444−5 被差別側の悪行自制考

 「被差別側の悪行自制」考は一度しておきたいと思ったことである。この問題は、「運動圏側の悪行自制」考と通底している故に疎かに出来ない。通常、左派は、差別問題を重視し、被差別側の弁護を当然の信条とする。それは第一に、左派運動はメンタリティーにおいて慈愛(ヒューマニズム)抜きには成り立たぬという面によってであろう。第二に、社会のもっとも弱者の側に矛盾が集約しており、そこに視座を据え身を置くことで支配と抑圧の構造を正確に把握することができ、この地平から共闘的解放運動を構築することにより力強い運動体となるという経験則に拠っているのであろう。

 れんだいこは、そうした左派の公式的観点に異存は無い。しかしながら、この公式的観点によっては解決しない「被差別側の悪行」問題がある。ここに厳しい眼を持たなければ、共闘的解放運動は成功しないのではなかろうか。「被差別側の悪行」に対する温情は、むしろ運動を阻害せしめる要因になってはいないだろうか。それを環境のせいにして糊塗するのは便法であり、決して事態の解決にはならない。中には止むにやまれない抵抗の果てとして生起している「被差別側の悪行」もあろうが、どうみてもそぐわないものもままある。その際、運動圏がこの問題を俎上に乗せるのか、見てみない振りをするのか。この態度決定は案外と大事なことのように思われる。

 れんだいこは次のような観点を重視したい。左派がその左派精神によって共闘的解放運動を構築する場合、その共闘関係は相互に無批判的な依存関係に陥るのではなく、ある種の緊張関係に支えらねばならない。その意味するところは、互いに批判の権利を自由・自主・自律的に保持し合わいつつ共闘を継続せねばならない。口拭い手法による安易な共闘は双方の運動利益にならない。批判の逞しい精神は、対権力に対しても陣営内にも等しく必要とされているのではなかろうか。これを対権力だけに向けるのはある種の甘えを培養し、決して為にならないのではなかろうか。

 差別問題を廻っての共闘的解放運動についてはこう思う。本当に目指すべきは、その社会の成熟水準に相応しい社会制度の差別の廃止であり、市民法権利・義務の平等適用であり、人の出生より始まる成長、社会進出、老衰に至る過程での社会的機会均等を眼目とする。それ以上の手立てを講ずる事は難しく、「見えざる神の領域」ではなかろうか。

 しかしながら、実際に我々が為してきたのは逆で、「見えざる神の領域」に向けて滅法優しく、制度闘争に対しては案外と日和見的なのではなかろうか。れんだいこは、戦後日本の左派運動が制度闘争で攻勢的に勝利した例を知らない。せいぜい「お上」の温情を引き出し折衷させた例を知るばかりである。ちなみに、「見えざる神の領域」とは、歴史的に長期で形成されたものを指しているが、それを短期に覆す術は難しい。それを無視しての一心同体的な同化志向の競い合いはむしろナンセンスである、とする観点を持ちたい。

 このような限定を加えることは、共闘的解放運動を右傾化させるものではない。ここは常に誤解されるところであるが、むしろ闘争課題を明確にさせる功があり、その分急進主義的になることができるのではなかろうか。十年一日の総花的反対プロパガンダこそ胡散臭いのではなかろうか。課題に内在的に関わる事により、「その社会の成熟水準に相応しい社会制度の差別の廃止、市民法権利・義務の平等適用、人の出生より始まる成長、社会進出、老衰に至る過程での社会的機会均等」においての阻害物を早急に改善させる為の、急進主義的運動が却って生まれやすくなるのではなかろうか。

 もう一つ、れんだいこ観点による限定の意義は、左派の共闘的解放運動により被差別側の主体的能動的な営為に曇りをもたらせてはならないとするところにある。世上には、部落差別問題、外国人差別問題、障害者差別問題を筆頭に男女差別、職業差別、所得差別、学歴差別、片親差別、未婚差別その他ごまんとある。人が人として何らかの差別に該当しない者を捜すのに苦労するほどである。これらの解決を思うとき、むしろ「甘え」を醸成させるような運動は実質的には有害なのでは無かろうか。闘う姿勢の確立へ向けての「主体的能動的な営為」の醸成こそが肝要なのでは無かろうか。

 なぜ、左様に拘るのか。歴史的に見て、「被差別側の悪行」が目に余るからである。従来、左派は「被差別側の悪行」について大甘に過ぎたのではないのか。その対極として「何でもかんでも差別側が悪い」として来過ぎた面があるのではないのか、と思っている故にである。と同時に、運動圏内での自己に厳しい作法の確立こそが新時代を切り開くエートスであり、史上成功した運動は皆これに貫かれていることを知るからである。

 ここら辺りの考察は極めてナイーブで難しいが、誰かが忌憚無く発言していかねばならない、れんだいこはそう考える。いずれの日にかもう少し簡潔明瞭に書き換えたい。

 2002.12.27日れんだいこ拝




(私論.私見)


言論の自由と民主主義を守る掲示板

「中坊公平・私の事件簿」(中坊公平2000.11.22)(鄭成功、2002/12/27 13:39
 借金を返済しない在日韓国人を法律的に追いつめたところ、中坊弁護士が暴行を受けたのである。後頭部を打ち付けられて怪我した中坊氏。
「お前こんなことしていいと思ってるのか。こっちは頭に傷を負って出血してるんやぞ」。 すると、彼の連れてきた暴力団風の男は予想もしない行動に出ました。私の目の前で「お前、俺をやったな」と言いながら、自分で自分のカッターシャツを両の手で力任せに引き裂き、ばーんとボタンを弾き飛ばしたのです。 そして、「俺かてお前にこうしてやられてるやないか」と言う。

 その後、警察に行くと在日側の弁護士に暴行で訴えられた。幸いにも証拠と証人があり、冤罪が証明されたのですが、街宣車が家まで来て「民族差別を許すな!」。

 これじゃあ、弁護士もいやになるだろう。どうかんがえても ひでぇはなしだな 小さい頃生野には近づくなとよく親にいわれたよ 在日朝鮮人の行いがひどかったから