいて、非人道的な行為の加担者の1人であったことを認めなかったし、また公式の謝罪も行わなかったが、最晩年に彼女の著作を元に制作された映画『Der Untergang』では、悔恨の言葉を口にする。2002年2月11日、ガンのため死去。

 終戦直後の1947年から48年にユンゲは記憶が薄れてしまわないうちにと自分の経験を書き起こしたが、その原稿が日の目を見ることはなかった。だが戦後何十年も経ってからある若い女性ジャーナリスト(メリッサ・ミュラー)がユンゲの元を訪れ、原稿の存在を知り、それを本にまとめることを提案する。そして元の原稿に加筆したものが、2002年に初めて刊行された彼女の著作『私はヒトラーの秘書だった(原題は、Bis zur letzten Stunde - Hitlers Sekretaerin erzaehlt ihr Leben)』(草思社、2004年)。さらにそれをもとに、2004年、映画『Der Untergang』(邦題『ヒトラー 〜最期の12日間〜』)が制作される。第二次世界大戦後、ドイツでヒトラーをテーマに製作された初めての映画である。アレクサンドラ・マリア・ララが、彼女の役を演じた。映画の最後に年老いたユンゲ本人が出てきて「何も知らずに秘書をしていたことを恥ずかしく思う。若さは無知の理由にはならない」と悔恨の言葉を口にする。

参考出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

トップ人名辞典ドイツ−ヤ行−トラウドゥル・ユンゲ

総統(そうとう)とは、国家元首の地位を表す名称の1つ。

一般に、軍事政治の全権を掌握した独裁者が、自ら創設し就任する職名を、日本語訳したもの。大統領首相を兼任した地位と説明されることも多い。その本質は、国家存続の危機などを理由として憲法上の法的根拠に基づき臨時的に新設された役職であり、立法機関(議会)などの他の機関からの牽制を受けずに行政執行権を行使し得る絶対的権力者の地位という点にある。ただし、中華民国の国家元首については事情がやや異なるので、後述する。


目次

1 ドイツ
2 イタリア
3 スペイン
4 中華民国
5 フィクション

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ドイツ

ドイツの総統は、ドイツ語の der F?hrer (フューラー)の訳語。この語は、英語の leader に相当する「指導者」という意味である。何の指導者なのかというとナチス党の指導者であり、党首という意味に近い。

ナチス・ドイツ第三帝国)時代の1934年8月に、アドルフ・ヒトラーが国民投票による賛同を得て正式に就任した。ヴァイマル憲法下の首相ナチス党首を兼ねる(大統領はヒンデンブルクの死後空席のまま)。ただし、正確には、この時ヒトラーが就任した職名は、F?hrer und Reichskanzler (総統兼国家首相、つまりナチス党首兼国家首相)であるから、フューラー(総統)はナチス党の「党首」に限定され、総統自体に首相の権能は含まれない。これは、後にヒトラーが遺書により、自分の後継者として、総統、首相、党首にそれぞれ別の人物を指名したことからも伺える。

第2代総統は、カール・デーニッツヒトラーの遺言に基づき、1945年4月に就任し、5月に連合国に対し無条件降伏した。


イタリア

詳細は、ドゥーチェを参照。

イタリアの総統は、イタリア語の Duce (ドゥーチェ)の訳語。ドイツ語のF?hrerに相当する単語である。ただし、総統と訳されるのはムッソリーニの肩書としてだけで、統一以前のイタリアに存在した共和国の元首は統領と訳されることの方が多く、首領と訳されることもある。

1922年10月イタリア王国国王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から首相に任命されたファシスト党党首ベニート・ムッソリーニの称号である。ドゥーチェは、元々、ファシスト党の党首を指す名称であるが、ムッソリーニが独裁体制を確立したことにより、事実上の国家元首の地位を表す称号となった。ただし、法律上は、国家元首の国王が存在し、彼自身の役職は首相であること、また、軍隊も彼ではなく国王に対し忠誠を誓っているなどの点で、ドイツの総統に比べると独裁の程度は弱い。実際に、ムッソリーニは、1943年7月に、国王から首相を罷免されると、その場でイタリア軍に身柄を拘束され幽閉された。


スペイン

スペインの総統は、スペイン語の General?simo (ヘネラリシモ)の訳語。general (将軍)に増大辞の -isimo がついた語で、将軍の上位にあって陸海空の三軍を統括する地位を意味する。このスペイン語の単語は、大元帥、総司令官とも訳されるが、国家元首の意味あいで用いられる場合は、総統と訳されるのが一般であり、他に統領と訳される場合も、まれにある。

スペイン内戦における勝利を確信したフランシスコ・フランコ・バハモンデ将軍は、内戦終結1年前の1938年1月に、国家元首兼首相に就任し、内閣を組閣し、自ら総統と称した。その後、人民戦線が立てこもる首都マドリードを陥落、人民戦線の生き残りは国外へ逃亡した。こうして、名実共に独裁体制を確立したフランコ総統は、さらに、1947年7月、国民投票における賛同を得て、終身国家元首の地位につく。

フランコ総統は、国民からは、El Caudillo (エル・カウディーリョ)と呼ばれた。Caudillo は、ドイツ語のF?hrer、英語のleaderに相当する単語である。なお、el は定冠詞、英語のthe。

1969年フランコ総統は、自分の後継者として元国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを指名。1973年6月、首相を辞任。そして、1975年11月、82歳で死去した。その2日後、フアン・カルロス1世は国王に即位した。それまでの言動から独裁体制を継承すると思われていた国王であったが、予想に反し、民主主義体制の整備を急ぎ、1978年12月、国王の権限を儀礼的なものに限定し、権力分立を定めた憲法を、国民投票による承認を受けた上で公布した。こうして、スペインの独裁時代は幕を閉じた。


中華民国

詳細は、中華民国総統を参照。

中華民国の総統は、1948年以降の国家元首の名称である。一般に中国語では、英語の Presidentの訳語、つまり日本語の大統領に相当する語として、「総統」を用いている。したがって他の用例とは異なり、「総統」は、独裁体制下における最高権力者の地位を表す称号ではない。たとえばアメリカ合衆国の大統領も「美国総統」と呼ばれる。とは言え、台湾に移った以後の総統蒋介石は、徐々に独裁体制を固めていき、1975年4月、独裁者としてこの世を去った。

その後は、独裁体制は放棄され、総統の権限は分散させられた。さらに、国民からの民主化の要求が高まっていき、1996年、自らも民主化を望んでいた李登輝総統は、総統の直接選挙制度を導入した(台湾総統選挙)。この改革により、総統の地位は、建国の父孫文が模範としたアメリカ合衆国大統領と、首相相当職の有無、選出方法に直接選挙と間接選挙の違いはあるが、権限および権威の面で非常に似たものとなった。


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太田龍の時事寸評


週刊日本新聞  時事目次 日本義塾出版部 注文フォーム
【↓】
日本の真の愛国者と、ドイツの真の愛国者の真剣な交流と提携の必然性に気付くべき時。  

更新 平成18年10月18日23時00分

平成十八年(二〇〇六年)十月十八日(水)
(第一千八百三十七回)

○「第二次世界大戦」についての敗戦後の日本人の常識は、

○東京裁判史観と、ニュルンベルク裁判史観と、

○この二つの史観を合成したものによって、形成されて居る。

○この常識は今や、日本人の心理の中で、牢固として抜き難い。

○しかし、表面から見ても、
 東京裁判と、ニュルンベルク裁判と、

○この二つの裁判の間には、きはめて異常な相異が存在する。

○それは、日本とドイツと、この二つの「同盟国」の、
 最高首脳の運命の相異である。

○ドイツの首脳は、ヒットラーである。
 そしてこのヒットラーは、ソ連軍が首都ベルリンに突入し、

○ベルリンの市街戦が遂行される中で、

○自決した。

○ヒットラーは、自決する前に、二つのことをして居る。

○一つは、ドイツ国民への遺言である。
 これはのちに公刊され、日本語版も出て居る。
 (『ヒトラーの遺言 ― 一九四五年二月四日‐四月二日』
  訳・解説:篠原 正瑛 、原書房、一九九一年刊)

○もう一つは、ヒットラー自決後のドイツ元首として、
 デーニッツ提督を任命したこと。

○デーニッツの政権閣僚は、米国軍によって逮捕された。

○そして、米英ソ連の連合国は、生存して居たナチスドイツ首脳
 を逮捕して、ニュルンベルクで裁判するのである。

○これに対し、

○日本では、元首としての天皇は、

○そのまま、皇居に住み続け、

○東京裁判当局は、天皇を戦犯に問はないとの、米国政府の指令
 を受けて居た、

○これはよく考えると、
 否、よく考えなくても一見して、

○きはめて異様である。

○ドイツは、
 米英仏占領下の西ドイツと、ソ連占領下の東ドイツとに

○分裂した。

○旧ドイツ東部の尨大な国土が、

○ソ連とポーランドの領土とされた。

○これは問答無用の暴力である。

○西ドイツでは、ドイツ基本法、なるものがつくられて、

○その基本法のもとに、西ドイツ政府が発足した。

○しかし、マンフレッド・レーダーが告発して居るように、

○これは、米国のシカゴ大学で短期間に起草され、西ドイツに
 押し付けられたものである。

○これに反し、日本では、新憲法は昭和天皇の名の下に、

○旧明治憲法の「改正」と言うかたちで「合法的」に、
 議会で可決された。

○敗戦後の事情についてのドイツと日本のこの違いを、

○日本人は、突き詰めて考察することを、今日まで全くしないで
 来た。

○そのことは何を意味するか。

○そのことは、敗戦後の日本人が、「第二次世界大戦」について、
 日本人としての系統的な、組織的な、合理的な歴史観を持ち
 得ない、

○と言うことを意味するのである。

○つまり、日本人は、
 日本人としての歴史を切断されて居るのである。

○歴史を奪はれた民族は必ず滅亡する。

○ここに、我々が、日本の真の愛国者と、ドイツの真の愛国者と、

○その両者の間の真剣な対話と交流と提携を追及すべき必然性が
 存在する。

 (了)

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被告人の最終陳述

――審理216日目(1946831日)――

IMT22_0366-410

<裁判長>24D(j)は、各被告が法廷に対して発言することを認めています。それゆえ、私は、被告を呼び出して、発言を求めます。被告へルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング。

<ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング(被告)>:検事側は最終論告の中で、被告とその証言をまったく価値のないものとみなしました。被告が宣誓の下に行なった発言が起訴状の内容に合致する場合には、それはまったく真実のことであると認められましたが、起訴状を反駁している場合に、偽証と扱われました。これが基本的なことです。しかし、立証のやり方としては説得力のあるものではありません。

 検事側は、私が国家のナンバー・ツーであったという事実を、私がすべての出来事を知っていたに違いないという証拠としました。しかし、私が、宣誓の下で、そのことについては知らなかった、ましてや、そんなことを望んでもいなかったと証言しても、検事側は、それを否定するような資料や説得力のある証拠は提出しておりません。だから、検事側が、「総統の後継者であるゲーリングが知らなかったとすれば、一体、誰がそのことを知っていたのであろうか」と述べても、いいがかりであり、憶測にすぎません。

 最悪の犯罪は秘密のベールに包まれていた、と当法廷で何回も聞かされてきました。私は明確に言っておきたいのですが、こうしたおそらしい大量殺戮を厳しく非難しておりますし、まったく理解できません。そして、もう一度、当法廷で明確に強調しておきたいのですが、私は、一人の個人の殺害を命令したこともないですし、他の虐殺行為を命令したことも、それを認めたこともありません。たとえ、それを知っており、それを阻む力を持っていたときでさえもです。

 ドッド氏は最終論告の中で、私がユダヤ人の殺害をハイドリヒに命令したと新たに告発しましたが、まったく証拠もなく、真実でもありません。敵の飛行士を射殺せよとか保安部に引き渡せというような、私の署名のある命令、私の代理の書名のある命令は、一つもありません。私の指揮する空軍部隊がその類のことを実行したという事例も、一つもありません。

 検事側は、そのような話を含むいくつかの資料を繰り返し提出しました。しかし、その資料は、第三者や第四者が報告したり、書いたものであり、しかも、過ちや誤解を正すために、事前に私に提示されてはいませんでした。

 第三者の記録をもとに、まったく歪曲された報告書を作り上げるのはきわめて簡単です。当法廷の速記録は、しばしば、点検・修正されなくてはなりませんでした。何よりもまず、この事実こそが、そのことを証明しています。

 検事側は25年間にわたる個人的な発言を法廷に引き出してきました。これらの発言はまったく異なった環境のもとでなされ、その時には、どのような結果を生み出すのか分からないものでした。検事側が、作為と有罪の証拠としたのは、当時の興奮した状況と雰囲気のもとでなされた発言なのです。四半世紀のあいだに、同じようには話さなかったり、書かなかった指導者は、反対側にはいないのでしょう。

 検事側は、25年間にわたる出来事、会議、演説、法律、行動、決定にもとづいて、すべてのことが、当初から、意図的な手順と切れることのない連鎖的な措置にしたがって、計画・実行されてきたと論じています。しかし、これはまったく誤った考え方ですし、まったく論理的ではありません。当法廷はこのような告発が正しくないことを証明してきました。ですから、その誤りは、いつの日か、歴史によって証明されるでしょう。

 ジャクソン検事は、最終論告の中で、無条件降伏は休戦をもたらしているにすぎないのだから、署名国は依然としてドイツと交戦状態にあると指摘しています。国際法とは普遍的なものです。双方に同一の基準が適用されなくてはなりません。だから、今日、占領国がドイツで行なっていることが国際法のもとで許されるのでしたら、ドイツは以前には、少なくとも、フランス、オランダ、ベルギー、ノルウェー、ユーゴスラヴィア、ギリシアに対して同じ立場にあったはずです。今日、ジュネーブ協定はドイツに関する限り、もはや、有効ではないとすれば、今日、ドイツ各地で、工業施設が解体され、すべての分野での巨額の資産が他国に持ち去られているとすれば、今日、数百万のドイツ人の財産が没収され、自由と財産に対する重大な侵犯が行なわれているとすれば、ドイツ政府が上記の国々で行なった措置は、国際法に照らしあわせても、犯罪ではありえないでしょう。

 ジャクソン検事は、国家を告発・処罰することはできないが、指導者にその責任を負わせなくてはならないと述べています。忘れてはならないことは、ドイツは主権国家であり、ドイツ国民の中での立法措置は外国の管轄下には服していないということです。民族社会主義のいかなる行動も訴追と処罰の対象となるであろう、とドイツ帝国に通告してきた国家は存在しません。しかし、私たち指導者であるならば、個人的に、告発・糾弾できるというのです。よろしいでしょう。だが、同時に、ドイツ国民を処罰することはできません。ドイツ国民は総統を信頼していましたが、ヒトラーの権威主義的な政府の下で、事態に影響を与えはしませんでした。ドイツ国民は、今日知られるようになった重大な犯罪についてはまったく知ることなく、自分たちの意思に反して始まってしまった生死をかけた闘争の中で、忠実かつ自己犠牲的に、かつ勇敢に戦い、苦しんできました。ドイツ国民は無罪なのです。

 私は戦争を望んでもいませんでしたし、それを始めもしませんでした。外交交渉によって戦争を阻止するために全力を尽くしました。しかし、いったん戦いの口火が切られたのちには、勝利のために全力を尽くしました。地球上の三大国が、ほかの国々と一緒に、わたしたちに対して戦いを挑み、結局、わたしたちは、圧倒的な敵の優位に屈しただけなのです。

 私は、私が行なったことで被告席に立っていますが、戦争手段によって、他国民を服従させようとか、彼らを殺害しようとか、彼らを略奪しようとか、彼らを奴隷としようとか、虐殺や犯罪をおかそうと願って、行動したのではないと断言します。

 私を導いてきた唯一の動機は、自国民、その幸福、その自由、その生活への熱烈な愛でした。このことについては、全能の神とドイツ国民が証言してくれるでしょう。

 

<裁判長>:被告ルドルフ・ヘス。

<ルドルフ・ヘス(被告)>:最初に、健康状態がすぐれないので、座ったままで話をすることをお許し願いたいと思います。

<裁判長>:よろしいでしょう。

<ヘス>:同志のうちの何人かが確認できると思いますが、私はこの裁判で次のようなことが起こると予言しました。

(1)      宣誓の下に、虚偽の証言を行なう証人が登場するが、と同時に、これらの証人はまったく信用できる印象を作り出して、かなりの評価を得るであろう。

(2)      法廷は、虚偽の発言を含む供述書を認めることであろう。

(3)      被告は、ドイツ人証人を見て、ひどく驚くであろう。

(4)      被告のうち何名かは、奇妙な振る舞いをするであろう。彼らは、総統について、恥も外聞もない話をするであろう。彼らは自国民を犯罪者呼ばわりするであろう。彼らはお互いに犯罪者呼ばわりし、嘘をつくであろう。おそらく、彼らは自分のことを犯罪者呼ばわりし、間違った証言をするであろう。

 

 この予言すべてが真実となりました。証言、供述では、数十の事例があてはまります。ここでは、被告のあいまいな宣誓証言が、以前に行なった被告の宣誓供述書と矛盾しています。

 この関連では、メッサースミスの名前だけを挙げておきます。例えば、メッサースミス氏は、私の知っている限りでは、デーニッツ提督が太平洋上かインド洋上いたときに、提督に話しかけたと証言しています。

 しかし、私はこうした予言を、裁判が始まってからだけではなく、裁判の始まる数ヶ月前に、イギリスで、とくに、アーベルガヴェンニーで私と一緒にいた医師のジョンソン博士に話しています。

 同時に、私はこの発言を証拠として書き留めました。予言の根拠は、ドイツ以外の諸国での出来事でした。ここで強調しておきたいことは、私がこれらの事件に言及しているとき、関係する政府は事件については何も知らないということを、当初から確信していました。だから、これらの政府を非難しようとも思いません。

 1936-1938年、これらの政府の一つで、政治裁判が行なわれました。特徴的なことに、ここでは、被告たちがきわめて異常なやり方で罪を自白しています。例えば、被告たちは、自分たちが犯した、あるいは犯したと主張する数多くの犯罪を進んで告白しているのです。結局、彼らには死刑判決が下りました。しかし、彼らは、これを狂ったように拍手して認め、世界を驚かせたのでした。

 しかし、何人かの外国の新聞記者は、これらの被告は、これまで知られていない方法で、異常な精神状態となり、その結果、そのように振る舞ったという印象を受けるとの記事を書いています。

 私は、イギリスでの出来事がきっかけとなって、この事件を思い出しました。そこでは、この当時、裁判の記事を手に入れることはできませんでした。しかし、同じ時期の『フェルキッシャー・ベオバハター』が手元にありました。それをくってみると、193838日号に次のような記事を見つけました。193837日付のパリからの記事です。そこにはこうあります。

「パリの大新聞『ル・ジュール』は、これらの裁判で使われた方法を暴露した。それはかなりミステリアスな方法である。」

 私は、『フェルキッシャー・ベオバハター』が『ル・ジュール』から再掲載した記事を文字通り引用します。

「この方法を使えば、選んだ犠牲者を、命令にしたがって行動させたり、話させたりすることができる。」

 ここで、強調しておきたいのは、『ル・ジュール』の記事が、「命令にしたがって話させる」ということだけではなく、「命令にしたがって行動させる」ということにもふれていることです。「命令にしたがって行動させる」という点は、ドイツの強制収容所関係者の行動、説明できないような行動に関して、非常に重要です。そこには、普通の人間ならば、とくに、普通の医師、科学者ならば、実行できないような、おそらしく残酷な行為を囚人に行なった科学者、医師も入っています。

 強制収容所の中で虐殺の命令や指示を出したに違いない人々、捕虜の射殺命令、リンチ命令などを出した人々、それは、総統自身まで含むかもしれませんが、彼らの行動との関連でも、同じように重要です。

 ミルヒ元帥は、総統は最後の年月、正常な精神状態ではなかったと証言しています。ここでの私の同志のうち数多くが、最後の年月、総統の目と表情が何か残酷であり、狂気に向かっているような様子であったと話してくれました。その話は、まったく別々に、そして、私が今話している内容をまったく知らないで、なされたものです。証人として、その同志の名を挙げることもできます。

 先に申しましたように、イギリスでのある出来事が、以前の裁判の記事を思い起こさせてくれました。獄中で私の周囲にいた人々は、不可解な振る舞いで私に接していましたので、彼らは異常な精神状態の下で、そのように振舞っているという結論に達したからです。私の周囲にいた人々は、何回も交代しました。新しくやってきた人々の中にも、奇妙な目つきをした人がいました。どんよりとしていて、夢を見ているような目でした。しかし、この兆候が続くのはほんの数日だけで、その後は、まったく正常になりました。普通の人間とまったくかわらなかったのです。この奇妙な目つきに気づいていたのは私だけではなく、当時、私の世話をしてくれていたスコットランド人で、イギリス軍の軍医ジョンソン博士も気づいていました。

 1942年春、1人の訪問者がありました。彼は私を挑発しようとして、奇妙な振る舞いをしました。この人物も奇妙な目つきをしていました。のちに、ジョンソン博士は、彼のことをどう思うか私に尋ねました。私は、彼の精神状態は何らかの理由で正常ではないようですと答えました。ジョンソン博士は、私が予想したように、反対せず、私に賛成して、奇妙な目つき、夢を見ているような目に気づいていたかどうかを尋ねました。ジョンソン博士は、彼自身が私のもとにやってきたとき、まったく同じ目つきをしていたことを 疑いませんでした。

 しかし、ここで重要な点は、当時の記事が、モスクワ裁判について、被告たちが奇妙な目つきをしていたと述べていることです。どんよりとした、夢を見ているような目だったのです。前に申し述べましたように、私は、関係する政府がこの事件については何も知らなかったと確信しています。だから、獄中での経験についての私の発言が公に否定されたとしてもイギリス政府には、利益にはならないでしょう。そんなことをすれば、隠されていることがあって、イギリス政府がそれに関与しているとの印象を作り出してしまうからです。

 しかし、チャーチルの政府も、現在の政府もジュネーヴ協定にしたがって、私を公平に扱うべきであるという指示を出していたと確信しています。しかし、私が最初に受けた待遇は、信じがたいものでした。囚人に対する、最初の頃の看守の扱いは、まったく信じられないようなやり方でした。当時、その噂が外にも漏れていました。その噂とは、次のような内容です。囚人たちは、意識的に餓死に追い込まれている、囚人たちへの粗末な食事には、雑草が混入されている、その結果病気になった囚人たちの治療にあたる医師たちは、薬の中に有毒物質を混ぜて、囚人たちの苦痛を増し、同時に、犠牲者の数を増やしていたというのです。事実、このような噂は、のちに真実であることが分かりました。イギリスの強制収容所で死亡した26370名のボーア人の女子供ために記念碑が立てられ、その大半が餓死であったというのは歴史的な事実です。当時、多くのイギリス人、例えば、ロイド・ジョージがイギリスの強制収容所での出来事に抗議しました。エミリー・ホプフォーヅ嬢のような目撃者も抗議しました。

 しかし、この当時、世界が目の当たりにしていた問題は、今日、ドイツの強制収容所での出来事について、目の当たりにしているのと同じ、解決できないような難解な問題なのです。

当時、イギリス政府は、南アフリカの強制収容所での出来事について、解決しがたい難題に直面していましたが、今日では、この裁判やその他の裁判で、ドイツ帝国の閣僚やその他の被告が同じような難題に直面しているのです。

 もしも、私がイギリスの獄中での出来事を宣誓の下で話したとすれば、それはきわめて重要なことに違いありません。しかし、私は、弁護人を説得して、適切な尋問をさせるようにはできませんでした。別の弁護人にかえて、適切な尋問をさせることもできませんでした。ですから、私はここでもう一度申し上げます。

私は、全能、全知の神に誓って、真実だけを、つつみ隠さず、何も付け加えないで、お話しすることを誓います。ですから、これから申し上げることは宣誓の下で証言したことであることを当法廷がぜひ考慮していただきたいと思います。

私は教会に熱心に通っていたわけではありません。教会と特別な精神的関係を持っていたわけではありません。しかし、私は敬虔な信徒です。自分の神への信仰がほかの誰よりも深いことを確信しています。ですから、神を私の証人として召喚して、宣誓の下でなされている私の証言を当法廷が重視していただきたいのです。

 1942年春、

<裁判長>:被告ヘスは、すでに20分も話をしています。この審理では、そのような長時間の発言を認めていないことを、被告人に指示します。

 被告全員の発言を聞かなくてはなりません。ですから、被告ヘスは、話を閉めくくるようにしてください。

<ヘス>:裁判長、私はこれまで、証言することができなかった唯一の被告人でした。その事実を指摘しておきたいと思います。適切な尋問があれば、証人として証言したのですが、すでに、申し上げましたとおり、

<裁判長>:被告人と議論しようとは思いません。被告は短い発言をするというのが、当法廷の規則なのです。被告ヘスには、証人として出廷し、宣誓の下で証言する機会が十分に与えられました。彼はそうしようとはしなかったのです。彼は今、発言していますが、ほかの被告人と同じように扱われ、短時間の発言に限られるべきです。

<ヘス>:裁判長、ですから、私は、今申し上げた事柄との関連でお話申し上げたいと考えている発言を続けます。結論だけを聞いてくださるようお願いします。それは、一般的な内容を持つものであり、今申し上げた事柄とはまったく関係がありません。

 私の弁護人は当法廷で、私の名で発言しました。私は、それを、わが国民と歴史に対する将来の判決のために申し上げたいと考えています。私にとって重要なのは、このことだけだからです。検事たちは、私と私の同胞に対して罪を着せようとしていますが、私は、そのような権利が彼らにあるとは考えていません。ですから、私は、そのような検事たちに対して、自らを弁護しようとも思いません。純粋にドイツだけにかかわっており、外国人には関係のない問題を扱っているとの非難を受けていますが、それを反駁しようとは思いません。ドイツ国民の名誉を傷つけようとする発言にも抗議するつもりはありません。敵がそのように、醜悪な攻撃を仕掛けていることこそが、ドイツ国民の名誉の証左であるからです。

 私は、わが国民が千年の歴史の中で産み出したもっとも偉大なる息子のもとで、私の生涯の多くを費やして働く機会に恵まれました。もし可能だとしても、私の生涯から、この時期のことを消し去ろうとは思いません。私は、ドイツ人として、民族社会主義者として、総統の忠実なる部下として、わが国民に対する義務を果たしました。そのことに喜びを感じております。後悔することは何もありません。

 すべてを最初からやり直すことができたとしても、すでにやってきたことと同じように行動するでしょう。たとえ、このことで火刑に処せられるようになることを知っていたとしても、そうするでしょう。人間がたとえどのようなことをしようとも、いつの日か、私は、永遠なるものの裁きの椅子の前に立つことでしょう。そして、私は、永遠なるものの尋問に答えるでしょう。そして、私は知っています。永遠なるものは私を無実であると審判するであろうことを。

 

<裁判長>:被告ヨアヒム・フォン・リッベントロップ。

<ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(被告)>:当法廷が設立されたのは、歴史の真実を発見するためです。ドイツの対外政策については、次のことだけを申し述べたいと思います。

 一体、一方では、これまで知られていない法律基準と公平な精神にもとづくとしながら、25年間の人類史のもっとも重要な時期の本質的な問題を消し去ることができるのでしょうか。当法廷は、このようなことをやってしまった実例として、歴史に残ることでしょう。

 ヴェルサイユ条約こそが、私たちの抱えていた難題の根源でした。その条約を起草した人々の中でも、この条約が将来の難題の根源となると考えていた理性的な人々がいましたし、この条約の欠点が新しい世界戦争をもたらすであろうと予見していた賢明な人々もいました。当法廷は、このような条約の是非についての議論を阻もうとしていたのでしょうか。

 私は、自分の生涯のうち20年間を捧げて、この邪悪な条約を解消しようとしました。ですから、そのことを知っている外国の政治家たちは、私を信じていなかったと供述書に書いているのです。彼らは、自国の利益のために、私を信じようとはしなかったと書かざるを得なかったのです。私は、対外政策の責任を負わされようとしていますが、その対外政策の中身を規定したのは別の人物です。しかし、ドイツの対外政策は、世界征服計画とはまったく関係がありません。それが目指していたのは、例えば、ヴェルサイユ体制の解消、ドイツ国民の食糧問題の解決でした。

 ドイツの対外政策は侵略戦争を計画・準備したものではなかったと申し述べても、それは私を弁護する口実ではありません。第二次大戦中のわが国の軍事力、とくに、開戦当初のその脆弱性が、このことを証明しています。

 もしも、私たちが侵略戦争を意図していたとすれば、はるかにうまくそれを準備していたことでしょう。そのことは、歴史がはっきりと教えてくれるでしょう。私たちが意図していたことは、わが国の生存の本質的な必要に配慮することでした。それは、イギリスが地球の五分の一を服従させるために、国益に配慮したこと、アメリカ合衆国が新大陸を制覇したこと、ロシアが広大な内陸アジアを支配したこととまったく同様なのです。両者のあいだに違いがあるとすれば、イギリス、アメリカ、ロシアが大陸単位で物事を考えていたのに対し、わが国が、自分の権利を無視されて奪われたダンツィヒとポーランド回廊といった小さな土地を要求したということだけです。

 法廷憲章が制定される以前には、ロンドン協定の署名国のあいだでさえも、国際法と対外政策に関して、現在とは異なった考え方がありました。私が、1939年にモスクワでスターリン元帥と会談したとき、彼は、ドイツ・ポーランド紛争をケロッグ・ブリアン条約の枠組みの中で、平和的に解決できるとは言いませんでした。それどころか、スターリンは、ポーランドの半分とバルト諸国に加えて、リトアニアとリバウ港を手に入れれば、私が帰国してもかまわないとほのめかしたのです。

 1939年には、戦争の遂行が平和に対する国際的犯罪とみなされていなかったことは明らかです。そうでなければ、ポーランド戦役が終わったあとのスターリンの電報を説明することはできません。そこには、『ドイツとソ連の友好関係は、ともに流した血にもとづいており、あらゆる点で、確固として持続することでしょう』とあります。

 ここで協調しておきたいことは、この当時、私でさえも熱心にこの友好関係を望んでいたことです。この友好関係から、今日残っているのは、ヨーロッパと世界にとっての焦眉の問題だけです。すなわち、アジアがヨーロッパを支配するのか、それとも、西側列強が、ソ連の影響力を、エルベ河畔で、アドリア海沿岸で、ダーダネルス海峡で押しとどめることができるのかという問題です。

 現実の問題として言い換えれば、大英帝国とアメリカ合衆国は、私がロシアと交渉していたときに、ドイツが直面していたのと同じディレンマに、今日直面しているのです。自国の利益にために言えば、両国がこの面で、成功されることを心から希望いたしております。

 さて、当法廷では、ドイツの対外政策の犯罪的性格について、一体何を証明できたでしょうか。弁護側は300以上の資料を提出いたしましたが、うち150は、説得力のない理由で却下されました。弁護側は、敵側の資料、さらには、ドイツ側の資料にも近づくことができませんでした。チャーチルは、ドイツが強くなりすぎれば、ドイツは破壊されると友好的にほのめかしてくれましたが、それは、ドイツの対外政策の動機を裁定するには不適切であるとされました。革命を共同謀議の観点から考察したとすれば、この革命を理解することはできません。

 運命によって、私はこの革命の解説者となりました。私は、ここで知ることになった虐殺犯罪、この革命を汚してしまった虐殺犯罪のことを遺憾に思います。しかし、それらすべてを、ピューリタン的な基準で裁断すべきではありません。まして、敵側でさえも、完全に勝利したにもかかわらず、大規模な虐殺行為を阻止することもできなかったし、そうしようともしなかったことを知っているからです。

 共同謀議説を取ることは勝手ですが、批判的な観察者から見れば、それは間に合わせの解決にしかすぎません。第三帝国で要職についていたものであれば、共同謀議説が歴史的には虚偽であることを知っていますし、法廷憲章の起草者が、自分がどのような背景から考え方を導き出してきて、共同謀議説を発明したのか知っています。

 私は、この憲章の署名国も、きわめて発達した、有能な、勇気ある民族の第一の欲求を抑圧するために、共謀したとまさに主張いたします。自分の行動と願望を振り返れば、このことだけは断言できます。すなわち、私が当法廷に対してではなく、わが民族に対して有罪であるとすれば、それは、対外政策での私の抱負が実現しなかったことだけです、と。

 

<裁判長>:被告ヴィルヘルム・カイテル。

<ヴィルヘルム・カイテル(被告)>:私は、証人席で、自分の公職に関する責任を認めましたし、立証や弁護側の最終弁論でも、この職務の意義を説明しました。起こったことについて、私の役割を少なく見せかけようとするのは、私の意図ではまったくありません。しかし、歴史的な真実のために、検事側の最終論告にある23の誤りを正しておくのが、適切でしょう。

 アメリカの首席検事は、最終論告の中で、「気が弱く、従順な道具であったカイテルは、侵略の道具である国防軍を党に譲り渡した」と述べました。しかし、私の職務からいっても、私は国防軍を党に「譲り渡す」ことなどできません。193824日以前であっても、以後であっても、ヒトラー自身が、国防軍の最高司令官であり、したがって、党と国防軍を絶対的に支配していたからです。検事側は、この告発を正当化できるような証拠を、当法廷にまったく提出していません。

 また、立証段階では、「カイテルは国防軍に犯罪行為を実行させた」という話も誤っていることが明らかとなりました。この告発は、私にはそのような命令を出す権限はなかったと明瞭に述べているアングロ・アメリカ裁判摘要と矛盾しています。

 それゆえに、イギリスの首席検事は私のことを「国防軍に命令を出す元帥」と呼んでいますが、それも誤っているのです。彼はまた、「私が、このことで生じる結果については知らなかった」と述べたといっていますが、これも証言席で述べたこととは、少々異なっています。私が証言席で述べたのは、「命令が出されれば、私は職務にしたがって行動しますが、そのとき、この命令から生じる結果、かならずしも予想し得ない結果によって混乱するようなことはなかった」ということです。また、「カイテルとヨードルは特別行動部隊の作戦に対する責任を否定することはできない、彼らの司令官たちは特別行動部隊と緊密に、協力して行動していたからである」と述べられています。これも証言とは矛盾しています。国防軍最高司令部はソヴィエト・ロシアの戦場からは除外されていました。その指揮下にある軍司令官は一人もいませんでした。

 フランスの首席検事は、最終論告の中で、「『人命は占領地では無価値に等しい』という被告カイテルの恐るべき言葉を思い起こしていただきたい」と述べています。

 この恐るべき言葉は、私の言葉ではありません。そのようなことを考えてこともないし、そのような中身の命令を出したこともありません。この総統命令が伝えられる過程で私の名前が登場している事実が、私に重くのしかかっているのです。

 シャンペティエ・ドゥ・リベ氏は別のところで、「この命令は、軍集団司令官の指示のおかげで、反パルチザン活動との関連で、実行された。そして、軍集団司令官としては、被告カイテルの全体的な指示にしたがって行動していたのである」と述べています。

 フランスの起訴状は、私は、国防軍最高司令部長官として、国防軍の各部隊に直接命令を出すことはできなかったと述べています。にもかかわらず、ここではまたもや、「カイテルの指示」が登場してきているのです。

 ソ連検事は、最終論告の中で、「カイテルは自分を『兵卒』と称するのが好きでした。予備尋問では、このカイテルは、政治犯の処刑に関する資料に関して、宣誓を無視して、アメリカ検事に恥知らずな嘘をついています。すなわち、この布告は復讐を避けるためのものであり、政治犯を他の捕虜と分けたのは、捕虜たちがそれを求めたためであったというのです。彼の嘘は法廷で暴かれた」と述べています。

 問題の資料は884-PSです。

 私が嘘をついたという告発には根拠がありません。ソ連検事は、この問題での、私の予備尋問記録は法廷には証拠として提出されなかった事実を見過ごしています。ですから、それを検事側最終論告で使うのは許されません。私は、この記録を見ていませんし、その中身を知りません。もしも、私が、この記録を見たとすれば、見ていないことから生じた誤りが明らかとなるでしょう。私は、弁護側反証の証人席で、事柄を正確に申し述べました。

 検事側は、法廷の最終段階で、私の名前を生物戦争準備命令と結び付けて、私を厳しく責めたてようとしました。証人シュライバー軍医総監は、彼の供述書の中に、「国防軍最高司令部長官カイテル元帥は、ソ連に対する生物戦争を準備するように命令した」と記しているというのです。

 しかし、この証人が証言席で話したことは、「総統命令」のことだと思いますが、それも虚偽です。

 法廷では、ビューカー大佐の証言が、検事側との合意の上で認められました。その証言では、1943年秋、私が、バクテリアを使った実験を始めようという軍医学監察局と軍需品局の提案を断固として拒絶し、この実験が問題外であり、禁止されていると述べたとなっています。この話は事実です。ヨードル将軍も、証人が言っているような命令が出されたことはなかったし、ヒトラーも、どこかの部局が提案していた生物戦争を禁止していと確証しています。ですから、証人シュライバー博士の証言は虚偽であるのです。

 私は、たとえそのことが私を罪に陥れようとも、すべての事柄について、真実を語ろうとしてきました。私の活動範囲が非常に広かったにもかかわらず、少なくとも、知っているかぎりは、事態を明らかにしようとしてきました。

 今、この裁判が終わるにあたっても、同じように率直に、事態を明らかにし、心の底からお話申し上げようと思っております。

 裁判中に、私の弁護人は、二つの本質的な疑問を私に問いかけました。第一の疑問は数ヶ月前のことです。すなわち、『勝利を収めた場合、あなたはその成功に関与したことを拒否したでしょうか。』私は、『いいえ、成功に関与したことを誇りとしたに違いないでしょう』と答えました。二番目の質問は、『もしも、同じような立場にあったとすれば、どのように行動するか』というものでした。私は、『そのときには、災いに満ちた手段の網の中に引き込まれるよりは、死を選ぶことでしょう』と答えました。

 法廷は、この二つの答えから、私の見解を知ることができます。私は信じましたが、誤りを犯しました。阻止すべきことを阻止することができませんでした。これが私の罪です。

 私が兵士として提供しなくてはならなかった最良のものは、服従心と忠誠心でした。それが、当時は知ることのできない目的のために利用されました。そして、私は、兵士の職務遂行にさえも限界があることを知りませんでした。それを、今、悟ることは悲劇です。これが私の運命です。

 今回の戦争の原因、災いに満ちた手段、おそらしい帰結をはっきりと認識することから、諸民族の共同体の中での、ドイツ国民の新しい未来への希望が生まれてくることでしょう。

 

<裁判長>:被告エルンスト・カルテンブルンナー。

<エルンスト・カルテンブルンナー(被告):検事側は、強制収容所、ユダヤ人の生命の破壊、特別行動部隊その他の責任を私に負わせようとしています。告発する側もされる側も略式裁判の危険に身をさらしています。

 私が国家保安本部を統括しなくてはならなかったことは正確です。それ自体には罪はありません。しかし、1943年に私に与えられた任務と活動は、ハイドリヒの後継者としてではなく、もっぱら、ドイツの政治的軍事的情報活動を組織しなおすことでした。ほぼ1年後、カナリス提督に何年間も敵と協力していたとの嫌疑がかかったときに、私は命令を受けて、将校として、このポストを引き受けなくてはなりませんでした。短時間で、私は、カナリスとその一味の裏切りを確信しました。国家保安部第4課と5課は、理論的には、私の管轄下にありましたが、事実とは違います。

 法廷に提出されたさまざまな組織の相関関係の図式や命令系統は、間違っていますし、誤解を生んでいます。SSはすでに長期にわたって、単一の組織、イデオロギー集団ではなくなっていました。ヒムラーは、巧みに、このSSを小グループに分割して、直接自分の影響下に置き、自分の目的に奉仕させました。このヒムラーが、ゲシュタポ長官であるミューラーとともの、今日、知られるようになった犯罪をおかしたのです。強調しておきたいのですが、世論とは逆に、私が知っていたのは、実際には、ヒムラーと彼の一味の統括下にあったこれらの部局の活動のうち、ほんのわずかであり、しかも、自分の職務に関係がある場合に限ってでした。

 ユダヤ人問題については、私も、他の高官と同様に欺かれていました。ユダヤ人の生物学的な絶滅に賛成したことも、それを認めたこともありません。党と国家の法律にあった反ユダヤ主義は、戦時中には、緊急防衛措置とみなされていました。今日、理解しているところのヒトラーの反ユダヤ主義は、野蛮でした。私はこれに関与したこともなく、これから立証しますように、ユダヤ人の絶滅が中断されたのは、私がヒトラーに行使した影響力のおかげであります。

 いくつかの写真が証拠として提出され、私が強制収容所での犯罪を知っていた、そこで使われた凶器を知っていたということになっています。私が訪れたのはマウトハウゼン収容所ではなく、石切り場のある労働収容所の区画だけです。そこでは、重犯罪者が法律にしたがって使われていましたが、ユダヤ人や政治犯はいませんでした。写真に写っているのは管理棟だけです。それ以外には写っていません。だから、供述書USA-909、写真894-897Fは実際には、ありえないことですし、間違っています。ヒトラーと一緒に写っている写真は、マウトハウゼン収容所から35q離れたリンツの建設現場を訪れたときのものです。

 証人モルゲン博士の話は本質的に真実なのですが、私個人とこの問題への私の姿勢に関しては、補足しておかねばなりません。証人は、自分が急遽逮捕されて、弁護しなくてはならなくなったので、自分のことで頭がいっぱいで、自分がSS裁判局長によって、国家保安本部第5課に移されたのは私の要請にもとづいていたことを述べてはいません。警察長官ネーベと私が、強制収容所調査特別委員会を設置しましたが、モルゲン博士が司法官としてその特別委員会を補佐することができるようにするためでした。彼は、その後の事態について、私が彼の報告を読んで何をしたかについて証言することはできません。私は彼の報告を読んであきれ果ててしまいましたが、逆にミューラーは、仮面をはがされた人物のように逆上していました。同じ日に、正確な文書報告が司令部のヒトラーのもとに送られました。数日後、私は出頭せよとの命令を受けました。ヒトラーは、私の長文の報告を読んだのちに、ヒムラーとポールを調査することに同意しました。彼は、調査と必要措置をとる権限を持つ特別法廷を設置しました。ポールは職務をとかれることになりました。ヒトラーは、私のいる前で、ヒムラーの連絡将校であったフェゲラインを呼んで、ヒムラーへの出頭命令を出し、その日に、これ以上の悪行に対する必要な措置を可能なかぎりとることを約束してくれました。

 私は、免職となって、前線に送られることを望みましたが、ヒトラーは、情報活動に必要であるとの理由で、これを拒みました。アイヒマンが逮捕され、拘留されて、私に報告してきました。194410月のヒムラーの布告は、私がたった今証言したことを確証し、それを最終的なかたちでまとめ上げていますが、その言葉遣いの面で、ヒムラーの最後の悪魔的な行動の一つです。

 検事側は今でも、国家保安本部第5課が国家保安本部第4課と秘密犯罪集団の犯罪を暴露したという事実に、意見の不一致があったことを看過しています。これこそが、私が実際に進行していることまったく知らなかった証拠なのです。起っていることを知ったときに、私は自分の部局で抗議しました。

 この当時、仮病を装って責任を逃れるべきであったのでしょうか。それとも、この前代未聞の野蛮な行為を中止させるために、全力で戦うことが私の義務であったのでしょうか。この点こそが、私の有罪の是非を決定する点です。

 検事側が私に対して行なっているほかの中傷も、事態を変えていません。ここで、犯罪を立証する明白な証拠として提出されたウィーン市長あての書簡については、私は署名した覚えがありませんが、説明しようと思います。

 当時、12000名の人々が、数万のドイツ人男女とともに、ウィーンの東部地域を要塞化するために使われていました。それに加えて、上部シレジアのグンスキルヘンには2000名がいました。彼ら全員が、私の仲介で、国際赤十字の世話を受けながら、解放されたのです。反対尋問はスピードが速く、また喧騒とした環境の中で行なわれました。そのために、収容所で第5課が職権を持っていたときに、ユダヤ人の生命に対する危険があるとまったく考えていなかったことを思い出すことができませんでした。そのときから、私は大いに疑われていますが、ジュネーブの赤十字とのやりとりを検事側が参照すれば、私の信用は回復することでしょう。

 しかし、もしも、「あなたは、自分の上司が犯罪を行なっていることを知ったのちにも、なぜ、そこにとどまっていたのか」と質問されれば、私は彼らの裁判官となることはできない、当法廷でさえも彼らの犯罪の罪滅ぼしを求めることはできないだろう、とだけ答えることができます。

 検事側は最終日に、フランスの将軍の殺害に関与した罪状で私を告発しました。ドイツの将軍ブロドフスキイが殺され、報復問題を調査せよとのヒトラー命令のことを聞いたことがあります。その殺人については、数日前に始めて聞きました。パンツィンガーは帝国刑事警察局戦争調査部長であり、捕虜組織・補充軍長官として、ほかならぬ、ヒムラーの部下でした。

 検事側は、彼がゲシュタポのメンバーであったといっていますが、そうではありませんでした。

 私の署名のある19441230日のテレタイプがあり、計画の実行手段が、ベルリンから、ヒムラーの司令部に報告されています。しかし、私は、1223日から13日までは、家族とともに、オーストリアに滞在しておりましたので、このテレタイプを見ることも、それに署名することもできませんでした。

 194411月、フランスでのドイツの将軍殺害についての、帝国出版局長ディートリヒの報告を調査せよとの命令を受けただけです。その結果は、司令部に送られました。

 教会との良好な関係は各国で秩序の維持に役に立っており、理論化できるものではありません。1943年に私が職務についていたとき、ヒトラーは、教会と良好関係を持っていませんでした。これについては、悔やんでおります。私の助言はまったく効果がありませんでした。すでに立証されているように、私は誠実な努力をしましたが、このことからでさえも、検事側は何らかの結論を導き出してきませんでした。

 私は、アドルフ・ヒトラーへの信仰の中で、全力をわが国民のために費やしてきました。破壊的な勢力はドイツを破滅の淵にまで追い込んでいましたし、ドイツ帝国が崩壊してからは、依然として、世界を脅かし続けています。私が、ひとりのドイツ軍兵士として、献身したのは、こうした破壊的勢力から祖国を防衛することでした。

 もし、私が虚偽の服従概念のために、自分の仕事の中で過ちをおかしたとするならば、もし、私が、命令を実行し、重要な命令であるとされている命令が、私が職務につく以前に出されていたとするならば、そのことは、私自身よりも強く、私が背負っていくであろう運命の一部なのでしょう。

 私はヒムラーやその他の一味とはまったく反対の立場にいました。しかし、彼らがいなくなってしまったので、その代わりが必要であるとして、告発されているのです。生者であれ死者であれ、数万の一般SS、武装SS、民間人が、あなた方と同じようなヒムラーに対する呪いを抱きつつも、自分たちの理想を信じて、自分たちのドイツ帝国を、勇敢に最後まで、守り抜きました。私自身と同様に、彼らもまた、自分たちが法律にしたがって行動していると信じていたのです。

 

 <裁判長>:休廷します。

[休廷]

<裁判長>:被告アルフレド・ローゼンベルグ

<アルフレド・ローゼンベルグ(被告)>:検事たちは、古い告発に加えて、新しい、非常に強力な告発をしてきました。すなわち、私たち全員が、秘密会議を開いて、侵略戦争を計画したというのです。その上、私たちは1200万人の殺害を命令したとも言われています。これらすべての告発は、ひとまとめに、ジェノサイド――人々の殺戮と呼ばれてきました。これに関連して、次のことを申し述べたいと思います。

 私は、私の良心が、このような罪に、人々の殺戮への共謀にまったく関与していないことを知っています。私は、東ヨーロッパ諸民族の文化や民族感情を解体する作業ではなく、彼らの肉体的・精神的諸条件の改善に努めてきました。彼らの個人的安全と人間的尊厳を破壊するのではなく、すでに立証されていますように、全力で、暴力的な措置政策に反対し、ドイツ人の役人には公正な姿勢と、東方労働者の人間的待遇を厳しく要求してきました。いわゆる「少年奴隷制」を実行するのではなく、戦闘危険地域の少年には、保護と特別な配慮がなされるように努めてきました。宗教を絶滅するのではなく、寛容令を出して、東方領の教会の自由を回復しました。

 ドイツでは、私の思想的確信にもとづいて、良心の自由を要求し、それを反対派にも保証してきました。宗教的な迫害を行なったこともありません。

 スラブ民族とユダヤ人の物理的絶滅、すなわち、民族全体の殺戮ということを考えたこともありませんし、それを唱えたこともありません。ユダヤ人問題は、少数民族の権利の確定、移住、10年以上の長期にわたって、ユダヤ人を民族居住地に移住させることによって解決すべきであるというのが私の意見でした。1946724日のイギリス政府の『白書』は、どのようにしたら、それまで計画されてこなかった措置が、歴史的発展によって生み出されうるのかを示しています。

 法廷で証明されていますように、戦争中のドイツ国家の指導方法は、私の理想とはほど遠いものでした。アドルフ・ヒトラーは、私の同志ではなく、反対者であった人々を、次々と、自分の周囲に集めました。彼らの犯罪的な行為については、彼らは、数百万の民族社会主義を信じる人々が追求した民族社会主義を実行したのではなく、恥知らずにも、それを誤用したといわなくてはなりません。それは、堕落でしたし、私もそれを強く非難しました。

 私は、ドイツ民族に対するジェノサイドも、現在と将来にわたって、許されるべきではないという当然の条件を踏まえたうえで、ジェノサイドという犯罪が国際協定によって禁止され、それに対しては、厳罰が科せられるという考え方を、心から、歓迎します。

 さらに、ソ連検事は、「イデオロギー活動」も「犯罪の準備」であったと述べています。これに関しては、民族社会主義は、民族を分解してしまうような階級闘争を克服して、すべての階級を民族共同体に統合するという理念を打ち出していたことを申し述べておきたいと思います。例えば、民族社会主義は、労働奉仕団をつうじて、母なる大地での肉体労働の尊厳を回復し、すべてのドイツ人の目を、力強い農民の必要性に向けました。民族社会主義は、冬季救済事業によって、党員であるかどうかには関係なく、救済を必要としている同胞市民に対する同志的な感情を、全国民のあいだにつちかいました。民族社会主義は母親のための家、ユース・ホステル、工場のコミューニティクラブを作り、数百万の人々に、それまで知られていなかった芸術の宝庫を紹介しました。

 私は、これらすべてに貢献しました。

 しかし、自由で強力なドイツ帝国に対する愛とともに、尊敬すべきヨーロッパへの義務を忘れたことはありません。ローマでは、1932年に、ローマの保存と、平和的な発展をうったえましたし、1941年に東方占領地域大臣となったときには、東ヨーロッパ諸民族の内的な成果という理想のために、できるかぎり闘いました。ですから、私は、人生の理想、価値を自覚した社会的に平和なドイツとヨーロッパという理念を捨て去ることはできませんし、今後も、それに忠実であり続けるでしょう。

 人間の短所すべてを考慮したうえで、このイデオロギーに誠実に奉仕することは共同謀議ではなく、私の行為も決して犯罪ではありません。私の闘いは、数千の同士の闘いと同様に、もっとも高貴な理念、人々が百年以上も翻る旗の下でそれを目指して闘ってきた理念に導かれたものでした。

 これが真実であることを認めていただきたいと思います。

 当法廷は信条を弾劾すべきではありません。そして、それこそが、先入観・悪意・憎悪ぬきで、諸民族がおたがいを理解しなおす第一歩となることでしょう。以上が私の確信です。

 

<裁判長>:被告ハンス・フランク。

<ハンス・フランク(被告>:裁判官閣下。

 被告の筆頭たるべきアドルフ・ヒトラーは、ドイツ国民と世界に対して遺書を残しませんでした。彼は、自分の国民が深い苦悩を味わっている中で、慰めの言葉を見つけることができませんでした。彼は沈黙し、指導者としての職責も果たさず、暗闇に沈んで、自殺してしまったのです。これは、神と人間に対する傲慢、絶望、悪意だったのでしょうか。おそらく彼は、「もし私が滅びなくてはならないとすれば、ドイツ国民も奈落の底に落ちなくてはならない」と考えていたのでしょう。しかし、誰も知ることはできないでしょう。

 私たちという単語を使うとすれば、それは、私自身と、この告白の点で私に賛同してくれる民族社会主義者を指します。私には弁護する資格のない同僚被告人を指しているのではありません。このような意味での「私たち」は、同じように何も語らないで、ドイツ国民を運命にゆだねてしまうつもりはありません。「私たちが残したこの崩壊を、あなた方ドイツ国民がどのように対処していくのか、あなた方ドイツ国民はそれを見守らなくてはならないだけである」とも言うつもりはありません。今、かつてないほど、私たちは、大きな精神的責任を背負っているのですから。

 私たちは、歩み始めた当初、神から離反してしまうことがこのように破滅的な結果をもたらしてしまうであろうとも、犯罪に深く関与してしまうことになるとも考えていませんでした。当時、私たちがドイツ国民に忠誠心と自己犠牲を求めたことが悪い結果を生み出すなどとは知ることもできなかったのです。

 神から離反することで、私たちは打ち倒され、滅びなくてはなりませんでした。私たちが戦争に負けたのは、技術的な欠陥や不都合な状況のためではなく、不運や裏切りのためでもありませんでした。まず第一に、神がヒトラーに対して、私たちが神から離れた心で奉仕した制度に対して、判決を宣告し、刑を実行したのです。ですから、わが国民を、ヒトラーと私たちが導いてしまった道から呼び戻さなくてはなりません。

 私は、国民に対して、この道を進んではいけない、一歩でも進んではいけないと懇願します。ヒトラーの道は、神のない道、キリストから離れる道、政治的愚かさの道、災いの道、死の道であるからです。私がこの裁判の最後で知ることになりましたように、ヒトラーの道は、良心や誠実を持たない恐るべき冒険家の道となっていきました。

 この道は、神の法律と正義にしたがって、私たちとわが国の制度を破滅に導いていきました。そして、世界の各地で、その道を歩こうとする人々、歩き続けようとする人々を破滅に導いてしまうでしょう。私たちは、かつてはドイツ国民の指導者であったのですが、そのドイツ国民にこの道から離れて、元に戻ってくるように呼びかけます。

 おそらしい第二次世界大戦の数百万の死者の墓の上で、中心的で、法的な「狂言」として、この裁判は開かれ、何ヶ月も続きました。そして、狂言の登場役者は、告発しつつ、この部屋をくぐりぬけました。

 私に対する告発を弁護したり、正当化したりするような機会が与えられたことに感謝しております。

 ここでは、おそらしい戦争の暴力と恐怖の犠牲者全員のことに思いをはせています。数百万の人々が、質問もされず、自分の意見を聞かれることもなく、死ななくてはなりませんでした。私は、自分の発言や行動を書きとめた日記を、逮捕されたときに提出いたしました。もしも、私が本当に厳格であったとすれば、戦時中の私の行動が公になったときに、その厳格さは何よりもまず私自身に向けられねばならなかったと思います。

 自分の罪を隠されたままにしておいて、この世界で、それを説明しないままにしておこうとは思っておりません。私は自分が責任を負うべきであるすべての事件に対する責任を、証言台で負ってきました。また、アドルフ・ヒトラー、彼の運動、彼の帝国の支持者として私に科せされている罪も認めていきました。

 弁護団の言葉に付け加えるものはありません。

 しかし、私の発言を修正しなくてはならない個所が一つあります。証言台で、わが民族がヒトラーの戦争行為によって生じた罪を拭い去るには千年でも十分ではないだろうと申し上げました。しかし、今では、わが民族に科せられた罪は、わが民族と兵士に対する敵国の振る舞い――当法廷は、それについては注意深く立ち入らないようにしていますが――によってだけではなく、とりわけ、東プロイセン、シレジア、ポメラニア、ズデーテン地方での、ドイツ人に対するロシア人、ポーランド人、チェコ人の前代未聞の恐るべき大量犯罪によって、完全に消滅したと考えています。いったい誰が、ドイツ人に対するこれらの犯罪を裁くのでしょうか。

 この最終陳述の終わりにあたって、戦争の恐怖、すでに各地で発生している恐るべき出来事の中から、平和が祝福のうちに到来し、その祝福の一部にわが民族も関与することを希望しておきたいと思います。しかし、私は、神の永遠なる正義の中でわが民族が確実に発展することを希望しておりますし、私が唯一忠実でありますのは、この神の永遠なる正義なのです。

 

<裁判長>:被告ヴィルヘルム・フリック。

<ヴィルヘルム・フリック(被告)>:私は、起訴状に対しては、明晰な良心を持っています。私の全生涯は、わが民族と祖国への奉仕に費やされました。職務を忠実に遂行するにあたって、わが民族と祖国に対して、全力を尽くしてきました。

 国を愛するアメリカ人であれば、他のどの国民であっても、国を愛する市民であれば、自分の国が同じ立場にあったとすれば、私と同じように行動したであろうと確信しております。もしも私が、別様に行動したとすれば、それは、忠誠宣誓を破ることであり、祖国を裏切ることであったからです。

 数十万の忠実なドイツ人公僕や役人が、職務を果たしたという理由だけで、1年以上も収容所に拘留されています。私は、法的道徳的使命を果たし終えるにあたって、私が処罰に値するとしたら、この事実に対してだけであると信じています。長期にわたって国務大臣を務めたものとして、職務と名誉に忠実であった私は、彼らに感謝の念を感じざるを得ません。

 

<裁判長>:被告ユリウス・シュトライヒャー。

<ユリウス・シュトライヒャー(被告)>:裁判官閣下、この裁判の冒頭で、裁判長は、起訴状の意味合いで有罪であるか無罪であるか質問し、私は無罪と答えました。

 今終了した審理と、提出された証拠は、私がそのとき行なった発言の正しさを立証しました。

 次の事実が確認されました。

(1)   大量殺戮は、他の人々の影響なしに、もっぱら、元首アドルフ・ヒトラーの命令によってもとづいてのみ実行されたこと。

(2)   大量殺戮は、ドイツ国民にはまったく知らされず、まったく極秘に、SS全国指導者ヒムラーによって実行されたこと。

 

 検事側は、シュトライヒャーと彼の主宰する週刊誌『突撃兵』の存在なしには、大量殺戮は起こりえなかったと主張してきました。しかし、この主張について、まったく証拠を提示・提出していません。

 1933年の反ユダヤ・ボイコットの日、私はそれを扇動せよと命令されました。1933年のデモは帝国大臣ゲッベルスが命令したものでした。そのいずれにおいても、私は、管区指導者の職務で、ユダヤ人に対する暴力行為を、命じたことも、要求したことも、関与したこともありません。このことは、当法廷で明らかとなりました。

 さらに、シオニストは、ユダヤ人国家の創設をユダヤ人問題の解決手段として要求していましたが、私も、週刊誌『突撃兵』の多くの記事で、このシオニストの要求を支持していました。これも、当法廷で明らかとなりました。

 こうした事実は、私が暴力によるユダヤ人問題の解決を望んでいなかったことを証明しています。

 私やその他の人物が、週刊誌『突撃兵』の記事でユダヤ人の破壊や絶滅にふれていたとしても、それは、ドイツ民族の絶滅を要求するユダヤ人の挑発的な見解に強く対抗したものであったのです。国家元首アドルフ・ヒトラーの遺言によると、彼が命令した大量殺戮は 戦争が不利になってきた結果としての報復と考えられていました。

 ヒトラーのユダヤ人問題への姿勢は私の姿勢とはまったく違ったものでした。このことだけが、国家の指導者のユダヤ人に対する行為を説明できるのです。ヒトラーは、ユダヤ人を罰したがっていました。ユダヤ人には戦争を始めた責任、ドイツの民間人に対する爆撃の責任があると考えていたからです。

 国家元首アドルフ・ヒトラーの個人的な決定にもとづく大量殺戮が、ドイツ国民に対する非人間的な処遇を生み出してしまったことになったのは、大いに遺憾なことです。私は、実行されたしまった大量殺戮に反対していましたが、それは上品なドイツ人がそれに反対していたのと同じやり方でした。

 裁判官閣下。私は、管区指導者という職務においても政論家としても、犯罪をおかしたことはありません。ですから、良心にしたがった判決を期待しております。

 自分自身のためには、何事も要求することはありません。ただ、私の根源であるドイツ民族のための要求があります。裁判官閣下、運命は、どのような判決でも下す権利を皆さんに与えました。どうか、国民全体の額に不名誉な烙印を押す判決を下さないでいただきたいのです。

 

<裁判長>:被告ヴァルター・フンク。

<ヴァルター・フンク(被告):私は、わが国民が非常に困窮しているときに、政治運動に加わりました。この運動の目的は、自由、わが祖国の名誉、真の社会的民族共同体を目指す戦いでした。

 この運動は、合法的に国家の指導権を認めました。私は、ドイツ法の執行にあたる公僕としての職務を果たすことによって、この国家に奉仕しました。そして、戦争の危険があった時期、祖国が存亡の危機にあった戦時中に、この職務を果たさなくてはならないことを痛感していました。

 しかし、戦争にあっては、国家は、その官僚の忠誠心と誠実さにまったく依存しています。

 そして今、ここでおそらしい犯罪が明らかとなり、私の管轄下にある官僚も部分的にそれに関与しています。

 私がそのことを始めて知ったのは、当法廷においてでした。これらの犯罪のことを知らなかったし、知ることもできませんでした。

 私は、ドイツ人全員と同様に、この犯罪的行為を深く恥じております。私は、注意深く良心と記憶を検証してみました。そして、知っていることをすべて、何も隠さずに、率直かつ誠実に当法廷に申し上げました。帝国銀行にあるSSの所有物については、私は、帝国銀行総裁としての公的職務を遂行するという意味でのみ行動しただけです。法律によると、金や外国通貨の受け入れは、帝国銀行の業務の一つでした。ヒムラーの指揮するSS当局がこれらの財産を没収したという事実に、疑問を抱くことはできませんでした。すべての政治制度、国境統制、とくにドイツ帝国と占領地域での外国通貨の捜索は、ヒムラーの指揮下にありましたが、私もヒムラーに騙されて、強制されたのです。

 当法廷が開かれるまで、帝国銀行に搬入された資産には、膨大な量の真珠、貴金属、宝石、金製品、めがねのふち、おそらしいことに、金歯が存在したことを知りませんでしたし、そのような可能性があると疑いもしませんでした。そのようなことは私に報告もされず、私も気づきませんでした。このようなものを見たこともありませんでした。そして、この法廷が開かれるまで、東部地区では、特別行動部隊が強制収容所で、数百万のユダヤ人を殺していたこともまったく知りませんでした。このことについて、一言でも語ってくれた人物はいませんでした。

 この種の絶滅収容所の存在についても、まったく知りませんでした。名前の一つも知りませんでした。強制収容所に足を踏み入れたこともありませんでした。帝国銀行に保管されている金や外国通貨の一部が強制収容所からものであったことを推測はしていましたし、この事実については、尋問当初から率直に申し上げてきました。しかし、当時のドイツ法によれば、全国民がこれらの資産を提供しなくてはならなかったのです。

 これとは別に、SSが搬入した資産の種類や量も知りませんでした。SSは死体を冒涜してこれらの資産を手に入れたとどのようにしたら知ることができたでしょうか。

 もし、私がそのようなおそらしいことを知っていたとすれば、私の帝国銀行は、そのような資産を保管したり、換金しなかったことでしょう。たとえ、私の首がかかっているという危険をおかしたとしても、それを拒んだことでしょう。裁判官閣下、もし、私がそのような犯罪を知っていたとすれば、今日、被告席に座っているようなことはなかったでしょう。それだけは、たしかです。その場合には、私にとっては、この苦痛に満ちた生活、疑惑、醜聞、俗悪な告発に満ちた生活よりも、墓の方が望ましかったことでしょう。

 私の命じた措置によって生命を失った者は、1人もいません。私は、常に、他人の財産を尊重してきました。常に、私の権限の枠内にある限り、困っている人々を助け、彼らの生活に幸福と喜びをもたらすように努めてきました。

 この点で、多くの人々が私に感謝し続けてくれると思います。

 人生には過ちや罪があります。

 私も多くの過ちをおかしました。多くの物事で騙されるに任してきました。率直に認めますが、非常に簡単に騙されましたし、多くの面であまりにも無自覚で、鈍感でした。ここに私の罪があります。しかし、公的な職務を果たすにあたって、私が負うべきであるとされている刑事罰からは、まったく免れていると考えています。この点では、私の良心は、10ヶ月前にこの法廷にはじめて入ったときと同様に、今日でも、まったく明晰であります。

 

<裁判長>:被告ヒャルマール・シャハト。

<ヒャルマール・シャハト(被告):私の正義感は、検事側の最終論告がこの裁判によって明らかとなった証拠をまったく看過してしまったことで、大いに傷つきました。憲章のもとでの私に対する唯一の罪状は、私が戦争を望んだということでした。しかし、圧倒的な証拠が明らかにしているように、私は戦争に強く反対し、抗議、サボタージュ、計略、力を使って、能動的、受動的に、戦争の阻止に努めてきました。

 検事側は私が戦争を支持していたと主張していますが、いったい、どのようにしたら、そのような主張ができるのでしょうか。最初のクーデタの試みは1938年秋のことでした。だとすれば、ロシア検事は、私がヒトラーに背を向けたのは1943年以降のことであると主張していますが、いったい、どのようにしたら、そのような主張ができるのでしょうか。

 さて、ジャクソン検事は、最終論告の中で、これまで法廷ではまったく審議されてこなかった新しい告発を私に突きつけました。外国通貨での身代金と引き換えにドイツからのユダヤ人の釈放を計画したというのです。これも真実ではありません。私は、193811月の反ユダヤ・ポグロムを嫌悪していましたので、ユダヤ人の移住を促進する計画をヒトラーに承認させることに成功しました。私が考えていたのは、没収されたユダヤ人の財産からの15億マルクを国際委員会の管轄下において、ドイツがこの額を、外国通貨で20年の分割で支払う義務を負うというものでした。これは、ジャクソン検事の主張とは正反対の内容です。

 私はこの計画を193812月に、ロンドンで、バアステクト卿、ウィンターソン卿、アメリカ代表ルビー氏と話し合いました。彼ら全員は、この計画に好意的でした。しかし、私はその直後に、ヒトラーによって帝国銀行を更迭され、計画は頓挫してしまいました。もしも、これが実行されていれば、1人のドイツ系ユダヤ人も命を落とすことはなかったでしょう。

 私がヒトラーの政策に反対していることは、国の内外で知られていました。ですから、1940年、アメリカ合衆国代理大使キーク氏は、ベルリンでの職務を離れる前に、私の挨拶状を送ってくれましたし、戦争が終わっても、私は戦争遂行に責任がない人物とみなされるだろうと付け加えてくれました。それについては、ヒュールセ証人がその供述書のなかで、詳しく報告しています(私の資料集37-b)。

 にもかかわらず、検事側は世界中の出版物で、私に、強盗、殺人者、裏切り者という烙印を押しています。私は、人生のたそがれの時期において、生活資金もなく、家もない状態です。そのようなことになったのは、まさにこの告発のためです。しかし、検事側が、その冒頭陳述にあるように、私のことを軽蔑に値する人物、性格破綻者とみなしうると考えているとすれば、それは誤りです。

 たしかに、私は政治的には過ちをおかしました。ですから、政治家の資格があるとは思いません。しかし、信用支援によって労働需要を喚起するという私の経済・金融政策は輝かしい成功を収めました。失業者の数は、700万からゼロになりました。1938年には、国家収入は、帝国銀行債の払い戻しが完全に保証されるほど、上昇しました。ヒトラーがこの払い戻しを拒否したことは、私が予想できない詐欺行為でした。私は政治的過ちをおかしたので、その初期から、ヒトラーの犯罪的本質を理解できませんでした。しかし、非合法な行為、非道徳的な行為で手を汚したことは一度もありません。ゲシュタポのテロリズムにおびえたこともありません。テロリズムは、良心へのうったえのまえでは、効力のないものだからです。宗教が私たちに与えている力の源は、ここにあります。

 にもかかわらず、ジャクソン検事は、私を日和見主義と臆病の罪状で告発するのが適切と考えています。私は、戦争末期にフロッセンビュルク絶滅収容所に、10ヶ月も拘留されており、ヒトラーの殺害命令を免れることができたのは、かろうじて、情け深い運命によるものでした。私は、全力で、できる限りの手段で、言語に絶する苦難を阻止しようとしましたが、結局は、阻止することができませんでした。しかし、それは私の失敗のためではありません。そして、今、この裁判が終わるにあたり、私の魂の奥底は、この言語に絶する苦難によって深く揺り動かされております。

 だからこそ、私は毅然としており、世界は、暴力の力によってではなく、精神の力と道徳的な行動をつうじてのみ、再び立ち上がるであろうという私の信念は揺るぎないものなのです。

 

<裁判長>:被告カール・デーニッツ。

<カール・デーニッツ(被告):三つのことを申し述べたいと思います。

 第一に、良心の命ずるままに、ドイツの潜水艦戦争の合法性を裁いていただきたいということです。私は、この戦争形式が正当であると考えており、良心にしたがって行動してきました。これからも、何回も同じことをするでしょう。私の命令を実行した部下は、私を完全に信頼し、この命令の必要性と合法性をまったく疑わずに、行動しました。彼らは、名誉ある戦いのために、最後までみずからを捧げてきました。この戦いへの彼らの信念を、その後の裁判で裁くことはできないと思います。

 第二に、多くの人々が、被告たちのあいだには共同謀議があったと語りました。私はこのいいがかりは政治的ドグマであると考えます。このようなことは証明できませんし、信じるか信じないかです。しかし、ドイツ国民の大半は、このような共同謀議が自分たちの災難の原因であったとは考えないでしょう。政治家や法律家にそれについて議論させてください。ドイツ国民が過去に対してどのような姿勢をとるのか、政治原則としての指導者原理は間違っているというように、将来認識していくのか、ということに関して、この裁判の教訓は非常に重要です。政治家や法律家が、ドイツ国民をして、裁判からこのような教訓を引き出させるのは難しいでしょう。世界中の軍隊の軍事指導権においては、指導者原理は最良の方法であることが証明されています。この経験を踏まえると、政治的指導権においても、それが正しいと考えています。ドイツ国民が1932年に直面していたような絶望的状態にある民族にあっては、とくにです。新政府は大きな成功を収め、全国民が幸福感を味わいましたが、そのようなことは以前にはなかったことです。このことは、指導者原理の正しさを証明しています。しかし、ドイツ国民の大半の理想主義、高潔さ、献身にもかかわらず、結局は、指導者原理がもたらしたものは、ドイツ国民の災難でしかなかったとすれば、この原理の力を、この力の誘惑に負けることなく、善のために利用することができないのが人間の本性であるがゆえに、この原理は間違っているに違いないのでしょう。

 第三に、私の生涯は、職務に、したがって、ドイツ国民への奉仕に捧げられてきました。私は、ドイツ海軍の最後の総司令官として、最後の国家元首として、ドイツ国民に対して、私が行なったこと行なわなかったことすべてに対して、責任を負うものであります。

 

<裁判長>:被告エーリヒ・レーダー。

<エーリヒ・レーダー(被告)>:証拠の審理がすべて終了しました。この裁判は、ドイツ民族にとって、有益な結果をもたらしましたが、検事側にとっては予期せぬ結果をもたらしました。申し分のない証言が、ドイツ国民――私も含めて同じような状況にいたすべての人々――は、彼らが実際には関与していなかったとしても、数百万のユダヤ人その他の殺戮を知っていたという重大な罪をおかしていたことを明らかにしました。検事側は、初期の尋問によって以前から真実を知っていました。にもかかわらず、裁判の審理や反対尋問の中で、道徳の説教者のふりをして、告発を繰り返し、被告たちを糾弾しました。しかし、国民全体の名誉を傷つけようとする検事側の企ては、失敗しました。

 この裁判の第二の結果は、ドイツ海軍の清潔さと高潔さが、証拠にもとづいて、立証されたことです。ドイツ海軍は、清潔な盾と汚れていない旗を持って、当法廷と全世界の前に立っていたのです。

 ショークロス氏は最終論告の中で、潜水艦戦争を虐殺行為と同じレベルに置こうとしましたが、私たちは、この告発を、明晰な良心を持って、断固として、拒絶します。そのような告発には根拠のないことが立証されたからです。ショークロス氏は、70頁と71頁で、ドイツ海軍には「海戦法規を守ろうとする意図はまったくなかった」と述べていますが、その主張には、まったく根拠がありませんでした。さらに、海軍作戦本部とその長官には「国際法への軽蔑の念」(ドゥボストの最終論告)などまったくなかったことも立証されました。それどころか、敵と同様に、近代の海戦をなんとか国際法と人道の必要に合致させようと、最初から最後まで真剣に努力していたことが明らかになりました。

 検事側は、ドイツ海軍と私を何回も中傷しようとしました。それは、二番目の論告からも明らかです。それは、一番目の論告とは、侮辱的な発言の数が多くなり、その程度もひどくなっている点で異なっています。このようなことは遺憾です。そして、この事実は、検事側自身が、事実にもとづく告発の根拠が薄いのを自覚していたことを明らかにしています。連合国の海軍は、何年間も私たちと困難で、名誉ある戦いを繰り広げてきました。イギリスとアメリカの検事側は、その私たちドイツ海軍を道徳的に中傷して、質の悪い敵であったと呼んでいるのですが、そうすることで、自分たちの海軍の名誉も汚しているのです。私は、連合国の海軍提督たちが私のことを理解し、自分たちが戦っていたのは犯罪者ではないことを知っていたと確信しています。

 検事側はどうしてこのような姿勢をとっているのでしょうか、おそらく、検事側は、真の兵士的な行動と軍事的指揮権の原則をほとんど理解できず、だから、兵士の名誉を裁く資格など持ち合わせていないのではないでしょうか。そのようにしか、説明できません。

 まとめましょう。私は兵士としての職務を果たしました。それこそが、ドイツ国民と祖国に奉仕する最良の方法であると確信していたからです。ドイツ国民と祖国のために、私は生活してきており、いつでも、死ぬ用意があるからです。もし、私が罪を犯しているとすれば、それは、純粋に軍事的な立場にあったにもかかわらず、兵士としてではなく、政治家として行動してしまったかもしれない点にあるのでしょう。そのような振る舞いは、私の軍歴とドイツ国防軍の伝統とは正反対のものでした。しかし、そうであっても、それは、ドイツ国民に対する道徳的な罪であって、私に戦争犯罪人の烙印を押すようなものではありえません。刑事裁判所での罪ではなく、神の前の罪なのです。

 

<裁判長>:被告バルドゥル・フォン・シーラッハ。

<バルドゥル・フォン・シーラッハ(被告)524日に、私は神と自分の良心にこたえるかたちで、陳述を行ないましたが、今日、当法廷が終わるにあたっても、それは、心からの誠実な確信にもとづいているがゆえに、その中身はまったく変わることがありません。

 イギリス検事は、最終論告の中で、「シーラッハは、数百万のドイツ青少年を堕落させて、今日のような、殺人と征服政策の盲目的な道具とした」と述べています。

 この告発が正当なものであれば、ここで自己弁護することは何もありません。しかし、それは正当なものではなく、虚偽です。当法廷での証拠を念頭に置いて、それを誠実に検証する人であれば、私のことを「その教育活動によって、青少年を堕落させ、その魂に毒をもった」とは決して告発できないでしょう。私が青少年に課した原則と目的は、私の指導権のもとで、わが国の青少年が自分たちの力で作り上げた共同体の原則と目的でもありますが、次のようなものです。すなわち、祖国に対する自己犠牲的な愛、社会的俗物根性と階級的憎悪の克服、計画的な健康管理、ハイキング・ゲーム・スポーツによる肉体の訓練、職業教育の促進、そして、とりわけ、他の国々の青少年との同志的な相互理解でした。私は自分自身が若かったときから、これらの原則と目標を民族的なドイツ教育の理想として掲げていました。党や国家がこの原則と目的を私に指示したのではありません。もしも、ヒトラーがここにいたとしても、私の弁護にとってはまったく重要ではないでしょう。私は、ドイツ青年運動の指導者として、ヒトラーの権威にうったえていたのではなく、私自身の権威にうったえていたからです。

 私は、この教育原則を、演説、著作、各種の指令のなかで何千回も明らかにしてきましたし、ドイツ青年運動の指導者として、それに常に忠実でした。しかし、この原則は、自国民と青少年に対する職務を自覚している青年運動の指導者の原則でもあります。わが国の青少年の業績とその道徳的姿勢が私の正しさを証明していますし、青少年が堕落していないこと、私によって堕落させられたのではないことを証明しています。ドイツの青少年は、勤勉で、高潔で、誠実で、理想主義的でしたし、今日もそうです。平時にあっては、高い教育に向かって真摯に努力し、戦時にあっては、わが民族、ドイツというわが祖国に対する義務を全力で果たしました。

 戦勝4カ国による軍事法廷で発言できるのは最後でしょうが、わがドイツ青少年のために、良心にしたがって、これだけは発言しておきたいと思います。ヒトラー体制の暴虐と堕落が当法廷で明らかにされましたが、ドイツの青少年はそのことに対してはまったく無罪です。ドイツの青少年はこの戦争を望みませんでしたし、平時にあっても、戦時にあっても、いかなる犯罪にも関与したことはありません。私は、長年にわたって、ドイツ青年運動の指導者でしたので、わが国の若い世代の発展、意見、行動をよく知っています。私以上に知っている人はいないはずです。私は、この青年たちのあいだに友人を持ち、彼らのなかにいることがいつも幸せであり、いつも彼らのことを誇りにしておりました。

 ドイツ青年運動には数百万の青年が参加していました。しかし、私がこの運動の指導者であったとき、青年たちが、今日では恥ずべきこととみなさなくてはならない行為に関与したことは、原則的に、かつ例外なく、まったくありませんでした。ドイツの青年は、ドイツ人が犯したとされる数多くの虐殺行為のことを知りませんでした。間違ったことを知りませんでしたし、間違ったことを望んだこともありません。戦後の最悪の時期においてさえも、ドイツ青少年組織とその指導者を犯罪者として告発することができるものは誰もいないという事実を看過できないし、看過すべきではありません。青年運動の中の自己犠牲的な同志的連帯のおかげで、ドイツの青少年は、国民のなかのもっとも貧しい子供たちを最大限に愛し、祖国に忠実であり、スポーツを楽しみ、他民族の青少年たちと誠実に理解しあってきました。これこそが、わが国の青年運動の目標であり、私がドイツ青年運動の指導者として最初から最後まで掲げた訓練目標でした。この青年運動は、それを待ち受けた過酷な運命には値しません。

 私個人の運命などは二義的な問題ですが、青年はわが民族の希望なのです。そして、この最後の瞬間に、自分の意志を述べるとすれば、それは次のようなものでしょう。

 ドイツの青年は、今日世界各地で歪曲された姿で伝えられていますが、それは、歴史学的な研究調査にはもとづいていません。なにとぞ、裁判官閣下が、この歪曲されたドイツ青年像を取り除いていただけないでしょうか。検事側はグレゴール・ツィエマーの抽象的な内容の著作を利用していますが、その中身は、すべてのもの、すなわち、ドイツ人からドイツ青少年に対して自分の憎悪を広げた醜悪な人物の著作に他ならないと、判決の中に記していただけないでしょうか。また、皆さんの国々の青年組織とドイツの青年組織との交流は1939年に中断されてしまいましたが、それは若い世代の過ちのためではありません。どうか、それを再開するのを助けていただけないでしょうか。

 ベヴェリッジ卿は、ドイツの青年に罪を問うべきではないと、洞察力を持って、情熱的に話されましたが、わが国の青年は、心から感謝して、この言葉を傾聴しました。ドイツの青年は、廃墟と残骸を越えて伸ばされた手を喜んでつかむことでしょう。

 裁判官閣下、皆さんの判決を通じて、若い世代のあいだに、相互尊重の雰囲気、憎悪と復讐のない雰囲気を作りだすのに貢献してください。

 これが、私の最後の要請、ドイツの青少年のための心からの要請です。

 

<裁判長>:休廷します。

14時まで休廷]

<裁判長>:本日、当法廷は、被告ヘスの状態をさらに検査するようにとのザイドル博士の申請を受け取りました。820日に通告しましたように、当法廷は被告ヘスについてのギルバート大尉の817日付の報告書を受け取り、考慮しました。そして、これ以上の報告書は不必要であると裁定しました。当法廷はこのような見解を持っていますが、医学報告書、本日のヘス被告の発言も含む、ザイドル博士の申請の中にある項目すべてを、もちろん配慮するつもりです。

 被告…

<オットー・ネルテ博士(被告カイテルの弁護人)>:裁判長、私たちは、当法廷が現時点を、これまで正式に提出されてこなかった資料を提出するのにふさわしい時期とみなしていると知らされました。1946822日の審理では、…

<裁判長>:分かりました。手元にある尋問書のことですね。

<ネルテ博士>:あるいは、認められた供述書もです。822日の審理では、翻訳が出来次第、被告カイテルとライネッケ将軍の二つの供述書を提出する許可をいただきました。この翻訳は出来上がりました。検事側は異議申し立てをせず、822日の審理で、マックスウェル・ファイフ卿を通じて賛同を表明してくれました。この検事側と協議し、その同意を得たうえで、二つの資料K-26K-27を提出いたしますが、読み上げることはしません。二つの資料を証拠として認めるように求めます。

<裁判長>:分かりました。考慮されるでしょう。

<セルヴァテイゥス博士>:裁判長、政治指導者の弁護のために認められたもう一つの資料を提出したいと思います。それは、ザッケルの供述書、PL-69です。また、党員数の見積もりについての『党の統計学』と題する本からの抜粋もあります。817日の書簡で法廷に提出しました。この件についてイギリス検事と話しました。この本からのこの頁の提出も認めるように求めます。

<クブショク博士>:パーペンのケースについて、オランダの大臣ヴィッセルに送った尋問書に対する私の回答があります。パーペンが1939年に平和のために尽力したことに関してであり、それについて、証人が確証しています。この回答を証拠107として提出したいと思います。

<裁判長>:分かりました、クブショク博士。

<グスタフ・シュタインバウワー博士(被告ザイス・インクヴァルトの弁護人)>:裁判長、証拠115として、ハンブルクの港湾建設技師アヴレト・ボレ博士の宣誓尋問と回答、および反対尋問を提出したいと思います。ドイツ語と英訳で提出いたします。ザイス・インクヴァルトが19449月の破局的な飢饉に責任があるという告発に関して、英訳の3頁にある一つのセンテンスだけを引用します。

『したがって、実際的に言えば、ストライキが始まるとすぐに、軍部がオランダの国内船舶交通をすべて掌握したので、民間行政当局、交通省は影響を及ぼすことができなかった。』

 また、昨日認められた被告ザイス・インクヴァルトの供述を証拠116として提出し、その中身すべてを証拠として採用するように求めます。

 一箇所だけ訂正しておきたいと思います。供述書によると、私たちは、資料3640-PS3645-PSをザイス・インクヴァルトに見せることができませんでした。しかし、フランス代表が返してくれたので、写真コピーのかたちで手元にあります。フランス検事は、法廷が望むように、これらの資料をオリジナルなかたちで、提出できると思います。

<ハンス・フレクスナー博士(被告シュペーアの弁護人)>:裁判長、今年の春に許可された尋問書の中から、三通以上の回答を得ましたので、シュペーアの証拠474849として提出したいと思います。証人フォン・ポーザー、マルザヒャー、バウムバッハの尋問書です。

 

<裁判長>:被告ザウケル。

<フリッツ・ザウケル(被告)>:裁判官閣下、私は、当法廷で明らかにされた虐殺行為に心の奥底から揺り動かされております。すべての民族の犠牲者の前で、そして運命を共有しなくてはならないわが民族の不幸と苦難の前で、頭を下げます。

 私の社会的出自は、私を非難する同志とはまったく異なっています。私は、その本性においても思考方法においても、水兵であり、労働者です。

 第一次世界大戦が終わると、私の人生の進路は、私個人の悲しみの経験と、生存のために闘っているわが民族大衆の要求によって定められました。国内の紛争が私を政治に追いやりました。社会主義者になるほかありませんでした。しかし、共産党宣言を認めることはできませんでした。反宗教的、非宗教的となることはできなかったのです。政治に転じる前には、自分自身と厳しく闘っていました。

 そして最後に、私は、労働だけが唯一の財産である人々に対する社会主義的な愛と正義に、同時に、わが民族の運命に献身したのです。これこそが、社会主義的な思考方法と真の祖国愛を結びつける唯一の道だったのです。この信念だけが私の人生と行動を決定しました。

 ここには人道の法律と矛盾するものはまったくなかったと思います。私は、指導者原理と忠実な部下が専横的な独裁体制、専制体制を生み出したとは考えていません。私の誤りは、ヒトラーに対する過大な思い込み、信頼、および崇拝の念であったのでしょう。彼のことを、ドイツ民族の生存権のチャンピオン、労働者、女性、子どもに親切な人物、ドイツの国益を豊かにしてくれる人物とみなしていました。

 この法廷で描かれたヒトラー像を、私は認識できませんでした。おそらく、私が孤独であり、想像と仕事の世界に閉じこもっていたことが、私の欠陥だったのでしょう。

 私は、ドイツ帝国の高官たちとほとんど社会的に結びついていませんでした。短い時間ではありましたが、自由時間を家族に捧げました。妻は、社会民主党員であった労働者の娘でしたが、私はそのことを喜んでいました。

 最後の申し立てをするにあたって、私は、対外的な政治事件と軍事行動の勃発に驚愕したと述べておきたいと思います。侵略戦争を始めるという狂気の計画の作成を手伝ったことなど、ドイツの労働者として、ドイツの労働者のためにも、まったくありませんでした。

 私が民族社会主義者となったのは、階級闘争、資産の収容、内戦を非難し、ヒトラーが再建計画で平和を望み、他国との相互理解を求めていると信じていたためでした。私は労働者であったので、やりすぎ、専横的な振る舞い、あらゆる蛮行を阻止するために、自分の分野で尽力しました。ヒムラーやゲッベルスに反対して、雇用に関する宣言やその他の布告を通そうとしました。それは、すべての部局に、外国人労働者を人道的かつ適切に扱うことを義務付けたものでした。もし、おそらしい秘密や犯罪を知っていたとすれば、抗議したに違いありませんし、知っていたとすれば、自分の家族や10人の無垢な子どもたちに顔向けできなかったことでしょう。

 私は、平和に対する共同謀議、人道に対する共同謀議に関与したこともなく、殺人や虐待を許したこともありません。戦時中は、職務を遂行しなくてはなりませんでした。軍事的な危機に陥っていた1942年に労働力利用長官に任命されましたが、そのことは非常な驚きでした。私は、既存の労働法、総統命令、国家防衛閣僚会議布告に拘束されていました。

 この任務がなぜ私に与えられたのかは分かりません。自分の管区では、労働者、農民、手職人の絶大な信頼を集めていました。ヒトラーが権力奪取した1933年以前でさえ、私は、自由な議会選挙で、多数を獲得して、当地の首長に選ばれています。

 神の摂理が、組織化と実際の作業能力、ならびに、情熱的に任務を遂行する能力をつちってくれたのでしょう。これが、私に任務が与えられた理由だったのでしょう。ベルリンの土地は、私にはまったく空々しいものでした。私は、労働者であるがゆえに、外国人を奴隷にすることなど考えたこともありません。私は、人々を経済的に管理せよと要請しましたが、それは、非人道的な搾取ではなく、経済的で、合理的で、適切な労働配置を意味しているのです。

 私は、国際法、戦争法規、人道の法に反する罪をおかそうと考えたことはありません。一瞬たりとも、自分の任務の合法性と容認性を疑ったことはありません。ドイツ政府が国際法を破ることなど問題外であると考えていたからです。

 しかしながら、裁判閣下、にもかかわらず。ドイツの労働法を占領地域には適用できないとおっしゃるのでしたら、高い地位のフランス人、ベルギー人、ポーランド人、そしてロシア人も、自分たちが労働によってドイツを支援しているのは、共産主義の脅威からヨーロッパを防衛するため、戦時中の失業と大量の苦難を防ぐためであったと私に語ってくれた、と話し申し上げておきたいと思います。

 しかし、私は最大限の情熱を持って、自分の任務を遂行しました。1942-1943年冬の破局の時期には、外国労働者の組織や彼らへの配慮が危機的な状況にありました。私は、この部局を担当すると同時に、全力で、すべての手段を使って、この危機的な状況を取り除き、すべての欠陥と職権乱用に対処しようとしました。

 しかし、私についての資料が証明したように、私たちは、外国人労働者を私が要求したように、適切に処遇することによって、ドイツの大義を支持させるようにできたと考えています。おそらく、ヒムラーとゲッベルスの目には、私はどうしようもない夢想家とうつったことでしょう。彼らは私の敵でした。しかし、私は、外国人労働者が、ドイツ人労働者と同じ権利と待遇を持てるように誠実に努めました。そのことについても、弁護側の多くの資料が立証し、当法廷での証人の発言が、確証してきました。

 もしも、私の仕事が未完成であるとすれば、そのことを心から、苦痛に満ちて、嘆いているのは、ほかならぬ、私です。弁護側が立証してくれましたように、それは私の力不足によるものでした。

 私と、文民統制下にある労働利用局は、占領地域での物事に対しては、まったく影響力を行使できませんでした。それについては、証拠が立証しています。しかし、労働力を必要とするドイツの企業や部局は、私の提供する労働力が戦争遂行には不足している、戦争経済と食糧経済が危機で脅かされれば、私の責任である、と不平を言ってきました。私は、このような責任と心配で心が一杯でしたので、そのほかの事態には配慮が行き届きませんでした。これについては、悔やんでいます。

 私は、自分が出した布告と私の従業員に対しては責任を負っています。当法廷に提出された中央計画局の記録を見たことがありません。もし見ていれば、虚偽の記載、不明確な記載を訂正したことでしょう。20万人の自発的労働者だけというような不可能な数字のある個所などです。第三者が不正確に取り上げたが、実際には実行されなかった多くの発言がありますが、そのことにもあてはまります。

 私は労働者ですし、外国の船で務めたこともあります。ですから、ドイツにいた外国人労働者に感謝しております。彼らは、私たちを良く助けてくれて、良く働いてくれたからです。これこそが、全体として、彼らが丁重かつ人道的に扱われたという事実を証明しています。彼らのもとを訪問したこともたびたびありました。私も労働者でしたので、1943年と1944年のクリスマスには、外国人労働者と一緒にすごして、彼らへの私の姿勢を見せました。

 私自身の子どもも、同じ労働条件で外国人労働者のあいだで働きました。私が、ドイツ人労働者が、ドイツ国民がこれを奴隷制度と考えることができたでしょうか。緊急事態がこれを必要としていたのです。ドイツ国民とドイツ人労働者は、自分たちの周囲に奴隷制に匹敵するような状況あることには耐えられないでしょう。

 私の弁護人は、私のケースに関して、非常に客観的に、まったく真実を提示してくれました。彼に対しては、心から感謝したいと思います。彼は、厳格かつ正確に私のケースを調査してくれました。私の意図と良心は高潔です。

 戦争による不足と必要、戦争がうみだしたおそらしい状況は、私の心を深く揺り動かしました。どのような運命も受け入れる用意があります。戦争で殺された私の息子と同様に、神の摂理が私にとっておいてくれたものです。

 私が労働力利用長官として雇った管区指導者には、ドイツ人労働者、外国人労働者を適切に扱い、配慮するという任務だけが与えられていました。

 神よ、私が何よりも愛するわが国民を守りたまえ、全生涯と努力をささげたドイツ人労働者の労働を祝福したまえ、世界に平和を与えたまえ。

 

<裁判長>:被告アルフレード・ヨードル。

<アルフレード・ヨードル(被告)>:裁判長、後世の歴史家は、軍司令官とその副官についての公平で客観的な判決にいたるであろうというのが、私のゆるぎない確信であります。というのは、彼ら、およびドイツ国防軍全体は、解決しがたい任務に直面していたからです。すなわち、彼らは自分たちが望んでもいない戦争を、自分たちを信用しておらず、自分たちが限定的にしか信頼していない最高司令官のもとで、遂行しなくてはならなかったのです。この最高司令官のやり方は、彼らの統率方法や伝統的に証明されている見解とは矛盾していました。彼らは、兵力や警察力を完全な指揮下においてはいませんでした。そして、情報機関の一部は敵のために活動していたのです。そして、こうしたことが、この戦争がわが愛する祖国の生死を決するであろうことを十分に理解していた中で、生じたのです。彼らは、地獄の力に奉仕したのではなく、犯罪者に奉仕したのでもなく、自分たちの民族と祖国に奉仕したのです。

 私自身に関して言えば、到達目標以上に到達しようと努力しないものはいないと考えております。それこそが、いつも、私の行動の指導原理でした。ですから、裁判官閣下、皆さんがどのような判決を下そうとも、私は、数ヶ月前に、入廷したときと同じように、頭を毅然と上げて、退廷するつもりです。

 しかし、私のことをドイツ国防軍の名誉ある伝統に対する裏切り者と呼ぶ者があれば、あるいは、私が個人的・利己的理由から自分のポストにしがみついていたと主張する者があれば、私は、この人物のことを真実に対する裏切り者と呼ぶでしょう。この戦争では、数十万の女性や子供が、空襲で絶滅され、低空攻撃で殺されました。パルチザンたちは、たとえ、国際法の観点からすれば疑問であっても、考えられる限りの暴力的な手段、過酷な手段を使いました。しかし、それらは、道徳的にも、良心から見ても、犯罪とはなっていません。

 自分の民族と祖国に対する義務は何よりも優先すると考えていますし、そのように断言します。この義務の遂行は、私にとっては名誉であり、最高の法律でした。

 願わくば、この義務が、幸せな将来において、もっと高潔なもの、人道性への義務に取って代わることを。

 

<裁判長>:被告フランツ・フォン・パーペン。

<フランツ・フォン・パーペン(被告):裁判長、私が1919年に帰国したとき、国民は、帝政崩壊後の新しい存在様式を探しておりましたが、さまざまな政党による政治闘争に倦み疲れていました。わが祖国が惨めな状態に落ち込んでいたとき、私は、責任あるドイツ人として、傍観者でいることはできないと考えていました。

 私にとって明らかであったのは、祖国の再生は、平和と相互理解によってのみ可能であるということでした。その理解とは、政治的な形態だけに関係するのではなく、もっとも緊急な社会問題の解決とかかわっており、これこそが、国内平和をもたらす第一条件でした。

 急進的なイデオロギーの攻撃に対抗するのが必要でした。そして、キリスト教を新しい政治秩序の出発点にしなくてはならないと確信していました。ヨーロッパの平和の維持は、この相互理解に依存せざるを得ないでしょう。

 私の生涯の最良の時期は、共同体、議会、プロイセン国家、ドイツ帝国において、この問題に捧げられていました。この事実を知っている者ならば、私が1932年に高いポストを求めようとしてはいなかったことを知っているでしょう。祖国のためのヒンデンブルクの緊急のうったえは、私にとっては命令でした。そして、1933年の緊急事態にあっては、多くのドイツ人と同様に、私は、高いポストを引き受けることで協力することを決心したのです。そのようにしたのは、それが義務であると考えていたからであり、民族社会主義を責任ある方向に転換させることができると信じていたためであり、キリスト教的な原理を維持することが、イデオロギー的政治的急進主義に対抗する最良の方策となり、国内の平和と対外的な発展を保障するであろうと期待していたためです。

 この目標は達成されませんでした。悪の力のほうが、善の力よりも強く、ドイツを破局に追い込んでしまいました。このことは、不信心に対する‘信仰の旗を掲げつづけた者を非難する理由となるのでしょうか。ジャクソン検事は、私のことを、神を恐れぬ政府の偽善的な代理人と決めつけましたが、その口実となるのでしょうか。あるいは、ショークロス卿は、「彼は天国で奉仕するよりも、地獄で支配することを選択した」とあざけり、中傷しましたが、このことは、そのような権利を彼に与えているのでしょうか。

 検事団の皆さん、ここで裁きを下すのは、あなた方ではなく、別の人々です。しかし、このようにお尋ねしたいと思います。今日、世界を再建するにあたって、超越的な価値を擁護するという問題は、かつてないほど、肝要なテーマではないでしょうか。

 私は自分の責任には、誠実に対処するつもりです。祖国と民族への愛が、私の行動すべての規範でした。私は発言しなくてはならないときにはいつでも、ためらうことなく発言しました。内政の分野では、希望を打ち砕かれて、ひどく幻滅したときもあります。外交分野での優位な立場を利用して、平和を維持しようと努めました。このようなときに、私が奉仕したのは、ナチス体制にではなく、祖国に対してでした。

 検事側は、私の罪を探して、それを発見したと述べてきました。しかし、自分の良心に誠実に照らし合わせても、そのような罪があるとは考えていません。しかし、罪や失敗のない人物などどこにいるのでしょうか。歴史的な観点から眺めると、この罪は、1932122日の事件にあるかもしれません。その日、私は、大統領を説得して、大統領が前夜に行なった決定を、憲法違反の恐れに抗して、シュライヒャー将軍の内乱の脅迫に抗しても、くつがえそうとはしなかったのです。

 検事側は、誠実な意図をもって協力を申し出た人々を非難したがっているのでしょうか。ドイツ国民は戦争を望んでいたので、1933年にヒトラーを選んだと主張しているのでしょうか。ドイツ国民の圧倒的大多数が精神的・物質的犠牲を払ったのは、この戦争の戦場で自分の息子たちを犠牲にしたのは、たんに、ヒトラーの空想的な犯罪目的のためであったと、本気で主張しているのでしょうか。

 当法廷は、まだこの破局から時間的に十分に離れていないので、歴史的な諸事件の因果関係を、その真実の関連性の中で把握することができません。当法廷は、そのような状態のままで、裁きを下すという非常に困難な課題に直面しています。

 当法廷が、この歴史的真実の存在を把握することができれば、この法廷の歴史的な意味も存在することでしょう。そして、そのようになれば、ドイツ国民は、ドイツ帝国の崩壊にもかかわらず、その過ちを悟るだけではなく、未来の仕事に向けた力も発見することでしょう。

 

<裁判長>:被告アルトゥル・ザイス・インクヴァルト

<アルトゥル・ザイス・インクヴァルト(被告)>:裁判長、この最後の発言の中で、私は、自分の行動の個人的な動機と考え方を説明することによって、ここで扱われてきた諸事件を明確にしておきたいと思います。

 オーストリア問題についてはほとんどお話申し上げることはありません。「合併」に関しては、のちの事態は別として、私はもっぱらドイツの国内問題であったと考えています。オーストリア人にとって、「合併」はそれ自体が目標であり、侵略戦争を準備する段階ではありませんでした。「合併」という理念は、目標自体が非常に重要なものでした。ドイツ民族のぬきんでた目標だったのです。総統は、1938315日、ウィーンの王宮で、「ドイツ民族に対して、私は自分の人生の最大の成功を報告する」と演説しましたが、私はこの言葉を信じていました。この言葉は真実でした。1938311日夕方8時、私たち以外の政治的権威、国家的権威が完全に崩壊したのち、私はベルリンからの指示に従いました。秩序ある選挙を実行することに対する不当な反対があれば、実際的にも心理的にも、過激な行動への扉を開いてしまうというのがその理由でした。私は、自分の計画が実行できなくなってしまったのちに、これらの手段に反対する権利があるのかどうか自問しました。しかし、この手順が正当化されていたので、このような状況の下で可能な支援を申し出ることが義務であると感じました。この根本的な革命、とくに312日の夜の革命が、ごく穏やかに、血を流すことなく進行したのは、私の助力によると確信しています。もっとも、強い憎悪の感情が、オーストリアの民族社会主義者の心の中に封じ込められましたが。

 私は、ドイツの国政がどのようなものであろうとも、すべてのドイツ民族の統一を支持していました。検事側は、「合併」以降の資料を使って、私の併合と侵略計画を導き出そうとしています。1938101日以降のドナウ地域とチェコスロヴァキアに関する資料、ミュンヘン協定以降の資料、193991日の開戦以降のヴィスワ地域に関する資料です。ここでの発言を認めますし、その正しさも確証されています。ドナウ地域がオーストリア・ハンガリー帝国に吸収されて以来、その発展はすべてに対して役に立ち、ドイツ的な要素は帝国主義的な活動ではなく、文化と産業を促進・奨励してきました。民族主義的な原理が成功を収めて、この地域が分解してしまってから、平和が脅かされるようになりました。私は、このようなことを配慮して、共通の生活空間を作り直すことを考えました。私は公に声明したのですが、この共通の生活空間こそが、すべての民族、すなわち、ドイツ人、チェコ人、スロヴァキア人、ハンガリー人、ルーマニア人に対して、社会的秩序というもっとも必要なものを与え、それによって、すべての人々の生活が生きるに値するものとなるはずでした。また、このことを念頭においてチェコスロヴァキア問題も考え、モラヴィアでの諸言語の調整を呼び起こしました。これについては、自分で証言しております。

 もし私が、193991日以降に、ヴィスワ地域をドイツの運命共同体であると話しているとすれば、それは、私が将来の危険を防ごうとしていたためでした。その危険は、開戦後に明らかとなり、今では、ドイツ人すべてにおそらしい現実となってしまいました。このような発言は、侵略戦争遂行の意図を証明するものではありません。それを言うなら、ドイツの東部地区に関するテヘラン会議の決定の方が侵略的です。

 戦争が始まってからは、私は戦争がドイツ民族にとって生死をかけた戦いとなることを認識しました。無条件降伏要求に対して、私ができたことは、無条件の「否」でしたし、わが祖国に対する無条件の奉仕であったのです。私は、「勇気ある民族を打ち砕くことはできるが、屈服させることはできない」というラーテナウの言葉を信じています。

 オランダに関しては、私が政治目的を持った行政組織に関与したという告発という点に関してお話したいと思います。オランダでは、占領時代に、反ドイツ的な思想を持っていたとしても、敵対的な行動に関与しない限り、政治的忠誠を要求されたり、自由を制限されたり、財産を没収されたりする人はいませんでした。

 私は、ユダヤ人の再移住に関しては、人道的、法的に、真剣な危惧を抱いていました。これについてはすでに説明しました。今日、申し上げなくてはならないことは、この大規模で恒常的な再定住を基本的に正当化する理由が登場してきていることです。何世紀にもわたって故郷に住みついいていた1000万以上のドイツ人に対してこのような再定住が行なわれているからです。

 1944年中ごろ以降、サボタージュ分子やテロリストは、その活動が立証された場合には、総統の直接命令にもとづいて、警察によって射殺されました。この時期、私が耳にしたのは、このような意味での射殺であり、「人質の射殺」ではありませんでした。占領時代に命を落としたオランダ人愛国者は、今日では英雄とみなされています。これは正しいでしょう。しかし、彼らをもっぱら犯罪の犠牲者としてしまって、占領軍が適切な行動をとっている場合にも、彼らの行動が危険なものではなかったとしてしまうとすれば、彼らの英雄的行動の意味をおとしめてしまうことになるのではないでしょうか。彼らは、レジスタンス運動と積極的につながりを持ち、自発的にそれに参加していたのです。ですから、前線の兵士と同じ立場でした。危険な地域で活動している人物が撃たれたのです。

 オランダ国民の大多数は、やはり生存のために戦っていたわが国民に敵対していました。そのような状況の中で、私がオランダ人の友人となることができたでしょうか。遺憾なことに、私はオランダに友人としてやってきたのではありません。しかし、ソ連検事が主張しているように、絞首刑の執行人でも、自発的な略奪者でもありませんでした。私が統治している時期、すなわち、1944年中ごろまでのオランダ国民の生活条件は、占領されてもおらず、封鎖されてもいなかった第一次大戦当時よりも良好でした。これは、結婚・出産統計、死亡率・疾病率によって証明されています。これは、私の施策、例えば、健康保険、結婚した夫婦と子どもへの補助金、社会的地位にしたがった累進課税などのおかげです。このことについては誇りとしています。最後に、私は、私に出されていたオランダ破壊命令を実行せず、オランダのレジスタンスが無意味となったときに、自分の発意で、防衛目的のための占領を終わらせました。

 オーストリアについてさらに、二つのことを申しあげたいと思います。

 もしも、オーストリアのドイツ人が、ドイツ帝国のドイツ人との共通の運命が内向きにも外向きにも現実のものとなることを望んでいるとすれば、いかなる力をもってしても、この意志に反対するべきではないでしょうし、非ドイツ人勢力がこの決定に口を挟むべきではありません。そうでなければ、ドイツ民族すべてが、それ以外の政治的計画をまったく考慮せずに、「合併」に向かってだけ、急進的に突き進んでしまうでしょう。

 第二に、戦時における、国際法の条項の有効性の問題です。国益の観点からすれば、ドイツは戦争をまったく望んでいませんでした。ドイツは、武器を持つことを強制されないように注意さえもしていました。ドイツ国民以外の国民も戦争を望んではいませんでしたが、諸国民が戦争を拒否しなければ、その可能性がまったくなくなるわけではありません。ですから、将来の戦争をハーグ陸戦協定その他の国際協定の枠組みの中にとどめておくことができるという印象を作り出して、将来の戦争を過小評価したり、諸国民の防衛力を削減したりすることは誤りです。

 ここで、ヒトラーに対する私の姿勢を説明しておきたいと思います。彼はすべてを自分自身の尺度に合わせて考察していたがゆえに、ドイツ国民のための決定的な事業、ヨーロッパ自身のための決定的な事業をなしとげることができなかったのでしょうか。それとも、彼は、冷厳な事実に抗して、想像を絶する行為をおかしてまで、戦い、そして失敗した人物なのでしょうか。私にとって、彼は、ドイツの歴史の中で、大ドイツと言う現実を作り上げた人物です。私はこの人物に仕えました。いまではどうでしょうか。「彼を十字架にかけよ」ということはできません。昨日までは、「ホサナ」といって、彼を称えていたからです。

 最後に、慎重かつ細心に私を弁護してくれた弁護人に感謝いたします。

 私が常にそれにしたがって行動し、最後の息をひきとるまで座右の銘としている言葉は、「私はドイツを信じている」というものであり、それが私の最後の言葉です。

 

<裁判長>:被告アルベルト・シュペーア。

<アルベルト・シュペーア(被告)>:裁判長、ヒトラーと彼の制度の崩壊は、ドイツ国民におそらしい苦難のときを与えました。戦争が無意味に続き、不必要な破壊が行なわれたために、再建作業はいっそう困難となっています。ドイツ国民は欠乏と困苦に直面しています。この裁判が終われば、ドイツ国民はこの苦難の張本人として、ヒトラーを軽蔑し、非難するでしょう。しかし、世界は、これまでの出来事から、独裁政治を憎むだけではなく、恐れることを学ぶでしょう。

 ヒトラーの独裁は、本質的な点で、歴史的な先例と異なっています。彼は、近代の技術発展時代の最初の独裁者、技術的手段すべてを使って、自国民を完璧に支配した独裁者でした。

 8000万国民が、ラジオや拡声器といった技術機器によって、自立的な思考を奪われました。その結果、一人の人物の意志に彼らをしたがわせることができるようになったのです。例えば、電話、テレックス、無線を使うことによって、上部からの命令が直接、下位集団に伝達され、その命令は、上位からのものであるがゆえに、無批判的に実行されます。さらに、多くの部局と司令部が直接、最高指導者と結び付けられ、直接、最高指導者から犯罪的な命令を受け取るのです。そして、国民を厳重に管理して、犯罪をかなり隠匿できるようになりました。

 おそらく、外部の人間には、この国家機構は、まったくシステムを持たない、電話線の流れのように見えることでしょう。しかし、システムと同じように、この国家機構は、一人の意志に奉仕し、それに支配されているのです。

 以前の独裁者は、その指導権を発揮する場合にも、たとえ、もっとも下のレベルでも、有能な副官を必要としており、彼らは、自立的に思考・行動することができました。近代の技術発展の時代の全体主義システムは、彼らなしで済ますことができます。通信手段だけで、下部の指導者たちを機械化することができるのです。この結果、命令の無批判的受領者という新しいタイプが出現しているのです。

 私たちは、この発展の端緒についたばかりです。ある日、技術的手段が諸国民を支配するという悪夢は、すでにヒトラーの全体主義システムの中で実現されていたのです。

 今日、技術支配体制によってテロル攻撃を受けるという危険が、世界各国を脅かしています。近代の独裁制では、これは避けられないように思われます。ですから、世界で科学技術が進歩すればするほど、これに対抗する、個人の自由、個人の自覚を確保しておくのが必要となるでしょう。

 ヒトラーは、技術の発展を利用して、自国民を支配しただけではなく、技術的な優位を利用して、ヨーロッパ全体を服従させることにほぼ成功しました。彼が1942年以前には、2倍の戦車、航空機、潜水艦を持っていなかったのは、批判の欠如という独裁制に典型的な欠陥によるにすぎませんでした。

 しかし、近代の産業国家がその情報力、科学、技術発展、生産力を何年間も、軍備の増強に注ぎ込んだとすれば、そして、同じ期間に、ほかの国々は、技術的な能力を人間社会の文化的な発展に向けたとすると、軍備を増強した国家は、技術的な優位によって、人的資源を節約することができるがゆえに、世界を奪取・征服することでしょう。

 世界の技術発展が進展すればするほど、この危険は大きくなり、軍備での技術的優位が、いっそう重大となるでしょう。

 この戦争では、遠隔操作ロケット、音速航空機、自動探知装置を持つ魚雷を装備した新型潜水艦、原子爆弾、おそらしい化学戦技術が登場しました。

 もしも、次の戦争が起るとすれば、人々を驚愕させるような新型破壊兵器が登場して、今回の戦争の兵器も色あせてしまうことでしょう。

 5年から10年のあいだに、戦争技術の進歩によって、目標を正確にとらえる大陸間弾道ロケットが登場するでしょう。原子力を使えば、10名ほどが操縦するロケットが、音速よりも早く、誰の目にも見えないままに、警告もなく、昼夜到来して、ニューヨークの真ん中で、瞬時に、100万人を殺すことができるでしょう。科学のおかげで、人間や動物のあいだに疫病を蔓延させたり、害虫をばら撒くことで不作・凶作にすることもできるでしょう。化学が発展して、免疫のない人間に、計りきれない苦痛をもたらすこともできるでしょう。

 ある国家が登場して、このような戦争技術を新たな戦争の準備のために利用して、それ以外の国々は、技術的進歩を人間の福祉のために利用して、このような恐怖の償いを試みるというような事態となるのでしょうか。次のように申し上げるのが、かつて軍需大臣であった私の最後の義務であると思います。

 新たな大規模な戦争は、人間の文化と文明の破壊をもって終わることでしょう。今回の戦争で、人類を破滅させてしまうような技術が発展し始めましたが、コントロールされていない技術と科学が、この仕事を完成させてしまうのを、誰も阻止することはできません。

 ですから、当法廷は、このような破滅的な戦争が将来起ることを阻止し、人類が共存できるような秩序を確立することに貢献しなくてはなりません。

 すべての事件が終了した後では、この高い目標に比べれば、私個人の運命には、何の意味もありません。

 過去数世紀、ドイツ国民は、文明の創造に大きく貢献してきました。今日のように無力であり、絶望的な状態のときでさえも、たびたび貢献してきました。人類が絶望の淵に追い込まれていくのを放置してはなりません。彼らは新しい価値、持続的な価値を生み出していくことでしょう。今日、誰もが大きな圧力を耐え忍ばなくてはならないのですが、だからこそ、この新しい仕事は非常に重要なのです。

 しかし、もしドイツ国民が、貧困と衰弱というやむをえない時代に、と同時に、再建という時代に、新しい文化的な価値を作り出すとすれば、ドイツ国民は、世界に対して価値ある貢献をして、世界の中でしかるべき地位を得ることができるでしょう。

 人類の歴史を形づくってきたのは戦争だけではありません。高いレベルでは、いつの日か人類すべての共有財産となる文化的業績なのです。未来を信じている民族が滅びることはないでしょう。神がドイツと西洋文化をお守りくださることを。

 

<裁判長>:被告コンスタンチン・フォン・ノイラート。

<コンスタンチン・フォン・ノイラート(被告)>:当法廷では、真実と正義がすべての憎悪、中傷、誤解に対して勝利を収めることを確信して、私は、弁護人の発言に一つだけを付け加えたいと思います。すなわち、私の生涯は、真実と名誉、平和の維持、諸民族の和解、人道と正義に捧げられてきました。私は、明晰な良心を持って、自分自身だけではなく、歴史とドイツ国民の前に立っています。

 にもかかわらず、当法廷が私を有罪とするのであれば、私は、これを耐え忍び、わが国民のための最後の自己犠牲として、それを引き受けることができるでしょう。私の人生自体と目的はわが国民に奉仕することであったからです。

 

<裁判長>:被告ハンス・フリッチェ。

<ハンス・フリッチェ(被告)>:首席検事は、最終論告の中で、私に対する告発を繰り返しました。しかし、その告発は証拠によって、明らかに反駁されていると思います。

 私は、いくつかの点をまとめてきました。それを読み上げることを申し出はいたしません。もしも、当法廷の規則に反しなければ、6頁の要約を司法的通知としていただきたいと思います。翻訳もされています。

 詳細は、速記録や資料の中にありますので、それをいちいち挙げることで、当裁判で最後にお話しする絶好の機会を無駄にしたくないと思います。検事側は、私が共同謀議を介してこれらすべての犯罪に関与していたと述べていますので、この点に関して説明しなくてはなりません。

 この告発に対しては、次のようにだけ申し上げることができると思います。もしも、私が、ラジオ放送で、検事側の告発する宣伝を行なっていたとすれば、もしも、私が、支配人種という教義を唱えていたとすれば、もしも、私が、他民族に対する憎悪を唱えていたとすれば、もしも、私が、侵略戦争、暴力・殺人・非人道的行為を人々に教唆していたとすれば、もしも、私がこのようなことすべてを行なっていたとすれば、裁判官閣下、ドイツ国民は私から離れ、私が賛同の意を表明していた制度を拒んだことでしょう。

 たとえ、私が偽装したかたちで、これを行なったとしても、聴取者はそれに気づいて、それを拒んだことでしょう。

 しかし、不幸なことは、ヒトラーやその一派の行動の秘密の指針となっていた教義を、私が唱えなかったという事実にあります。その秘密の指針は、ヘス、ライネッケ、モルゲンその他の証人の証言によって、それまで隠れていた霧の中から姿を現しています。

 私は、ヒトラーが誠実に平和を希求していたと信じていました。だから、ドイツ国民がいっそう、平和への保証を信じるように促したのです。

 ドイツ政府は、ドイツが虐殺行為を行なっているという外国の報告を否定していましたが、私はそれを信じていました。ですから、私は確信して、ドイツ国民がいっそうドイツ国家の指導部の正しさを信じるように促したのです。

 これが私の罪です。これ以上でも、これ以下でもありません。

 検事側は、自分たちの国民が虐殺行為に恐れおののいていると述べています。彼らは、ヒトラーからは善行を期待することなどせず、起こってしまった事件に衝撃を受けているというのです。しかし、ここで、ヒトラーから善行を期待していて、その後で、自分たちの信頼、善意、理想が誤って利用されてしまったことを知った人々の憤激を、少しでも理解しようとしてください。検事側は、多くのドイツ国民は、強制収容所の煙突からの煙を見れば、囚人の様子を少しでも見れば、起こっていることを認識できたはずであると述べています。私は、そのような多くのドイツ国民とともに、欺かれていたのです。

 検事側は、これらの出来事を描くにあたって、ドイツ全土が不正行為の巨大な檻であったかのように述べていますが。それはまったく不幸なことです。検事側は、それ自体すでにおそらしいものである犯罪を一般化しすぎていますが、それも不幸なことです。これに対しては、平和的な再建の時期にヒトラーを信じていた者がいたとすれば、この人物は、忠実で、勇敢で、自己犠牲的であったために、彼を信じ続けていたのであり、その後、注意深く隠されていた秘密を発見して、彼のなかには悪魔がひそんでいたことを認識するようになった、と申し上げておきたいと思います。ドイツの68ヶ月間の闘争は、これによってだけ説明できます。このような自己犠牲的精神は、犯罪からではなく、理想主義、善良なる信仰、賢明で正直な組織から成長してきたのです。

 検事側は犯罪を一般化して、世界中に積み上げられている憎悪の山に、それ以上の憎悪を付け加えようとしていますが、私は遺憾に思っています。今日、世界は憎悪の永久の循環によって支配されていますが、その循環を断つべきときが来ています。新しい憎悪の収穫の種をまくのをやめるべきときです。500万人の殺戮は、恐るべき警告です。今日、人類はこのような殺戮の技術的手段を持っています。ですから、検事側は、私を裁くにあたって、一つの憎悪を別の憎悪に置き換えるべきではないのです。

 私は、自分の良心にかけて、そのように述べる権利を持っております。検事側の主張とは異なり、私は憎悪を唱えたこともなく、憐憫への扉を閉ざしたこともないからです。それどころか、もっとも厳しい戦いの最中にも、何回となく、人道主義の声を上げてきました。私の放送と、敵の放送を比較していただければ、すぐ分かることです。私の放送が当法廷には提出されていないとしても、それをこの地上から消し去ることはできないでしょう。

 虐殺行為が行なわれたために、世界中を憤激の嵐がおおっています。ですから、個人の責任限界が消し去られてしまっているのは、まったくありうることですし、理解できることでもあります。集団的な責任が、善意を悪用されてしまった個々人にもついてまわるのであれば、私に責任を科していただきたいと思います。私の弁護人も強調しているように、私は、善意を悪用されてしまった数百万の人々の陰に隠れようとはしません。私は、その人にとって、私の善意が制度の目的の純粋さの保証となってしまったような人々の前に立つことでしょう。しかし、私の責任が及ぶのは、善意で行動した人々に対してだけです。殺人に始まって、解剖学のコレクションのための人間の選別に終わる虐殺行為を始めた人々、助けた人々、知っていた人々に対してではありません。

 これらの犯罪者と私のあいだにあるつながりは一つだけです。彼らは、彼らの物理的な犠牲者となった人々を悪用したのとは異なったやり方で、私を悪用したのです。

 ドイツの犯罪をドイツの理想主義から区別するのは難しいかもしれません。しかし、それは不可能ではありません。このような区別をすれば、ドイツにとっても、世界にとっても、苦難を避けることができるでしょう。






(私論.私見)