6期 第二次世界大戦緒戦期、中盤期までの歩み

 (最新見直し2007.3.28日)

 この前は、「第三帝国時代から第二次世界大戦突入までの歩み

1939(昭和14)年、50歳の時

【第二次世界大戦開始】
 同盟を結んでいたイギリス、フランスもドイツに宣戦布告。これによって第二次世界大戦を開始する。

 ポーランド援助条約により英仏はあらゆる手段によって軍事援助を行う定めになっており、開戦初日にはドイツへの爆撃、15日目には大規模な攻勢を開始することになっていた。当時西部国境のドイツ軍はほとんどが2線級の34個師団、装甲師団は1個旅団戦車50両、空軍は50機ほどの手薄な配備になっていた。ヒトラーは英仏が西部国境で攻勢に出ることは無いと踏み、将軍連の反対を押しきりほとんどの戦力をポーランド作戦に投入したためである。

 9.3−4日、大西洋で、英巡洋艦「アジャックス」が、ドイツ商船「オリンダ」「カール・フリッツェン」を撃沈。9.4日、英客船「アセニア」がドイツUボート(潜水艦)U30に撃沈され128人が死亡、中立国のアメリカ人28人が犠牲になった。アメリカを刺激することを恐れたヒトラーは攻撃はイギリスの陰謀と主張し客船の攻撃を禁止する(11月に解除)。9.17日、U29は英空母「カレイジャス」を撃沈。


【英仏、対独宣戦布告】

 9.3日、英仏、対独宣戦布告

 イギリス、フランスはドイツに宣戦したものの、ドイツへの本格攻撃は行われずポーランドは短期間で降伏した。イギリスはフランスが動かないため共同作戦を理由に全面戦争をためらい、フランスは国境に築いたマジノ要塞線から出てこようとはしなかった。

 ヒトラーは、イギリスと戦う意志は持っていなかったが、英仏の参戦がヒトラーの予想に反する結果になる。対ソ戦の失敗・アメリカの参戦等により、戦局が次第に悪化していくことになる。

 ヒトラーにイギリスの態度を読み違えさせたのはチェンバレンの宥和政策とは別に、あるイギリス女性の存在があった。ユニティー・ミットフォード(1914年生まれ)は35年かねて傾倒していたヒトラーに会うためドイツを訪問し、ヒトラーが食事をとる行き付けのミュンヘンのレストランに通った。やがてミットフォードとヒトラーは親密になる。彼女はイギリスとドイツの協調という政治的思考を持っており、さかんにヒトラーにイギリスはドイツと戦う意志はないと語った。貴族の娘とはいえ政治家でもない彼女の主張をヒトラーがどの程度信じたかは不明だが、影響を受けたことは間違いない。

 イギリスの宣戦に絶望したミットフォードは1939.9.3、ミュンヘンの公園で拳銃自殺を図る。弾丸は脳で止まり彼女は植物状態に陥った、手術が失敗した場合彼女を殺したと非難されるのを恐れたヒトラーは1940.4月、容体が安定した彼女をスイス経由でイギリスに送還する。彼女が死亡したのは戦争が既に終わった1948.5月だった。


 9.7日、フランスはザール地方でごく小規模の消極的な攻撃をしたのみで、英仏の後ろ盾をあてにドイツに譲歩しなかったポーランドを見殺しにした。ヒトラーの賭けは的中し英仏は西部国境から攻勢をかけることはなかった。フランス軍は西部国境に102個師団、戦車2500両、空軍1200機を配備しており、イギリスも3個師団を派遣していた。英仏がこの好機をとらえて攻勢に出ればドイツ軍は危機に陥っただろう。


 9月中旬、フランス軍総司令官モーリス・ガムラン元帥は、ポーランド軍総司令官に「東北フランス戦線では、軍の主力の半分以上が戦闘に入っている。ドイツ軍は猛烈な抵抗を試みているがわが軍は前進を続けている。ドイツ空軍の大部分をわが軍はひきつけている」と同盟を反故にした事を取り繕うためかウソをついた。この時既にポーランド軍は壊滅していた。


 9.17日、 ソ連軍、ポーランド東部に侵攻開始。 独ソ間で「ポーランド分割」。


【ナチスの迫害と虐殺】
 その過程で、ポーランドのアウシュビッツに監獄が開かれる。ユダヤ人、シンティ・ロマ(いわゆるジプシー)、ロシア人・ポーランド人・セルビア人などのスラヴ人、精神障害者、身体障害者、同性愛者、ナチスに抵抗する人々に対する言語に絶する迫害と大虐殺(破壊と殺戮)を行った、とされている。 

【ドイツ軍の緒戦の勝利とその後の戦局】

 ドイツ軍は開戦当初の「電撃戦」が効を奏し、およそ1カ月でポーランドを占領するなど戦局はヒトラーの思うとおりに運び、一時、ナチの占領下もしくは親独政権下におかれた地域は、中立国(スイス、スウェーデン、トルコ)を除くヨーロッパ大陸部のほぼ全域に及んだ。


 10.6日、ヒトラーは、英仏に対し戦う意志がないと声明、講和会議を提案するが、もはや英仏は乗ってこなかった。この間西ヨーロッパでは大きな戦闘が止み「奇妙な戦争」「まやかしの戦争」と呼ばれた静寂が訪れた。


 10.14日、U47(ギュンター・プリーン艦長)は英スコットランド北方スカパフローの泊地に侵入し戦艦「ロイヤル・オーク」を撃沈し帰還。


【ヒトラー暗殺事件その二】
 11.8日、ヒトラーは、1923年の「ミュンヘン一揆」を記念するミュンヘンのビアホール、ビュルガーブロイケラーの毎年恒例の集会に出席、例年より早く演説を終えて退席した。その十数分後の午後9時20分、ヒトラーが演説していた演壇の背後の柱に仕掛けられた時限爆弾が爆発。古参党員とウエイトレスの8人が死亡し、エバ・ブラウンの父親を含む63名が負傷した。

 犯人は強制収容所から釈放されていた、ゲオルグ・エルザーという家具と時計の職人だった。エルザーはスイスへ出国しようとし、旅券の期限が切れていたため取り調べを受ける。その際ネジやビュルガーブロイケラーの写真を所持していたため拘束された。しかし、その時点で事件との関連を疑わせる物を持っていたのは不自然にも思える。ヒトラーは危ういところで難を逃れた。

 犯行は共産主義者だったエルザーの単独犯行説、NSDAPの自作説、イギリス諜報機関の陰謀説などがあり今日でも真相は不明。エルザーの裁判は開かれず、ただちに処刑されず終戦直前の1945.4月に秘密裏に処刑されたことも謎を深めている。ヒトラーはこの後も44年の事件を始め、数々の暗殺計画を強運で乗り切ることになる。

 11月、タラント港のイタリア艦隊は英空母「イラストリアス」を発進した雷撃機の攻撃を受け大損害を蒙る。ヒトラーは盟友の勝手な冒険とふがいなさにあきれたが、このままほっておくわけにもいかず、北アフリカとバルカン半島へ軍を送る。


【ソ連が参戦】

 11.30日、独ソ不可侵条約によってヒトラーとの対決を先送りしたソ連は、互いの勢力圏を定めた秘密議定書に基づきフィンランドにカレリア地方割譲と軍事基地租借を要求。拒否されるとこの日宣戦布告なしに攻撃した。

 12.14日、国際連盟はソ連を除名する。

 ソ連は、傀儡の「フィンランド正統政府」の共産主義者クーシネンがフィンランドを解放するよう要請したとして攻撃を開始した。スウェーデン、ノルウェー、デンマーク政府はソ連を恐れ中立を決め込むが、英仏など各国は軍事物資を援助し、ハンガリー、デンマーク、スウェーデンからは義勇兵が来た。しかし、小国フィンランドの兵力29万、戦車5、60両とソ連軍60万以上、戦車1500両では圧倒的な兵力差があり勝敗は明らかと見られた。国防人民委員グォロシロフは4日で占領できると豪語した。しかしスキーに慣れ、射撃に長け勇敢なフィンランド人は森林地形と気候を巧みに利用してソ連の大軍を撃破する。

 フィンランドのグスタフ・マンネルヘイム将軍は「スキー部隊」による奇襲攻撃でソ連軍を疲弊させ補給を断ち、おりから到来した寒波によってソ連兵は凍死者が続出した。ソ連軍はスターリンの粛正によって多くの将校を失い、大軍にもかかわらずろくな戦闘指揮ができなかった。兵士は雪中を迷彩もなく前進し、フィンランド兵の射撃で倒され、孤立した戦車は火炎瓶で炎上させられた。驚くべきことに冬用の衣料や機械油さえ用意していなかった。さらに兵士の士気は低く政治将校が銃を突き付けて前進させる始末だった。この「冬戦争」中のソ連軍の損害は戦死20万、負傷60万、装甲車両1600に上る。


 12.13日、通商破壊作戦中に9隻の商船を沈めたドイツポケット戦艦「グラーフ・シュペー」(28センチ砲6門、11,700t)がラプラタ沖で英・ニュージーランド巡洋艦3隻と交戦、「エクセター」を大破させたが損傷し中立国ウルグアイのモンテビデオに停泊、英艦隊に包囲されたと誤認したラングスドルフ艦長は、17日艦を自沈させ自らは自決した(ラプラタ沖海戦)。


1940(昭和15)年、ヒットラー51歳の時

ドイツ軍部は再びフランスと戦うことを予想し、早くから戦略を研究していた。西部作戦の最大の敵は陸軍大国フランスであった。フランスは、第1次大戦でベルダンを守りぬいた勝利を経験にマジノ要塞(発案者の陸相アンドレ・マジノの名にちなむ)と呼ばれる320キロに渡る長大な要塞を、1930年代初めからばく大な費用と時間をかけてドイツとの国境沿いにスイスからモンメディまでに建設し、この要塞によってドイツのいかなる攻撃も阻止できるという自信を持っていた。

 反面、要塞に頼った戦略は防御的になり予算を要塞に取られ軍隊の装備の近代化を遅らし、指導部は新しい戦略思想に冷淡になっていた。政情は不安定で政府は短期間に政権を交代、暴動やストが頻発し国民には厭戦の風潮が強かった。

 これに対しドイツは第1次大戦で戦車によって大打撃を受けた戦訓から、要塞よりも装甲部隊による機動力と火力を生かした思想を具体化している。フランス攻撃のプランは1939.1月の案ではマジノ要塞の無いオランダ、ベルギー方面へ攻撃の重点を置き(B軍団)、マジノ線方面(C軍団)と、両方の中間(A軍団)に兵力を3分して侵攻するというものだった。A軍団の参謀長フォン・マンシュタイン中将はこの第1次大戦と同じ作戦(シュリーフェン計画)に不満で、新作戦をグデーリアン将軍と立案し総司令部に提出する。新作戦は攻撃の重点をA軍団に当たらせ、ソンム川に進む。戦車が通れないとされているベルギーのアルデンヌ森林地帯を通過し、セダン付近の比較的脆弱な防衛線を突破し、オランダ、ベルギー方面へ向かう連合軍の側面を攻撃するという冒険的な作戦だった。総司令部はいったんこの案を却下し、マンシュタインを歩兵軍に転属させた。

 1.9日、作戦計画書を持った少佐が乗る連絡機がベルギーに不時着する事件が起き、作戦の変更を要求されることになった。マンシュタイン案はヒトラーの目にとまり、ヒトラーはこの案を自身で強く押し採用させる。


 2月、ソ連軍が戦術を改め部隊を再編して兵力、冬季装備を増強して再び攻勢をかけると、さしものフィンランド軍も追いつめられ、2.14日には防衛線マンネルヘイム・ラインを放棄、3.13日には講和に応じる。フィンランドは第2の都市ヴィープリを含め、カレリア、ラドガカレリア、サツラなどの領土をソ連に割譲したが、英仏の軍事介入を恐れたソ連は傀儡政府を引っ込め、国家の独立をかろうじて守ることができた。

 ソ連のぶざまな戦いぶりはドイツにソ連軍弱体の印象を与え、赤軍は「冬戦争」の冬季戦の教訓を後の独ソ戦に生かす。


 イギリス、フランスが攻撃してこないことで第1次大戦時のような膠着した塹壕戦を避けたいヒトラーは、自分から攻勢に出ることを決意した。まずルクセンブルク、ベルギー、オランダを通るフランス攻撃の作戦立案を命令。その前にスウェーデンからの鉄鉱石輸入と、海への出口を確保するため海軍の要請でノルウェー、デンマークへの侵攻に向った。
 
 4.9日、ドイツ軍、ノルウェー侵攻開始、無血占領。 ドイツ軍、デンマーク無血占領。ヒトラーはノルウェー侵攻作戦「ウェーゼル演習」の陸軍司令官にフォン・ファルケンホルスト将軍を任命し、その日の夕方までにノルウェー占領計画を作るよう命令した。将軍は急遽市販の旅行案内を買い、作戦を考えることになった。ヒトラーはこの作戦計画に満足し、作戦実行を命じた。

 デンマークは装甲部隊の侵攻と降下猟兵(空挺部隊)の奇襲を受けほとんど抵抗せず、9日の昼には大勢が決まり国王クリスティアン10世と政府が降伏。ノルウェーは奇襲攻撃が悪天候で遅れ、オスロを逃れた国王ホーコン7世は降伏を拒否し、確保していた北部の小さなラジオ局から国民に抵抗を呼びかけた。英海軍はノルウェーの領海に機雷を敷設する作戦を計画していたがチェンバレンの反対でドイツ軍に先を越された。


【ソ連軍による「カチンの森事件」発生】
 ソ連軍は捕虜にしたポーランド軍将校数千人をスモレンスク付近のカチンの森で殺害して埋めた(この虐殺は後の独ソ開戦後、同地を占領したドイツ軍によって発見される。ソ連は長らくドイツの仕業と主張したが、ゴルバチョフ政権下で初めて、「1940.4月ごろ秘密警察NKVDによる虐殺」を認めた)。

 5.10日、ドイツ軍、西部戦線に総攻撃開始。

  中立国のオランダ、ベルギー攻撃は英仏の援軍がくる前にかたづけるためスピードが要求される。 オランダのハーグ郊外の3つの飛行場には降下猟兵部隊が着陸して政府と王室の確保を図ったが薄暗い中で目標を遮られ、激しい抵抗を受けて確保に失敗。ロッテルダムのマース川には水上機12機で着水し、スポーツスタジアムとヴァールハーフェン飛行場に降下した降下猟兵がヴィレム橋を確保した。


 「ロスチャイルド家の代理人チャーチルの反撃」によると、次のように記されている。

 ドイツとソ連によるポーランドの分割占領が行なわれ、さらにソ連はフィンランドへ侵攻し、翌年にはやはりドイツが北欧に攻撃を開始、デンマークとノルウェーを占領してしまった。ところがこの戦争の経過は、どうもおかしい。変なのである。開戦したはずのドイツとイギリス・フランスが、ほとんど戦争らしい戦争をしないまま8ヵ月もの歳月が過ぎ去っていたのである。

後年われわれが強い印象を受けてきた、“悪魔ナチスに対する正義の連合軍”の激戦どころか、ドイツとフランスの国境付近では、両軍の兵士がなごやかに語り合う風景まで報告され、「開戦の初期の段階では、予期されたものとまったく異なる様相を呈した」と、多くの書物に書かれている。


【イギリスにチャーチル政権登場】
 5.10日、イギリスで、ドイツ軍の快進撃に衝撃を受け宥和政策を取ったチェンバレン首相が解任され、海相ウィンストン・チャーチルが首相になる。チャーチル内閣成立。イギリスの首相がチェンバレンからチャーチルに交代した時点から、天下分け目の真の世界大戦になった。(チャーチルに就いては、「ロスチャイルドの代理人チャーチル考」参照) 

 「ロスチャイルド家の代理人チャーチルの反撃」は、次のように記している。

 ユダヤ人にとってただひとつ残された希望、それはイギリスのほかになかった。ウィンストン・チャーチルの両肩にすべての責任が重くのしかかってきた。ところがこの好戦家は、周囲に重厚な人材を揃えていたため、たじろぐどころか身を乗り出して戦闘を呼びかけた。ヒトラーが休戦を申し入れても、それを蹴ったのがチャーチルであった。チャーチルは、イギリスの敗北を避けるための首相ではなく、ナチズムを倒すための首相、として選ばれていたからである。チャーチルに与えられた任務は、戦勝に向かう道であった。

それまで石炭を使っていた軍用船に石油を使うよう海軍を大改革した最初の男、それがチャーチルであった。史上空前の海軍予算を使い、海軍大臣としてヴィッカースやアームストロングの造船事業に莫大な金を投じてきた。空を見上げれば、航空大臣としてイギリス空軍の生みの親がチャーチルであれば、軍需大臣として戦車という動く兵器を戦場で自ら考案したのも同じチャーチルであった。しかもこれら機動部隊への燃料補給のため、中東の石油会社の株をイングランド銀行の金で買収させてしまった。

近年の企業番付では、ヨーロッパ1位が「シェル」、2位が「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油)という順位が不文律となっている。後者はBPと略して呼ばれ、つい先年、1987年に株が民間に公開された時には史上最大規模のためロンドン・シティーが大騒動となった。石油王ロックフェラーの本拠地「スタンダード石油オハイオ社」を完全買収し、鉱山王グッゲンハイム家が支配してきた世界最大の産銅会社「ケネコット」も買収したのが1980年代のBPの姿だ。このBPの株を海軍に買わせたのが、ほかならぬチャーチルだったのである。そのためウォール街では今日でも、チャーチルは世界一の投資家とみなされている。

チャーチルは戦争が面白くてならなかった。インド、エジプト、南アという大英帝国植民地の3C拠点で、原住民を苦しめ抜いた戦争のなかから誕生したチャーチルが、今や独裁者ヒトラーを倒して自ら英雄になろうという野望を抱いていた。


【この頃のドイツとイギリス、フランスの軍事的バランス】
 連合国軍とドイツ軍の兵力は数の上ではほぼ互角で、ドイツ軍136個師団、連合国軍135個師団であり、主力戦車の数と火力、装甲の厚さなどはむしろ連合国側が優っていた。しかし装甲師団の戦車はドイツが戦車を指揮官の無線通信下で、集中して投入する戦術を確立していたのに比べ、連合国側では戦車は歩兵に付随して運用するものであるとする旧時代的な戦術を採っており、フランスの機甲師団は編成されたばかりだった。

 また、連合国側は統一した作戦司令部が機能せず、ベルギー(22個師団)、オランダ(10個師団)は中立政策を取っていたため開戦前の協調も取れなかった。また植民地から来た兵士や、急遽徴兵されたフランスの兵士は高齢者や労働者で訓練不足で士気も低かった。

 ドイツ軍は統一された作戦司令部と優れた指揮官に恵まれ、革新的な装甲部隊により戦車の有効な運用を行い、良く訓練され実戦経験のある兵士は士気も盛んだった。

 フランスの軍指揮系統は複雑極まりないもので、総軍参謀長と北東戦線最高司令官の肩書きを持つジョルジュ将軍と総司令官(連合軍総司令官を兼任)モーリス・ガムラン元帥は離れた場所に別々の司令部を持ち、ガムランがパリ近くの中世の城「シャトー・ド・ヴァンセンヌ」に置いた連合軍総司令部には無線さえ無く、命令が前線まで届くのに2日を必要とした。

 5.10日、ベルギー軍は幅60メートルもあるアルベール運河の橋を落としてドイツ軍戦車を阻止すべく、橋には守備隊を配置し爆薬を仕掛けて、東から来る筈のドイツ軍を警戒していた。しかし、ドイツ軍降下猟兵部隊はグライダーで運河を超えて着陸し、西から橋を渡って来た。あっけにとられた守備隊は橋を爆破するひまもなく掃蕩された。一週間はドイツ軍を食い止めるはずだったアルベール運河は作戦初日にドイツ軍の手に落ちた。ベルギーの交通の要衝にあり約1200名の守備隊がいたエバン・エマール要塞は、降下猟兵75名がグライダーによる奇襲攻撃をかけ、要塞は成形炸薬によって無力化され1時間で占領される。この奇襲作戦はヒトラー自らの発案によってなされた。

 ベルギー、オランダ方面が主戦場になると判断したフランス軍主力、ウィリアム・ゴート大将のイギリス大陸派遣軍は北上し、防衛計画に沿ってベルギーのディール河でドイツ軍を防ごうとするが、ドイツ軍装甲部隊7個師団はアルデンヌ森林地帯を踏破し、防衛線の弱体な陣地を突破した。


 5.11日、フランス軍偵察機はドイツ軍部隊の縦列を発見したが、アルデンヌ森林地帯は戦車の通過は不可能だと思い込んでいた司令部は報告を無視した。空軍のJu87「スツーカ」などの急降下爆撃でフランス軍は地上戦の前に大損害を受けた。フランス軍機甲部隊は背面、側面から攻撃を受け要塞の砲台と、戦車の厚い装甲を生かした戦闘が出来なかった。


 5.12日、オランダ、マーストリヒト近郊のドイツ軍が確保するアルベール運河の橋をイギリス空軍のフェアリー・バトル軽爆撃機6機が攻撃するが、対空砲火に遮られ全機が未帰還となる。同日、セダンではフランス空軍のカーチス・ホーク75戦闘機がJu87急降下爆撃機16機を撃墜。フランス空軍は多数の航空機を持っていたが雑多な機種を運用し、Bf109に対抗できるドボワチンD520は数が少なく、多くは時代遅れの機種だった。1940.5月には2千機を持っていたが作戦は不活発で使用されたのは500機に満たないとされる。ドイツ空軍のフランス戦線の戦力は2670機で約千機は戦闘機である。


 5.13日、オランダ、ロンドンに亡命政権樹立。


 ドイツ軍がミューズ川を渡り、橋頭堡が築かれる。グデーリアン、ホト指揮する19、15装甲師団は川を渡ったものの、フランス軍の反撃を受け進撃が停滞し、ラインハルトの41装甲師団は渡河が遅れていた。しかしフランス第9軍司令官コラーブは前線からの新鮮な情報を得られず、ドイツ軍司令官のように前線を見て自ら情報を収集することもしなかったので的確な情勢判断が出来なかった。仏第9軍の援護のため第1機甲師団は200台の戦車を擁してミューズ川を渡河したドイツ軍の前面に到着したが、ブリュノー将軍は司令部からの反撃命令を待っていた。しかし、第11軍司令官の命令を受け、第9軍に命令の修正の許可を得てふたたび第11軍司令官の命令を待っていたが第11軍司令官は移動して連絡が取れなかった。仏戦車は空しく待機したが予備燃料を持っていなかった。


 5.14日、第9軍は戦線を維持していたが悲観的な情勢判断をしたコラーブは、第9軍に撤退を命じた。撤退は壊走となり、ドイツ軍は堰を切ったようにフランス領内を従来の軍事常識を超えた速度で突進した。同日、普仏戦争でナポレオン3世がプロイセン軍に降伏した古戦場でもあるセダンが占領される。


 5.14日、ロッテルダムが爆撃を受け大火災が発生。ウィルヘルミナ女王はイギリスに逃れ、オランダはわずか5日で降伏。


 5.14日、グデーリアンはクライストにセダンで停止して歩兵部隊の到着を待つよう命じられたが、奇襲の効果が損なわれるとしてこれを無視して威力偵察の名目で前進を続けた。


 5.16日、パリで、フランス首相ポール・レイノーと会談したチャーチルは、「フランスは敗北を喫した、総崩れだ」と泣き言を言われ、戦闘機の派遣を求められた。チャーチルが「予備兵力はどこに?」と尋ねると「1つもない」と返事をした。


 5.17日、ランではドゴール大佐が戦車をかき集めて新設した仏第4機甲師団が反撃するが、ドイツ第1装甲師団に阻止される。同日ベルギーのブリュッセルが占領される。

 5.18日、ガムランに代わってレバノンから呼ばれたマキシム・ウェイガンがフランス軍総司令官に就いた。しかしウェイガンも73歳と老齢で会議だけに時間を消費した。

 連合軍主力は、ドイツA軍集団がセダンを占領し、5.20日、大西洋に望むアベヴィーユへ到達したことによりドーバー海峡側に分断されてしまい補給を受けられなくなった。英ゴート大将はフランス側に戦線を突破すべくドイツ軍に反撃を計画、アラスに英仏混成部隊を集結させた。


 5.21日、アラス近郊でエルヴィン・ロンメルの指揮する第7装甲師団は側面からフランス、イギリス軍戦車部隊の反撃を受けた。味方の戦車は前方におり、英仏軍の「マチルダ」(40ミリ砲装備)、「ソミュア」(47ミリ砲装備)戦車の装甲にはドイツ軍の37ミリ対戦車砲では歯が立たない、前方から引き返してきたドイツ戦車も機銃のみの2号戦車とチェコ製の37ミリ砲装備の38(t)戦車で、英仏軍の40ミリ対戦車砲で撃破され、ドイツ歩兵部隊は危機に陥った。

 ロンメルは急遽、対空砲だった88ミリ砲の水平射撃を命じ(高射砲を対戦車に使用するのはロンメルの独創ではない)英仏戦車を撃破、危機を脱した。ロンメルの師団は急速な移動と優れた用兵から「幽霊師団」と呼ばれた。

 フランス将兵はいきなり現れたドイツ軍に戦意を失い、抵抗する間もなく続々と降伏した。装甲師団の急進撃にはドイツ軍司令部とヒトラー自身も驚き停止命令を出すほどだった。連合軍の主力はドイツ軍の目論見どおり北部にひきつけられ、北フランスとベルギーに包囲されてしまった。5月24日にはブローニュが陥落しドイツ軍はドーバー海峡に望むダンケルクまで24キロの地点まで到達、グデーリアンはダンケルク攻撃を準備。英10個師団、仏18個師団35万人の連合軍は逃げ場を失った。

 しかしヒトラーは装甲部隊にダンケルク進撃を禁止。理由は明らかでないが、空軍のゲーリングが爆撃のみでせん滅できると進言したためとも、戦車に不適な海岸の砂地で装甲部隊の消耗を懸念したルントシュテット将軍の進言のため、イギリス兵を逃がして和平の環境を作りたかったとの説がある。ともかく連合国兵は装甲師団の攻撃停止の間に空爆と砲撃を受け、駆逐艦9隻など多数の艦船と航空機302機を失いながらも民間のヨットや漁船まで撤退に動員。一部のフランス兵は勇敢に橋頭堡を死守し時間を稼ぎ33万8千人が海路イギリスへの脱出に成功する(ダイナモ作戦)。


5.27日、イギリス軍、ダンケルク撤退開始 (06/04 撤退完了)。


 5.28日、ベルギーが降伏。国王レオポルド3世は国民と苦難を共にする決意で国に残った。


 6.4日、ダンケルクは占領された。フランスの残存兵力は2線級の部隊で装備の完全な機甲師団は存在しなかった。


 「ロスチャイルド家の代理人チャーチルの反撃」によると、次のように記されている。( 広瀬隆著「赤い楯」よりり)

 第二次世界大戦当時、ドイツにソ連から石油を供給して戦争を持続させたのは、ロスチャイルドがソ連のバクー油田から生み出した会社「シェル」であった。シェルはイギリスのロスチャイルドの会社である。すでに宣戦を布告したイギリスとドイツの戦闘のなかで、石油は軍艦・戦闘機・戦車などすべての動力となり、弾薬の源であった。そんな大事な石油を、イギリス企業が、あろうことか敵国ドイツヘ販売したのには、それなりの理由があった。

 「シェル」の支配者としてのし上がり、石油業界の独裁者ナポレオンと異名を取ったのが、ヨーロッパの石油王ヘンリー・デターディングという男だった。バクー油田をソ連が国有化したため、ひと方ならぬ苦労をして原油を確保しなければならなくなったデターディングは、共産主義を相手に闘いはじめた。彼は共産主義を憎む資本家の象徴でもあった。奇しくもこの男が結婚した女性の父親は、ロシア革命によって倒された帝政側の将軍だった。

 しかしその後、今度はナチス党員の女性と結婚し、自らナチス党員となるや、ドイツに定住して次々とヒトラーの組織に資金を与えはじめた。こうして、暗殺されたユダヤ人ラーテナウ外相が敷いたドイツ・ソ連の外交路線を悪用しながら、片方ではバクーなどから石油を調達し、もう一方でナチスを育てる「シェル」の冷酷なビジネスが誕生した。デターディングは開戦の7ヶ月前にこの世を去ったが、開戦後も社内でこのビジネスが続けられたことは、石油業界の語り草となっている。

 開戦から9ヶ月後、1940年6月7日に、ナチス政府は次のように公表した。「ソ連とルーマニアからの大量の石油輸入によって、わが国のガソリンは確保されているのである!」

 この石油を運んだのが、ほかならぬイギリス・ロスチャイルドの会社「シェル」であった。これは、まだ解けない謎である。しかし石油の絶対量が世界的に足りない状況にあったこの当時、実業界でナチスとユダヤ人問題を重役陣が議論する空気はどこにもなく、「シェル」が商品を販売したのは自然な商行為であった。しかも、ソ連はドイツにバクーなどの石油を輸出するどころか、いまや国内の石油が不足しはじめ、11月にはモロトフがヒトラーに中東の石油を要求するほど事態は深刻になっていた。

 こうしてナチスの自信に満ちた声明が、翌1941年には逆証明されることになってしまった。5月23日、ヒトラーがロシア油田の共同開発をソ連に申し入れた時、今度は、盟友であるはずのスターリンが拒否する態度に出たのである。この時点では、すでに両人とも相手がどれほど危険な人物であるかに気づいていた。独裁者と独裁者の対決が、こうして石油取り引きのために決定的な事態を迎えた。

 それからわずか1ヶ月後、ドイツ軍がロシアに侵入する姿を、全世界は目にすることになった──バルバロッサ作戦。石油は魔物である。


 6.8日、英仏は援軍を上陸させたものの、制空権をドイツに握られ、西部戦線でドイツの攻勢が始まると兵力を転用しなければならず、陸上では次第に圧迫され、北部から撤退した。同日、撤退する航空機と搭乗員を収容して離脱中の英空母「グロリアス」と護衛の駆逐艦2隻をドイツ戦艦「グナイゼナウ」「シャルンホルスト」が捕捉し撃沈。
 6.10日、ノルウェーが降伏し、国王と政府はイギリスに亡命した。ノルウェーにはNSDAPの同調者で元国防相フィドクン・クヴィスリンクが傀儡政権を樹立した。
【イタリアが英仏に宣戦布告】
 6.10日、イタリアが英仏に宣戦布告。イタリアのムソリーニはドイツの勝利は確実と見て戦勝の分け前を得ようと、自軍の準備不足にもかかわらず瀕死のフランスとイギリスに宣戦した。「中立をとったらイタリアは大国の地位を今後100年間失うだろう」(ムソリーニ)。

 ムソリーニは、ポーランド進攻の際にはヒトラーから事前に進攻を知らされていたが軍備が整っていないとして「非交戦国」に留まっていた。参戦2日後にも軍が進撃を始めないのにいらだったムソリーニは、参謀総長ピエトロ・バドリオに早く攻勢に出るように指令する。バドリオは「イタリア軍はシャツすらもっていないのですよ」と言った。ムソリーニは「そうだ、だが講和会議で栄光の席に座るためには数千人の死者が必要だということが君にはわからないのかね」と6.16日の全面攻撃を決めた。

 6月、スターリンはバルカンで、ルーマニアから北ブコビナ、ベッサラビアの2州を奪う。ルーマニアは第1次大戦では連合国側で参戦し自国の戦線では大敗したが、戦勝国となり各国から領土を得ていた。ベッサラビアは旧ロシア帝国領だが、ブコビナは旧オーストリア・ハンガリー帝国の領土だった。またブルガリアがドブロジャ南部を割譲要求しこれも容れた。ルーマニアは国王カロル2世が議会を封殺、独裁を行っていた。国王は当初、英仏寄りの中立政策を推進した。しかし、支援関係にあったポーランド、チェコスロバキア、フランスがドイツに占領されると、独ソの2大勢力に挟まれ中立は不可能になった。


【ドイツ軍、パリ入城】
 6.11日、フランス政府はパリを捨てトゥール、後にボルドーと逃れ、6.12日、パリを戦火から救うため無防備宣言をした。

 6.14日、ドイツ軍、パリ入城。ドイツ軍は厳正な規律の下パリに入城した。ヒトラーは兵士に略奪行為を厳禁し、解放者として振る舞うよう求めた。

 6.16日、首相レイノーが辞任し、第1次大戦の英雄で84歳のフィリップ・ペタン元帥が首相に就いたが、全く戦意がなくもはや次の日には休戦を乞うしかなかった。フランスの休戦申し入れの報告を受けたヒトラーは、反射的に片膝を上げて喜びを表したがアメリカに渡ったニュースフィルムでは、この僅かな動作のフィルムのコマが増やされ、あたかもはしゃぎまわるかのように加工されて上映された。

【 ド・ゴール将軍がロンドンに自由フランス委員会設立】
 6.18日、 ド・ゴール将軍、自由フランス委員会設立 (ロンドン)。

【フランスが降伏】
 6.22日、フランス(ペタン政府)降伏。国土の3分の2をドイツが占領。パリの北コンピューニュの森で1918年の第1次大戦休戦条約署名を記念して、保存されていた食堂車が展示室から運ばれ用意された同じ場所で、フランスのシャルル・ユンチジェル将軍とカイテル将軍が休戦条約に署名した。ドイツは、前大戦の屈辱を晴らした。

 6.24日、イタリアとフランスが休戦条約に署名。フランスにとっては過酷な条約となり、ドイツへの捕虜(人質、労働力として)の抑留、占領費の支払いを要求された。アルザス、ロレーヌ地域は再びドイツ領になり、パリを含むフランスの5分の3はドイツとイタリア占領下に置かれ、残りの地域はペタンが鉱泉町ビシーに置いた政府が統治することになった。

 ビシー政権は自由地域と海外の植民地の主権を認められ、海空軍と10万の陸軍を保持したが、ユダヤ人狩りなどあらゆる政策はドイツの意向に従わざるを得なかった。

 休戦までのフランスの被害は死者16万4千、負傷者20万人。ドイツは戦死2万7千、負傷11万1千、行方不明1万8千人。ヒトラーは39個師団の動員解除を指示した。

 6.28日早朝、ヒトラーは、パリを視察、西方作戦の成功で自らの軍事的能力への自信をいよいよ深める。パリを訪れたヒトラーはオペラ座を視察、エッフェル塔を見物し廃兵院のナポレオンの墓に詣でる。ヒトラーはウィーンに置かれていたナポレオンの息子ライヒシュタット公(ローマ王)の棺を父の傍らに移すよう命じた。今日もナポレオン父子がパリで共に眠っているのはヒトラーの計らいである。

 「ロスチャイルド家の代理人チャーチルの反撃」は、次のように記している。

 このスターリンとの対決の前に、ドイツはオランダだけでなく、ベルギー、ルクセンブルクを占領し、破竹の勢いでイギリス海峡に到達。更にムッソリーニのイタリアが南からイギリス・フランスに宣戦布告し、フランスを挟撃する形を取った時には、フランス政府は逃げ出してしまったのである。

 1940年6月14日、ドイツ軍がパリへ無血の入城を果たし、かの憎むべき屈辱の条約を締結したヴェルサイユ宮殿に、いまはクレマンソーの姿はなく、ヒトラーの有頂天にのぼりつめる姿が代わりにあった。パリ陥落……


 7.3日、休戦後、ほぼ無傷のフランス艦艇がドイツに渡る事を恐れた英海軍は、アルジェリアのメル・エル・ケビルに本土から逃れて停泊していたフランス艦隊を攻撃、戦艦「ブルターニュ」が撃沈され仏水兵977名が死亡。ビシー政権とイギリスは断交し、イギリスに逃れたドゴールは自由フランスを組織しラジオから抵抗を呼びかけ、ビシー政権はドゴールに欠席裁判で死刑を言い渡した。イギリス・自由フランスとビシー政権の海外植民地では戦闘が交わされる事となる。
【イギリスが徹底抗戦】
 イギリスは、ヨーロッパを征服したナポレオンの前に立ちはだかった歴史を持つが、ヒトラーにも屈服しなかった。ヒトラーは再び和平提案を行うがチャーチルは断固戦い抜く決意であった。チャーチルはフランスが降伏した日「フランスの戦いは終わった、今やイギリスの戦いが始まろうとしている」と演説。イギリスは大陸に派遣した虎の子の比較的精強な部隊を失っており、軍備の拡充も遅れ、地方防衛義勇軍(LDV)に配る小銃さえ不足していた。ドイツ軍が勢いにまかせて上陸してくると対抗するだけの力はなかった。しかし海峡には圧倒的に優勢な海軍があり、アメリカからの戦略物資が届いている。またドイツ軍には渡洋作戦の経験も装備もなく、イギリス攻撃の戦略も作られていなかった。

 ヒトラーは8月まで和平を工作したが、急遽イギリス上陸作戦「ゼーレーヴェ(あしか)」作戦の立案を命ずる。上陸作戦のためには制空権の確保が必要であり、制空権を確保すれば狭いドーバー海峡ではイギリスの海軍力を無力化できる。英空軍よりはるかに優勢なゲーリングの空軍は自信満々であった。後に「バトル・オブ・ブリテン」(英国の戦い)と呼ばれるイギリスの存亡を賭けた航空戦(およそ40年7月から9月まで)が始まる。

 ドイツ空軍2300機に対し、ヒュー・ダウディング大将のイギリス空軍(RAF)はフランスに投入した450機の「ハリケーン」戦闘機を失い、旧式機を合わせても800機に満たない戦闘機で迎え撃たなければならなかった。しかし英空軍には新鋭戦闘機「スピットファイア」(最高速度570km/h、Mk1型)が続々と供給されており、レーダー(電波方向探信儀・RDF)を備えた防空組織が編成されていた。


【ヒトラーが国防軍最高司令官に就任】

7.31日、ヒトラーは国防軍最高司令官に就任し、作戦面でも戦争の最高指導者となる。


 8月、スターリンは次にエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国に最後通諜を突きつけ、ソビエト連邦に加盟させ、併合した。


 8.12日、ドイツ空軍はイギリスの飛行場やレーダー基地、港湾、軍事工場を目標に爆撃を始めた、「スピットファイア」、「ハリケーン」を主体とした英軍はレーダーに誘導されドイツ機に大きな損害を与えた。ポーランド、フランス戦で大きな効果を上げた急降下爆撃機Ju87は英戦闘機に対しては低速で大損害を受け早々に引き上げられた。

 ドイツ空軍の主力戦闘機Bf109は元々局地戦闘機として設計され航続距離が短く、He111などの爆撃機を十分護衛できず、援護を受けられない爆撃機は英戦闘機に大損害を受けた。しかし英空軍は味方の損害を上回る撃墜を記録したものの、元々の数が少なくパイロットの補充もすぐには出来ず、亡命してきた元ポーランドやチェコ空軍操縦士の部隊まで投入したものの、連続の出撃でパイロットの疲労が重なり乗員、機体の損害も増えてきた。航空基地や情報を集める地区監視基地も爆撃で破壊され英空軍の戦力は尽き果てようとしていた。しかし、ドイツ空軍は攻撃目標を変更しロンドンを爆撃しだした。


 8.23日、ドイツ爆撃機が航法ミスからロンドンを爆撃。イギリスは報復として翌日ベルリンを爆撃した。

 「もしベルリンが爆撃されたら私はユダヤ人とののしられてもかまわない」と豪語していた空軍大臣ゲーリング国家元帥の面目は丸つぶれとなり、最初首都爆撃を禁じていたヒトラーは、9.4日、スポーツ宮殿での演説で報復を宣言。ロンドン爆撃によってイギリス国民の戦意を挫くよう命令した。


 歴史的に宿敵であるハンガリーまでが領土割譲を要求してきた事に危機感を持ったルーマニア国王は、ヒトラーと会談するが「このままでは、ルーマニアは消滅する」と言われ、親独のイオン・ジグルトゥを首相に任命。ドイツにとってもルーマニアの油田は戦略上重要で、8月末リーベントロップ外相がハンガリー、ルーマニアにイタリアを会談に加えて調停(ウィーン裁定)し、10月には部隊を派遣した。

 国王はドイツ軍が進駐すると同じく親独の将軍、イオン・アントネスクを首相に任命した。しかし領土をハンガリーに割譲したウィーン裁定を追認することになり、ドイツからも用済みにされたカロル2世は実権を失い退位亡命。 若年のミハイ国王が即位し、アントネスク首相はドイツの庇護下で独裁を固めた。スターリンは利害関係を双方協議し合うとした独ソ条約に違反すると非難した。

【ドイツ空軍がロンドン爆撃開始】
 9.7日、ドイツ空軍、ロンドン爆撃開始。ロンドン空襲では最初の2晩で842人の死者が出、大火災が発生した。しかし爆撃目標がロンドンに変更されたことで英空軍の飛行場や飛行機工場は一息つくことが出来、再編の機会が与えられた。

 9.15日、ドイツ空軍はロンドンへの昼間爆撃を加えるため約200機の爆撃機と約800機の戦闘機で来襲した。一方、レーダー基地への攻撃は効果が薄かったとして中止されてしまった。レーダーで攻撃を知った英空軍は迎撃し、激しい空中戦が行われた、航続距離の短いBf109戦闘機はロンドン上空でわずか5分しか戦闘が出来ず、爆撃機はほとんどロンドンに到達できずに撃墜されるか、遁走した。この日はドイツ側75機、英側34機の損害を数えた。ドイツは英戦闘機隊を撃滅できず、爆撃による効果よりも自軍の消耗が激しいことに音を上げる、

 9.17日、ヒトラーはイギリス上陸作戦を事実上中止した。7.10日から11月末までにドイツ空軍の損失1733機に対し英空軍は915機。

 9.17日、ロドルフォ・グラツィアーニ元帥のイタリア軍21万は、北アフリカの植民地キレナイカからローマ帝国の版図の再現を目指し、英領エジプト西方に7個師団で進撃、国境から100キロほどのシディ・バラニまで進撃したものの、装備と補給に乏しく、同地で陣地を構築して停止していた。


 9.22日、フィンランドはドイツと協定を結び、資源の供給とドイツ軍の通過を認めた。


【日独伊三国軍事同盟調印】
 9.27日、ベルリンで日独伊三国軍事同盟調印。日独伊三国の枢軸体制を強化し、米英に対抗した。日本代表は松岡洋右外相。来栖三郎駐独大使、ドイツ・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ独外相、イタリア・チアノ外相がこれに署名した。

 ヒトラーは、抗戦を続けるイギリス、イギリスに戦略物資を援助するアメリカを牽制するため、中国政策をめぐってアメリカと対決姿勢を強めていた日本、同盟していたイタリアとの枢軸同盟で対抗しようとした。

10.12日、 ヒトラー、英本土上陸作戦(あしか作戦)中止を決定。


 10.13日、ドイツ軍はノルウェー南部を占領したが、オスロ攻略では重巡洋艦「ブリッヒャー」が撃沈され、この日のイギリス艦隊のナルビク攻撃でドイツ駆逐艦10隻、貨物船、補給艦が多数撃沈されるなどドイツ海軍の損害も多く、ナルビクでは一時ドイツ軍が孤立した。


10.23日、ヒトラー・フランコ(スペイン統領)会談。ヒトラーは、スペインとフランスのビシー政権を対英参戦させようとする。フランス、スペイン国境のアンダイでスペインのフランコ総統と会見したヒトラーは参戦を求めるが、フランコは内戦の損害からまだスペインが立ち直っていないとして、過大な食料・兵器と領土の見返りを要求し曖昧に参戦を拒否。英領ジブラルタル攻略のドイツ軍通過もまた断る。ただ、フランコは内戦時の借りがあり、鉱物資源を供給することは取り付けた。

 フランコは後に独ソ戦が始まるとスペイン人義勇兵を送る(スペイン人義勇兵部隊、第250歩兵師団「青師団」は41から43年まで東部戦線で戦う)が、中立を守り参戦を拒否したことによりフランコは大戦終了後も冷戦の中で政権を維持することになる。ヒトラーはこの会談の結果に多いに不満で「もう一度、会談をするくらいなら歯医者で歯を3、4本抜かれるほうがましだ」と語った。翌24日にはビシー政権の国家元首になっていたペタンと会見するがここでも参戦させることは出来なかった。


 10.28日、ムソリーニはドイツへの通告なしに併合していたアルバニアからギリシャへ侵攻。ムソリーニはヒトラーの鼻をあかしてやるつもりで、同日フィレンツェで会見したヒトラーに「2週間後にはアテネに行っている」と得意げに侵攻を初めて知らせたが、2週間後には21個師団のイタリア軍は13個師団のギリシャ軍に撃退されアルバニアに押し返されるという醜態をさらした。


 11.14日、イギリスへの空爆は断続的に続き、新電波誘導システムを使ったこの日のコベントリー爆撃では同市の多くが破壊され、380人が死亡している。一説にはイギリス軍はドイツ軍の暗号(エニグマ装置)をウルトラと呼ばれた解読器によって解読し、コベントリーへの攻撃を予知したが、チャーチルは暗号解読の事実を知られないために市民への警報を行わなかったとされる。


11.12日、ヒトラー・モロトフ(ソ連外相)会談 (ベルリン)。


 12.9日、停滞していたイタリアのアーチボールド・ウェーベル大将の2個師団3千600の兵員が攻勢に打って出た。しかし、英軍にたちまち押し返される。


12.18日、 ヒトラー、ソ連侵攻作戦(バルバロッサ作戦)準備を指令。

 これまで互いの勢力圏を拡大してきた独ソ両国はついに緩衝地帯を食い尽くし、直接勢力圏を接することになった。ヒトラーはこの日、ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」(赤ひげ=神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ1世の名にちなむ)の準備を41.5.15日までに整えるよう命令した。


12月、第二次世界大戦開始時までにSSの隊員数は25万人に上り、その中からSS戦闘師団(SS-VT)が組織された。この頃、SS-VTは武装親衛隊に改名された。一方、一般SSは国防軍や武装親衛隊の補充に人員を取られ、終戦時には4万人程度の弱小組織になってしまう。また実行部隊と呼ばれる部隊はウクライナなどのドイツ占領地域において、劣等民族とされた住民を徹底的に殺戮した後にドイツ人を入植させてナチズムに基く人種政策を実行した。


 第二次世界大戦末期ドイツの敗色が濃厚になると、連合国による非人道的行為への追及を恐れたSS指導部はアルゼンチンを拠点としてオデッサ(Organisation Der Ehemaligen SS-Angehorigen―「元SS隊員の組織」の頭文字)と呼ばれる逃亡者支援ネットワークを組織した。

 「オデッサ」は教皇庁や米軍諜報機関などとのコネクションを使って「ラットライン」と呼ばれる逃亡ルートを築き、絶滅収容所へのユダヤ人移送責任者だったアドルフ・アイヒマンや、アウシュビッツで人体実験を行った「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレ、ゲリラ攻撃を受けた報復にローマ市民400人の殺害を命じた大尉エーリッヒ・プリーブケ、「リガの屠殺人」と称された強制収容所長エドゥアルト・ロシュマンなど多くの戦犯が、これによってニュルンベルク裁判の追及を逃れてラテンアメリカに渡った。


1940年にはオランダ・ベルギー、ノルウェイ・デンマーク・長年の宿敵フランスを武力により占領。


1941(昭和16)年、ヒットラー52歳の時

 1月から2月、トブルク、ベンガジが陥落、イタリア軍13万人が捕虜になりトリポリを守るのがやっとという状況に陥った。


 2月、ドイツ軍がイタリア軍援助のため介入してくるのは時間の問題と見た、ギリシャのメタクサス首相はイギリスに救援を要請。3月末までには英軍3個師団と空軍が上陸した。かねて枢軸側についていたブルガリア、ハンガリー、ルーマニアはドイツ軍の通過を認め、日独伊3国同盟に参加した。


 2.12日、北アフリカに派遣されたロンメル中将は、先遣の第5装甲師団(兵力に余裕がないため通常の師団よりも軽装備だった)を率いて、2.14日、トリポリタニアのノフリィアでイギリス軍と交戦、4.6日、メキリの要塞を占領、キレナイカを奪回し、1カ月あまりで300キロも英軍を押し返した。4月にはトブルクを攻撃する。ロンメルに与えられたのは2個師団で(第15装甲師団は4月に上陸)イタリア軍をてこ入れして戦線を保持することしか期待されず、攻勢に出ることは禁じられており名目上はイタリア軍イタロ・ガリボルディ大将の指揮下に置かれていた。しかし英軍はギリシャへの派兵とイタリア軍への急追撃で補給線が伸び、疲労していると判断したロンメルは攻勢に出た。ウェーベルは兵力の少ないロンメルの攻勢を予想していなかった。皮肉なことにロンメルは第1次大戦で連合国側のイタリア軍にカポレット付近で大勝し、ドイツ帝国軍人最高の栄誉「プール・ラ・メリット」勲章を25歳で授与された経験がある。ロンメルに兵力を与えればエジプトとスエズ運河占領も可能性があったが、ヒトラーはソ連攻撃に重点を置いていた。ロンメルは少ない兵力ながら英知に富んだ巧みな戦術で「アフリカ軍団」と「砂漠のキツネ」の名声を敵味方から博した。


 3.5日、 ヒトラー、「対日協力」を指令。


 3.8日、アメリカが、武器貸与法案を60票対31票で上院を通過させた。


3.27日、ユーゴ、反独クーデター。


3.27日、 松岡・ヒトラー会談。


 3.30日、ヒトラーは、「ロシアとの戦いは、騎士道を守って遂行するわけにはいかない。これはイデオロギーの戦い、民族の戦いであり、前例の無いきびしさを要するものだ。ロシアはジュネーブ条約を認めていない、我がSS隊員に対して容赦しないだろう。私は、赤軍政治委員を兵士とみなさず、捕らえたら捕虜にせずに直ちに銃殺するよう要求する」と軍司令官たちに訓示した。


4.6日、 ドイツ軍、ユーゴ・ギリシア侵攻開始。


 4.6日、ユーゴスラビアは当初平和的にドイツ軍の進駐が行われるはずだったが、ドイツの圧力に屈したパヴレ公らの摂政政府に対しクーデターが起き、ペータル国王の親政が宣せられシモヴィッチ将軍の左右連合政権が出来た。ヒトラーは激怒し、ベオグラードを爆撃、装甲師団を大量に投入した。イタリア、ハンガリー軍も侵入し、4.12日、ドイツ軍はベオグラードに到達、元々セルビア人との民族問題を抱えていたユーゴのクロアチア人部隊は戦わずドイツと同盟し、4.17日、あっけなくユーゴは降伏する。


 4.13日、 日ソ中立条約調印。


 4.16日、アルバニアでイタリア軍と戦っていたギリシャ軍の背後にドイツ軍が殺到し、ギリシャが降伏。約5万の英軍は南へ向かって退却する、テルモピレーでは山地の地形を利用してドイツ軍戦車に打撃を与えるが、山岳師団に側面から攻撃されて英軍は退却、月末までには英軍の生き残りも降伏した。


4.23日、ギリシア軍、ドイツに降伏。


 4月、北アフリカのロンメルは、この月2回に渡り要衝トブルクの英軍を攻撃したが、兵力不足で奪取できなかった。


【副総統ルドルフ・ヘスの講和画策事件】
 5.10日、ヘス事件。副総統ルドルフ・ヘスは対ソ連戦の前に祖先が同じアーリア民族である(彼は地政学者のハウスホーファー教授の影響でそう考えていた)イギリスとドイツの講和を画策しこの日、訓練飛行の名目で単身Bf110長距離戦闘機を操縦、アウブスブルク飛行場を離陸。そのままイギリスのスコットランドに飛び、燃料が尽きると落下傘降下した。ヘスは面識のあったダグラス・ハミルトン公爵に面会を求め和平提案を行った、しかし彼の話にはつじつまの合わない事が多く、報告を受けたチャーチルには無視され戦時捕虜として収容された。

 ヒトラーはヘスの勝手な行動に怒り、ヘスが精神異常を来したと発表して体面をつくろい、ヘスと交際のあった占星術師やオカルティストを逮捕した。この飛行はドイツ空軍の飛行管制を突破している所からゲーリングの陰謀とする説もあり、多くの謎につつまれている。戦後、終身刑を言い渡されたヘスは1987年、西ドイツのシュパンダウ刑務所で自殺(替え玉説、殺害説も)する。ヒトラーは副総統ポストを廃止し、新たに創設した党官房長にほとんど無名だったマルチン・ボルマンを任命した。

 5.15日、戦車238両の増援を受けた英軍ウェーベル大将は反撃作戦をおこなったが、ロンメルに見破られ逆にハルファヤ峠を奪われ失敗した。


 5.18日、大西洋ではドイツ海軍最大の新鋭戦艦「ビスマルク」(38センチ砲8門、41,700t)が巡洋艦「プリンツ・オイゲン」と共にグニジア(バルト海沿岸)を出撃、5.24日、デンマーク海峡で英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」巡洋戦艦「フッド」と交戦、防御力の欠陥があった「フッド」を撃沈、「プリンス・オブ・ウェールズ」を損傷させた。ビスマルク座乗のリュッチェンス中将は「プリンツ・オイゲン」に通商破壊戦を命じ分派させ、燃料タンクに被弾した「ビスマルク」をフランスに向けた。


 5.26日、英空母「アークロイヤル」を発進した15機のソードフィツシュ雷撃機が「ビスマルク」を攻撃、魚雷1本が艦尾に命中し操舵装置を破壊したため、「ビスマルク」は英艦隊の追撃を振り切ることが出来なくなった。ヒトラーは「全ドイツは諸君と共にある、職務を遂行せよ」と激励するが、英戦艦「キングジョージ5世」、「ロドニー」との砲撃戦で撃破され駆逐艦の雷撃で止めをさされた。5.27日、「ビスマルク」は沈没し、2200人以上が戦死した。海軍司令官フォン・レーダーは対ソ連戦が始まる前に海軍の戦果を挙げヒトラーの歓心を得たかったが、これによってすっかり発言力を失いヒトラーはますます海軍の行動に口をはさむようになった。

 ドイツ海軍「大海艦隊」は準備が整わないまま、有力な英海軍との戦争に突入しなければならなかった。48年までにはZ計画によって戦艦8、巡洋戦艦5、空母4、重巡洋艦5、駆逐艦68、潜水艦249が配備される予定だった。しかし開戦が早まったためZ計画は棚上げされ、ヒトラーは海軍に通商破壊作戦を命じ、艦隊の主力決戦を避けさせた。そのため戦艦や巡洋艦が敵商船を求めて大西洋に出撃した。


 通商破壊作戦に最も適したUボート(潜水艦)は開戦時には57隻でうち30隻は沿岸用の小型だった。国際法では商船を撃沈する際には浮上して臨検し、積み荷、書類を調べたのち船長が撃沈の可否を判断する定めになっていた。当初は中立のアメリカを刺激するのを避けるため国際法を遵守していた。しかし、戦争中に危険を伴う悠長な作業は続けられなくなり、無警告で攻撃が行われた。カール・デーニッツ潜水艦隊司令は「ウルフパック」(狼群戦術)と呼ばれる攻撃理論を提唱した。これは敵船団に多数のUボートが連携を取りながら反復攻撃を加えるというもので、大きな戦果を挙げた。物資を海上輸送に依存するイギリスは苦境に陥る。

 40年6月から10月にかけてUボートは商船274隻139万5千トンを沈める(損失6隻)、41年9月には53隻、20万トンの撃沈を記録したが、連合国がレーダー、護衛空母、ヘッジホッグなど対潜水艦装備を投入してくると戦果は下降し、Uボートは夜間に充電のため浮上する際にもレーダーで捕捉され攻撃を受けるようになる。Uボートも潜望鏡深度で充電が出来るシュノーケル。敵レーダー波を逆探知するメトックス、ナクソス。音響ホーミング魚雷などの新兵器で対抗したが損害は増え43年末には「ウルフパック」は事実上不可能になり、44年3月には放棄された。大戦末期には画期的なワルター・タービン(過酸化水素機関)を搭載する艦や水中高速潜水艦が作られたが退勢を挽回することは出来なかった。Uボートは戦争中に1,131隻が建造され、戦艦2隻、正規空母2隻、商船3千隻を沈めたが、約800隻を失い、2万8千人が戦没した。45年8月17日、U977は大戦終結後にアルゼンチンで降伏し連合国を驚かせた。


 5.20日、地中海クレタ島に降下猟兵(空挺部隊)が侵攻。暗号を解読されたため降下猟兵と輸送機は大きな損害を出し、以後空挺部隊の大規模な作戦は行われなくなったが英軍は5.26日、同島を放棄、撤退する。


 ユーゴにはクロアチア自治国が作られ、クロアチア人結社ウスタシャがセルビア人を迫害した。バルカン作戦は短期間で終了したがヒトラーが決意していたソ連侵攻作戦「バルバロッサ」は余計な戦闘のため、装甲師団の整備と移動が必要となり延期せざるをえなくなった。のちにこの1カ月の遅れによってドイツ軍はソ連戦で寒気の到来を受け、ひいては戦争全体を失うことになる。


 5.27日、ルーズベルト大統領が「無条件非常事態宣言」を発令する。


 5月末、ロンメルにもやっと第15装甲師団の増援が届いた。ウェーベルは再び攻勢をかけ「バトル・アクス」作戦を発動。


 6.15日、ハルファヤ峠を攻撃するが、英軍の重装甲を誇った「マチルダ戦車」(Mk2、2ポンド砲、最大前面装甲78ミリ)はドイツ軍の88ミリ砲に撃破され、攻撃は失敗する。ロンメルは逆襲に転じ英軍はエジプトに撤退した。チャーチルはウェーベルを罷免しオーキンレック大将を後任にあてた、オーキンレックは失った装備を補給してから反撃を試みるつもりで備蓄に務めた。


【ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破り、ソ連に侵攻】

6.22日、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破り、ソ連に侵攻。モスクワ攻略作戦(バルバロッサ、台風作戦)発動(「独ソ戦開始」)。作戦開始はバルカン作戦のため当初予定から遅れ、きしくも1812.6.24日のフランス皇帝ナポレオン1世のロシア遠征とほぼ同じ日になった。ヨーロッパの大半を手中に収めたナチスドイツは1941.6月、独ソ不可侵条約を破棄してソ連領内に電撃的に侵攻、スターリンをあわてさせる。独ソ戦の始まりである。

 170個師団のドイツ軍は3つの軍集団に分かれ広大なソ連に侵攻した。南方軍集団(ルントシュテット大将)がキエフに向かい、最大兵力の中央軍集団(フォン・ボック大将)はミンスク、スモレンスクを陥しモスクワに向かう。北方軍集団(フォン・レープ元帥)はレニングラード(現サンクトペテルブルク)を目指して進む。

 不意を衝かれた赤軍は大混乱に陥る。ソ連の空軍は飛行場に翼を並べたままドイツ空軍の急降下爆撃機と戦闘機に攻撃され、初日に約1,200機を撃破された。スターリンはイギリスのチャーチル首相からドイツの侵攻が近いと警告を受け、日本のドイツ大使館に出入りしていたスパイ、リヒャルト・ゾルゲからは侵攻の日にちまで報告を受けていたにもかかわらず、前線部隊には警戒態勢を取らせることも警告することもしなかった。逆にドイツ軍を刺激するなと命令していた。


 ソ連兵の多くはドイツ軍から爆撃、砲撃され、戦車が目の前に現れて初めて侵攻を知った。ソ連軍は南方軍の方面を攻撃主力とみて兵力を割いたため南方軍は、苦戦し進撃の速度を鈍らされた。比較的ソ連軍の手薄な方面を進む中央、北方軍集団は猛烈な速度で進撃する。ドイツ軍の前に姿を現したソ連軍のT34戦車やKV1戦車はドイツ軍主力の3、4号戦車を性能面で圧倒し、37、50ミリの対戦車砲も歯が立たなかった。特にT34は装甲を傾斜させた被弾経始に優れた設計、ディーゼルエンジンによる高速と長い航続距離、強力な76.2ミリの備砲を備えていた。

 ドイツ軍は88ミリや捕獲したソ連軍の76ミリ砲でT34を撃破した、ソ連軍も西側諸国と同じく戦車を集中して投入せず、乗員の訓練度が低く、大部分は旧式のBT戦車だったのでドイツ軍は戦車戦で勝利を得ることが出来た。スターリンの粛正で、将軍・将校を多く失っていたソ連軍は特に高度の知識を要求される機甲部隊や空軍、海軍の戦闘運用能力を欠いており、軍に配属された政治将校の命令は、しばしば軍事常識から外れた硬直したものだった。


6.22日、コンピエーヌでのフランスとの休戦協定調印に出席。6.23日、パリを訪れる。エッフェル塔、廃兵院、ノートル・ダム寺院、オペラ座、モンマルトルの丘等を訪問。ナポレオン1世の棺を見学(棺の上に帽子を置き感慨深げに見守ったと伝えられる)。レ=アルの商品取引所の円屋根を指して、「あれは取引所だろう」と指摘したと言われる。オペラ座についても抜群の知識を有し、建築された当時の楕円形ホールの存在を指摘したと言われる。(あまりにパリについて詳しいので、パリを訪れたのは一時期パリに在住していたヒトラーの異母兄であったとする影武者説もある)


 6.27日、中央軍集団はビャリストク、ミンスクでソ連西方軍50万を包囲し、32個歩兵師団、8個戦車師団を壊滅し。戦車2585両、砲1500門、航空機250機を破壊もしくは捕獲、29万の捕虜と大量の物資を得た。ソ連西戦線正面軍パヴロフ大将は敗戦の責を負わされ銃殺される。


 7.15日、スターリンはドイツ軍を迎え撃つレニングラード司令官にゲオルギー・ジューコフ大将を任命した。しかしヒトラーは兵力を南方へ転用するためレニングラード攻略を停止、同市を包囲下においた(同市は44年1月まで包囲に耐え抜いた)。


 7月末、ドイツ軍は、モスクワまで320キロまで到達する。北方軍集団はバルト3国を占領し8月13日ノブゴロドに到着、9月4日にレニングラード攻撃が開始され市内には砲撃と爆撃が加えられた。


 8月、ヒトラーは中央軍集団にモスクワへの進撃を中止させ、南のウクライナ、コーカサス方面を先に攻略するよう命令した。ヒトラーは首都モスクワより南方の穀倉地帯、油田を手に入れるのが先だと判断したのである。グデーリアン、ボックら将軍達はモスクワ進撃を主張するが、ヒトラーの意志は変わらなかった。

 戦局は当初ドイツ側が優勢で、前線はモスクワ近郊まで迫っていた。しかし例年より早く訪れた
ナポレオンを敗退させた)「冬将軍」でドイツ軍の進撃は鈍り、さらに翌年9月からシベリアから投入されたソ連軍の精鋭部隊による総攻撃にあい(スターリングラード〔現ヴォルゴグラード〕の攻防)、約5ヶ月にわたる激戦で、ドイツ軍の最精鋭部隊20万は壊滅、戦局はソ連有利に傾き始める。やがてソ連軍は反撃に転じ、ナチ占領以下のソ連領内はもとよりポーランドやバルカン半島にも進撃を始める。

 緒戦はドイツの圧勝であったが、「冬将軍」などの気象条件の悪化により、ソ連を打倒できなかった。


 8.2日、アメリカ、対ソ経済援助開始。8.14日、大西洋憲章 (米英共同宣言)。


 8.26日、ドイツ中央軍の第2装甲軍がノブゴロドでジェスナ河に橋頭堡を築いた。


 9.11日、南方軍の第1装甲軍がドニエプル河を渡河。


 9.14日、南方軍のクライスト将軍の第1装甲師団と南下した中央軍グデーリアン上級大将の部隊とがキエフ東方で出会い、ソ連南西方面部隊50個師団を包囲した。ソ連軍司令官はキエフ放棄と撤退を求めたがスターリンは死守を命令、数日後撤退を許可するが、既に手後れとなりソ連軍は包囲され将兵は絶望的な抵抗を行った。


 9.26日、キエフ陥落。スターリンの恐怖政治下で苦しんでいたウクライナ人の中にはドイツ軍を解放者として歓迎する住民も多かった。ソ連軍の戦死・捕虜は57万7千人(ソ連側発表)、戦車1万8千両の損害を蒙った。ヒトラーの作戦は一応戦闘では勝利を納めた。

 しかし、ドイツの2倍に当たる1億7千万人の国民を持ち人的資源に優るソ連は、訓練不足ながら続々と兵士を前線に投入し、軍需工場をドイツ空軍の攻撃圏外であるウラル地方へ疎開させた。イギリス、アメリカは兵器・戦略物資を援助する。「我々は、敵の師団を約200と踏んでいた。いまやすでに360を数えている、10個師団を撃破すると敵は新たな10個師団を投入してくる」(参謀総長フランツ・ハルダーの8月の日記)。


 9.30日、ヒトラーは将軍達の主張を聞きモスクワ侵攻作戦「あらし」を発動。


【アウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人絶滅政策稼動】

 9月、アウシュヴィッツ〔Auschwitz ポーランド南部の都市オシベンチムのドイツ名。1939年9月3日にドイツによって占領され、その約1ヶ月後の10月8日に「第3帝国」に統合され、アウシュビッツになった〕で、毒ガスによる虐殺実験か行われた、とされている。以来、アウシュビッツ収容所だけで150万人の命が奪われ、ユダヤ人犠牲者は総計すれば600万人に及ぶ、と伝えられている。この数は、第2次大戦中の日本の戦死・行方不明者〔軍人・軍属〕240万人〔一般市民・原爆被害者を含める約310万人〕に比しても驚愕すべき虐殺数である。

(私論.私見)


 10.2日、ドイツ軍、モスクワ攻略作戦(台風作戦)発動。


 10.3日、ヒトラーの演説「私は何の留保条件もつけることなく、東方の敵(ソ連)は打ち倒され、再び起き上がることがないと言える」。


 10.6日、ドイツ軍はモスクワ防衛線を突破してブリヤンスクを占領。


 10.13日、モスクワまで149キロのカリーニンが陥落。ドイツ軍は1812年ナポレオン軍がロシア軍を破りモスクワへの道を開いた古戦場ボロジノへと進む。スターリンは極東から転用した1個師団を防衛に投入、ドイツ軍は果敢な抵抗に大きな損害を出しながらボロジノを奪う。モスクワではレーニンの遺体が搬出され、政府機関が書類を焼却、市民が塹壕ほりや速成訓練で防衛隊に動員された。


 11.7日、ナポレオンに敗れたクゥトーゾフはモスクワを放棄したが、スターリンはこの日、ドイツ軍の砲声が聞こえる「赤の広場」で革命記念日のパレードを行い、ノモンハンで日本軍を撃破したジューコフをモスクワ防衛に呼び踏みとどまっていた。


 ところがここにきてドイツ軍の進撃速度は鈍ってきた、作戦が遅れるうちにロシアのステップは雨季に入り、秋の雨は舗装の無い道路をぬかるませ自動車はもちろん、戦車さえも泥にはまって動きがとれなかったのである、また補給線は伸び切り、損傷した戦車や戦闘車両はドイツ本国に送り返さねば修理できなかった。ソ連の大地は西ヨーロッパと違いインフラが未整備であらゆる物資を本国から輸送しなければならなかったが、道路や橋梁も貧弱で鉄道は軌道幅が違いドイツの幅に直さねばならなかった。これまで6週間以上継続して戦争をしたことの無かったドイツ軍は短期決戦のあてが外れた。

 まもなく例年より早く冬が到来し、道路は凍結し、車両は再び動けるようになったが、冬用の被服はなく凍傷にかかり落伍する兵士が続出した。


 11.15日、気温が零下22度まで下がったとグデーリアンは報告した。ドイツ軍の車両は水冷エンジンが凍結し、シリンダーに罅が入る。また大砲や銃器のオイルが凍結し可動部が動かなくなり、光学照準器は低温による誤差のため意味をなさなかった。確実な武器はスコップと銃剣に手榴弾だけという有り様だった。それでも将兵は不屈の意志で戦いを進め、吹雪の中モスクワまであと30キロに迫る。


 11月、ドイツ軍を上回る戦力が整ったと判断したオーキンレックは「クルセーダー」作戦を発動。


 11.18日、キレナイカに侵入、トブルク南のシディ・レゼクの飛行場を占領した。同日、英コマンド部隊がロンメルを狙ってベダ・リットリアの司令部を襲撃したが、すでに司令部は移動しており、ロンメルもいなかった。出だしが遅れたロンメルは状況の把握に努め本格的な攻勢と判断。シディ・レゼクに増援を送り、トブルクの英軍との合流を阻止する。英軍は大軍だが広く展開しすぎていると判断したロンメルは飛行場にいた英第7機甲旅団を襲い、救援の第22と第7機甲旅団を各個撃破し飛行場を奪回し、エジプトに迫った。態勢を立直したオーキンレックは東西からドイツ軍を挟み撃ちにすべく移動したが、ロンメルはトブルク南まで撤退した。

 11.27日、英軍はトブルクに到達、戦力を消耗したロンメルはトリポリタニアへ撤退し来年の補給を待った。独伊軍の補給は地中海のマルタ島から出撃する英軍に妨害され、必要量を輸送できなかった。


 11月、ソ連ヴィアチェスラフ・モロトフ外相(外務人民委員)はドイツを訪問しヒトラーと会談、モロトフはルーマニアに対するドイツの保障を取り消すよう迫り、またフィンランドにいたドイツ軍の撤退を要求した。ヒトラーは激怒してしまう。のちのリーベントロップとの会談は英軍のベルリン空襲で中断され、防空壕に移動した。リーベントロップは「イギリスの降伏は近い」と語ったがモロトフは「それではなぜ我々は防空壕で英軍機の爆撃をのがれなければならないのか」と皮肉を言った。


 ドイツの軍需産業は前線から多大の装備を要求されたが、ヒトラー(彼は軍服のデザインから戦車の武装、銃器、飛行機、艦船の生産量など細部に係わった)やNSDAP幹部の細部に渡る口出しと、頻繁に変更される命令や仕様変更によって大きな混乱に見舞われていた。42年までは陸海空3軍は独自の工場を傘下にしており、ある工場はフル生産しても他の工場は仕事が無いなど融通は効かなかった。たとえば師団規模にまで肥大したSS師団は国防軍師団よりも戦車や砲、各種車両などを優先的に配備され。空軍相のゲーリングは自分の名前を冠した空軍所属の装甲師団を作り、党第2位である自分の権限を使い装備を優先的に回させた。空軍においても4発の戦略爆撃機計画(ウラル爆撃機)は37年に中止され、技術局長エルンスト・ウーデット上級大将の無能から新型機開発や生産管理は進まなかった、ウーデットは第1次大戦の撃墜王だったが、組織の管理能力が無く、急降下爆撃に固執しあらゆる爆撃機に急降下能力を要求。4発の大型機He177まで急降下性能を求めた、このため同機は2つのエンジンを連結し1つのナセルに納めるという無理な設計をしたため火災を頻発し開発は失敗した。戦闘機においても主力機Bf109(Me109)の後継機Me209の実用化も失敗した。戦争末期に連合軍機を速度差で圧倒したジェット戦闘機の開発にも冷淡であった。41年秋からFw190戦闘機が投入されるが、高々度では性能が低下するためBf109と並行して使用された。


 11月、ウーデットは自殺する。しかしヒトラーが個人的に親しかった建築家のアルベルト・シュペーアを42年軍需相に任命してから軍需資材の統制を軍需省に一本化し、中央生産委員会を設け生産の効率化に成功した。またスターリングラードの敗北で意気消沈したヒトラーは罷免していた装甲師団産みの親グデーリアンを復職させ43年2月装甲軍総監に任命。グデーリアンは装甲師団の組織と訓練の権限と、シュペーアと共に生産部門の権限も得た。グデーリアンは装甲軍の兵士を訓練し、戦車の増産に力を入れたしかし、中戦車「パンテル」(75ミリ砲)、重戦車「ティーゲル」(88ミリ砲)は生産工程が多く、まだ技術的に修正しなければならない個所が多く生産は軌道に乗らなかった。このため生産工程の少ない突撃砲(戦車の車体に前方しか射撃できない砲を載せた装甲車両、自走砲とも)によって数を補わなければならなかった。


 12.2日、ドイツ軍第258歩兵師団の偵察大隊はモスクワ近郊に突入し、クレムリンの尖塔を望んだが、翌日には寄せ集めの労働者を含むソ連軍に撃退された。12.4日、気温は零下35度となり、ドイツ軍は前進をやめ文字どおり凍結してしまう。


12.5日、ソ連軍、対独反攻開始。


 12.6日、ジューコフは反撃に出てモスクワ前面のドイツ軍を押し返した。シベリアで日本軍と対峙していた冬季経験豊富な部隊がゾルゲの日本の攻撃は無いという情報を受け、前線に到着していた。北方からモスクワに迫っていた第3装甲軍(ヘルマン・ホト上級大将)、南方の第2装甲軍(グデーリアン)の戦線が相次いで突破された。ソ連軍の装備は寒さにも適応しT34戦車は厳寒の中でもディーゼルエンジンが作動し、幅の広いキャタピラは雪上でも行動できた。ドイツ軍は機械の対応も被服の補給さえ不十分だった。

 12.6日、 ヒトラー、モスクワ攻撃放棄を指令 (撤退開始)。


独ソ戦の形勢が不利になると作戦の細部にまで介入するようになり、参謀本部との関係は悪化した。また1941年12月にはユダヤ人の組織的殺害(ホロコースト)を指示したとも言われる。


 12.8日、日本軍が宣戦布告なしにハワイのパールハーバーを奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)、日米開戦。

 アメリカ太平洋艦隊の戦艦多数を撃沈する。ヒトラーは日本に対ソ参戦を期待していたが、日本はソ連と中立条約を結びアメリカとの戦争に踏み切った。アメリカは中立法を改正して武器貸与法でイギリス、ソ連に兵器・戦略物資を送り、大西洋では船団を護衛するアメリカ駆逐艦とUボートが交戦をすることがあったが、外交的にはヨーロッパの戦争には孤立主義の世論からイギリス寄りの中立を保っていた。しかしヒトラーはこの戦争開始のやり方にはおおいに満足であった。大島駐独大使に「まことにうってつけの宣戦布告だ、こうした方法でなければだめですよ」と語った、しかし「私はいかにしてアメリカを負かすか、まだ分からない」とも語る。


【日独伊が対米宣戦布告】

12.11日、日本の真珠湾攻撃に呼応する形で独伊がそれぞれ対米宣戦布告。3国同盟条約では同盟国が他国から攻撃を受けた場合には共同してこれに当たる事になっているが、同盟国から宣戦した場合には他の2国には参戦の義務はなかった。しかし、ヒトラーは参戦した。いまやドイツはソ連、イギリス、アメリカの3大国と戦うことになった。チャーチルはアメリカの参戦に歓喜する。

 演説では「 我々は戦争に負けるはずがない。我々には三千年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ。」と日本を賞賛しアメリカに宣戦を布告した。しかしドイツにとって日本の参戦はあまりに遅く、いまや負担を増すばかりの同盟に、ヒトラーは不快の念を側近に密かに打ち明けている。


 12.15日、ソ連軍はカリーニンを奪回し、モスクワから200キロに渡ってドイツ軍を撃退した。これより前南方軍集団も11.21日、ハリコフを占領したものの、11.30日にはソ連軍の反撃により奪還され、退却を強いられた。ドイツ軍不敗神話の終わりが始まった。


1941(昭和16)年、陸軍最高司令官兼任。


1942(昭和17)年、ヒットラー53歳の時

【ヴァンゼー会議】
 1月、ヒトラーの意をうけたナチス高官がヴァンゼー会議を開催し、「ユダヤ人の最終的解決」を決定する。

 ヴァンゼー会議以前、ナチスによるユダヤ人への弾圧とは、主にユダヤ人を「国外追放ないしは隔離」することにあった。「ユダヤ人の最終的解決」がユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)を意味するとされている。ヒトラーの目的が「領土拡大」から「ユダヤ人根絶」に移ったことで、第二次世界大戦はさらに悪夢の様相を帯びるようになる、とある。 

 1月、補給と兵員がトリポリに到着。1.21日、ロンメルは攻勢に出た。1.29日、ベンガジを占領。ガザラを守る英軍防衛線を陸側に迂回して海岸へ進出しようとした、英軍はこれに対し予備の機甲部隊を投入、英軍が新たに配備した6ボンド対戦車砲とアメリカ製M3戦車に苦戦したものの、トブルク西の「大釜陣地」に篭もり88ミリ砲の射程に英軍戦車を誘き出して撃破、英軍の攻勢をしのいだ。


 2月、ドイツ軍はハリコフでソ連軍の攻撃を撃退していた。ハリコフの北クルスクではソ連軍の戦線がドイツ軍戦線に100キロほど突出していた。ヒトラーはこの部分に着目し、南方軍、中央軍集団が南北から挟撃してソ連軍を包囲する計画で攻撃を命じた。南方軍集団司令官マンシュタインはハリコフの勝利の後4月には攻撃可能だと報告していたが、ドイツ軍部隊集結は新型戦車を待つ内に遅れる。


 東部戦線では2月にはソ連軍の反撃もまずい攻撃で息切れし、退却したドイツ軍は防御拠点を築き戦線は落ち着いてきた。

 4.21日、ドイツ中央軍集団北翼の5個師団10万が空輸を受けながら持ちこたえ、1月からソ連軍に包囲されていた、デミヤンスク救出が成る。ヒトラーは「撤退を許さず、死守せよ」の命令を乱発し前線の戦術的撤退まで認めなかったが、41年末から42年には命令に背いたとしてブラウヒッチュ、ボックにグデーリアンまで罷免した。


 4月、ヒトラーは、戦力を補強し南方軍集団を2つに分け、A軍集団(リスト元帥)は南方のドン川西で敵を撃破、コーカサスの石油を押さえ、B軍集団(ヴァイクス将軍)はボルガ河畔の工業都市スターリングラード(現ボルゴグラード)を占領する新たな作戦(ブラウ「青」作戦)を発動する。


 5月、ソ連軍はハリコフ付近で攻勢に出たが撃退される。ドイツ軍は冬の打撃から立ち直り、再びソ連軍に損害を与えた。ソ連軍は当初、ドイツ軍がモスクワを攻略するものと判断し、兵力を温存するため戦略的な撤退を行った。B軍集団は開戦期を思わせる快進撃を見せた。


 5、6月にはソ連軍がスパイ網や英ウルトラ情報から、ドイツ軍の攻撃を予測し防備を固めた。


 6.20日、ロンメルはエジプト国境に進むと見せかけて再度迂回し、3万5千の英軍が守るトブルクを総攻撃。6.21日、ついにトブルクを占領した。トブルクでは1万の捕虜と膨大な軍需品が手に入った。ロンメルは敗走する英軍を追ってエジプトに侵攻したかったが、戦闘に疲れたイタリア軍から邪魔されヒトラーに直訴してエジプト侵攻の許可を受けるが、すでにイギリス軍の混乱は収拾していた。6.30日、ロンメルは、アレクサンドリア西、ナイル川まで約100キロのエル・アラメインに達し防衛線に攻撃を加えたが、補給線が伸びたドイツ軍の戦車は50両ほどになってしまい、増援を受けたイギリス軍の防御は堅くついに突破出来なかった。


 6.21日、ロンメルはトブルク占領の功績により最年少(50歳)の元帥に昇進。「元帥になるより1個師団を」と家族への手紙に書いている。


 6月、アメリカ第8空軍がイギリスで編成され、7.4日にはオランダを爆撃した。アメリカ軍は4トンの爆弾を積め高度1万メートルを飛行する「空の要塞」B17爆撃機を投入しドイツの都市を昼間爆撃し、夜間はイギリス空軍が爆撃を行った。当初はドイツ軍の迎撃戦闘機や高射砲により大きな損害を出していたが、大規模な爆撃により次第にドイツの戦争遂行力を減滅させていった。


 7.3日、820ミリ、600ミリ臼砲を投入した第11軍(マンシュタイン上級大将)とルーマニア軍の攻撃でクリミア半島のセヴァストポリ要塞が陥落。


 7月、ボルホフ川西部で、ソ連軍第2打撃軍がスターリンの命令で撤退を許されず、包囲され補給を断たれて多くの兵士が飢餓と病気に倒れた。


 7.11日にはモスクワ攻防戦で戦功を上げたソ連軍アンドレイ・ウラソフ中将が捕虜になる。ウラソフはスターリンに幻滅し、反スターリンのロシア人捕虜や協力者を編成して戦闘に立ち上がらせる用意があるとドイツ軍に打診した。ドイツ軍の一部には彼らに戦闘部隊の編成を認めさせ、共に戦わせようとするグループがあり、42.11月スモレンスクで「ロシア解放委員会」が設立されたが、ヒトラーはスラブ民族は人間以下のものであり、対等な同盟者として扱うことは論外だとし、同委員会は活動を停止した。一部のソ連兵捕虜はドイツ軍の収容所から脱走しても、反逆罪で収容所送りか処刑されるため、収容所で死ぬよりはドイツ軍に補助要員あるいは戦闘員として加わった。


 7.23日、A軍集団の進撃は当初は順調で、ロストフを占領したがコーカサス山岳地帯でソ連軍の頑強な抵抗にあい停滞した。ヒトラーはA軍集団の第1装甲軍を援護するためB軍集団の第4装甲軍(ホト上級大将)を西に向かわせ、歩兵主力の第6軍(パウルス上級大将)を代わりにスターリングラード攻略に向かわせた。しかし進撃速度の遅い第6軍が8月にスターリングラードに到達した時にはソ連軍の防備は強化されてしまっていた。ヒトラーは突然スターリングラードを急いで占領せよと命令、いったん西に向かわせた第4装甲軍をまたスターリングラードに呼び戻した。スターリンは防衛総司令官エリュメンコ大将と第62軍司令官チュイコフ中将に死守を命じ、党中央委員会書記マレンコフ、軍事会議委員フルシチョフを派遣。ソ連軍はボルガ河を背にした文字どおり「背水の陣」で不利な態勢ながらスターリンの名を冠したこの都市を死守する構えである、ヒトラーにしてみればこの都市の名前自体が戦略上の目的よりも重要であった(ラジオ演説では都市名にはこだわっていないと冗談交じりに語ったが)。かくして副次的な作戦であったスターリングラード攻略は両軍の総力を挙げた戦いとなる。


 8月、チャーチルは再び指揮官を交代させオーキンレュクの代わりにアレクサンダー大将を任命、第8軍司令官にはバーナード・モントゴメリー中将を充てた。


 8.30日、ロンメルは再びエル・アラメインの英軍を攻撃しようとし戦線後方のアラムアルファ高地を攻撃するが、補給を受けたモントゴメリーは陣地を対戦車砲で強化し、燃料に乏しいドイツ軍の攻撃は失敗した。砂漠の厳しい気候の中で常に前線を回り、兵士と同等の食料しか口にしなかったロンメルの身体は不調を来し、持病の肝臓疾患と高血圧症が悪化したため、9.23日、療養のため本国に帰った。


 イタリアに連合軍が上陸し、東部戦線でドイツ軍が守勢に回り始めた。北フランス方面への連合軍の上陸が予想された。すでに8.19日、フランスのディエップにイギリス、カナダ軍が奇襲上陸を行いドイツ軍の反撃で大損害を出し撃退された作戦があった。この作戦は本格的反攻ではなく、威力偵察的なものであったがドイツ軍に「反攻近し」と警戒を強めさせた。連合軍は北フランス上陸作戦「オーバーロード」の期日を44.5月に定め、アメリカ軍ドワイト・アイゼンハワー大将が総司令官に任命されていた。ドイツ軍のヨーロッパ西部を担当する西方総軍(ルントシュテット元帥)はB軍集団(ロンメル元帥)がフランス北部を担当していた。ロンメルは「最初の24時間で勝負がつく」と、連合軍の反攻を上陸軍が橋頭堡を築く前に海上か水際で撃破すべきだと考えていた。連合軍の攻撃が始まれば制空権を失ったドイツ軍は航空攻撃にさらされ、部隊の移動も反撃も困難になるからである。一方、ルントシュテットは上陸軍を内陸まで引き込み反撃を加え撃破する考えだった。さらに連合軍の上陸地点の予想はロンメルとヒトラーはノルマンディ地区と踏んでいたのに対し、軍首脳は距離的にイギリスに近いカレー地区を予想した。ヒトラーは連合軍の反攻に対して「大西洋防壁」を築くと盛んに国民に演説していたが、実状は要塞などとても完成にほど遠い状態であり、固定要塞で戦う戦略思想自体、ドイツ軍が戦争初期に打ち破ったものだった。敵を水際で撃破しない限り戦争に負けると考えたロンメルは海岸地帯の防備を固めるため砲台を建設し、水中には妨害物と爆発物を仕掛け、海岸には地雷を埋めた。また自身の設計による数々の妨害物を配置する、空挺部隊を防ぐ木とワイヤーの妨害物は「ロンメルのアスパラガス畠」と呼ばれた。しかし装備は資材不足によりロンメルを満足させるものではなかった。ロンメルはトート部隊(軍需省の建設部隊)や空軍の高射砲部隊に助力を求めたが、指揮系統の違いから拒否される。そして最もロンメルが必要とした物「装甲師団」はヒトラー直接の命令下に置かれていて、ロンメルの手元には無かったのである。ヒトラーはロンメルとルントシュテット両者の主張の折衷案として、装甲師団を海岸と内陸の中間に配置した。フランス北部にいた部隊の多くは東部戦線で消耗したものが再編のため休養していたり、高齢の兵士や外国人で構成された部隊であった。また、ヒトラーは最初の考えを変え反攻はカレーで行われると思うようになっていた。


 8.22日、 ドイツ軍、スターリングラード猛攻撃開始 (スターリングラード攻防戦)。ドイツ第6軍を援護する第14装甲軍はスターリングラード北部を押さえボルガ河に達した、第4装甲軍は南からスターリングラードを圧迫する。しかし、攻略には兵力が足りず周辺部には弱体なルーマニア、ハンガリー、イタリア軍の同盟国軍を配置した。スターリングラードの包囲は完全ではなくソ連軍はボルガ河を渡って兵士や物資を送り込んだ。


 9月、ドイツ軍は空軍の猛爆撃の後、市内に突入し激しい市街戦が展開される、瓦礫の中で両軍は時には白兵戦を交えながら1区画の奪取をめぐり血を流した。こういった市街地の戦闘ではドイツ軍の戦車は機動力を生かせない。しかしあせるパウルスは装甲師団の戦車、装甲車まで市街戦に投入、装甲師団の用兵を誤った投入に抗議したヴィッテルスハイム、シュベドラー両将軍は罷免されてしまった。一方、南方のA軍集団の第1装甲軍(クライスト大将)は8月9日マイコプを陥し、22日にはコーカサス山脈の最高峰エルブルス山に山岳部隊が登頂し、ハーケンクロイツを山頂に立てた。しかし、険しい地形と装備の不足、ソ連軍の頑強な抵抗を受けて進撃が停滞した。油田のあるバクーへ向かったが補給が続かず、空軍の援護もなくなり、油田もソ連軍が撤退の際破壊したため皮肉にも、油田地帯で燃料が尽き動きが止まってしまった。 グロズヌイ攻略に向かった北欧志願兵から成る「ヴィーキング」師団も9月下旬にソ連軍の強力な防御を受けクルプ峡谷までしか進めなかった。怒ったヒトラーはスフミ攻略が不可能だと訴えたA軍集団リスト元帥を解任し、クライストに代えたが状況は変わらなかった。


 9月下旬、ヒトラーは、参謀総長ハルダーまで解任し、一時は自らA軍集団の指揮を取っている。


10.3日、A-4ロケットの打ち上げ成功。


 10.23日、戦車1000両などドイツ軍の約2倍の戦備を整えたモントゴメリーは「スーパーチャージ」作戦を開始。エル・アラメインから攻勢を開始し、ドイツ・イタリア軍前線に1200門の火砲から砲撃を浴びせた。地中海のイタリア輸送船は次々に撃沈され補給に乏しい独伊軍は戦線を突破される。 ロンメルの留守を守るシュトゥンメ将軍は前線視察中に機関銃の掃射を受け心臓発作を起こし死亡した。急遽ロンメルはアフリカへ戻るが、状況は悪く、11.3日には残る戦車は23両しかなかった。11.5日、ヒトラーの「貴下は部隊に勝利か死以外の道を示してはならない」との撤退禁止命令に背き撤退を命じる。独伊軍はエル・アゲイラまで1000キロを2週間で撤退した、しかし逃げ遅れた歩兵部隊やイタリア軍は多数が捕虜になった。枢軸軍は2万5千の戦死者と3万の捕虜を出した。11.19日には独伊軍はキレナイカから西へ撤退する。


11.8日、連合軍、北アフリカ上陸開始。フランス領モロッコ、アルジェリアに連合軍が上陸(トーチ作戦)しており独伊軍は挟み撃ちされる形になる。ビシー政権のフランス軍は連合軍と交戦し、カサブランカでは米戦艦「マサチューセッツ」が仏降伏時に未完成のまま逃れてきていた戦艦「ジャン・バール」と砲撃を交わし撃破した。


11.10日、仏ダルラン提督は連合軍と停戦する。ヒトラーはフランス領土全域とチュニジアへの進駐を決意。11.26日、フランスのツーロン港に停泊していたフランス艦隊はドイツ軍が侵入すると一斉に自沈した。


12.3日、ヒトラーは第5装甲軍(フォン・アルニム上級大将)を新設し、43年1月末になって新型重戦車「ティーゲル」装備の大隊を含む増援をアフリカに送り戦力を増強させたが、半年でも早くこの増援があればエジプトを占領できたのにと将兵を悔しがらせた。


 11月中旬、スターリングラードで、ジェルジンスキー・トラクター工場、赤いバリケード工場など、市内のほとんどをドイツ軍が制圧していた。チュイコフの第62軍は辛うじてボルガ河の数百メートルの渡河地点にしがみついていた。しかしジューコフのソ連軍はドイツ軍がスターリングラードに掛かり切りになっている間に機動力を生かし、反攻に転じ逆にドイツ軍を市内に包囲する作戦を考えていた。ハルダーらはドイツ軍の側面が脆弱であることをヒトラーに進言したが、ソ連軍には予備兵力が無いと思い込んでいたヒトラーは、ソ連軍が150万の予備兵力を準備しているとの情報を無視した。


11、第二次世界大戦一進一退期

11.19日、ソ連軍、スターリングラードで反撃開始。ソ連軍は、100万の将兵、戦車980両をスターリングラード正面のエリューメンコ軍、西南方面ヴァツーチン軍、ドン河方面ロコソフスキー軍の3集団に分けてドイツ軍の脆弱な側面を攻撃、市の南西にはルーマニア第3軍の対戦車能力を持たない部隊が配備されていた。これを補強していたドイツ第48装甲軍団は旧式なチェコ製戦車を配備された予備部隊で燃料不足から2カ月もエンジンをかけておらず、移動命令が出たときには偽装のためかけられた藁に住み着いたネズミに配線をかじられ、始動するとショートが起き104両のうち42両しか出撃することが出来なかった。ソ連軍の3500門の火砲の猛射を受けたルーマニア第3軍の陣地は、ソ連第5戦車軍の200両以上のT34にたちまち突破され、市の西カラチでソ連軍が合流。


11.23日、第6軍と第4装甲軍の一部20個師団、33万人、戦車600両とルーマニア軍2個師団が市内の廃虚に包囲されてしまった。パウルスはこの時点で弾薬2戦闘日分、食料は12日分しかないと報告し、最低1日750トンの補給を求めた。ヒトラーは「現在のボルガ・北部戦線はいかなることがあっても保持せよ。補給は空輸によって行う」と第6軍にスターリングラード脱出を許さず、包囲から飛行機で脱出したパウルスを市内に送り返した。ハルダーの後任となったツァイツラー少将もスターリングラードからの第6軍の脱出を求めたがヒトラーは拒否。第4航空軍フォン・リヒトフォーフェンは30万の兵への物資の空輸は能力を超えるとしたが、パリにいたゲーリングは電話を受けると、補給は1日500トンを包囲網中にあるピトムニク、グムラクの飛行場に空輸で行うと安請け負いした。

 ヒトラーは北方にいて、9月のレニングラードでのソ連軍の反撃を阻止したマンシュタイン元帥にドン軍集団を結成させ、敵の攻撃を阻止しスターリングラードの奪回を命じた。しかし、マンシュタインが司令部に到着してみると彼が指揮すべき部隊の第6軍は包囲され、第4装甲軍はわずかしか残っておらず、ルーマニア第3、4軍は大損害を受けていた。 マンシュタインはフランスから第6装甲師団、予備から第17装甲師団など部隊をかき集め13個師団を揃えたが、移動に時間がかかるうちに12月を迎えていた。ヒトラーは「第6軍は今後スターリングラード要塞部隊と呼ばれる」 と語るが、冬を迎えたスターリングラードでは土は凍結して塹壕を掘ることも出来ず、木材は戦闘で燃え尽き零下40度の寒気とソ連軍の砲火を防ぐものはテントしかなかった。


 12.12日、これ以上待てないと判断したマンシュタインは「冬の暴風」作戦を発動した。第6軍救援のため第4装甲軍の3個師団がホト上級大将の指揮で、スターリングラードまでの120キロを戦いながら進む。マンシュタインは救援軍に第6軍を合流させ脱出の既成事実をヒトラーに認めさせるつもりであった。


 12.16日、ソ連第1親衛軍がドン川西のイタリア第8軍前線を攻撃、弱体なイタリア軍は撃破されロストフが脅かされ、救援軍は西からソ連軍の強圧をうける。ホトは第6軍の前線まであと35キロのところで進めなくなった。マンシュタイン元帥は独断で第6軍のパウルスに脱出して救援軍に合流するよう命じたが、ヒトラーは死守を命令。官僚的な性格のパウルスは第6軍には30キロ分の燃料しかないとして合流を拒否。パウルスはヒトラーの命令を守ってしまったため第6軍の命運は尽きた。 ホトは撤退し、200キロを飛ぶ空軍の物資補給は1日65トンがやっとで食料の最低必要量さえ輸送できず、第8航空軍団は輸送機の他に爆撃機もかき集めて輸送に投入したが、ゲーリングの約束した500トンは1回も達成出来なかった。空軍は攻撃と悪天候で488機の損害を出した。スターリングラードでのドイツ軍の絶望的抵抗は43年まで続いたが、1月には餓死者が記録される。


 12.31日、イギリスからソ連への輸送船団JW51B攻撃のため出撃した、ドイツ海軍ポケット戦艦「リュッツォー」、重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」と駆逐艦6隻は敵輸送船団に対してほとんど損害を与えられずに帰還した。ヒトラーは海軍に敵が優勢な場合には交戦を禁止していたが、オスカー・クメッツ中将は悪天候下で敵の陣容が分からずに、船団護衛のイギリス駆逐艦や遅れて救援に現れた巡洋艦2隻からの激しい防戦を受け、駆逐艦1隻が沈没し「アドミラル・ヒッパー」が損傷したため敵が優勢であると判断して引き上げた。ヒトラーは激怒し全ての大型艦を解体して資材をより有効に使うよう命令し、海軍長官レーダー元帥を解任した。後任のカール・デーニッツは大型艦の解体は撤回させたが、駆逐艦以上の艦艇の建造は中止され、海軍大型艦艇の作戦行動はさらに積極性を欠くことになった。


1943(昭和18)年、ヒトラー44歳の時

 1.26日、ロンノル軍は、チュニジアまで後退する。ロンメルは北アフリカからの撤退をヒトラーに進言するが、ヒトラーは例によって死守を命じた。


 1.21日、ドイツ軍は飛行場を失い、細々と続いた補給もパラシュート投下のみになる。1.24日、パウルスは降伏の許可をヒトラーに求めた。ヒトラーの返事は「余はすべての降伏を禁じる。軍は弾薬が尽きるまで抵抗せよ。第6軍の英雄的行動は、ヨーロッパの救済に、前代未聞の貢献を成すものである」。


 1.30日、ドイツ軍は3つの地域に分断され、これまで2回のソ連の降伏勧告を拒否したパウルスは弾薬、医薬品、食料が尽き「運命が24時間以内に迫った」と無電を打ったが、ヒトラーは降伏禁止命令と共にパウルスを元帥に昇進させ「歴史上プロイセン・ドイツの元帥が降伏したことは無い」と返電した。翌日、国営百貨店の地下室に置かれた司令部でパウルスは降伏した。包囲後の戦闘でドイツ軍16万が戦死し9万1千人(将軍24人)が捕虜になった。ヒトラーの2つの目標、スターリングラードも南部の油田も手に入らなかった。


 2.2日、スターリングラードのドイツ第6軍が全軍降伏した。


2.13日、第5装甲軍はまだ砂漠に不慣れなアメリカ軍第1機甲師団に攻勢をかける、「ティーゲル」の攻撃を受けたアメリカ軍は戦車150両を撃破され129人の戦死、2000以上の捕虜、行方不明者を出し歴戦のドイツ軍に緒戦で痛撃された。2.18日、ドイツ軍はカセリーヌ峠を占領した。アルニムの南にいたロンメルはマレトからガザフに進出し、敵の弱点をテベサとみて攻撃許可を求めたが攻撃は強固なターラに変更されてしまう。

 このため連合軍が待ち構えていた地点を攻撃することとなり、やむなくロンメルはメデニーヌのモントゴメリーの英第8軍を攻撃するが、またもや強固な防御地点をまともに攻撃する結果となり攻勢は頓挫した。


2.23日、司令部からアフリカの部隊を「アフリカ軍集団」に統合してロンメルに指揮権を与えるという命令が届いたが、前日にロンメルはカセリーヌ峠を捨て撤退を開始していた。ロンメルは指揮をアルニムに任せ3.9日、アフリカを去る、再度ヒトラーにアフリカ撤退を進言するが拒絶され再びアフリカに戻ることは無かった。3.17日、米第2軍団の攻撃がチュニスへの退路を断つため開始され、3.20日、マレト防衛線への英第8軍の攻撃が始まった。5.12日、海路撤退することが出来ず、包囲されたアフリカ軍団とイタリア軍25万はチュニジアで降伏した。


3.13、東部戦線のスモレンスクを視察したヒトラーを爆殺しようとヘニング・フォン・トレスコウ少将が計画した。副官のファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉に爆弾入りのリキュールの瓶をヒトラーの搭乗機に持ち込ませたが、雷管に不具合が生じたため爆発せず失敗、爆弾は密かに回収され計画は明るみに出なかった。


 春、東部戦線のドイツ軍装甲師団は、戦車と装備の補給を受け戦力を貯えることができた。またソ連軍も再びドイツ軍の攻勢を予測して戦力を補充していた。


 7.4日、「チタデル(城砦)」作戦は奇襲の要素が失われ、強襲となったが開始された。両軍ともに満を持したクルスク戦にはドイツ軍90万、戦車・自走砲3700両、砲1万門、航空機2500機。ソ連軍133万7千、戦車・自走砲3306両、砲2万門、航空機2650機が激突した。ソ連軍中央方面軍ロコソフスキー上級大将は脱走兵の情報から攻撃を予知し、600門の砲と「カチューシャ」ロケットでドイツ軍に先制砲撃を加える。北部から攻撃する第9軍(クルーゲ元帥)のドイツ軍戦車はソ連軍の防御陣地線に突入を図るが、初陣の「パンテル」は機械故障が多発、「4号戦車」は強固な陣地から対戦車砲と、地雷原に撃破されて大きな損害を出す。重装甲の突撃砲「フェルディナント」(88ミリ砲1、機銃1装備)は砲撃をものともせず戦線を突破するが随伴の歩兵がついてこれなかったため、ソ連兵の肉薄攻撃で撃破されてしまった。重戦車「ティーゲル」は威力を示し、対戦車砲やT34を撃破したが、北部からの攻勢はソ連軍の猛烈な抵抗でオルホヴァトカ村で停滞した。第9軍はやっと10キロ進出するのに戦車の3分の2を失った。それでもドイツ軍は攻勢を維持し、南部から攻撃する第4装甲軍(ホト上級大将)、ケンプ作戦集団は北部の第9軍より強力な陣容で南部のオボヤン地区に攻撃を加えた、第1SS装甲師団「アドルフ・ヒトラー」同第2「ダス・ライヒ」同第3「トーテンコープ(髑髏)」など精鋭を含む13個師団はソ連軍の戦線に圧迫を加え前進した。南部ではドイツ軍はソ連空軍機の来襲をレーダーで捕らえ、戦闘機を迎撃に出撃させ爆撃機を撃退し制空権を押さえた。


 7.6日、ドイツ軍はペトロフカに達した。7.8日、第4装甲軍はソ連第6親衛軍司令部を制圧。7.12日にはプロホロフカに向かい第4装甲軍の武装SS師団はソ連第5親衛戦車軍と激しい戦車戦を展開した。両軍1500両の戦車は乱戦となり双方射撃距離が近いため高速のT34は76.2ミリ砲でも「ティーゲル」戦車の88ミリの長射程に対抗できた。上空ではドイツJu87急降下爆撃機、ソ連Il2襲撃機「シュトルモビク」が敵戦車を求めて乱舞した。ドイツ軍の損害は多かったがやや有利に攻撃を進めていた。マンシュタインはあとひと押しだと見た。しかし、7.13日、ヒトラーは「チタデル」作戦の中止を命じた、7.11日、連合軍がイタリアのシチリア島に上陸したのである。ヒトラーは装甲師団をイタリアに向かわせようとしたのだった。実際にイタリア本土に連合軍が上陸したのは2カ月後で部隊の転用は早すぎた。


7.7日、ウェルナー・フォン・ブラウンヴァルター・ドルンベルガー将軍らを総統司令部に呼び出し、1942(昭和17)年10月3日のA-4ロケットの記録映画を見る。この時、「なぜ諸君の仕事が信じられなかったのか。1939(昭和14)年にこのロケットを持っていたら、今回の戦争は起こらなかった」とつぶやいたと伝えられる。


7.10日、連合軍、シシリー島上陸 (ハスキー作戦)。


 7.11日、連合軍が「ハスキー」作戦を開始。イギリス第8軍と米第7軍(ジョージ・パットン中将)が上陸したシチリア島では、北アフリカで戦っていた空軍のヘルマン・ゲーリング装甲師団が、アメリカ軍が上陸した橋頭堡のジェラをイタリア軍リヴォルノ師団と共に攻撃するが、沖合いからの艦砲射撃で撃退された。


 7.14日、ソ連軍の反撃が開始され、7.30日には攻勢が始まった地点までドイツ軍は後退した。8月にはハリコフとオリョールをソ連軍が奪回。ドイツ軍は3330名が戦死、戦車約1千を失い、ソ連軍は約1万7千名が戦死、戦車約2千台の損害を出したがクルスクを守り抜き、東部戦線ではこの史上最大規模の戦車戦以降、兵員、装備の調達が続かないドイツの守勢が続く。ソ連軍は対戦車戦と機甲部隊の運用を、犠牲を出しながらもドイツ軍から学び取ってしまっていた。9月25日スモレンスクが奪回される。「チタデルは、東方におけるわれわれの主導権を維持しようとした最後の試みであった。失敗に等しいこの作戦の中止とともに、主導権は最終的にソ連軍側に移った。チタデルは東部戦線における戦争の決定的な転回点である」(マンシュタイン元帥回想録)。


【ムッソリーニ政権崩壊、バドリオ政権樹立】
 7.25日、 ムッソリーニ逮捕。 バドリオ政権成立。

 3月には30万人の労働者がストを行い軍需生産も止まる。ヒトラーほど単独の独裁態勢を固めなかったムソリーニは自身で多くの閣僚ポストを兼任、参謀総長にカバレロ元帥に替えてドイツ嫌いのアンブロジオ元帥を任命し、軍部の人事や内閣の改造で乗り切ろうとしたが、7.24日、5年ぶりに開催されたファシズム大評議会において国王に軍の統帥を返すよう議決されてしまう。議決案はファシスト党古老のディノ・グランディが起草、娘婿の元外相チアノまでが賛成し、賛成18、反対7、棄権1であった。大評議会自体は議決機関ではなくファシスト党の諮問機関だったが翌日、結果を上奏に国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世の離宮に参内したムソリーニは、国王にその場で解任されジュゼッペ・カステッラーノ准将によって逮捕されてしまった。

 1922年にムソリーニを首相に任命した国王もすでにムソリーニを見限って休戦を望んでいた、後任の首相には元参謀総長ピエトロ・バドリオ元帥が任命され、連合国との休戦交渉を秘密裏に行った。ムソリーニの逮捕に抵抗するものはなく、7.28日、ファシスト党は解散を命じられファシスト体制はあっけなく崩壊してしまった。ヒトラーは「われわれの敵の中で最も腹黒いやつ(バドリオ)が後を継いだ」とカイテルに語った。


 8.11日、ドイツ軍はシチリア島から英米軍の連携の齟齬をついて撤退を開始する。敗退を続けたイタリアは厭戦の空気とムソリーニへの不満がみなぎり、前線ではろくに抵抗せずに連合軍に降伏する将兵が相次いだ。


 9.3日、バドリオは連合国と秘密休戦協定を結び、9.8日、連合国は放送を通じて休戦を公表した。3国同盟の一角が崩れ、元々イタリアはあてにならなかったとはいえドイツはヨーロッパで更に苦しい戦いを続けることになった。イタリアの脱落を予想していたドイツ軍は休戦と同時にローマを含むナポリ以北を迅速に占領下に置き、イタリア兵を武装解除し抵抗するものは攻撃した。バドリオと王室は南部のブリンディジに逃れる。連合軍は9.3日、メッシナ海峡から上陸、9.9日、イタリア本土ナポリ南のサレルノに上陸した。

 ヒトラーは盟友ムソリーニの救出をSS特殊部隊オットー・スコルッエニー大尉に命令。スコルツェニーはムソリーニがアペニン山脈グランサッソの標高2914メートルのホテルに軟禁されているのを突き止めた。3方を山で囲まれケーブルカーが通っていたが約100名のカラビニエリ(警察と軍隊を合わせたような組織の兵、現在でもある)が警備していた。


【イタリア無条件降伏】
 9.8日、イタリア、無条件降伏。

 9.10日、ドイツ軍、ローマ占領。9.12日、 ドイツ軍特殊部隊、ムッソリーニ救出。スコルツェニーはSS特殊部隊と降下猟兵部隊を率いて、山頂のわずかな広場にグライダー12機(着陸成功8機)と離着陸距離の短いFi156連絡機2機で強行着陸。 スコルッエニーらはホテルに突入するとカラビニエリをなぎ倒しながら部屋に入り、ムソリーニに「総統閣下の命令でお迎えにあがりました」と敬礼した。ムソリーニはスコルッエニーを抱きしめると「友である総統が私を見捨てないことはわかっていた」と感謝を述べた。急襲にあっけにとられたカラビニエリ達は簡単に武器を捨て、ムソリーニの救出に成功する。ムソリーニとスコルツェニーは連絡機で脱出し、残りの兵はケーブルカーで下山した、作戦後には両軍の兵士が共に記念写真を撮るほど余裕を見せるあざやかな作戦だった。ヒトラーは功績に対して騎士十字章を与え、スコルツェニーを少佐に昇進させた。スコルツェニーはこの後も数々の特殊作戦を指揮し「ヨーロッパで最も危険な男」の異名をとる。13日ミュンヘンでヒトラーに会ったムソリーニは堅く抱擁した。

 9.15日、ファシスト共和政府樹立 (首相:ムッソリーニ)。ヒトラーは、後にガンと分る胃痛に憔悴して気力を失っていたムソリーニを「イタリア社会共和国」(RSI)の首班につけさせ、ドイツ占領下のイタリア北部ガルダ湖畔サロに政府を置いた。「我はふたたびファシスト・イタリアの指揮に就いた」と演説したが、もはや何も実権はなく完全にヒトラーの傀儡であった。


 9.15日、日独共同宣言。


 10.13日、バドリオ政権はドイツに宣戦し、ヒトラーはドイツ軍に逮捕された元外相チアノらを反逆罪で処刑するようムソリーニに指示。占領下のローマで反ファシストの抵抗組織が「国民解放委員会」を結成。両政権のイタリア人は敵味方に別れて血を流すことになり、市民にもパルチザン活動でドイツ軍を攻撃する者も多かった。当然ドイツ軍は「裏切り者」を厳しく取り締まり多数が逮捕、処刑され、強制労働に送られた。ドイツ軍南西軍集団(アルベルト・ケッセルリンク大将)は上陸した連合軍に対し、モンテ・カシーノ付近に防衛線「グスタフ・ライン」、フィレンツェ付近に「ゴシック・ライン」を構築して頑強に抵抗、大きな損害を与える。ロンメルはケッセルリンクと共に作戦指揮に当たっている。チャーチルはイタリアを「柔らかい下腹」と見ていたが山地の多いイタリアでの連合軍の進撃は遅れた、山岳地形のモンテ・カシーノでは精鋭の降下猟兵が数度の攻撃を撃退していた。連合軍は山頂にある聖ベネディクト修道院を爆撃で破壊した。


1944(昭和19)年、ヒトラー55歳の時

 1.20日、ソ連軍、レニングラード解放。


 1.22日、連合軍はドイツ軍背後のアンツィオに上陸。3月、モンテ・カシーノを占領。6.4日、ローマに入城した。
【連合軍、ノルマンディー上陸作戦開始 (オーバーロード作戦)】

 6.6日、連合軍、ノルマンディー上陸作戦開始 (オーバーロード作戦)。

東側でのソ連軍の猛攻に遭遇している一方でドイツは、西側からアメリカ軍を主力とした連合国軍が反攻作戦にさらされる。その本格的な反撃が1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦であった。さらに1943年に降伏していたイタリアなど地中海方面からも連合国軍は上陸、ナチスドイツは3方面から完全に包囲され、その敗北は決定的なものとなる。


 6.4日、ロンメルはヒトラーと会見するためフランスを離れた。6.6日、連合軍はノルマンディの海岸に3個師団の空挺部隊に続いて5カ所に上陸してきた。ロンメルは急ぎ同日深夜フランスの司令部に戻った。上陸した連合軍に強力な反撃が出来る装甲師団は第21装甲師団のみだった。フランスにいた空軍部隊は、連合軍の空爆が激しくなったドイツ本土防衛のため6.4日に移動したところだった。ドイツ軍の対敵諜報部は英BBC放送でベルレーヌの詩の第2句が放送された48時間以内に上陸作戦が行われる事を掴んでいたが、ディエップ型の奇襲なのか本格的反攻なのか軍首脳の判断が分かれ、また情報自体が諜略かもしれないと判断し、第2句を傍受したものの軍を待機状態にしただけだった。ロンメル自身も情報の混乱から陽動作戦か本格反攻か判断に迷った。海岸を守るドイツ兵はこれが反攻であることが分かっていた。前面には海が見えなくなるほどの艦船がいたのである。各種艦船2千727隻、そして上陸用舟艇2千500隻以上が殺到していた。


 ユタに上陸した米第7軍セオドア・ルーズベルト代将(26代米大統領の息子)はかまわず内陸に前進した。ソード、ジュノー、ゴールドの海岸に上陸したイギリス、カナダ軍はオマハほどの抵抗を受けず内陸に進んだが、作戦初日に陥すはずだった主要目標カーンの占領は時間がかった。ドイツ軍の装甲師団の移動にはヒトラーの許可が必要だったが、ルントシュテット元帥からの要請にヨードルは就寝していたヒトラーを起こす事を拒否した。就寝から覚めたヒトラーは許可を与えたが貴重な時間は失われていた。カーン南西に待機していたドイツ軍第21装甲師団は最初空挺部隊を攻撃するつもりでオルヌ川の東に向かったが、命令が変更され海岸の敵を攻撃するため引き返しカーンへ向かい、ジュノーとゴールド海岸の中間のイギリス軍を攻撃した。しかし協働の歩兵部隊との連絡がつかず、待機する内に時間を浪費。第22装甲連隊の戦車は攻撃に移るが連合軍の対戦車陣地から猛烈な射撃を受け停止する。翌日以降も戦車教導師団、第12SS装甲師団の反撃が行われたが激しい航空攻撃と度重なる目的地変更から敵の前進を遅らす程度の抵抗にとどまった。

 連合軍はDデイ初日で約2500人の戦死者を出したが、水際で上陸軍を叩き潰すロンメルの戦略は挫折した。6.11日、オハマとユタ両海岸の連携がなり、同日ドイツ西部方面戦車司令部が爆撃され壊滅。6.16日、カーンを攻撃した連合軍は艦砲射撃を加え、第12SS装甲師団長フリッツ・ヴィット大佐が戦死。6.27日、シェルブールが陥落した。ヒトラーは激怒し、第7軍司令官フリートリヒ・ドルマン大将は軍法会議を恐れ自殺した。


 6月、ノルマンディ戦の最中、ジェット戦闘機Me262が実戦投入された、しかしこの時はヒトラーの命令によって爆撃機として使われたため、実力を発揮できなかった。44年の夏ごろには戦闘機隊が編成され、あらゆる連合軍レシプロ戦闘機を速度差で圧倒し終戦まで戦い続けた。しかし燃料不足と生産工場の爆撃などで数が少なく、熟練の搭乗員も既に多くが戦死し戦局を変えることは出来なかった。

 ほぼ同じ6月にはパルス・ジェットのV1ロケット(Fi103、無人飛行爆弾)が投入されたがV1は戦闘機や対空砲火で撃墜でき、地上からの発射には固定式ランチャーを必要としたが、目立つランチャーは連合軍の空爆で破壊され、あまり脅威にはならなかった。9月6日にパリに向けて、次いで8日にはイギリスへ発射されたV2(A4)ロケットは1トンの弾頭を積み成層圏を飛翔するため発射されると迎撃することができず、発射台は移動式で発見は困難だった。V2は45年3月までに3300発が発射され、イギリスのロンドンなどには最盛期で1日30発が発射され、ロンドンには総計約500発が命中した。V兵器のVはドイツ語の報復(Vergeltung)で、連合軍の無差別爆撃に対する報復を意味する。V2の開発責任者は陸軍兵器局のワルター・ドルンベルガーで、彼の部下には戦後アメリカに渡りアポロ計画を主導するフォン・ブラウンがいた。アメリカ軍のアイゼンハワー元帥は後に「V2があと半年早く完成されていたら、大陸反攻はできなかったかもしれない」と回顧録に記したという。


 6.15日、ドイツ軍、V1ロケットでロンドン爆撃開始。


 1943年のクルスクの戦いを境にソ連が次第に優勢となり、1944.6月の米英加軍のフランスのノルマンディー上陸作戦成功により、二正面作戦を強いられたドイツは次第に崩壊していく。

 大戦末期のヒトラーの生活は「狼の巣」と名づけた総統地下壕にこもって昼夜逆転の生活を送りながら、新兵器の開発によるフリードリヒ大王のような奇跡の大逆転に望みをつなぐ日々となった。


 東部戦線においてもドイツ軍は崩壊しつつあった。スターリンの元には空前の大兵力が準備されていた。白ロシア方面166個師団はドイツ軍の2倍、戦車は4.3倍であった。

 6.22日から28日にかけてソ連軍は「バグラチオン」作戦を開始、4つの前線を突破し7.3日、ミンスクを奪回した。7.25日、ウクライナのリボフを奪回し、ウクライナと白ロシアからドイツ軍をたたき出した。7.18日にはポーランドに入り7.27日、ルブリンを占領。翌日には独ソ不可侵条約の国境だったブレスト・リトフスクに達し独ソ戦開始の地点までドイツ軍を押し戻した。

 15日間に25個師団を失ったドイツ中央軍集団は壊滅状態となり鉄道、産業施設を破壊しながら敗走する。


 7.2日、ルントシュテットはカーンの放棄と艦砲射撃の射程外への後退を求めたがヒトラーは彼を解任した(後任フォン・クルーゲ元帥)。パリへの道を開くカーン攻略はドイツ軍の抵抗で大きな損害を出したが、7月9日ほぼ制圧された。


【ヒトラー暗殺事件その三】
 7.20日、東プロイセンのラシュテンブルクにある総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」でヒトラー臨席の会議が開かれた。通常会議は午後1時に始まったが、この日はヒトラーがムソリーニと会見するため30分早められた。国内軍司令官フリードリヒ・フロム大将の参謀長フォン・シュタウフェンベルク大佐は報告を行うため出席していた。彼の鞄にはイギリス軍がレジスタンに送った物を捕獲した爆弾が仕掛けられていた。この爆弾は時限式で薬品が金属を腐食させる作用で点火される物で、時計式と違い音がしないためこの暗殺にはうってつけの物だった。シュタウフェンベルクは別室で薬品の入ったアンプルをつぶし点火装置をセットし、鞄をテーブル中央で報告を受けていたヒトラー右側のテーブルの下に置いた。爆弾は2つ用意されたがセットしたのは1つだった。シュタウフェンベルクは「電話をかけてくる」と会議室を出て通信室に入り短い電話をすると外に出た。会議では次に報告を行うのはシュタウフェンベルクの番になっていた。カイテルが彼の所在を尋ねた時、12時42分爆弾が炸裂した。テーブルが吹き飛び、天井が抜け梁が落ち中にいた24人のうち速記者が即死し、足を吹き飛ばされたハインツ・ブラント大佐が2日後に死亡、最終的に6名が死亡した。しかしヒトラーは右腕の打撲、足のやけど、鼓膜が破け落ちてきた梁で背中に裂傷を負い、脳震盪で一時的に動けなくなったものの命に別状はなくカイテルに連れ出された。シュタウフェンベルクが置いた鞄は、ヒトラーの隣にいたブラント大佐が樫テーブルの脚の陰に置き直したため、爆風が遮られたのであった。また建物が平屋で天井が抜け爆風が外へ抜けた事も幸いした、地下壕であったら爆弾の衝撃はより強くなっていただろう。

 クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクによる暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡・負傷したがヒトラーは奇跡的に無傷だった。 ヒトラー暗殺計画失敗。ドイツ国防軍の士官によってクーデターが計画された。計画の首謀者は陸軍大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク。ルートヴィヒ・ベック大将、エーリッヒ・フェルギーベル中将、ヘニング・フォン・トレスコウ少将を始めとする多くの将官、元ライプチヒ市長カール・ゲルドレールアルフレッド・デルプ神父が参加し、エルヴィン・フォン・ウィッツレーベン元帥やギュンター・フォン・クルーゲ元帥も含まれていた。

 ヴァルキューレ作戦と名付けられたこの計画は東プロシア、ラステンブルクの司令部「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」で、シュタウフェンベルクがヒトラーの座席付近に時限爆弾を仕掛け殺害し、次にベルリンで蜂起軍を指揮する予定だった。新政府の布陣はベックが国家元首、ゲルドレールが首相に就任予定であった。多くの将官がこのヒトラー暗殺計画を察知していながら、沈黙していたとされる。

 シュタウフェンベルクとヴェルナー・フォン・ハエフテン少尉によって爆弾は予定通り仕掛けられたが、予期せぬ状況で失敗した。当日の気温が高かったため、地下室で行われる予定の会合は地上で行われた。さらにシュタウフェンベルクは二個の爆弾のうち一個しか仕掛けることが出来なかった。また、爆弾の入ったアタッシュケースが邪魔だと言うことで移動させられた上に会議用テーブルが遮蔽物となり、四人が死んだがヒトラーは爆風から守られ奇跡的に生き残った。

 シュタウフェンベルクとハエフテンはベンドラー街にある国防省の共謀者に会うためにベルリンに飛んだ。シュタウフェンベルクはベルリンでヒトラーの生存を知り作戦の失敗を悟った。蜂起軍を指揮する予定だったフリードリヒ・オルブリヒト将軍はヒトラーの死に確証が持てなかったため行動しなかった。

 軽傷で済んだヒトラーは、その日の深夜ラジオで演説し、暗殺者と黒幕の粛清に乗り出すことを宣言した。シュタウフェンベルク大佐、オルブリヒト将軍、アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐およびハエフテン少尉は、ベルリンの国防省の中庭で銃殺された。ベック大将は自決した。現在ベルリンの国防省跡には彼ら五人の名を刻んだ記念碑が建っている。エルヴィン・ロンメル元帥も計画への関与を疑われ、自殺を強要された。ヒトラーは4000名に及ぶ計画への関係者を処刑し、そのうちの何名かはベルリンのプレッツェンジー刑務所でピアノ線で吊された。トレスコウ少将を含む6名が自殺した。マンシュタイン元帥は余暇に出ていたため、難を逃れた。彼の副官がトレスコウ少将の従兄弟であり、計画のほぼ全容を知り得ていたからである。この暗殺未遂に対するヒトラーの復讐は、大戦終結直前の1945.4月まで続けられた。  

 7.20日、ヒトラー暗殺未遂事件が起き加担を疑われたクルーゲは、召還の途中で終戦を懇願する遺書をヒトラーに書き自殺。後任にモーデル元帥が任命される。

 犯人は直ちには分からなかったが、通信室の伍長がシュタウフェンベルクの電話が短かったことを不審に思い、さらにシュタウフェンベルクが大本営にいないことが分かった。シュタウフェンベルクは爆音を聞いて成功を確信し、そのまま飛行機でベルリンにクーデター実行のため向かっていた。ところがヒトラーは生きていた。さらに爆破後大本営の電話を遮断するはずだった暗殺グループの一員で通信総監エーリヒ・フェルギーベル中将は、なぜか回線の遮断を行わなかった。

 暗殺グループの中心は東部戦線にいた中央軍団参謀長フォン・トレシュコウと、ベルリンの国防軍副司令官フリートリヒ・オルブリヒト中将だったが、彼らはヒトラーの死が確認されるまでクーデター計画の実行をためらい、時機をのがしてしまう。ベルリンではヒトラーが党の反乱者に暗殺されたとし、戒厳令を布告し政府高官を逮捕。反乱軍を鎮圧するとして「ワルキューレ作戦」を発動し部隊を動員する計画だったが、シュタウフェンベルクがベルリンに来てみると計画は全く進んでいなかった。シュタウフェンベルクの話を聞いたオルブリヒトはヒトラーは死んだものと思い、陸軍を動員することを国内軍フロムに進言する。フロムはヒトラーの死を疑いカイテルに電話で確かめた、カイテルはヒトラーの生存を明かす。オルブリヒトはフロムを逮捕して軍にNSDAPと政府の制圧を命令するが、大本営との通信は保たれており、ヒトラーの健在は知られてしまっていた。ベルリン警護大隊エルンスト・レーマー少佐は上官のフォン・ハーゼ少将から拠点の占拠を命じられたが、そこにいた政治委員のハンス・ハーゲは命令は怪しいと感じゲッベルスに電話した。ゲッベルスは驚きレーマーを呼んだ、ヒトラーが死んだと思ったレーマーは自分の上官がクーデター派なのか分からず判断に迷ったが、ゲッベルスは電話で直接ヒトラーと話させヒトラーの生存を教えた。ヒトラーはレーマーに反乱鎮圧を命じる。ラジオはヒトラー生存を伝えクーデター派は失敗を思い知る。警護大隊は国内軍司令部を包囲した、司令部内のヒトラー派の将校は武器を手にオルブリヒトの部屋に突入し、シュタウフェンベルクとオルブリヒト、元参謀総長フォン・ベック元帥らクーデターグループ6人を捕らえた。将校らはクーデターグループに逮捕されていたフロムに状況を説明し、処置を求めた。フロムは直ちに6人を反逆罪で即決軍法会議にかけることにした、ベックは自殺を図る。実はフロムは積極的に関わらなかったが、クーデターグループに肯定的な言質を与えたことがあり、早く彼らの口を封じないと彼自身が危なかった。フロムは警護大隊に彼らの銃殺を命じ、21日午前0時15分中庭で処刑が行われた。シュタウフェンベルクは「神聖なるドイツ万歳」と叫び倒れた。東部戦線にいたトレシュコウはクーデターの失敗を知り、戦死を装い手榴弾で自殺を遂げた。トレシュコウは今回の事件以前にも暗殺を計画し、43年3月ヒトラーの乗機に爆弾を仕掛けるなどしたが、ついにヒトラーを倒すことが出来なかった。


 ヒトラーは暗殺未遂事件の昼すぎに予定通りにムソリーニと会談。「私は、数時間前かつてない幸運を経験しました」と話し、ムソリーニを爆発現場に案内し、ズタズタになった彼のズボンを見せた。ヒトラーは死を免れたのは神が使命を果たすのを求める啓示だと語った。「われわれの状況は芳しくないが、今日ここで起きた事は新たな勇気をあたえる」と気力のないムソリーニを鼓舞した。しかし、2人の盟友の会談はこの日が最後になった。

 7.21日、ヒトラーは、ラジオ演説で陰謀を非難し、「わたしは、わたし自身にとっては恐ろしくもないが、ドイツ国民には悲惨な結果をもたらすであろう運命を免れた、わたしはそこに、今後も自分の仕事を続けなければならないという神意のしるしを見る」と国民に呼びかけた。

 ヒトラーはこの事件を契機に国防軍に対して猜疑心を強め、SS隊員に会見する高級将官たちの拳銃を預からせ、鞄の中を調べさせた。暗殺グループはもとより多少でも関わった者に対するヒトラーの報復は凄まじかった「恥知らずな裏切り者に対しては情け容赦のない処置が下される」(総統司令部)。多くの逮捕者は国家・総統に対する犯罪を裁く「国民裁判所」で死刑判決を受けた。裁判長を務めたローラント・フライスラーが見せしめを意図して被告を法廷で口汚なく罵り、延々と演説をする様は記録映画に残されている。元国防軍防諜部ヴィルヘルム・カナリス提督、同中央事務所長オスター・ハンス。クーデター成功時には国防軍司令官に就く予定だった陸軍元帥エルヴィン・ヴィッレーベン。元ライプチヒ市長カール・デルゲラーらが逮捕、処刑された。逮捕者は600人以上に及び、軍関係者は元帥3人を含め65人が自殺、処刑された。

 報復は国民的英雄ロンメル元帥にまで死をもたらした。ロンメルはヒトラーに早期戦争終結を進言したが、軍人としての忠誠心からヒトラーを殺害してまで戦争を終わらせるつもりはなく、陰謀には加わっていない。しかし反ヒトラーグループはロンメルを当てにしていた。ロンメルの参謀長だったハンス・シュパイデル中将にはベック、グィッレーベン、クルーゲらが接触していた。逮捕された反ヒトラーのフランス軍政長官カール・シュテルプナーゲルの副官ホーファッカー中佐は、ロンメルが私を当てにしてよろしいと語ったとゲシュタポに供述した。シュテルプナーゲルも自殺を図りうわ言の中でロンメルの名を口にした。ヒトラーはロンメルを殺す決意を固めた。

 シュパイデルも9月7日逮捕されロンメルもいよいよ自身の運命を悟った。10月14日ヒトラーから派遣されたエルンスト・マイゼル、ヴィルヘルム・ブルクドルフ両将軍がヘルリンゲンの自宅で療養中のロンメルを訪問した。7月に受けたロンメルの負傷はかなり回復していた。2人はヒトラーからのロンメルに裁判か自決を選べという伝言を伝えた。自決を選べば家族の安全とロンメルの名誉は保証するというものだった、裁判を受けても死刑の判決しかないと知っていたロンメルは自決を選択した。2人は毒薬を持参していた。ロンメルは高射砲連隊から休暇で自宅に帰っていた16歳の息子マンフレートと副官のアルディンガーを呼び、「わたしは15分後には死んでいるだろう」とヒトラーの要求と自殺を選んだことを伝え、アフリカ軍団の外套を着ると、元帥杖を手にして2人の将軍と共に迎えの車に乗り込んだ。車がウルムの病院に来たときロンメルは既に死んでおり、医長は検視を拒否された。車の中で起きたことは分からないが、おそらくロンメルは毒薬をあおりたちまち死亡したのだろう。マイゼルはすこしの間彼と運転手はブルクドルフに車から出され、戻った時にはロンメルが死んでいたと戦後供述したが、ブルクドルフはベルリンの総統官邸でヒトラーと死んでいる。ロンメルの自宅周辺には彼らが抵抗した場合に備えてSSの部隊が配置されていた。ロンメルの死は7月の負傷による塞栓と発表され、18日ウルムで国葬が行われ、暗殺未遂事件との関連は一切公表されなかった。ロンメルの国葬でヒトラーの弔辞を代読したルントシュテット元帥が差し出した腕を、ロンメル夫人ルシーは拒んだ。
 


 8.1日、ソ連軍が迫ったのを知ったワルシャワの市民抵抗組織「郷土軍」は亡命ロンドン政府の指令で、自力でワルシャワを解放しようと武装蜂起する。モスクワ放送は市民に蜂起を呼びかけていた。ところがソ連軍はワルシャワ前面のヴィスツラ川で進撃を止めてしまった。「郷土軍」の市民はドイツ軍に勇敢に抵抗したが、ドイツ軍は600ミリ臼砲、装甲師団を投入してワルシャワを破壊する。スターリンは西側諸国寄りの「郷土軍」が自力でワルシャワを解放することによって発言力を得ることを拒否し、ドイツ軍に鎮圧されるのに任せたのである。すでに親ソ連の「ルブリン政権」が戦後のポーランドをソ連の衛星国化するため用意されていた。スターリンは西側連合国が「郷土軍」に物資の空中投下を求めた時も飛行場の使用さえ拒否した。「郷土軍」は追いつめられ地下水道に逃れて戦った、ワルシャワに投入されたSS第36武装擲弾兵師団は、問題のある兵士を集めた懲罰部隊で暴虐の限りをつくした。10.2日、8週間の抵抗の後「郷土軍」は降伏する。この戦闘でワルシャワ市民は25万の死者を出した。ヒトラーはワルシャワの徹底的な破壊を命じる。

 8.1日、アメリカ第3軍(ジョージ・パットン中将)がブルターニュ半島の攻略に出撃、ヒトラーは反撃を命じかき集めた4装甲師団を投入するが作戦は連合軍に察知され、ドイツ軍は一時モルタンを奪回したものの反撃に失敗する。

 8.15日、連合軍は、ほとんど抵抗を受けずに南フランスのカンヌ、ツーロン地区に上陸。

 8.16日、ドイツ第7軍と第5装甲軍15万はファレーズに包囲され猛烈な爆撃、砲撃で大損害を蒙り、脱出した部隊も大半の装備を失っていた。ドイツB軍集団はノルマンディで40万の死傷者と20万の捕虜を出した。

 8.19日、西部戦線で、アメリカ軍がセーヌ河を渡河。パリのレジスタンスは蜂起する。この時点でアメリカ軍にはパリ占領の予定はなかったが、この蜂起によってパリを急ぎ占領することにし、自由フランス第2機甲師団と米第4歩兵師団がパリへ向かった。

 8.23日、ソ連軍が迫ったルーマニアでクーデターが起き、ドイツに宣戦。

 8.24日、連合軍はパリに突入、ホテル・リッツに総司令部を置いていたドイツ軍守備隊司令官フォン・コルティッツ中将は、部隊をノルマンディ戦線に転出されて兵力がなく、ヒトラーのパリ破壊命令も無視した。コルティッツは25日午後降伏する。もっとも停戦は厳格に守られず小競り合いが起きた。

 またフランス人同士の抵抗組織の勢力争いから戦闘が起きた。蜂起したレジスタンスは共産党が中心で、ドゴールの自由フランスはまだ権力を確立していなかった。レジスタンスや市民は対独協力者を殺害し、ドイツ人の子供を持つ女性の髪を切り、通りを引き廻しさらし物にした。


 8.25日、連合軍、パリ入城 (ド・ゴール凱旋)。


 8.31日、ソ連軍はブカレストに侵攻、ルーマニアのプロエスティ油田を喪失したドイツ軍は燃料の枯渇に見舞われた。8月26日ブルガリアはソ連に宣戦しておらず同盟から脱退しドイツ軍を自国から追放したが、ソ連に宣戦されると直ちに降伏し、10月にドイツに宣戦。8月29日にはスロバキアで反ドイツの蜂起が発生、2カ月に渡って抵抗を続けた。

 9.2日、フィンランドがソ連と停戦し、大統領になったマンネルヘイム元帥はソ連軍による占領を免れる代わりに、国土からのドイツ軍の排除を要求され、ドイツ軍と戦闘状態に入った。

 9.17日、モントゴメリーのイギリス軍はオランダで「マーケット・ガーデン」作戦を開始。2日間でオランダの河川の主要な5つの橋ソン、フェーヘル、フラーフェ、ナイメーヘン、アルンヘムを確保し100キロを突破、ライン河に迫る作戦だった。 米第82、101空挺師団が4つ目までの目標に降下したがソンの橋は破壊されてしまい、次の2つの橋は確保したがナイメーヘンの確保はドイツ軍の抵抗で20日までかかったが、地上軍イギリス第30軍団との連絡に成功した。

 9.17日、イギリス第1空挺師団は前進する機械化部隊の100キロ前方、最も遠い5つ目の目標アルンヘムに降下して橋の北側半分を確保し地上軍の到来を待ったが、降下地点にはドイツ軍SS第9、10装甲師団が集結していた。軽装備の空挺部隊は包囲され、ドイツ軍の激しい抵抗で進撃が遅れた第30軍団の到着まで持ちこたえられず25日降伏し、9.20日、作戦は中止され連合軍の急進撃は一息ついた。弱体化したとは言え、強力な重戦車を持つドイツ装甲師団は米英機械化部隊にとっても手強い相手だった。

 9.25日、ヒトラーは、「民族動員令」を発令し、16歳から60歳の男子を「国民突撃隊(Volkssturm)」に動員した。ゲッベルスは国民を「総力戦」へと鼓舞する。連合軍の将兵には戦争はクリスマスまでに終わるといった、楽観的な雰囲気さえあったが、ヒトラーはまだ戦争を捨てていなかった。西側連合軍に大打撃を加え単独講和を結び、ソ連との戦いに戦力を集中する構想であった。そのためには西側連合軍に攻勢をかけなければならない。


 
10.11日、ソ連軍、ドイツ国境を突破。

 10.13日、イギリス軍がギリシャのアテネに入城。


 10.14日、ロンメル、服毒自殺。

 10.15日、ハンガリーの指導者ホルティ提督がソ連との停戦を図ったが、ドイツ軍に察知されスコルツェニーらによって軟禁されソ連との停戦が阻止された。ユーゴスラビアではヨシプ・チトーの率いる共産パルチザンが自力で国土の大部分を解放していた。

11.28日、ようやくイギリス軍はアントワープに入った。

 ヒトラーは再びアルデンヌを突破、アントワープを占領しベルギー北の連合軍を包囲するという作戦を明らかにした。モーデルやルントシュテットら将軍連はこの壮大な作戦に「この作戦にはよって立つべき脚がない」と反対したが「フリードリヒ大王はロスバッハとロイテンで2倍の敵を打ち破った、いかにしてか?大胆な攻撃によってだ。なぜ歴史から学ぼうとしないのだ」とヒトラーに押しきられる。当初31個師団が投入される予定だったが、戦況の悪化から20個師団が当初攻勢に出る事になった。このうち第2装甲師団とSS第1、2、6、12装甲師団、戦車教導師団は強力な戦車を揃えた虎の子の精鋭部隊である。

 作戦は3個軍団で約80キロの前線を突破、第6SS装甲軍(ディートリッヒSS上級大将)は北部を攻撃しミューズ河を渡りアントワープまで約200キロ突進し、第5装甲軍(マントイフェル中将)は中央を進みアルデンヌを駆け抜けミューズ河からアントワープまでの側面を押さえる、第7軍(ブランデンベルガー大将)は歩兵主体で南部を進み第5装甲軍の側面を援護し連合軍の反撃を防ぐ。2日目にはミューズ河を渡り、7日目にはアントワープまで達する計画である。

 12.16日午前5時30分、2千門による砲撃が開始され「ティーゲル」「ケーニス・ティーゲル」を含む970両の戦車が進撃した。この「ラインの守り」作戦は連合軍に感づかれることなく奇襲は成功した、この前線にいたアメリカ軍機甲1個、歩兵5個師団は戦闘で消耗した部隊が再編中か、装備こそ完全ながら実戦経験が皆無の新兵だった。ドイツ軍は40年の攻勢を再現すべく突進した。悪天候のためドイツ装甲師団最大の脅威、空からの連合軍機の攻撃からはしばらく逃れられる。

 ヒトラーは作戦に当たりオットー・スコルツェニーらに特殊部隊の編成を命じていた、兵士は英語に堪能でアメリカ軍の軍服と装備で偽装し戦線後方に侵入し、橋など拠点を占拠し、偽の命令でアメリカ軍を混乱させる任務を帯びていた。攻撃はアメリカ軍司令部には最初「5件の軽度の侵入」と報告されアメリカ軍は本格攻勢への対応に遅れを取ったが、第7、10機甲師団を呼び寄せた。のちに2個空挺師団と第1、3軍を投入した。

 12.17日、ドイツ第6装甲軍の攻撃はモンシャウ=ロスハイム間の米第99師団の前線に向けられたが、新米のアメリカ軍は善戦し、1日半もの間持ちこたえた。しかしロスハイム渓谷ではヨーヘン・パイパーSS中佐の戦闘団が突破に成功した。第5装甲軍の前進も順調でバストーニュに向かった。

 12.18日から19日、アメリカ軍が緊急防衛線を築いたエルゼンボルン丘陵で雪の中激戦が展開されたが抜くことは出来なかった。シェネー・アイフェルでは孤立した米106師団の2個連隊8千から9千名が降伏した、太平洋戦線のバターン半島に次ぐ規模であった。ドイツ軍は敵の拠点が抵抗した場合、占領に時間を割くより孤立させ先に進む方針であった。急進撃を続けるパイパーは17日ホンズフェルトに突入していた、しかし燃料の不足が起きており、後続の補給部隊は来ていなかった。パイパーは軍法会議の危険を冒し予定のコースを外れてブリンゲンにある米軍の燃料集積所を襲い燃料を分捕ると、元のコースに戻って進撃を続けた。18日にはスタブローに達する、しかしトロワ・ポンの要衝の橋の確保に失敗する。午後には天候が回復し出撃が可能になった連合軍機の地上攻撃を受け、ストゥーモンに止まった。

 スコルツェニーの特殊部隊「第150装甲旅団」は捕獲した米軍のM4「シャーマン」戦車やドイツ戦車を偽装して米戦車に似せた車両まで用意していたが、前線の突破が遅れるうちに進撃路の渋滞にはまってしまい、第1SS装甲師団に加わり通常の部隊として作戦に参加した。しかしスチラウ大尉率いる部隊は数台のジープがアメリカ軍に紛れ込む事に成功した。彼らは標識を変えたり、電話の切断などの軽度の破壊しか出来なかったが一隊が見破られて捕虜になり、任務を自白したためアメリカ軍に大きな心理的恐怖を与えた。アメリカ兵は認識票や命令書を信用せず、ワールドシリーズや漫画の主人公の質問を浴びせてからお互いを確認する騒ぎだった。この一隊はさらに連合軍最高司令官アイゼンハワー大将の殺害計画を自白(実際には計画されていなかった)したためフランスの司令部で、アイゼンハワーは強力な護衛下で軟禁状態となってしまった。サン・ヴィット防衛司令官ブルース・クラーク准将までもが特殊部隊に疑われMPに逮捕された。彼がシカゴ・カブスのリーグを間違えて答えたためである。

 12.21日、バストーニュはアメリカ第101空挺師団の増援と共に第5装甲軍に包囲されてしまう、アンソニー・マコーリフ准将はドイツ軍の降伏勧告を拒否する。

 同日にはサン・ヴィットへの攻撃が開始され、12.23日、アメリカ軍はサン・ヴィットから脱出した。23日天候が回復し、連合軍機の攻撃が激しくなったが、第5装甲軍の第2装甲師団はミューズ河まで6キロのセルに達した。戦車教導師団、第9装甲師団の増援と燃料補給を受けてミューズ河を渡るはずであったが、増援も燃料も届かなかった。そこへ北からアメリカ軍第2機甲師団(ハーマン少将)が攻撃をかけてきた。

 12.24日、クリスマスには連合軍の反撃が強化され、燃料の不足したドイツ軍は動きが取れなくなった。

 12.26日、激戦の末、第2装甲師団は敗れドイツ軍はミューズ河を渡れなくなった。第2SS装甲師団はマネーまでしか進めなかった。南の第7軍にはアメリカ第3軍(パットン)が襲いかかってきたがドイツ軍の抵抗は激しく、持ちこたえていた。

 12.26日、包囲されていたバストーニュにアメリカ第3軍が合流し、両軍の戦車が激戦を展開した。ドイツ軍重戦車「ティーゲル」「ケーニス・ティーゲル」はアメリカ軍M4「シャーマン」戦車を撃破したが、燃料不足と航空攻撃、アメリカ軍の物量に圧倒された。ドイツ軍先鋒部隊は連合軍の攻勢で突出部に取り残されつつあった。マントイフェルは撤退をヒトラーに求めたがヒトラーは例によって「死守命令」を繰り返した。しかしもはや勝敗はついていた。燃料が尽き、退路の橋を失ったパイパー戦闘団は23日車両を放棄し、徒歩で前線を突破し味方の前線まで帰りついた。


 この後は、「第二次世界大戦末期、第三帝国解体の経緯





(私論.私見)