亀丘林幸若舞/敦盛

 (最新見直し2006.6.19日)



亀丘林幸若舞/敦盛
 謡曲・「敦盛/亀丘林幸若舞」の一節。太田牛一の信長公記によれば、「桶狭間(おけはざま)の戦い」前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の信長が、「敦盛」のこの一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣した。次のように記している。
「この時、信長敦盛の舞遊ばし候。人間五十年、下天〈注〉の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 一度生を得て成せぬ者はあるべきかと候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、立ちながら御食をまいり、御甲めし候ひて卸出陣なさる」。
  「桶狭間(おけはざま)の戦い」が信長の天下取りの契機になったのは衆知の通りである。
 謡曲・「敦盛/亀丘林幸若舞」の文言は次の通り。
 思えば此の世は 常の住処にあらず 
 草の葉におく白露 水に宿る月より猶あやし
 金谷に花を詠じ 栄華はさきを立って 無常の風にさそはるる
 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先だって 有為の雲に隠れり
 人間五十年 下天の中をくらぶれば 夢幻のごとくなり 
 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか 滅せぬ者のあるべきか
 これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
 「ウィキペディア敦盛 (幸若舞)」参照)。

 1184(元暦元)年、平家方の呼ぶ寿永2年、治承・寿永の乱(源平合戦)の一戦である須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめる。 平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばす。退却船も気付いて岸へ船を戻そうとするが逆風で思うように船体を寄せられない。敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいた。

 そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑む。敦盛はこれに受けあわなかったが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫した。多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じた。しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまう。

 直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知る。直実の同じく16歳の子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり。我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらった。これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。

 一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめる。合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世を儚(はかな)むようになる。

 熊谷直実の父・熊谷直貞は坂東平氏の平盛方の子で私市姓熊谷家の養子となったという家系の伝承があり、同時に直実は源氏方の武将であった。このことが、当演目に深みを与えている。なお、直実の嫡男直家の一ノ谷の戦いでの戦死は脚色である。実際にはその戦いで深手は負ったものの回復しており、後に家督を継いで53歳で死去している。これは当時の平均寿命を全うしたといえる年齢である。

  「人間(じんかん、又は、にんげん)五十年」は、人の世の意。 「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8000歳とされる。「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になる。現代において「人の一生は五十年に過ぎない」という意味に解釈される場合があるが、この一節は天界を比較対象とすることで人の世の時の流れの儚さについて説明しているだけで、人の一生が50年と言ってるわけではない。

 毎年1月20日に大江天満神社の幸若舞堂にて奉納演舞される慣しとなっており、1976(昭和51)年に重要無形民俗文化財に指定されている。
 (幸若舞−敦盛(Japanese traditional entertainment) - YouTube


 亀丘林幸若舞/敦盛の全文
 幸若舞『敦盛』

 そも/\、こたび平家一の谷の合戦に、御一門、侍大将、総じて以上十六人の組足のその中に、もののあはれを留めしは、相国の御弟経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて、もののあはれを留めたり。その日の御装束、いつにすぐれて華やか也。梅の匂いの肌寄の優なるに、唐紅を召され、練貫に色々の糸をもつて、秋の野に草尽し縫ふたる直垂、弓手の手蓋、両面の脛当て、紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差ひたる染羽の矢、村重籐の弓、連銭葦毛なる駒に、梨子地蒔白覆輪の鞍置かせ、御身軽げに召されたる御馬、鎧の毛に至るまで、げにゆゝしくぞ見えられける。御一門と同じ、主上の御供を召され、浜に下らせ給ひしが、御運の末の悲しさは、漢竹の横笛を大裡に忘れさせ給ひ、若上臈の悲しさは、捨てても御出であるならば、さまでの事のあるじきを、且うは、この笛を忘れたらんずる事を、一門の名折りと思し召し、取りに返らせ給ひて、かなたこなたの時刻に、はや御一門の御座船を、遥かの沖へ押し出す。あら、いたはしや、敦盛。塩屋の端を心掛け、駒に任せて落ちさせ給ふ。

 かゝりけるところに、武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実。この度一の谷の先陣とは申せども、させる高名をきはめず、無念類はなかりけり。「あつぱれ、こゝもとを、良からん敵の通れかし。押し並べ、むずと組んで、分捕りせばや」と思ひ、渚に沿ふて下りしが、敦盛を見つけ申す。斜めならずに喜ふで、駒の手綱うつ据ゑて、大音上げて申す。「あれに落ちさせ給ふは、平家方にをきては、良き大将と見え申て候。かう申す兵を、いかなる者と思し召す。武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実。敵にをひては、良き敵候ぞ。まさなくも、敵の鎧の総角、逆板を見せ給ふものかな。引つ返し御勝負候へ。いかに/\」とて、追つかけ申す。あら、いたはしや、敦盛。熊谷と聞し召し。逃れ難くは思し召されけれども、駒に任せて落させ給ふ。

 かゝりけるところに、遥かの沖を御覧ずれば、御座船間近く浮かんであり。あの船を招き寄せ、乗らずものと思し召し、腰よりも、紅に日出したる扇抜き出で、はらりと開かせ給ひて、沖なる船を目にかけて、ひらり/\と招かるゝ。船中の人々に、人しもこそ多きに、門脇殿は、御覧じて、「母衣懸け武者の船招くは、左馬の頭行盛か、無官の太夫敦盛か。あれを見よ」との御諚なり。悪七兵衛承り、船梁につつ立ち上がり、長刀を杖につき、甲を脱いで、きつと見て、「いたはしの御事や。何として御座船に召し遅れさせ給ひけん。経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて渡らせ給ひ候ぞや。召されたる御馬の毛、鎧の毛にいたる迄、まがふ所はましまさず。いたはしさよ」と申しけり。門脇殿は、聞し召し、「敦盛ならば、この船を押し寄せて、助けよ」。水手、楫取、承り、臚櫂、舵を立て直し、船を渚へ寄せんとす。此ほど二三日吹きしほりたる北風の、名残の波は今日も立つ。風はきほおつて、波は強蛇のごとく也。白浪船世(元字は木篇)を洗ひ、砂子を天に上ぐれば、たゞ雪の山のごとくなり。小船こそ、自づから弓手へも馬手へも、思ふ様には扱はるれ、殊に勝れたる大船に、大勢は召されたり。畳む波に塞かれつゝ、次第/\に出づれ共、磯へ寄るべきやうはなし。

 敦盛、この由を御覧じて、「いや/\、この馬を泳がせて、あの船に乗らふずもの」と思し召し、駒の手綱かい繰つて、海上にうち出で、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。いたはしや、敦盛。老武者にてましまさば、三頭に乗り下がつて、時々〃声を立て給はば、御馬は逸物なり、沖の御座船に難なく馬は着くべきに、若武者の悲しさは、馬に離れて叶はじと、思し召されける間、前嵩に乗り懸て、左右の鐙を強く踏み、手綱に縋り給ひて、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。馬逸物とは申せ共、畳む波に塞かれつゝ、泳ぎかねてぞ見えにける。

 熊谷、この由を見参らせ、「まさなの平家や。沖の御座船は、遥かにほどを隔てつゝ、しかも波風荒ふして、いかで叶はせ給ふべき。引つ返し御勝負あれ。さなき物ならば、中差を参らせん」と、弓と矢をうち番つて、そゞろ引てかゝりけり。敦盛、御覧じて、「なか/\錆矢に射当てられ、一門の名折り」と思し召し、駒の手綱引つ返して、遠浅になりしかば、水鞠ばつと蹴立て、染羽の鏑うち番ひ、かうこそ詠じ給ひけれ。「梓弓矢をさし矧げて引く時は返す事をば知るかぞも君」。熊谷も、心ある弓取にて、「あつ」と思ひ、左右の鐙を蹴放つて、返歌と思しくて、かくばかり、「平題箭のはや外れんと思ひしにやと言ふ声に立ちぞ留まる」。かやうに詠じて、待ち受け申す。

 さる間、敦盛、弓と矢をがらりと捨て、御佩刀ひん抜いて、「受けて見よ」とて、打たれたり。熊谷さらりと受け流し、取て直してちやうど打つ。二打ち三打ち、ちやう/\ど打合せけれども、いづれも勝負見えざれば、「寄れ、組まん」、「尤も」とて、互ひに打物がらりと捨て、鎧の袖を引つ違へ、むずと組んで、二人が、両馬の間にとうど落つる。あら、いたはしや、敦盛。御心は猛く勇ませ給へども、老武者の熊谷にて、物の数とはせざりけり。易々と取て押さへ申す。甲ちぎりてがらりと捨て、腰の刀ひん抜いて首を取らんとしたりしが、あまり手弱く思ひ、さしうつぶひて相好を見奉るに、薄化粧の鉄漿黒く、眉太う掃かせ、さもやごとなき殿上人の、年齢ならば十四五かと見えさせ給ふ。熊谷、あまりのいたはしさに、少しくうつろげ申す。「上臈は、平家方にをひては、いかなる御公達にてましますぞ。御名字を御名乗り候へ」。あら、いたはしや、敦盛。老武者の熊谷に、組み敷かれさせ給ひ、よに苦しげなる息をつき、「げにや、熊谷は、文武二道の名人とこそ聞きつるに、何とて合戦に、法なき事をば申すぞ。我らは天下の朝臣とし、雲客の座敷に連なつて、詩歌管弦の道に長じたりし身なりしか共、この二三ヶ年は、一門の運尽き、帝都をあこがれ出しよりこの方、武士の勇める法をば、あら/\聞て候。それ、人の名乗といふは、互ひの陣に群がつて、軍乱れの折から、矢なき箙を腰に付け、鍔無き太刀を抜き持つて、これはしんぢやうその国の、何某、誰某と名乗て、打物の勝負をし、又組んで勝負を決するとこそ聞きつるに、我は敵に押へられ、下より名乗法とは、今こそ聞て候へ。あふ、心得たり、熊谷。名字を名乗らせ首を取つて、汝が主の義経に見せんためな。よし/\、それ、世には隠れもあるまじきぞ。たゞ某が首を取て、汝が主の義経に見せよ。見知る事もあるべし。それが見知らぬ物ならば、蒲の冠者に見せて問へ。蒲の冠者が見知らずは、この度平家の生捕りの、いかほど多くあるべきに、引向けて見せて問へ。それが見知らぬものならば、名もなき者の首ぞと思ひて、叢に捨てての後は用もなし、熊谷」とこそ仰けれ。熊谷承て、「さては上臈は、武士の勇める法をば、詳しくは知ろし召されぬや。世にもの憂きは、我らにて候。君の御意に従つて、身を助けんとすれば、親と争ひ子と戦ひ、はからざる罪をのみ作るは、武士の習ひなり。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、清風朗月飛花落葉の戯れ、尚今生ならぬ機縁と承る。この度の合戦に人しもこそ多きに、熊谷が参り合ふ事を、前世の事と思し召し、御名乗候へ。御首を給て、たゞ奉公の其忠に、後世を弔ひ申すべし」。敦盛は、聞こし召し、「名乗らじものとは思へ共、後世を問はんず嬉しさに、さらば名乗て聞かすべし。我をば誰とか思ふらん。門脇の経盛の三男に、未だ無官は仮名にて、大夫敦盛。生年は十六歳。軍は是が始めなり。さのみに物な尋ねそよ。はや首取れや、熊谷よ」。

 熊谷、承つて、「さては、上臈は、桓武の御末にて御座ありけるや。何、御年は十六歳。某が嫡子の小次郎も、生年十六歳に罷りなる。さては御同年に参候ひけるや。かほどなき小次郎、眉目悪く色黒く、情も知らぬ東夷と思へ共、我子と思へば不便也。あら無残や、直家、直実もろともに、今朝一の谷の大手にて、敵まれいの三郎が放つ矢を、直家が弓手の腕に受け留め、某に向かつて、「矢抜いてたべ」と申せしを、「痛手か、薄手か」と問ばやと思ひしが、いや/\、熊谷ほどの弓取が、敵味方の目の前にて、問ふべきかと思ひ、はつたと睨んで、「あら、言いに甲斐なの直家や。その手が大事ならば、そこにて腹を切れ。又薄手にてあるならば、敵と合ふて討死をせよ。味方の陣を枕とし、私の党の名ばし朽すな」と言ひてあれば、まことぞと思ひ、某が方を、たゞ一目見、敵の陣へ駆け入てよりその後、又二目とも見ざりしなり。さても熊谷が、つれなく命長らへ、武蔵の国に下り、直家が母に逢ひて、討たれたると言ふならば、眼路の母が嘆くべし。経盛とやらんも、花のやうなる若君を、渚に一人残し置き、さこそ嘆かせ給ふらん」。経盛の御愁嘆と、さて直実が思ひをば、物によく/\譬ふれば流水同じ水なれど、淵瀬の変るごとくなり。

 熊谷、あまりのいたはしさに、又さし俯ひて、御相好を見奉るに、嬋娟たる両鬢は、秋の蝉の羽にたぐへ、宛転たりし双蛾は、遠山の月に相同じ、業平の往古、交野の野辺の狩衣、袖打ち払ふ雪の下、翠黛紅顔錦繍の粧ひを、たとへば絵には写すとも、この上臈の御姿を、筆にもいかで尽すべき、熊谷、心に按じけるは、「いや/\、この君の御首を給て、某、恩賞に与りたればとて、千年を保ち、さて万年の齢かや。末代の物語りに、助け申さばや」と思ひ、「なふ、いかに敦盛。平家方にて仰せらるべき事は、「武蔵の熊谷と申者と、波打ち際にて組みは組んで候へども、我が子の直家に思ひ替へ、助け申たり」と、御物語り候へ」と、取つて引つ立奉り、鎧に付たる塵うち払ひ、馬に抱き乗せ奉り、直実も共に馬に乗り、西を指ひて、五町ばかり行き過ぎ、後ろをきつと見てあれば、近江源氏の大将に、目賀田、馬淵、伊庭、三井、四目結の旗差させ、五百騎斗で追つ掛くる。弓手を見てあれば、成田、平山控へたり。馬手の脇には、土肥殿、七騎で追つ掛くる。上の山には九郎御曹司、白旗を差させ、御近習にとつては、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、亀井、片岡、伊勢、駿河、この人々を先として、声/\〃に申すやう、「武蔵の熊谷は、敵と組んづるが、既に助くるは、二心と覚えたり。二心あるならば、熊谷ともに討ち取れ」と、我も/\と追つ掛くる。この君の有様、物によく/\たとふれば、籠の内の鳥とかや。網代の氷魚のごとくにて、漏りて出づべきやうはなし。「人手に掛け申さんより、直実が手に掛け、後世を某弔はばや」と思ひて、又むずと組んでとうど落、いたはしや、御首を、水もたまらず掻き落し、目より高く差し上、鬼のやうなる熊谷も、東西を知らで泣き居たり。

 熊谷、涙を留め、御死骸を、かなたこなたへ押し動かして、見奉れば、鎧の引き合せに、漢竹の横笛を、紫檀の家に篳篥を添へて差されたり。又馬手の脇を見てあれば、巻物一巻おはします。「是は何ならん」と、開いて拝見仕に、あら、いたはしや、敦盛の、都出の言の葉を、くれ/\〃とこそ遊ばしけれ。此君、都に御座の御時は、按察使の大納言資賢の卿の姫君、十三にならせ給ひしが、天下一の美人にてましますを、仁和寺御室の御所にて、月次の管弦の有し時、敦盛は笛の役、同じ楽工にて、琴弾き給ひし御姿を、一目見しより恋と成て、歌に詠み、文に書きこさる。その文、数の重なりて、逢瀬の仲となり給ふ。中三日と申に、平家帝都の花洛を去つて、西海の波濤に赴き給ふ。あら、いたはしや、敦盛。御身は一の谷に御座あると申せども、御心は、さながら都へのみぞ通はれける。思召出されし時に、作られけるかと覚しくて、四季のちやうをぞ書かれける。先づ青陽の朝には、垣根木伝ふ鶯の、野辺になまめく忍び音や。野径の霞あらはれて、外面の花もいかばかり。重ね桜に八重桜。九夏三伏の夏の天にも成ぬれば、藤波いとふか、郭公。夜々の蚊遣り火下燃えて、忍ぶる恋の心す。黄菊紫蘭の秋にもなりぬれば、尾上の鹿、立田の紅葉、枕にすだく蟋蟀、聞かでや、萩の咲きぬらん。玄冬素雪の冬の暮れにもなりぬれば、谷の小河も通ひ路も、みな白妙に、四方なると言へ共、消えて跡もなし。名残惜しき故郷の木々の木末を見捨てつゝ、今は又一の谷の苔路の下に埋もるゝ、経盛の末の子の、無官の太夫、敦盛」と、書き留めてぞ置かれける。かれを見、これを見奉るに、いとゞ涙も塞きあへず。御死骸をば郎等に預け置き、御首、笛、巻物、供に持たせ、大将の御前に参り、この由かくと申し上ぐる。判官、御覧じて、「あら、不思議や。この笛は、某が見知るところの候。それをいかにと申すに、一年、高倉の宮、御謀叛企ての時、天下に、小枝、蝉折とて、二管の笛あり。蝉折をば、三井寺にて、弥勒に回向し給へり。小枝をば、御最後迄持たせ給ふ由、承るが、水無瀬光明山にて、討たれさせ給ひし時、この笛、平家の手に渡る。一門のその中に、笛に器用を召されしに、弱冠なれども、敦盛は、笛に器用の人也とて、下されけると承る。今朝一の谷の内裏役所にて、笛の遠音の聞えしは、この人の吹きけるか」とて、大将涙を流させ給へば、知も知らぬもをしなべて、皆な涙をぞ流しける。

 「敦盛は名大将、熊谷、いしくも仕たり。この度の勧賞には、武蔵の国長井の庄を取らするぞ。急ぎ罷り下れ」との御諚なり。熊谷が郎等ども、所知入せんと喜ぶところに、熊谷、その御返事に及ばず、涙の隙よりも、かくばかり、「人となり人とならばやと思ふさらずはつゐに墨染の袖」。かやうに詠じ、御前を罷り立ち、「何として、敦盛の御死骸を、源氏雑兵の駒の蹄の通ふ処に、捨て置き申すべきぞ。送り申てあればとて、よも罪科には行はれじ。いや/\送り申さばや」と思ひ、塩屋の端に下り、小船一艘拵へ、雑色二人、侍一人相添へ、状を書きしたゝめ、八島の磯へぞ送られける。

 平家は、元暦元年二月七日に一の谷を落ち、浦伝ひして、十三日の早朝に、八島の磯に着く。熊谷が送りの船も、同じ日、八島の磯に着く。敵味方の事なれば、その間はるかに臚櫂を留め、大音上げて申す。「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひに罷り向かつて候。門脇殿の御内なる、伊賀の平内左衛門の尉殿へ、申したき子細の候」と、高らかに呼ばはる。あら、いたはしや、平家は、一の谷を落ち、海路遥かに落延びたれば、左右なふ源氏の勢の、かゝるべしとも、思し召されず、只これ程の朦気には、波枕、楫枕、夢驚かす松の風、命も知らぬ松浦船、こがれて物や思ふらん。心細く思せしに、「源氏の船よ」と聞こし召し、我れ先に/\と、臚櫂を速め、落ち行けども、東国の源氏に会はんと言へる平家なし。

 大臣殿、御覧じて、「不覚なり、方々〃。世は澆季に及びて、時末法に帰すといふ。例へば、異国の樊膾(元字は口篇)が渡て乗つたりとも、あれほどの小船に、何ほどの事のあるべきぞ。誰かある。行き向かつて、聞て参れ」とありし時、平内左衛門承て、「存ずる道候。聞て参り候はん」と、屋形の内へつつと入て、出で立つ。その日の装束は、はなやかにこそ見えにけれ。肌には白き帷子皆な白折て引違へ、褐の鎧直垂の、四の括り緒ゆる/\と寄せさせ、楊梅桃李の左右の小手、白檀磨きの脛当に、獅子に牡丹の脛楯し、糸緋縅の鎧の、巳の時と輝くを、綿噛取つて引つ立て、草摺長にざつくと着、結つて上帯ちやうど締め、九寸五分の鎧通しを、馬手の脇に差いたりけり。一尺八寸の打刀、十文字に差すまゝに、三尺八寸候ひける赤胴作りの太刀佩ひて、梨子打烏帽子に鉢巻し、白柄の長刀を杖につき、我に劣らぬ郎等どもを、七八人相具し、端舟下ろし、打ち乗り、面に楯を蔀ませ、ざゝめかひて押し寄する。樊膾が勢ひも、あふ、かくやと、思ひ知られてあり。

 「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひとは、そも何事の子細ぞや」。送りの者申す。「さん候。敦盛を熊谷が手にかけ申す。あまり御いたはしきによつて、御死骸に色々の武具共、又は進状を相添へ、是迄送り申して候。急ぎ御座船に召され、阿波の鳴門にまします由を承て候が、やはか討たれさせ給ふべき。もし偽りにてや候らん」。送りの者申す。「御不審は理誠偽りをば、たゞ船中を御覧ぜよ」と申す。基国聞て、「げに/\、これは言はれたり」とて、送りの船に、我が船を押し寄せ、長刀を杖につき、送りの船をさし俯ひて見て有ければ、げにと色々の縫物したる直垂に、敦盛の御死骸と覚しきを、押し包みてぞ置きにける。紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差いたる染羽の矢。村重籐の弓もあり。粉ふところはましまさず。基国、余りの悲しさに、長刀をがらりと捨て、送りの船に乗り移り、御死骸に抱き付き、泣け共さらに涙なし。叫べども声は出でざりけり。やゝありて、基国は涙を流し申すやう、「いたはしや、この君の、一の谷を御出での時、この着背長を奉る。おとなしやかに、敦盛の、「いつしか御一門、世が世にまし/\て、四海に風の治まりつゝ、基国に所知領らせみるとだに思ひなば、いかばかり嬉しかるべき」と、仰られしその時は、基国が嬉しさを、何にたとへん方もなし。誠の時には動転し、召されざる敦盛を、一門の御船に召されつゝ、阿波の鳴門にましますと申したる、基国が心の中の不覚さよ。今一度基国かと、仰せ出され候へ」とて、消え入るやうに泣きければ、送りの者も、供人も、「げに理や、道理」とて、皆な涙をぞ流しける。

 送りの者申す。「是は御使ひの身にて候。急ぎ御座船に御移しあれ」と申す。基国聞て、「げに/\思ひに忘じ、思ひ忘れて候」とて、敦盛の御死骸を、我船に移し、大船に漕ぎ寄せ、「この由かく」と申し上ぐる。門脇殿も、経盛も、「何、敦盛が討たれたると言ふか」、「さん候」と申す。「あら不思議や。敦盛は、一門の船に乗り、阿波の鳴門にある由を、風の便りに聞しほどは、いかばかり嬉しかりつるに、熊谷が手に掛り、さては討たれてありけるか」と、涙ながらに出で給ふ。女房達にとりては、女院を始め奉り、宗徒の女官百六十人も、袴の稜を取り、皆な船端に立ち出でて、御死骸に抱き付き、「是は夢かや、現か」と、一度にわつと叫ばれしを、物によく/\たとふれば、これやこの、釈尊の御入滅の如月や、十大御弟子、十六羅漢、五十二類に至るまで、別れの道の御嘆き、かくやと思ひ知られたり。

 やゝありて、父経盛は、落つる涙の隙よりも、「あら無残や敦盛。一の谷を出し時、故郷の方を見送り、心細げにて立たりしを、いさめばやと思ひ、「あら不覚なりとよ、敦盛よ。三代槐門の家を離れ、屍を野山に埋み、名を万天の雲居に挙ぐべき身が、郎等の見る目をも恥よかし」と言ふてあれば、さらぬ体にて、渚まで下りしが、「笛を忘れて候」とて、取りに帰りしその時、共に帰らんと思ひつれども、敵味方に押し隔てられ、又二目とも見ざりしなり。情ある熊谷にて、形見これまで送りたり。空しき死骸、この形見、今日は見つ。明日より後の恋しさを、誰に語りて慰まん。なふ、人々」との給ひつゝ、悶へ焦がれ給ひけり。平家方の人々は、今一人の涙なり。

 その後、熊谷が送たる状を召し出し、「大将なれば、この状を、もし義経ばし送りてあるか」。使ひは是非を弁へず、たゞ「門脇殿へ」とばかり申す。とても伊賀の平内左衛門へと書たる状にてある間、「家長、文を仕れ」、「承り候」とて、船の船世(元字は木篇)に跪き、状を賜り、差し上げ、高らかにこそ読ふだりけれ。直実謹言。不慮にこの君と参会し奉し間、直に勝負を決せんと欲する刻、俄に怨敵の思ひを忘じ、却而武芸の勇み消え、剰は守護を加へ奉るところに、多勢一同に競い懸て、東西にこれは居る。かれは多勢、是は無勢。樊膾却而張良が芸を慎む。たま/\直実は、生を弓馬の家に生れ、巧を洛城に廻らし、命を同す。陣頭が夕、瀬ゞ万/\に及んで、自他かくの面目を施せり。さても、この度、悲しきかなや、この君と直実、深く逆縁を結び奉るところ、嘆かしきかな、拙きかな。この悪縁を翻すものならば、永く生死の絆を離れ、一つ蓮の縁とならんや。閑居の地所をしめしつゝ、御菩提を懇ろに弔ひ申すべき事、誠偽り、後聞隠れなく候。この趣をもつて、御一門の御中へ、御披露あるべく候。よつて恐惶謹言。元暦元年二月七日。武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実。「進上。門脇殿の御内なる伊賀の平内左衛門殿へ」と読ふだりけり。御一門雲客卿相、同音に「あつ」と感じ給ひ、「げにや、熊谷は、遠国にては、阿傍羅刹、夷なんどと伝へしが、情は深かりけるぞや。文章の達者さよ。筆勢のいつくしさよ。かほど優しき兵に、返状なくて叶はじ」と、大臣殿返状を、経盛の自筆に遊ばして賜ぶ。

 使ひは文を給はり、急ぎ一の谷に漕ぎ戻り、熊谷殿に見せ奉る。熊谷、「いかんとして、弓矢の冥加なくしては、経盛の御自筆を拝み申さん」と、三度戴き、開いて拝見仕る。その御書に曰く、「敦盛が死骸、並びに遺物給はり訖。この度、花洛を打立しよりこの方、なんぞ二度思ひ返す事のあらんや。盛んなる者の衰ふるは無常の習ひ。会へる者に別るゝ事、穢土の習ひ。釈尊、羅候(元字は目篇)羅(らごら)、天の一子の別れにあらずや。いはんや凡夫をや。去ぬる七日に打ち立てしより以来、燕来たつて語らへど、その姿を見ず。帰雁翼を連ね、空に訪れ通るといへど、その声を聞かず。されば、彼遺跡の聞かまほしきによつて、天に仰ぎ地に伏し、これを祈る。神明の納受、仏陀の感応を待つところによつて、七日が内にこれを見る。内には信心をいたし、外には感涙袖を浸すによつて、生れ来たれるに会へり。喜悦の芳意なくしては、いかゞその姿を二度見ん。すみ、すこぶる須弥の頂低うして、蒼海却而浅し。進んで是を報ぜんとすれば、過去遠々たり。退き応へんとすれば、未来永々たる物か。万端多しと言へど、筆紙に尽しがたし。是は武蔵の熊谷の返し状」とぞ、読ふだりける。

 去る程に、熊谷、よく/\見てあれば、菩提の心ぞ起りける。「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞きてあり。我も人も、憂き世に長らへて、かゝる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。「思へば、この世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思ひ定め、急ぎ都に上りつゝ、敦盛の御首を見れば、もの憂さに、獄門よりも盗み取り、我が宿に帰り、御僧を供養し、無常の煙となし申す。御骨ををつ取り首に掛け、昨日までも今日までも、人に弱気を見せじと、力を添へし白真弓、今は何にかせんとて、三つに切り折り、三本の卒塔婆と定め、浄土の橋に渡し、宿を出でて、東山黒谷に住み給ふ法然上人を師匠に頼み奉り、元結切り、西へ投げ、その名を引き変へて、蓮生房と申す。花の袂を墨染の、十市の里の墨衣、今きて見るぞ由なき。かくなる事も誰ゆへ、風にはもろき露の身と、消えにし人のためなれば、恨みとは更に思はれず。

 かくて蓮生、黒谷に籠居し、正念念仏申てゐたりしが、ある時、蓮生、心の内に思ふよう、「紀の国に御立ある高野山へ参らばや」と思ひ。上人に御暇申し、頭陀の縁笈肩に掛け、頼む物は竹の杖、黒谷を、まだ夜を籠めて出でけるが、都出での名所に、東を眺むれば、誓願寺、今熊野、清水、八坂、長楽寺。彼清水と申すは、嵯峨の帝の御願所、すみともの造立、田村丸の御建立、大同二年に建てられ、万の仏の願よりも、千手の誓ひは頼もしや。「敦盛の聖霊頓証菩提」と回向して、西を眺むれば、丹波に老の山、下り口に谷の堂、峰の堂。北を帰て見送れば、内野を出でて蓮台野、舟岡山の墓じるし、見るに涙も塞きあへず。南を眺むれば、東寺、西寺、四塚、年はゆけども老もせぬ、六田川原とうち眺め、山崎、宝寺、関戸の院をうち過ぎ、八幡の山を下向して、惟喬の親王の御狩せし、交野の原を通り、禁野の雉子は子を思ふ。鵜ど野に茂き籬垣の、宿を過れば糸田の原、窪津の王子を伏し拝み、天王寺へぞ参りける。天王寺と申すは聖徳太子の御願なり。七不思議の有様、劫は経るとも尽きすまじ。亀井の水の流れ絶えぬぞ尊かりけると、伏し拝み候ひて、天野に参らるゝ。大明神と申すは高野の鎮守でおはします。「御山に法師を授けてたばせ給へ」と、懇ろに祈誓申て、はや高野山へ参らるゝ。忝くも高野山と申は、帝城を去つて二百里、郷里を離れ無人声、八葉の峰、八つの谷、峨ゝとして岸高し。青嵐梢を鳴らせど、夕日の影のどか也。

 相賀の寺より、御影堂の谷、胎蔵界の大日、百八十尊を表せり。金堂の本尊は、阿■(あしゅく)、宝生、弥陀、釈迦、これ又大師の御作なり。大塔と申すは、南天の鉄塔を学んで、兜率天のばんりを象り、十六丈の宝塔、上は千体の阿弥陀、中は千手の二十八部衆、下は薬師の十二神。生/\〃世々に際なく、衆生悪所の罪消え、来迎の三尊を拝むぞ尊かりけると、伏し拝み候て、奥の院へぞ参りける。道の辺りの白骨は、砂子を撒くがごとく也。いよ/\念仏申、奥の院へ参り、敦盛の御骨を籠め置き、蓮華谷の傍らに、知識院と申庵室を結び、峰の花を手折り、閼伽の水を掬び、行ひすまし、蓮生八十三と申すに、大往生を遂げにけり。悪に強ければ、善にも強し。文武二道の名人、漢家は知らず、本朝に、かゝる兵あらじと、感ぜぬ人はなかりけり。(岩波書店刊「舞の本」新日本古典文学大系59を底本としました)


  橋本博夫「人間五十年」転載。
 司馬さんが亡くなられて一年余というわけでもないが、超閑日を持て余し、我が工房版「街道を行く」三十余冊をあちこち飛ばし読み。絶筆となった「濃尾参州記」(これは単行本)の一節にオヤと思った。

「その翌(五月)十九日午前三時、清洲城での信長は、先ず陣貝を吹かせ、甲冑をつけ、立ったままに湯漬を喫し、謡曲『敦盛』の一節をかつ謡いかつ舞ったのは有名である」。ここに言う「敦盛」の一節が、かの「人間五十年、下天の内をくらぶれば」である。司馬さん程の作家がこの思い違いは、絶筆だけに気になった。信長がこの場で謡いかつ舞ったのは、謡曲「敦盛」ではなく、幸若舞の「敦盛」の一節であるからだ。我が会の諸兄姉には「人間五十年」が謡本の「敦盛」のどこを捜しても出ていないこと、既にご承知のことであるが、世間一般は能の謡だと思っているようだ。大河ドラマで渡(哲也)信長あたりが仕舞めいた舞ぶりを見せるためかもしれない。

 若き信長の一番恰好のよい場面は、何といっても、富田正徳寺で舅斉藤道三との対面場での「であるか」と、桶狭間出陣の朝である。その様子は、太田牛一が「信長公記」に伝えている。「此時、信長敦盛の舞遊ばし候。人間五十年、下天〈注〉の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。 一度生を得て成せぬ者はあるべきかと候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、立ちながら御食をまいり、御甲めし候ひて卸出陣なさる」。この「敦盛」が「猿楽能」ではなく、「幸若舞」であることは、同書の尾張の僧天沢長老と武田信玄との間答によって明らかである。「(信玄)その外数奇は何があるとお尋ね候(天沢)舞小うた数奇にて候と申し上げ候へば、幸若大夫来たり候がと仰せられ候間、清洲町人松井友閑と申す者、細細(さいさい)召しよせ、まはせられ候。敦盛一番の外は御舞ひ候はず候。人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり。是は口付きて御舞ひ候」。

 能の「敦盛」ほ応永の新作、世阿弥の自信の作である。軍体の能は、「源平などの花鳥風月に作り寄せて、能良けれは何よりも面白し」(花伝物学条々)とあるように、「敦盛」は、笛を作り寄せ、カケリに代えて中ノ舞を舞わせる稚児修羅である。世阿弥の極付の真作であるが残念ながら信長とは縁がない。 

 では信長口付の愛誦曲「人間五十年」の『本説』と言うべき幸若舞の「敦盛」とはどうゆう曲か。話の順序として幸若舞について借り物の知識をひけらかさせて頂く。

 幸若舞は、足利氏の一族桃井直詮(幼名幸若丸)によって創られたとされる舞曲て、別名「舞」と呼ばれた。曲舞系の一種である。先学の研究によれば、幸若とは越前国丹生郡印内村の一聚落の呼称である。この地より出た舞々の一座に八郎九郎・小八郎・弥次郎等の名手が輩出、戦国武将の眷顧を受け士分に取り立てられ、足利末期から織豊期にかけて盛行した。この一派が「幸若」と呼ばれ「舞」を代表する名称となった。九州大江の「大頭(だいがしら)の舞」は幸若派の支流という。現存曲は、平曲物・判官物・曽我物・その他(大職冠・百合若大臣等)約五十番、曲名は謡曲に共通するものが多いが、内容は大きく異なり、謡曲が謡物的であるのに対し、舞は語り物的、文体も一は韻文的、片や散文的である。

 芸態は、二人立ちで囃子は小鼓一丁、シテ、ワキの役の分担はなく交互に謡う。十数年前、テレビで「大頭の舞」の放映を見た。素襖烏帽子の三人立ちで、互いにサシたりヒライたり、拍子を踏んだりで、花イチモンメのような動きを繰り返し、小鼓を囃しながら朗誦するだけで、一向に面白くなかった。

 さて「本説」たる幸若舞「敦盛」であるが、仲々の雄篇で、三段に構成されている。

  第一段 組打ち 遺品〈笛・ヒチリキ・恋文)の依託

  第二段 父経盛への形見送り、一門悲嘆、経盛から熊谷への返し状

  第三段 熊谷の発心・修行・往生

 「人間五十年」の一節は、第二段熊谷発心の件りにある。この名文句、発心の文脈の中でどう納まっているのかを見、また「舞の本」のサンブルを知るために少し長いが引用する。

 「さる程に、熊谷は(経盛の返し状)をよくよく見てあれば、菩提の心ぞ起こりける。(寿永四年三月)今月十六日に讃岐八島を攻めらるべしと聞いてあり、我も人も憂き世にながらえて、かかる物憂き目にも、また直実やあはずらめ。思えば此の世は常の住みかにあらず。草葉に置く白露、水に宿る月ょりなほはやし。金谷に花を詠し、栄花は先立って無常の風に誘わるる。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種と思い定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと思い定め」、以下熊谷は都に上り敦盛の獄門首を盗み取って荼毘に付し、遺骨を奉じ、黒谷の法然上人の許に投じて出家する。

 以上見られるとおり、伜小次郎直家と同年の公達を我が弓にかけ、世の無常はやがてわが身と、命の儚さを身にしみじみと感じ、菩提の心を発し、遂に遁世を決意するまでの熊谷の心情を、語り物の型どおり、金谷(きんこく)の花南楼の月と詩句等を借りつつ文を飾っての結びの一節が「人間五十年」となる。無常を感じ菩提心を発し出家の決意をする文脈のなかに、見たとおリスンナリと納まっている一節である。「信長公記」永禄三年五月十九日の払暁におけるが如き光亡を、幸若熊谷の「人間五十年」は発していない。

 何故か。

 信長が、数ある舞曲のうち好んだのは、「敦盛」の一曲、しかも口付きに謡うのは、この「人間五十年」の一ふしである。

 一度生を受けた人間の定命は五十年、「下天」の人々の寿命の十分の一に過ぎない。〈注〉その短き儚さを嘆き後世に安楽を求めるよりも、短さを短きままに直視し、その間を思うざま生き抜くべしとの思いが定まったのが、唯一愛誦の「人間五十年」の一節なのだ。

 「死のふは一定、しのび草には何をしょぞ、一定かたりおこすのよの」清洲のカラオケバーで一晩中マイクを独占して、信長が熱唱していたであろうこの小歌への執着も、元来恋の気色の漂う歌だが、「死のうは一定」に賭けた生き方を歌い込めで「人間五十年」の一節への思入れと同じ心の働きである。

 幸若も小歌も、どうせ死ぬ身の短か世をひたすら密度濃く生き抜くことが、五十年を「永く」生きる途なのだ、が信長の悟りである。

 その悟りの実践が、先ず桶狭間であった。四万五千の今川勢に二千足らずで襲いかかろうとする信長は、五十年の生涯をその朝の一瞬に凝縮させたのだ。

 こうみてくると、信長の「人間五十年」は「本説」幸若「敦盛」とは、正反対の生き方を指向しているようだ。文句を借りたというだけで、信長の「人間五十年」は、熊谷発心の「人間五十年」とは、生き方の方向が逆である。信長のそれは、幸若舞と言う母胎から産れでた「鬼子」である。とすれば、その謡いが、幸若だ、猿楽だとあげつらうのは、信長に「あれはオレの人間五十年≠セ」と一喝されるのがオチであろう。

〈注〉「下天」と「化天」

 信長公記は、「下天」、幸若舞は「化天」と漢字表記している。「舞の本」の底本は「げてむ」とあるよし。どれが正しいか議論があるので注記しておく。

 仏教で人の輪廻する世界は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道とする。人間界の上位に位置する天界は、具舎論によれば、下から六欲天・色界・無色界に別れる。下 天(正しくは四天王衆天)=六欲天の最下位に位置し、四天王とその眷属が住む。この天界の一昼夜は人間界の五十年に当たり、住人の定命は五百歳とされる。化 天(正しくは楽変化天)= 六欲天の第五位に位置し、その一昼夜は人間界の八百年、住人の定命は八千歳とされる。何れの天界に比べても人間界の定命は遥かに短く、正に夢幻の如くである。とすれば下天でも化天でも差し支えないようだが、学者にとっては放っておけないことらしい。(会報二六号、平成九年四月五日)





(私論.私見)