和歌

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.3.20日



 「Wikipedia和歌」

 和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。
「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。

 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。

 「和歌」の語は漢詩に対比される日本語詩を意味する言葉として造られた。『万葉集』の題詞に同義の「倭歌」「倭詩」や日本語の挽歌を意味する「日本挽歌」の字句が見られる。なお、『万葉集』題詞に見られる「和歌」は応答歌、唱和歌を意味し、この項の「和歌」とは別義である。
 和歌は、素盞嗚尊が以下の歌を詠んだのがはじまりであるという伝説がある。「やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを」(八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を)。吉田松陰が幕府の大老・井伊直弼が推進した安政の大獄によって捕らえられ、斬刑 に処されたのが1859年10月27日。時に、三十一文字(みそひともじ)の時世句は次の通り。「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」。1830(文政13)年8月4日、萩城下松本村に長州藩士の次男として生まれてから、1859(安政6)年10月27日に亡くなるまでに、松下村塾の主宰者として、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、山田顕義(あきよし)らを育てた松陰。

 和歌はこの形式、即ち五七五七七と句を連ね、三十一字でつづる短歌のことを指す。古今和歌集仮名序が、「すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける」と記されていることから、和歌のことを「みそひともじ」(三十一文字)ともいう。しかし和歌には、古くは短歌のほかにも長歌や旋頭歌という形式のものがあった。
 和歌には、掛詞(かけことば)、枕詞(まくらことば)、序詞(じょことば)、縁語、係り結び、本歌取りなど様々な修辞を駆使した技巧的な歌が多く、複雑になっている。

 「縄文人の志葉楽さんのブログ」の2019.9.27日付け「みそひともじ【三十一文字】和歌(わか)」参照。
 「三十一文字」(みそひともじ)

 日本語の一文字は一音を表すので固定長での言葉遊びができる。万葉集などの和歌集は、時代を超えて、たった三十一文字(みそひともじ)で、”今”を生きた歌人たちの情緒あふれる物語を現代の私達に伝えてくれる。


 1首が仮名で31文字からなる句を短歌又は和歌と云う。俳句は短歌から派生している。室町時代、上の句に下の句をつなげていく「連歌」の遊戯性の中から生まれてきた文芸が俳諧として確立し、「発句」(最初の五七五)と「連句」(それにつながる七七)のうち、17世紀に現れた松尾芭蕉によって単独でも鑑賞に堪えうる世界をもった自立性のある文芸として多くの「発句」が読まれたのが俳句の源流である。近代文芸的なものにしたのが明治時代の正岡子規である。門下に河東碧梧桐から始まる「自由律俳句」、種田山頭火や尾崎放哉の自由闊達句につながって行く。

 短歌は三十一文字(みそひともじ)の文学と言われる。正しくは「五音・七音・五音・七音・七音」の三十一音からなる句である。なぜ三十一文字なのかについては別途考察を要する。平安時代、紀貫之が「土佐日記」の冒頭にて「男もすなる日記といふ(う)ものを、女もしてみむ(ん)とてするなり」と記しているように女性が使用する文字がかな文字だった。当時、男性が使用する文字は漢字、文章は漢文。漢字は「真名」(まな)、ひらがな(現在のひらがなだけではない。当時はいろいろあり現在それらを変体仮名と読んでいる)は「仮名」(かな)。「真」に対して「仮」という序列だった。




(私論.私見)