二条河原落書(らくしょ) |
更新日/2016.02.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「二条河原落書(らくしょ)」を確認しておく。「ウィキペディア二条河原落書(らくしょ)」、「モジカの犬」の「【現代語訳】 二条河原落書」その他を参照する。 2011.08.25日 れんだいこ拝 |
【二条河原落書(らくしょ)】 | |
落首(らくしゅ)とは、平安時代から江戸時代にかけて流行した表現手法の一つである。人の集まりやすい辻や河原などの公共の場所に立て札を立て、主に世相を風刺した狂歌を匿名で公開する。当時、政治批判は極めて危険性の高い行為だったが、かくなる匿名公開で自由に言論活動を展開していた。当時、民衆レベルで読み書きができており、いわば日本文化の一つとなっている。類似した例に「落書」(らくしょ)があり、落首よりやや長めの文が公開された。有名な落書として「二条河原の落書」が挙げられる。 二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)とは、室町幕府問注所執事の町野氏に伝わる建武年間記(建武記)に収録されている文である。88節に渡り、建武の新政当時の混乱する政治、社会を批判、風刺した七五調の文書である。専門家の間でも最高傑作と評価される落書の一つである。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政が開始されてから程なく、1334(建武元)年8月に建武政権の政庁である二条富小路近くの二条河原(鴨川流域のうち、現在の京都市中京区二条大橋付近)に掲げられたとされる落書(政治や社会などを批判した文)で、写本として現代にも伝わる。 編者は不詳、建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族、京童であるとも言われているが、中国の書経、説苑由来と見られる文言や今様の尽くし歌風の七五調の要素を持つ一種の詩をかたどった文書であり、漢詩や和歌に精通している人物と云うことになる。後嵯峨院が治天の君の時代であった1260(正元2)年に院の御所近くに掲げられた「正元二年院落書」を意識したとする見方もある。内容は単なる「建武政権批判」ではない。武士や民衆の台頭や彼らが生み出した新たな文化や風習(連歌、田楽、茶寄合など)を皮肉っており、落書の編者は「京童の代弁者」を装いながらも必ずしもそうではないことが分かる。 |
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「二条河原落書(原文)」は次の通り(れんだいこ文法表記による)。
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「二条河原落書(原文)」を現代文に改めてみる(れんだいこ文法表記による)。
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「二条河原落書(原文)」の現代文訳を試みておく(れんだいこ文法表記による)。
2016.2.11日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)