『東照宮遺訓』のこの言葉は多くの人々、とくに戦前派と戦中派の世代には多大の影響を与えた。私は30年ほど前につぎのような経験をした。戦前、満蒙開拓団に参加し、終戦時筆舌に尽くしがたい苦難を体験した岐阜のMさん(私と同世代)と彼の母親の人生を取材したときのことである。逆境の連続のなかをたくましく生き抜いてきた一人の男とその母親を支えたものが「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し……」の格言だった。
Mさんの母の父親は飛騨高山近くのある村の地主で由緒ある神社の神官をしていた。あるとき村人に頼まれて借金の保証人になったために先祖代々引き継いできた広大な田畑を失った。良家の娘としてなに不自由なく育てられ思春期を迎えていたMさんの母親はやむなく名古屋の紡績工場の女工として働くことになった。
私がMさんの母親に会ったのは彼女が60歳のころだったが、気品ある美貌は際立っていた。若いころは大変な美女だったのではないかと感じた。彼女はその工場の重役にみそめられ重役の子を孕む。これがMさんである。Mさんの父親であるその重役には四国に妻子がいた。重役はMさんの母親の妊娠を知ってか知らずか妻子のもとへ去っていった。そのまま消息は絶えてしまった。
Mさんの母親は妊娠したまま、この事情を承知の農家の次男に嫁ぐ。Mさんの義理の父親である。やがて一家は満蒙開拓団に加わり満州へと旅立つ。Mさんには弟と二人の妹ができ、束の間の幸せが訪れたが、昭和20年8月、野蛮なソ連軍の満州侵入により不幸のどん底に突き落とされる。地獄のような逃亡行の過程で二人の妹の悲劇的な死を体験した。そしてやっとたどり着いた祖国もまた飢えていた。Mさんと母親は一心不乱に働いた。……
あるとき、Mさんは母親の強さについて語った際、母親が肌身離さずに最も大切にしているという一冊のノートを私に見せてくれた。そこには美しい墨筆で「東照宮遺訓」の表題のあとに「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし」と書かれていた。
Mさんは「母はあたかもお経を読むように毎日この言葉を繰り返し唱えて、逆境に生き抜くため自らの精神を鼓舞し、自らを奮い立たせてきた。母のような人は少なくなかったと思う」と語った。Mさんの母親は、「人の一生は……」の言葉によって苦難に耐える力を得たのだった。この一言が彼女に生きる力を与えつづけたのだ。言葉の力は偉大である。格言は大切なものだ。人間は一つの箴言によって救われるのである。 |