出版書とウェブ書との相関関係考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこの著作権独白ブツブツ。何でみんな世間を狭くしようとするのかなぁ。ネット生み出しても、その文明の利器の本来の機能を阻害しようとばかりしている。自称知識人たちはある種ネットのラッダイト運動してるんではないかなぁ。 2004.8.25日 れんだいこ拝 |
出版本(仮に「BOOK」とする)とインターネット本(仮に「NETBOOK」とする)の競合関係について考察してみる。通俗的に考えられているよりは案外と相補関係にあるのではなかろうか。 れんだいこは、ある人を知る場合、その人の書庫に並ぶ書籍を見てその人の程度を理解する。書籍が単に多いというだけでなくむしろ如何なる関心方向の如何なる書物を蔵しているのかが興味深い。 それはともかく、インターネットの普及は、従来の書庫革命を起していくのは必死では無かろうか。という意味は、他愛ない内容のものはインターネット情報で十分であるからである。今後、インターネット空間の情報はますます整備されていくことになろう。ということは、今後の書庫には、インターネット情報ないしは「NETBOOK」から選りすぐりのものが抽出されて並んでいくことになるように思われる。これは時の勢いというもので、これに棹差すのはラッダイト運動でしかなかろう。 そういうご時世であるが、「BOOK」は「NETBOOK」に丸ごと吸収されていくだろうか。れんだいこはそうは思わない。なぜなら、「BOOK」には「NETBOOK」では味わえない幾つかの良さがあるからである。手軽に持ち運びができ、何処でも読むことができ、傍線引き、書き込み、めくりが自在だからである。これは「BOOK」ならではのものであり、「NETBOOK」では味わえない。 だとすれば、「BOOK」と「NETBOOK」とは単に対立競合するのではなく、それぞれの良さの棲み分けの中で相補関係を形成することができるのではなかろうか。そういう方向にリードされていくべきではなかろうか。 近時地球資源の枯欠が云われ始めている。「BOOK」の原材料である紙パルプは森林資源と直結している。それらの有限性を考えると、何回も読み直したい最良書が「BOOK」化され、その前段階の情報が「NETBOOK」化されるということで良いのではなかろうか。そういうバランス感覚が望まれているように思える。 付言すれば、「NETBOOK」に親しむ層を圧倒的に生み出すことがひいては「BOOK」購入に繋がり、つまり「量が質を規定する」のでは無かろうか。従って、「BOOK」出版元は、まず活字に慣れ親しむ層の形成へ向くことが商売持続と繁盛の秘訣であり、だしすれば「NETBOOK」を徒に敵視するものではなかろう。 この観点に立てば、ネット情報の通行往来こそもっと目指せということになる。規制の網を掛け合った結果、ネット情報も含めて活字離れが進行しつつあるように見える。それではいかんのだ。一朝一夕には育たない頭脳のシワを増やしていくことが人を図書館へ本屋へ出向かせ、購入に繋がる。これを信じないとあかんわな。 何やら小難しい理屈をこねて、しょうもない駄文の引用がどうの転載がどうの、誰に断ってリンクしただの聞くと、「小人閉居して不善を為す」の例えを思い出す。アホはどこまでいってもアホなんかいなぁ、とか思う。そういうアホに限ってムズカシウしてるわな話も中身も。違うって、思想は往来の為にあるの。限りある命を花咲かして諸事万事有益なことを次代の世代へ繋げていくのが人が生きる意味なの。それを遮断する方向へ知恵を使うのは歴然本質的にアホなの。 人は鶴亀と違って千年も万年も生きられない、稼動人性は僅か五十年、それも脂の乗っている時はその半分の二十五年なの。著作権持ってあの世へは行けないの。子孫がもらってもあんまり役立たないの。出回って何ぼなの。脂の二十五年のうちに通行往来来来軒目指す方向で知恵を湧かすの。影響力の掛け合い、それが人が生きている値打ちであって確かな意味なの。そういう意味で人は本質的にコミュニケーション目指す生き物なの。ならばそれに即するのが自然なの。 権利権利と云うけど助け合い精神に支えられて初めて意味を持つ。類的共同性に目が行かないままの天上天下唯我独尊、ひれ伏すなら説いて聞かせよう的権利つうのは若かりし頃の釈迦の考えで、そこを抜け出したところからいわゆる仏教思想が生まれた。この見地は今に有効で、西欧思想も学ぶべきなの、まっ西欧思想つうてもいろいろあるから一概には云えないけど。と思うれんだいこのこの考え違うやろか。 「出版書とインターネット書との相補関係考」したかったんだけど、こんなところへ話が回ってしまったわ。 2004.8.25日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)