ウェブサイトの意義と効用につい

 (最新見直し2007.8.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
  「ウェブ著作権問題」を論ずる前に、ウェブサイトの意義と効用について論じておく必要を感じたので、本日ここにサイトを設ける。

 一体、ウェブサイトにはどのような社会的意義と効用があるのか。これを思索する者が少ない。人はそれぞれ銘銘の使い方をしており、どれが絶対と云うものではない。それぞれに有益な使い方があるわけで、それはそれで良い。但し、決定的に避けて通れないものがあり、それは次のことである。

 れんだいこがウェブサイトで扱うのは、1・貴重情報の掘り出しである。いろんな形で入手されるのだが、まずは閲覧、読み取り、その中でお気に入りのものを転載する。いずれ検討してみたいものも転載しておく。2・隠された情報の掘り出しである。貴重情報と重なる部分も多いが、公開されていない貴重情報と言い換えることができる。これを転載し、世に知らしめる。3・歴史秘話の掘り出しである。貴重情報、隠された情報と重なる部分も多いが、公認化されていないが真実らしき貴重情報と言い換えることが出来る。ウェブサイトには、各自銘銘がその能力・気質・関心度により情報を取捨選択し、これらを晒す楽しみがある。ウェブサイトから、これらの楽しみを取り上げてはいけない。

 れんだいこは、これらの作業をを経由して持論を推敲し表現しサイトアップする。己が読み直し書き直すためでも有り、誰かに読んで貰いたいためでもある。これを誰かが同じような方法でやれば持ちつ持たれつということになる。認識と云うものは、こういうやり取りを通じて精度アップする。人の頭は頑迷で、対話弁証法抜きには鍛えられない。

 ウェブサイトの社会的意義と効用はこのことにあるのではなかろうか。この意義と効用を踏まえぬままのウェブサイト活用は仏作って魂入れずに等しい。れんだいこがなぜこのことに触れるのかと云うと、ウェブ著作権論、引用・転載論に関係してくるからである。ウェブ著作権論、引用・転載論の際に、 ウェブサイトの社会的意義と効用を弁えぬままの規制強化論は有害と思うからである。これの判じ方が、ウェブサイトの著作権をどう認めるのか認めないのか、引用・転載をどう認めるのか認めないのかに大きく関係してくるということである。

 これはいわゆる法哲学、思想的な範疇に属する。この分野が滅法弱いのが日本的自称知識人の特質である。彼らは特に、幕末維新以来のネオ・シオニズム的偏狭特異学問に染められ、元々がオツムが弱いところをますます弱くさせられた経緯が認められる。少し学べば分かるが、幕末期ないしはそれ以前の知識人の方がはるかに知的に逞しい。

 そういうへなちょこ知識人がネオ・シオニズム的偏狭特異学問の虜囚になった結果、オツムが弱い上に気難しさを植えつけられ、社会的に有害な方向に人々を煽るという手の付けられない痴態を演じている。著作権の強権化も然りで、これにより我が社会の文明ゾーンは爬行的にさせられつつある。

 この風潮に如何に闘うのか、これを議論思案せねばなるまい。とりあえず思いつくままに以上のことを記しておく。


 



(私論.私見)