司馬さんが亡くなられて一年余というわけでもないが、超閑日を持て余し、我が工房版「街道を行く」三十余冊をあちこち飛ばし読み。絶筆となった「濃尾参州記」(これは単行本)の一節にオヤと思った。
「その翌(五月)十九日午前三時、清洲城での信長は、先ず陣貝を吹かせ、甲冑をつけ、立ったままに湯漬を喫し、謡曲『敦盛』の一節をかつ謡いかつ舞ったのは有名である」。ここに言う「敦盛」の一節が、かの「人間五十年、下天の内をくらぶれば」である。司馬さん程の作家がこの思い違いは、絶筆だけに気になった。信長がこの場で謡いかつ舞ったのは、謡曲「敦盛」ではなく、幸若舞の「敦盛」の一節であるからだ。我が会の諸兄姉には「人間五十年」が謡本の「敦盛」のどこを捜しても出ていないこと、既にご承知のことであるが、世間一般は能の謡だと思っているようだ。大河ドラマで渡(哲也)信長あたりが仕舞めいた舞ぶりを見せるためかもしれない。
若き信長の一番恰好のよい場面は、何といっても、富田正徳寺で舅斉藤道三との対面場での「であるか」と、桶狭間出陣の朝である。その様子は、太田牛一が「信長公記」に伝えている。「此時、信長敦盛の舞遊ばし候。人間五十年、下天〈注〉の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を得て成せぬ者はあるべきかと候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、立ちながら御食をまいり、御甲めし候ひて卸出陣なさる」。この「敦盛」が「猿楽能」ではなく、「幸若舞」であることは、同書の尾張の僧天沢長老と武田信玄との間答によって明らかである。「(信玄)その外数奇は何があるとお尋ね候(天沢)舞小うた数奇にて候と申し上げ候へば、幸若大夫来たり候がと仰せられ候間、清洲町人松井友閑と申す者、細細(さいさい)召しよせ、まはせられ候。敦盛一番の外は御舞ひ候はず候。人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり。是は口付きて御舞ひ候」。
能の「敦盛」ほ応永の新作、世阿弥の自信の作である。軍体の能は、「源平などの花鳥風月に作り寄せて、能良けれは何よりも面白し」(花伝物学条々)とあるように、「敦盛」は、笛を作り寄せ、カケリに代えて中ノ舞を舞わせる稚児修羅である。世阿弥の極付の真作であるが残念ながら信長とは縁がない。
では信長口付の愛誦曲「人間五十年」の『本説』と言うべき幸若舞の「敦盛」とはどうゆう曲か。話の順序として幸若舞について借り物の知識をひけらかさせて頂く。
幸若舞は、足利氏の一族桃井直詮(幼名幸若丸)によって創られたとされる舞曲て、別名「舞」と呼ばれた。曲舞系の一種である。先学の研究によれば、幸若とは越前国丹生郡印内村の一聚落の呼称である。この地より出た舞々の一座に八郎九郎・小八郎・弥次郎等の名手が輩出、戦国武将の眷顧を受け士分に取り立てられ、足利末期から織豊期にかけて盛行した。この一派が「幸若」と呼ばれ「舞」を代表する名称となった。九州大江の「大頭(だいがしら)の舞」は幸若派の支流という。現存曲は、平曲物・判官物・曽我物・その他(大職冠・百合若大臣等)約五十番、曲名は謡曲に共通するものが多いが、内容は大きく異なり、謡曲が謡物的であるのに対し、舞は語り物的、文体も一は韻文的、片や散文的である。
芸態は、二人立ちで囃子は小鼓一丁、シテ、ワキの役の分担はなく交互に謡う。十数年前、テレビで「大頭の舞」の放映を見た。素襖烏帽子の三人立ちで、互いにサシたりヒライたり、拍子を踏んだりで、花イチモンメのような動きを繰り返し、小鼓を囃しながら朗誦するだけで、一向に面白くなかった。
さて「本説」たる幸若舞「敦盛」であるが、仲々の雄篇で、三段に構成されている。
第一段 組打ち 遺品〈笛・ヒチリキ・恋文)の依託
第二段 父経盛への形見送り、一門悲嘆、経盛から熊谷への返し状
第三段 熊谷の発心・修行・往生
「人間五十年」の一節は、第二段熊谷発心の件りにある。この名文句、発心の文脈の中でどう納まっているのかを見、また「舞の本」のサンブルを知るために少し長いが引用する。
「さる程に、熊谷は(経盛の返し状)をよくよく見てあれば、菩提の心ぞ起こりける。(寿永四年三月)今月十六日に讃岐八島を攻めらるべしと聞いてあり、我も人も憂き世にながらえて、かかる物憂き目にも、また直実やあはずらめ。思えば此の世は常の住みかにあらず。草葉に置く白露、水に宿る月ょりなほはやし。金谷に花を詠し、栄花は先立って無常の風に誘わるる。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種と思い定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと思い定め」、以下熊谷は都に上り敦盛の獄門首を盗み取って荼毘に付し、遺骨を奉じ、黒谷の法然上人の許に投じて出家する。
以上見られるとおり、伜小次郎直家と同年の公達を我が弓にかけ、世の無常はやがてわが身と、命の儚さを身にしみじみと感じ、菩提の心を発し、遂に遁世を決意するまでの熊谷の心情を、語り物の型どおり、金谷(きんこく)の花南楼の月と詩句等を借りつつ文を飾っての結びの一節が「人間五十年」となる。無常を感じ菩提心を発し出家の決意をする文脈のなかに、見たとおリスンナリと納まっている一節である。「信長公記」永禄三年五月十九日の払暁におけるが如き光亡を、幸若熊谷の「人間五十年」は発していない。
何故か。
信長が、数ある舞曲のうち好んだのは、「敦盛」の一曲、しかも口付きに謡うのは、この「人間五十年」の一ふしである。
一度生を受けた人間の定命は五十年、「下天」の人々の寿命の十分の一に過ぎない。〈注〉その短き儚さを嘆き後世に安楽を求めるよりも、短さを短きままに直視し、その間を思うざま生き抜くべしとの思いが定まったのが、唯一愛誦の「人間五十年」の一節なのだ。
「死のふは一定、しのび草には何をしょぞ、一定かたりおこすのよの」清洲のカラオケバーで一晩中マイクを独占して、信長が熱唱していたであろうこの小歌への執着も、元来恋の気色の漂う歌だが、「死のうは一定」に賭けた生き方を歌い込めで「人間五十年」の一節への思入れと同じ心の働きである。
幸若も小歌も、どうせ死ぬ身の短か世をひたすら密度濃く生き抜くことが、五十年を「永く」生きる途なのだ、が信長の悟りである。
その悟りの実践が、先ず桶狭間であった。四万五千の今川勢に二千足らずで襲いかかろうとする信長は、五十年の生涯をその朝の一瞬に凝縮させたのだ。
こうみてくると、信長の「人間五十年」は「本説」幸若「敦盛」とは、正反対の生き方を指向しているようだ。文句を借りたというだけで、信長の「人間五十年」は、熊谷発心の「人間五十年」とは、生き方の方向が逆である。信長のそれは、幸若舞と言う母胎から産れでた「鬼子」である。とすれば、その謡いが、幸若だ、猿楽だとあげつらうのは、信長に「あれはオレの人間五十年≠セ」と一喝されるのがオチであろう。
〈注〉「下天」と「化天」
信長公記は、「下天」、幸若舞は「化天」と漢字表記している。「舞の本」の底本は「げてむ」とあるよし。どれが正しいか議論があるので注記しておく。
仏教で人の輪廻する世界は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道とする。人間界の上位に位置する天界は、具舎論によれば、下から六欲天・色界・無色界に別れる。下
天(正しくは四天王衆天)=六欲天の最下位に位置し、四天王とその眷属が住む。この天界の一昼夜は人間界の五十年に当たり、住人の定命は五百歳とされる。化
天(正しくは楽変化天)= 六欲天の第五位に位置し、その一昼夜は人間界の八百年、住人の定命は八千歳とされる。何れの天界に比べても人間界の定命は遥かに短く、正に夢幻の如くである。とすれば下天でも化天でも差し支えないようだが、学者にとっては放っておけないことらしい。(会報二六号、平成九年四月五日)
|