44435 反原子力発電闘争の歩み

 (最新見直し2007.7.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後日本の反戦平和運動は、原水禁運動に関連して新たに原子力発電をどうみるかという問題に直面し、抗議運動を組織していくことになった。この問題の要は、1・原発や再処理工場からでてくる放射性物質汚染いわゆる「死の灰による環境汚染問題」、2・現代科学が危険放射性廃棄物の最終的処分能力を持っていないのに開発を押し進めることへの警鐘にある。

 日本政府は、「日本の原発は25基に達し、発電能力1827万キロで世界第4位となった」と自慢するが、使用済み燃料の再処理問題、高レベル廃棄物の処理、低レベル廃棄物の処分などいわゆる「ダウンストリーム」に関してはまったくお手上げのままこれを押し進めるのは狂気の沙汰と云うべきであろう。今後、原発が増え、その稼働が長びいてくれば、この問題はいよいよ深刻な難問になっていくに違いない。

 ところが、この問題を廻っても、「原水禁」と「原水協」が対立した。「原水禁」が反対姿勢を打ち出したのに比して、「原水協」はむしろ協力的姿勢を採った。政府の原発政策を容認し、「民主・自主・公開の原則が守られればこれに賛成する」という態度をとった。しかし、それは、政府・電力資本の原発政策を裏から容認するもの以外の何物でもなかった。

 宮顕ー不破系日共党中央が日本左派運動に果たす役割がここでも透けて見えてくる。

 2006.5.22日 れんだいこ拝


 「反原子力発電闘争の歩み」は次の通り。「原水禁運動の歩み(2)」その他を参照する。

 アメリカのノーベル賞受賞者ライナス・ポーリングは、「核実験でつくられた放射性物質が人類に大きな遺伝子的損失をもたらす」と判断し、アメリカの原子力委員会(AEC)の核実験を強く批判した。ソ連のサハロフ博士も、自分たちのつくりあげた水爆の実験が人類に被害を与えていることに責任を感じ、反核運動に乗り出していくことになった。

 原水禁が、反戦平和運動の観点からの原水禁運動のみならず、核の放射能汚染それ自体を問題に採り上げ、本格的な運動を取り組み始めたのは1969年からである。反原発の市民運動が、原潜が寄港し、放射性物質が港湾を汚染する危険性、原潜が放射性物質を海水中に放出していることに対して抗議運動を開始し、反原発の運動に着手した。原潜が海水中に放出した放射能は、たとえ微量であって食物連鎖を通じて濃縮され、生態系へ被害をもたらす。と同様に、原発もまた放射能による環境汚染の元凶となる危険性を十分に持つと判断した。

 この頃、日本列島各地に原子力発電所が強行的に建設されていった。当時、プルトニウムの危険性などをまったく無視して、再処理工場計画や高速増殖炉(実験炉)の建設計画が進められていた。稼働する原発がふえ、その使用済み燃料の再処理過程が進めば、膨大な余剰プルトニウムが生じる。プルトニウムを燃料とする次の原子炉(高速増殖炉)が確立されない限り、原子力発電を動かす核物質の流れは回らない。日本の原子力利用の核心となる物質がプルトニウムである。

 この点に着目した原水禁は、反原発運動を盛り上げるとともに、一連の核燃料サイクルに戦略的攻撃をかけるために、プルトニウム・キャンペーンを開始した。A・タンプリン博士やT・コックラン博士は、プルトニウムの恐るべき危険性に警告を発しており、「わずか数グラムあれば3億人に肺ガンを発生させる危険がある」として、「プルトニウム防護基準を10万倍きびしくせよ」と主張した。

 現在日本での計画されている原発は、1・安全性が立証されておらず危険である。2・たとえ事故がなくとも日常運転で生じる放射性物質の環境放出自体危険である。3・放射性廃棄物の処理方法もない、ことを問題にして反対運動を進めることになった。各地の住民運動間の「情報連絡センター」的役割を果たすとともに学習会や活動者会議などを開き、反原発運動の輪の拡大に努めた。

 1971年以降、反原発のスローガンが、夏の原水禁世界大会の主要なスローガンの一つとなった。「原水禁運動の歩み(2)」は次のように述べている。

 「だが、この運動は集会やデモだけで片付くものではない。地元における住民の強力な反対運動がなくてはならないし、この住民運動と協力することなしには発展しない。こうして、各地域に発生してきた地元反対同盟との協力・提携が、反原発闘争の組織方針の基本となる。

 さらに反原発闘争においては、原発に関する知識、放射線障害に関する知識、核分裂とは一体なにを意味するかという一定の理解をもたなくてはならない。なぜなら、政府や電力はいわゆる専門家を動員しデタラメな数字を並べ、一方的な理屈でその安全性を主張してくる。国民一般や僻地の住民たちはこれでゴマ化されつづけてきたのである。革新系の地方議員すらこのゴマ化しにのって原発誘致運動すらしてしまったのだ。この政府・電力のゴマ化しの理屈を見抜き、これに反論する知的能力を蓄えなくては、運動はできない。ビラ一つ書けなくなる。

 こうして原水禁は、各所で反原発の学習会を開き、理論的武装のためのパンフレットを発行してきた。あるいは学者・専門家などの協力をえて理論的活動にも手がけてきた」。

 該当地の各県原水禁からも問題が提起されてきた。1969年の柏崎集会をはじめとして、1970年の活動者集会(茨城・東海村)、1972年の活動者集会(敦賀市)を経て「原水禁」としての反原発闘争の方針が固められていった。反原発運動が拡大していくうえで原発裁判闘争の果たした役割は大きい。愛媛県伊方町では、地元の原発反対同盟が四国電力の「おどし」や「ダマシ」に屈することなくつづけられてきたが、1973年、「原発の許可取消」の裁判を起した。この裁判闘争では、関西地方の多数の学者・弁護士の支援の下に大々的な論戦を展開していった。法廷における証人たちの証言は説得力をもち、さながら学術論争の観を呈し、政府側証人の護謬や安全審査のズサンさを暴いていった。

 大阪軍縮協はこの裁判への支援運動を開始し、傍聴動員やカンパ運動を展開した。1976年から原水禁世界大会の名で裁判支援カンパが行なわれ、伊方原発裁判は全国的なものへと発展していった。この裁判は1978.4.28日の判決で敗れはしたが、この裁判は政府の原子力行政のズサンさをいかんなく暴くことになった。これと平行して、東海村における反原発裁判も開始され、これまた関東規模での裁判支援運動が展開された。

 1974.5月、原水禁は、原子力委員会に対して、「プルトニウムに関する公開質問状」を提出し、「プルトニウムの被害から国民の健康を守るために『プルトニウム目やす線量』を10万倍きびしくした『防護基準』をつくること」を要求した。

 1977〜78年は、反原発の運動がさまざまな形で噴出してくる。この時期、「核燃料輸送廃止」、「再処理工場のストップ」、欠陥原子力船「むつ」廃船など、反原発・反核の諸運動が盛り上がり、これらの運動がマスコミに報道されない日の方が少ないという状況となった。国際的にも反原発の水位が上昇してきた。1978.9.25日、西ドイツのカルカー高速増殖炉反対集会には6万人が参加した。同年のオーストラリアのウラン採掘反対デモにも8万人が参加している。

 こうしたなかで、1979.3.28日、アメリカ、スリーマイル島(TMI)原発の大事故が起こった。この原発事故は、「給水系が停止」し、「冷却材が喪失」してしまい、炉心全面溶融(メルト・ダウン)の寸前までいった大事故であり、大量の「死の灰」を環境中に放出する結果となった。いまや、このTMI事故は「二重、三重の安全装置があるから起こりえない」とされた大事故が起こりうることを実証した。

 原発の安全性とともに、放射線の有害さについて国民の関心も増大してきた。ハンフォードの核施設で働いていた約3万5000人の労働者を10年間にわたって調査してきたピッツバーグ大のマンクーゾ博士たちは、低線量被ばくとガン発生の間には明らかな因果関係があるとして、ガン発生の「倍加線量」は従来の値よりも二ケタないし三ケタ低いと発表した。また、バーテル博士は、核施設の多いニューヨーク州では、ガン発生率が他の州より多い(男性2・5倍、女性4・2倍)ことをつきとめている。

 1980年になると、原発で働く労働者の放射線被曝問題がもはや放置できないものとなりはじめてきた。このころ発行された「原発ジプシー」や「被曝日記」などはその深刻さを証言している。

 「原水禁運動の歩み(2)」は次のように述べている。

 「原発の放出する放射能の環境汚染も住民の不安のタネであったが、これに関してはわが国ではユニークな運動がはじめられた。市川定夫埼玉大教授(現在・原水禁副議長)の提唱したムラサキツユ草による環境放射能の測定である。1974年、浜岡原発に取り組んでいた永田教諭は、このムラサキツユ草を原発周辺に植えて、雄しべの毛の突然変異を観測し、周辺の放射能が中部電力の発表(線量目標値年間5ミリレム以下)に反して、それを上回っていることをつきとめたのだった。原発推進側の発表する数値は信頼できるものではなく、放射能の環境汚染は確実に進んでいることがわかった。いまやこのムラサキツユ草による測定運動は、浜岡をはじめ、島根、高浜、大飯、東海村など各地にひろがり、毎日、放射能による環境汚染を暴きつつあるのである」。

 1980年、政府は、原発に対する国民の不安や原子力行政への批判の高まりを受け、従来の強行的買収的原子力行政を若干修正し始めた。「公開ヒアリング」導入もその一つである。だが、政府の採用した「公開ヒアリング」とは、1・予め陳述人を選定し、2・回答に対する再質問を禁じ、3・討論を避けるという「意見のいい放し方式」でしかなかった。つまり、「原発を設置することを予め決めておき、この結論をくつがえすことのできないヒアリング」だった。この「おしきせまやかし公開ヒアリング」に対する反対運動が組織された。

 現在、政府や電力側は、「下北半島にウラン濃縮、再処理工場、低レベル廃棄物貯蔵施設を設置する」という計画を発表したり、北海道幌延に「高レベル廃棄物の施設をつくる」ことを打診しはじめている。「ダウンストリーム問題」が未解決なままの政府行政の裏に何があるのだろうか。原子力利権は当然として、「国際ネオ・シオニストによる日本民族溶解政策」まで視野に入れないと解けないのではなかろうか。 

 1982年、全国各地に草の根的な脱原発グループが誕生し活動を開始していた。「ジョン・ウェインはなぜ死んだか(82年)」、「東京に原発を!(83年)」などの著者である広瀬隆氏の主張も広く知られるようになった。

 2006.5.22日 れんだいこ拝





(私論.私見)