出雲文字文書の翻訳考

 (最新見直し2013.12.27日) 

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、出雲文字を検証する。出雲文字が何種類あるのか知らないが、それをも確認したい。

 2008.5.1日、2008.7.2日再編集 れんだいこ拝


【出雲石窟文字、トヨノ文字、書嶋字】
 出雲石窟文字は、平田篤胤の「神字日文伝」(かむひふみのつたへ)によれば、島根県の出雲大社近くの書嶋(フミジマ)の石窟の岸壁に刻まれて古くから伝えられていたとされている(現存場所不明)。神代に大己貴命が創った文字とも伝わる。高知市天神町にも伝来され伊勢神宮にもこの書体で書かれた奉納文あり。古史古伝の一書として知られる竹内巨麿氏の「竹内文書」の「神代の万国史」による伝承によれば、この文字は“トヨノ文字”と呼ばれイザナギの命より何代も前の上古第15代9世・豊雲野天皇によって創られたと伝わる。

 「日国是文字源」を著した高畠康寿はイヅモ文字の露見経過について次のように記している。
 「出雲文字と云うは出雲国にて発見せられたる神世文字を云うなり。次に掲げたるは、出雲の国大社の辺りに文嶋と云う島ありて、その島に石窟あり。その石窟の大巌壁に彫刻せられたりと云う。橘三郎翁がその事跡を尋ね、之を写して伝えたり。これを平心舎光頼、永岡久近、矢島受福、喜多知貴の諸氏の手に伝えられて、最後に平高潔の手にありしを写したるものなり」。

【あいうえお順出雲石窟文字考】
あ(ア) い(イ) う(ウ) え(エ) お(オ)
か(カ) き(キ) く(ク) け(ケ) こ(コ)
さ(サ) し(シ) す(ス) せ(セ) そ(ソ)
た(タ) ち(チ) つ(ツ) (テ) と(ト)
な(ナ) に(二) ぬ(ヌ) ね(ネ) の(ノ)
は(ハ) ひ(ヒ) ふ(フ) へ(へ) ほ(ホ)
ま(マ) み(ミ) む(ム) め(メ) も(モ)
(ヤ) ゆ(ユ) よ(ヨ)
(ラ) り(リ) る(ル) れ(レ) ろ(ロ)
わ(ワ) ゑ(ヱ) を(ヲ)
 (「久遠の絆 浦木様」とのこと)

【出雲石窟文書解読考】
 「麻賀多神社神代文字 出雲文」が、成田市船形に鎮座する麻賀多神社に伝わるとされる神代文字縁起をサイトアップしている。これを確認しておく。非常に貴重な情報公開と考える。出典は「印旛郡誌」(1912年刊行)掲載の「公津村誌第十章、古史」とのことである。原文は縦書きであるのを横書きに直している。これを更に読み易く工夫してみる。
 次のように訳せる。
 誉田のすとめらこみ(天皇)20年に、 我この国に至りて、廻り見るに、土いと悪しくして、たなつもの(穀物)実るのやと思いて、里の長を召して問わせ給うに、その神より穀物(たなつもの)が実らざりしを、(中略)

 先におおす(小碓)の尊(日本武尊)、東(ひむがし)のまつろわぬ(服従しない)人どもを、言向けやわし(平和)に出でましの時、海に浮かびて渡らむとし給う時に、その渡りの神(渡る所の神)浪を起こして、御船たゆたいて(ゆらゆらと揺れ動いて)、え進まざりき。ここに橘媛、尊に代わりて、海に入り給わんとする時に、諸の采女(うねめみ)供せんとて、共に海に入り、給えば、凪(なぎ)で御船はえ進みき。 

 彼、な(魚)取船どもを集(つど)いて、みまを、まきたしかども(意味不明)、みまをまきいつして(意味不明)、トミと云う人、姫の御櫛を出で奉りしかば、夕日の日照るころとて、御塚造らし御給いき。そこより出でまして、この浦の魚取船に、御えぐ(意味不明)を乗せて、渡らせ給う時に、その船の遠く続きしかば、船の尾長しとの給えけろ(る?)。尊の御船を納めし山、船の形をなせり。これを船塚と言いき。尊、くぬが(陸処)に上がりて、返り見給う時に、水鳥の沢に集へおりしを、見そなわして、旗に印あるが如しとのり給いて、こはすめら(皇)大神の御教えの御印とこそ、喜びつつ、松杉の生え茂りし山に登りて、道暗山とのり給えて、杉木の洞(ウロ)に鏡を掛けて、伊勢の大御神をおろか(拝み)み給いき。彼、この鏡を、崇め祀れば、米麦(コメムギ)おのれに(自然に)実ると、のらしめ給いて、出でましき。

 彼、御教えのままに、崇め祀りしに、まことにのらせ給うかことなりきと聞けりとえひき(誠に告げられたごとくになったと聞いたとおっしゃった)。彼、ここに岩の国魂置きつ、鏡と崇め祀りて大宮柱太しり建てて(どっしりと建てて)、祝(斎)い祀りて天照らすわかひるめ(稚日霊)の大神と、称え祀りしかば、奇すしきかな、おふみえつ持ちて、甘き雨降り、甘き水湧き、出でしにや。みつく田も、くが田(畑)も日につきに(日に日に)いやましに(益々)開け、いやたわに(はなはだ多く)実りしかば、民悦んで、大神をいと敬いき。 

 彼、大御神の我に教えしへ給わく、洞木の下に珠あり。掘り出して、わかむすび(稚産霊)の神を祀れと教え給えき。彼、夢の教えのままにして、七つの珠を取り出して合わせ祀りて、勾玉(まがたま)の大神と祝い祀りしかば、天のましひとらいやましにまして(人々は増えに増えて)、富もたすわしすき(満ち足りた)。彼、ここに、すめらみことのたなか(?)の大御代は、天地日月と共に、とこは(常盤)に守り給えて、さ(狭)き国は広く、かしき(険しい)国は開けく、 五種(くさ)のたなつもの(穀物)豊かに、むくさかにみのらし給えと(豊かに益々栄えよと)、わめなの次々にえたりても(子孫の継々に至っても)、ねぎ申すこと為せよ(祈りせよ)。

 ほむた(誉田)のすめらみこと(天皇)二十まり七年に、我が子、うらなかたつ(浦長多津)の命、病に伏して病みこやせり。彼、大神の御前に、昼は日の暮るる限り(暮れるまで)、夜は夜すがら(夜通し)、病癒し給い(病気を癒して下さい)、治し給いと(治してくださいと)ねき申ししかば(お祈り申し上げたら)、一夜の夢の如くして、文を書きたりき(書き上げた)。覚めて見ると、この文なりき。彼、大御神の御心持ちて、我が手に書かせ、教え給へし文とこそ(であると)、悦びつつ文の教えのままに、せしかば、奇すしきかな(不思議にも)、病いが日に日に癒(いや)されたりき(回復して行った)。

 彼、ここをもちて(これを持って)、民をもさわに救えし(民をたくさん救った)、文ぞ。をみのなら(?)、民をさわに救えよ。この文、八方(よも)を記すに、天のまなか(ま中)は一に、西北のあわへを二に、北を三に、東北のあわへを四に、東を五に、東南のあわへを六に、南を七に、西南のあわへを八に、西を九に、記しおくものぞ(ものである)。

 天の御中主の神は一をうしはきまして(支配して)、あれますひとこまとに、中はらの御魂を分け給える神なりき。たかみむすび(高皇霊)の神は、二をうしはきまして(支配し)、生れます(お生まれになる)人毎に、上はらの御魂を、分け給える神なりき。あしかひ彦ち(葦茅彦遅)の神は、三をうしはきまして(支配して)、生れます(お生まれになる)人毎にぞ、ははらの御魂を分け給へる神なりき。たまるむすび(玉留産霊)の神は、四をうしはきまして(支配して)、生れます(お生まれになる)人毎に、天の御中主の神と共に、なかはらの御魂を分け給える神なりき。いくむすび(生産霊)の神は、五をうしはきまして(支配して)、生れます(お生まれになる)人毎に、きもの御魂を分け給える神なりき。わかひるめ(稚日霊)の神は、七をうしはきまして(支配して)、生れます(お生まれになる)人毎に、思いはかりの御魂を分け給える神なりき。かみむすび(神産霊)の神は、八をうしはきまして(支配して)、生れます(お生まれになる)人毎に、天の御神主の神と共に、中はらの御魂を分け給える神なりき。わかむすび(稚産霊)の神は、九ををうしはきまして(支配して)、生れます(お生まれになる)人毎に、高産霊の神と共に、うわはらの御魂を分け給える神なりき。彼、この九の柱の神等(たち)、年毎、月毎に、御めぐりまして、日と共に、夜ごとさわに給えるものなりき。しかあれど(そうではあるが)、その御廻りを過ち冒す時は、禍事(まがごと)あるものなりき。
 誉田のすとめらこみ(天皇)20年に、
 我この国に至りて、
 廻り見るに、
 土いと悪しくして、
 たなつもの(穀物)実るのやと思いて、
 里の長を召して問わせ給うに、
 その神より穀物(たなつもの)が実らざりしを、
 先におおす(小碓)の尊(日本武尊)、
 東(ひむがし)のまつろわぬ(服従しない)人どもを、
 言向けやわし(平和)に出でましの時、
 海に浮かびて渡らむとし給う時に、
 その渡りの神(渡る所の神)浪を起こして、
 御船たゆたいて(ゆらゆらと揺れ動いて)、
 え進まざりき。
 ここに橘媛、
 尊に代わりて、
 海に入り給わんとする時に、
 諸の采女(うねめみ)供せんとて、
 共に海に入り、給えば、
 凪(なぎ)で御船はえ進みき。
 彼、な(魚)取船どもを集(つど)いて、
 みまを、まきたしかども(意味不明)、
 みまをまきいつして(意味不明)、
 トミと云う人、
 姫の御櫛を出で奉りしかば、
 夕日の日照るころとて、
 御塚造らし御給いき。
 そこより出でまして、
 この浦の魚取船に、
 御えぐ(?)を乗せて、
 渡らせ給う時に、
 その船の遠く続きしかば、
 船の尾長しとの給えけろ(る?)。
 尊の御船を納めし山、
 船の形をなせり。
 これを船塚と言いき。
 尊、くぬが(陸処)に上がりて、
 返り見給う時に、
 水鳥の沢に集へおりしを、
 見そなわして、
 旗に印あるが如しと
 のり給いて、
 こはすめら(皇)大神の
 御教えの御印とこそ、
 喜びつつ、
 松杉の生え茂りし山に登りて、
 道暗山とのり給えて、
 杉木の洞(ウロ)に鏡を掛けて、
 伊勢の大御神を
 おろか(拝み)み給いき。
 彼、この鏡を、
 崇め祀れば、
 米麦(コメムギ)おのれに(自然に)実ると、
 のらしめ給いて、出でましき。
 彼、御教えのままに、
 崇め祀りしに、
 まことにのらせ給う 
 かことなりきと聞けりとえひき(誠に告げられたごとくになったと聞いたとおっしゃった)。
 彼、ここに岩の国魂置きつ、
 鏡と崇め祀りて
 大宮柱太しり建てて(どっしりと建て)(大宮柱太敷立て→中臣祓・伊勢祝詞参照)
 祝(斎)い祀りて
 天照らすわかひるめ(稚日霊)の大神と、
 称え祀りしかば、
 奇すしきかな、おふみえつ持ちて、
 甘き雨降り、甘き水湧き、
 出でしにや。
 みつく田も、
 くが田(畑)も日につきに(日に日に)いやましに(益々)開け、
 いやたわに(はなはだ多く)実りしかば、
 民悦んで、
 大神をいと敬いき。 
 彼、大御神の
 我に教えしへ給わく、
 洞木の下に珠あり。
 掘り出して、
 わかむすび(稚産霊)の神を祀れと
 教え給えき。
 彼、夢の教えのままにして、
 七つの珠を取り出して合わせ祀りて、
 勾玉(まがたま)の大神と
 祝い祀りしかば、
 天のましひとらいやましにまして(人々は増えに増えて)
 富もたすわしすき(満ち足りた)。
 彼、ここに、すめらみことの
 たなか(?)の大御代は、
 天地日月と共に、
 とこは(常盤)に守り給えて、
 さ(狭)き国は広く、
 かしき(険しい)国は開けく、
 五種(くさ)のたなつもの(穀物)豊かに
 むくさかにみのらし給えと(豊かに益々栄えよと)、
 わめなの次々にえたりても(子孫の継々に至っても)、
 ねぎ申すこと為せよ(祈りせよ)。
 ほむた(誉田)のすめらみこと(天皇)二十まり七年に、
 我が子、うらなかたつ(浦長多津)の命、
 病に伏して病みこやせり。
 彼、大神の御前に、
 昼は日の暮るる限り(暮れるまで)、
 夜は夜すがら(夜通し)、病癒し給い(病気を癒して下さい)、
 治し給いと(直してくださいと)
 ねき申ししかば(お祈り申し上げたら)、
 一夜の夢の如くして、
 文を書きたりき(書き上げた)。
 覚めて見ると、この文なりき。
 彼、大御神の御心持ちて、
 我が手に書かせ、
 教え給へし文とこそ(であると)、
 悦びつつ、
 文の教えのままに、せしかば、
 奇すしきかな(不思議にも)、
 病いが日に日に癒(いや)されたりき(回復して行った)。
 彼、ここをもちて(これを持って)、
 民をもさわに救えし(民をたくさん救った)、文ぞ。
 をみのなら(?)、
 民をさわに救えよ。
 この文、八方(よも)を記すに、
 天のまなか(ま中)は一に、
 西北のあわへを二に、
 北を三に、
 東北のあわへを四に、
 東を五に、
 東南のあわへを六に、
 南を七に、
 西南のあわへを八に、
 西を九に、
 記しおくものぞ(ものである)。
 天の御中主の、
 神は一をうしはきまして(支配して)、
 あれますひとこまとに、
 中はらの御魂を
 分け給える神なりき。
 たかみむすび(高皇霊)の神は、
 二をうしはきまして(支配して)、
 生れます(お生まれになる)人毎に、
 上はらの御魂を
 分け給える神なりき。
 あしかひ彦ち(葦茅彦遅)の神は、
 三をうしはきまして(支配して)、
 生れます(お生まれになる)人毎にぞ、
 ははらの御魂を
 分け給へる神なりき。
 たまるむすび(玉留産霊)の神は、
 四をうしはきまして(支配して)、
 生れます(お生まれになる)人毎に、
 天の御中主の神と共に、
 なかはらの御魂を
 分け給える神なりき。
 いくむすび(生産霊)の神は、
 五をうしはきまして(支配して)、
 生れます(お生まれになる)人毎に、
 きもの御魂を分け給える神なりき。
 足産霊(たるむすび)の神は、
 六をうしはきまして(支配しまして)、
 生れます(お生まれになる)人毎に、
 生産霊(いくむすび)の神と共に、
 きもの御魂を分け給える神なりき。
 わかひるめ(稚日霊)の神は、
 七をうしはきまして(支配して)、
 生れます(お生まれになる)人毎に、
 思いはかりの御魂を分け給える
 神なりき。
 かみむすび(神産霊)の神は、
 八をうしはきまして(支配して)、
 生れます(お生まれになる)人毎に、
 天の御神主の神と共に、
 中はらの御魂を
 分け給える神なりき。
 わかむすび(稚産霊)の神は、
 九ををうしはきまして(支配して)、
 生れます(お生まれになる)人毎に、
 高産霊の神と共に、
 うわはらの御魂を
 分け給える神なりき。
 彼、この九の柱の神等(たち)
 年毎、月毎に、御めぐりまして、
 日と共に、
 夜ごとさわに給えるものなりき。
 しかあれど(そうではあるが)、
 その御廻りを過ち冒す時は、
 禍事(まがごと)あるものなりき。

【ひらかなカタカナと神代文字考】
 ここで、ひらがなカタカナと各種の神代文字とを比較してみる。フォント化されているのが出雲文字、ホツマ文字、カタカムナ文字である。豊国文字、豊国古体象字とも比較してみたいが適わない。意図するのは、神代文字からひらがなカタカナが発生した可能性を探ることである。学説では、ひらがなカタカナは漢字の崩し文字から由来していると説かれているが、そういう面もあるかも知れない、但し神代文字からの転化の面も考慮に入れねばならないのではなかろうかと思う。論より証拠である。以下確認する。
あ(ア) い(イ) う(ウ) え(エ) お(オ)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
か(カ) き(キ) く(ク) け(ケ) こ(コ)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
さ(サ) し(シ) す(ス) せ(セ) そ(ソ)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
た(タ) ち(チ) つ(ツ) (テ) と(ト)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
な(ナ) に(二) ぬ(ヌ) ね(ネ) の(ノ)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
は(ハ) ひ(ヒ) ふ(フ) へ(へ) ほ(ホ)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
ま(マ) み(ミ) む(ム) め(メ) も(モ)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
(ヤ) い(ヰ) ゆ(ユ) よ(ヨ)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
(ラ) り(リ) る(ル) れ(レ) ろ(ロ)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
わ(ワ) ゐ(ヰ) ゑ(ヱ) を(ヲ)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字
ん(ン)
出雲文字
ホツマ文字
カタカムナ文字

 思うに、か(カ)の平仮名は出雲文字の。き(キ)のカタカナは出雲文字の、カタカムナ文字のく(ク)の平仮名は出雲文字の、カタカナはカタカムナ文字のこ(コ)は出雲文字の、ホツマ文字の。さ(サ)のカタカナは出雲文字の、ホツマ文字の、カタカムナ文字の。せ(セ)は出雲文字の。ち(チ)のカタカナはカタカムナ文字のと(ト)のカタカナはカタカムナ文字の。な(ナ)のカタカナはホツマ文字の。の(ノ)のひらがなは出雲文字の。は(ハ)のカタカナはホツマ文字の。へ(へ)は出雲文字の、ホツマ文字の。ほ(ホ)のカタカナはカタカムナ文字の。も(モ)は出雲文字の。り(リ)はカタカムナ文字の。る(ル)のカタカナはカタカムナ文字の。れ(レ)のカタカナはカタカムナ文字の。ろ(ロ)のカタカナはホツマ文字の。わ(ワ)のひらがなは出雲文字の。ん(ン)のカタカナはカタカムナ文字の

 これらが連想させるかズバリ、ピタリである。他の神代文字がフォント化すれば更に類似を増すように思われる。特に、豊国文字、豊国古体象字をフォント化すれば威力を増すのが分かっている。これらを踏まえれば、一つの推理として、ひらがなカタカナが漢字のみならず当時の神代文字をも俎上に乗せ、その芸術的なアンサンブルとして生み出されたのではないのかとの仮説を生む。これを実証したいと思う。これも、「れんだいこの気づき」の一つであろう。

 2013.12.28日 れんだいこ拝





(私論.私見)