囲碁・将棋棋院の著作権非適用精神の正当さについて |
囲碁・将棋棋院の著作権非適用精神の真っ当さについて | れんだいこ | 2004/02/19 |
今のところこんな考察するのはれんだいこだけかも知れない。それは、「全方位著作権者が文明のシロアリであり、その運動が社会文化のガンであり、如何なる文明もこれに汚染されると衰退し始める」ことを的確に認識しているれんだいこならではの卓見であることに拠っている、と思われる。 前置きはさておき、次のことを思案せねばならない。マスコミが図書館が政党が音楽家が彼らの営為にことごとく著作権を主張し、「了解なくして使用利用普及は相成らぬ」などと宣言し始めるならば、日本文化が長らく育んできた囲碁・将棋棋院も同様にその権利を主張しても良きところ何ゆえに為さないか、ということを。れんだいこが思うに、囲碁・将棋棋院は文化というものの伝統についての造詣が深く、真っ当な見識を持っている故では無かろうか。 囲碁・将棋棋院には数多くの専門棋士が居る。彼らの対戦棋譜はそれこそ専属性のものであり、これに権利を主張することはしようと思えば出来る。あるいは新型定石の発明に対して何らかの特権を請求する事も出来よう。なぜしないのか。ひとえに、彼らの知能及び技術の熟練形成が先人達のそれに負っていることを深く知るからであろう。それはひとえに相互の技術練磨あるいは和合に等しく活用されるべき性質のもので、これを育むことを良しとしておればこそであろう。一言で言えば、「お陰さまで」という思想がある、のではなかろうか。 飯の種は別のところで調達すれば良い。対局料、指導料という二つの分野で賄い、その原資を増やす事で懐を肥やそうとする気持ちはあれども、対戦棋譜の掲載に許可が要るとかゼニが要るなどとは要求しない。彼らは、好きな事やってそれで飯が食えればとりあえず最高の本望であり、それ以上の邪な気持ちを湧かさない。仮に棋譜が掲載されれば、多くの者がその棋譜を打ち並べればそれは誉れであってそれに尽きる。 余得で云えば次のような事は考えられる。その誉れが回り廻って、知名人となったその人が仮に著作をものせば売れ行きを増し、それがまた別の新たな収入になる。実力が伴えばそのような技が出来る。それで良いのではないのか。どこに、初手から入り口規制せねばならない理由があろう。この「回り廻っての余得」に自信が無い輩がせこい感覚で権利主張しているだけのことではないのか。碁会所、将棋会所にしても然りである。そういう裾野を広げるところが生まれれば、それを育む事が是であり、その逆のことはしない。 今、「ヒカルの碁」ブームにより多くの青少年少女の愛好家が生まれつつあるが、関係者の多くは手弁当であろう。文化というものの大事さあるいは本質を知っているからではなかろうか。 音楽にしてもそうであろうに。多くの者が愛唱する土壌の中でレコードが、カセットが、CD、著作の売れ行きが増すのではないのか。それを思えば、スナックでカラオケに興じる姿は、むしろ逆に普及に一役買っている訳だから広告宣伝料を戴いても良いくらいだ。カラオケ業者は既に莫大な金額を支払っているというのに。それを逆になぜ末端のスナックでゼニが取られねばならないのだ。解せないこと夥しい。 新潟の老舗ジャズ喫茶「スワン」が、日本音楽著作権協会(JASRAC)により、店内演奏で使われる曲の著作権使用料五百五十万円余りを支払っていないとして、演奏差し止め、楽器、レコードの差し押さえなどを求める仮処分を申し立てられた、などというのは本末転倒も甚だしい。 「店主でドラマーでもある佐藤政良さん(62)とともに店に立っていた妻の冨士子さん(71)が、心筋梗塞で突然帰らぬ人となったのは、二回目の調停を数日後に控えた十一月十五日。『ジャズが好きだし、若い人にも演奏の場を提供したいという思いで、夫婦で何とかやって来た。足が出てもやってきてくれるミュージシャンにも支えられてきたがもう無理だ』と佐藤さん。『店を閉めても支払えといわれている。自己破産するしかないのだろうか』と疲れ切った表情だ」などと聞かされると、胸が締め付けられる。これは著作権に名を借りた公然暴力であり犯罪ではないのか。 これを伝えたのが新潟日報であり、オピニオン記事「ジャズ文化の灯消さないで 老舗やむなく閉店も 演奏使用料が重圧に」であるが、ここにこうして書き付け紹介するのに、新潟日報の許可が要るというのが「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」である。何を馬鹿な、と思うのはれんだいこだけだろうか。 政党も然り。仮に社民党あるいは日共の機関紙記事を紹介すれば、喜ばれることはあっても何ゆえに「黙って掲載するとは何事だ」と叱られねばならないというのだろう。 日共の場合で云えば、戦前の闘士は治安維持法下で特高の目の網をかいくぐり、アジビラを置いては脱兎の如く走り去っていた。その場に居たものは誰にも知られぬように懐深く持ち帰るなり読み合わせしていた。これを広めてくれる人が居れば願ったり叶ったりではないのか。それがあかん、今は逆に恫喝ないしは告訴の対象にされている。一体、れんだいこと日共のどっちが狂っているのだろう。 とか、いろいろ書き付けてみた。これを投稿し公開しておく。 2004.2.19日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)