原水禁国民会議結成以降、さまざまな運動が展開されてきた。広島・長崎の原爆被爆を記念する集会を8月に開催するのをはじめ、各種の運動を試みてきた。 「原水禁」が最初に試みたのは「日本非核武装宣言」を要求する「国民平和投票」運動であった。これは、各都道府県でモデル地区を設定し、全有権者の過半数をこの「投票」運動に組織しようというものであった。核武装に反対する世論は圧倒的に強いのであるから、これを平和投票の形式でまとめあげ、国会に要求して「日本非核武装宣言」をかちとろうという野心的なものであった。
これは全国一律にはゆかなかったけれども、それなりの成果があった。とくに、本格的にこの運動を組織したところは、地域の人々を戸別訪問によって徹底的に説得したために、その後の運動の組織的な基礎をつくることにもなった。とくに北海道木古内町・三笠市、栃木県の足尾市、山梨県竜王町、長野県佐久市、岐阜県赤坂町、香川県の善通寺市、大分県臼杵市などはいずれも目標を達成し、「原水禁」の地域組織を固めることにもなった。
分裂後の<モデル地区の成功例>
都市名 |
有権者数 |
投票数 |
% |
北海道・木古内町 |
6.714 |
4.498 |
73.6※ |
〃 ・三笠市 |
26.000 |
18.625 |
69.0※ |
栃木県・佐野市 |
42.135 |
20.000 |
47.4 |
〃 ・足尾町 |
8.958 |
5.000 |
55.7※ |
新潟県・糸魚川市 |
25.130 |
11.239 |
42.9 |
山梨県・竜王町 |
5.005 |
3.050 |
60.3 |
長野県・佐久市 |
35.328 |
19.210 |
54.3 |
岐阜県・赤坂町 |
7.305 |
4.415 |
60.4 |
〃 ・坂下町 |
3.500 |
1.722 |
49.2 |
香川県・善通寺市 |
22.069 |
13.150 |
55.2※ |
佐賀県・大町町 |
8.690 |
4.000 |
46.0 |
大分県・臼杵市 |
25.880 |
14.730 |
56.8 |
※は非核武装宣言を決議したところ
●被爆者救援と援護法制定運動
被爆者救援と援護法制定の運動は原水禁運動にとって片時も忘れることのできない運動であった。原水禁国民会議は結成時からこれを重視しさまざまな活動を展開してきた。原水禁世界大会開催にあたっては、大会の分担金とは別に「各県原水禁」が被爆者救援のカンパを拠出している。夏の大会だけで毎年400万から500万円のカンパが集めっており、被爆者救援の資金となっていた。その他に、日常的な救援カンパ運動、組織内におけるカンパ(とくに全電通、全逓婦人部では給料のなかの一円をすべて被爆者のカンパにあてるという運動を行なって大きな成果を収めた)なども行なわれている。
被爆者救援法を要求する運動は、「日本被団協」を中心に進められ、「原水禁」は被団協を全面的に支持して運動を進めてきた。とくに1968年「被爆者特別措置法」を制置させる段階では、原水禁は全力をあげて活動し、被団協をあらゆるところから支援し、「被爆者援護法」には程遠いが、「医療法」をこえる、この法律をつくらせることに成功した。広島・長崎における地方自治体への働きかけ(広島県議会は1966年「被爆者対策特別委員会」をつくり、県としての援護対策をとるとともに政府に対して強力な働きかけを行ない、広島市、長崎市なども連帯していわゆる「八者協議会」をつくらせこれが結束して対政府要求行動を行なった)や被爆者の大衆行動(1967年3月には被団協結成以来の大行動が組織された)に「原水禁」は全力で取り組んだ。
だが、1970年の森滝市郎氏の被団協理事長辞任以降は、日共が被団協の実質的指導権を握り、このような日本被団協と「原水禁」との友好関係に、ヒビが入り、共同行動が当初のようにはとりづらくなってきたことは否定できない。他方、被団協幹部が老齢化するなかで今度は、職場ごとの被爆者組織がつくられ、これが被爆者の運動に新しい活気をつくりだしているのが当時の特徴である。全電通、国労、日教組、全逓などのなかにそうした組織ができ、動きが活発となっていった。
1966年、当時の浜井広島市長は、原爆被害の惨状のシンボルともいうべき原爆ドームが風化し崩れかかっているのを見かねて、その永久保存を決意した。最初市議会にこれをはかったところ、一部保守系議員と共産党議員の市の「予算を使用するのはけしからない」という反対に出合った。この時にとった日本共産党の態度はじつに不可解であり、自民党の責任とともに永久に忘れられない。原爆ドームが存在する限り、日共の汚点は記憶されつづけるだろう。一時はこの保存構想の実現はまったく暗礁に乗り上げたかのようにすら思われたのである。そこで、ドーム保存の決意の固い浜井市長は、全国民に訴え、カンパを集めてもこれを保存しようと計画した。
「原水禁」はこの浜井市長の計画の意義を積極的に評価し、大衆的な募金活動を決定した。もしも「原水禁」のこの決定がなければ、浜井市長もこの大胆な募金活動を全国に呼びかけることができなかったかもしれないのである。浜井市長は自らも街頭カンパの訴えにたち、「原水禁」は全国民的にドーム保存の募金活動を展開した。総評も正式にこの運動の支援を決定し、募金は瞬く間に集めっていった。この募金運動を真剣に行なったところでは、広範な国民的支持をうけ、超党派的な運動へと飛躍していった。わずか数ケ月間に募金は7000万円を超すにいたり、1967年4月には保存工事の起工式を行なった。
全国津々浦々に運動は浸透し、「原爆ドームを保存しよう」という声が広まっていった。各県原水禁も積極的にこのカンパ活動を展開し、目標額はほとんどの府県で達成され、それを突破するところが多かった。もしも今日、原爆ドームを保存することによって、原爆被害のシンボルを残し、反原爆の国民感情を育てる一つの手懸りになりえてるとすれば、われわれのカンパ運動もこれに大きく貢献しているといってよいのである。(国民的支持の高揚を無視できなくなった日共本部は運動が峠を越し、終わり近くなってから10万円をカンパした)現在、原水禁のシンボルマークとなっているのは、このドームをもじってつくられたものである。
1965年の米国の北ベトナム爆撃開始は極東の軍事緊張を極度に激化させ、平和共存を真っ向から脅かすものとなった。しかもこの北爆には沖縄の核基地が直接に利用されたのである。
学者・知識人たちは、「ベトナムが極東の範囲に入らず、安保条約の適応区域ではないのだから、沖縄や日本本土を利用することは安保条約にも反する」と主張し、日本の北爆加担に抗議した。だが現実には、沖縄基地はベトナム戦争に利用され、その上、B52まで嘉手納空港に飛来するにいたった。沖縄県原水協(原水禁加盟)は、直ちにこれに抗議することを決め、大衆的デモを組織するとともに本土に直訴団を派遣してきた(1968年2月)。
原水禁国民会議はこの時以降、沖縄問題に本格的に取り組むことを決めた。沖縄返還運動を支持するとともに、沖縄の核基地を撤去させることがその主題であった。もちろん沖縄には原爆被爆者がおり、本土とは差別された待遇をうけていた。法体系の違う沖縄で「原爆医療法」に準ずる法がつくられたのは、「医療法」制定後10年を経た1967年のことである。つまり被爆者も10年の格差をつけられたのだった。この差別された被爆者を救うこともかねてからの課題であった。
こうして、「原水禁」は1968年以来、広島・長崎に次いで沖縄を重視し世界大会の一環として沖縄大会を開くことにしたのである。
沖縄で「原水禁」が真先にとりあげたのは、B52の撤去であったが、それ以外にも課題は多い。まず原潜は沖縄県民の反対にもかかわらず那覇港にしばしば寄港していたし、核弾頭をつけたメースBも配備されている。沖縄県原水協(沖縄の原水禁)は米軍の妨害を蹴って那覇港の海底泥を採取し、「原水禁」はこれをひそかに科学者の分析に託した。この分析の結果、海底の泥からは大量のコバルト60その他が検出された(1968年)。原潜寄港による放射能汚染が判明するや魚の価格は暴落し、魚市場は恐慌状態となった。沖縄ではビキニの「死の灰」事件よりも「コバルト60事件」の方がショックは大きかったのである。当時の琉球政府や立法院も、「原潜寄港反対」を強く米高等弁務官に要求した。世論の強い非難の前についにアメリカは原潜の那覇港寄港を断念し、太平洋側のホワイトビーチに寄港地を変更するにいたった。
●沖縄核基地の調査活動
沖縄に核兵器があることは暗黙の了解事項ではあるが、その実態は容易に明らかにすることはできない。毒ガス撤去に際しては、米軍は屋良政権の推せんする専門家・学者の基地内立ち会いを許した。この教訓を生かし、沖縄県原水協は基地の調査・点検活動を計画した。こうして軍事評論家小山内宏氏の協力の下に沖縄核基地を調査し、核兵器の所在をもほぼ確かめることができた(1971年6月発表)。
1969年の「日米共同声明」によって、沖縄の核付き返還の構想は明らかとなった。72年の返還時には、米軍基地を防衛するために自衛隊が派遣されることも明らかとなった。
沖縄県原水協は、この自衛隊派遣に反対する闘いを組織しはじめた。本土側の力不足でこの闘いは必ずしも足並みがそろったとはいえない。だが、本土・沖縄の両運動の連帯と結合は次第に具体的となってきた。自衛隊が「基地周辺整備法」を利用して、住民や地方自治体を懐柔していくやり方は本土側から沖縄に知らされ、沖縄側にとって大きな教訓としてこれは学ばれた。また、本土側のナイキ反対運動は沖縄に行き、米軍がかつて行なったナイキ・ハーキュリーズの実射訓練の被害の実情を聞き、いよいよ反対の決意を強めていった。このナイキ反対運動にみられる連帯のあり方は今後ともいよいよ重要となってくるだろう。
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