444−334 理論的対立の検証(3)「部分的核実験停止条約」論

 (最新見直し2005.10.7日)

「部分的核実験停止条約」

 第二次世界大戦末期の1945.6月に米国が原子爆弾の開発に成功し、7.16日、実験、8月に広島と長崎に投下した。以降、続いてソ連が1949.9月、1952.10.3日、英国、1960.2.13日、フランスが核実験に成功し、核開発競争に入った。

 1962年は
米ソが競って核実験をする年となった。死の灰をまき散らす地上、空中核爆発の多発、大国のとめどない軍拡の動きは、国際世論の批判を巻き起こした。米、英、ソ三国は大気圏の核実験禁止に動くことになった。

 1963.8月、米英ソ3国外相によってモスクワで「部分的核実験停止条約」(PTBTPartial Test Ban Treaty、正式名称は「大気圏内・宇宙空間および水中における核兵器実験を禁止する条約」、10月発効)が調印された。核開発競争の緩和の方向が打ち出された歴史的結節点となった。

 とはいえこの条約は、正式名称が示すとおり、大気圏内・宇宙空間および水中での核実験を禁止するもので地下実験に対する規制を設けなかった。つまり、核実験を全面的に禁止するものではなく、核開発先進国として後進諸国の核実験を掣肘するところに意味があった。それが証拠に、米ソの地下実験は引き続き続行された。

 部分的核実験停止条約は、1963年末までに104カ国が調印したが、ド・ゴールのフランスが「フランスの栄光」を唱えて米英ソに対抗し、中国も米英ソによる核独占である非難し、共に不参加を表明するなど問題点を残した。中国は、1964.10.16日に核実験に踏み切り、核保有国の仲間入りすることになる。続いて1974年にインド、1979年に南アフリカ、1998年にパキスタンも核保有国となる。そのほかにもイスラエルなど保有が確実視されている国もある。

 参考までに記すと、広島、長崎の後で核兵器が使用される危機が少なくとも3回あった。
一つは朝鮮戦争(1950.6.25日〜1953.7.27日)であり、
大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が衝突。それぞれが国連軍、中国義勇軍の支援を受けての大戦闘となった。当時のGHQ最高司令長官マッカーサーが原爆使用辞さずと声明し、大騒動となった。これに対し、1950.11.30日トルーマン米大統領が「米国の持つ最大の武器を使うことは、今までにも積極的に考慮された。しかし、原爆は軍隊のみならず、一般市民に対し恐るべき威力を有するものなので、これを使う必要がないことを心から熱望している」と述べ、マッカーサー解任を決断し回避された。

 次は、ベトナム戦争(1960.12.20日〜1975.4.30日)の時であり、フランスの植民地支配の後、米国は南ベトナム政府を応援し、ベトナムの内戦に介入した。「北爆」を繰り返し、ベトナム全土に「ジェノサイド」と呼ばれる皆殺し作戦を展開したが核爆弾の使用は踏みとどまった。米国は50万人を超す兵力と近代兵器を投入しながらついにベトナムから敗退した。

 次は、キューバ危機(1962.10.22日〜10.28日)であり、1962.10.22日、米国のケネディ大統領は、ソ連がキューバにミサイル基地を建設中と発表し、キューバを海上封鎖した。結局、ケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相の英断で戦争が回避されたが、危く核爆弾の発射装置に手が伸びるところであった。



【条約に対する日本政府の見解】

 次の資料がある。「戦後日本政治・外交データベース」国会内の外務大臣演説、[内閣名] 第59代第2次池田(昭和35.12.8〜38.12.9)、[国会回次] 第44回(臨時会)、[演説者] 大平正芳外務大臣、[演説種別] 外交演説、[衆議院演説年月日] 1963/10/18、[参議院演説年月日] 1963/10/18。

 [全文]

 キューバ事件以後の国際情勢は、去る八月、米英ソ三国間に成立を見た部分的核実験停止条約に象徴されますように、緊張緩和の方向に動きつつあります。また、去る九月十七日に開会された国際連合第18回総会におきましても、米ソ両国とも国際緊張緩和への姿勢を示し、かつてない協調的空気が見られるのであります。一方、数年前より中ソ間に醸成されつつありました不信と対立は、昨年来とみにその深刻さを露呈し、鉄の団結を誇ってきた共産圏も、明らかに分極化の様相を深めつつあります。そしてこのことが、ソ連をして、その標榜するいわゆる平和共存政策を、一そう活発に展開せしめる要因になっておることも否定できません。

 かかる緊張緩和への動きが、はたして、真の平和への前進であるか、あるいはまたその前進への踏み台たり得るかどうかにつきましての評価は、いまだ定まるに至っておりません。なるほど、部分的核実験停止条約の成立は、人類を放射能の危険から救うとともに、核兵器競争の激化を防ぐために役立つものであることは申すまでもありません。しかしながらいまだこの条約に参加せず、あるいは公然とこれに反対する若干の国があります。また、この条約は、地下における核実験を禁止していないばかりか、核兵器そのものの製造、貯蔵、運搬並びにその使用を規制するものではないのであります。加うるに、地下実験についての有効な国際管理の方法についても、いまだに関係国の間に意見の一致を見ていない状況であります。このように見てまいりますと、全人類が希求する軍縮への道が、いかに遠く、かつ、いかに困難なものであるかを痛感せざるを得ないのであります。

 今日の平和をささえるものは、依然として、東西それぞれの陣営における真剣な防衛努力を背景とする緊張した力の均衡にあるといわざるを得ないのであります。このような均衡関係に、急激な、かつ、一方的な変改を加えることは、かえって平和を危うくするものであります。このことは、まさに、昨年のキューバ事件においてわれわれが体得したところであります。わが国とその周辺の安全保障体制は、このような均衡関係の一翼を形成しつつ、極東、ひいては世界の平和に貢献してまいりました。われわれは、このような世界情勢に対する認識を誤ることなく、現在の安全保障体制を堅持しつつ、冷静、かつ、周到に今後の国際情勢の動きに対処しなければなりません。

 それと同時に、真の世界平和への努力は、一刻たりともこれをゆるがせにしてはならないのであります。キューバ事件の収拾を契機として醸成された緊張緩和への空気は、あくまでもこれを保ちつつ、各国は、かかる平和達成のために、たとえ一歩でも二歩でも、その前進をはかる具体的方途をくふうしてまいらなければなりません。わが国が部分的核実験停止条約に参加いたしましたのも、まさにそのような考え方に立つものにほかなりません。われわれは、現に核兵器を保有する大国が、漸次相互の信頼をはぐくみつつ、有効な国際管理の方式を打ち出し、今日高い水準にある軍事力を、その均衡を保ちつつ、逐次低い水準へ引き下げるよう努力することを強く期待するものであります。また、それを可能にする国際世論と、国際環境の形成とに向かって世界各国はそれぞれ応分の努力をいたすべきであると思います。わが国がその地位と能力に応じて果たすべき平和のための有効な役割りは、その意味において決して少なくないのであります。政府といたしましては、今後も、国際連合をはじめとして、あらゆる機会をとらえ、国際緊張の緩和と世界平和のため、努力を続けてまいる所存であります。

 次に、わが国と世界の諸国との関係につき概観し、あわせて当面の諸問題につきまして、若干の見解を申し述べたいと存じます。
 日米関係は、防衛協力をはじめとして、全般的にますます緊密の度を加えており、閣僚レベルの定期的な会合のほか、問題に応じて密接な協議が活発に行なわれ、満足すべき状況にあります。通商、金融等の領域におきましては、ときおり若干の問題が生じますが、これは、日米両国がそれぞれ自由で開放的な経済体制をとり、かつ、その経済交流がますます緊密化するに伴って、当然生ずべき性質のものであります。これらは相互の理解と互譲の精神をもって解決することにより、日米両国の基本的な関係には何らの影響を与えるものではないと信じます。政府といたしましては、わが国の安全と繁栄を保障するため、今後とも米国との提携関係の強化拡充に一そう努力をいたす考えであります。

 なお、米国原子力潜水艦の日本寄港問題でありますが、米国がわが国に寄港させようとしているのは、ポラリス潜水艦ではなく、単に原子力を推進力として利用しているにすぎない潜水艦でございます。したがって、すでに政府が国会の内外におきまして、屡次にわたって明らかにしてまいったとおり、これは、それ自体核兵器の日本への持ち込みでもなければ、また、将来における核兵器の持ち込みに連なるものでもありません。このような潜水艦が日本に寄港することは、わが国の安全を保障し、極東の平和に寄与するための、日米間の防衛協力のたてまえから申しましても、また、科学の発展進歩によってもたらされた兵器の進歩の方向から申しましても、いわば当然のことであります。また、この原子力潜水艦は、その実用化以来過去七年有余にわたる運航実績が示しますように、その安全性はきわめて高いものであります。しかし、国民の中には、その安全性についてなお若干の不安を抱いている向きがありますので、政府は、米国側と密接な連絡をとりつつ、慎重にその安全性の解明につとめているのであります。政府としては、その結論を得た上で、この問題の最終処理をいたすつもりであります。

 カナダについては、先般オタワにおいて第二回日加閣僚委員会を開催し、両国間で共通の利害を有する諸問題について、腹蔵のない意見の交換を行ないました。このことは、日加間の関係を一そう緊密化するのに役立つものと確信いたします。

 わが国と西欧諸国との関係が、近来、一段と緊密の度を深めてまいりましたことは、御承知のとおりであります。私は、去る八月末より九月にかけ、ノルウエー、スウェーデン、デンマークの各国を訪問し、引き続き、英仏両国において、日英、日仏協議の第一回会談を行ないました。北欧三国におきましては、それぞれの首脳者と国際情勢一般、あるいは国際経済問題等について会談するとともに、三国の実情を視察してまいりました。英仏両国におきましては、両国首脳者と、東西関係、アジア情勢、欧州情勢等の国際情勢一般並びに国際経済問題につきまして、相互に率直な意見を交換いたしました。これらは、今後わが国の外交を推進し、欧州各国との経済交流を促進する上において益するところが多かったと考えております。

 日ソ関係でありますが、両国間の貿易は逐次健全な伸びを見せております。また、政府は、かねてわが北方領土周辺において操業中、ソ連官憲に拿捕抑留された漁民の釈放並びに漁船の返還につき努力を続けてまいりましたが、このほど抑留漁夫については合計百四十一名の釈放が実現いたしました。また、本年六月十日貝殻島周辺におけるコンブの採取に関する民間協定も締結を見るに至っております。

 わが国とアジア諸国との友好関係がますます深められ、アジア諸国のわが国に対する信頼と期待がますます高まってきました。アジアに位するわが国が、アジアの安定と繁栄に寄与することにこそ、世界平和達成のために果たすべきわが国独自の責務があると信ずるものであります。わが国はみずからが品位のある豊かな民主主義体制を確立して、アジアの道標となるとともに、アジア諸国の最も親近な友人として、その喜びとともに、その苦難をも分かち合わなければならないのであります。私は、わが国のこのような重要な責務を遂行するためにも、若干のアジアの国々との間に、いまなお残されている懸案は、一日も早く誠意をもってこれを解決することが肝要であると考えております。

 日韓両国の国交正常化のための交渉は、昨年中に請求権問題の解決につき大筋の合意が見られ、現在交渉の局面は漁業問題に移っております。漁業問題は、両国民の関心と利害に直結し、かつ、交渉の全局を左右する問題でもありますので、国際慣行にのっとった公正かつ適切な解決をもたらすべく、鋭意努力を傾注いたしております。この努力が実るならば、自然他の諸問題につきましても、順次合意の成立を期待し得るものと信じております。

 次に、シンガポールにおける対日補償要求の問題について申し上げます。この種の賠償問題はサンフランシスコ平和条約により、法律的にはすでに解決済みではありますが、政府としては、シンガポールとわが国の友好的な関係の維持発展を考慮しつつ、今日まで交渉を続けてまいりました。先般マレーシアが成立しましたので、同国政府との間において、この問題の可及的すみやかな解決をはかるべく、せっかく準備を進めております。

 世界の平和は、世界経済の繁栄を離れては考えられないところであります。さらには、現代文明の恵沢に浴し得る機会を与えられることが、洋の東西を問わず、各国国民の基本的な願望となっております。幸い、わが国の場合、内外にわたる国民のたゆまざる努力と、諸外国との緊密な協調とによりまして、戦後の経済は著しい発展を遂げることができました。かくて、わが国は、アジアにおける唯一の先進工業国として、世界経済の発展にますます大きな役割りと責任を持つに至ったのであります。

 本年春、日英通商航海条約が発効し、フランス及びベネルックス三国との通商関係正常化についても合意が見られましたことは、すでに御承知のとおりであります。さらにそれに引き続き、オーストラリア、ローデシア・ニアサランド連邦の諸国も、わが国に対するガット35条の援用を撤回するに至り、世界主要国のわが国に対する通商面の差別除去という長年の懸案も、ここに一段落を迎えるに至りました。わが国としては、今後とも国際協調を通じて、世界経済の一そうの繁栄に寄与しなければなりません。このために政府は、OECDへの加盟、関税一括引き下げ交渉への積極的参加を通じて世界貿易の拡大に貢献し、もって貿易立国の実をあげてまいる所存であります。

 他方、国際収支の悪化によりその発展が停滞している後進地域の諸国は、昨年来、後進国産品の貿易拡大について、先進諸国の一そうの協力を求めております。かかる要請にこたえるため、明年三月国連の場において、後進国の貿易開発会議が開催される運びとなりました。わが国といたしましては、これら諸国のかかえる経済上の困難に対する深い理解と同情をもって、後進国貿易発展のためにできる限りの協力を進めたいと考えております。さらに、先進諸国は、開発途上にある諸国との貿易拡大に努力するとともに、これらの国の産業、経済、教育、科学、衛生等の向上に寄与するため、資金と技術の両面にわたる開発援助の努力を積み重ねていくことが必要であります。政府は、インド、パキスタンに対しさらに新たな借款の供与を約束し、また、インドネシアに対しましては、その経済的な緊急事態を救うために、最近商品援助を与えることにいたしました。また、技術協力の分野におきましては、海外技術協力事業団の業務の充実に伴い、着実な進展を見ております。かくて、昭和三十七年における開発途上にある諸国に対するわが国の開発援助総額は、二億八千二百万ドルにのぼり、今後一そうこの分野における努力を強化する所存であります。

 わが国が諸外国との経済関係を緊密化することは、ひとり政府のみのよくなし得るところではありません。政府は、諸外国の実業界との相互理解を増進するため、わが国実業界の代表者をもって構成する経済、貿易使節団をすでに南米のアンデス地域及び東欧地域に派遣しました。近く北米、欧州並びに北アフリカ地域に対しても、経済使節団を派遣すべく準備を進めております。

 わが国の貿易は、現に自由圏との貿易を根幹として展開されており、それがわが国経済発展の原動力をなしていることは明らかなところであります。今後におきましても、わが国としては、これら自由諸国との貿易を拡充することに貿易政策の重点を指向してまいることは、当然のことと考えております。一方、政府は、商業ベースでの共産圏との貿易は、これを推進するという政策をとってまいりました。最近カナダ及びアメリカ小麦の共産圏に対する売却決定がありましたが、これは純然たる商業ベースによるものでありまして、これがためにわが国が従来とってまいりました政策を変更する必要は認めていないのでございます。

 海外移住につきましては、一昨年十二月アルゼンチンとの間に締結された移住協定が最近発効の運びとなり、また、昭和三十五年に締結されたブラジルとの移植民協定も、近く発効する見込みであります。これにより両国への移住は一そう組織化され、移住者の地位の安定と、今後の移住の促進に、役立つことが期待されるのであります。また、政府は、去る七月新たに海外移住事業団を設立し、その自主的な運営により、移住実務を、中央、地方、海外を通じてより効率的に処理せしめることといたしております。

 世界の平和を維持し、さらにその調和ある発展をはかるためには、国家間あるいは民族間の不信感を取り除き、すべての国家、すべての国民が、互いによく理解し合うことが最も重要と考えます。かねてより政府は、海外に対して、平和日本の実情を知らせるための努力を精力的に行なってまいり、外国人のわが国に対する認識と関心は、近年とみに深まりつつあります。政府は、今後ともかおり高き日本文化をますます広く海外に普及するとともに、わが国の現状を周知せしめ、もってわが国に対する諸外国の愛着と信頼を高めてまいりたい考えであります。

 他方、政府は、外交方針を策定するにあたり、常に世論の動向に深甚な注意を払い、広く国民各位の支持を得べく、鋭意努力しております。私は、国民各位が、国際情勢の底流とその動向を冷静に認識され、わが国の安全と国民のしあわせを保証しつつ、世界の平和を念願する政府の外交方針に、十分の理解と協力を示されるよう強く期待するものであります。


 この「部分的核実験停止条約」に対して、当時の原水協及び社共がどういう対応の違いを見せたか、以下考察する。


「核拡散防止条約」

 続いて、1968(昭和43).7.1日、「核拡散防止条約」(NPT、Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)が米英ソなど56カ国によって調印された。1970.3月に発効する。加盟国186、イギリス1968年、イラクは1969年、アメリカとソ連は1970年、日本は1970.2.3日、佐藤内閣時に署名調印。但し、1976.5月に国会承認、6月、批准文書寄託。1992年、中国、フランスが加入、1995.5月、無期限延長が決定。こうして5大国はすべて加盟済み、インド・パキスタンは非加盟。非同盟諸国などからは、核兵器保有国による独占的な核兵器開発・保有を固定化するとの批判もある。1995(平成7).5月再検討・延長会議で「無期限延長」 が決められた。

 核拡散防止条約は、核兵器保有国が核兵器非保有国に核兵器を譲渡したり、製造を援助することを禁止し、核兵器保有国の増加を防止することを目的とした。しかし、実質的に既核保有国(米・英・ソ・仏・中)にとってご都合が良く、1967年以前に核実験を行った国が核兵器国として認められ、これ以上核保有国が拡散しないように努力する条約であった。その上で核保有国も軍縮を進めるという論理構造であった。国際原子力機関(IAEA)は、保有国に対しては査察を行わず、非保有国の原子力発電等の原子力エネルギーの平和利用は認められるものの、これを核兵器開発に転用しようとしていないか核物質を扱う全施設が申告させられ、IAEAの査察が行なわれるというものであった。

 「尚、第6条には,核保有国に対して,厳密かつ効果的な国際管理のもとであらゆる面での核軍縮を進めるための交渉を誠実に遂行し完結させる義務があるという努力目標が掲げられている。この努力目標が誠実に実行されているのであれば、NPTは、1968年当時差別的であったとしても、減らしていくためのその間に新たな核保有国を禁止していると解釈されるからである。しかし、現実には、これに類似した文言が、その後あらゆる決議、さらには1996年の国際司法裁判所の勧告文にも表れる。つまり、この義務は履行されていない」(引用元調査中)とある。

 しかし、この条約にも当初フランスと中国は参加せず、また核兵器非保有国は核兵器保有国による核の独占であると強く反発するなど多くの問題点があった。その後、東西冷戦の終結にともない、旧ソ連が1990年、イギリス・アメリカが1992年、フランス・中国が1996年を最後にそれぞれ地下核実験を停止した。

 1994年、第一次戦略兵器削減条約(START1)が発効。米国とソ連が戦略核弾頭の配備総数をそれぞれ7年以内に6000発に制限、2001年に完了。
核拡散防止条約は、1995年に無期限延長が決定された。

 続いて、1996.9.10日地下実験も含めあらゆる核爆発実験を禁止する「包括的核実験禁止条約」(CTBT、Comprehensive Test-Ban Treaty、核実験全面禁止条約とも云う)が国連総会で採択された(158か国)。これにより、核保有国の新型核開発が困難になった。交渉は、1994.1月ジュネーブ軍縮会議で開始された、しかし、この間フランス、中国の実験が相次ぎ、インドが条約に調印しないことを表明するなど条約発効の条件と現地査察の条件で折り合いがつかず難航した。1996.6月に最終案がまとめられ、条約発効条件は、核保有国、疑惑国の8か国を含む44か国の批准を条件として、33年間の後に未達成なら特別委員会を開くということになった。1995年のフランス、中国の実験は、これを前にした駆け込み実験であった。日本は1997.7.8日批准、1998.4月イギリス、フランスが批准した。 →条約署名国と批准国。米国は批准せず、インドやパキスタンも条約の署名を拒否しているため、発効のめどはまだ立っていない。

 が、コンピュータによるシミュレーション実験(模擬実験)や核爆発を伴わない実験(臨界前核実験)は禁止されなかったため、1997.7月年アメリカは核兵器のない世界の実現を求める国際世論に反して臨界前核実験を実施し、ロシアも同様の実験を行っていたことがその後明らかにされた。

 インドは核拡散防止条約(NPT)とこのCTBTを現在の核保有国5か国が核を独占するための不平等な条約と位置づけ、条約調印を拒否してきた。そして、1968.5.11、13日に地下核実験を実施し、核保有国として名乗りを上げた。これに続き、インドと領土問題等で対立しているパキスタンも5.28、30日と核実験を行い、NPT、CTBTによる核不拡散体制は存続の危機を迎えている。イスラエルも「核の保有を否定も認めもしない」との立場を取り続けている。

 1945.7月〜1996.1月までの世界核国の核実験数は以下の通りである。

 米国         1029回
 旧ソ連(ロシア)   715回
 英国          45回
 フランス       210回
 中国          43回
 インド          1回
(1955年5月14日付、8月18日付、96年1月31日付の中国新聞による)

 新世紀になって、米国大統領ブッシュは、「CTBT」の批准に反対し、むしろ地中貫通型の小型核兵器の研究に着手するなど「使える核兵器」の開発に躍起となっている。 2002年、米国が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約から離脱し、条約が失効する。2003年、モスクワ条約発効(米国とロシアが戦略核弾頭を10年以内にそれぞれ3分の1に削減)。北朝鮮がNPTを脱退すると表明。2005年、北朝鮮が核保有を宣言。

CTBTの欠陥見直しを 核拡散防止体制のすべて


 米上院は十三日、包括的核実験禁止条約(CTBT)批准承認案を賛成四八、反対五一で否決した。これは、ウイルソン大統領主導でまとめられた、ベルサイユ講和条約(その第一編をなす「国際連盟規約」、同連盟への米国の加盟)を米上院が拒否した前例にも比すべき、米外交史上の、というより国際政治史上の、大事件である。

 ところで、ケネディ以来次第に米外交の重要な柱となってきていた世界的核拡散防止体制の確立には、(1)部分的核実験停止条約、(2)核拡散防止条約(NPT)、(3)包括的核実験禁止条約(CTBT)の三段階がある。

 (1)部分的核実験停止条約。世界世論にこたえ、空気中などに、人類の健康に有害な放射性降下物が振りまかれるのを防止するため、地下以外のすべての核実験を禁止するもの。もちろん、実験禁止で核兵器競争の抑制も期待された。一九六三年八月五日署名のため開放、第3条3により、米英ソ原締約国の批准により、同年十月十日に発効。当事国は百十一カ国。

 (2)核拡散防止条約(NPT)。一九六八年七月一日署名のため開放、第9条の3により、米英ソのほか、他の署名国四十カ国が批准した時、一九七〇年三月五日に発効。このNPTは、同条約で「核兵器国」と定義されている「一九六七年一月一日以前に核兵器その他の核爆発装置を製造しかつ爆発させた国」(第9条3)がそうでない「非核兵器国」に核兵器やその管理権、製造技術を移転しないこと、「非核兵器国」はそれらの移転を受けたり自ら製造しないことを約束している。現在百五十三カ国が当事国となっているが、核兵器国でも一九六〇年二月米ソ英に次ぎ四番目の核保有国となったフランス、一九六四年十月五番目の核保有国となった中国は、最初はNPTに入らなかった(それぞれ後に一九九二年八月三日、八月十日に参加している)。最近核保有国となったインド、パキスタンもNPTには入っていなかった。北朝鮮は一九八五年NPTを批准したものの、一九九二年一月まで国際原子力機関(IAEA)との査察協定に調印しなかった。その後の核疑惑騒動については衆知のところであろう。

 NPTは、一九九五年三月五日に最初の有効期限二十五年が切れるのを前に、その無条件、無期限延長が決まった。だがインド、パキスタンなどを核保有国として追認した上で、不拡散体制を立て直すのかどうか、核不拡散体制は今、重大な岐路に立たされている。
 (3)包括的核実験禁止条約(CTBT)。これは地下核実験を含むすべての核実験を全面的かつ効果的に禁止しようというもので、これにより、核拡散の可能性は大幅に減殺されることになる。

 現在までに署名した国百五十四カ国、批准した国四十八カ国に達しているが、同条約は、同条約アネックス2に列挙する核開発能力保有国四十四カ国(下記)「すべて」が署名・批准した時に発効する。
 1アルジェリア、2アルゼンチン、3オーストラリア、4オーストリア、5バングラデシュ、6ベルギー、7ブラジル、8ブルガリア、9カナダ、10チリ、11中国、12コロンビア、13北朝鮮、14エジプト、15フィンランド、16フランス、17ドイツ、18ハンガリー、19インド、20インドネシア、21イラン、22イスラエル、23イタリー、24日本、25メキシコ、26オランダ、27ノルウェー、28パキスタン、29ペルー、30ポーランド、31ルーマニア、32韓国、33ロシア、34スロバキア、35南アフリカ、36スペイン、37スウェーデン、38スイス、39トルコ、40ウクライナ、41英国、42米国、43ベトナム、44ザイール(コンゴ民主)。

 このうち、北朝鮮、インド、パキスタンの三国はまだ署名さえもしていないし、それを含め、アルジェリア、バングラデシュ、チリ、中国、コロンビア、コンゴ民主共和国(ザイール)、エジプト、インドネシア、イラン、イスラエル、メキシコ、ルーマニア、トルコ、ウクライナ、米国、ベトナムの計十九カ国は批准していない。

 米国の批准が上院で否決されたといっても、米国はそれら十九カ国とともに条約の発効を押しとどめているだけで、発効阻止にかかわる米国の責任は、今のところ、中露印パなどと同罪で、十九分の一にすぎない。
 確かに、核開発能力保有国の「すべて」が参加しなければ、効果的なCTBTは生まれないし、効果的な核不拡散体制もできないだろう。だからといって、条約に国名を明記した「すべて」の国が署名・批准しなければ発効しない、などという発効条件は、完ぺきを求めるあまり、最初から次善の現実を選ぶ道を排除してしまったものとして、理解に苦しむ。
 現に最強最多の核兵器を持ち、核拡散防止が自国の国益に合致していると考えられるその米国自身すら、批准できないという条約を、いまだ批准していない(米国を除くと)十八カ国が、一国の例外もなく、すべて早期に批准するなどと、どうして期待できるのか。
 CTBTは、米上院の批准否決を機会に、発効条項などを見直し、次善の形でもスタートできる現実的な条約に改め、最初から出直しを図るべき時である。
(現代国際政治経済研究所所長 入江通雅)

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【日本政府の条約承認までの歩み】
 1970.2.3日、日本政府(佐藤内閣)は、「核拡散防止条約」に対して署名調印したものの国会承認は1976.5月、批准文書寄託は同6月で、調印から6年を要した。これほどまで時間がかかった理由は、国内事情にあった。要するに、1・5保有国の核独占を容認するものである。2・核廃棄に向うものではない。3・「条約押し付けに対する反発」。4・「核兵器保有国の独走と専横」。5・「米国の例えば日本への核兵器持込みに対する無規制」という問題があった。

 国民的に「核アレルギー」があり、野党の反対のみならず与党からも批准反対派が生まれていた。こうした事情で、「核拡散防止条約」の国会承認に辿り着かなかった。

 1973.4月、IAEA(国際原子力機関)と欧州原子力共同体の間で、核防条約の保障措置協定が調印された。
 1974.5月、インドが地下実験を行う。
 1975.2.9日、日本政府(三木内閣)が、IAEAとの間で原子力平和利用の査察保障措置協定に実質的に合意。
 1976.5月、批准。同6月、文書寄託。

 平野氏は、「昭和天皇の極秘指令」の中で、前尾議長の話として、この背景に、昭和天皇の意向が強く働いていたことを証言している。
「昭和40年代の終わりごろから各国の元首の訪日が多くなり、会談の中で陛下は各国元首から、『日本はなぜ核防条約を承認、批准しないのか』という質問をしばしばお受けになったそうだ」。


解体寸前の核軍備管理レジーム核抑止にしがみつく愚かさ何が核拡散を刺激しているのか核ドクトリンの変遷このままでは世界的核武装化へと向かう危険と生存

解体寸前の核軍備管理レジーム

 核の危険が現実に存在することは、核軍備管理レジーム下でのこの二、三年における一連の事態からも明らかである。

 核兵器の軍備管理は四つの「層」で構成されており、各層をつくりあげるにはそれぞれ数十年にわたる交渉を必要とした。壮大な計画を基に各層が形成されたわけではないが、時とともに各層はある種の一体性を持つようになった。

 第一層はモスクワとワシントンの交渉である。これによってまず最初に戦略兵器制限条約(SALT)が成立し、その後、冷戦期に増強された攻撃用核兵器を削減するために戦略兵器削減条約(START1とSTART2)が結ばれた。

 第一層と密接な関連を持つ第二層は、対弾道弾ミサイル防衛システムを管理しようとする試みである。その中核的な合意が七二年の弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約で、アメリカとソビエトは対弾道弾ミサイル防衛システムの配備を一つの基地に限定することに同意した。防衛兵器の増強をつうじて、合意された攻撃用兵器の均衡を覆すことができるため、攻撃兵器を制限するには防衛兵器の制限が不可欠なのである。

 第三の層は核不拡散条約(NPT)である。NPTはおそらく、これまでに交渉された軍備管理条約の中の最も見事な成功例であり、ポスト冷戦世界における健全な核秩序に向けた大きな基盤である。NPTの条項の下では、二つの国家集団の区分がなされている。現在核を保有せず今後も保有しない諸国、そして核を保有し当面その保有を認められる諸国である。今日、核を保有しない百八十二カ国がNPTを批准し、その代わりこうした諸国には一部の核エネルギー技術へのアクセスが認められている。一方、アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスの五カ国は、NPTに核保有国として参加している。条約に参加していない国が四つあり、そのうちイスラエル、インド、パキスタンの三カ国は核兵器を保有し、残りの一つであるキューバは核兵器を持っていない。しかしNPTは核保有国、非核保有国という二つの分類を永続的なものとは想定していない。NPTに参加している核保有国は、第四条によって「核兵器の軍拡競争を早期にやめ、核軍備管理へと向かわせるための効果的措置、そして厳格かつ効率的な国際管理の下での全面的で完全な核軍縮を達成するための効果的措置を、誠実に模索する交渉を行う」ことにコミットしている。

 第四の層は核実験禁止交渉である。これは軍備管理の原型と呼ぶべきもので、その歴史はアイゼンハワー政権にまでさかのぼる。NPTにとって不可欠の存在であるこの核実験禁止交渉は、NPT同様にグローバル規模のものだ。六三年に部分的核実験停止条約(PTBT)が締結、批准された。その後継を担った包括的核実験禁止条約(CTBT)によって、核兵器の技術革新に必要とされる実験が禁止されたことで、今後、核の軍拡レースのペースは落ちていく可能性もある。核融合物質の生産禁止に向けた交渉、ミサイル技術の拡散制限を強化する交渉、核兵器に対する警戒を解けるような現実の形成への呼びかけなど、これらはすべて核実験禁止条約の取り組みと不可分の関係にある。

 冷戦が終わった時、これらの四つの層がより堅固な存在となっていく見込みは最大限に高まっていた。九一年のソビエト崩壊によって核の危険は大きく低下していくとみなされ、冷戦に代わるようなグローバルな政治抗争も新たに起きなかったために、その見込みはますます高まっていった。ミハイル・ゴルバチョフ時代に実現した冷戦構造の弛緩によって、START交渉を行う機運は一気に高まりを見せた。八七年調印の中距離核戦力(INF)条約をつうじてヨーロッパにおけるすべての中距離核の配備が禁止され、九一年のSTART1をつうじて米ソ双方は核弾頭の保有数を約七千に削減することに合意した。双方の核弾頭数を三千から三千五百程度に削減するSTART2も九二年に調印され、双方による早期批准の見込みも高まった。NPTに参加する国の数も着実に増えていった。当時はさまざまな交渉が、あたかも(軍縮、軍備管理に向けて)積極的に相互作用しているかのような雰囲気があった。つまり、STARTとCTBTの成功は核拡散を牽制する要因となると思われたし、拡散に終止符が打たれれば、核保有国も核兵器を放棄するかもしれなかった。生物兵器を禁止する憲章、化学兵器の禁止をうたった憲章の採択に向けた交渉は、世界の潮流がすべての大量破壊兵器に反対する方向へ、ゆっくりとしかし着実に向かっていることを示唆していた(米上院も九八年に化学兵器禁止条約〔CWC〕を批准した)。流れは正しい方向に向かっていた。これらをすべて考え合わせると、世界の核兵器はますます編み目が小さくなっていく条約や合意によって縛られ、核の危険は、たとえ完全には消し去ることはできなくとも、間違いなく、しかも急激に低下していくと思われた。核兵器は過去の遺物とみなされ始め、この問題は大衆の意識の中から完全に消え去っていった。

 それから十年、核の危険は再び高まり、条約や合意で織り込まれた網はあちこちでほころびを見せている。インドは九八年五月に五回の核実験を行い、パキスタンはこれに対抗して七回の核実験を強行した。ここに冷戦とは関係のない初めての核の対決が演じられた。九九年夏、インドの政府系委員会は六〇年代のアメリカの論理を借用して、陸・海・空の三元核戦力を基盤とする抑止力の形成と配備を提案した。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)はといえば、核兵器とミサイルに関する開発と中断というプロセスを幾度となく繰り返している。九一年の湾岸戦争後、国連の大量破壊兵器特別委員会の査察団の国内への受け入れを余儀なくされたイラクのサダム・フセインは、結局は査察団を国外へと追い出すことに成功した。イランにしても同様で、二〇〇〇年初頭に発表された米中央情報局(CIA)の報告によれば、「イランは核兵器開発計画のための資金を持っていない」とアメリカ人が納得できるような状況にはない。

 加えて、北朝鮮、イラク、イランの核開発計画に危機感を募らせた米議会は、たとえABM制限条約を脅かすとしても、技術的に可能になりしだい米本土ミサイル防衛(NMD)システムを導入しようと試みている。アメリカは、NMDを(国際法上の問題を引き起こすことなく)配備できるように、ロシアに対して条約修正に応じるように求めたが、ロシア側は条約の修正を認めれば攻撃用核兵器の戦略バランスが崩れると主張し、これを拒否した。ABM制限条約が危機にさらされれば、ロシアはSTART2の実施を見合わせると表明しており、そうなればSTART2の実施も脅かされる。そのうえ、すでにクリントン政権は戦域ミサイル防衛(TMD)システムの配備を日本あるいは台湾と協議しており、これが現実となれば中国を攻撃用核兵器の増強へと走らせかねない。アメリカと緊密な同盟諸国、北大西洋条約機構(NATO)の主要メンバー諸国でさえ、準備ができしだいNMDを配備するというワシントンの一方的な決定には危機感を抱いている。こうした諸国は、NMDの配備がロシアや中国を相手とする軍拡競争の引き金になることを懸念しているだけでなく、防衛システムという「盾」に守られたアメリカが「要塞」に引きこもってしまえば、新たに脅威が出現した場合、ヨーロッパは自分たちだけで立ち向かわなければならないのでは、と危機感を抱いている。一方、ロシアにおける核兵器、そして(アメリカがナン・ルガー法の下でその管理のために二十三億ドルを支援している)核関連物質の管理体制が弛緩しているために、他国の政府だけでなく、テロリスト集団が一個あるいはそれ以上の核兵器を手に入れる危険もある。これらに加えて、米上院がCTBTの批准を拒否したことも先行きを暗くしている。

 とはいえ、これら逆行的な流れの相互作用を検証しない限り、軍備管理状況の悪化の全貌は見えてこない。九八年同様に北朝鮮が日本の上空を越えて太平洋にミサイルを撃ち込んだ場合は、どうなるだろうか。まだ技術的に実証されていないとはいえ、米上院はNMDの配備を承認し、ワシントンはロシアが反対しても決定は覆さないと声明を出し、それによってSTART2の実施の見込みは大きく後退している。時代に逆行するこうした流れは、もちろんNPTに新たな圧力をかけることになる。九五年と二〇〇〇年の(NPT再検討会議で決定した)NPTの無期限延長も、核軍縮の進展とCTBTの批准に大きく左右されることになろう。

 一方、北朝鮮のミサイル実験に危機感を募らせた日本はTMDシステムの開発コストの一部負担に合意し、これによって中国は、日本あるいは台湾がそうしたミサイル防衛システムを導入すれば中国は攻撃用兵器の増強を行うかもしれない、と声明を発表した。報道されたように、中国が、一つのミサイルに多弾頭を装填するために必要な核弾頭小型化の技術をアメリカから盗み出しているとすれば、核軍備を増強しやすい状況にある可能性はある。一方で、中国が核弾頭小型化の技術を盗み出したとする報道は、現在長距離ミサイルの開発に取り組み、アメリカのNMD計画を支持しているインドの緊張感をも高めた。端的に言って、今や貧困に苦しめられている小国によるわずか一回の核実験が、グローバルな核兵器管理レジームのほぼすべての側面に深刻な衝撃を与えかねない。もはや核のエスカレーションの余波を被るのは、近隣の敵対する一つか二つの国に限定されるわけではなく、その悪影響は世界各地に及ぶだろう。核兵器やミサイルの開発も、それがいかなるものであれ、行動と反応のよどみない流れを持つグローバル世界に衝撃を与えずにはおかない。

核抑止にしがみつく愚かさ

 ソビエト崩壊から十年を経て二十一世紀の幕開けを迎えようとしている現在、核兵器の軍備管理状況が冷戦の最後の日と比べてより悪い状態にあるのは驚くべきことだ。当時、核の危険は低下しつつあったが、逆に今ではそれが高まりつつある。当時は進展しつつあった核兵器の軍備管理も、今では手詰まり状態になっているか、解体の危険に直面している。いったいどうしてこのような事態になったのか。その名の下に核の兵器庫が構築された冷戦という世界規模の対立が終結したというのに、今、冷戦期よりもさらに深刻な核軍備管理の悪化という事態に直面しているのは、どうしてなのか。

 数多くの好ましくない流れがそこには存在する。一つは、核技術の入手がますます簡単になっていることだ。(核の)「拡散」という言葉は、非核保有国が核兵器を獲得することを意味する。しかし核兵器の製造基盤である科学技術の「拡散」もある。
 
 「核能力」とは、一定の期間に核兵器を生産する能力のことだ。例えば、スウェーデンは核兵器を生産する意図は持っていないが、その能力を持っており、リビアはその意図を持っているが、能力がない。スウェーデンのようなまだ実用化されない核能力(潜在的核開発能力)は、核保有国の数をはるかに超えて拡散している。これは核兵器が、本質的に拡散しやすい科学技術を基盤としていることが原因である。四〇年代初頭の時点では、こうした潜在的核開発能力を持っていたのはアメリカだけだった。つまり、当時のアメリカは核兵器生産には至っていなかったものの、そう決意すれば生産できると見る十分な証拠があった。今日、そうした潜在的核開発能力を持っている国は数十カ国に達すると思われる。米国務省は現在四十四カ国がそうした能力を持つとみなし、CTBTの交渉において、その四十四カ国すべてが批准するまでは条約を発効させないように求めた(結局アメリカはCTBTの批准を拒否する)。すでに核時代に突入して五十五年が経過しており、核技術は古い技術である。核爆弾の秘密などもう存在しない。一般の雑誌でも核技術は公開されている。ミサイル技術や生物・化学兵器用の技術についても同様である。

 もしNPTが核の拡散を食い止めるダムだとすれば、ダムの水かさは増しつつある。水位は高くなるばかりで、ダムにかかる圧力も高まっている。世界の安全を左右するのは、核開発を望みながらもその能力がない諸国ではなく、核能力を持ちながらも開発する意図を持たない諸国なのである。核兵器の拡散を長期的に防ぐには、核の生産能力に制限を加えても無理である。それは、生産能力を持つ国の意図に働きかけることで実現される。そのためには、今や衰退し、破綻しつつある外交的・政治的手法が必要になる。

 好ましくない第二の流れは、対核兵器防衛技術の進化である。対核兵器防衛はこれまで長期にわたって核政策の不確定要因だったし、概念上の混乱と市民の誤解を引き起こしてきた。防衛という概念には、多くの人が本能的に肯定的な反応を示す。政府にとっての第一の任務は市民の生命を守ることで、防衛はその手立てを提供する。核抑止のドクトリンは、この一般的な認識を混乱させた。核抑止ドクトリンの下での「安全」は、相手の市民を全滅させる絶対的な破壊力を双方が持つことが前提となる。つまり、この能力がすべての勢力によって認識されれば、核戦争の開始を阻止できるとされたのだ。核兵器に対する防衛システムは、(攻撃用核戦力のバランスを不安定化させ)心理的な脆弱性を高めてしまうので、抑止を不安定化させ、攻撃用核軍備の増強を刺激してしまう。防衛システムが導入されれば、攻撃能力が相対的に低下するので、それを軍備増強によって補おうとするロジックが働くからだ。したがってSALT、つまりABM制限条約によって、対弾道弾ミサイル防衛システム基地が一カ所に制限されたことは最初の大きな成果だった(訳注:SALT1は戦略兵器制限に関する暫定協定とABM制限条約からなる)。この理由づけはきわめて健全なように思えたし、少なくとも抑止理論に沿って考えればそうだった。だが、一般大衆はおそらくこの点をまったく認識しておらず、こうした世論の状況を背景に、レーガン大統領は八〇年代に戦略防衛構想(SDI)を打ちだし、技術的には当時不可能だったにもかかわらず、大衆の大きな支持をとりつけた。

 困惑を禁じ得ないこの状況に、ソビエト崩壊がつくりだした新たな混乱が加わる。八〇年代初期以来、(ミサイル防衛システムに)六百億ドルもの膨大な資金が投入され、なんとか初歩的な米本土ミサイル防衛は技術的に可能な域に達しつつあるのかもしれない。NMD、ロシアではなく北朝鮮、イラン、その他の「問題国家」によって発射されるかもしれない少数のミサイルからアメリカを防衛することを目的としている。だが、それでもロシアはNMD開発に抗議し、そのようなことをすればSTART2の実施を停止すると脅しをかけている。たとえアメリカにとってミサイル防衛が技術的に可能になったとしても、資金面と技術面から見て、ロシアを含む、アメリカ以外のいかなる国も同様のシステムを開発できないからだ。核兵器の生産とは違って、対核兵器防衛システムには新技術が必要で、実際、それはまったく新しい技術である(この新技術はあまりに先鋭すぎて、アメリカの力をもってしても、それが近い将来、技術的に可能になるかどうか、しだいに疑問視され始めている。最近の実験も困惑を禁じ得ない失敗に終わっている)。しかし、もしアメリカがシステムの構築に成功すれば、核兵器の開発間近だった四三、四年ごろと同じ、潜在的な独占という状況を手にすることになる。ただし、付け加えるべきは、独占状況というものが本質的に軍事バランスを不安定化させることだ。

 核能力の拡散、あるいは対核兵器防衛システム以上に問題なのが、次に指摘する第三の好ましくない流れだ。それは、冷戦がもはや存在しないのに、冷戦期の核の兵器庫を温存していこうとする核保有国の決定にほかならない。戦争中に肩にライフルを掛けて歩いていたとしても、それはそれだけのことだ。だが、戦争が終わってもライフルを肩に掛けていれば、それはまったく意味が違ってくる。冷戦が終結した時、アメリカは交渉をつうじた核削減路線をとりつつも、ソビエト(ロシア)に対する核抑止政策をとり続けた。しかし、この漫然とした核抑止策の継続こそ、今にしてみれば核時代における最も決定的な意味を伴う政策だった。それが知らず知らずのうちにポスト冷戦時代の基準とされてしまったのだ。

 核兵器の削減はSTART1で明記されているレベルへと近づいている。START1の大部分は今は存在しないソビエトと交渉されたものだし、START2の実施は(すでに指摘したように)先の読めない状態にある。最も問題なのは、完全軍縮に向けたリップサービスを時折口にするとはいえ、アメリカが依然として核弾頭数を二千五百に減らすSTART3の交渉を主張するばかりで、それ以上の対応を見せようとしないことだ。START4についてはいまだ何も検討されておらず、現段階ではアメリカは核弾頭を二千五百にまでしか減らせないということなのだろう。同時に、アメリカの政策決定者たちは、核の兵器庫を遠い将来まで維持していくつもりであることをすでに表明している。

 例えば二〇〇〇年一月末にロシア側の交渉者は、START3では双方が核弾頭数を千五百にまで減らすべきだと提案したが、アメリカは最低限二千五百の核弾頭を維持すると主張した。当時の国務省スポークスマンのジェームズ・ルービンは「われわれは核弾頭数を二千か二千五百に減らすことで核の危険を制限できるし、それによって核抑止に関するわれわれの利益が損なわれることもない」と語っている。

 結局、アメリカはポスト冷戦時代の核政策として、米ロ双方の破壊力を温存し、ロシアとの相互抑止政策をとることを一貫して表明している。ウォルター・スローコム国防次官が説明したように、クリントン政権の国家安全保障政策に関する結論の一つは「戦略核戦力へのアクセスを持つ海外の敵対勢力がわれわれの死活的利益を脅かす行動をとるのを抑止し、(アメリカを相手に)核の優位を確立しようとする試みが不毛であることを納得させるのに十分な戦略核戦力を維持していくこと」なのだ。

 冷戦期の核軍備をどのようにみなすにせよ、モスクワとワシントンが核の兵器庫を保有しているからといって、みながそれに続くべきだと考えられていたわけではない。当時からNPTが内包するダブルスタンダードが平等性に欠けるのは歴然としていたが、それでも理解できないことではないとされていたのだ。しかしソビエトが消滅すると、議論の方向性そのものが変わった。冷戦は、地球上の他のいかなる抗争とも環境的に違っていた。今や旧西側の核保有諸国は、核軍備を正当化するような特別な環境があるとは見ていないようだ。しかも、アメリカは世界でも最も軍事的脅威にさらされていない国である。それでもワシントンは核の兵器庫を維持すると主張し、政策決定者の一部が核の先制使用の標的を、冷戦期の旧ライバル国から世界のどこかで台頭するかもしれない「ジェネリック(潜在的)」な標的へとシフトさせた。

 この理屈の変化は、核の兵器庫が持つ世界的な影響によって促されてきた。アメリカの核の兵器庫は「われわれの抑止力」と呼ばれることが多い。しかし、ロシアがアメリカに対する核攻撃を計画しており、それを断念させるにはアメリカの報復能力が必要である、とまじめに考える者がいるだろうか。一方、米ロにおける核の兵器庫の存在が核の拡散を促していることを疑う者はおらず、その存在は、インドのジャスワント・シン外相の言葉を借りるなら、他の諸国が模倣の基準とする「核のパラダイム」の役割を果たしている。

何が核拡散を刺激しているのか

 こうした状況では、アメリカの核の兵器庫は抑止よりも「拡散を刺激する(proliferant)」と考えたほうが理にかなっている。これは単なる言葉遊びではない。抑止論にまつわる主要な教訓とは、核軍備の心理的影響が物理的な影響同様に重要だったということだ。抑止論によれば、核を抱えてにらみ合っている双方の指導者が、相手の報復能力を懸念するあまり攻撃を断念することで、抑止が「機能」する。核兵器が使われれば、抑止は崩壊する。「拡散の刺激(proliferance)」存在もまた、核兵器にまつわる心理に関係している。近隣国の核軍備を憂慮した国がその対応として核軍備に走ることで「拡散の刺激」が生じ、しかも大陸間弾道ミサイルの時代にあっては、すべての諸国が「近隣国」である。抑止と「拡散の刺激」の違いは、抑止は核保有国がそれを使用することを思いとどまらせるのに対して、「拡散の刺激」は核を持たない諸国を核の獲得へと走らせることである。したがって、ある意味では、いずれも核の獲得と、願わくばそれを使用しないように、という同じ目的を共有している。

 アメリカの政治家は、核拡散は今日のアメリカの安全保障にとっての最大の脅威であると口をそろえる。冷戦後の世界においては、抑止効果よりも「拡散の刺激」の効果のほうがより歴然としている。ヒマラヤ越しに中国を、さらに中国を越えてアメリカとロシアを見据えていたインドは、この「拡散の刺激」ゆえに核保有国になることを決意し、一方で「拡散の刺激」を感じとったパキスタンも即座に核実験に踏み切った。二国の行動はともに、インドのシン外相の言う「核のパラダイム」としての他国の核兵器庫の存在、そして核の兵器庫がつくりだす直接的恐怖に強い影響を受けている。

 実際、核の恐怖がつくりだす「拡散の刺激」は、核時代の黎明期から作用していた。明らかな歴史の教訓は、核の兵器庫はさらなる核の兵器庫を生みだすということだ。最初に核兵器を獲得したアメリカでさえも、「状況への対応」として核開発を行った。フランクリン・ルーズベルトと彼の顧問たちは、ヒトラーが最初に核兵器を手にすることを非常に心配していた。当時、原子爆弾を開発するそれなりの根拠があったとすれば、それは戦争のさなかにあった世界でヒトラーが核の独占状況を手にするのを阻止することだった。その後、ソビエトはアメリカの核保有に対抗して核兵器を開発した。インドは中国に対抗して、パキスタンはインドに対抗して核兵器を開発した(すでにアメリカの核の傘によって守られていたイギリスとフランスの場合、こうした「拡散の刺激」の連鎖はそれほど明確ではない。核を保有することによって得られる国の威信や名声の高まりが、目の前の安全保障リスク同様に、核開発に踏み切った要因だったようだ。もう一つ、「拡散の刺激」の連鎖が希薄なケースはイスラエルである。イスラエルは、四五年のアメリカ同様に、核兵器を近隣諸国の機先を制する形で開発したが、その目的は敵対するアラブ諸国の通常戦力による脅威に対抗し、彼らがイスラエル侵略を夢にも考えないようにその行動を抑止することにあった)。

 すべての核軍備は、恐怖とそれへの対応という強力な連鎖によって、他の核軍備と密接に結びついていく。核保有国の数が増えていくにつれて、イラン、イラク、北朝鮮、エジプトなど、核を保有しているかどうかはっきりしない諸国は、敵対勢力の核兵器保有の恐怖にますます突き動かされるようになるだろう。実際には抑止とは、この「拡散の刺激」の連鎖による相互作用を固定化・制度化しているにすぎない。抑止論は、ライバルによって破壊されるのを免れるために、自らが核武装せよと教える。これは、核拡散への処方箋にほかならない。

 冷戦期に抑止がきわめて大きな影響力を持ったとすれば、現在は「拡散の刺激」こそがかつての抑止並みの大きな影響力を持っている。核のテロリズムの危険が高まっていることを考えてみればいい。数多くの国が核兵器を保有し続ける限り、テロリスト集団の手に核関連物質や核兵器が渡る危険は高まっていく。しかもテロリストの場合、報復攻撃によって失う国を持っていないために、彼らの行動を抑止できない。テロ集団に関する限り、「拡散の刺激」の影響を受けることはあっても、抑止効果などまったく気にかけない。

 突き詰めて言えば、核によるテロリズムの危険を大きく減らせるとすれば、それは核の廃絶政策だけである。唯一、核の廃絶策だけが、世界規模での包括的核兵器技術の禁止を強要できる。

核ドクトリンの変遷

 今や核の危険が増大しているが、もちろんその責任が単一のアクターにあるわけではない。むしろ、この新しい環境の本質は、核という舞台に登場するアクターの数が増えていることにある。

 たしかに、南アジアの核武装については、九八年五月に核実験を行ったインドに明らかな責任があるが、冷戦後も地球上から核兵器はなくならないというメッセージをその行動をつうじて広めてしまったワシントン、モスクワ、北京の責任も大きい。実際、九〇年代初期に既存の核保有国が核兵器の廃絶を誓い、九八年までにこの目的に向けて状況を進展させていれば、今日南アジアが核の軍拡レースに血道を上げていたとは考えにくい。

 しかし、問題を逆のアングルからとらえて、軍備管理の危機を招いた責任はだれにあるのか、この危機に取り組むのにだれが一番大きな力を持っているのかと問いかけた時、われわれの目はおのずとアメリカのほうに向けられるだろうが、状況を立て直せるかどうか、大いに疑問である。

 しかしアメリカのリーダーシップなくして、その取り組みが成功するはずはない。当然、アメリカがなぜ核の兵器庫を維持していくつもりなのかと自問することがきわめて重要である。この問いかけに答えるには、政治・軍事面だけでなく、道徳・心理・文化などさまざまな側面からの検討が必要になる。また冷戦が終わった今も、核の兵器庫の維持政策をめぐって戦略立案者が大きな権限を持っており、この点からも核の戦略ドクトリンの重要性を見逃すわけにはいかない。

 核の廃絶に向けた戦略的思考を形づくるには四つの段階が必要で、これらを区別する必要がある。

 第一に核兵器の廃絶を交渉することで、アメリカは核の軍拡レースを抑え込まなければならない。四六年、トルーマン大統領の核軍縮担当の国連特使を務めたバーナード・バルークは、すべての核兵器を廃絶し、すべての核技術を国際的な管理下に置くことを提案した。今になって考えてみると、この計画がうまくいく可能性はまったくなかった。(アメリカの核開発努力についてクレムリンのスパイ活動が成功していたこともあって)ソビエトはすでに核開発計画でかなりの段階に達していたし、歴史家のデビッド・ホロウェイによれば、スターリンは実験もしない前に、核能力を何かと交換して売り渡すつもりは毛頭なかったという。かつて国家安全保障担当大統領補佐官を務めたマクジョージ・バンディーは、当時の核廃絶に向けた交渉の可能性を検証したうえで、「われわれの調査によると、米ソの双方とも核廃絶への交渉を早い段階で行う可能性はなく、これが厳然たる事実である」と結論したが、彼の見解はおそらく正しかった。

 五〇年代末から六〇年代初頭にかけての、核政策の進化の第二段階では、米ソはすでに原子爆弾だけでなく水爆の開発にも成功していたため、全面的軍縮に対する障害はもはや克服できないほど大きくなり、この認識は公の場でも表明されていた。すべての人々が全面的軍縮の試みなど成功しないと考えていたため、もはや耳にここちよい提案をするだけでは何も変わらなかったし、そのような試みをするのは政治的にもマイナスだった。したがって、核軍縮が不可能である以上、少なくともソビエトとの抗争が続く限り、核の兵器庫の存在を受け入れる必要があった。その結果、戦略概念としての抑止論が登場し、それによって核戦争を回避するには核戦力の均衡が必要だという認識が広まった。

 この新たな核政策の統治環境においても、核軍縮が果たすべき役割は存在した。しかし、その目的はバルーク時代の目的とは異なっていた。廃絶を目的とするのではなく、交渉は核の「膠着状況」の安定化を目的としていた。核の保有を現実として受け入れていたこの交渉は、二つの方法で核兵器使用の可能性を抑え込むことを目的にしていた。一つは、米ソのどちらか一方、あるいは双方が核戦争を始める誘因となる恐れのある「第一撃」(先制攻撃)戦力の配備を制限することだった。もう一つは、攻撃用核兵器の数をめぐって、相互の合意に基づく上限を設けることであった。

 こうした原則に基づく交渉は、核軍縮とは区別され、「軍備管理」交渉と呼ばれた。軍縮から軍備管理へのシフトは現実主義の勝利とみなされた。つまり、達成不可能な廃絶という目的が断念されたことによって、核兵器を制限し「恐怖の均衡」の安定化を図るという、より穏当で達成可能な目的を目指す基盤が築かれたのだ。しかし現実には、核廃絶という目的同様に、軍備管理という目的もまた、つかみどころのないものだった。

 その理由の一つは、先制攻撃戦力構築への誘惑がむしろ安定の見込みを高めると考えられてしまったことにある。米ソはそれが習わしであるかのように、ともに自分たちのほうが「後れている」と見ていた。危機に対する警戒感、「相手に追いつく」というフレーズ、つまり「戦略爆撃機のギャップ」「ミサイルのギャップ」「ミサイルの投射重量ギャップ」「ミサイル装備の劣性」をなんとか埋めなければという声が、ソビエト指導層の内輪の会合、米議会の廊下で飛び交っていた。だが核の脅威は、理論上で考えるほど容易に管理できるものではなかった。安定への期待は、相互破壊につながる即応体制と隣り合わせだったし、抑止の裏側にある恐怖は、すべてのアレンジメントを覆しかねない悪夢の源泉だった。エール大学のポール・ブラッケンの言葉を借りるなら、「米ソ双方が抑止のメカニズムを理解した段階で、さらなる兵器を生産する根拠はほとんどないことがわかったはずだった。しかし現実に起きたことは正反対だった。抑止状況が安定し始めた六〇年代末、米ソは膨大な核軍備計画に着手した」。そして、ゴルバチョフ政権が誕生するまで、大幅な核弾頭数の削減は現実とはならなかった。

 抑止論への認識が政府内部に浸透するようになると、核軍縮への態度も、微妙ながらも奥深いシフトを見せた。冷戦の最初の二十年間、アメリカは、核廃絶にとっての最大の障害はソビエトの全体主義的な態度にあると考えていた。ソビエトが突きつけるグローバルな脅威ゆえに核軍備は必要であり、モスクワの秘密主義ゆえに、信頼できる核軍縮合意に不可欠な査察が実施できない、とみなされていたのだ。しかし、ソビエトに責任を求める見解の一部はしだいに説得力を失っていく。実際、ソビエトの秘密主義的体質を核廃絶への障害とみなす議論は、核軍縮の非現実性を一部説明するにすぎなかった。核軍縮の非現実性を説明する一般理論とでも呼ぶべき新解釈では、かつて引き合いに出されたソビエトの全体主義に特有な問題が原因なのではなく、それは政権の性格などと関係のない、「核のジレンマ」に本質的に伴う問題であるとみなされるようになった。国というものは、基本的に核廃絶に合意しても、必ず「ずる」をする。また、そうする根拠がある。よって、ずるをし、突然手にした核の独占を背景に、世界をいいようにいたぶる。これが「核のジレンマ」の論理である。

 このひどく一般化された見方では、核兵器が発明されたという事実そのものが、核兵器を廃絶するのは不可能だとする十分な論拠になると考えられ、羊がライオンと一緒に横にでもならない限り、状況は変化しないとされた。核兵器のハードウエアが仮に解体されたとしても、人々の頭の中にその(開発の)ノウハウは残り、だれかが再び核兵器を作る。この有力な指摘は、八三年にハーバード大学がまとめた『核兵器とともに』という著作で紹介されている。この著作は「なぜ核兵器を廃絶しないのか」という疑問に、「そうはできないからだ」と答え、その根拠として「人類の核兵器をめぐる潔白(つまり、それを使用しないという自制)は、一度失われた以上、二度と回復できない」と説明した。つまり、潔白が失われ、もはや変えることのできない状況にある以上、核の廃絶は難しいというよりも、そもそも好ましくない。核兵器のない世界は、核武装した世界に比べて、より危険で不安定なものになる。核兵器とともに生きる世界にあっては「信頼とコンセンサスという政治的前提条件が存在しなければ、完全な核軍縮は本質的に不安定なものになる。武装解除された世界では、少しばかりの兵器を最初に手にした国が、重装備された世界で自分が行使できたよりもはるかに大きな影響力を発揮できる。それが核兵器であれば、この作用は限りなく大きい」。

 核廃絶の非現実性を説くこの一般理論が公的に支持されるようになると、核兵器の価値評価も変わりだした。抑止論および抑止によって正当化される核の兵器庫の存在がとくに疑問視されることもなく、より強く支持されるようになると、核兵器は必要悪ではなく、むしろ世界に肯定的な利益を与えるものとして、問題ではなく解決策とみなされるようになった。つまり、抑止政策のおかげで、核兵器は、核戦争を阻止しうる唯一の解決策とされ、核兵器は通常戦力による戦争をも阻止したとみなされた。二十世紀(の前半)に起きた二度の大戦が世界をいかに傷つけたかを考えれば、これはたしかに大きな成果だった。

 だが、その存在価値も冷戦の終結とともに変化し、アメリカの戦略は第三段階に入る。本来この時期の政策決定者たちは次のように考えてもおかしくはなかった。

「われわれはソビエトを封じ込めるために核の兵器庫をつくりあげた。ソビエトの秘密主義こそが核軍縮の障害だった。だが今やソビエトは崩壊したのだから、核兵器の廃絶を考えてもおかしくはない。もし四六年当時のソビエト政権が現在のモスクワの政権と似た性格のものだったら、バルークの提案も受け入れられる可能性があったのではないか。そうした提案を今、行えないものか」

 不幸なことに、一般認識として広まっていた概念は、核軍縮の非現実性を示す限定理論ではなく、一般理論とされていたため、先に指摘したような考えとは正反対の議論が逆に幅を利かせた。政策決定者は次のように考えたのだ。

「冷戦期に核抑止は機能した。核の廃絶には本質的に『核のジレンマ』がつきまとうので、廃絶は不可能である。したがって、核の兵器庫を温存しつつ、政治環境が改善されたぶん、核弾頭数をいくらか削減することが思慮深い選択だろう」

 事実、これこそ、九〇年代初めにクリントン政権が行った核政策に関するボトムアップ・レビューの結論だったし、以来、この結論に異論が唱えられたことは一度もない。「緊急事態が長く続いた冷戦時代、われわれは自由というかがり火を手に、人類の存亡をかけて計算ずくのギャンブルに打って出て、今その物語をこうして語れるほどの幸運にめぐまれた」――政策決定者たちは自分にそう言い聞かせるのではなく、実質的には次のように考えたのだ。

「冷戦期にわれわれは自分たちの自信を高めてくれるような核兵器管理システムを完成させたので、これを将来における緊急事態に備えたモデルとしなければならない」

 もし抑止が米ソ対立の現場での試練を見事乗り越えて成功したのなら、なぜそれを今、放棄しなければならないのか。冷戦が「長い平和」の時代だったという事実は、核兵器のある世界のほうが、それのない世界よりもより安全なことを意味するのではないか。スローコム米国防次官は次のように発言している。

「ほぼ五十年にわたって、〔アメリカと西側同盟諸国〕と〔ソビエトと東側同盟諸国〕が、イデオロギー、パワー、文化、人間性、国家、世界の定義そのものをめぐって対立し、可能な限りの犠牲の下で大がかりな軍備増強を行い、それでも大規模な戦争に至らなかったのは驚くべきことだ。共産主義が自らの内的な弱さゆえに崩壊するほど長期化した対立に、なぜ(アメリカが)勝利できたのか、確信を持って説明できる者はだれもいない。だが、核兵器がそこで大きな役割を果たしたことに異論を唱える者はいないだろう」

 こうして、国際環境の革命的な変化が核政策の全面的な見直しを迫っていたというのに、ほんの少しの留保条件をつけただけでこれまでの政策が再確認されてしまった。なかには、核兵器の積極的な役割をより強い調子で説く人々もいた。核戦略の理論家、ジェームズ・メイは「核兵器が必要なのは戦争を時代遅れなものとするためだけではない。それ以外、ほかにまっとうな選択肢がないのだ」と指摘した。核兵器は「それが何であれ、双方が戦闘をしてまで争っているものを、信頼できる形で、しかも高いコストを伴うことなく破壊できるし、敵対勢力だけでなく戦場そのものを破壊できる」ので、世界の平和にとって「不可欠」の存在である、と。

 アメリカの核をめぐる思考は堂々めぐりをしている。戦争の予防は、ウッドロー・ウィルソンが熱意を注ぎ込んだ国際連盟やその後の国際連合が掲げる最大の目的だが、今のところ実現していない。(核によって戦争を予防するという)「核のウィルソン主義」とでも呼ぶべき新たな学派は、これらの野心的な国際機関が実現できなかった戦争の根絶、あるいは少なくとも世界戦争の根絶を核兵器が実現できるとしている。こう考えると、「ヒロシマ」から冷戦終結までの四十六年をかけて、アメリカは(バルーク案という)「核廃絶」から道を歩み始めて、現状での核兵器の美徳をたたえる奥深くも高慢な信条に行き着いたことになる。

 冷戦後のアメリカの核政策は、とかく誤解を招きやすいしろものだった。例えばクリントン大統領が「核時代の黎明期以来初めて、子どもたちは核戦争の危険のない世界で暮らしている」と語ったように、ブッシュ、クリントンの両大統領は、核の危険はすでに過去となったと主張してきた。二人の大統領はまた、核兵器の段階的削減にも取り組んできた。しかし、クリントンは核の廃絶を求めているNPT第六条に口先だけの賛辞を贈ることは忘れないが、現実の政策としては、数千の核弾頭を将来にわたって維持していくことにコミットしていた。

 九〇年代初期の段階で、この決定の悪影響はすでに出ていたのだが、表面上は他の流れによって覆い隠されていた。当時、ロシア以外の旧ソビエト連邦諸国は、領土内に配備されていた核兵器を放棄することに合意し、南アフリカのアパルトヘイト政権も、近く多数派支配の時代がやってくることを感じとり、核開発計画を断念した。フランスは一連の核実験を開始したが、市民の激しい批判の前に当初の計画を縮小した。悪影響が目に見えて明らかになったのは、九〇年代後半になってからだった。

 この時期には抑止への支持がこれまでになく高まっていたので、政策決定者は抑止政策と核拡散防止政策を「和解」させようと試みた。アメリカの戦略思考の第三段階はしだいに分裂傾向をたどりだし、ここに至り、すでに第四の段階がおぼろげながらも視野に入ってきていた。本来この段階で、(抑止によって正当化される)核の保有と核の拡散防止との間で決断を下す必要があった。この二つのコースがつくりだす亀裂はすでにこの段階で、深まるとともに広がりを見せていた。

 例えばインドの核実験への反応にこの亀裂は明らかに現れていた。アメリカと一部の諸国はインドに対する制裁措置を即座に発表した。しかし彼らの決意は弱く、制裁路線はひどく形骸化し、制裁措置の陣頭指揮を執っていたはずのクリントンはその後、あれよという間に、インドをアメリカ大統領として約二十五年ぶりに公式訪問した。イラクとの昨今のいきさつも似たようなものだ。アメリカは、最初はサダム・フセインが国連の核査察を受け入れるように求めることで、その後には空爆力を用いることで、イラクによる核兵器獲得の阻止を試みた。しかしイラクは依然として反抗的だし、今や国際コミュニティーは核兵器の獲得を阻むための信頼できる手段を見いだせずにいる。教訓は明らかである。核兵器を保有し、それを維持する手段を持つ諸国は、核兵器の開発を決意している諸国に対して本質的に弱い立場にある。核保有国側は議論で相手を圧倒できないばかりか、話し合いを行うことさえほとんどない。

このままでは世界的核武装化へと向かう

 この第四段階の危機への対応策として、核拡散をあえて容認して矛盾を解決すべきだと見る人々も一部にいる。

 例えば政治学者のケネス・ウォルツは、「これまでの核保有国が見せてきた行動と比べて、新たに核を手にした諸国は核の使用に対する自制面での責任感と能力で見劣りする」と仮定するのが誤りであることを詳細に論じ、それゆえに「核兵器の段階的な拡散は、懸念材料ではなく、むしろ歓迎すべきことだ」と指摘する。「より多くの国が核を保有する」世界なら、「より先行きの明るい将来像」を描くことができる、と。また、シカゴ大学のジョン・ミアシャイマーも「管理型拡散」を主張し、ドイツと日本、そしてヨーロッパの一国あるいは二国による核保有というシナリオを肯定的にとらえている。核戦略の第三段階で抑止概念が支持されたが、それは少数の核保有諸国間の抑止だった。核軍縮の非現実性をめぐる限定理論と一般理論を区別できるように、われわれは限定的な核のウィルソン主義と一般的な核のウィルソン主義についても区別できる。前者の場合、核兵器は有益だが、それはあくまで数少ない特権的な友好国とその敵対国にとってであるとみなされる。一方、まさしくウォルツとミアシャイマーの立場である後者の場合、核兵器は、それを必要とするすべての諸国にとっての利益とみなされる。核兵器をめぐる限定的ウィルソン主義から一般的ウィルソン主義へのシフトは、戦後におけるバルークの核廃絶案から抑止政策へのシフトと同じである。かつて核廃絶の見込みがないと判断したアメリカ政府が、より穏当な軍備管理路線を支持したように、すでに破綻した核不拡散政策に見込みはないと見た政府が、核武装のグローバル化を支持するという具合だ。ワシントンが核不拡散を現実的に達成不可能とみなした場合、より現実に即した、そして、おそらくは実現可能な、核武装した世界に向けた安定的移行プロセスの管理という目標を掲げるようになるかもしれない。四六年から現在まで目に見えないステップを核兵器とともに踏んできたアメリカが、ここにきて核武装を支持するとすれば、それは論理的な目的地へと到達したことを意味するのかもしれない。とすれば、核兵器とともに生きることは、核保有を望むすべての諸国と平等な形で生きることを意味するのかもしれない。この立場は、少なくともその目的が達成可能であるという利点を持つ。より多くの核保有国が存在する国際秩序は間違いなく実現可能だし、事実、現在の世界はその方向へと向かっている。何もせずにいるだけで、十分にこのような事態が現実のものとなる。

 無節操な核拡散、そして(それに伴ってほぼ必然的に現実となるであろう)その他の大量破壊兵器の拡散という事態を憂慮し、より積極的で厳格な不拡散政策の実施を望む人々は、不拡散政策自体が核保有という現実と相入れないものであることを認め、そのうえで核の廃絶を支持しなければならない。核不拡散と核保有という現実との和解を試みる政策は、道徳的にも、軍事・外交的にも、そして法的にも一貫性を欠く。それは自己破綻の政策にほかならない。双方の政策の歯車の一つひとつが互いに違う方向へと引っ張り合う。言葉は、行動によって打ちのめされ、核軍備管理を崩壊させつつある否定的な要因が悪循環を生みだす。現在の核保有国が核を維持していく限り、それは新たな諸国による核開発の誘因となる。新しい核保有国の誕生という核拡散は古くからの核保有国のさらなるミサイル防衛を促し、核実験禁止合意を損なう。ミサイル防衛は「恐怖の均衡」を崩し、軍備管理を行き詰まらせる。手詰まり状況に陥った軍備管理は、核保有国を兵器庫の維持へと改めて向かわせる。核保有の意義が再確認され、核拡散を促し、悪循環が続く。

 一方で、これとは逆のトレンドも現に存在する。世界の多くの地域では水面下で核に対抗する健全な流れがあり、これが世界的な核拡散の流れを邪魔し、そのペースをゆっくりとしたものにとどめている。実際、この底流が存在しなければ、すでに世界は核兵器獲得競争のさなかにあったかもしれない。例えばラテンアメリカ地域はトラテロルコ条約によって非核地帯(ニュークリア・フリーゾーン)とされている。この条約に最後に参加したブラジルとアルゼンチンは完全な核開発能力を持っており、それまでは完全に核軍備への道を歩んでいた。路線を変更した理由は、冷戦と「恐怖の均衡」モデルが最終的に彼らにとってまったく魅力のないものになってしまったからだ。ラテンアメリカ諸国は、大陸規模での核廃絶路線のほうがはるかに安全だと考えたのだ。アフリカと南太平洋の諸国も同様の核廃絶へのステップをとることをすでに決定している。世界という共同体にとっての規範は、核武装ではなく、「ニュークリア・フリー」になることなのだ。

 冷戦後のもう一つの広範な流れである民主化潮流は、核の危険を低下させる助けとなるかもしれない。長期的には民主化潮流は核の危険を低下させるような肯定的影響を持つだろうが、残念ながらこれまでのところ状況はこの希望に実体を与えていない。それどころか、民主主義、民主国家もまた核の誘惑に弱いことは、すでに実証済みである。世界で最初に核兵器を保有したのはアメリカという民主国家だったわけだし、現在の核保有八カ国のうち、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、インド、イスラエルという六カ国が民主国家である。すでに指摘したように、ロシアが民主化しても、民主主義のライバル国であるアメリカは核による「恐怖の均衡」を放棄する道を模索しようとはしなかった。南アジアでは、民主的なインドが、インド亜大陸の核武装化のきっかけをつくってしまった。

 核軍備管理面での一つ、あるいは二つの層で穏当な成果をあげることは今も可能である。おそらく米上院はこれまでの立場を覆して、CTBTを批准するかもしれない。ロシアが資金の必要性とアメリカの圧力に屈してABM制限条約の一部緩和に応じ、START2を実施する可能性もある。しかし、核保有と核拡散が分かちがたく結びついているために、核軍備管理体制の悪化や崩壊のプロセスを、核廃絶へのコミットメントなしにストップできるとは考えにくい。世界に核の兵器庫が存在するという厳然たる事実が、想像を絶するような惨劇の危険を現在われわれに突きつけている。核拡散に対する正当な懸念が広がるなか、われわれは、核の危険が、核を保有しない諸国からではなく、本当は核保有国から漏れ出ていることを忘れがちではないか。

危険と生存

 しかし、核保有国の核廃絶に向けたコミットメント(確約と誠実な取り組み)で核拡散を防止できるだろうか。あるいは、核問題にリアリスト的立場をとるグループが主張するように、核廃絶を実現できなかった世界は、すでに後戻りできないところまで核武装化という道に足を踏み入れてしまっているのだろうか。

 核廃絶に向けた確固たる意志があるとしても、そこには大きな障害がある。そのためには、すべての大国が過去半世紀における基本的な安全保障政策を抜本的に見直す必要がある。主要国間の通常戦力のバランスも、世界規模で再編しなければならない。東アジア、中東、南アジアといった地域は事実上の、あるいは潜在的な地域紛争であり、そこで大きな成果は望めない。核廃絶プロセスを支えていくのに必要な技術的・外交的なアレンジメントは、現在の軍備管理交渉よりもさらに複雑なものとなるだろう。査察レジームの構築という作業一つとっても、それには科学・外交・政治的手腕というすべての側面で英知を結集する必要が出てくる。

 しかしわれわれは、世界に残る核弾頭を一つ残らず廃絶するという目標を達成することと、この目標を掲げそれに誠実に取り組むこととを区別する必要がある。核拡散の流れを反転させ、核の脅威を劇的に緩和する試みに今すぐ着手するには、核弾頭をただちに一つ残らず廃絶する必要はない。しかし、その目的に向けた核保有国のコミットメントは必要だ。核弾頭数を二千五百あるいは千五百にまで削減することは、すでに米ロ間の交渉の議題となっている。この数字よりさらに踏み込んだ削減については、十分に検討したうえで、その輪郭を描いていくべきである。どの段階で、他のどの核保有国が核弾頭数削減に向けた交渉に加わるかも、明確にする必要がある。「質的」な取り組みとしては、まず核戦力の即応体制の解除計画を練る必要がある。すべての核保有国がこの歴史的な核軍縮の道を歩き始めれば、核保有国側は、そうしなければ核の保有・拡散へと走ったかもしれない諸国に対して真正面から期待を表明できるようになる。その結果、例えば核保有国が本格的に核兵器の削減に着手すれば、世界規模での現状の凍結が実現するかもしれず、核保有国は核廃絶に向けたコミットメントを堅持する一方で、非核保有国に核を保有しないという誓いを守るように求めることもできる。ウランやプルトニウムといった核兵器に転用可能な物質を規制するための情報公開の促進や、いっそう厳格な査察や規定に関しては、ただちに交渉できるだろう。核兵器の削減に乗り出した諸国間で、核拡散が発見された場合にどのような対応をとるかも合意できるようになる。

 現状とはまったく違う(核廃絶の)方向へと世界の流れが抜本的に変化することを強く思い描くことによってのみ、世界全体を核廃絶へとコミットさせる政策や方針に力を与えることができる。核廃絶にコミットし、その目標に向けていくつかの重要な措置を講じた核保有大国の核拡散に対する態度は、核兵器による安全保障にいつまでも依存しようとする国の態度とは大きく違ってくるだろう。こうした核の諸大国は、核不拡散を徹底させる意志、つまり今日の国連安全保障理事会にひどく欠けている意志を持つことになる。このような新しい環境の下では、どこかの非核保有国があからさまに核戦力を構築しようとすれば、それは間違いなく世界の怒りと報復を呼ぶであろう。

 もう一度、イラクのケースを考えてみよう。サダム・フセインの戦術は、彼の意のままに国連の査察団を締め出し、イラクに対する締めつけが強まる方向に向かったときには、「フランス・ロシア」対「アメリカ・イギリス」といった図式で、ある大国と他の大国との対立を演出し自らに有利なバランスをつくりだすことだった。だが、核保有国のすべてが自らの核戦力を廃棄するという目的にコミットしていれば、こうした戦術は使えなくなる。核の廃絶に合意し、実際にそのプロセスを歩みだした核保有国は、これまで核戦力に依存してきたように、今後は核廃絶の合意に自国の安全保障をゆだねるようになるだろう。そうした国々が、自分たちが廃絶しようとしているものをサダムが獲得するのを許すはずはない。これらの国々は、国益に基づく核拡散防止への不動の意志とそれを実現する手段を有し、言うまでもなく、それには合意に違反する政府を屈服あるいは転覆させる決意と手段も含まれるだろう。今日、核保有国がサダムの核・化学・生物兵器計画を押しつぶす意志を欠いているのは、これらの国々が自国の安全保障を核に依存しているからにほかならない。

 この議論は堂々めぐりに陥っているだろうか。核拡散防止の意志さえ持っていれば、その国は拡散を阻止する意志を持つようになるといったへりくつにすぎないのだろうか。そんなことはない。政治的意志が存在するところでは拡散防止はすでに日常の一部になっている。核のない世界へ進むという決意はやがて世界の支配的な現実となり、核廃絶の達成への長い道のりにおいて劇的な成果をあげるだろう。

 しかし、アメリカをはじめとする核保有国のコミットメントはいかにして示されるべきか。また、現段階では核を保有していないが、将来やはり核が必要になるかもしれないと考える諸国は、どのような理由からそうしたコミットメントを信じるだろうか。アメリカの政府関係者は、アメリカは核兵器の全廃を望んでいると、折に触れ発言してきた。だが、そうした発言では世界の進むべき方向性を明確に示せないし、また、そうあるべきでもない。政策というものは夢ではなく、それを実現可能にする信念と意図を伴った行動計画である。

 核廃絶交渉にアメリカをコミットさせたいと本気で考えている大統領なら、記者会見の質疑応答や核廃絶と無関係なスピーチの締めくくりに核の現実について述べるようなことはしない。核廃絶とは、何かボーッとしているだけで実現できるような目的ではない。やる気のないところから生まれるのは、核拡散だけである。核戦略の用語を使えば、核廃絶へのコミットメントを現実のもの、あるいはクレディブルな(信頼できる)ものにするには、それなりのお膳立てが必要である。核廃絶路線を採用したいと考える大統領は、核廃絶を選挙活動におけるアジェンダの一つとして掲げ、市民の信託を勝ち取らなければならない。民主社会において核廃絶という壮大な目標を設定するには、この方法しかない。選出された新大統領は、核廃絶という政策に同意し、上院での承認を勝ち取るために戦う覚悟のある国務長官と国防長官を選ぶ。大統領は国民に対し厳粛な演説を行い、他のさまざまな課題に先んじて核廃絶への構想を宣言する。次に、核のない世界の実現の可能性と具体像を分析するための、大統領諮問委員会、そして政府省庁間での統合的な検討部会を設ける必要がある。さらに、アメリカの同盟国に話を持ちかけ、アメリカに次ぐ核大国であるロシアや中国にアプローチし、同時に国内では超党派による支持の確保を模索すべきである。超党派の支持なくして核廃絶構想は成功しないし、それがないなら構想は打ちだすべきではない。核廃絶は論争ではなく、今後における国民全体に支えられた最大限の努力がない限り、失敗に終わる。

 「核のジレンマ」を解決するには、まず国内政治上の障害をクリアしなくてはならず、世論はこの方向で承認と支持を与えなければならない。米上院によるCTBTの批准拒否とNMDをめぐる熱い議論によって、すでに核問題は大統領選のアジェンダの一つになっている。

 テキサス州知事のジョージ・ブッシュは、大胆ながらも曖昧な提案を行っている。彼は「われわれの相互安全保障は、もはや核による『恐怖の均衡』に依存する必要はない」と評価に値する発言をし、「今や大きな核戦力など、(冷戦という)すでに終わった紛争のコストまみれの遺物にすぎず、よりいっそうの安全にはまったく寄与しない」と指摘したうえで「可能な限り低い水準」にまで核戦力を削減すると述べた。しかし同時に、ミサイル防衛についてはクリントン政権よりもはるかに意欲的、野心的に取り組もうとしている。ブッシュ構想の問題は、核の削減計画がミサイル防衛計画と矛盾することにある。もしミサイル防衛がロシアや中国の核軍備を誘発すれば、核戦力を「可能な限り低い水準」にまで削減することは不可能になる。

 民主党の副大統領アル・ゴアは、核兵器削減を模索しても、アメリカの核弾頭数を二千五百以下には削減しないというクリントン政権の政策を支持している。当然ながら、ゴアのアプローチの問題は、まさしく現在のクリントン政権が抱えている問題にほかならない。すなわち、数千発規模の核戦力を維持すれば、それが核拡散を誘発するということだ。

 核廃絶へのコミットメントこそ、ブッシュ、ゴア双方の立場を意義あるものとできる。もしブッシュの言う「可能な限り低い水準」がすべての国における核弾頭数ゼロを意味するなら、彼が論戦で防戦に追い込まれることはない。その場合には、アメリカが独占するにせよ、レーガンが提案したようにロシアその他の諸国と共有するにせよ、ミサイル防衛システムは、核のない世界における秘密裏の、あるいは公然たる核の再武装に対する保障装置となる。そして、もしゴアが数値ゼロを受け入れるなら、彼がアメリカの安全保障に対する最大の脅威と呼ぶ核拡散問題に対処する土台を手に入れることになる。

 しかし、大統領の意図だけではまだ十分ではなく、(核廃絶に向けた)市民の積極的な姿勢が不可欠である。メディア・大学・市民社会をつうじて大々的な議論を行う必要がある。安全は核兵器に見いだされるのか、あるいは核兵器の廃絶に見いだされるのか。核廃絶合意に伴う査察は適切なものとなりうるのか。通常戦力のあり方は、アメリカや他の国々においてどうあるべきか。国防費は増大するか減少するか。ある国が合意に違反したらどうすべきか。これらの問いを含む多くの重要な問題に対する答えはまだ見つかっていない。それどころか、国家レベルでの論争では、こうした問いかけさえなされていないのが現実なのだ。●


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「核廃絶か、止めどない核拡散か」 The Folly of Arms Control

◆Jonathan Schell (ジョナサン・シェル)
ニューズデー誌のコラムニスト、ニューヨーカー誌のエディター・記者として長く執筆活動に携わり、この間、プリンストン大学、ニューヨーク大学の客員教授も務めたアメリカの著名なジャーナリスト。数多くのノンフィクションを発表しており、主な著書に、Observing the Nixon Years(『核のボタンに手をかけた男たち』)などがある。

関連論文へ (Backkground Briefing −冷戦後の核−)






(私論.私見)