文書紹介のルールとマナーについて

Re:れんだいこのカンテラ時評その112 れんだいこ 2005/10/18 20:04
 【「靖国神社のそもそもの創建に疑義あり」】

 「靖国神社の由来と歴史について」daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._history.htm

 ティル・バスティアン著「アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘」( 石田勇治他編集、白水Uブックス)の紹介のされ方を見て一言したくなった。仮に「価格: ¥945 (税込) 」氏(以下、「価格氏」と云う)とすると、「価格」氏の紹介の仕方には不愉快なものがある。なぜなら、紹介者は自身のハンドルネームを記しておらず、つまり主体抜きの書物の紹介の仕方そのものが怪文書染みていることにある。

 更に、とかく論争の多い事柄に関しての参考文献の紹介に於いて、主体者「価格」氏が注釈をつけているのは良いとしても、単に本の権威を利用して論証抜きの感想を書き付けているだけてあり、その作法がいただけない。

 れんだいこは、文書紹介のルールとマナーとして、ハンドル名と書評ないしは注釈を為すことが欠かせないと思う。書評ないしは注釈はあまり長すぎずほどほどが良い。短い文でも良い。これが無いと、どういう意味で読ませようとしているのかが分からない。無言の明示と云うのもあろうが、不親切には違いない。次に、書評ないしは注釈を為すにしても、ほどほどには公正で無ければならない。単に結論だけならまだしも、公正そうに装って結論を一方的に書き付けるのは卑怯姑息だろう。れんだいこはそう思う。

 これに伴う記憶を蘇らせる。れんだいこがピークから一年遅れとなった1970年に東京へ出向き、探せど見当たらなくなった全共闘に寂しさを覚えつつも縁あって民青系自治会活動に取り組んでいた頃のことであるが、マルクス主義教本の理解を廻って、あるいは現状分析を廻って、あるいは闘争方針を廻っていろいろ論争しあった時、決まって持ち出されたのが「お前、深まっていないなぁ」だった。

 それを云われるのは辛かった。なぜなら、感性一つで疑問を覚えているだけのことであったから、僅か数冊程度しか読み終えていないれんだいこはひるまざるを得なかったからである。その自称「深まっている」連中が、これ読めよと示唆したのが宮顕の「日本革命の展望」だった。

 民青系全学連の機関紙「祖国と学問の為に」はいつ読んでも腹の足しにならなかった。赤旗読んでも長大饒舌玉虫色見解文に辟易させられるだけのことだった。日共系のは何を読んでも詰まらなかった。論理が繋がっておらずしっくりしなかった。

 れんだいこは当時20歳の頃のことだからして、我が身の社会経験の少なさが疑問を生んでいるのだろうと内向させ、疑問を持ち出して議論することを途中から止めた。そうこうしているうち仁義面での肌合いの違いを感じ、自治会活動を止めサークルへ潜った。今となっては、この時多少本を読んだことが為になっている。そうこうしているうち新日和見事件が起こったが、党員でなかったれんだいこには関わりが無かった。しかし、結局はこの頃嫌気が差して活動を止めた。

 やがて卒業しいわゆる社会人になった。20代、30代、40代は政治を忘れた。50代手前の頃から政治の虫が持ち上がり始めた。恐らく、結局は人は、二十歳代の頃の脳形成が一番性に合っているのだろう。一度は捨てた政治への思いを復活させた。手始めは、長年の疑問だった日共運動の妥当性検証であった。当時、自称「深まっている」連中が推賞した宮顕、その著書「日本革命の展望」から検証していった。

 今れんだいこが云える事は、自称「深まっている」連中が実は少しも深まっておらず、むしろ感性と頭が悪すぎる故に宮顕の「日本革命の展望」を推賞したに違いないということである。れんだいこは今や、あの時と比べて社会的経験も積んでおり、もうこれ以上世の中に揉まれてもさほど得るものはなさそうなところまできている。だから、かってのようにひるむ必要は無い。

 今れんだいこは、あの頃覚えたれんだいこの感性の良さを感じ取っている。あんなインチキでまやかしで二枚舌マルチ舌の運動なぞに付き合えるものか、と憤然として思う。そして、ネオ・シオニズムに虜にされたエセ運動を冷ややかに見ている。不破の最新著作「私の戦後60年」を一瞥している。

 もとへ。こたびの「価格」氏の「アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘」の紹介の仕方に、かっての「お前、深まっていないなぁ」を感じてしまった。実際には、何が云いたいのかは分からないが、恐らくそう云いたいのだろう。

 くだんの書物は、ホロコーストに疑問を持つ者及びその見解に対する批判本のようである。ホロコースト疑問派の見解を列挙し、というかしただけで、本当にそうかどうかも分からないのに「これらは、数々の歴史家、研究者によって、すでに何度も何度も何度も反論・論破されつくしています」と結論させて、「リビジョニストたちは、どんな明確な証拠にも、どんな合理的な反論にも、決して耳を貸そうとしません。間違いを指摘されると平気で話をそらして煙に巻く、卑怯な人々です」と云いきる。

 オイオイ、「どんな明確な証拠にも、どんな合理的な反論にも、決して耳を貸そうとしません。間違いを指摘されると平気で話をそらして煙に巻く、卑怯な人々です」とは、マジでリビジョニストたちかよ。お前たちの方ではないのか。こういうのを一般に「ブーメラン言辞」と云う。廻り回って自分のところに舞い戻ってくるという訳だ。

 何なら今、「阿修羅」に「ホロコースト版」が出来ている。疑問派ないしは否定派のオーソリティー西岡氏と木村氏が待ち受けている。そこで議論バトルすれば良いではないか。なぜ出向かないのだ。まさかそういうサイトがあるのを知らぬ訳ではあるまい。

 れんだいこが知る限り、「否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだと述べています。私はこの意見に賛成です」なる珍妙な論法を振り回して議論を避けているのは、ホロコースト史実派の方ではないのか。

 「無知は罪ではありませんが、無知ゆえに罪を犯してしまうことはあります。それを防ぐためにはただ一つ、正しい知識を身につけること。この本はそのための格好の入門書となってくれることでしょう」と云うが、お気に入りの見解ばかりを求めていくら書物を読んでも、それだけでは無知は治癒しない。むしろ反対弁論の方にも通じねばならない。その上で、各自が己の能力によって見解を磨けば良い。とかく喧騒な分野に於ける学問的とは、そういう態度のことを云うのではなかろうか。

 「ただし、あくまで基本図書であり入門図書であるために、すでにホロコーストについて基本的な知識をお持ちの方にはやや物足りなく感じられる部分はあるかもしれません。さらに深く知りたい方は、ぜひ他の本を手にとってみられることをお薦めいたします」など示唆されるのは、むしろ気持ち悪い。

 物足りなく感じるのなら、物足りるような本を求めればよい。生み出せばよい。あるいは自分で纏めればよい。あるいは、物足りなさの原因をもっと深く探ればよい。

 親切そうな示唆で人を煙に巻くのは良くない。れんだいこが畏敬する木村氏が常々指摘しているのは、「ニセの友は公然の敵よりたちが悪い」ということである。れんだいこもそう思う。

 定番のオチになるが、宮顕ー不破系日共運動がまさにその種のニセの友運動である。これに連れられると脳がスポイルされて体がスポンジになってしまう。所帯は小さくても良い。方針が正しければそれが次第に大きくなるのだ。ニセの友運動はいくらやっても積み木崩しになるだけのことである。戦後60年、ニセの友運動ばかりだから、左派運動が少しも進展しない。

 経済的に裕福なうちはまだしも、これが長期低落、破産したら、そこから立ち上がる能力を持たねばならないのに、ヒラメの目式脳軟化運動ばかりさせられていたらそういう元気も出まい。

 それはそうと、小ネズミ首相のやり方が、あの「排除の論理」は日共特有のそれですねぇ。党中央の云うこと聞かなければ支部廃止だと。マスコミがこれまた当然論でお調子こくから始末が悪い。金王朝批判してるけど、本当に資格があるんかいなぁ。日本は益々政治が劣悪愚昧化している。小ネズミのあの靖国参拝みたかや。まったく、こそこそ小ネズミらしい。行くなら行く、行かぬならいかぬでしゃんとせぇ。

 2005.10.18日、2006.5.30日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)