「悪を弁護しているのではありません。ただ、覇気とか活気とか気力とかは、善悪には関係なく発揮される性質を持つ。それに、野の百合とソロモンの栄華がともに存在するのが、人間世界の現実でもあるのです」。 |
「哲学とは、ギリシャ哲学に尽きるのであって、それ以降の哲学は、キリスト教と哲学の一体化という、所詮は無為に終わるしかない労力の繰り返しではなかったか。無用の労の繰り返しというのでは過激すぎるのなら、ギリシャ哲学の打ち上げた命題に、時代ごとの答えを与えようとした労力、と言い換えても良い。なぜなら、宗教とは信ずることであり、哲学は疑うことです。唯一の原理の探求も、哲学では、原理の確立と破壊を繰り返し行うことによって成されるものであって、いつたん打ち立てた原理を神聖不可侵なものとして堅持し続けることで成るものではない。哲学はギリシャ哲学に尽きると云ったのは、ギリシャ時代は多神教だったので、神聖にして不可侵としなければ成り立たない、一神教の規制を受けずに済んだからです」。 |
「言語には、他者への伝達の手段としてだけではなく、言語を使って表現していく過程で自然に生まれる、自分自身の思考を明快にするという働きもある。明晰で論理的に話し書けるようになれば、頭脳のほうも明晰に論理的になるのです。つまり、思考と表現は、同一線上にあってしかも相互に働きかける関係にもあるということ。また、流れが変われば、自分の眼で見、自分の頭で考え、自分の言葉で話し書く魅力に目覚めるのも当然の帰結です」。 |
「人間とは、見たくないと思っているうちに実際に見えなくなり、考えたくないと思いつづけていると実際に考えなくなるものなのです。その例証としては適当かどうかは分かりませんが、一般のドイツ人と強制収容所に送られて死んだユダヤ人を思い起こしてください。ドイツ人の多くは、強制収容所が存在することは知っていた。昨日まで親しくしていた友人が突然に姿を消したのにも、気づかなかったはずがない。ただ、そういうことは見たくないし考えたくないと思いつづけているうちに、実際に見えなくなり考えなくなってしまったのです。戦争が終わったとき、ドイツ人は一様に言った。我々は知らなかったのだ、と。これは知りたくないと思いつづけたからに過ぎません。
ユリウス・カエサルの言葉に、次の一文があります。『人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない』。この一句を、人間性の本質を突いてこれに勝る言辞は無し、といって自作の中で紹介したのは、マキャベリでした。ユリウス・カエサルは古代のローマ人、マキャベリは、それよりは一千五百年後のルネサンス時代のフィレンツェ人。カエサルの言を『再興』した中世人は、一人も存在しません。つまり、中世の一千年間、カエサルのような考え方は、誰の注意も引かなかったということでしょう」。 |