別章【諸賀(もろが)礼子猟奇殺人事件考】

 (最新見直し2010.05.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「諸賀(もろが)礼子猟奇殺人事件」を確認しておく。怪しげな臭いがするからである。

 2010.05.10日 れんだいこ拝


[ 福岡女性切断遺体事件 ] 2010年(平成22年)3月15日、福岡市西区能古の能古島(のこのしま)の海岸で下腹部だけの女性の遺体が見つかった事件で、遺体は3月6日から行方不明となっていた福岡市博多区堅粕5、会社員の諸賀礼子(32歳)であることが福岡県警のDNA鑑定で判明した。捜査関係者などによると、諸賀の自宅玄関は施錠されていたが、窓ガラスが内側から割られていた。諸賀は昨2009年(平成21年)12月、インターネット交流サイト「ミクシィ」の日記に11月の交通事故で相手男性とトラブルになったことを記述。「家の門前に本人らしき人がうろついているのを見た。その後もかなり警戒して帰ってきています」と書いていたほか、2010年(平成22年)1月3日には、この相手からの迷惑電話に悩まされていることを記載していた。4月9日、福岡市中央区の福岡競艇場でレース場の水面上に流れ着いた黒いビニール袋の中から諸賀の両腕が発見される。4月14日、福岡市中央区の須崎ふ頭付近の海中で諸賀の腹部から首付近までの胴体の遺体が発見される。4月15日、胴体が発見された場所から70メートル離れた海上で頭部が発見される。
 2010.3.25日、福岡市西区の能古島で、同市博多区の会社員諸賀(もろが)礼子さん(32)の切断遺体が見つかった。遺体のDNA鑑定により身元判明。見つかった部分は、胴体から足の付け根まで鋭利な刃物で切断された後、司法解剖で殴られたような跡(お尻の痕の事かどうかは不明)、綺麗な切り口(発見者談)新品の?2種類の刃物、右尻の上下に500円玉くらいのあざ2つ(生体反応あり)、死後に切断、遺体は損傷が少なく袋などに入れられていた可能性もある。

 諸賀さんが勤務していた医薬品卸会社の代理人弁護士が明らかにしたところによると、諸賀さんは同市内の男性会社員と交通事故を巡ってトラブルを抱えていたと云う。それによると、昨年11月11日午後9時頃、同市博多区内の交差点で、車で直進中に右折しようとしていた男性のバイクと接触事故を起こした。諸賀さんは、保険会社を通じて男性と話し合いを進めていたが、過失の割合について交渉が難航。男性は保険会社の担当者に大声を出すなどしたため、諸賀さん側は弁護士に対応を任せることにしたという。諸賀さんは11月下旬、上司に「男性から携帯電話に直接電話があり怖い」などと相談していた。男性は読売新聞の取材に対して「事故について話し合いをしたいと思い事故の2日後に電話したことはある。諸賀さんの家は知らない」と話している。被害女性からの相談受けた勤め先の会社は防犯ベルを渡していたと云う。
 事件直前の様子は次の通り。女性宅前を男が自転車でうろついるのを目撃されている。大晦日10回、元旦7回、2日3回、3日2回のワン切り電話が女性宅にかけられている。失踪2,3日前に被害者アパートを指さしながら話をする2,3人の男たちが目撃されている。3.3日、約1時間に渡って被害者のアパート入口や廊下で男女の言い争う声を近隣住人が聞いている。3.5日、職場から帰宅。19時半ごろに女性の叫び声、女性を引き留めるような男の怒鳴り声が証言されている。

 3.6日未明、諸賀さんの自宅アパートから、女性の肩を抱えるようにして出てくる男の姿が目撃されている。女性はぐったりした状態だったという。 福岡県警は、諸賀さんが抵抗できない状態で拉致され、殺害された疑いがあるとみて、男の割り出しを急いでいる。 6日午前2時頃、男が女性の肩を抱いてアパート玄関から出てきたのを近くの人が目撃していた。女性は足元がふらつき、まっすぐに歩けない状態で、男に引っ張られるようにして、アパート前の道路を南東の方向へ歩いていったという。その後、男が車で戻ってきてアパートそばの駐車場に停車。 男は車を降り、諸賀さんが住んでいたアパートの2階に駆け上がったが、短時間で車に戻り、そのまま走り去った。助手席には、この女性が乗っていたという。

 3.6日、早朝、同僚が迎えに来るも応答なし。参加予定だったゴルフコンペに女性は不参加。携帯も通じず。自宅は玄関は施錠されており、ベランダの窓ガラスが内側から割れていた。(ゴルフバック転倒理由は不明)普段持ち歩くバッグ(玄関に置かれていた)財布、車の鍵、仕事用の携帯、車はそのまま荒らされたような跡は無し 。被害者宅に血痕、尿の反応なし土足の形跡も無し。3.7日、家族が捜索願を出した。

 被害者の父は元警察官、6人兄弟の長女。被害者は医療品会社の営業勤務で成績は優秀だった。

[ 練馬一家5人殺し事件 ] 1983年(昭和58年)6月27日、東京都杉並区の不動産鑑定士の朝倉幸治郎(当時48歳)は、東京都練馬区大泉学園在住の洋書販売会社課長の白井明(45歳)が貸借して住んでいた家と土地が東京地裁の競売にかけられているのを知り、同年2月、約1億円を支払って所有権を得るとともに、別の会社と転売契約を結び、6月末までに、引き渡す約束をしたが、明渡し交渉がうまくいかず、このままだと、転売先に3000万円の違約金を支払わなければならなかった。この日の午後2時45分ごろ、白井宅を訪ね、顔を見せた妻の幸子(41歳)をいきなり金づちで殴り殺し、続いて次男(1歳)、三女(6歳)を殴殺、絞殺し、間もなく帰宅した次女(9歳)も絞殺した。長男は次男と双子として生まれ、翌年の誕生日を過ぎてまもなく死亡している。午後9時半過ぎ、主人の明が帰って来た。朝倉は明の腹を拳で殴り、持ってきたマサカリで切りつけ、失血死させた。翌日、明の死体をバラバラにし、肉挽機を使ってミンチ状にした。長女(当時11歳)だけは林間学校に出かけて命拾いをしている。「骨まで粉々にしてやりたかった」などと自供。1985年(昭和60年)12月20日、東京地裁で死刑判決。1990年(平成2年)1月23日、東京高裁で控訴棄却。1996年(平成8年)11月14日、最高裁で上告棄却で、死刑が確定した。2001年(平成13年)12月27日、死刑執行。

関連書籍・・・『バラバラ殺人の系譜』(青弓社/龍田恵子/1995)

[ 宮ア勤幼女連続殺人事件警察庁広域重要指定事件「117号事件」) ] 1989年(平成元年)7月23日、東京都五日市町(現・あきる野市)の印刷業手伝いの宮ア勤(当時26歳)は、当時6歳の女の子を自分の車に乗せ、八王子郊外の山林に連れ込み、裸にしてビデオを撮ろうとしていたところを、尾行してきた、この女の子の父親に捕まった。1988年(昭和63年)8月22日、埼玉県入間(いるま)市内の歩道橋を歩いていた今野真理ちゃん(4歳)に、涼しいところに行こう、と声をかけ、車に乗せて東京都八王子市内の山林に連れ込んだが、真理ちゃんが泣き出したので、押し倒して絞殺し、遺体をビデオに撮ってから、衣類を持ち帰った。10月3日、埼玉県飯能(はんのう)市の小学校の傍らで遊んでいた吉沢正美ちゃん(7歳)に、道を教えてと近づき、誘拐して殺害した。12月9日、埼玉県川越市の自宅の団地の傍らで遊んでいた難波絵梨香ちゃん(4歳)を温かいところに行こう、と声をかけて誘い殺害した。翌1989年(平成元年)2月6日、骨片や歯を入れた段ボール箱を今野真理ちゃんの家の玄関に置いた。2月10日、朝日新聞東京本社宛てに、「所沢市 今田勇子」で、真理ちゃんの顔写真を添付し、コピー用紙3枚の犯行声明文を入れた封書が届く。2月11日、真理ちゃん宅に、「所沢市 今田勇子」で、朝日新聞社に送ったものと同じ文面の犯行声明文のコピーと真理ちゃんの顔写真入りの封書が届く。6月6日、東京都江東区の公園で遊んでいた野本綾子ちゃん(5歳)を誘拐して悪戯し殺害した。このときは遺体を自宅に持ち帰ってビデオ撮影した。2日目になると悪臭がひどくなってきたので、遺体の頭部、両手足を切断、髪の毛や歯を抜いたりしたあと、飯能市の宮沢湖霊園などに棄てた。宮アが一連の事件の被疑者として正式に逮捕されたのは、1989年(平成元年)8月11日。1992年(平成4年)、6人の慶応大学グループによる鑑定で、「人格障害」、1994年(平成6年)、3人の東大グループによる鑑定で、「多重人格」と「精神分裂病(統合失調症に名称変更)」という3つの結論が出た。同年11月21日、宮アの父親が東京都青梅市の多摩川に架かる橋から投身自殺した。1997年(平成9年)4月14日、東京地裁で死刑判決。2001年(平成13年)6月28日、東京高裁で控訴棄却。2006年(平成18年)1月17日、最高裁で上告棄却で死刑確定。2008年(平成20年)6月17日、死刑が執行された。45歳だった。

関連書籍・・・『宮ア勤裁判 上』(朝日文庫/佐木隆三/1995) / 『宮ア勤裁判 中』(朝日文庫/佐木隆三/1995) / 『宮ア勤裁判 下』(朝日文庫/佐木隆三/2000) / 『宮ア勤事件 塗り潰されたシナリオ』(新潮社/一橋文哉/2001) / 『M/世界の、憂鬱な先端』(文春文庫/吉岡忍/2003)/ 『ドキュメント 消えた殺人者たち』(ワニマガジン社/1999) / 『<物語>日本近代殺人史』(春秋社/山崎哲/2000) / 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)


















(私論.私見)