カタカムナ文献研究者・楢崎皐月考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.2.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「カタカムナ文献研究者・楢崎皐月考」をしておく。「楢崎研究所」の「楢崎皐月の経歴」、「楢崎皐月(ならさき こうげつ)」、「楢崎皐月(ならさき さつき)」、「カタカムナと楢崎皐月」、「相似象学会誌一覧」、「超科学書「カタカムナ」の謎」(広済堂ブックス)、「土蜘蛛正統記」その他を参照する。 2008.7.2日 れんだいこ拝 |
【カタカムナ文献研究者・楢崎皐月の生涯履歴前半】 | |||||||
1899(明治32).5.9日、山口県東萩で生まれる。本名はさつき。生後まもなく父が住む北海道札幌市二向かい、この地で育つ。母の実家で出産し、嫁ぎ先に戻ったのではないかと推測されている。父は旧仙台(伊達)藩士の丹野軍治。
母方の祖父は楢崎(ならざき)寛直。松下村塾出身。高杉晋作と共に上京した。明治6年から14年まで長野県令の要職にあり、その後も大阪控訴院の院長、大審院の判事を歴任している。この寛直の娘を母とする。楢崎家に男子がなかった為、後に養子となり楢崎姓を継ぐことになる。 1916(大正5)年、17歳の時、札幌の中学校卒業。当時の旧制中学は5年制で、17歳で卒業するのが普通だった。仙台二高に進学する予定であったが、試験を受けた翌日、誘われて松島に遊びに行って船の事故に遭い、身体検査の時刻に間に合わず不合格となる。 1917(大正6)年、18歳の時、進学を断念し上京。志願兵に応募し陸軍に入隊する。約1年間、軍隊生活をする。(少尉任官ともある)。その後、レントゲン研究家の河喜多氏の知遇により日本電子工業に入社し、働きながら電気専門学校に学ぶ。独学で物理や化学を勉強する。卒業後、その稀に見る才能で様々な発明をし、若くして産業界や軍部の一部に能力を評価される。 1919(大正8)年、20歳の時、日本石油と契約し、絶縁油の研究に着手する。昭和10年前後の頃、当時輸入に頼るしかなかった特殊絶縁油の開発に成功し、事業化する。各方面から注目を浴びる。この間、楢崎の兄が田無の逓信省電気試験所の電気技術技師としてイオン交換などの研究に取り組んでいたことにより、これを手伝ったりアドバイスしている。 1940(昭和15)年、41歳の時、石原莞爾に注目され、研究内容を軍の特許登録するよう助言があり、陸軍省の依頼を受け福島県相馬郡原町で藤本榮次郎と共に「大日本炭油日工業梶vを興して亜炭を原材料とする人造石油を精製する研究を始める。
1941(昭和16)年、 42歳の時、陸軍省からの要請を受け満州の吉林(きーりん)製鉄所の陸軍製鉄技術研究所所長として渡満する。貧鉄から品質の高い鋼の製造に成功する。その後、軍の特務研究に従事。次のような娘の証言がある。
この時、満州の吉林の老子教道院の娘々廟(ニャンニャンビョウ)で、その地でもっとも人々の尊敬を集めていた道士の蘆有三(らうさん)道士に会う。これは、老子経第41章の次の記述に対応している。
日本人として初めて寄進したことから、蘆有三に招じられ一服の茶を勧められた。楢崎はこの時、不思議な鉄製の茶釜を見せられている。蘆有三は、庭の泉水を汲んで入れ、4〜5枚の木の葉を揉んで火打石で点火した。その場で出されたお茶は舌を焼くほど熱かった。楢崎は、僅かの火で湯を沸かす特殊な鉄に強い興味を持った。その茶釜を貰い受けたいと訪問を重ね懇請したと云う。 この時、次のような遣り取りをしている。楢崎氏は、「中華民国はこれ師の国なり」と持ち上げた。これに対し、蘆有三(らうさん)道士は、「中華不是 他尊弥 過自負慢弥」続いて、「アシア人の創造した八鏡カミツ文字は、実によく整い、その上、自由に変換する機能があるので、物の理を弁じ、様々の技術の便を生じ、物事の仕組み、仕掛けを利く知り、天の命題、即ち天地万物の成り立ちや、経過まで、明らかに示すことができる。これまさに、八鏡の字なり」と告げた。 この時、次のような老子教の古伝の不思議な話しを聞かされる。
この時の話しが後にカタカムナ文献の発見につながることになる。次のように記されている。
その宇宙観に深い感銘を受ける。この慮有三老師との出会いについて、相似象はこう語っている。
1943(昭和18)年、44歳の時、亜炭から人造石油をつくる日本造石油・炭油株式会社を福島県相馬郡に設立。第2次対戦中、陸軍の指揮下で戦車用の ディーゼル油の合成をやって実際に戦車が走り、この研究は現在も京都大で続けられている。 1945(昭和20)年、46歳の時、終戦で帰国。戦時中、軍関係の仕事をしていたことから楢崎グループは解散させられる。星製薬の創設者であり衆議院議員でもあった星一(ほし はじめ、作家の星新一の父)氏が、戦時中、一部の産業界や軍部から天才科学者と評価されていた楢崎の才能が干されるのを惜しみ、スポンサーとなって楢崎グループを再結集させる。星は、当時の食糧難と将来に備えた「新しい農業技術」の開発を委嘱する。 楢崎グループは、戦後復興の一手段として工業用原材料の生産を主とした農業を拡大する為の「植物波農法」の研究に向かい、五反田の星製薬の研究所で重畳波の研究にたずさわる。旧海軍技術研究所の軍関係者や技術者と「化成会」を創設する。 星製薬内に重量波研究所を設置し、農業において土地の善し悪しは、大地の電気分布で判断出来るのではないかという仮説の下、大地電位の分布実測調査を開始すると共に重畳波の研究にたずさわる。(この研究は後に「植物波農法」として完成する。 「静電三法」発刊。静電研究会を創設し、化成主義文化の活動を本格化する。 1948(昭和23)年、47歳の時、星製薬を離れ、全国の大地電位の分布実測調査を始める。3年間で1万7千ケ所を回る。農業において土地の善し悪しは、大地の電気分布で判断出来るのではないかという仮説の下、全国の測定調査を行っていた。この研究は後に「植物波農法」として完成する。調査中、兵庫県六甲山系金鳥山の大きな岩の上に松が茂っていることを聞き、その調査のために、助手数人と向かう。 |
【カタカムナ文献研究者・楢崎皐月のカタカムナ文献との出会い】 | |||
1949(昭和24).12月、50歳の時、助手の青年数名と一緒に兵庫県神戸市東灘区の六甲山系・金鳥山(標高500m)に植物の生育状態と大地を流れる電気の関係を調べる実測調査に入る。地元の人から「金鳥山には蘆屋道満の墓ともいわれる狐塚という穴があるから、行ってみるといい」と勧められた楢崎は、この穴をベースに、俗称狐塚付近で穴居生活をしながら山中に計測装置を置いて調査を開始する。この山の中腹には保久良(ほくら)神社がある。延喜式神名帳に記載されている由緒ある神社で、社殿を取り巻いて巨石を環状に配置した磐境(いわさか)遺跡が鎮座している。いまもなお神聖な場所として祀られている越木岩神社の磐座。六甲山には、こうしたパワースポットがあちらこちらに見られる。 楢崎皐月は、六甲山中にある金鳥山で平十字(ヒラトウジ)と出会い、カタカムナ文明の秘伝書に触れることになる。その顛末は次の通り。 1950(昭和25).1月の入山して何日かすぎた夜、突然、その穴に鉄砲を手にしたひとりの猟師が訪れてきた。「変な仕掛けをされて、キツネたちが迷惑しているから取り外してくれ」。猟師は真顔でそう云って立ち去った。 翌日、楢崎が計測装置を外すと、楢崎が素直にいうことを聞いたのを見届けた猟師がやってきて、自分はヒラトウジ(平十字)だと名乗った。猟師は、父親が宮司をしていた「カタカムナ神社」のご神体だという、謎の古代文字が書かれた巻物を取りだし、「父がカタカムナ神社の宮司で、この巻物は父祖代々『カタカムナの神のご神体』として伝わったものである」と口上して楢崎に見せた。和紙に筆写したと見られる巻物には渦巻きのような模様に丸と十字を基本とした図が80種類描かれていた。 それを見た瞬間、楢崎の頭にはある言葉が甦ってきた。「八鏡化美津文字」。第2次世界大戦中のこと、楢崎は製鉄技術者として中国北東部の満州吉林にいた。ここには娘娘廟という道教寺院があり、楢崎はそこの老師から筆談で、「八鏡化美津文字」(「八鏡文字」)という古代の叡智を伝える文字の存在を聞かされていた。「『噫示八(アィシーパー)』人、ただただ八鏡を観ず。やすやすと万理を弁ず。『八鏡化美津文字』で、理ことわりを弁じ・利便を生じ・名第を利し、命題を明らかにす」。 老師は楢崎に、そう伝えた。「アィシーパー」人は「八鏡」を見てすべての理を知り、「八鏡化美津文字」ですべての理を明らかにする、というのである。しかも老師は、「アィシーパー」人はかつて日本列島で暮らす古代人だったと説明した。楢崎には、「アィシーパー」が「アーシーヤー」=「アシヤ」と聞こえていたという。平十字の巻物を見た楢崎は、まさにこれが「八鏡文字」ではないかと直観した。 平十字は、カタカムナの神を祀ったのはアシア族であり、その頭領はトウアンであると語った。アシアトウアンは遠い昔、天皇家を中心とした「天孫族」と戦って敗北したという。これらの一致は、とても偶然とは思えない。老師がいう世界の理を知る古代人とは、おそらくアシア族の叡智のことだろう。 巻物の文字は、「カタカムナ図象文字」という。基本はどれも丸と十字(○と+)の組み合わせで、丸のふちには最大で8つの小円が並ぶ。楢崎は、これはきわめて抽象的・合理的な図象であり、理を弁ずるに最適な文字だと悟った。そこで平十字に、巻物を写しとらせてもらえないかと頼み、快諾された。これがカタカムナ文献である。書き写した「ウタ」は80首。すべて渦巻き状に記されており、中央から外側に向かって読んでいくものと思われた。解読は苦難をきわめたが、楢崎はついに解読に成功。最初は次のような「ウタ」で始まっていた。「カタカムナヒビキ マノスベシ アシアトウアン ウツシマツル カタカムナウタヒ」。素直に読めば、アシアトウアンがカタカムナのウタヒを写しとった、となる。 楢崎氏は、研究用に持っていた大学ノートにその文字を全て写し取り始めた。但し、その文章量は一日で写し終わるようなものではなく、それから20日間、皐月のところへ巻物を手に平十字が毎日通ったという。皐月はそれまで度々実家に葉書を送って安否を知らせていたが、このときは一ヶ月間葉書をよこさなかったと皐月の娘が次のように述懐している。
相似象は、この顛末を次のように記している。
このようにして楢崎が六甲山中で平十字と名乗る不思議な猟師に出会ったことで写 し取った図象がカタカムナ文献だとされている。カタカナのもとになったのがカタカムナ文献であり、平十字なる人物がサンカ(山窩)ではなかったのかとの話もある。 「相似象」誌は次の話も伝えている。平十字は時には昼間、不意に現われ、辺りの地形を説明したり、太古の歴史を語った。興味深い事件として、現在の天皇家の祖先は天孫族であり、国津の方カムナの神を祀る一族の主のアシアトウアンが戦い、アシアトウアンは負けて九州へ落ち延びそこで死んだ云々と告げている。 こうして、楢崎は、古伝(日本の超古代文明)を知る。カタカムナを研究している相似象学会の宇野多美恵女史の著する「相似象第十号」にはこうある。
以降、5年間、カタカムナ文献の解読に向かった。古事記や日本書紀その他の古文書を参考にしつつ血の滲むような努力をして解読に成功する。その内容が自然科学的な実用書であった事を突き止めた。この文字はそれが祀られていたとされる場所の名から「カタカムナ文字」と呼ばれ、その文字を使用していた文明として「カタカムナ文明」が提唱されることになる。 |
【カタカムナ文献研究者・楢崎皐月の生涯履歴後半】 |
1950(昭和25)年、「植物波農法」指導開始。 1955(昭和30)年、この頃からカタカムナ文献研究の後継者を捜そうと全国各地を回り始める。 1957(昭和32)年、58歳の時、「技術専修養成講座」全国静電研究連合会を発足させる。 1958(昭和33)年、59歳の時、「静電三法技術専修員用テキスト」(植物波農法、物質変成法、人体波健康法)を発行する。 1960(昭和35)年、61歳の時、「宇宙対向式静電圧可用電源装置取扱要項」(特殊静電処理機)発行。 1966(昭和41)年、67歳の時、巻物出現から17年目、「日本の第1次文明期の特徴」を著し、盧有三老師・平十字氏から得たカタカムナ(日本の上古代文明に関する古文献)の知識について語り始める。カタカムナ文献全80首の歌の中から「ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ (以上第五首)、ソラニモロケセ ユエヌオヲ ハエツイネホン カタカムナ (以上第六首)」。
1968(昭和43)年、69歳の時、古事記等の古文書の解読に向かう。 1969(昭和44).12.4日、70歳の時、後継者を見出す願いも込めて、公然と毎月、虎ノ門にある文部省の国立教育会館で考古物理学連続講演会を開催し始める。この時の講演で、カタカムナの後継者となる宇野多美恵女史と出会う。相似象学会として引き継がれる。 1970(昭和45).6.11日、文部省教育会館に於ける考古物理学連続講演会第6回目のこの日、企画された単位ごとの「天然会」、八部会を発足させる。1・考古物理(カタカムナ文献)研究、2・生医学(人体波健康法)研究、3・天然農法(植物波農法)研究、4・天然食研究、5・情報整序作業、6・特殊技術研究ストック、7・図書整理・機関誌発行、8・婦人部会(宇野天然会)、相似象発刊。宇野天然会は、第2号の発刊を機に「相似象学会」と改称。『静電三法』に基づく各々の研究。 この頃、長年、極秘に研究を続けてきた原子力に対する反電磁場の出力研究、東海村原資炉関係の仕事を中止して(数百万円の私財を秘書に持ち逃げされたため)、直弟子の宇野へのカタカムナ伝授に傾倒する。 1974(昭和49).7.31日 75歳の時、生涯を閉じる。 |
宇野多美恵女史が後継者となる。2006.10.22日、軽井沢の別荘で息子さんと二人でいたところ火事になり二人とも死亡。享年89歳。カタカムナの大事な文献もほとんどが消失したと云われている。 |
【「カタカムナのウタヒ」考】 |
「カタカムナのウタヒ」とは何か? ひとことでいうならばそれは、今日でいう自然農法やフリーエネルギーの技術であり、エコロジー思想にも通じる万能の科学理論だったという。
では、カタカムナ文明とは具体的に、どのようなものだったのだろうか。楢崎自身、解読したとはいうものの、難解な注釈をつけるだけで、内容についての解説はほとんどしていない。だが楢崎は、『カタカムナ文献』をベースにしたと思われる著作『カムナガラノミチ』を残している。そこには、古代カタカムナ文明に通じる叡智の一端らしきものが紹介されているので、それを元に推測してみよう。
『カムナガラノミチ』では、以下の代表的な生産技法が取りあげられている。 1:イハカムナ(岩理) 2:タガラモリミチ(農業技法) 3:キメカムナ(木理) 4:カムヒルメ(製鉄法) 1のイハカムナ(岩理)は石の細工技術である。2は農業の技術であり、3は木工建築、4 は製鉄と冶や金きんの技術だ。ここから見るとカタカムナ人は、すぐれた石工の技術、農業技術、そして建築技法と製鉄技術を持っていたと推測できる。問題は年代で、「天孫族」と戦ったのが事実なら、少なくとも2000年近く昔ということになる。その時代に4つの技術を手にしていたグループがいたとすれば、まさに超古代文明と呼んで差し支えないだろう。とくに石工の技術で気になるのが、六甲山中に残されている古代遺跡と思しき巨石群だ。祭祀遺跡とされるこれらの巨石だが、もしかすると祭祀とは違う目的でそこに置かれ、使われていた可能性もある。一例を挙げるなら、巨石による大地のエネルギーの制御であり、あるいはエネルギーネットワークの構築である。また、六甲山中には大きな石の祠=石の宝殿が見られるし、同じ兵庫県高砂市の生石神社には、やはり「石の宝殿」と呼ばれるあたかも水面に浮かんでいるような巨石が切り出しの途中で放置されている。これらもまた、カタカムナ文明の残滓と見ることができるのではないだろうか。 ちなみに金鳥山の隣には、高級住宅地として有名な「芦屋」があり、陰陽師・安倍晴明のライバルとされる「蘆屋道満」の根拠地でもあった。奇妙なことにこの地域は、なぜか古代から呪術のメッカとされてきた。多くの陰陽師が播磨で呪術を学んだのである。そのルーツもまた、カタカムナの叡智につながる可能性は高い。 「イヤシロチ(弥代地)、ケカレチ(気枯れ地)」。イヤシロチはいわゆる高エネルギーの癒しの地で、ケカレチはその逆の地を意味する。この、イヤシロチ・ケカレチの存在を「発見」したのも、楢崎皐月なのである。 「ヨモ(四方)のタカミを結ぶところは、イヤシロチにて、ミソギに良し/ヨモのヒクミを結ぶトコロは、ケカレチにて、ミソギに不良はず」 。これは楢崎の言葉だが、四方の高みを結ぶ土地はイヤシロチで、低みを結ぶところがケカレチだというのである。このことに気づいてから楢崎は、大地の電気の流れを調べるまでもなく、地勢を見るだけで「イヤシロチ、ケカレチ」を判断できるようになったという。しかもケカレチを改善したりイヤシロチを補強したりすることもできると、楢崎はいう。具体的には、地面に穴を掘り、底に木炭を入れ、土をかぶせて埋めるのだ。こうすることで、ケカレチはイヤシロチに改良され、イヤシロチはよりよいイヤシロチになるのである。改良された土地では、生命体は体内の電気活動のバランスがうまくとれるようになる。人間だけでなく、動物植物も微生物も同様で、そのため人は健康になり、作物はよく育つのである。まさに、カタカムナの叡智であろう。これほどすぐれた文明が、かつて六甲山系に存在していたのである。 |
【静電三法】 |
「静電三法」の発刊にあたって 楢崎皐月著「炭油」(大日本炭油工業株式會社、1940年5月31日発行)より |
(私論.私見)