回し文歌

 更新日/2017.3.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 初めから読んでも後ろから読んでも同じ音になる「さかさまによむに同歌」文を回文歌と云う。回文では、仮名の清濁は問わない。オとヲ、ムとンはもちろんのこと、『家(いへ)』の逆さが『えい』、『手引き』の逆を『聞いて』にしても差支えない。藤原清輔(1104-77)が書いた奥儀抄という歌論書には「草花を詠む古歌に云う」として次の「回文」和歌が載せられている。
 「むら草に 草の名はもし そなはらば なそしも花の 咲くに咲くらむ」 。

 また、藤原隆信(1142-1205)の歌集には五首の回文の和歌が載せてある。(「資料28. 回文歌(長き夜の……)」)
  白浪の 高き音すら なかはまは かならずとをき かたのみならし
 繁る葉も かざしていはま 闇くだく みやまはいでじ さかも遙けし
 長き夜の のもはるかにて そまくらく まそでにかるは もののよきかな
 はらあける 船なるたなは いをとると をいはなたるな ねぶるけあらば
 しなたまも をかしなまひも 待てしばし てまもひまなし かをも又なし


【ホツマ伝えの「回し文歌」】
 ホツマ伝えに「回し文歌」が登場している。アマテル神の姉として、父イサナキノ神、母イサナミノ神から生まれたわか姫(稚姫)が、ワカの国(現在の和歌山)に勅使として来た阿智彦(後の思兼尊)を見初め恋歌を詠んだ。見事な「回し文歌」になっていた。
  「キシヰコソ ツマヲミキワ二 コトノネノ トコ二ワキミヲ マツソコイシキ」
 (紀志伊こそ 妻を身際に 琴の音の 床に吾君を 待つぞ恋しき )
 (注) 「キシヰ」は、紀州、志摩、伊勢のこと。この地で、わか姫(稚姫)が和歌を詠んだことから和歌山、和歌の浦の地名が生れたと云われている。

 阿智彦は返歌できぬまま高天原に帰って知恵者の金析の命(住吉の神)に尋ねた。金析尊は、昔、自分が詠んだ廻り歌を詠んだ。
 「ナカキヨノ トオノネフリノ ミナメサメ ナミノリフネノ オトノヨキカナ」
 (長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)

 阿智彦が、同じく見事な「回し文歌」を返し、二人は目出度く結ばれることになる。当時に於いて、和歌が最高の教養として重視されていたことが分かる。

 「磨かぬ鏡」





(私論.私見)