人形峠哀史 |
(最新見直し2007.7.29日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
日本最初の原子力発電センターとも云うべき人形峠の原子力燃料精錬史について確認しておく。「人形峠環境技術センター」その他を参照する。「人形峠」は、中国縦貫道の院庄インターチェンジで降り鏡町−倉吉方面に向かう岡山県鏡町・上斎原と鳥取県三朝町の県境に位置する山奥に有る。 2007.8.12日 れんだいこ拝 |
【人形峠の原子力燃料精錬史その1】 |
1954年、原子力予算が成立し、日本国内でのウラン探鉱探しが始まった。 1955(昭和30).1月、通産省工業技術院地質調査所により、岡山県鏡野町上齋原(旧上斎原村)の人形峠でウラン鉱脈が発見された。県境の峠は「人形峠」と名付けられ、一帯の鉱山を総称して「人形峠ウラン鉱山」と呼ぶようになった。 1956(昭和31).8月、原子燃料公社が設立された。人形峠鉱山の運営は新たに設立された原子燃料公社に任された。 1957(昭和32)年、ウラン探鉱のための探鉱事務所として発足。 1959(昭和34).7月、採鉱試験が開始された。 1964(昭和39).4月、.試験製錬所完成 , 塩化ウラニル製造試験開始。 1967(昭和42).10月、動力炉・核燃料開発事業団設立 。同時に原子燃料公社を解散し,その業務を事業団が継承した。 1978(昭和53).7月、人形峠鉱業所を人形峠事業所と改称。 同7月、ウラン濃縮建設所を設置。 1979(昭和54).7月、岡山県,上斎原村と事業所周辺環境保全協定締結。 1981(昭和56).11月、試験製錬所運転開始。 1982(昭和57).3月、製錬転換施設全面運転開始。 同12月、回収ウラン転換試験開始。 1980(平成2).9月、回収ウラン利用実証試験研究終了。 |
【人形峠の原子力燃料精錬史その2】 |
1990年、、残土を人形峠事業所に撤去する協定書を結んだ。ところが、それまで残土の安全宣言を出していた岡山県は、事業所が峠の岡山県側にあることを理由に、鳥取県からの残土の搬入を拒んだ。動燃も岡山県の反対を口実に撤去を先延ばしし、10年目に入った現在も、残土は撤去されないままとなっている。 1991(平成3).6月、回収ウラン転換実用化試験開始。 1999(平成11).7月、回収ウラン転換実用化試験運転を終了した。 人形峠に於ける原子力研究の成果は、青森県六ヶ所村にある日本原燃(株)のウラン濃縮工場に引き継がれた。 2005(平成17).10月、.独立行政法人日本原子力研究開発機構設立。同時に核燃料サイクル開発機構を解散し、その業務を日本原子力研究開発機構が継承した。 |
【人形峠の原子力燃料精錬被害史】 |
人形峠に於ける原子力燃料精錬による被害は次のように報告されている。「蔵田計成氏の問題提起、ウラン研究その2」に詳しいのでこれを参照する。 |
(私論.私見)