宮沢 賢治の詩歌厳選

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.3.15日

Re::れんだいこのカンテラ時評920 れんだいこ 2011/04/21
 【宮沢賢治の「雨ニモマケズ」考】

 詩人、童話作家の宮澤賢治(1896(明29).8.27日―1933(昭和8).9.21日)の「雨にも負けず」の詩を急に確認したくなった。(原文はカタカナ文であるが却って読み難いので、れんだいこ文責で表記替え、段落替え編集した)。
 雨にも負けず 
 風にも負けず 
 雪にも夏の暑さにも負けぬ 
 丈夫な体を持ち 
 慾はなく 
 決して瞋(いか、怒)らず 
 いつも静かに笑っている
 一日に玄米四合と 
 味噌と少しの野菜を食べ 
 あらゆることを 
 自分を勘定に入れずに 
 よく見聞きし分かり 
 そして忘れず
 野原の松の林の陰の 
 小さな萱ぶきの小屋に居て 
 東に病気の子供あれば 
 行って看病してやり 
 西に疲れた母あれば 
 行ってその稲の束を負い 
 南に死にそうな人あれば 
 行って恐がらなくてもいいと云い 
 北に喧嘩や訴訟があれば
 つまらないから止めろと云い
 日照りの時は涙を流し
 寒さの夏はおろおろ歩き 
 みんなにでくのぼうと呼ばれ
 褒められもせず
 苦にもされず 
 そういうものに
 私はなりたい


 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩

 宮澤賢治が生まれ育った岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市)は震災、津波の多い土地柄であった。賢治が生まれた1986(明治29).8.27日の約2ヶ月前の6.15日に「三陸地震津波」(理科年表No.281)が発生している。誕生から5日目の8.31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」(理科年表No.282)が発生している。賢治が死亡した1933(昭和8年).3.3日にも「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生している。

 賢治と震災はよほど縁があったことになる。同時に、三陸地方が昔より震災、津波被害を受け易い土地柄であることが分かる。幼少時代の賢治は、人民大衆が天災、冷害などによる凶作により困窮する姿を目撃しながら育っており、これが人間形成に大きく影響したと見られる。

 現在、三陸地方は三陸巨大震災に喘いでいる。恐らく宮澤賢治が詠った「雨二モマケズ」が心の中に生きているのだろう、被災民は粘り強く耐えつつ伝統的な協同精神を発揮して適応せんとしている。「雨二モマケズ」が希望の歌になり明日への展望を模索していることだろう。そういう気づきから、この詩を確認したくなった。

 良い詩である。賢治の信仰と生きざまは浄土真宗から日蓮宗へと転じているようであるが、どういう精神行程によったものだろうか。浄土宗系の彼岸主義、日蓮宗系の此岸主義の差により、此岸主義的現実救済を良しとしたのだろうか。

 れんだいこには、賢治の根底にあったものは仏教的慈愛に基づく精神と云うより、もっと歴史的に古い縄文的地霊の古神道的共同精神であり、これが息づいており、こういう詩ができているのではないかと窺う。どちらでも良いが、互い寿命のある身、助け合いの精神が大事と云う諭しであろう。

 付言しておけば、この地方に賢治時代にはなかった原発問題と云う新たな災害が来襲しており、この難問は未だ解けない。今後も予断を許さない。賢治が生きていたらどう詠うのだろうか。願うらくは天災対策でも大変なこの地域に、これ以上変な人工災害までもたらしてくれるな。

 2011.4.21日 れんだいこ拝
 「雨ニモマケズ」の宮沢賢治さんのお話しです。
 偉い人よりも、人のために働く人になりたかった賢治。 賢治は岩手の花巻の農業高校で、教師をやっていた時期があるのですが、答案用紙に何も書かなくとも、生徒に絶対に0点をつけなかった。 名前だけ書いても20点をあげていました。
たとえ何もできなくたって、0点の存在などこの世にいないからです。 せっかくついた安定職である教師を辞めて、農民になろうとしたときも、思いとどまらせようとした校長に対して、賢治はこう言いました。 「私は、もっと土にまみれて働きたいのです。教師をして、生徒たちを立派な農民に育てるのも大切な仕事です。 でも、それだけでは、本当の農民の苦しみはわかりません。 雨が降れば大水でたんぼを流され、日でりが続けば、稲の枯れるのをじっと見ているよりほかに、何もできない人たち。 その人たちのことを思うと、のんびり教師などしていられないのです。 その人たちと一緒になって働き、その人たちのために、いますぐ役に立ちたいのです」 農業学校に通う生徒たちの多くが、卒業後、大変だからと農業をせずに役所に勤めたりするのを見て、賢治は「これではいけない。新しい農村社会をつくろう」と意を決したのです。この有名な詩は、賢治さんが亡くなった後、賢治さんの手帳に書かれていたものをトランクの中から発見されたもので、発表されるためにつくられたものではありません。 賢治さんの理想の生き方だったのでしょう。 誰かが見ているからとか、有名になりたいとか、損得とかじゃなく、 純粋に、誰かのために優しく生きる生き方。 そういうものに私もなりたい。
※魂が震える話より「絶望は神さまからの贈りもの」 ひすいこたろう 著 柴田エリー 著 SBクリエイティブより

【宮沢 賢治の履歴】

 宮沢の履歴は以下の通りである。

 1986(明治29).8.27日、岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市)に質屋・古着商の宮澤政次郎(22歳)とイチ(19歳)の長男として生まれた。戸籍の届出は1869.8.1日付けとのことである。父、政次郎は古着質商を継ぎ繁昌させる一方、信仰深く、花巻仏教会を組織した。町議など名誉職を歴任している。賢治没後、浄土真宗から日蓮宗に改宗。母、イチは花巻の有力な実業家宮沢善治の長女。父母によくつかえ、明るいユーモアで家庭を支えた。浄土真宗門徒である父祖伝来の濃密な仏教信仰の中で育つ。弟に清六、妹にトシ、シゲ、クニがいる。

 1903(明治36)年、花巻川口尋常高等小学校に入学。担任の八木英三先生から五来素川翻案、マーロー原作「家なき子」、「海に塩のあるわけ」など童話や民話を読み聞かされる。童話を好み、綴り方に長じた。

 1906(明治39)年、10歳の時、石や昆虫を採集し、鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」と呼ばれる。8月、父と有志が始めた花巻仏教会夏期講習「我信念」と題する仏教講話に参加。暁烏敏(あけがらすはや)の講和を聞く。*暁烏敏(1877-1954)とは、松任市の明達寺に生まれた真宗大谷派の僧。明治時代は宗門の禁書であった『歎異抄』を初めて世に広め,仏教の近代化に尽くした清沢満之の信仰をつたえ、仏教雑誌『精神界』を編集し執筆者として活躍。

 1909(明治42)年、13歳の時、3月 花巻川口尋常高等小学校卒業。六学年全甲、優秀賞、精勤賞を受ける。4月、旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。鉱物採集に熱中。「HELP」のあだ名がつく。岩手山・南昌山などの山登りにも熱中する。哲学書を愛読。在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせる。1910(明治43)年、14歳の時、6月、岩手山に初登山。以後、頻繁に登る。

 1911(明治44)年、15歳の時、短歌創作開始。哲学書愛読。8月、盛岡市北山、願教寺の「仏教夏期講習会」にて島地大等の法話を初めて聴いたとされる。1912(明治45)年、16歳の時、5月 松島仙台方面修学旅行。海を初めて見る。歎異抄(たんにしょう)に感動する。1913(大正2)年、17歳の時、三学期、寄宿舎の舎監排斥運動で4、5年生全員退寮。盛岡の寺院に下宿する。5月、北海道修学旅行。盛岡市北山の浄土真宗宗徳玄寺に移る。秋、ツルゲーネフ「処女地」などのロシア文学を愛読する。

 1914(大正3年)、18歳の時、3月、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。引き続きチフスの疑いで入院。この時、看護婦の高橋ミネに恋心を抱くが片思いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。5月、退院後自宅で店番などするが、その生気のない様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳「漢和対照妙法蓮華経」を読み、体が震えるほどの感銘を受ける。

 1915(大正4年)、19歳の時、1月、受験勉強のため、盛岡市北山の時宗教浄寺に下宿。4月、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学。主任教授・関豊太郎氏の指導の下で地質調査研究をする。「化学本論」、「タゴール詩集」愛読する。8月、願教寺で島地大等の歎異妙法を1週間聞く。1916(大正5年)、20歳の時、3月、特待生に選ばれ授業料を免除される。 関西修学旅行。7月、関教授の指導により盛岡近郊の地質調査をする。8月、上京しドイツ語の夏季講習を受講。

 1917(大正6年)、21歳の時、4月、盛岡中学に入学した弟清六と盛岡内丸玉井家に下宿。7月、小菅健吉(栃木)、河本義行(鳥取)、保坂嘉内(山梨)らと同人誌「アザリア」発刊。短歌・小文などを発表する。8月、江刺郡地質調査をする。このとき種山ヶ原などを歩き、原体剣舞を見る。

 1918(大正7)年、22歳の時、3月、卒業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」を提出し、卒業。4月、研究生となる。卒業で徴兵猶予の特典が無くなったため、徴兵検査を受けて第二乙種合格となる(当時は、第二乙種には兵役は課せられなかった)。 この間、アザリア同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で研究生を退学処分となり、以後数年間に渡って保阪との親交を深める。稗貫郡土性調査に従事、菜食生活をはじめる。11月、日本女子大学在学中のトシ病み上京看病。この滞京中に友人宅で萩原朔太郎の詩集「月に吠える」に出会い感銘を受ける。近角常観の求道学舎にも訪れている。童話創作開始。同年、肋膜炎を患い、医師の診断を受ける。このとき河本義行に「自分の命もあと15年はあるまい」と述べたとされる。また、東京での人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。

 1919(大正8)年、23歳の時、1月、人造宝石業計画断念。3月、全快したトシと帰宅。店番を手伝い、不本意な生活を送る。浮世絵収集没頭。1920(大正9)年、24歳の時、5月、高農研究生修了。関教授から助教授の話を辞退。10月、日蓮宗の宗教団体・国柱会に入会。自宅で店番をしながら、信仰や職業をめぐって父と口論する日々が続く。保阪嘉内には国柱会の入信を手紙で強く勧めたが決裂(7月18日)。

 1921(大正10)年、25歳の時、1.23日、家族に無断で上京し鶯谷の国柱会館を訪問。本郷菊坂町に下宿する。国柱会奉仕活動に励む。国柱会の高知尾智耀から「ペンをとるものはペンの先に信仰の生きた働きがあらわれる」と聞かされ、旺盛な創作活動を始める。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。翌年11月にトシ病死。

 1922(大正11)年、26歳の時、2月、ドイツ語、エスペラント語の独習を始める。1923(大正12)年、27歳の時、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太を訪問。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。1924(大正13)年、28歳の時、4月、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。

 1925(大正14)年、29歳の時、2月、森荘己池(そういち)を知る。7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。草野編集の文芸誌「銅鑼」に詩を発表。12月、花巻の北上川で発見したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査(東北帝国大学・早坂一郎教授)に協力。翌年発表された早坂の学術論文にて名前を挙げて感謝の意が記載される。

 1926(大正15)年、30歳の時、1月、花巻農学校に開設された岩手国民高等学校で350人の受講者に農民芸術論を講じる。3月末で農学校を退職。4月、花巻町下根子桜の別宅で独居自炊生活をはじめる。8月、羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。近隣農村に肥料設計相談所を設置、相談に応じる。12月、上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習う。この時、フィンランド公使ラムステットの「北アジア」についての講演(日本語)に参加し、ラムステットと会話を交わした。またヒューマニストとして労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。

 1927(昭和2)年、31歳の時、3月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成する。夏、天候不順のため村々を駆け回る。

 1928(昭和3)年、32歳の時、6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群「三原三部」、「東京」を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群「疾中」などを創作。

 1929(昭和4)年、33歳の時、病床生活。春、東北砕石工場の鈴木東蔵の訪問をうける。文語詩製作。旧稿の手直しをする。

 1930(昭和5)年、34歳の時、2月、病状やや回復。9月、東北砕石工場を初めて訪問。

 1931(昭和6)年、35歳の時、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。家族あてに遺書を書く。その傍ら文語詩を初めとする創作活動もおこなった。11.3日、手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める。

 1932(昭和7)年、36歳の時、病床中、東北砕石工場や肥料設計の相談に応答。作品推敲。菜食続行衰弱。

 1933(昭和8年)、37歳の時、1月、病床中、わずかに歩行可能、肥料相談続行。3.3日、「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。誕生の年と最期の年に大きな災害があったことになる。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へあてた見舞いの礼状には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている。6月、口語紙詩稿および文語詩稿の浄書を始める。9.19日、容態急変し急性肺炎と診断される9.21日、急性肺炎で死去した。享年37歳。

 法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。「国訳の法華経を千部印刷して、知己友人にわけて下さい。(中略) 『私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが、仏さまの心にふれて、一番よい、正しい道に入られますように』ということを書いて下さい」と、花巻弁で云った。 生涯独身であった。死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。


【「雨ニモマケズ」】
 原文はカタカナ文であるが却って読み難いので、れんだいこ文責で表記替え編集した。
 雨にも負けず 
 風にも負けず 
 雪にも夏の暑さにも負けぬ 

 丈夫な体を持ち 
 慾はなく 
 決して瞋(いか)らず 
 いつも静かに笑っている

 一日に玄米四合と 
 味噌と少しの野菜を食べ 

 あらゆることを 自分を勘定に入れずに 
 よく見聞きし分かり そして忘れず

 野原の松の林の陰の 
 小さな萱ぶきの小屋に居て 

 東に病気の子供あれば 
 行って看病してやり 

 西に疲れた母あれば 
 行ってその稲の束を負い 

 南に死にそうな人あれば 
 行って恐がらなくてもいいと云い 

 北に喧嘩や訴訟があれば 
 つまらないから止めろと云い

 日照りの時は涙を流し 
 寒さの夏はおろおろ歩き 

 みんなにでくのぼうと呼ばれ 
 褒められもせず 苦にもされず 

 そういうものに 私はなりたい

 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩
 英訳翻訳(Translation
not losing to the rain not losing to the wind not losing to the snow nor to summer's heat
with a strong body unfettered by desire never losing temper cultivating a quiet joy
every day four bowls of brown rice miso and some vegetables to eat
in everything count yourself last and put others before you watching and listening, and understanding and never forgetting
in the shade of the woods of the pines of the fields being in a little thatched hut
if there is a sick child to the east going and nursing over them
if there is a tired mother to the west going and shouldering her sheaf of rice
if there is someone near death to the south going and saying there's no need to be afraid
if there is a quarrel or a lawsuit to the north telling them to leave off with such waste
when there's drought, shedding tears of sympathy when the summer's cold, wandering upset
called a nobody by everyone without being praised without being blamed
such a person I want to become
 日英対照訳
 雨にも負けず 
 not losing to the rain
 風にも負けず 
 not losing to the wind 
 雪にも夏の暑さにも負けぬ 
 not losing to the snow nor to summer's heat
 丈夫な体を持ち 慾はなく 
 with a strong body unfettered by desire 
 決して瞋(いか)らず いつも静かに笑っている
 never losing temper cultivating a quiet joy
 一日に玄米四合と 
 every day four bowls of brown rice
 味噌と少しの野菜を食べ 
 miso and some vegetables to eat
 あらゆることを 自分を勘定に入れずに 
 in everything count yourself last and put others before you
 よく見聞きし分かり そして忘れず
 watching and listening, and understanding and never forgetting
 野原の松の林の陰の 
 in the shade of the woods of the pines of the fields
 小さな萱ぶきの小屋に居て
  being in a little thatched hut
 東に病気の子供あれば 
 if there is a sick child to the east
 行って看病してやり 
 going and nursing over them
 西に疲れた母あれば 
 if there is a tired mother to the west
 行ってその稲の束を負い 
  going and shouldering her sheaf of rice
 南に死にそうな人あれば  
 if there is someone near death to the south
 行って恐がらなくてもいいと云い
  going and saying there's no need to be afraid
 北に喧嘩や訴訟があれば 
 if there is a quarrel or a lawsuit to the north
 つまらないから止めろと云い
 telling them to leave off with such waste
 日照りの時は涙を流し  
 when there's drought, shedding tears of sympathy
 寒さの夏はおろおろ歩き
 when the summer's cold, wandering upset
 みんなにでくのぼうと呼ばれ 
 called a nobody by everyone 
 褒められもせず 苦にもされず 
  without being praised without being blamed
 そういうものに 私はなりたい
 such a person I want to become
 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩




(私論.私見)