444−33 | 理論的対立の検証(1)「筋幅論争」 |
1958(昭和33)年の原水禁第4回世界大会の頃から、原水禁運動の一層の政治主義化が問われ始め、興味深い論争が行われている。まず、この頃全学連の中から「原水禁運動は勤評問題をとりあげよ」という主張がでてきた。つまり、「原水禁運動の政治主義化」の提案が為されたということになる。 1959(昭和34)年になると60年安保闘争を目前にし始めたこともあり、7.21日、日本原水協が原水爆禁止世界大会について、「原水爆禁止を実現するため核武装、海外派兵の道を開く安保改定に反対するのは当然」と声明した。つまり、「原水禁運動の政治主義化」方向へ踏み出したことになる。但し、翌7.22日、全国都道府県議長会が、原水禁運動に関して「政治色をぬぐい去るべきである」と決議している。つまり、原水協内部からクレームが付き、「平和運動への政治の持ち込みを拒否する声明」が為されたということであろう。 1959(昭和34)年の原水禁第5回世界大会の時、「平和の敵を明らかにせよ」、「原水禁運動は安保反対そのものをとりあげよ」という政治主義的主張がでてきた。が、このときは「あらゆる党派と立場をこえた、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的運動」という原則が優り、こうした提案をとりあげなかった。 この対立は次第に激化し、「軍事基地などの平和問題に関連する課題を原水禁運動のテーマとしてとりあげるか、否か」という原水禁運動の政治主義化を廻って論争が始まった。これを「筋幅論争」と云う。「筋幅論争」の「筋」派は、「平和運動と軍事基地は関連があるから原水禁も基地反対運動をとりあげるべきだ」と「『筋を通す』ことが重要だという意見」を述べたので「筋」派と云われる。これに対し、「幅」派は、「原水禁運動は広範な国民の参加する運動だから、政治主義化を強めるよりその幅を大切にするべきだ」という「『幅広く取り組む』ことが重要だという意見」を述べたので「幅」派と云われる。この両見解が対立した。 |
問題は次のことにある。実際にはこの二項対立が相互に排斥し合い、その対立による憎悪は互いの絶滅まで期すほど定向進化してしまう。これはおかしいのでは無かろうか。この対立を煽ってはならないのではなかろうか。しかるに定向進化するのは、それを誘う邪悪な仕掛けやによってなのではなかろうか。 これを防ぐには、双方が一つの条件をクリヤーすれば良い。「同じ方向を目指す仲間として、その手法の違いであることを認め、反発しつつ協調する度量を相互に持つことが出来るのかどうか」である。「同じ方向を目指す仲間」で無い場合、これも簡単である。それを立証することが出来るなら、大衆的に包囲し駆逐して行けば良い、調停はむしろ邪道だろう。但し、論証出来ない場合どうするのか。論証に精出さねばならない、ということでは無かろうか。 このことの確認は案外と大事である。原水禁運動のこの時点では、全学連中央が「左」から政治主義化を促そうとしていた。日共は如何にも宮顕式のヌエ方針で「右」、「左」から政治主義的統制運動を促そうとしていた。社会党系がやや「右寄り」に位置して「幅」派を形成しつつあった。ところが、全学連中央がこの頃形成されていく革共同と第一次ブントに乗っ取られるや否や、宮顕の指導する日共指導部は本質も露に社会党よりひどいズブズブの「幅広論」を唱え始めていくことになる。 これが「平常時左派、有事極右」型宮顕運動の素性である。宮顕式日共運動はなべてこの観点から精査され直さねばならない。この観点を持たないと、日共運動を盲信する者は脳を患うことになる。患わない者はこれまた自慢にならない。理論をそれだけ軽視しているだけのことであろうから。 かくて、「筋」派と「幅」派は、お定まりの「撃ちてし止まん」絶対戦争に向かうことになる。これを不可避と見るのか、変調と見るのか、この識別が重要では無かろうか。 それはそうと、この時の筋論側の批判は次のようなものであった。概要「原水禁運動が、米ソ二極冷戦構造という世界構造を前提にしつつ、原水禁運動本来の思想としての反戦平和から切断されたところで、そのうわずみとしての“原水爆禁止”だけに運動の比重をおくならば、日本が基地として使われた1958年の金門・馬祖攻撃という米帝の中国挑発局地戦争に対して有効に対処し得ない。その時代の局面に有効な運動を創出しない限り、真の平和運動になり得ない」。 但し、実際の闘争局面はなお複雑である。概要「平和=核否定の思想が形成されたのは、アメリカがダレス式大量報復戦略を採用してきたのに対応してであり、そうした戦略がある限り、平和=核否定の思想は有効でありえたが、米ソ核均衡の成立により、大量報復戦略は有効性を喪失し、アメリカはすでに1954年からこの戦略の再検討を開始したのである。日本原水禁運動の本格的開始は1954年以後であるとするならば、その時すでに平和=核否定の思想は形骸化されざるを得ない危険性を内包していたのである」とある。 2004.8.16日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)