近藤栄蔵、仮題「理論と実践」

 (最新見直し2006.6.19日)



【近藤栄蔵、仮題「理論と実践」】
 
 「日本の古い社会主義者は大概、一応、キリスト教の門をくぐってから、社会主義の道に入っている。これは荒畑君が自伝のどこかで云う通り、キリスト教が明治のその頃の日本における進歩思想を代表していた為である。ところが私の場合においては、既にキリスト教が進歩的思想と認められない時代と環境の下に思想の変化を来たしたが故に、キリスト教の洗礼を抜きにして社会主義に入門し、自由民権説を素通りしてマルクス主義に突入し、しかもそのマルクス主義に於いても、資本論などに没頭することなくして、一足飛びにレー二ズムに渡りついている。つまり私は、社会思想に関する限り、年数をかけた本科生ではなくて、速成科卒業だったのだ」。
 概要「社会思想面に関する限り、私が本科ではなく速成科卒業であることは、マルクス主義のドグマチストに陥ることから私を救うている。社会主義者としてのこの出発条件が、その後大正、昭和に於ける社会主義者としての私の行動を決定付けた。私は何処までも社会運動家で、社会思想家ではない。私の有つ理論はすべてナベ釜同様の実用品で、象牙の塔にお祭りするような神聖体では一つもない。それだけに私は、理論を惜しげなく何にでも使うと同時に、もはや使用に耐えぬと観たら、いつでも惜しげなく棄てる。この私の態度の故に、ドグマチックな同士の眼には、私が裏切者と疑われたり、変節漢に見えたりして、『転向者』に分類される訳だろうが、私としては、理論は人間の道具に過ぎぬ。道具は仕事の都合で変えて一向に差し支えない。否、変えられねばならぬものだという論法である。人類の幸福増進と人智の発達普及の道具としての社会理論を私はかく取り扱って来た。学者にはこうした態度は罪悪であろう。だが私は自分で学者と思ったことはないし、また実際学者でないのだから、平気なみのである。私は人類福祉の為に犠牲となる用意は常にもっているが、理論と心中することは御免だ。
 「社会制度を変えさえすれば人間が変る、人間と人間の相互関係を変更すれば、そこに人間行為に変化がもたらされるという唯物史観の見透しは正しい。だが、人間の社会的行為の背後には、長い時間が築いた習慣という強い要素があること、而してそれを打破して新たなる習慣を築くには、やはり相当に長い時間を要することを、私はこの南露の旅で教わった」。





(私論.私見)