172 肝史実
メーデー

 いつ頃からメーデーが労働際となつたのは、1886年の5.1日にアメリカ合衆国の各地で労働者の示威行進が行われたのが始まり。この示威行進の結果、アメリカ各地の労働者は8時間労働制を手に入れた。第二インターナショナルがアメリカの成功を意義あるものとして認め、5.1日のメーデーを労働者総動員の日と定めた。

 メーデーとは、本来はイギリスで行われていた五月祭という春の祭りのことである。5月柱(メーポール)を囲んで一日中歌ったり踊ったり春の訪れを祝う、これがメーデーであった。
 


海援隊規約「射利」について

 海援隊は、1867(慶応3)年4月坂本竜馬を隊長とし、土佐藩の資金援助を受けて設立された。その規約(約規とある)に、隊員は、「運輸・射利・開拓・投機」の中から各々それぞれ好きなものを選択して商いを行えとある。注目されるのは、事業の中に「射利」(営利)を掲げ、利潤追求を堂々と謡っていることである。当時の武家は、金銭を口にすることは意地汚いという儒教精神に支配されていた。こうした風潮の中で、武士の商行為を是認したことは画期的であった。


レーニンと明石大佐

 「諜報活動の鬼」と評価されている明石元次郎大佐の墓は台湾にある。この大佐が日露戦争に果たした役割について、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世をして「明石一人で、大山巌率いる20万の日本軍に匹敵する戦果があげられた」と言わしめているが、それほど大層重要な働きをしたほどには知られていない。

 彼は黒田藩士の子として生まれ、陸軍大学卒業後参謀本部付きとなった。公使館武官としてヨーロッパを巡遊していた。日露開戦と同時にロシアの革命家シリヤクスを介して帝政ロシア打倒をめざす社会民主党のレーニン、プレハーノフなどと接触した。社会革命党のチャイコフスキーや、プレシュコブスカヤなどの反帝国主義を掲げる十数の政党と連携し、参謀本部から得た百万円の工作資金をヨーロッパの各革命派にばらまいて大同団結させ、ロシアの後方を撹乱し、日本の勝利に大きく貢献している。

 明石大佐は、革命諸派団結工作のなか、スイスのジュネーブで最大の論客、レーニンを説得している。当時明石大佐40歳、レーニン35歳。会談は、明石が社会主義革命運動に資金提供したいと申し出たところから始まった。レーニンが「敵国側から金を受け取ると、祖国の裏切り者になる」と躊躇したところ、明石大佐は次のように切り返した。「社会主義革命とは、とどのつまり帝政ロシアの打倒、世界革命、人類の解放ではないのか。祖国云々するとは、今までの主義主張と矛盾すること甚だしい。ましてレーニンはタタール人であり、祖先はロシアに支配され続けていたのではないのか。タタールのみならず、ロシア帝国に支配されているあらゆる少数民族の解放こそ、社会主義革命のとるべき筋道ではないのか」。二人の激論は数時間に及び、最後にはさしものレーニンも明石の筋道論に頷き、二人は固く握手を交わしたという。






(私論.私見)