心得歌

 (最新見直し2015.05.24日)

【甚句】
 

女人の俳句

女だからといって、女の俳句は斯くあらねばならぬということはおかしいことである。一人の俳句作者として、その詠み上げる素材が女人の世界であり、その詠み方が女らしいということは、男の俳句と本質に異なるものではないからだ。

ただどの世界でもそうであるように俳句界でも、圧倒的に男が多くて、女流の存在は稀少だから、そこに稀少価値のようなものが生じ、男たちは女流の詠んだ句に、男の感じることのできない女人世界が詠まれていることは、俳句本質とは別の興味をもつことがないとはいえない。

しかし、すぐれた女流俳人は、女というハンディキャップにかかわりなく、立派な仕事をしている。杉田久女などがよい例である。

朝顔や濁り初めたる市の空
防人の妻恋ふ歌や磯菜摘む
蕗の薹ふみてゆきゝや善き隣
摘み移る菊明るさよ篭にあふれ
谺して山ほととぎすほしいまゝ
栴檀の花散る那覇に入学す
風に落つ楊貴妃桜房のまゝ

久女は、自我のはげしい人で、「同時代の女流には誰にも負けない」、と自ら恃み努めました。こういう型の女流は、今日では見られない。

久女に俳句を学んだ橋本多佳子は、後、山口誓子門に入り、男の道をゆく女流として、認められた。調子の高い、力強い叙法をとっていたが、円熟するに従って豊麗な女の叙情を示した。

曇り来し昆布干場の野菊かな
雪原の極星高く橇ゆけり
濤うちし音返りゆく障子かな

等が、夫君をうしなってからは、

雪はげし抱かれて息のつまりしこと
雄鹿の前吾もあらあらしき息す
女の鹿は驚きやすし吾のみかは
ほとゝぎす新しき息継ぎにけり
夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

など奔放なまでの、力強い叙法ながら、女の叙情をうちだした。

紙漉女と語る水音絶え間なし
日当ればすぐに嬉しき紙漉女

は、人生の年輪を重ねた女流が、働く女たちに寄せる心がよく出ている。

桂信子は若くして夫をうしない、一人自活しつつ多くの俳句を発表している。皆さんと世代的には一番身近いのではないかと思う。

ひとづまにえんどうやはらかく煮えぬ
月あまり清ければ夫をにくみけり
夫逝きぬ父母遠く知り給はず
雁なくや夜ごとつめたき膝がしら
誰がために生くる月日ぞ鉦叩
ゆるやかに着てひとゝ逢ふ螢の夜
ひとり臥てちちろと闇をおなじうす
女若くあやめ切るにも膝まげず

わずか八句だが、作者の境涯と女人のかなしみを見ることができる。

私はこれらの句を学べというつもりはない。むしろ、もっと平凡な庶民妻であり、つつましく嫁ぐ日を待つ乙女である人々の日常の生活の中から、曇りない目で日常性をつきやぶって新しい俳句を見出していただきたいと思うものである。

婦人の俳句は、一般的に言って叙述的、主観的であって感動の対象たる事物そのものを、確実に観照把握して正確な表現をするという句はあまりみられない。感動による気分、情緒をただちに言葉にのせようとするところがある。または、生活上のある情緒を伴う行為をのべる、その行為を読者のうちに追わせて、その情緒の世界にひき入れるといった句が多い。このことは少しもわるいことではないが、短い言葉しか使えない俳句では、情緒や行為はどうしても外形的に大まかにしかいえないので、だんだん類型的になり、平板になってしまいがちである。

私は写生論者ではないが、俳句ではどうしても、具象把握、ものをしっかり見てたしかにつかんでいないと、句がどうしてもあまく浮わついてしまう。斉藤茂吉は、

「写生の態度は、何事も軽蔑しないという態度、いゝ加減に看過してしまはないという態度から出発したもの」だと言っている。

俳句の定められた形の中で、自由な感情表現をするといったところで、言葉としては何ほどのこともいえない。わずか五文字、七文字の感情語、それにいくとおりもの段階、ニユアンスの差があるにしても、要するにたかのしれたものだ。そこで、そういう感情の触発された「こと」なり「もの」が必ず具体的にあるわけであるし、またそういう感情のままになしていること、見ている「もの」があって、その事物には作者の感情が移っているはずであるから、その事物をいいかげんに句の中にとり入れるといった「かいなで」のことをしないで、感情をただちにうたうことを急がないで、事物のほうをしっかり見ることが肝要だと思う。その事物を描き出す言葉の中に、おのずから感情はこもってくるはずだからだ。ここのところになると、多くの句を読み、努力して作句をつづけることによって、その技法を心得てくるものである。

感情というものは文字に定着しがたいものであって、大胆な言葉で感情を奔放に表現するといったところで、けっきよくは、読者の感情を外形的にある程度共鳴させるにすぎないので、具象物の、しっかりした裏打ちによって、ゆるぎなく、まぎれなく読者に追体験せしめ、同じ感動を起させるにしくものではない。

妻二タ夜あらず二タ夜の天の川     草田男

には作者の感情を示す語はない。そこにあるのは、妻のいない二タ夜、昨夜も今夜も相同じく、さんとして中空にかかる天の川の、的確無比の実在感だけだ。しかも、常にともにいるべき妻のいない空虚感、寂寥、恋心が、千万語をつらねる以上に惻々として伝わってくるのである。同じ作者に、

妻のみ恋し紅き蟹などを嘆かめや

は、強烈な感情表白をやっているが、そしてさすがリアルに強く訴えてくるが、前句のような深さ、たしかさには及ばない。安易にこんな句を学べば、鼻もちならぬあまい句かコケオドカシになってしまうことであろう。

(『俳句哀歓』 第1部「作句心得」所収)

【相撲甚句】
 

薩摩男児心得の条

1.約束を守ると男が腐る

2,命は人のために使うものではない

3,必ず驕り高ぶり弱者には強く有るべし

4.行動は常にチンピラのごとし

5.不本意に婦女子に悲しみ与えることが美徳とす

6.不正な手段で利益を上げることが薩摩男児の鑑とす

7.法を超越した理性と勇気、そんなもの有ってはならない

8.いかなるときも信条曲げてこそ薩摩男児

9.無暗に争うからこそ薩摩男児の心意気

10.死すべき場では誰かを犠牲に


以上!

 

【ちゃんこ鍋】










(私論.私見)