著作権法の歴史 |
(最新見直し2008.3.20日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
著作権法の概略を踏まえると次に著作権法の歴史を見ていかねばならない。何事によらず「歴史は写し鑑(かがみ)」である。足元がどの流れに位置しているのか知らぬより知ったほうが良い。 増田聡・氏の「音楽「著作権」の誕生―近代日本における概念の成立と流用―」、三浦佑樹氏の「著作権の産業技術史に見る音楽ビジネスの新地平―グーテンベルクからNapsterへ ―」を手に入れた。内容が咀嚼し切れないが、これを参考にしつつれんだいこ風に纏めてみようと思う。 2003.4.20日 れんだいこ拝 |
【著作権法の発生】 |
著作権法の発生過程は検証されるに値する。それまで、文筆家や作曲家は、王室や貴族の支援を受け作品を完成させた。ある時から出版社がこれに目をつけ、僅かの給金と引き換えに排他的独占的販売権を取得するようになった。 これに印刷技術の発達が絡む。1450年、ドイツで、グーテンベルクが活版印刷技術を発明した。グーテンベルクの印刷革命は書籍の大量発行を可能にした。1476年、イギリスにこの印刷技術を導入され、ウェストミンスターに印刷所が設立される。 16世紀以降、イタリア、イギリスなどで出版業者が出版特許を求め始めた。より廉価な普及が可能になると競合が生まれたからであった。1518年、オックスフォード大学の出版物に、大学総長が7年間の特権を付与した。その後、国王の名による特権付与が行われるようになった。 一般書籍のみならず音楽関係での譜面所有出版社も同様であった。彼らが海賊版出版に抗議するところから著作権が生み出されることになった。つまり、著作権は、歴史的には「出版者を保護する為のの出版社の権利」として発生したということになる。この動きは、さほど考究されていないが、ある種のユダヤ商法とも見なせる。 書籍の版権及び音楽の譜面所有出版社は、その対策として管轄する譜面の登録制に向かい、「ある出版社がある著作物を取得し登録した場合、同一著作物を他社が出版してはならない」とする排他的決まりごとを作った。しかし、この規制は弱く、ギルド内の取り決めとは別に次第に国王の出版特許に権利の源泉を求めるようになった。国王側も言論検閲の目的で出版特許を制度化した。その結果成立した独占出版権が17世紀初めには「コピーライト」と呼ばれるようになっていく。 1709年、イギリスのアン女王治世下で、「学術の振興の為に」という請願が受け入れられ、著作権に関する最初の成文法が制定された。「"Statute of Anne"叉は "Copyright Act of 1709" 」と呼ばれる。「第1条 既に書籍を出版した著作者で、且つその版を譲渡していない者、及び版を獲得している書籍出版業者は、1710年4月10日以降21年間、未刊行のものは14年間に渡り印刷の独占的権利を獲得する。違反した者は1シート当たり1ペニーの罰金を科す云々」。実際の成立日時は1710年4月5日である。この年次のずれは当時の英国議会の法的年度の判定方法によるものである。 1793年、フランスで、著作権法が登場した。フランスが市民革命期に入ると出版業ギルドの独占への批判が高まり、出版者達は裁判などの争いに対応するべく、自らのコピーライトを理論的に正当化する必要が生じた。この時援用されたのは、主にジョン・ロックの自然権思想から派生した理論であった。出版社は、著者の精神的労働により生み出された原稿に対して原稿料を支払うことによって独占的出版権を獲得したことの正当性を、社会的自然権として主張した。 ちなみに日本でも江戸時代中期に印刷、出版が盛んになったが、日本ではこうした問題を発生させなかった。れんだいこが私見を述べれば、法を持たなかったことが未開という訳ではなかろう。賢明なる弁えがあったと解することも可能であろう。 |
【著作権の概念考】 |
日本語の「著作権」は明治期の翻訳語である。一般に、日本語の「著作権」は英語では 「copyright」 と訳されるのが常であるが、法理論上は「著作権=
copyright」 とするのは厳密には粗雑である。「 copyright」 は、著作権が包摂する概念の一部に過ぎず、「copyright 外著作権」も存在する。 著作権には、1・作者の作品支配権(仮に「作品的著作権」と命名する)、2・作品の経済的価値対価権(仮に「対価的著作権」)の二つから構成されると考えるべきである。「作品的著作権」はいわば人格権的に構成されている。引用ないし転載時の1・著作者名の公表ないし非公表、2・同一性保持その他から保護される。後者の「対価的著作権」は、いかなる原理や根拠によって運用し分配するかによって、「コピーライト」と「オーサーズ・ライト」の二側面から構成される。これらはしばしば「英米法」と「大陸法」の対立,あるいは「アングロサクソン法」と「ラテン法」の対立として議論される。 英語の「コピーライト」の和訳は「複製の権利」となり、「精神的所有権論」とみなされている。「作品の商品的価値」を主とした対価的著作権論と云える。この理論は、イギリスやその法制度の影響が強かったアメリカで採り入れられた。1709年、イギリスで、精神的所有権論の色彩が強い copyright 保護の法律が成文法として成立した。1790年、アメリカでも成立した。 コピーライトの原理はあくまでも「複製」に関わる経済的利権の配分や調整に発したものであり、情報複製産業内部の秩序維持と国家によるその統制との間で発展してきた法制度であって、「作者の権利」保護とは異なる理念に発している。端的に言えば、コピーライトによって保護されるのは、「作品の価値」よりも「作品の商品価値」である。 仏語の「droit d'auteur」の和訳は「著作者の権利」となり、コピーライトとは違う法理念の流れにある。欧州大陸のフランスではイギリス同様に出版業ギルドが国王の出版特許を得て活動していたが、革命により旧来の出版慣行が一気に破壊された。新たな著作権理念が模索され、「作者の権利」を主とした対価的著作権論が創造され制度化されることになった。18世紀末から19世紀にかけてフランス、ドイツで制定された(1791年、フランス。1870年、ドイツ)。 仏独系の「droit d'auteur著作権」は、「作品的著作権」を重視する対価的著作権と云う事が出来る。作品は作者の人格の表現であり、故に作者が及ぼす作品への支配権は法的に正当化される。その作品から生じる経済的利益を作者が享受するのはもちろん、英米的コピーライトには見られない、作品の改変やその公表、あるいは氏名の表示・非表示などのコントロールを作者に認める「著作人格権」(droit moral)もまた原理的に当然認められることになる。 以上確認したように、「著作権」には英米法的コピーライトと大陸法的著作権の二つの流れから構成されている。双方は、その原理と思想史的背景を異にする。ベルヌ条約はこの流れのものであり、これに加盟することによって始まった日本の著作権制度も、法制度上この制度に分類される。 |
【ベルヌ条約、ジュネーブ条約等の制定】 | ||||||||||||
19世紀のヨーロッパで先進的な著作権制度を整備していたフランスは、小説の輸出国でもあった。ヨーロッパ中で読まれたフランスの作家達の作品は、制度が未整備であったベルギーなどで著作権使用料を払われることなく海賊版を出版され、それがフランスに安く逆輸入されることになった。 1878年、この事態に困惑したフランスの作家達は、国際文芸協会(初代会長はヴィクトル・ユゴー)を設立し、政治家に働きかけるなど国際的な著作権保護条約成立を目指し活動を行った。これがベルヌ条約を生み出すことになる。 1886(明治19)年、「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約、Convention internationale pour la protection des oeuvres litteraires et artistiques」として結実する。ベルヌ条約は、参加各国の果たすべき保護の最低基準を定め、ヨーロッパを中心にした10カ国の調印によって発効した。幾度かの改正を経て現在でも著作権の国際条約として機能している。パリ改正条約が最新のものとなる。ベルヌ条約に関する事務は、全世界の知的所有権保護の促進・改善を目的とする世界知的所有権機関(World Intellectual Property Organization、略称WIPO)が行っている。 条約成立の経緯から、ベルヌ条約にはフランスの「作者中心主義」的な法思想が色濃く反映している。条約の原文は今でも仏語であり、解釈に疑念が生じた際も仏語において確認することになっている。海賊版の取締という経済的利益の保護を目指した条約ではあるものの、その経済的利益保護は「作品についての作者の利益保護」という条約の基本原理から演繹されるものであり、英米的コピーライトとは異なる原理に立つ。 イギリスは当初からこの条約に参加し、徐々に英米法的なコピーライト概念を大陸法的なシステムに調和させていくが、第一回の条約締結会議にオブザーバーとして参加しながら条約に参加しなかったアメリカは、英米法的コピーライト制度を堅持し続けて行く。アメリカが結局ベルヌ条約に参加したのは1989.3.1日。それまでの間約一世紀はベルヌ条約より保護要件が緩和された万国著作権条約や個別の国との二国間条約によって作品保護を行ってきた。 ベルヌ条約の主な原則は、次のとおり。
1952年、ジュネーブ条約(万国著作権条約)制定。 1961年、ローマ条約制定。 1967年、著作権の国際的専門機関としてWIPOが設立される。 1971年、WIPO著作権、実演条約、レコード条約制定。 1996年、朝鮮民主主義人民共和国がベルヌ条約に加入した。台湾は現在もどちらにも加盟していない。つまり、台湾では海賊版は別に犯罪ではないということになり、台湾での海賊版の隆盛はここら辺りに理由がある。 2001年現在北米諸国と西欧諸国はほぼ全てベルヌ条約に加盟している。万国著作権条約にのみ加盟の国(2001年現在、ロシアなど4カ国)では、著作権者の主張によって初めて認められるので、著作権者が主張しない限り著作権フリ−ということになる。 日本は、1899年にベルヌ条約に加入し、ベルヌ条約を基本にした著作権法制となっている。既に100年経過しており、自前の著作権法を制定し見直しをしてきていることを思えば、「著作権を手厚く保護してきた歴史の長い国」ということになる。 なお、違法な(原著作者の許諾を得ない)二次著作物を保護するかどうかについては、ベルヌ条約加盟国の中でも、見解がわかれている。日本は原著作者の許諾の有無に関わらず、二次著作物として保護の対象としている。が、そうではない国もある。 |
【日本に於ける著作権法の発生】 | |||
日本に「著作権」概念を初めて紹介したのは福沢諭吉であるとされる。この時、福沢が指摘したのは英米法的なコピーライト概念であった。1868(明治元)年の「西洋事情外編巻之三」において、イギリスの経済書の紹介の中で彼は「
copyright」 を「蔵版の免許」と訳している。後にこの語は「版権」あるいは「板権」として広まる。 「版権」の語が法規に初めて出現するのは1875(明治8)年の改正出版条例である。その一節を引く。
当時の日本では英米法的コピーライト概念と大陸法的著作権概念の区分はほとんど認識されていなかった。両者は区別されないまま「版権」という語は「著作権」という概念に統合されていくことになる。 1969年、出版条例公布(日本に於ける最初の著作権に関する法律)。 1883(明治17)年、スイス政府から日本政府に送られた当時準備中であったベルヌ条約創設会議への参加招請書をめぐる対応を協議した政府各省間の連絡文書によって確認しておく。 ベルヌ条約の正式名称「Convention internationale pour la protection des oeuvres litteraires et artistiques 」の保護対象をどう日本語に訳すか。外務省が最初に各省に送付した文書は「文学及技術上発明ヲ為シタル者ノ権利」と訳した((明治十七年三月二十六日付文書)(日本音楽著作権協会(編)1990:15))。叉、外務省がこの連絡文書に添えたスイス政府の招請書の訳文では、「文学及美術上発明ヲ為シタル者ノ権利」)(同日文書)(前掲書:同頁)」となっており、「la protection des oeuvres litteraires et artistiques」 の訳が定まっていなかったことが分かる。 内務省による外務省への回答では、「文学及ヒ工芸上発明者ノ権利」(明治十七年五月二日付文書)(前掲書:16)」、「版権」(同日文書)(前掲書:同頁)」となっており、版権とベルヌ条約的な権利(大陸法)が区別されず、同様の権利概念として考えられていたことが伺える。 ベルヌ条約の保護する権利に「著作権」という新しい用語を与えたのは農商務省であった。この「著作権」という新語は農商務省独自の調査によって造語されたもののようである。外務省への回答文書で、「文学及美術ト著作権」、「美術上ノ著作権」、文学及工芸上ノ発明権」、「美術上著作権」(明治十七年五月十六日付文書)(前掲書:17)」なる訳が登場している。 しかし、この新語を政府が統一訳語として採用するには至らなかったようで、外務省のスイス政府への最終回答文書では「文学及美術上発明者権利」(明治十七年六月十六日付文書)(前掲書:同頁)」となっている。 これらの連絡文書に見る限り、「oeuvres litteraires」 を「文学」と訳すことは共通しているが、「oeuvres artistiques」 は「技術」、「美術」、「工芸」とさまざまな訳語が当てられている。これは明治17年当時,保護対象とされる「oeuvres artistiques」が、日本語の言語空間の中に対応概念を持っていなかったことを示している。保護対象についての概念規定が固まらないまま制度の導入は否応なしに進んでいく。 結局、日本政府は時期尚早として1886年のベルヌ条約加盟は見送ることになるのだが、オブザーバーとして前年開催された創設会議に参加し、在イタリア公使館参事官であった黒川誠一郎を派遣してその会議内容を報告させる。黒川は、「報告余編」として、欧米の権利制度事情についての詳細なレポートを外務省に提出しており、その中には彼が試訳した仏語からの関連諸概念の訳例が挙げられている。 この時、「著作物」「著作者」といった概念が日本初出している。この訳例では「droit d'auteur litteraire」 だけが「著作権」に対応し、「droit d'auteur artistique」 は「巧作権」として別の語を与えられ区別されている。黒川が、馴染みのない文化概念に依拠するベルヌ条約の概念体系を、「書かれた文章」と「それ以外」に分け、出来る限り忠実に摂取しようとした姿勢が伺える。 その後、「著作権」という語は、包括概念としての「 droit d'auteur」 の訳語として定着していく。「著作物」、「著作者」も同様に、この海外伝来の新しい権利制度に関わる概念として、「書かれた文章」という「著作」の原義を離れ、現在の用語法で言う「芸術」一般にも適用されるものとして広まっていく。「oeuvres artistiques」をも含む「著作物」概念、「droit d'auteur artistique」をも含む「著作権」概念を誕生させる。
当時の日本政府のベルヌ条約加盟に対する懸念は、翻訳出版に関する問題にあった。西洋思想や技術の摂取の為、洋書の無断翻訳出版がこの頃盛んに行われていたのであるが、ベルヌ条約加盟によってこの翻訳が自由に出来なくなることが議論の的となっていた(結局後のベルヌ条約参加時には、翻訳権と音楽の演奏権を留保した上で加盟することになる)。そのため,droit d'auteur に関する問題意識や議論は,やがて「著作」即ち出版物の経済的な権利問題に照準が合わされるようになり、「巧作権」「巧作物」という概念は省みられることなく廃れ、「著作権」「著作物」に吸収されたのではないかと推測される(。 1894(明治27)年に締結されたイギリス等との通商航海条約において、幕末に結ばれた所謂不平等条約の撤廃の交換条件として、日本はベルヌ条約に加盟することを求められていた。1899(明治32)年、ベルヌ条約に加盟した。 1899(明治32)年、法学博士,水野錬太郎の起草により、日本に著作権法が制定された(1970年制定の現行著作権法に対して「旧著作権法」と呼ばれる)。これにより著作権なる概念が確立した。 制定当初の旧著作権法第一条は次のように記している。
ここでは、「著作権」という語は、「書かれた文章」という「著作」の原義とはあまり関係なく新たな概念として作りなおされ、この新しい権利の保護対象となる文書演述図画建築その他を総称する「著作物 oeuvres」を「複製することができる」権利であるという構えを採っていることが見てとれる。 造語された「著作物」という概念は以上のような経緯で,西洋から導入された法制度によって日本の文化制度に挿入された。あらかじめ存在した文化的な慣習に即した権利体系が成文法によって認知されたというよりも、馴染みのない異質な制度が外から文化に節合されることにより、文化的生産物の取り扱いに関する新たな観念が誕生する。 「著作物」はこの場合、ベルヌ条約の原語にある oeuvres の訳語である。ドイツ語で Werke、英語で works が対応する。しかしこれらの訳語として、こんにちの日本の美学的言説に定着している「作品」は、法的な言語体系の中では「著作物」という造語された制式用語に変換され、馴染みのないよそよそしい法的用語というコノテーションを帯びることになる。美学的な「作品」概念をめぐる思潮が時代を経ていかに変容しようとも、それは「著作物」概念とは関わりがないものと見なされる。「著作権」概念が制度化された時期に支配的だった美学的思潮(独創性を重視するロマン主義的思潮)は法的な概念体系に刻印され、以降の同時代的な美学的言説と交渉をもつことはない。 美学的な「作品」「作者」といった概念体系に寄生しつつ、そこでの論理に還元できない(かのように思える)特殊な法的領域として著作権制度が意識される要因の一つには、以上のような日本での「著作権」概念の生成過程が関わっているのではないか。美学的な議論と著作権に関する議論とがうまく接合されず、法的な用語法をめぐって不毛な解釈論争が繰り返される日本の著作権議論の現状は、その「著作権」概念の起源から既に始まっていたと言える。 1930年、プラーゲ旋風吹き荒れる。(「」で概括する) 1939年、仲介業務法制定。 1970年、著作権法全面改訂。 |
(私論.私見)
鳴門教育大学研究紀要(芸術編)第17巻 2002年
音楽「著作権」の誕生―近代日本における概念の成立と流用―増田聡
4.「芸術」関連諸概念の矛盾
制度が文化に外挿されることによって生じる混乱は,後になって表面化した。出版物の経済的権利保護の仕組みをモデルに,他の演劇や建築,模型などをも保護しようとする法体系である旧著作権法が,現実の音楽実践と概念的な齟齬を起こした例を,1912(大正元)年に起きた「桃中軒雲右衛門事件」に見ることができる。検討してみよう。
日露戦争(1904(明治三十七)年〜1905(明治三十八)年)頃から,それまで大衆芸能の中でも極めて地位の低かった浪花節は,戦意高揚と武士道鼓吹を狙った支配層の後押しを受けて急速に全国で人気を博すようになる。この時期に筆頭のスター浪曲家であったのが桃中軒雲右衛門であった。勃興しつつあった日本の蓄音機産業も,この頃から輸入された西洋音楽のレコードを販売するばかりではなく,長唄,義太夫,琵琶,浪花節などの日本の大衆芸能を積極的に録音し販売するようになり,雲右衛門の浪花節は長らく録音が待たれていた存在であった。
1911(明治四十四)年十二月,ドイツ人リチャード・ワダマンは破格の吹き込み料で雲右衛門の浪花節を録音し,翌1912(明治四十五)年五月に五種類の両面盤として,一枚三円八十銭で三光堂より発売した。この雲右衛門レコードの発売に際しワダマンは(日本初の)独占録音契約を結んだ。契約内容の一節と当時のレコードの広告文を挙げておく。
契約内容「他へは之と同じ物,並に自分が従来公開の席にて演ぜし物は吹込まず。又,新作物とても他へ吹込む場合には,先ず一応三光堂へ照会し,承諾を得し上吹込む」(倉田1979:138)
広告文「蓄音機吹込は一切本人と特約を結び,其著作権はリチャード・ワダマンに譲受,登録済に有之,「象印スタークトン」の商標に異る音譜は必らず偽作品にして,法律上の制裁あるものなるを以て,これを製造,販売,又は購入相成候向はご迷惑出来致候義に付き,特に「象印スタークトン」の商標に御注意被下度候」(注12)
この待望久しい雲右衛門のレコードはしかし,東京音譜会社の社長,島口与茂作らによって発売即複製盤を製作され,約一円程の安価で発売されてしまう。ワダマンはこれを著作権侵害として,損害賠償を求めて東京地裁に島口ら四名を訴え出る。現在であれば,明白な著作権侵害である海賊盤の製作とされるだろうこの事件であるが,当時成立したばかりの著作権法ではそのような法解釈はまだ明確に定まっていなかった。
一審(1912(大正元)年十一月十一日)では原告勝訴,二審(1913(大正二)年十二月九日)でも原告勝訴と,レコードの無断複製は著作権法違反とされたかと思われた。がしかし,この判決に異議を唱える者がいた。荒木虎太郎は『法律新聞』837号にて「蓄音機平円盤の告訴事件を論ず」(1913(大正二)年一月二十日,日本音楽著作権協会1990:127-130に収録)という論説を発表し,雲右衛門事件判決を批判している。
荒木はまず,「著作物」の本質論を展開する。
「クンスト」即ち技芸とは人間の力及熟練より生ずる成果にして成形技芸(絵画,彫刻,料理,水泳などの技芸)及音響技芸(奏歌,音楽)の二種あり「クンスト」即ち「アート」なる語を美術と訳するときは音楽も亦た美術となれど余輩の浅学なる未だ音楽を美術と論定したるものあるを聞かず何れの国に於ても音楽家と美術家とは之を区別し我国に於ても各自独立して認むるが如し(日本音楽著作権協会1990:127)
先程引用した旧著作権法第一条を参照していただきたい。「文芸学術若ハ美術ノ範囲ニ属スル著作物」とは,ベルヌ条約にある「production
du domaine litteraire, scientifique ou artistique」に対応する著作物の定義であるが,この「美術」と訳された
production artistique は音楽を含む概念として定義されていた。佐々木健一によれば,近代の日本語において,現在のような包括概念としての「芸術」とその下位概念としての「美術」といった用語の使い分けは明治三十年代(1897〜)の後半に定着した(佐々木1995:31)。よって明治三十二年(1899)年制定の旧著作権法での文言「美術」は,production
artistique,すなわち現在の用語法で言えば「芸術的制作物」を指すものとして用いられていたわけであるが,大正期に入るとこの概念規定が古くなり,法的な解釈の混乱の元になっていることが見てとれる。
その混乱を糺すべく,荒木は続いて「美術」(芸術)に「音声」が含まれないことを論じる。
美術とは人の力及其熟練により美化されたる有形物を云ひ吾人に美的観念を与ふる無形物を指すにあらずされば美音美食と云ふが如き美字を冠し美的観念を生ずるもの必ずしも美術と云ふこと能はず本問題に於て雲右衛門の音声が美なるを以て美術と云ふが如きことあらば其愚や笑ふべし特に技芸も美術も人為的にして天然的のものとは全く相反す富岳の景は絶美なりと雖も美術にはあらず,雲右衛門の音声は美妙なるも之れ天賦なり人為にあらず(日本音楽著作権協会1990:127)
とし,荒木は浪花節の語りの音調や声が如何に美感を興させるものであったとしても,それをそのまま「音楽(美術)の著作物」と見ることを退ける。美しいもの即ち「美術」という,法文上の語彙からくる俗説を否定し,人為的な美的構造の構築に焦点を当てる荒木の「アート」あるいは「クンスト」への理解は,西洋近代の美学思想史的には正当なものであると言えるだろう(注13)。
…著作者の独創的思想と其成果即ち著作物ありて始めて著作権を生す而して雲右衛門は音楽的著作をなせしやと云ふに楽譜を作り又は作曲せしことあるを聞かず唯だ判官の想像上に於て独創的音楽の著作と認定せられしが如し(日本音楽著作権協会1990:128)
既成の筋書きに従い,それを美妙に語る浪花節の実践においては,著作権法で考えられているような「音楽的著作」は行われていない。故にそれを複製したレコードを複製したところで,「著作権侵害」は起きようがない。法学者荒木は旧著作権法とその背景にある西洋近代的芸術観を厳密に解釈し,複製盤を作った業者の無罪を主張する。
この意見は結局容れられ,大審院は1914(大正三)年七月十六日,歴史的な逆転判決を言い渡した。被告無罪,原告敗訴,すなわち浪花節のレコードの複製は,現行法上では「著作権侵害」を構成しない。もちろん被告の行為は「正義の観念に反する」とされたのであるが,「取締法の設けなき今日にあっては之を不問に付する」(阿部1983:58)と判決文は結論せざるを得なかった。
もちろん,蓄音機産業は大混乱に陥る。無断複製レコードが横行し,新規の吹き込みが大正中期には激減した。一方で,廉売されたレコードと蓄音機の普及には拍車がかかり,日本の音楽メディアの基盤が整備されたのもまたこの頃になるのであるが,蓄音機業界としては面白い筈がない。そのため業界はなりふり構わず法改正運動を展開する。
横田昇一「蓄音機界の死活問題」(『蓄音機世界』第四巻第九号,1917(大正六)年九月,日本音楽著作権協会1990:153-160に収録)は,蓄音機の文化的意義を力説し,複写盤(海賊盤)の蔓延する現状を憂い,法改正の必要性を訴える。
況んや芸術上の立場から観察したならば,書籍は到底音譜(引用者注:レコードを指す)の比でない事は明々白々の事である。音譜は到底文字を以て現はし得ざるの独創を現はし蓄音機は到底印刷術を以て伝ふる事の出来ない独創を伝へるものである。茲に於てか音譜に対する吹込人(若しくは之を承継する製造人)の権利は全く書籍に対する著者(又は之を承継する出版者)の権利と全然其性質を同うし,而かも一段の重きを為すものである事は最早一点疑を挿むの余地がないと断言しなければならぬ。(前掲書:158)
この横田に代表される蓄音機業界からの陳情を受け,衆議院議員鳩山一郎は第四十三回帝国議会(1920(大正九)年)に著作権法の一部改正案を提出する。その中で,雲右衛門事件で被害を受けた蓄音機業者の利益を「著作権」として保護するため,彼は以下のように議論を展開する。
蓋シ著作権ヲ認メラルヘキ文学的美術的又ハ音楽的創作ハ全然新ナル製作ナル事ヲ必要トセス既ニ存在セル著作物ニ対シテ加工ヲ為シタルニ止マル場合ニ於テモ其加工ニ新ナル技術ヲ要スル時ハ之ヲ創作トシテ著作権ヲ認ムヘキコトハ著作法(ママ)カ翻訳者及原著作物ト異リタル技術ニヨリ適法ニ美術上ノ著作物ヲ複製シタルモノヲ著作者ト看做スルニ依リテ明カナリ而シテ既存ノ音楽的著作物ヲ蓄音機ニ写調スルニ当リテハ音譜ノ製作トハ全ク異リタル弾奏又ハ唱歌ト云フ新ナル技術ヲ必要トスルモノナルカ故ニ之ニ依リテ新ナル製作物ノ成立ヲ認ムルヲ正当トス(前掲書:170)
「新ナル技術」を既存の著作物に対して適用することまでもが「創作」とされ,「新ナル製作ナル」著作物に対してと同様「著作権」が与えられる。レコード製作者の利益保護を法制度上に明文化するために,西洋美学的な音楽観は流用・変形され,それは法解釈として制度化される。
著作権法の一部改正は1920(大正九)年に行われている。この改正では第一条で保護される著作物の中に「演奏歌唱」がつけ加えられ,更に第三十二条ノ三として以下の条文が追加された。
第三十二条ノ三 音を機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ他人ノ著作物ヲ写調スル者ハ偽作者ト看做ス
「音ヲ機械的ニ複製スルノ用ニ供スル機器ニ写調」する者とは,ここでは蓄音機業者を指している。即ち,レコード製作者が,録音によってそのレコードの著作権を持つことになったわけだ(注14)。この法整備によってレコード産業の法的基盤は安定し,以降昭和にかけて発展していくことになる。
がしかし,この改正によって旧著作権法は,ベルヌ条約の「作者の表現の保護」という原理からするとやや奇妙な体系になってしまう。とにかく複製レコード業者を違法化することに性急だったため,「演奏歌唱」という,西洋的な「音楽作品」の上演,すなわち利用を再度著作物としてしまい,さらにそれを録音したものまでが著作物,すなわち「作品」になってしまう。通例規範的楽譜を持たず,古いテクストや言い回しが繰り返し用いられる浪花節のような芸能と,現実には規範的楽譜が作品として制作され,それが演奏されさらにレコード化される西洋音楽的な実践とを,同じ法的システムによって包合しようとしたため,「著作物」概念が音楽実践のどのレベルに焦点を置いて適用されるのかが不明確になってしまうわけだ。
そこではベルヌ条約的な「作品の保護」という原理の,実際の適用への適切なレベル分けは顧慮されず,とにかく権利の及ぶ契機を増加させることに主眼がおかれていたと言えるだろう。すなわち,問題となった浪花節が西洋的な意味での「音楽作品」とは異なった文化的伝統にある口承芸能であるにも拘わらず,産業的な要請によって,西洋由来の法システムによる「著作物」概念になんとか収める必要があったからに他ならない(注15)。
以上見てきたように,「著作権」概念は複雑な歴史的経緯を積み重ねてきた。その制度は,西洋的な文化概念をキャノンとして想定しながら,産業的な圧力やメディアの変化などに媒介されて,複雑な例外規定や妥協を織り込んできたものである。故に「作者の権利」との素朴な著作権理解は,英米法的コピーライトにおいてはもちろん,大陸法的な制度にあっても単純には通用しない。
特に日本の著作権制度は,西洋文化や制度との摩擦の中で移植され,現実の文化実践と折り合いを欠きながら手直しされ,文化産業の利害調整システムとして定着してきた制度である。またそれは日本における西洋近代的な芸術諸概念の導入史とも微妙な関連を持っている。
その経緯を考慮せず単に「著作権」=「作者の美的権利の保護」と考える,あるいは喧伝するのは思考停止でしかあるまい。現在の著作権に関する様々な実践上の問題を複雑にしている,このような美学的概念と法的制度の複雑な歴史的関係を解きほぐすことから「著作権」の原理的な再考は開始されなければならない。
The Birth of "Chosakuken" in
Music:
Establishment and Appropriation of the Related Concepts in Modern
Japan.
Satoshi MASUDA
The term "chosakuken" was coined to introduce the
Western idea of author's right(droit d'auteur) in Meiji period. "Chosakuken" is
often translated as "copyright," but "chosakuken" is not the exact equivalent of
the English word "copyright." There is a conceptual and institutional conflict
between "copyright" and "author's right" in the intellectual property
system.
This paper traces the related concepts among official documents in
the Meiji Government, and explains the process that the extended use of the word
"chosaku" of Chinese origin, which means "writings", has been developed. In that
process, the related concepts (e.g."chosakuken", "chosakubutsu") has been
institutionalized in the "chosakuken" law earlier than the terminology of the
Western art in Japanese language. The imported institution of author's right
from the West in the Meiji period has made relation between
"chosakubutsu"(object of "chosakuken") and "works" incoherent. Further, such
legal concepts which lack aesthetic foundations have been appropriated by
economic interests of music industries, therefore, "chosakuken" of music has not
been legal protection of rights of authors, but has become an institution which
coordinates interests of the industries in the name of authors.