ファシズム考 |
(最新見直し2007.5.20日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
左派圏用語で批判的に使用されている「ファシズム、ファシスト」について正確な認識をしておく必要を感じたので、ここで整理しておく。結論から申せば、同じ意味で言うのなら「ネオ・シオニズム、ネオ・シオニスト」と云うべきではなかろうか。統一戦線なる用語でも考察したが、本来は共同戦線と云うべきである。敢えて統一戦線、ファシズム、ファシストなる用語を使うところに、ネオ・シオニズム・テキストの汚染を蒙っているのではなかろうか。我々は早くこの汚染から脱却せねばならない。
ファシズムの語源は、古代ローマの執政官の「束かん」から発している。 当時、執政官は、権威の象徴として儀式用に束桿(fasces、ファスケス。斧の回りに短杖を束ねたもの)を使用していた。束桿は束ねられていることから「fascio(「団結」」という意味を持つ。従って、ファシズムは、古代ローマ政治の再生という意味であり、ファシストとは、結束した同盟者の集まりという意味になる。これが原義である。 |
「ウィキペディア・ファシズム」は、次のように規定している。
これにつき、れんだいこは次のように思う。上記の解説では、何ゆえにファシズムが勃興したのかが見えてこない。ファシズム、ナチズムに言及する場合、当時の社会状況抜きには語れない。事実は、ムッソリーニのファシスト党は、ヒトラーのナチス党も然りであるが、第一次世界大戦後における歴史状況に深く関係している。第一次世界大戦後、戦前危惧されていた通り、国際金融資本即ち現代パリサイ派とも云うべきネオ・シオニズムユダヤ即ちロスチャイルド派が戦勝者となり、大挙して社会進出してくることになった。彼らの得手とする格差社会が広がり、「シオン長老の議定書」に基づく世界支配が進んだ。 他方、同時並行してマルキシズムを主流とする社会主義運動が活性化し、特に第一次世界大戦過程で発生したロシア10月革命を起点にしてロシア・ポルシェヴィキ派の世界支配即ちコミンテルン運動が進んだ。且つ、ロスチャイルド派の世界支配運動とコミンテルン運動は地下水脈で呼応していた。つまり、西欧諸国は、伝統的主権国家としての地位を表から裏から揺さぶられていた。 この時代的危機に感応して生まれたのがイタリアでのムッソリーニ率いるファシスト党であり、ドイツでのヒトラー率いるナチス党であった。両者は妙なことに共に、在地型の社会主義運動を志向していた。実際、ムッソリーニは元社会党員である。ヒトラーも社会主義に造詣が深く、自ら国家社会主義と名付けている。その意味は、ロスチャイルド派とコミンテルン派の国際主義的世界支配に対抗するということであり、国家的主権を護るということから必然的に祖国主義、民族主義に立脚していた。且つ、政治に大衆を動員すると云う意味で国家社会主義運動と位置づけていた。ファシズム、ナチズムの特質がここに認められる。 そういう訳で、イタリアのファシスト党は、労働組合総同盟を結成し、政権獲得後は職能代表制によってイタリア労働組合評議会(現・国民労働者組合同盟)を設立した。これはファシズム自体がサンディカリスムに影響を受けていたからであり、ムッソリーニの政治は組合主義とも定義されている。 してみれば、ファシズム、ナチズムを極右の政治思想とみなすのは適切ではない。「戦闘者ファッショ」になるまでの「革命的参戦ファッショ」、「国際主義参戦ファッショ」は明確に左翼に属しており、この時期のムッソリーニは左翼勢力の一員であるという立場を暫く維持している。何よりもムッソリーニは、左翼思想家のジョルジュ・ソレルを「ファシズムの精神的な父」と位置付けたこと、ソレルが亡くなった時にはヨシフ・スターリンとムッソリーニが追悼したことが象徴しているように、ファシズムは左翼に傾斜している要素が濃厚に見受けられる。 ファシズム、ナチズムにはもう一つの共通した特徴がある。両者とも政権党になるや、議会制民主主義を否定し、独裁的な政治形態へ移行したことである。ファシズム体制の下で、人民大衆派、国家又は民族の発展を最高の目的とし、個人はこれに従属し、奉仕すべきものと考える全体主義と呼ばれる政治思想(政治形態)を盛んに喧伝した。これによって個人の基本的人権や自由は否定され、国家や社会全体の利益が優先された。
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イタリアに於けるファシスト党の形成過程は次の通りである。「世界史ノート」の「4 ファシズムの台頭」を参照(忽ちは転載)する。
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(シャハトマンへの手紙) トロツキー/訳 西島栄 【解説】この手紙は、ファシズムの本質について簡潔に述べたトロツキーの手紙で、マックス・シャハトマンに宛てたものである。当時、シャハトマンは、国際書記局の決定にもとづき、イギリスに赴いてイギリス左翼反対派の組織化に援助することになっていた。それゆえ、この手紙の内容は、シャハトマンがイギリスの同志たちと議論することを前提にした書き方になっている。 この手紙の中でトロツキーは、ファシズム独裁とその他の独裁との違いを的確に描き出している。ファシズムは他の独裁と違って、大資本によって支援されながらも、下からの自然発生的な運動であり、小ブルジョアジー、ルンペン・プロレタリアート、さらには一部のプロレタリア大衆をも巻き込む。それは同時に、社会主義的デマゴギーをもふんだんに用いるが、それは下からの大衆運動を動員する上で不可欠だからである。また、トロツキーは、新しい中間階級(役人や上層ホワイトカラー層)がファシズムの基盤になる可能性についても、検討課題として提起している。 L.Trotsky, What is Fascism?, Writings of Leon Trotsky: Supplement(1929-33), Pathfinder, 1976. 親愛なる同志シャハトマン(1)
今日はファシズムの問題について書きます。あなたがこの問題でイギリスの同志たちと討論していただければと思います。このようなやり方で、われわれは結論と一定の見解に到達することができるのです。 ファシズムとは何でしょうか? この名称はイタリアに起源を発しています。これまでの(すなわち、イタリアのファシズムが出現する以前の)反革命的独裁のあらゆる形態はファシスト独裁だったのでしょうか? スペインにおけるかつてのプリモ・デ・リベラ(2)独裁は、コミンテルンによってファシスト独裁と呼ばれています。これは正しいでしょうか? われわれは、これは間違っていると考えます。 イタリアのファシズム運動は広範な大衆の自然発生的な運動であり、下部からの新しい指導者たちをともなっていました。それは、もともとは、大資本家によって方向づけられ資金援助されていたとはいえ、平民的な運動でした。それは、小ブルジョアジー、ルンペン・プロレタリアート、そしてある程度まではプロレタリア大衆から発生しました。元社会主義者のムッソリーニは、この運動から成り上がってきた「たたき上げ」の男です。 それに対しプリモ・デ・リベラは貴族でした。彼は、高い軍事的・官僚的ポストを占め、カタロニアの州知事でした。彼は自らのクーデターを、国家と軍隊の力を借りて行ないました。スペインとイタリアの独裁は、二つのまったく異なった独裁形態です。両者を区別することが必要です。ムッソリーニは、旧来の多くの軍事機構とファシスト民兵とを和解させることに、大いに苦労しました。このような問題はプリモ・デ・リベラにはありませんでした。 ドイツの運動はイタリアの運動にきわめて類似しています。それは大衆運動であり、その指導者たちは社会主義的デマゴギーをふんだんに用いています。それは大衆運動を作り上げる上で必要不可欠なのです。 ファシズムの真の基盤は小ブルジョアジーです。イタリアにおいて、それは広範な基礎を持っていました。町や都市の小ブルジョアジー、および農民です。ドイツにおいても同様に、ファシズムにとっての大きな基盤があります。しかしイギリスにはそのような基盤がありません。なぜなら、プロレタリアートが住民の圧倒的多数を占めているからです。農民あるいは農場主層は取るに足りない小部分にすぎません。 新しい中間階級――国家の役人、企業の管理者層、等々――がこのような基盤を形成しうると言う人もいるかもしれませんし、それはある程度までは正しいと言えます。しかし、これは、今後分析しなければならない新しい問題です。それはあくまでも一つの仮説です。実際にどうなるかを分析することが必要です。ファシストの運動がどちらの基盤から成長するかを予測することが必要です。しかしこれは一つの展望にすぎず、現実の事態によって左右されます。イギリスにおいてはファシズムの運動は発展することはできないとか、モーズリー(3)あるいはそれ以外の誰かが独裁者になることはできない、などと断言するつもりは私にはありません。それは大いにありうることです。 けれども、現在の時点でそれを切迫した危険性として語ることは、予測ではなく、単なる予言になってしまいます。ファシズムに関して何ごとかを予想するためには、この概念の定義をきちんとしておく必要があります。ファシズムとは何か? その基盤は何か、その形態は、その特徴は? その発展はどのような形で生じるのか? この目的は、イギリスの同志たちに、問題が単純ではないことを示すことです。問題を科学的かつマルクス主義的方法で提出しなければなりません。 さて、もう一つの問題ですが、当然のことながら、あなたが左翼反対派の固有の諸問題について頭を悩ませていることは重要なことですが、それに負けず劣らず重要なのは、イギリス共産党、ILP(独立労働党)、労働党の内部で生じていることに真剣な注意を払うことです。最初の地震の振動が起これば、それは必然的に家の壁に大きなひびを入れるでしょう。そして、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は労働運動の広範な部分のあいだで影響力を獲得することができるでしょう。したがって、われわれの小さな運動のみならず、この大きな組織体の中で生じているあらゆることにあなたの注意を向けなければならないのです。 この手紙は非常に大雑把なものです。私はその内容を十分に検討していませんが、あなたなら、その中で表明されている思想の全般的意味を的確にとらえてくれるでしょう。 エレン・ウイルキンソン(4)への手紙も同封しておきます。彼女は、あなたも覚えていると思いますが、元共産党員で、その後、労働党の国会議員になった人物です。彼女も、私がイギリスに入国する権利を獲得するために多少の尽力をしてくれました。彼女があなたにとって役に立つと思われたなら、私が同封した手紙は一定の役割を果たすでしょう。もしそうでなければ、その手紙は破棄していただいてかまいません。 心からの挨拶を込めて、トロツキー 1931年11月15日 英語版『トロツキー著作集:補遺 1929-1933』所収 新規、本邦初訳
訳注 (1)シャハトマン、マックス(1903-1972)……アメリカの左翼反対派および社会主義労働者党の創始者。1930年代初め、アメリカ共産主義者同盟内でJ・P・キャノンらの多数派に反対して少数派を率いる。両派の意見の相違が十分に明確でなく、膠着状態に陥り、組織の対外活動が打撃を受けることになった。意見の相違は、1933年にトロツキーの支援もあって克服され、その後数年間、米国における第4インターナショナル建設において指導的役割をはたす。だが、第2次世界大戦が始まった1939年には、小ブルジョア的圧力に屈して、マルクス主義の基本的政策と実践を修正しようとする闘争を指導。1940年に、ジェームズ・バーナムとともに社会主義労働者党からの分裂を指導。1958年に社会党に入党して、その右派指導者になる。 (2)プリモ・デ・リベラ、ミゲル(1870-1930)……スペインの軍人、独裁者。1923年、カタロニア軍管区総司令官のときに、国内の不安定化に乗じてクーデターを遂行。軍人から成る執政政府を樹立。1930年、世界恐慌下で財政政策に失敗して失脚。その息子、ホセ・アントニオは、ファシスト政党「フェランヘ党」を結成。 (3)モーズリー、オズワルド(1896-1980)……イギリスのファシスト政治家。1924年に保守党から労働党に移り、1929〜30年に労働党内閣に入閣。1931年に脱党して、「新党(New Party)」を結成し、それを1932年にイギリス・ファシスト連盟に改編。第2次世界大戦で解散を命じられる。戦後も、ネオ・ファシズム運動に従事。 (4)ウィルキンソン、エレン(1891-1947)……イギリス労働党左派、『トリビュート』誌創刊に関与。労働組合の結成や女性参政権獲得のために尽力。イギリス共産党の創設に参加。1923年に離党。1924〜31年、35〜47年に労働党の国会議員。1945〜47年にアトリー労働党内閣のもとで文部大臣。
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(私論.私見)