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[報告書目次]
アジア地域の安全保障と原子力平和利用

包括的核実験禁止条約の意義とその問題点

斎藤 直樹  平成国際大学教授


はじめに

 既存の核の不拡散体制はNPT(核拡散防止条約)とIAEA(国際原子力機関)による保障措置に立脚しているが、NPTとIAEAによる保障措置だけでは核の拡散を防止するうえで必ずしも十分であるとは言えない。その理由として第1に、インド、パキスタン、イスラエルなどのように、NPTに参加していない「敷居国」が存在するが、そうした国に対してIAEAの査察を実施することは問題外となる。第2に、北朝鮮、イラク、イランなどのように、NPTに加盟していながら核兵器を極秘に開発しているのではないかと疑問視される「疑惑国」が存在する。北朝鮮の核開発疑惑を巡る問題は、IAEAによる査察の困難性を例証した。第3に、5つの核保有国はNPT第6条に規定された軍縮に対するコミットメントにもかかわらず、冷戦時代を通じ核兵器の量的並びに質的改善に奔走していた。これらの理由から、NPTとIAEAによる保障措置に基づく不拡散体制を補完し強化する必要性が叫ばれてきた。核の拡散を防止するためには様々な措置が講じられる必要があるが、その中でも、CTBT(包括的核実験禁止条約)は最も効果的な手段であると考えられてきた。このことは、CTBTの立脚する仮説を見れば明らかである。その仮説とは、新たに核兵器を開発し、その信頼性や安全性を引き続き確保するには、核爆発実験が必要であるという前提に照らして、核爆発実験を全面的に禁止すれば、新たに核兵器の開発を行うことが困難になるということである。本稿は1996年9月に国連総会において採択されたCTBTの持つ意義と問題点を取り上げる。

1.CTBTへの道

 冷戦時代から核実験を禁止しようとする動きは徐々にではあるが進展してきた。1963年に部分的核実験停止条約(PTBT=Partial Test Ban Treaty)が調印され、大気圏内、宇宙空間、海中におけるすべての核実験が禁止された結果、地下核実験だけが許可されることになった。74年には地下核実験制限条約(TTBT=Threshold Test Ban Treaty)が調印され、150キロ・トン以上の地下核実験が禁止されることになった。これ以降、地下核実験を含み、すべての核実験を禁止することを目的とするCTBTの締結に関心が注がれるようになった。しかし核保有国が核開発を続行しただけでなく、インド、パキスタンなどの諸国も核開発に乗り出してきた状況の下で、核実験を全面的に禁止するとしたCTBTが真剣に取り上げられる機運にはなかった。

 しかし1980年代後半に米ソ関係が急速に改善されたことを背景として、米ソ間でSTART-I(第一次戦略兵器削減交渉)などを初めとする軍備管理交渉が急速に進展した。91年12月にはソ連邦が崩壊し冷戦が終結したが、それまでに重要な軍備管理条約の多くが調印され、軍備管理の焦点はそれらの条約の履行に移りだした。他方、核、化学、生物兵器などの大量破壊兵器の軍備管理が冷戦後の重要な焦点として浮上してきた。その中でも特に、核拡散を防止する上で、核実験の全面的禁止の必要性が認識されるようになってきた。核実験の禁止の方向にいち早く動きだしたのはロシアであった。ロシアはソ連時代に使用したセミパラチンスク(カザフスタン)などの実験施設が使用困難となったという理由もあって、いち早く核実験のモラトリアムを実行に移した。こうした状況の下で、ブッシュ政権としても核実験のモラトリアムを開始するよう迫られた。その後、93年1月に発足したクリントン政権はCTBTの重要性を認識し、同条約の採択を重要な政策課題の一つとして位置づけた。これに対し、英国は核実験を行う上で、米国からネバダ実験場を借用してきたこともあって、米国のCTBT政策から強い影響を受けることになる。米国がモラトリアムを開始したことから、英国もそれにならうことになった。またフランスのミッテラン政権もモラトリアムを開始した結果、核保有国の内、モラトリアムを実施しないのは中国だけとなった。

 こうした状況推移の下で、1993年8月にジュネーブ軍縮会議は同会議の核実験禁止特別委員会に対し、CTBTをまとめる交渉を開始するよう要請したのである。こうした経緯に基づいて、94年1月から、CTBTを巡る交渉が軍縮会議において開始されることになった。しかし軍縮会議において大きな進展が見られた反面、「敷居国」や「疑惑国」などの参加をCTBTが発効するための条件とするかどうかという問題、低量の核爆発を容認するか、それともあらゆる量の核爆発を禁止するかどうかという問題、さらに現地査察を発動するためには何カ国の賛成を必要とするかという問題などに関し、見解の相違が見られていた。

 しかし、1995年4月から5月にかけて開催されたNPT再検討会議は重要な転機となった。同会議において、非同盟諸国は、核保有国に対し核実験の全面的禁止を求める代わりに、NPTを延長することに同意した。核実験の全面的禁止を要求した同諸国がNPTの無期限延長に同意した背景には、核保有国が96年中にCTBTを完成することを公約したことがあった。

 クリントン政権は1995年8月にあらゆる規模の核実験を禁止するとした「ゼロ・イールド」案を持ち出し、他の核保有国を説得しようとした。他方、NPTの無期限延長からまもなく、中国とフランスが核実験を再開したことは、非同盟諸国を著しく「逆なで」するものであった。フランスはド・ゴール時代から米国の核の傘に依存することはできないとする独自の核抑止論に基づき、ソ連に対する最小抑止力を保持しようとした。ミッテラン政権はモラトリアムを実施したが、シラク政権はCTBTを受諾するまでに、適正な抑止水準を確保する上で核実験が不可欠であると判断し、NPTの無期限延長が決定した後、国際的非難を浴びながらも核実験を強行した。しかし、96年1月の実験を最後にフランスはCTBTを受諾する意思を表明した。

 これに対し、中国は国家安全保障の見地から核実験が必要であるという判断に立ち、フランスと同様に、NPTの無期限延長が決定した直後から、数回の核実験を実施した。また中国は軍縮会議のCTBT交渉においても土木工事のための「平和的核爆発(PNE)」を禁止対象から除外すべきであると主張してきた。しかし、1996年6月の核実験を行った直後に、「平和的核爆発」を取り下げてCTBTを受諾する姿勢に転じた。

 これに対し、インドは軍縮会議において一貫してCTBTに対して反対の姿勢を堅持した。インドは中国やパキスタンなどの近隣諸国から核の脅威を受けるという認識の下で、核開発のオプションは手放せないとした上で、CTBTの最終案が先進核保有国の行うコンピューターを使ったシミュレーション(模擬実験)などの先端的実験を禁止しないことに加え、核保有国が核廃絶の期限を明確にしないことを理由に、CTBTを到底受諾できないと主張した。

 こうした状況の下で、1996年5月に核実験禁止特別委員会のラマカー議長はCTBTに関する最終案を明らかにした。7月29日にインドは「コンセンサス方式」を取る軍縮会議において、CTBTの最終案を受諾しない意思を表明した結果、軍縮会議におけるCTBTの採択は不可能になった。この結果を受けて、CTBTの最終案は「多数決方式」の国連総会に付託されることになった。9月10日、CTBTは国連総会において、賛成158、反対3、棄権5の圧倒的多数で採択される運びとなった。しかしインドなどがCTBTに反対の態度を取っているため、CTBTが近い将来発効するかどうかは疑問である。

2.CTBTの発効問題

 CTBTが発効する条件として、インド、パキスタン、イスラエルなどの「敷居国」や北朝鮮、イラク、イランなどの「疑惑国」の参加を加えるかどうかという問題が、CTBT交渉で重要な争点となった。

 CTBTが期待される効果を挙げるためには、CTBTが核保有国だけではなく「敷居国」や「疑惑国」を含めた諸国をも規制対象とする必要があった。何故ならば、核保有国の核開発がCTBTの下で拘束されるものであるとしても、「敷居国」や「疑惑国」がCTBTの対象から除外され、CTBTの枠外で核開発を続行すれば、CTBTの規制効果は著しく減殺されてしまうからである。CTBTが発効する条件として、「敷居国」や「疑惑国」の参加を加えるかどうかの問題が、CTBT交渉で重要な争点となったのはこうした理由による。この結果、CTBTの最終案は5つの核保有国に加え、「敷居国」や「疑惑国」をほとんど包含する44カ国が署名並びに批准を行って初めて効力を発生することになる。

 「敷居国」の中で、イスラエルはCTBTの調印に前向きであるという姿勢を明らかにした。パキスタンはインドがCTBTに調印すれば、それに従う意向であることを示した。しかし調印に反対を表明しているインドが近い将来CTBTに署名するとは考えられないため、パキスタンも署名には応じないと予想される。この結果、インドがCTBTに署名しないだろうという予測に照らし、CTBTが今後数年の間に効力を発生することはないと見られている。

 これらの「敷居国」を含め44カ国が3年を経過してもCTBTを批准しなければ、批准を促進するための会議が開催されることになる。この時に、CTBTを発効させるためにどのような措置が講じられるか明らかではない。しかし、CTBTが採択されたことによって、「条約法に関するウィーン条約」に従い、条約が実際に発効しなくとも、署名国は条約の制約を受けることになる。その結果、CTBTが正式に発効するまでには今後数年の月日を要することになるだろうが、核実験は事実上禁止となったと言える。特に5つの核保有国がCTBTに受諾したことを受け、これらの諸国が同時に核実験に関するモラトリアムを開始したという事実は重要である(1)

3.CTBTと「国際監視システム」

 またCTBTが実際に順守されることを確保するためには、禁止された核爆発実験が行われることがあれば、それを確実に探知できることが不可欠となる。このことから、ジュネーブ軍縮会議において、そうした核実験を確実に探知するネットワークを世界中に設置することが1995年12月に合意された。こうしたネットワークは「国際監視システム(International Monitoring System=IMS)」と呼ばれている。同監視システムは、地震波(seismic)、放射能(radionuclide)、微気圧振動(infrasound [acoustic])、水中音(hydroacoustic)などの4つの技術を基礎として、CTBTの下で禁止されている核爆発実験が行われたどうかを監視することを目的としている。このシステムは、米国などが運用している「国家保有技術手段(National Technical Means=NTM)」による情報によって補足されることになる。CTBTの下で禁止されている核爆発が起こった可能性を示す証拠が提供されれば、そうした爆発が生じたと考えられる場所において現地査察を実施することがCTBTの下で認められている(2)。したがって、CTBTが発効すれば、「国際監視システム」と「国家保有技術手段」による監視網が敷かれることに加え、現地査察が実施される結果、非核保有国が核兵器を開発すべく極秘裏に核爆発実験を企てようとする動機は削がれると見ることができる(3)

4.CTBTの持つ効果

 他方、CTBTは必ずしも核兵器の拡散を阻止する上で「万能」ではないと考えられている。過去に南アフリカなどが極秘に核兵器を開発した経験に照らし、核爆発実験を実施しなくとも、「第1世代」のウラン原爆は開発されうることが例証されている。従って、核実験を実施しなくとも、爆撃機に搭載する「第一世代」のウラン原爆を開発できると見られている。しかし核実験を実施することなしに、より高度なプルトニウム原爆や水爆を開発することには困難が伴うと見られる。また、CTBTの下で核保有国も既存の核兵器の技術水準をはるかに越えるより高度な核兵器を開発することは困難になると見られている(4)

5.CTBTの問題点

 既述したように、CTBTは非核保有国と核保有国の両方の核開発を実質的に抑制するものではあるが、妥結したCTBTの内容が問題を持たないわけではない。その最大の問題点は、CTBTの下で幾つかの先端的な核実験が禁止対象から除外されていることに関連する。

 核保有国の多くは軍縮会議の交渉中に、低量の爆発を禁止対象から除外するよう求めた。クリントン政権は核兵器の安全性と信頼性を確保する実験が不可欠であるとの判断に立ち、1993年から「核兵器性能維持並びに管理計画(The Stockpile Stewardship and Management Program)」に着手した(5)。その際、同政権はキロ・グラム級の低量の実験などはCTBTの禁止対象から除外されるよう主張した。これに対して、ロシアやフランスなどは、数百トン規模の核爆発実験も禁止対象から除外されるよう求めた。しかし95年8月にクリントン政権はそれまでの姿勢を改め、核爆発実験の全面的な禁止を意味する「ゼロ・イールド」案を提案した。クリントン政権が「ゼロ・イールド」案を打ち出したことを受けて、中国を除くその他の核保有国もこれに応じる構えを示した結果、CTBTは他の核保有国が主張していた低量の核爆発を禁止することになった。これに対し、中国は「平和的核実験」の除外を求めたが、最終的に取り下げた経緯がある。

 にもかかわらず、未臨界実験やシミュレーションなどの幾つかの先端的実験は検証が困難であるという理由から、CTBTの禁止対象から除外される形で妥結したのである。このことは、CTBTの最終案にみられるように、CTBTとは「あらゆる核兵器の実験爆発、又はその他のあらゆる核爆発を禁止する」ものであり、それゆえに必ずしも核実験それ自体を禁止するものではないことを意味している(6)。インドなどの「敷居国」は、そうした先端的実験の目的は既存の核兵器の信頼性と安全性を確保するだけでなく、新しい核兵器を作り出すためであると疑問視している(7)

 従って、重要な点は、これらの禁止対象から除外された実験を通じて、どの程度まで核兵器を改善することができるかどうかによるが、この点は解釈の分れるところである(8)。禁止対象から除外された先端的実験を実施しても、それだけでは新型の核兵器を開発することは不可能であろうという見方がある。これに対し、新規に弾頭を開発することが可能であるというという見解も存在する。もし核保有国がそうした実験を通じ核兵器の質的な改善を行うことができるという見方に立てば、CTBTは核保有国の核兵器開発を規制しない反面、後発国の開発を厳しく制限することを意味する。1995年5月に採択されたNPTの無期限延長によって、核保有国が5カ国に固定されたのに続き、これらの5カ国によって先端的技術が占有されることになりかねない。先端的実験がCTBTによって禁止されていないからといって、核保有国がそうした実験を実施しているならば、非難を免れないだろう。

6.結びにかえて−CTBTに対するインドの対応

 CTBTが幾つかの問題を内包するものであるとはいえ、既存の核不拡散体制はCTBTの下で実質的に強化されると言える。しかしそのCTBTが発効するかいかんは同条約を頑なに拒否しているインドの姿勢にかかっている。結びにかえて、ジュネーブ軍縮会議においてCTBTの採択に終始反対し続けたインドの主張とそれに対する反論を取り上げたい。

 既述したように、インドはCTBTに反対した理由として、幾つかの理由を挙げた。まず中国やパキスタンなどの近隣諸国から核の脅威を受ける状況の下では、核のオプションを放棄できない。次に、シミュレーションなどのCTBTの下で禁止されない先端的実験を通じ、核保有国は核兵器を引き続き改善することができるゆえに、そうしたCTBTに賛成できない。また、核保有国が核廃絶の期限を明確にしていないが、核廃絶の期限を設定しなければ、核軍縮とは言えない。さらに「コンセンサス方式」のジュネーブ軍縮会議でコンセンサスが得られなかったとして、「多数決方式」の国連総会に付託するのは「悪しき前例」となる。最後に、人口9億を抱えるにもかかわらず、核を保有していないのはインドだけであるとし、インドは核のオプションを強調した(9)

 しかしこうした主張は必ずしも的を得た見解ではないと反論されている。その根拠として、パキスタンや中国からの核の脅威はむしろ限定的であり、決して差し迫ったものではない。次に、核保有国が核廃絶の時期を明示することが困難であることは、ロシアの核の廃棄状況を見れば理解できる。更に、シミュレーションなどを通じて、核保有国が新たな核兵器の開発を行うことは実際には困難である。加えて、インドはCTBTの下でも、「第1世代」のウラン原爆を開発することができることから、インド政府が頑なにCTBTを拒否したのは、プルトニム原爆や水爆を開発しようとしているからにほかならない。最貧国であるインドが核開発を行うことは、貴重な国家予算の大部分を軍拡に注ぎ込むことになり、国内の経済問題は一層深刻になる(10)

 インドの主張はCTBTの内包する問題を鋭く批判したものであると言える。何故ならば、採択されたCTBTの内容はある意味ではNPTと同様に、問題を全く持たない完備されたものではないからである。しかし、NPTやCTBTに対し真っ向から背を向け、国際社会で孤立を深める形で核開発を続行することが、9億人の人口を抱え途上国の中でも厳しい経済状態に置かれたインドの将来にとって望ましいと結論することは、反論の中で厳しく指摘されているように、極めて疑わしいと言えよう。


(1):Spurgeon M. Keeny, Jr. and Craig Cerniello, "The CTB Treaty: A Historic Opportunity To Strengthen the Non-Proliferation Regime," Arms Control Today, August 1996, p.16.
(2):現地査察が実施されるためには、51カ国からなる「執行理事会(Executive Council)」のうち、過半数以上の国が現地査察の実施を承認する必要がある。
(3):CTBTに批判的な人は、「国際監視システム」によっても非常に低量の核爆発は完全には探知されないと主張するが、そうした主張は誇張されたものである。「国際監視システム」と「国家保有技術手段」による監視の下で、潜在的な違反者は核爆発実験がほとんど確実に探知されるリスクを背負うだろう。より重要であることは、監視網をかいくぐるような非常に小規模の爆発であれば、技術的には重要な意義を持たない反面、技術的に重大な意義を持つような爆発実験は確実に探知されることから、政治的に重大なリスクを負うということである。その結果、そうした爆発実験を企てようとする動機は削がれるだろう。"The CTB Treaty: A Historic Opportunity To Strengthen the Non-Proliferation Regime," p. 16.
(4):例えば、中国が核実験を行ってきた主要な動機は、MIRV(個別誘導複数目標弾頭)の配備に適切な核弾頭を開発することであった。しかし、CTBTの下で、中国の核兵器の近代化計画は厳しく拘束されるだろう。同様に、CTBTの下で、米国やロシアが「特別目的兵器(special purpose weapons)」を開発することは困難となると言える。Ibid., p.15.
(5):"The Stockpile Stewardship and Management Program: Maintaining Confidence in the Safety and Reliability of the Enduring U.S. Nuclear Weapon Stockpile." U.S. Department of Energy, Office of Defense Programs, (May 1995.)
(6):CTBTの最終案の第1条の「基本的義務」の第1項は以下のように規定している。Each State Party undertakes not to carry out any nuclear weapon test explosion or any other nuclear explosion, and to prohibit and prevent any such nuclear explosion at any place under its jurisdiction or control. このように、「あらゆる核兵器の実験爆発、又はその他のあらゆる核爆発」が禁止されることは明らかであるが、核実験自体が禁止されるという明白な規定が第1項からは見あたらない。このことから、核爆発を伴わない核実験が必ずしも禁止対象とはされないとする解釈が導きだされる。"Chairman's Draft Text of the Comprehensive Test Ban Treaty," Arms Control Treaty, August 1996, p. 19.この点に関連して、インドは、インドがCTBTを拒否した理由の一つとして、シミュレーションなどの先端的実験を禁止しないことを強調した。インドの主張によれば、CTBTとは、一部の核実験を禁止対象から除外したように、「核爆発実験禁止条約」ではなく「核爆発禁止条約」だということになる。小山哲哉、「インドの署名拒否で発効が不透明に」、「世界週報」、(1996.7.23)、14頁。
(7):奥山昌志、「CTBT:インド国内の賛否両論」、「世界週報」、(1996.10.1)、29頁
(8):前掲、「インドの署名拒否で発効が不透明に」、15頁
(9):前掲、「CTBT:インド国内の賛否両論」、28−30頁
(10):前掲、「CTBT:インド国内の賛否両論」、30−31頁


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世界の被ばく者の証言・資料

アメリカ合衆国
 

原水爆禁止2000年世界大会 国際会議

サンフランシスコ・オークランド地域平和リンク ハンフォード風下地区住民ジューン・ケーシー
 

 1949年ワシントン州のハンフォード核施設での秘密放射線人体実験の犠牲者として密かにおこなわれた放射線人体実験の犠牲者として、この世界大会に招待されました。ハンフォードで製造されたプルトニウム爆弾が、長崎の上空で炸裂した言語を絶する被害と恐るべきほど多くの犠牲者をうみました。私は個人として謝罪する機会をいただいたことに感謝を申し上げるものです。55年たった今でも、日本では、潜伏していた放射線の影響で、毎年5000もの人が通常の寿命をまっとうせずして亡くなると聞いています。

 米国国民は、このほど解禁された文書から、遅ればせながら日本政府が米国によって8つの挑発行為の対象とされていたことを知りました。「醜行の日」と呼ばれていますが現実には「欺きの日」である真珠湾攻撃をおこなうよう仕向けられたのです。「欺きの日(Day of Deceit)」は、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領と真珠湾についての真実を明らかにした、ロバート・B・スティネット氏による新著のタイトルで、もうすぐ日本語訳が発行されます。また、原爆投下は、当時私たち国民が知らされていたように、第二次世界大戦を終わらせるために必要だったのではない、ということも知りました。太平洋の両側で私たち世界大会参加者は、それがいかに苦痛であっても真実を語らなくてはなりません。

 1999年11月、『エコロジスト』誌(原子力の狂気の特集号)において、カナダの疫学者ロザリー・バーテル博士は、核産業ではその開始以来、13億人が死亡したか不具になったか病気になったとの推定を発表しました。核産業側による数値は、世界で自分達が生み出した被害者を覆い隠そうと、被害の規模を実際より大幅に低く見積もっています。

 最近お目にかかる機会を得た物理学者のアーネスト・スターングラス博士は、「秘密主義は、開かれた社会を統制しうる手段のひとつである」と述べています。時として、最大の犯罪は、秘密主義を行使することにより、政府と企業により自国の国民にたいし犯されます。そういった犯罪の一例について私の経験をお話ししましょう。

 1940年代と50年代、ハンフォード核施設で操業していたジェネラル・エレクトリック社は、1,100億キューリーの放射性ヨウ素131を継続的に、秘密裏に放出しました。1986年の母の日、私は、自分が、その際被ばくしたワシントン州「風下地区住民」27万人のひとりであることを知りました。ヨウ素131には発ガン性が認められており、牛により消化されると、牛乳に高濃度で蓄積されます。

 1945年には、ハンフォードから55万キューリーの放射性ヨウ素が放出され、1億5千万のアメリカ国民が、一人当り40億ピコキューリーを超えるこの致死的放射物質にさらされました。これは、その結果、地域の甲状腺がん発生率を200倍に押し上げたチェルノブイリ原発の事故で放出された放射線に匹敵する量です。その後、20年にわたり大気圏実験がおこなわれましたが、米国の天然資源保護協議会(the Natural Resources Defense Council)が最近おこなった推定によれば、これは、広島型原爆4万発分に相当するといいます。

 連邦政府と州政府当局は、ハンフォード近くのコロンビア川を世界で最も放射線に汚染された川と宣言しています。原子炉の操業がピークだったころは、コロンビア川の岸に立っているだけで相当量の放射線を浴びることが可能でした。米国の核兵器製造から生ずる高濃度放射性廃棄物の3分の2が、ハンフォードに貯蔵されています。ハンフォードには、核戦争が起こったとして、そこから生ずる放射線を超える量の放射性物質があるのです。現在、ハンフォードの汚染除去作業には、1千億ドルの費用と30年の月日が必要だとされています。それでも何千年にもわたり放射能が消えることのない地域が残ります。

 今年6月ハンフォード施設とその周辺で火災が起こり、19万エーカーが焼けましたが、これは、重大な警告となりました。今年5月には、農務省林野部による野焼きが暴走し、ロスアラモス国立研究所周辺の200家屋と4万8千エーカーが焼けました。そのうち9,000エーカーが研究所の土地で、ベータ線量は通常の4倍、アルファ線量は20倍に増加しました。

 最近、ハンフォード付近の住民にたいし、そのすべてが医療記録により証明されている広範な疾病にかんする健康調査がおこなわれました。その結果、乳ガンと肺ガンの発生率が3倍、甲状腺と白血病が10倍に増加していることが判りました。「ハンフォード死の一マイル(the Hanford Death Mile)」と呼ばれる地域では、ここに暮らす世帯の100%で、ガン、心臓疾患、先天性異常のいずれかが見られました。私が450人のハンフォード風下地区住民におこなった健康調査では、回答したうちの40%の人に、遺伝上の障害をもつ子どもがいました。全国的には、1945年から1965年のあいだ、低体重児の出生率が40%増加しています。

 私の浴びた放射線の中でもっとも深刻な影響をおよぼしたのは、「グリーン・ラン」として知られる計画的な秘密実験によるものです。この実験は、1949年12月2日にジェネラル・エレクトリック社の原子核工学部がおこなったもので、放射性ヨウ素1万1千キューリーとキセノン2万キューリーが意図的に大気中に放出されました。これは、当時の放射線許容量の1万1千倍でした。しかも当時の許容量は今日の20倍という高さでした。当時私は、ハンフォード核施設から50マイル風下にあるホイットマン大学の学生でした。

 ハンフォード放射線医療顧問のハーバート・パーカー博士とカール・ガマーツフェルダー博士は(私は博士に電話インタビューをしたことがありますが)、この実験はおこなうべきではないと警告していました。パーカー博士は、実験は「10年、15年のうちに心身に有害な影響をもたらす」と述べていました。しかし、この医療上の助言は、完全に無視されました。バーテル博士は、「正義の問題で、人間の健康侵害に帰着しないものはない」と述べています。

 疾病対策センターの調査では、1940年代から50年代のあいだ、ワシントン州風下地区に暮らす3万の子どもたちは、チェルノブイリから3マイルの地点に住んでいたソ連の人びとの20倍の放射性ヨウ素を浴びていたことが明らかになっています。これは、風が吹いた方向と、ソ連で地域住民にたいしてとられた保護措置の違いによるものです。

 ワシントン州保健局の放射線専門家であるアレン・W・コンクリン氏によると、世界でも知られている中で、ワシントン、オレゴン、アイダホに住んでいた私たちほど、長期にわたりそれほど大量の放射線に被ばくした民間人集団はいない、ということです。なかには、3万6千回のエックス線写真に相当する、3千ラドもの放射線を浴びた子どももいました(1990年7月13日付フロリダ州『セントピーターズバーグタイムズ』)。

 政府文書によれば、ハンフォードで放射性同位体が放出されたのは、放射線戦争の潜在的影響力を評定するためであり、なかには、地元住民にたいする破壊力と影響を見るためだったと考える人もいます。カーティス・ルメイ将軍が率いた放射線戦争実験秘密計画は、供給用の水と牛乳を汚染する目的で、放射性分裂物質を放出できるもので、ハンフォードにおいて1954年までおこなわれました。ワシントンの住民の多くは、1949年の実験が、この放射線戦争計画の一環であったと考えています。ぞっとするのは、現在の環境法のもとでは、おなじ秘密実験がいまでも可能なことです。

 被ばくした結果、私は、重度の甲状腺機能低下、流産、死産、乳腺腫瘤摘出、皮膚ガン、慢性変性脊椎、ガン性になりうる甲状腺結節、永久脱毛という影響を受けています。食道にも問題があります。食べ物が飲み込みづらく、腫瘍摘出のため内視鏡手術を2度受けました。脊椎は絶え間なく痛み、まるで、電気のこぎりで拷問にかけられているようにさえ感じます。肩は、バーベキューの熱い炭につかまれているように感じます。

 1997年の8月、もとの場所に延性ガン腫ができました。これは、非常に攻撃的になりうる種類の乳がんで、2度手術が必要でした。2回目のとき一部乳房を切除しました。毎年、17万5千人の女性が、転移性質の乳がんの診断を受けています。最近受けた乳房レントゲン写真により、ガンが再発しているかもしれず、生体組織検査が必要なことが判りました。モルモン教徒の作家であり自然主義者のテリー・テンペスト・ウィリアムは、胸がつぶれるような詩のなかで、こう書きました。「私たちは、乳房をひとつしかもたない女性の一族を形成するまでになった」。

 『サンフランシスコ・エグザミナー』紙(1997年8月13日付)の記事はショックでした。「こんにち最良の乳がん診断方法(乳がんレントゲン撮影法)は、40年も昔の技術で、誤診をまねきやすい。女性健康診療所(the Office on Women’s Health)によると、この方法でとられた映像は、ガンの15%から20%を見逃してしまう。乳がん診断を改善するのに必要な技術はある。しかし、それは適切でない者の手にあるのだ。莫大な予算をもち、国家の安全保障を任務とする国防・諜報分野は、医療分野の発展とハイテク映像の使用において、10年先をいっていると推定されている。」

 爆弾の標的を探し出したり、殺すことが、ガンの検出より優先されているとは、なんたる不条理でしょう。女性は、防止できる乳がん手術により、痛みを伴い、体を切り落とし、傷つけ、ゆがめる残忍な仕打ちを受けているのです。アメリカ人は、第三世界でおこなわれる生殖器一部切除を非難します。ならば、いわゆる第一世界がこれより進んでいるとでも言うのでしょうか。

 この驚くべき政府による欺まん行為は、ハイマン・G・リコーバー提督が、息子の妻であるジェーン・リコーバーにおこなった(公証人により認証された)告白により明らかになりました。リコーバー提督は、ケメニー大統領委員会が1979年のスリーマイル島事故について事実を報告すれば核産業は壊滅的打撃をうける、と述べました。よって、リコーバーは部分的炉心溶解の苛烈さについてウソをつくようジミー・カーター大統領を説得したというのです。リコーバーは後に、この重大なる国民にたいする欺きを後悔したと述べました。

 政府関係者や国防省と契約を結ぶ人間のなかには、核兵器は必要悪だという人がいます。いいかげんにこんな精神構造から脱して、悪などというものは決して必要でないとする考える時ではないでしょうか。

 ホイットマン大学時代の友人には、手のない子どもが生れました。いったいあと何人このような子どもが生れなくてはならないのでしょう。ハンフォード付近で育ったという、スポーカンからきた母親の11歳になる目が細長く切れていた娘のような子があと何人生れなくてはならないのでしょう。忌まわしいハンフォード死の一マイルで生れた目、頭、おしり、指のない子どもがあと何人生れなくてならないのでしょう。父の秘書を務めた女性の5歳の娘は、白血病により脚を切断しなくてはなりませんでした。あと何人の小さい子どもたちがこのような苦しみを受けなくてはならないのでしょう。

 核兵器廃絶の運動にたいする献身をあらたにするにあたり、こうした放射線犠牲者を想い起こそうではありませんか。大きすぎる頭をもって生れた赤ん坊、生まれつき脚の先にひざがくっついている女性、額のまん中に丸い目をひとつ持つ巨人キュクプロスのような赤ん坊、腕がない若い絵描き。彼に出会ったとき、彼は口を使って絵を描いていました。

 冷戦が終わった後ですら、世界は3万近くの核兵器の存在に苦しんでいます。(潜水艦を基地とする米国のトライデント核兵器システム(史上もっとも金がかかり、破壊的である)は、あわせて広島型原爆の8万5240発相当の破壊力をもつ弾頭を装着したミサイルを積んでいます。「トライデント反対ネットワーク」のマイケル・スプロングは、「核兵器は、その犠牲者に打撃を食らわそうと待ち構えている移動式『死の収容所』である」と述べています。

 第二世代の核兵器と、その設計と実験に費やされる何十億ドルもの費用が、生殖不能と32種類の放射性ガンが愛する家族と友人を不具にし殺しつづける地球を、永遠に放射線に汚染された地としているのです。この大会が、命のはかなさと母なる地球を守る必要性を認識する場所となることを願っています。私たちの住みかは地球のほかないのです。私たちハンフォードのヒバクシャは、私たちの傷跡から思いやりと英知が生れることを願います。核の蛮行は、ナチスによる死の収容所と同じ凶悪行為で、「音を立てないホロコースト」なのです。

 スター・ウォーズ(宇宙戦争)のセンサーを実験するため原子炉と原子力衛星を使った、宇宙の軍事化は、核の狂気のもっとも最近の例です。先の7月7日、米国は、弾頭を爆破する「殺人ロケット」を積んだミサイル迎撃機の実験に失敗しました。この三段階「殺人ロケット」は、その先端に装着した模擬弾頭により、改造されたミニットマン大陸弾道ミサイルを破壊することを目的とするものです。この実験失敗をもって、米国議会は、全米ミサイル防衛システムが機能しないという警告を受け取るべきです。私たちは、この国際会議において、米国の誤り導かれた科学者と技術者たちによる宇宙の核武装化を阻止するために奮闘せねばなりません。

 この国際的集まりが、あふれる喜びと、限りない情熱と、衰えることのない楽観主義をもって、私たちが直面する道徳的課題に取り組むため、反核運動にあたらしい力を吹きこんでくれることを願います。地球という名のこの奇跡が、私たちそれぞれがもつ神の力を呼び起こし、ひとつの大きな家族である私たち全員を守る力をあたえてくれることを祈ります。ボスニアの兄弟、ソウェトの姉妹、長崎のめい、ニカラグアと広島のおい、アフガニスタンとアンゴラのおば、ウクライナとウガンダのおじ、キューバとチェルノブイリのいとこが暮らす大家族を守る力を。

 この集会が、つまらぬ口論やけんかにたいする応えが、暴力の悪循環ではなく、愛のこもった抱擁と紛争の平和的解決である地球に暮らす家族の再会の場となることを願います。

 思いやりにあふれ親身ある支援、祈りに満ちた希望、深く根ざした信念によって、この会議が考え方の転換の突破口を開く一助となることを願います。あたらしい倫理的価値観とすべてを包む道徳が、政治的、経済的、社会的平等をすべての者にもたらす、平和で核のない世界にむかって。
あたらしい千年期をむかえるにあたり、破壊の技術を使って富や権力を得るために魂を売り渡すような信仰を捨て去ろうではありませんか。神の愛と、人間の愛と、地球の愛のために、相生橋の下をゆく静かな元安川を流れる灯ろうが、新しい考え方への道を照らしてくれることを願います。決意をあらたにし、全身全霊をかけ、ともにこの巨大な挑戦に取り組もうではありませんか。夢は実現できるのです。



世界の被ばく者の証言・資料

アメリカ合衆国原水爆禁止2000年世界大会 国際会議アメリカ ユタ州ネバダ核実験場風下地域 デニス・ネルソン
 

 私が子供のとき、広島のことを聞いたことはありませんでした。長崎のことも聞かされたことはありませんでした。4千万以上の生命を奪った世界大戦についてもあまり聞かされたことはありません。よく聞かされたのは、誇り高く愛国的なアメリカ市民に生まれてどれほど幸運かということでした。まだ幼い私には、戦争が実際にはどのようなものかなど知るよしもありませんでした。戦争がどれほどひどい痛みや苦しみをもたらすかものかも知らず、戦争の英雄のほとんどが、実は戦死した兵士だということにも気づきませんでした。私はアメリカの戦争を美化した多くのハリウッド映画に影響され、戦争に憧れを抱いていたのです。50年以上たった今日でさえ、本や映画のなかでは、アメリカ兵の勇敢な姿や犠牲や苦悩が理想化されて描かれています。成長するにつれ、私は、戦争が決して華やかなものではないことに気づきました。戦争は金持ちの支配層が彼ら自身の利益のために行うものであり、その犠牲となるのはほとんどが一般の人々だということも知りました。さらに私が気づいたのは、実際に戦闘が行われていなくとも、戦争を想定して常に戦闘準備をすることによって、国民が、道徳的、社会的、心理的に大きな被害をこうむり、さらには身体的な被害も受けるということです。

 戦闘自体は何世紀も激しく行われてきました。しかし、第二次世界大戦終結後から続いているこの戦闘ほど、人々の目から隠され、見えにくく、破壊的で、野蛮なものはありません。この戦闘は、アメリカ西部に広がる風光明媚なトリニティという地域で始まり、いまだに終わっていません。そこにあるのは華麗な軍服でもトランペットでも剣の音でもありません。対決しているのは、強大な権力を握る人々と世界の子供たちです。この戦闘に勝たなければ、未来も、私たちの住める世界も、安全な場所もなくなってしまうでしょう。

 1945年7月16日にニューメキシコの美しい砂漠地帯で始められ、現在も進行中の核戦争は、私の母と父と末の妹の命を奪いました。この戦争は今もなお日々、犠牲者を生みつづけています。アメリカ先住民の部族のなかには、ウラン鉱山で働く人々がいて、肺から血を流しています。カザフスタンでは、家族を失って悲嘆に暮れる女たちがいます。イラクでは奇形児が生まれ、キエフでは被曝して髪がすっかり抜けてしまった子供たちがいます。世界で最高水準の病院でさも、放射線被曝が原因の癌を治療しようとしても、すでに死にかけた患者たちにいっそうの痛みと苦しみを与えることしかできないのです。

 私の父は、62歳のときに肺ガンと骨肉腫で死にました。母は、47歳のときに脳腫瘍で亡くなりました。妹は、40歳で直腸ガンで死にました。弟は19歳のときにリンパ腫を患い、ほかにも家族のなかには、膀胱ガン、皮膚ガン、甲状腺の病気にかかった者がいます。父は、私たちの家から120マイル(200キロ弱)のところで原子爆弾が爆発していることを知っていました。しかし、12年間でネバダで1000発近くが爆発し、その死の灰が私たちの屋根や果樹園や野菜畑や外に干した洗濯物に降りかかることになるとは思っていませんでした。死の灰は、家のなかや車のなかや、食べ物にまで入りこんできました。私たちが使う水や、牛が食む牧草や、私たちの飲むしぼりたてのミルクにも入りこみました。父は、それによって自分自身や妻や末娘が死ぬことになるとは知りませんでした。残された家族がその後ずっと、手術や治療や薬物療法を受け続けることになるとは知りませんでした。それは、戦争を煽る秘密でした。この秘密によって、「冷戦」の火は燃えつづけたのです。これによって、世界大戦終結た後も、軍需品製造で莫大な利益をあげ、富める者は、さらに裕福になったのです。「冷戦」は、実際にはきわめて熱い戦争だったのです。

 私の住んでいた町はそれほど大きくなく、約5000人の女性、男性、子供が住んでいました。無防備で、シェルターに囲まれていたわけでもなく、しのびよる破壊的な攻撃に関する警告もされませんでした。私たちは、道を誤った科学の犠牲者でした。大量殺戮兵器を製造することで生命を救い「安全」を強化できると思い込んでいる狂人たちの犠牲者でした。現代の核の戦場によって被害を受けたり、汚染された犠牲者を追悼する記念碑は一つもありません。何千人もの女性が乳房を失い、何千人もの男性が自律呼吸機能を失い、何百万人もの子供たちが屈託のない幸せな子供時代を奪われたのです。私の子供たちの生まれる前に、祖父母は亡くなってしまいました。子供たちは、自分たちの愛する人や知人が不治の病気にかかったという知らせに慣れてしまいました。子供たちは生き残った犠牲者でもあります。私たちは彼らのことを認め、尊重し、援助する必要があります。彼らに、過去何が起きたのかをよく教えなければなりません。過ぎ去った日々の美しい記憶を分かち合うだけでなく、全人類に大きな影響を及ぼした不幸な歴史的事実も教える必要があるのです。そうしなければ、必ずまた同じことが繰り返されるでしょう。

 広島と長崎で起きた恐るべき破壊は、核兵器によって世界の安全が強化されることなどないこと、いかなる国家も核の保有によって安全を保障されることなどないことを、私たちに示し続けています。広島と長崎の生存者、そして核兵器施設や核実験上の風下地域に住む人々が被っている、生涯つきまとう病と早過ぎる死は、私たち人間がどれほど脆い存在であるかを冷厳に示しているのです。

 1945年7月16日にニューメキシコの砂漠で始められた核戦争は、今も人々を殺しつづけています。つい数週間前にネバダで行われた未臨界実験は、戦争がまだ終わっていないことを証明しています。私の家の近所で、あるいは他のどの場所でも、1000発近くの核兵器を爆発させる正当な理由はありません。ここから分かるのはただひとつ、この重大な決定を極秘で下した特定の人々には、他の人々に対する敬意が完全に欠如していたということです。私たちは、多数の幸福のための捨石にされたのです。私たちは、意味もなく殺されかねないのです。日本人だろうとアメリカ人だろうと関係ありません。これは、国境のない戦争です。放射能と死の灰は、いったん放出されたらとどめることはできません。1957年のセラフィールド、1976年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、1999年の東海村の事故は、原子力の平和利用でさえ、多くの問題と危険を抱えていることを示しました。

 55年間にわたる放射能の攻撃によって、数百万の人々が命を奪われ、健康を損なわれました。ヒロシマは、日本の人々だけでなく、全世界に対する攻撃でした。そうでなければ、今日、私がここに立っているはずがありません。日本、カザフスタン、オーストラリア、マーシャル諸島、そして全世界の兄弟姉妹と同じく、私もまたヒバクシャです。苦しみと恐怖によって結び付けられた私たちが、核兵器のない新しい千年紀への道を照らす光となることこそ、平和を愛する私たちの共通の願いなのです。



世界の被ばく者の証言・資料

アメリカ合衆国原水爆禁止1997年世界大会国際会議デニス・ネルソン ユタ風下住民

 今日、ここに私をご招待下さった方々に感謝します。私は、ここで皆さんにお話をする機会を与えられ、大変光栄に思います。

私は、科学者として専門的な話をすることもできますが、そうするつもりはありません。私が話したい問題は、それよりはるかに重要な事だからです。私の話は、愛と命と失ったものについての話です。家族と果たせなかった夢の話です。

 私は、冷戦のさなか、アメリカ・ユタ州のセント・ジョージ市で育ちました。当時は、冷戦があまりに激しかったため、道徳や正しい行為など問題にもされませんでした。普通の人々の命は、たとえ少しくらい犠牲者を出そうと「国家の安全」や「自由」という作り話を守ることの重要性に比べたら、全く意味のないものと考えられていました。ネバダ核実験場の風下にあるユタ州南部とネバダ地方には「ほどんど人の住んでいない地方」というレッテルがはられ、そうした政府の声明によって、少なくとも2万人の人々が目にみえない、無視してもかまわない存在とされたのです。このなかには私の家族も含まれていました。

 私の子ども時代に、後に「死の灰の町」として知られるようになるセント・ジョージ市の西120マイルの地点で約200発の核爆弾が実験されました。風は私たちの町の方向に向かって吹くことが多く、ある時、特別やっかいな爆弾が、計画していたよりも「激しく爆発」してしまった時には、原子力委員会のある役人は、もし実験の当日に雨が降っていれば、その影響でセント・ジョージ市の住民の半分が死んでいただろうと後になってから言いました。たしかに、あの日、私たちは幸運に恵まれました。速やかに死ぬ代わりに、ゆっくりと死ぬことになったのですから。1950年代になると、あまり大騒ぎにはなりませんでしたが、一人また一人と、死者が出るようになり、それが今日もなお続いています。世界はユタ州の小さな町で何が起きているか知ることはありませんでした。この小さな町の人々は、放射線を浴びてからというもの、放射線実験に組み込まれ、知らないうちに、世界中で用いられることになる放射線の遮蔽基準を設定することに貢献させられていたのです。

 広島と長崎で何が起きたのかは疑う余地もありません。たとえ医学者や物理学者がその影響を過小評価しようとしても、そこにいた人々は真実を知っています。しかし、ユタをはじめ多くのアメリカの核被害地の人々は、今でもなお、この日本で起きたと同じ事が自分たちに起きたのだと信じようとしません。たしかに私たちは恐ろしい業火に焼かれたことはありません。しかし私たちの飼っている家畜の背中には、ベータ線によるやけどができています。「黒い雨」も降りませんでした。でも何年間も、放射性のほこりを含んだ乾燥した雲が私たちの空にただよっていました。破壊による膨大な被害もありませんでした。でも私たちは放射能で汚染された食物を食べ、汚染された牧草地で草を食べている乳牛のミルクを飲んでいたのです。

 子どもの頃、私は死の灰がどこに流れていくのだろうと思ったものでした。夏の間、私が木陰で昼寝をした木にも、家の庭に撒いた水にも死の灰は降りました。ネバダから吹いてきた風にも死の灰が含まれていました。しかし、私の両親は、心配しなくても安全だからと言われていました。私たちはそれを信じていました。死の灰がいたるところにあったのを知りませんでした。死の灰は、私の父親の肺や骨の中に、母親の脳の中に、私の弟の血液の中に、私の妹の腸の中に、そして私自身の皮膚にまで入り込んでいました。

 私の母は47歳で亡くなり、妹もわずか40歳で死にました。父はたばこを一度も吸ったことがないのに肺ガンで死に、弟と私は二人とも2回ガンを患いました。私や同世代の人々は、あまり長生きできないだろうと思っています。私の祖父母は元気で長生きしましたし、私は自分の子供たちも、また再び祖父母の世代と同じように、健康で長生きできるようになることを願っています。私は、あの美しく、聡明で、ウィットに富んだ妹が、ユダヤ人大虐殺の犠牲者のような変わり果てた姿になったことに気づいた時の恐ろしさを忘れることはできません。毒ガスを使ってであれ、アイソトープを使ってであれ、その犯罪性には変わりはありません。そして私の家族はその犠牲者に選ばれたのです。

 私の家族は、放射線被曝の影響について行われた統計や医学的調査の対象になったことはありません。私たちは利用され、見捨てられたのです。自分たちで医療費を負担し、一度も補償を受けることはありませんでした。

 社会保障による医療制度のない国では、人を病気にするのは簡単です。犠牲者自身が医療費を全額負担させられるのですから。

 今世紀のはじめには、科学が、肉体だけでなく、精神も道徳も心も破壊するようになるとは誰も想像すらしませんでした。次の世紀になっても、科学は破壊から私たちを救うことはないでしょう。人類を破壊から救うことができるのは、皆さんや私のように、たとえささやかな方法によってでも、この現実を変えようとしている人々なのです。紀元2000年が間近に迫った今、私たちは原子にまつわる真実を世界中の人々に知らせなければなりません。勇気ある男女の力を借りて、調査によって核兵器の引き起こした被害の実態を明らかにし、過去の犠牲者たちに発言の機会を与え、人間の行なった大虐殺が、極秘文書のなかに隠蔽されることを二度と再び許してはなりません。

 日本にある原爆記念碑は、私たちの後に続く世代の人々が過去を忘れることのないよう、彼らに私たちを苦しめ、変えてしまった核の悲劇を常に思い出させるものとして、そこに立っています。セント・ジョージには、記念碑はひとつもありません。あるのは多くの幼い子供たちと若くして死んだ大人たちの埋葬されている墓地だけです。彼らは自分たちの声に耳をかたむけてくれと叫んでいます。ちょうど、皆さんのなかにもご存知の方々がおられると思いますが、クローディアの美しい娘のベサニー・ピーターソンのような幼い子供たちです。そして、5年前に亡くなってからこれまで、私を休ませてくれない私の妹のマーガレットのような大人たちです。

 ここにいる私たちは皆同じひとつの絆で結ばれています。私たちが時間を過去に戻し、死ではなく生を語る事ができたなら、これまでに起こったあの出来事が、まったく起こらなかったならと、私は心から思います。しかし、過去を変えることはできません。それならば、私はせめて長生きして、この世界的な核のホロコーストによって命を失った全ての人に捧げられる記念碑が建てられるのを見てから死にたいと思っています。皆がそのまわりに集まって、この話題を避けることなく話し合い、私たち全員がヒバクシャであると聞かされても目をそむけなくなるその時に立ち会いたいと思います。私たちは罪のない犠牲者であり、核兵器がなくなるその最後の運命の日まで、声をあげ訴え続けるのだということを決して忘れてはなりません。

 私の愛する人々の命を奪ったあの原子兵器は、その標的や人命を破壊しただけでなく、その究極の力で、兵器を作り使用した人々の信用をも打ち砕いたのです。彼らの道徳や倫理の欠如は、図らずも、彼らが巧妙に秘密を隠し続けることで身を守ろうとしている臆病な殺人者に他ならないことを明らかにしました。

 私は真実を愛しています。真実は人間を解放し、私が子供の時に奪われた選択の自由を取り戻させてくれるからです。私は私ができなかったこと、両親と妹と共に過ごす太陽の輝く日々、そして平穏な夜を夢に見たいと思っています。私は、長生きする人々、健康な子供たち、良い政府の夢を見たいと思っています。私は、私たち全員が、この夢を現実に変えられるように祈ります。

デニス・P・ネルソンの経歴
 デニス・ネルソンはアメリカ・ユタ州リッチフィールドで1943年8月8日に生まれる。1943年から1959年まで、ユタ州セント・ジョージで弟と3人の姉妹とともに育つ。1959年、一家はユタ州北部へ移り住む。彼は当地のブリガム・ヤング大学で学び、化学で理学士号、生物物理化学で博士号を取得する。

 1968年、ネルソン博士はアメリカ海軍に入り、22年にわたって海軍将校として勤務する。彼は、メリーランド州の海軍医学研究所、カリフォルニア州の海軍地方医療センター、海軍保健研究センターで働いた後、ワシントンDC近郊の軍医科大学の大学コンピューターセンター所長を最後に海軍でのキャリアに終止符を打つ。この間、免疫系、中毒性および出血性ショック、ヘモグロビンの酸素輸送など様々な分野で生物医学的研究にたずさわる。

 海軍を退役後、ネルソン博士は国立衛生研究所における廃棄物焼却の廃止に貢献したメリーランド州ベゼスダ環境問題啓発タスク・フォース議長として、地域活動に積極的に参加している。また、放射線が人体に及ぼす影響に関する実験についての大統領諮問委員会で2回証言した。彼はコンサルタント事務所を経営し、化学物質の毒性および環境汚染の分野での専門的助言を提供している。

 ネルソン博士の夫人はオーストリア人で、息子が1人、娘が3人いる。



世界の被ばく者の証言・資料

アメリカ合衆国 原水爆禁止1997年世界大会・国際会議シュンダハイ・ネットワーク 創立者 (アメリカ先住民) コービン・ハーニー

 私は西部ショショーニ族の一人であり、先住民として、あるいは、先住民族の一人として、われわれの母なる大地のことを懸念しています。それは、母なる大地が一つしかないからです。全ての生き物が母なる大地に依存しており、この母なる大地がわれわれを養い、活力を与え、水を与え、みなが吸う空気を提供してくれています。こういったものに、われわれは依存しています。全ての生き物が母なる大地に依存しており、われわれ世界中の人間は、手をつなぎ、協力して、この母なる大地を虐待から守ってゆかなければなりません。水が手に入らなくなりつつあるのを既にわれわれは目撃しています。水は化学薬品や放射能で汚染され、全ての生き物が死につつあります。われわれはみな、それを見ています。それなのに、どういう訳か、われわれは自分たちの目を信じられないのです。これが、みなさんに目を向けていただくためにこの問題を提起したい理由の一つです。私はそのために遠くから来ました。そのために、みなさんの国に来て、このような話をしているのです。ともに私たち人間が団結してゆかなければならないことです。水や、空気、私たちを養ってくれ生命を維持してくれる母なる大地を守るために協力するためです。

 私の国で、ショショーニの土地は、核エネルギ?省に利用されており、この土地で核実験が行なわれています。われわれが話している土地には、二つの異なる政府があるためです。白人の政府とインディアンの政府です。1863年に双方のあいだで調印された条約では、この土地はショショーニの土地であり、われわれはそのことに合意する、と書かれています。われわれ先住民は、彼らがわれわれに約束したことを果たすのを一度たりとも見た事がありません。どういうわけか、世界中で話されている土地に関する法律は、彼らに誤用され続けてきたのです。これは、われわれにも彼らにも影響を与えます。われわれは、それが双方を保護するものだと思っていました。これまでのところその法律は、彼らの側を保護していますが、先住民のほうをまったく保護してきませんでした。彼らは、母なる大地と先住民を虐待し続けています。現在先住民が住んでいる土地に、先住民の承認なしに、化学薬品と核廃棄物が置き去りにされました。これが、私が今日、国中を回っている理由の一つです。私の長老たちのほとんどは亡くなってしまいました。放射能が彼らの命を奪ったからです。化学薬品と放射能のために、何千人も、何千人も亡くなってしまいました。状況はさらに悪化しています。先住民としてわれわれがアメリカ政府の「お偉い方々」に話をしようとしても、全くわれわれには注意を払ってはくれません。1977年にもう2600万ドル払った、と彼らは言い続けますが、そのような金額を受け取ったとされる証明はどこにもありません。

 ですから、この問題をみなさんに御指摘することは非常に重要なのです。先住民としてわれわれがどのような経験をしてきたかを理解していただきたいのです。先住民としてわれわれは、地上に生きているすべてのものに依存しているからです。母なる大地は、植物も、動物も、鳥も、すべての生き物の世話をしてくれます。全ては、母なる大地から生まれたのですから、われわれは自分たちの母を破壊することはできません。われわれは力を合わせて、この無意味な核の力にストップをかけることができるのです。あまりに多くの廃棄物を生成しているからです。もし廃棄物が国中を移動し、世界中を移動し、国の端から端まで移動するなら、われわれはあまり長く生存することはできません。このために多くの病が生み出されているからです。わたしたちの母なる大地は、今日とても病んでいます。ですから、私がみなさんにお話ししていることを世界中の人びとみんなに本当に理解してもらいたいのです。そうすれは、核エネルギーではなく、異なるエネルギ?源を使うことができるようになります。もし、核廃棄物をある国の端から端まで移動させるなら、もっと病気を生み出してしまいます。若い世代、幼いこどもたち、そしてまだ生まれる前の胎児は、放射能によって障害者になってしまいます。ですから、そのようなことを起こさせないようにしましょう。いっしょに手をつなぎ、一つの民になりましょう。私たちの地球は一つ、飲む水も一つ、吸う空気も一つだからです。私の経験してきたのはこのようなことであり、みなさんがどんな道をたどってこられたかを私は知っています。つまり、私たちは同じ経験をしているのです。対立するのはやめましょう。互いに話し合いましょう。互いに協力しあいましょう。互いに支えあいましょう。これこそが私たちの使命を果たすために、世界中で私たちがしなければならないことなのです。原子力を無くすことができるために。原子力は、多くの命を奪ってきたからです。いますぐ、これをやめさせましょう。明日ではなくて今日、すぐに。

 私の土地で、彼らは、あの未臨界実験を行なっています。もう実験はしないと合意したのに、実験を続けているのです。そして悪い物をこの土地の上に移動し続けています。やめさせるには、世界中の人が行動しなければなりません。

 私の言っていることを理解していただきたいと願っています。そして、私に手を貸して下さい。みなさんから御連絡いただけることを願っています。シュンダハイ・ネットワ?クあてに御連絡下さい。シュンダハイとは、私の母国語で、全ての創造物との平和と調和という意味です。みなさんの前で、精一杯この問題を提起することは、私にとって本当に重要なことです。いっしょに活動を始めることができるよう願っています。

連絡先: SHUNDAHAI NETWORK
5007 Elmhurst St., Las Vegas, NV 89108 U.S.A.
Phone: 702-647-3095  Fax:702-647-9385
E-mail: shundahai@radix.net
http://www.shundahai.org



世界の被ばく者の証言・資料

アメリカ合衆国 原水爆禁止1998年世界大会 国際会議ドロシー・パーレイ ウラン鉱山放射線被害者、ラグーナ・プエブロ
 

 私はドロシー・パーレイといいます。私は、合衆国南西部のニューメキシコ出身のアメリカ先住民です。私が今日この場に参加したのは、私の経験をみなさんに知ってもらうためです。私もまた、この美しい日本を傷つけた惨事の犠牲者です。私もまた、ヒバクシャなのです。

 1935年、アナコンダ鉱山会社と合衆国政府は、ラグーナ・プエブロという私たちの村で、神聖な土地を採掘することに決定しました。彼らは、鉱山が私たちの部族全員に富と仕事をもたらすだろうと説明しました。私たちは、アメリカ中の多くの先住民と同じく、常に貧しい境遇におかれてきました。あまりにも長い期間にわたる貧困のため、村の人々はこの申し出に飛びつきました。アナコンダ社は、ウラニウムの使用目的について、ラグーナの人々に何も話しませんでした。ウラン鉱石の採掘が私たちの健康や環境にとって危険なものであり、人類を脅かすものであるということは、一言も話しませんでした。アナコンダとはよく名付けたものだと思います。アナコンダは(油断のならない人を象徴する)ヘビの名前なのですから。

 ラグーナ・プエブロの村は、誰もが他人の面倒を見るような平和な地域でした。村の人々は、自分たちの子供に危険な遺産をのこすことになるとは思っていませんでした。ラグーナの人々は、鉱山を開くことがほかの人に死と破壊をもたらすとは思っていませんでした。鉱山は日常生活で重要な科学技術に利用するのだとしか聞かされなかったのです。この事業は人類の利益になると説明されたのです。もし村の人たちが実際にウラニウムの使用目的を知っていたら、鉱山の操業を許しただろうかと、私はいつも疑問に思っています。

 53年前に原爆が投下されたとき、私は8歳でした。私は1939年に生まれてからずっと、放射線を浴びていました。いま、私たちは被爆者の方々と同じ苦しみを味わいつづけています。私が非常に怒りを感じるのは、アナコンダ鉱山会社とアメリカ政府が、当時でさえ、ウラン鉱の採掘が人間の生命を脅かすものだということを承知していたことです。2週間以上の被爆は望ましくないと鉱山会社に警告した科学者がいたことは、私たちが入手した文書から明らかです。それなのに、会社は私たちに伝えようとしませんでした。しかし、こうした態度は、先住民をはじめとする有色人種に対し、一貫してとられてきたものです。

 1975年頃、私は鉱山会社に職を求めました。一人で子供を育てていましたし、女ですから、あまり選択肢はなかったのです。とにかく子供を養わなければならないということで頭がいっぱいでした。私はトラックの運転手の仕事に就き、高濃度のウラン鉱石を精錬場まで運びました。安全対策は何もとられませんでしたし、放射能の影響について注意もされませんでした。約8年間、私はきわめて高い線量の放射能にさらされました。かつて美しかった村は、鉱山からおよそ1000ヤード(約900メートル)のところにあります。ラグーナの人々はいまだに、むき出しになっている採掘坑の有害な影響に日々苦しんでいます。

 私は1993年に初めて、免疫システムの癌であるリンパ腫の診断を受けました。これまでに2度の再開発を経て、3回目の化学療法を受けています。化学療法は癌細胞を殺しますが、同時に身体も弱らせます。身体の免疫システムがうまく機能しないため、あらゆる種類の感染にかかります。心は、肉体的にも精神的にも傷つけられました。身体がきかないため、以前のようなことができません。昨年の12月から癌は緩解期に入っています。この先どうなるかはわかりません。一瞬一瞬の貴重なときを生きるだけです。

 今日、私はこの厳粛な瞬間をみなさんとともにするためにここにいます。私たちすべてにとって、とても悲しく、謙虚な気持ちを呼び起こすひとときです。被害者のみなさん、その家族、友人のみなさん、頭を高く上げ、断固としてがんばりましょう。このような大量破壊が良い結果を生むことはありえないし、本当の勝者など存在せず、戦争の犠牲者だけが残るということを、世界中の人々に知らせてゆくために、力を貸してください。平和で友愛に満ちた世界をのこしましょう。神の御もとに召されるとき、恥ずかしくなく顔を上げていられるように。みなさんが愛に満ちた幸せな人生を送られることを祈ります。ご静聴いただき、みなさんのやさしさに心から感謝します。どうもありがとう。



世界の被ばく者の証言・資料

アメリカ合衆国ハーグ平和のためのアピール 1999年5月 オランダ、ハーグ 世界の被ばく者セッションクローディア・ピーターソン ネバダ核実験場風下地区住民

 みなさんの前で、私は、感謝の思いと謙虚な気持ちでおります。平和と正義をもとめるこの会議に参加する機会を与えていただきありがとうございました。

 私は、アメリカ政府が1000以上の核装置を実験したネバダ核実験場の風下に位置するユタ州南部から来ました。

 私は、恵まれた環境にあると信じて育ちました。アメリカ政府は、すべては安全で何の危険もないと信じさせるため、たくさんの方法をとりました。生活が順調なときは、恐ろしいことが起こりうるなどとは考えないものです。しかし、核実験場の風下に住む人たちは、実験開始後まもなく、不幸が現実となったことに気づきました。アメリカ政府がいかなる過失もないと否定をつづけるなか、私たちの目の前で、愛する者が驚くほどの速さで苦しみ死んでいったのでした。
 
 私の夫の父はウラン鉱夫で、適切な換気がなされていない坑道で働きつづけた結果、若くして肺ガンで亡くなりました。いまでは、解禁された文書から、原爆製造にウランが必要だったため、ラドンガスへの被ばくにより起こる病気については鉱夫に知らせない、という意図的な決定をアメリカ政府がおこなっていたことが判明しています。

 私の父は、レモン大の脳腫瘍が摘出された半年後に亡くなりました。このとき、かかりつけの医者は、この腫瘍が、私たちの家に降り注いだ核実験から生じた死の灰によるものであることを示唆していました。

 父の死はつらいものだったとはいえ、この後につづく悲しみに比べればまだましでした。私の末娘のべサニーは、3歳にして悪性の神経芽細胞種というがんの診断を下されました。私たちが見守るなか、この素晴らしいほど活発で好奇心に満ちた娘は、生きるために本当にたくさんのたたかいを乗り越えていきました。しかし、3年におよぶ化学療法、放射線治療、そして手術のすえ、ベサニーはたたかいに敗れました。苦しみが終わることを祈るほか何もしてあげられないという戦慄にふるえながら、わたしたちはベサニーを抱き、その腕の中でベサニーは死んでいきました。

 ベサニーが亡くなるちょうど一月前、私のただ一人の姉キャシーが、皮膚がんため36歳で亡くなりました。彼女は、6人の幼い子どもと夫を残していったのです。愛するものの死を見ることはあまりつらく、私も悲しみを終わらせるために死を願いました。核の時代は物理的に何千人も殺しただけでなく、本当に多くの人から素朴さを奪ったのです。

 私たちのなかには、もう体力的には丈夫ではない者もいるかもしれません。しかし、失ったものの大きさによって、私たちは強くなり、平和がなぜこんなにも大切であるか理解できるようになりました。

 私は、コソボの母親や父親のように難民キャンプでわが子を探すというつらい経験をしたことはありません。広島や長崎の母親や父親のように、わが子の体を探し求め、真っ黒に焼かれた道をさまよわなくてはならなかったということもありません。しかし、アメリカ政府はこれと同様のことを、うそと隠ぺいと欺きにより、秘密裏に、機密を保持するやり方で、自国の国民にたいしおこなったのです。

 国際社会の一員として、友人、隣人、愛するものが苦しみ死に逝くのを、ただ見ていられるでしょうか。毎日テレビで見る惨事をいったいどう正当化しろというのでしょう。他人の苦しみに背を向け無視する者は、このような苦しみを引き起こしている者と変りません。 

 私たちすべてが、沈黙を破ることにより、政府の政策を変えさせることができるのです。沈黙は、権力をもつ者がさらに悪事をはたらくことを許します。今日ここに参加した理由が何であれ、私たちは未来を変えられること、私たちすべてが核の時代の犠牲者だということを知らなくてはなりません。力を合わせて生き続ける決意を固めようではありませんか。



世界の被ばく者の証言・資料

アメリカ合衆国 ハーグ平和のためのアピール 1999年5月 オランダ、ハーグ 世界の被ばく者セッション

アンソニー・ガリスコ原爆復員兵士連盟

 原爆復員兵士連盟(AAV)の会長を務めています、アンソニー・ガリスコと申します。復員兵士連盟を代表し、発言する機会をあたえて下さったこと、この会議の実現に向け奮闘されてこられた多くの方々に感謝を述べるものです。

 わたしたちの連盟は、おもに、兵役に就いていたあいだ米軍の実験的核兵器爆発への参加を命じられた元兵士から構成されています。米軍によれば、1945年から1963年まで、何万もの米軍兵士がアメリカの核爆発計画に直接参加しました。このなかには、罪のない男、女、こどもにたいする不必要な原爆投下の直後、広島と長崎に入り汚染除去作業をおこなった4万人の兵士もふくまれます。

 米軍が、広島と長崎の上空で原爆を炸裂させたのは1945年です。わたしたちの連盟、またそのほかにもアメリカの多くの復員兵士たちは、広島と長崎の人びとは、米軍が目的を果たすための最初の核兵器実験動物にされたと考えています。第2次世界大戦中、太平洋で兵役に就いていたわたしたちは、沖縄がアメリカの手に落ちたときには、(その後、実際1945年6月に米軍は沖縄を占領)、戦争は終わると聞いていましたし、そう理解していました。この話はまた別の機会にでもしたいと思います。

 アメリカの原爆復員兵士たちは、わたしたちの兄弟姉妹である日本の被爆者のように、核兵器による大虐殺は経験していません。しかし、わたしたちの多くは実験のとき爆心から非常に近い距離にいました。軍部は、わたしたち兵士がすこしでも爆心の近くへと接近するよう迫ったのです。すでに1946年8月の時点で、「クロスロード作戦」との暗号がつけられた米海軍最初の核実験において、米軍兵士を使う決定がなさていました。暗号名ベイカーという2発目の(水中)核爆発のあと、この作戦は完全に統制がきかなくなり、作戦は早急に狂乱的な状況のなか中止されました。

 その後何年もたった1983年のこと、わたしたち連盟のメンバーである研究者が、当時最高機密であった文書を発見しました。この文書には、クロスロード作戦が、計画されていた最後の3発目の実験をまえに中止された理由が述べられていました。

 あらゆる点において、原爆兵士たちは、こんにちわたしたちすべてを人質にしている、より協力で致死的な核兵器を開発するための、核の時代のいけにえに供されたのでした。軍がわたしたちを危害にさらすなど考えもしないことでした。しかしわたしたちは間違っていました。作戦に参加したわたしたち兵士は、第3次世界大戦がおこればこのような様相を呈するのであろう、目の前で証明された明白ながらも信じがたい光景を忘れることはありません。日本の被爆者や核実験に参加した兵士のほかに、24キロトンの核爆発から2マイル(訳注:約3.2キロメートル)地点にいることがどんなことか、理解できる人はそう多くないでしょう。

 火のあらしを目撃し、途方もない熱と風を感じました。いちどに100もの雷雨がおきたようなとどろきがつづき、その猛烈な轟音は信じられないほどでした。容赦なく体をのみこみ、しめつける衝撃に押し潰され死んでしまいそうで身がすくみました。わたしたちの脳裏には、核兵器が跡にのこす冒涜的な惨害が焼き付いています。

 これと同じ頃の1946年8月に作成されたある最高機密文書からは、クロスロード作戦2発目(ベイカー)の実験のあと、ビキニ環礁の礁湖に停泊する旗艦のなかで開かれた秘密会議の場で、ある高官が作成した声明が明らかになりました。この声明は、「われわれは、クロスロード参加者がクロスロード作戦放射線監視部門に訴える権利や事実が承認される事のないよう、あらゆる予防措置を講じなくてはならない」としています。言い換えれば、「罪のドアにかんぬきを掛け、臭いものに蓋をせよ」ということです。

 クロスロード作戦に4万2千の兵士を使うという決定は、何万もの原爆復員兵士にじりじりとおとずれる苦痛の死刑宣告でした。1960年代から1980年代にかけ、たくさんの原爆兵士たちが死んでいきました。ガンをはじめ、病気にかかる原爆兵士の割合は異常なほどでした。1983年の初め、わたしたちは再度連邦議会にはたらきかけ、わたしたちとその子どもに起こっている事態を突きとめるため厳密な疫学調査をおこなうよう要請しました。答は、そのような調査は必要がなく、財政上も不可能であるというものでした。

 復員軍人庁の病院に助けをもとめましたが、相手にしてくれませんでした。締め出されたとでも言いましょう。1984年のあるとき、原爆復員兵士が提出した公文書をシュレッダーにかけ焼却したという理由で、サンフランシスコにある復員軍人庁病院に有罪判決が下されました。復員軍人庁の制度による医療をうけるため、自分たちの主張を裏付ける資料として、原爆復員兵士は公文書をこの病院に送っていたのでした。

 1984年、必死の思いから、また原爆復員兵士のために政府が厳密な疫学調査などすることなど絶対にないと認識していたわたしたちは、ワシントンDCの事務所を拠点に独自の調査をおこなう道を選びました。

 調査の結果、わたしたちは政府がすでに知っていた事を知りました。原爆復員兵士の53%以上に染色体異常があり、それが、先天的異常の形でこどもたちに遺伝していました。原爆復員兵士の平均死亡年齢は47歳でした。このあとも、核爆発に兵士をさらす作戦は17年つづけられました。この間、核兵器が威力をますいっぽう、何万もの兵士が被ばく者となり、死んでいきました。

 1946年の大失敗を国民の目から隠したい軍部は、国防総省を通し沈黙の陰謀をめぐらせました。1963年、ケネディーが大統領のとき、(部分的核実験停止条約により)核実験による虐殺行為が終り、莫大な金を産む金庫から空中に打ち上げられ、腐敗した核兵器軍産複合体へと注ぎ込まれていた何十億ドルもの資金の流れも止まりました。

アンソニー・ガリスコ
第二次世界大戦、朝鮮戦争に参加
クロスロード作戦中は、揚陸艦388に乗船

連絡先:
Alliance of Atomic Veterans
P.O.Box 32, Topock, Arizona 86436, USA
Phone: (520) 768-6623
E-mail: aav1@ctaz.com





世界の被ばく者の証言・資料

アメリカ合衆国 原水爆禁止2000年世界大会国際会議

放射線被害者支援教育の会 理事長
デニース・ネルソン

 今日ここに参加できる身に余る機会に感謝しています。私の父が「歴史を知り、過去の出来事を理解するには、その場へ行って実際に見なければならならない。響きを体験し、生き残った人々の言葉に耳を傾けなければならない」と、かつて私に言ったことがあります。それで私は今日ここにやってきました。みなさんの声を聞き、お顔を拝見し、そして私は胸がいっぱいです。初めて広島と長崎を見るのは辛いことです。ここで起きた身の毛のよだつような被害と苦痛について何十年もの間いろんなものを読んできたのですから。今日では、二つの都市ともとても活気ある元気な町となっています。人間というものは、想像を絶する悲劇をも克服できる信じられない強さをもっています。そして、こうした都市の再建は、生き残ったすべての人々の強さを象徴しています。

 私はオーストリアのウイーンで、この美しい都市のほとんどを破壊し尽くした戦争の数年後、生まれました。でも、建物の再建より生活の再建の方がより困難なのです。家族は悲惨な状況でした。姉も1945年に生まれましたが、多くの場所で多くの命を奪った同じ戦争のために亡くなりました。

 ウイーンで私が通った学校には、すばらしい先生がいました。彼女は世界について自分の持っているすべての知識を分け与えることに熱心でした。ある日、彼女は学校にきて、私たちの援助を必要としている重い病気にかかった一人の少女の話をしてくれました。彼女は美しい色紙を持ってきて、折り鶴の作り方を教えてくれました。教室中がきれいな色紙の折り鶴でいっぱいになる頃には、いくら折り鶴を折っても少女の命は救えないのだということは問題ではありませんでした。でも私たちは学んだのです。決してあきらめないこと、周りの美しいものに目を向けること、そして罪のない子供たちを傷つけないためにできる限りのことをしなければならないと。

 数年後、私は広島のシンボルとして世界中に知られている原爆で爆撃された建物が、ウイーンにある同じような建物の設計者であるオーストリア人のデザインによるものだということを知りました。その建物の中で私が参加したきれいな催事は、私の子供の時代のなつかしい思い出となって残っています。そうなのです。人間の相似性を理解するためには似たことを体験しなければならないのです。大切なのは相違ではなく、私の先生が私と分かち合った知識なのです。つまり、各人には歴史から学び、善い行為は必ず報われ、悪い行為はいつかは暴露されることを学ぶ責任があるということです。簡単に言えば、私たちが学んだのは、禎子が大人になるまで生きられるような世界に向けて行動するということでした。

 いま私は米国で、放射線汚染で死ぬと知らされていない犠牲者に囲まれた社会で暮らしています。放射線を浴びたことが分かったときには、手遅れということがしばしばです。小児の甲状腺ガンでは、アメリカは世界で最も高い数値を示している国の一つです。高度の放射性降下物に汚染された地域で生活していた人たちは、健康診断を受けろと言われたこともなく、警告すら受けていません。多くの人が、自分に何が起こったのかを決して知ることもないまま、亡くなっています。彼らはその苦しみが、誰の、何の責任によるものなのか、一度も告げられたことはありません。放射線被曝の影響を隠し、口を閉ざさせるために莫大な金が使われているからです。私は毎日のように、病気や被害について被害者から悩みを聞かされています。彼らはほぼ1000回に及ぶ核実験の放射線により家族が病気になり、死んでいくことになるとは全く何も知りませんでした。広島に始まったことはまだ終わっていないのです。3年前、私はSERV(放射線被害者支援教育の会)を結成しました。主に私たちは、これまで無視され続けてきた人々、互いに交流し、悩みを語り合うの場もない、援助を得る方法についての情報も持たない被ばく者たちの話に耳を傾け、援助しようとしています。

  アメリカ政府は被害者の苦痛や貧困の軽減する措置を殆どとっていません。ユタ州風下地域の住民、兵器施設で働く労働者、ウラン鉱山労働者、そして1990年の退役兵士など一部の被害者への補償法が制定されました。しかし、それも医療費用をカバーするのではなく、立派な自動車一台が買えるほどの補償金をたった一回もらえるだけです。放射線被曝との関連が明確である多くのガンや病気も認定から除外されています。亡くなった人には、遺族がいなければ補償はありません。「補償」区域から1マイル外にいたというだけで、なにももらえないのです。補償を待っている間に多くの人々が亡くなっています。認定手続きに何年もかかるからです。認定申請手続きに関する情報は手に入りにくく、あきらめて何の援助も得られない人がほとんどです。働けず、かさむ医療費が原因で多くの人が破産しています。彼らの子供たちは、お金がないがためにより高い教育を受けられないということもしばしばです。彼らは、祖父母も早く亡くなり、死んだ友人を恋しがり、拒絶され無視されているという気持ちを持ち続けるのです。

  世界一裕福な国の政府は、未だにやらなければならないことをやろうとしていません。求められていることはたくさんありますが、何よりも放射線医学上の疾病の治療をすべて無料化し、そして無料医療が最優先されなければなりません。次に、何が行われたのかについて、国民を闇の中に閉じこめておくべきではありません。広島と長崎については全世界が知っていますが、アメリカ西部でなにがあったかはいまだに隠され、ごまかされており、決して共通の認識とはなっていないのです。これを変えなければなりません。将来的には、真実を隠し通し、罪のない男女や子供たちを意図的に傷つけることはより困難になるだろうと思っています。今日の通信技術は強力な手段です。新しい千年紀を迎え、真実と歴史を広め、何度も繰り返し、「友好的な」原子爆弾の嘘を信じる人が一人もいなくなるまで、語り伝えることが非常に重要になるでしょう。第三に、家族にとっては奪われたものを返済させることが必要です。亡くなった人は取り返しがつきませんが、失った所得、葬式などの費用、そして突然の死亡や疾病による損害の補償は完全に実行可能であるし、当然のことでしょう。いかなる者も他人を傷つけることによって財政的な利益を受けることは許されるべきではありません。

 私が今日、この会議に参加しているのは、人間は事態を変えるために何かできるし、やるだろうと信じ、人類にとって最もよいことをするのは私たち1人1人だということを信じ、そして、将来、よりやさしい、より人に温かい世界となることを信じているからです。みなさん、会う人に伝えてください。被害や苦しみは長崎で終わったのではないのです。オーストラリアや、マーシャル諸島やカザフスタンで続いているのです。今日、被害はパデューカ、オークリッジ、ハンフォード、サバンナリバー、ファーナルド、ロッキーフラッツ、ポーツマス/ピクトン、マウンド、アーマリロ、アイダホフォールズ、リバモア、ネバダ、そしてユタでいまだに続いているのです。核爆弾は、1人、100人、1000人、1万人、10万人の死という数字にとどまらず、その被害は何百万もの人々に及ぶことをみんなが知る日はそう遠くないでしょう。

 かつて、私の先生は核爆弾で破壊された日本の美しい都市の話をしてくれました。今日、同じように被害にあったアメリカの土地や人々のことを私たちがみんなに語る番です。放射線はどんな国でもその国境内にとどまらないこと、そしてその影響はまさに世界的であることを一人ひとりが理解して、はじめて原爆のない世界を作り上げるチャンスは本当に現実のものになることでしょう。



『戦後日本政治・外交データベース』
国連総会で日本政府代表が行った演説

[演説名] 国際連合総会本会議における一般討論演説
[演説者] 宮澤喜一外務大臣
[演説場所] 国際連合第30回総会本会議(ニューヨーク)
[演説年月日] 1975/09/23
[出典] 外交青書20号,61−66頁.
 
[全文]
議長
 私は,日本政府代表団の名において,貴下が国際連合第30回総会議長に当選されましたことに対し,お祝いを申し上げます。
 国際政治に関する貴下の卓越せる識見と豊富な体験が,この記念すべき総会を第7回特別総会同様実り多きものとすることであろうことを確信しております。
 この機会に私は,前議長プーテフリカ閣下に対し,衷心より感謝の意を表します。閣下の優れた手腕により多事であつた第29回総会及び第7回特別総会も成功裡に幕を閉じることができました。同時に私は,クルト・ワルトハイム事務総長に対し,深い敬意を表したいと思います。国際連合に対する情熱とその基盤強化のために東弄西走される閣下の疲れを知らぬ努力に衷心より敬意を表するものであり,これは全加盟国の賞讃に値するものであります。私は,同事務総長の世界平和のための尽力,国際連合の実行性を一層高めんとする精力的努力は全加盟国の評価と支持が得られるものと信じます。
 ここで私は,今次総会で初めて国際連合に加盟されたカーボ・ヴェルデ共和国,サントメ・プリンシペ民主共和国及びモザンビーク人民共和国に対し,心から歓迎の意を表したいと思います。新たに加盟されたこれらの諸国が,今後,他の加盟国と協力しつつ崇高な憲章の目的達成に貢献されることを期待しております。
議長
 この30年間に国際関係の基盤は大きく変化致しました。創立後間もなく顕在化した厳しい冷戦構造に代つて,今や核の均衡の下において大国間の緊張緩和と話し合いが進みましたし,また,新興独立国の台頭と相俟つて,世界の経済政治関係はますます複雑,かつ,相互依存的になりつつあります。
 この30年の間,加盟国が3倍に増加するに伴い国際連合の人類に対する責任は重味を増し,創立時に優るとも劣らない重要,不可欠なものとなりました。
 戦後の幾多の困難を乗り越えて,今日,国際連合は国際の平和と安全の維持を任務とする普遍的な国際機構として,その地位を不動にしております。国際連合は,また,非植民地化の促進,開発途上国の経済社会開発等において,重要な貢献を行つてきており,更に,経済,社会,人権問題の審議に重要な場を提供してきました。
 国際連合は,また,国際貿易,経済開発,環境,資源,食糧等,増大する相互依存関係を反映した諸問題を世界的観点から取り扱うことを可能にしています。
 この30年にわたる世界の変貌にもかかわらず,憲章第1条及び第2条に掲げられた国際連合の目的と原則は毫もその重要性を失つていず,むしろ,一層その意義と重要性を増しているとさえ言えるのであります。この国際連合創立30周年の機会に我々加盟国各自は改めて憲章の目的と原則の原点に立ち戻り,行動すべきでありましよう。
議長
 過去1年における極めて大きな発展の1つは,インドシナにおいて永年の戦火がようやく収まつたことでありましよう。インドシナ地域の諸国が戦後の復興と経済社会開発に一歩を踏み出したことを歓迎し,この地域の安定と発展がアジアの平和の基礎を固めるものであると信ずるものであります。
 私は,新しいアジア情勢の中で,朝鮮半島における平和と安定の維持が極めて大きな重要性を持もつていると考えます。この地域は国際連合がその平和と安定の維持に長きにわたり直接関与してきた所であります。朝鮮の平和的統一の達成が決して容易でない大事業であることは,この歴史が示す通りであります。その故にこそ我々は,朝鮮問題に対処するに当つて,急激な変化をもたらすことにより同地域を不安定な状態に陥れることは回避さるべきであり,逆に平和的統一の目標に向かつて,現実的な段階的アプローチを行うべきであると考えるのであります。今次総会における朝鮮問題審議に関して,我々が共同提案した決議案は,朝鮮半島の平和維持の枠組みを維持しつつ国連軍司令部を解体するため直接関係当事国間の話し合いを呼びかけ,「対決」によらない「話し合い」を通じての合意による解決を目指すものであります。私は,この問題の解決に当つて本総会が朝鮮半島における恒久平和達成のため現実的アプローチを追求するよう呼びかけたいと思います。
議長
 今般エジプトとイスラエルとの間でシナイ半島における新たな兵力引離し協定について合意を見るに至つたことは誠に喜ばしいことであります。
 交渉が多くの困難な局面を経て,遂に合意に至つたことは中東における公正かつ恒久的平和への一層の前進に大きな希望を抱かせるものですが,これは同地域に平和を実現しようとする関係当事国の決意及び仲介に当つたキッシンジャー米国務長官のねばり強い努力のたまものに他なりません。
 わが国としてはこれら各国の態度及び努力を高く評価するものであります。しかし,いまだに未解決の多くの問題が残されています。わが国としては関係諸国がこれら諸問題の平和的解決のため,具体的にいえば,安保理決議338に従い安保理決議242が早期かつ完全に履行されるよう引き続き努力することを強く求めるものであります。この点に関するわが国の基本的考えは,中東問題は話合いにより解決されるべきであり,また,次の諸原則が遵守されるべきであるというものです。即ち,第1に武力による領土取得は認められず,従つてイスラエル軍は1967年の紛争において占領した全ての領土から撤退しなければなりません。第2にイスラエルを含む全関係諸国の生存権が尊重されるべきであり,更に,公正かつ永続的な中東平和達成のためには,パレスチナ人の正当な権利が国連憲章に基づき承認され,尊重されなければなりません。
 わが国は,中東紛争がこれら諸原則に従い一日も早く解決され,同地域の人々に公正,かつ恒久的平和が樹立されるよう祈念するものであります。それまでの間,われわれが国連難民救済事業機関(UNRWA)を通ずる人道的援助に協力を続けていくことは,言うまでもありません。
議長
 この1年間における南部アフリカ情勢の展開は画期的であります。国際的支援を得た非自治地域住民の民族独立運動は,ポルトガル政府の非植民地化政策と相俟つて,幾つもの輝かしい独立をもたらして参りました。この過程で,国際連合が極めて重要な役割を果たしてきました。しかしながら,南ローデシア,ナミビア及び南アフリカのアパルトヘイト問題については解決への明るい兆しは見られず,また,アンゴラ情勢も依然として不安定です。
 私は,南部アフリカにおいて残されたこれら政治的課題の解決を実現すべく,国連加盟国は国際連合の内外で,一層の努力を払うべきであると信じます。わが国は従来より一貫して植民地主義,人種差別主義反対の立場をとつており,関係諸国,特に,周辺のアフリカ諸国がそのために行つている絶え間のない努力を支持するものであります。わが国は,また,南ア共和国政府及び南ローデシアの白人少数政権は国際世論がいかに厳しいものであるかを冷静に認識し,南部アフリカ住民自身の真の幸福のため多大な努力を行うようわが国としても強く要望するものであります。
議長
 国際連合は,過去30年にわたり,軍縮討議のための普遍的常設フォーラムとして大きな役割を果たしてきました。しかしながら,この間国際連合の努力とは裏腹に,核保有国の数は増えており,また核実験やその他の軍備競争が続けられてきました。国際連合の活動に関する本年の年次報告序文の中で事務総長は,核拡散の危険が増大しつつあることを指摘し,真に有効な軍縮についての合意を得るため交渉する努力を強化するよう訴えていますが,私も,この指摘に共感するものであります。
 さる5月に開かれた核兵器不拡散条約再検討会議において,核兵器不拡散条約体制の強化維持を謳つた最終宣言が全会一致で採択されたことは,核兵器不拡散条約体制の強化にとり一つの成果として評価されるべきでありましよう。しかしながら,この会議において,わが国をはじめ多くの非核兵器国が,核軍縮の分野において核兵器国が今後特段の努力を払つていく必要があることを強調いたしました。
 ここで私は,目下米ソ両国間で交渉中の戦略兵器制限交渉新協定を含む核軍備管理及び核軍縮措置及び包括的核兵器実験の禁止等の実現につき,核兵器国が今後一層努力を行うよう再び強く訴えたいと思います。また,部分的核実験停止条約,核兵器不拡散条約等の軍縮措置に参加せず核実験を続行している核兵器国もかかる軍縮措置に参加し,誠実に軍縮を進めていくことを重ねて強く訴えるものであります。
 平和目的核爆発の名のもとに核のより一層の拡散を招来することも防止しなければなりません。私は,今後国際社会が平和目的核爆発をいかに規制していくべきかについて軍縮委員会をはじめあらゆる国際フォーラムにおいてそれぞれの専門的知識を結集しつつ鋭意検討を進めるよう今次総会が指針を与えることを強く要請するものであります。核爆発の平和的応用のための有効かつ合理的な国際レジームが設定されるまでの間全ての国は平和目的核爆発を自制すべきであります。
 日本国政府は,核不拡散条約批准のための承認案件を国会に提出いたしております。私は,わが国ができるだけ早い機会にこの条約を批准し,核拡散防止のための国際的努力に名実ともに参加することができるよう,引続き努力していく所存であります。
議長
 開発の問題を含む国際経済問題は,今日において世界の平和と安全の維持と並んで,国際社会が直面している重要問題であります。
 この問題については,本総会の直前に開催された開発と国際経済協力に関する第7回特別総会において,日本代表はわが国の基本的立場を明らかに致しましたが,私は,同特別総会において,この分野における今後の在り方につき広範な方向づけが行われたことを心より歓迎するものであります。
 近年わが国を含む世界各国が,景気後退,インフレーション,国際収支難に直面し,なかんずく,多くの開発途上国の経済的諸困難が危機的なものになつております。
 わが国は,開発途上国の不満を十分理解し,一層の経済的安定と発展をめざすその熱望を支持するものであります。
 この関連において,開発途上国国民の生活条件の改善及び経済社会開発は,すべての国による一致協調した行動を通じてのみ達成可能であることを指摘する必要があると思います。世界経済が縮小均衡にいたるような状況を回避すべく,各国が最善の努力を払うことがまず必要でありますが,同時に先進国・開発途上国を問わずすべての国が,よりバランスのとれた,かつ,衡平な世界経済関係の創造に向かつて着実な前進を図るべきであります。我々は世界経済の現実を客観的に踏え,今月初めに開始した建設的な対話を維持していかねばなりません。わが国としても,第7回特別総会を支配した対話と協調の精神に意を強くしつつ,第4回国連貿易開発会議を含め今後行われるこの問題に関する国際会議において具体的な成果があがるよう今後とも努力していく所存であります。
議長
 開発の問題はもとより経済の分野に限定されるべきものではありません。社会開発の広範な分野,いな人類の幸福に貢献するあらゆる活動の分野を包括するものでなくてはならず,私共もこれらのすべての分野について創造的理解を深めるべきであります。この関連において最近東京に開設された国連大学が本格的にその活動を開始しようとしており,まもなく全人類のための研究活動を行うため全世界からの学者によるネットワークを組織しようとしていることは喜ぶべきことであります。私は,国連大学に対し,全加盟国の積極的な支持が得られることを心から期待するものであります。
議長
 以上私は国際連合が当面する現下の幾つかの個別的問題に関するわが国の考え方を述べて参りましたが,最後に,創立30周年を迎えたこの機に私は国際連合の在り方につき,機能強化の観点から,わが国の考え方を述べたいと思います。
 第1は,加盟国の普遍性の問題であります。
 30年前,51の原加盟国をもつて発足した国際連合が,現在,141カ国を擁するに至り,世界の殆どの国家,殆どの人種・宗教・イデオロギーを網羅する程に成長したことは,国際連合が憲章により託された広範な責任を効果的に遂行することに貢献し,また国際連合の実効性を一層高めてまいりました。私は,国際連合が今後とも真に代表的な国際協調の場として在り続けるためには,かかる加盟国の普遍性を確保することが望ましいと確信しております。かかる見地から,加盟国の地位が憲章の義務を履行する意思と能力を有するすべての平和愛好国に開放され続けることが必要であると考えます。
 第2は,国際連合の意思形成と履行の問題であります。
 加盟国が140を越え,その扱う分野も多岐にわたる今日,個々の問題解決にいかに加盟国の協調を確保し,現実に決議をいかに履行していくかは単なる知的関心事ではなく,国際連合の存在意義にも触れる重大な問題となつてきております。
 国際連合としての意思形成の過程においては,直接関係国が対話と協調の精神に基づいて問題の実効的,かつ,相互に受諾可能な解決を目指して真摯な努力を行うことにこそ国際協調の真髄があるものと理解すべきでありましよう。この意味で,閉会したばかりの第7回特別総会は勇気づけられるものでありました。加盟国のねばり強い協力的態度により,同特別総会では,多くの重要かつ困難な問題についての合意文書がコンセンサスで採択されました。このような事実は,国連の将来の在り方並びに国連のみが果たし得る建設的な役割につき希望を持たせるものであります。
 第3は,年々累積していく財政赤字をどうすべきかという問題であります。わが国は,かかる財政赤字により国際連合の有効かつ円滑な活動が阻害されることを憂慮し,昨年率先して自主拠出を行いました。これは問題の根本的解決への第一歩となることを期待してのことでありましたが,後に続く国が少なく今もつて問題解決への見通しが立つていないのが現状です。私はこの機会に加盟各国,特に国際連合の財政を支える主要諸国が建設的な協力を行うよう,重ねて要請したいと思います。一方,通常予算についていえば,活動分野の拡大に伴つて年々予算規模が大型化する傾向にありますが,財政の効率的運用に一層の努力が払われる必要があると思います。
 最後に現行憲章の枠内での改善及び憲章のレビューを通じての国際連合の機能強化の重要性に言及しておきたいと思います。わが国としては,創立30年にして国際連合憲章に関するアド・ホック委員会により具体的作業の第一歩を踏み出した憲章再検討を含む国連の在り方の検討が建設的な成果を生み出すことを切に希望するものであります。
議長
 わが国は国際連合の活発な加盟国として,軍事大国への途を自ら排し,諸国民の公正と信義に信頼して自らの平和と安定を確保する途を選んで参りました。この平和主義,国際協調主義は,わが国の国際連合への協力政策の源泉でありますが,かかる政策は,過去,現在そして将来にわたる一貫したわが国外交政策の主要な柱の1つであります。けだし,我々は国際連合を国際協力の推進並びに世界平和の達成のための核心をなす国際機構であると考えるからであります。この記念すべき国際連合創立30周年に当たり,私は,わが国政府及びその国民の名において,わが国が国際連合の原則を守り,引き続き平和及び国際協調に徹する覚悟であることを確認し,他のすべての加盟国と手を携えてこの不可欠の機構を強化し,我等の世代の願いを達成する一層効果的なものとし,将来の世代により良き世界,一段と平和な世界をもたらしたいとの夢と希望を実現するための努力を倍化する決意を述べて,私の演説を終えたいと思います。
 御静聴ありがとうございました。