辞世句6、一族及び集団辞世句


一族及び集団辞世句

 

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.6.9日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、辞世の句を時系列で確認する。「撰集 辞世の句集」その他を参照する。

 2013.3.23日再編集 れんだいこ拝


【平家一門の辞世句】
【平清盛
 「やがて討手を遣わし、頼朝の首をば刎ねて、我が墓の前に懸くべし、それぞ孝養にてあらんずる

 (解説) 1181(治承5)年閏2.4日没、亨年64歳。九条河原口の平盛国の屋敷で死去した。


【平行盛】
 「ながれての 名だにも とまれゆく水の あはれはかなき みはきえぬとも」
 「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」(千載集66、朝敵のため詠み人しらずの扱い)
 「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば 花やこよひの 主(あるじ)ならまし」(平家物語)
 (解説) 1184(寿永3).2.7日没、享年41歳。平安時代の平家一門の武将。平忠盛の六男。平清盛の異母弟。檀の浦、一の谷の合戦で源氏方の岡部忠澄に討たれた。
【平忠度】
 「さざなみや 志贺の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな
 (解説) 1185年没。俊成に托した歌。

平知盛
 「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん
 (解説) 1185(寿永4).3.24日没、亨年34歳。壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と最後の戦闘に及ぶが、田口成良ら四国・九州在地武士の寝返りにあい、追い詰められた一門は入水による滅びの道を選ぶ。安徳天皇、二位尼らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた知盛は、乳兄弟の平家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。

平教経
 「さらばおのれら、死途の山の供せよ
 (解説) 1185(寿永4)年没、享年26歳。3月25日、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いが行われた。序盤は舟戦に慣れた平家が優勢だったが、義経の水手・梶取を射る奇策と阿波水軍の裏切りそして潮の流れが反転したことにより、平家の敗北は決定的になった。覚悟を決め、一門の者たちそして二位尼と安徳天皇が次々と入水する中で、教経はなおもひとり戦い続けた。さんざんに矢を射て坂東武者たちを射落とし、矢が尽きれば、大太刀、大長刀を左右の手に持って、敵を斬りまくった。これを見た知盛は人を使いして「罪つくりなことをするな、よき敵でもあるまい」と伝えた。「ならば、敵の大将と刺し違えん」と意を決した教経は舟から舟へ乗り移り、敵を薙ぎ払いつつ義経を探した。そして、ようやく義経の舟を見つけて飛び移り、組みかからんとするが、義経はゆらりと飛び上がるや、舟から舟へ八艘彼方へ飛び去ってしまった。有名な義経の八艘飛びである。早業ではかなわないと思った教経は、今はこれまでと覚悟を決め、その場で太刀を捨て、兜も脱ぎ棄てて仁王立ちし、「さあ、われと思わんものは組んで来てこの教経を生け捕りにせよ。鎌倉の頼朝に言いたいことがある」と大音声を挙げた。兵たちは恐れて誰も組みかかろうとはしなかった。三十人力で知られた土佐国住人安芸太郎と次郎の兄弟、そして同じく大力の郎党が、生捕って手柄にしようと三人で組みかかった。教経は郎党を海へ蹴り落とすと、安芸兄弟を左右の脇に抱えて締め付け「貴様ら、死出の山の供をせよ」と言うや、兄弟を抱えたまま海に飛び込んだ。その際の言葉。

【平重衡】
 「願わくば逆縁をもって順縁とし、只今最後の念仏によって、九品蓮台に生を遂ぐべし
 (解説) 1185(寿永4).6.23日没、亨年29歳。

【武田勝頼主従の辞世句(「理慶尼記」)】
亨年
武田大膳大夫勝頼  「朧なる 月もほのかに 雲かすみ 晴れてゆくへの 西の山の端(は)」
 (解説) 1582.3月没。信玄の子として威を振るうが、織田に抗しきれず滅ぶ。
勝頼室 北条氏  「かゑる雁 頼む疎隔の 言の葉を もちて相模の 国府(こふ)におとせよ」
 「ねにたてゝ  さそなおしまん  ちる花の  色おつらぬる  枝の鶯」
 「黒髪の 乱れたる世ぞ 果しなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」(甲乱記)
武田太郎信勝  「またき散る 花とおしむな おそくとく ついに嵐の 春の夕暮」
 「あたに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほとは 春の夜の夢」(辞世)
土屋右衛門尉昌恒  「俤(おもかけ)の みをしはなれぬ 月なれば 出(いづ)るも入るも おなじ山の端」
土屋昌恒の弟
(秋山勝久か)
 「夢とみる 程もおくれて 世の中に 嵐の桜 散りはのこらし」

【井原西鶴】
 「人間五十年の究まり、それさえ我にはあまりたるに ましてや 浮世の月見過ごしにけり末二年」
 追善発句
如貞  「月に尽きぬ 世がたりや 二万三千句」

幸方

 「念仏きく 常さえ秋は あわれ也」
万海  「秋の日の 道の記作れ 死出の旅」
信徳  「世の露や 筆の命の 置所」
言水  「残いたか 見はつる月を 筆の隈」

【赤穂浪士四十七士
 「赤穂四十七士」、「赤穂四十七士と萱野三平」、「赤穂四十七士 」その他参照。
名  前 辞  世  の  句
大石内蔵助良雄
(おおいしくらのすけ)
あら楽し 思いははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそえて 四十八人
 1703.3.20日、(享年45歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。家討ち入りの指導者。1500石、播磨国赤穂藩の筆頭家老(国家老筆頭)。本姓は藤原、「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般に「大石内蔵助」の名で広く知られる。幼名は松之丞。10代の時に父、祖父が他界したため、若くして領地と「内蔵助」の通称を受け継ぎ、21歳で赤穂藩の筆頭家老という重職に就いた。平時においては「昼行灯」とあだ名されるほどの凡庸な家老だったといわれるが、1701年、勅使接待役の赤穂藩主・浅野長矩が接待役指南の高家肝煎・吉良義央を江戸城松之廊下で斬りつけるという刃傷事件が起きる。これに将軍・徳川綱吉が激怒、浅野長矩は即日切腹を命じられ、赤穂浅野家はお家断絶となった。一方の吉良はお咎めなしであった。この報が赤穂城に届くと、城内は恭順派と篭城派に分かれ紛糾したが、良雄は、城を明け渡し長矩の弟・浅野長広を主君とし浅野家再興を幕府に嘆願、同時に吉良への処分も求める、ということで城内をまとめた。赤穂城を明け渡したあとは家族と今日の山科に隠棲、ここから浪士たちと連絡をとりあった。良雄は、吉良への仇討ちを急ぐ急進派を抑えつつ、お家再興に力を入れた。だが、お家再興の望みは絶たれ、良雄もついに吉良を討つことを決意、元禄15年12月15日未明(新暦では1703年1月31日未明)、47人の赤穂浪士たちは江戸の本所にある吉良屋敷に討ち入った。激闘の末、吉良を討ち取った浪士たちは江戸市中を行進し、泉岳寺にある長矩の墓前に吉良の首級を供え本懐成就を報告した。幕府の命により浪士たちは4つの大名屋敷にお預けとなり、良雄は肥後熊本藩の屋敷に預けられた。それから約2ヵ月後、幕府から切腹を命じられ良雄をはじめ浪士47人は切腹した。
大石主税良金 あふ時は かたりつくすと 思へども 別れとなれば のこる言の葉
 1703.3.20日、(享年16歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。大石内蔵助の長男で最年少の同志。部屋住。体躯に優れ且つしっかりした人柄だった。
堀部弥兵衛金丸
(ほりべやへえ)
忠孝に 命をたつは 武士の道 やたけ心の 名をのこしてん
品もなく 活きすぎたりと 思ひしに 今かちえたり 老いのたのしみ
雪はれて 思ひを遂ぐる あした朝かな
 1703.3.20日、(享年77歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。義士の中で最高齢。弥兵衛は通称で、名は金丸(かなまる)。本姓は近江源氏。家紋は四ツ目結二ツ。同じく赤穂浪士のひとりで「高田の馬場の決闘」で名高い堀部安兵衛(武庸)は養子。隠居料二十石(前三百石)。

 浅野家の譜代の家臣である堀部家に生まれ、若い頃から赤穂藩士として浅野長直、長友、長矩の3代に仕えた。主君・長矩が江戸城で刃傷事件を起こした時はすでに隠居し家督を養子の安兵衛に譲って江戸にいたが、養子の安兵衛とともに急進派の中心となって「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。吉良邸討ち入り時は表門の警護を担当、捕らえた吉良家門番の監視も行った。討ち入り後は熊本藩・細川家屋敷にお預けとなり切腹。

堀部安兵衛武庸 梓弓 ためしにも引け 武士(もののふ)の 道は迷はぬ 跡と思はば
 1703.3.20日、(享年34歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。本名は武庸(たけつね)」、通称は堀部安兵衛。二百石、馬廻、高田の馬場の助太刀が縁で婿養子になる、終始一貫仇討ちを主張。浪士随一の剣客で、「高田馬場の決闘」でその名を知らしめた。父は越後国新発田藩の溝口家家臣・中山弥次右衛門。誕生直後に母が死去、男手ひとつで育ててくれた父も13歳の時に死去し孤児となった。その後、江戸へ出て堀内正春道場に入門、すぐに頭角を現した。1694年3月6日、同門の菅野六郎左衛門が高田馬場で果し合いをすることとなり、安兵衛はこれに助太刀、めざましい活躍を見せ、その名は江戸中に知られるほどとなった。堀部の勇名を聞いた赤穂浅野家家臣・堀部金丸の願いにより、安兵衛は堀部家に婿養子として入り、浅野家家臣となった。「元禄赤穂事件」においては江戸急進派のリーダー格として、筆頭家老・大石良雄に何度も吉良への敵討ちを主張し続けた。そして1703年1月31日、吉良を討ち取り宿願を果たした安兵衛は、大石良雄の嫡男・大石主税らとともに伊予松山藩主・松平定直の江戸邸へ預けられ、同年3月20日、幕命により切腹した。
間(はざま)喜兵衛光延 草枕 むすび仮寝の 夢さめて 常世にかえる 春のあけぼの
 1703.3.20日、(享年69歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。百石、勝手方吟味役、間十次郎、新六の実父、裏門隊作戦参謀。
間十次郎光興 終にその 待つにぞ露の 玉の緒の けふ絶えて行く 死出の山道
 1703.3.20日、(享年26歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。部屋住(中小姓説あり)、父は間喜兵衛、弟は間新六。吉良上野介の第一発見者で吉良上野介に一番槍をつけ、その首級をあげた。
間新六郎光風
(はざましんろくろう)
24歳 思草 茂れる野辺の 旅枕 仮寝の夢は 結ばざりしを
 1703.3.20日、(享年24歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。新六郎は通称で、名は光風(みつかぜ)。父・間喜兵衛、兄・十次郎とともに家族3人で討ち入りに参加した。間喜兵衛の次男として生まれ、赤穂藩の舟奉行・里村家の養子となったが義父との折り合いが悪く出奔、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は江戸で浪人をしていた。父と兄が義盟に加わっていることを知ると新六郎も参加を懇願したが浪人のため断られ、何度も参加を申し出た結果、ようやく認められた。討ち入りの際は裏門隊に属し、屋外にて奮戦。本懐をとげたあとは長門国長府藩の毛利家屋敷にてお預けとなり切腹した。当時、切腹は様式化しており実際に自分で腹を切ることはなかったが、新六郎は短刀を手にするやいきなり自分の腹に突き立て横一文字に切り裂き、驚いた介錯人が急いで首を落とした。この壮絶な最期を見た役人は「武士の鑑」と新六郎の潔さを讃えたという。新六郎の亡骸は姉婿の希望により築地本願寺に葬られたため、切腹した赤穂浪士46人のうち唯一、泉岳寺に遺骸がない。その後、遺髪のみ分骨され泉岳寺にも埋葬された。
吉田忠左衛門兼亮
(よしだちゅうざえもん)
君がため 思ひぞ積もる 白雪を 散らすは今朝の 嶺の松風  
 1703.3.20日、(享年64歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。で副将的存在。忠左衛門は通称で、名は兼亮(かねすけ)、本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。同じく赤穂浪士のひとりである貝賀友信は実弟、さらに三男の吉田沢右衛門(兼貞)も義士として義挙に参加した。常陸国笠間藩の浅野家家臣の子として笠間(現・茨城県笠間市)にて生まれ、主家が播磨国赤穂藩へ移封されたのに従い、赤穂藩浅野家に仕え足軽頭となった。文武両道の人物で、大石内蔵助も忠左衛門をあつく信頼した。二百石役料五十石、足軽頭兼郡奉行、浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物。寺坂吉右衛門の主で長男は吉田沢右衛門。実弟に貝賀弥左衛門、叔父に甥岡嶋八十右衛門(妹の養子)がいる。和歌に秀でる。

 主君・浅野内匠頭長矩が江戸城で刃傷事件を起こし切腹、赤穂藩改易となったのちは、一貫してリーダーの大石内蔵助に従い、江戸へ下って急進派を説得するなど補佐役を務めた。吉良邸討ち入りの際には副隊長として大石内蔵助の息子・主税(ちから)の後見にあたり、吉良が見つからず焦る浪士たちを叱咤激励したといわれる。吉良を討ち取り泉岳寺へ引き上げる際には大石内蔵助の命により隊列を離れ、大目付・仙石久尚邸へ討ち入りの口上書を届ける重責を担った。その後、熊本藩・細川家へお預けとなり切腹。

吉田沢右衛門兼貞  1703.3.20日、(享年29歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。部屋住(十三両三人扶持・蔵奉行説あり)。父は吉田忠左衛門、叔父甥貝賀弥左衛門。
貝賀弥左衛門友信  1703.3.20日、(享年54歳)。十両三人扶持、倉奉行、吉田忠左衛門の実弟で小禄ながら信頼が厚かった人。
間瀬久太夫正明 雪とけて 心に叶ふ あした哉
 1703.3.20日、(享年63歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。二百石役料五十石、大目付、表門隊参謀、間瀬孫九郎の父。
間瀬孫九郎正辰 枕むすぶ 仮寝の夢さめて 常世に帰る 春の曙
 1703.3.20日、(享年23歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。部屋住、間瀬久太夫長男、従兄弟に中村勘助がいる、浪居中父に孝養を尽くした人。
村松喜兵衛秀直 命にも 易えるひとつを 失わば 逃げ隠れても 此れを遁れん
 1703.3.20日、(享年62歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。二十石五人扶持、扶持奉行(江戸詰)、長男は村松三太夫。
村松三太夫高直 極楽を 断りなしに 通らばや 弥陀諸共に 四十八人
 1703.3.20日、(享年27歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。部屋住、残って母に孝養を尽くせと諭す父を振り切り義盟に加わる。信念の人。三太夫は通称で、名は高直(たかなお)。父は同じく義士の村松喜兵衛。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は、江戸詰め藩士だった父とともに江戸にいたが、凶報に接するや赤穂へ急行しようとする父に同行した。当初、まだ部屋住みであること、老母を頼みたいという理由から父・喜兵衛に赤穂へ戻ることを反対されたが、三太夫の意志は固く、父と赤穂へ戻ると義盟に加わった。その後、父・喜兵衛とともに江戸へ戻り、討ち入りまでの間、「荻野十左衛門」などの変名を使い江戸で仇討ちの準備を進めた。討ち入りの際は裏門隊に属し、討ち入り後、三河国岡崎藩の水野監物屋敷にてお預けののち切腹。
小野寺十内秀和 忘れめや 百に余れる 年を経て 事へし代々の 君がなさけを
 1703.3.20日、(享年61歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。十内は通称で、名は秀和(ひでかず)。家紋は木瓜。養子の小野寺幸右衛門(秀富)や甥の岡野金右衛門(包秀)も義士として討ち入りに参加している。百五十石役料七十石、京都留守居役、妻の丹とは非常に仲がよく、夫婦で和歌を学び多くの作品を残した。また和歌だけでなく古典や儒学にも通じ、儒学は儒学者・伊藤仁斎に師事。代々、浅野家に仕える小野寺家に生まれ、常陸国笠間藩時代の浅野家に仕え、京都留守居役を務めた。主君・浅野内匠頭が刃傷事件を起こした時は京にいたが、凶報に接するや戦道具をまとめて討ち死に覚悟で赤穂へ駆けつけた。以降、大石内蔵助の参謀的存在として活動、大石をサポートし続けた。その間も京に残した妻の丹とはこまめに手紙のやりとりをした。討ち入りの際は裏門隊に属し、大石内蔵助の子・主税を補佐しながら奮戦、討ち入り後は大石らと熊本藩の細川家屋敷にお預けとなり切腹した。お預け中にも妻の丹とは和歌のやりとりをするなど最期まで妻を気にかけていた。妻の丹は十内の切腹後、京の本圀寺で絶食し自害、夫のあとを追った。辞世の句は「夫(つま)や子の 待つらんものを いそがまし なにかこの世に 思ひおくべき」。
小野寺幸右衛門秀富
(おのでらこうえもん)
今朝もはや いふ言の葉も なかりけり なにのためとて 露むすぶらん
 今ははや 言の葉草も なかりけり なにのためとて 露むすぶらん
 1703.3.20日、(享年28歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。実兄大高源五。小野寺十内の養子。義父母に孝養を尽くす優と豪を備えた人。幸右衛門は通称で、名は秀富(ひでとみ)。部屋住。養父の小野寺十内、実兄の大高源五も義士として討ち入りに参加している。赤穂藩浅野家の家臣・大高兵左衛門の子として生まれたが、母が小野寺十内の姉であった縁から子のいない十内の養子となった。幸右衛門は養父・十内や実兄の源五と同様に俳諧をたしなんだという。主君・浅野内匠頭が刃傷事件を起こした時、幸右衛門は部屋住みの身だったが、養父・十内とともに義盟に加わり、以降、常に十内と行動をともにした。江戸に潜伏中、老いた養父・十内のつくろいものをしていたといい、非常に孝行心にあふれる若者だった。討ち入りの際は表門隊に属し、吉良邸の玄関から真っ先に切り込み奮戦、戦闘中、吉良側の弓が並べられているのを発見し弦を切って使用不能にするという大手柄をあげている。討ち入り後は長府藩の毛利家屋敷にお預けとなり切腹。
奥田孫太夫重盛  1703.3.20日、(享年57歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。百五十石、武具奉行(江戸定府)。仇討ち急進派の中心人物。前夜に切腹の稽古をしたと覚書に残る。
奥田貞右衛門行高 1703.3.20日、(享年26歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。大石三人扶持、加東郡勘定方、養父奥田孫太夫、近松勘六は腹違いの兄。
原惣右衛門元辰
(はらそうえもん)
56歳 かねてより 君と母とに 知らせんと 人より急ぐ 死出の山路 
1703.3.20日、(享年56歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。三百石、足軽頭、大石内蔵助を補佐する三長老の一人、討入り時に足をくじく。惣右衛門は通称で、名は元辰(もととき)。弟の岡島八十右衛門も四十七士のひとり。

 米沢藩上杉家の浪人・原定辰の子として生まれ、赤穂藩に仕官した。1701年(元禄14)に主君・浅野長矩が江戸城にて吉良義央に刃傷に及んだ際には伝奏屋敷に詰めており、その夜、主君・長矩の切腹などを伝える第二の使者として大石瀬左衛門信清とともに赤穂へ出発、5日後には家老・大石内蔵助に伝える大役を果たした。赤穂城明け渡し後は大石内蔵助の補佐として活躍、江戸に出てからは「和田元真」の変名を使い吉良邸討ち入り作戦の立案にあたった。討ち入り当日は弟の岡島八十右衛門とともに表門隊に属し奮戦、宿願を果たすと熊本藩主・細川家にお預かりとなり切腹し果てた。

千馬三郎兵衛光忠 1703.3.20日、(享年51歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。百石、馬廻、殿の不興をかい脱藩直前に事件を知る。私憤を捨て忠義を貫いた人。
中村勘助正辰
(なかむらかんすけ)
  梅が香や 日足を伝ふ 大書院
1703.3.20日、(享年44歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。百石、書物役、出身の陸奥国白河に家族を送り届けたあと同志の待つ江戸に向かう。勘助は通称で、名は正辰(まさとき)。伯父・間瀬久太夫と従弟・間瀬孫九郎も義士として討ち入りに参加している。越後国村上藩の松平家家臣の子として奥州は陸奥国白川に生まれるが、その後、赤穂藩浅野家家臣・中村庄助の娘婿となり中村家の家督を継いだ。文書や書に優れていたため祐筆(主君の代筆役)を務め、赤穂城開城後は大石内蔵助の代筆もした。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は赤穂におり、直後から義盟に加わると大石に従った。最初、大石と同じくお家再興派だったが、大石の命で堀部安兵衛ら江戸急進派を鎮撫するため江戸へ下向、しかし、反対に感化され急進派のひとりに転向した。討ち入りの前には家族を故郷である陸奥白川にいる親戚に預けるため奥州まで送り、その後、討ち入りまで江戸に潜伏した。討ち入りに際しては裏門隊に属し、本懐をとげたあと伊予国松山藩の松平家屋敷にお預けとなり切腹。当時15歳だった長男の忠三郎は事件後、連座で伊豆大島へ遠島となるが、浅野内匠頭長矩の正室・瑤泉院(ようぜんいん)の赦免運動により1706年(宝永3)に赦免され、その後、浅草の曹源寺で出家したとも、病死したとも。また、5歳だった次男は浅草の曹源寺で出家し、僧として生涯を送った。
木村岡右衛門貞行
(きむらおかえもん)
46歳 思いきや われ武士の 道ならで かかる御法(みのり)の 縁にあうとは
1703.3.20日、(享年46歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。岡右衛門は通称で、名は貞行(さだゆき)。家紋は丸に違い丁字。赤穂藩浅野家の譜代家臣の子として生まれ百五十石。馬廻兼絵図奉行。学問好きの人物で早くから陽明学を学んだという。慎重な性格から義盟に正式参加したのは赤穂城開城からおよそ1年後の円山会議の席上においてで、最後の参加者となった(一貫して討ち入りを主張したとの説も)。ひとたび討ち入りを決めたらその意志は固く、生前にお寺で戒名をつけてもらっている(英岳宗俊信士)。討ち入りの際は裏門隊に属し、この戒名を書いたものを左肩に縫い付けていたという。討ち入り後、伊予国松山藩の松平家屋敷にお預けとなり、切腹。
菅谷半之丞政利 1703.3.20日、(享年44歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。百石、馬廻兼郡代、容貌魁偉といわれた人で山鹿流兵法の免許皆伝をうけ、後に家老見習いで多忙な内蔵助に伝授した。事変後、備後三次に隠れていたが、上京して内蔵助に従い、高級参謀の役をつとめた。東下りにも内蔵助に同行したが、表立つ派手な行動はない、陰の功労者である。
早水藤左衛門満尭
(はやみとうざえもん)
地水火風 空のうちより いでし身の たどりて帰る 本の住家(もとのすみか)に
1703.3.20日、(享年42歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。藤左衛門は通称で、名は満尭(みつたか)。百五十石、馬廻。刃傷事件の第一報を江戸から赤穂に知らせる、弓は赤穂藩一といわれた人。

 備前国岡山藩の池田家家臣の子として生まれたが、家督を兄が継いだため、播磨国赤穂藩の浅野家家臣・早水家の婿養子となった。藤左衛門は、弓術では海内無双と謳われた星野茂則に師事し、弓矢にかけては藩内に並ぶ者なし、といわれた弓矢の達人として知られる。また、和歌や絵画もたしなむ文武両道の士で、仲間からの信頼もあつかった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は江戸におり、萱野三平とともに急使となり、第一の早籠で江戸から赤穂まで155里(約620km)を4日半でかけぬけ第一報を赤穂に伝えた。以降、義盟に加わり大石内蔵助派として行動した。討ち入りまでの間、18歳だった同志の橋本平左衛門が大坂で遊女と心中自殺をするという事件が起きた。藤左衛門は引き取り手のいなかった橋本の遺体を引き取り埋葬、心中の後始末も行った。討ち入りに際しては表門隊に属し、得意の弓矢で奮戦、討ち入り後は熊本藩の細川家屋敷にお預けとなり切腹した。
前原伊助宗房 春来んと さしもしらじな 年月の ふりゆくものは 人の白髪
1703.3.20日、(享年40歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。十石三人扶持、金奉行(江戸詰)。伊助は通称で、名は宗房(むねふさ)。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、家督を継ぐと浅野家の江戸詰め家臣として仕えた。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時、伊助は江戸におり、その後、江戸急進派として独自の行動をとった。財政に明るかった伊助は、「米屋五兵衛」と称して吉良邸近くの本所相生町に店を開き、吉良方の動向を探った。さらに行商人に扮し吉良邸の長屋に入って内部偵察も行っている。また、漢学にも通じていた伊助は、亡き主君・長矩の刃傷事件から討ち入りまでの経緯を偵察の合間をぬって漢文体で書き『赤城盟伝』としてまとめた(義士・神崎与五郎が注を書く)。そのなかで伊助は脱盟者を痛烈に批判している。討ち入りに際しては裏門隊に属し、討ち入り後、長門国長府藩の毛利家屋敷にお預けとなり、のち切腹。
神崎与五郎則休
(かんざきよごろう)
梓弓 春近ければ 小手の上の 花をも雪の(雪をも花の) ふぶきとや見ん
1703.3.20日、(享年38歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。五両三人扶持、歩行目付、号は竹平で文武両道の人、義憤の人。与五郎は通称で、名は則休(のりやす)。家紋は蛇の目。大高源五と並び浅野家家中きっての俳人として知られ、「竹平」の俳号を持つ。また、浪士随一の酒豪といわれ、美男子だったと伝わる。美作国津山藩(岡山県津山市)の森家家臣の子として津山に生まれ、はじめ津山藩森家に仕えたが浪人し、赤穂藩浅野家に再仕官した。もと津山藩士の義士に茅野和助がいる。茅野和助と同じく、神崎与五郎も藩内で最も位の低い藩士で微禄、しかも主君・浅野内匠頭長矩に仕えて数年の新参者だった。しかし、主君・長矩が刃傷事件を起こすとすぐに義盟に参加、江戸へ出たあとは吉良家親族の上杉家中屋敷にほど近い場所に扇子屋「美作屋善兵衛」を開業、さらにその後、吉良邸のある本所近くに「小豆屋善兵衛」の変名で開業し吉良方の動向を探った。討ち入りに際しては表門隊に属し、半弓を武器に奮戦、討ち入り後は三河国岡崎藩の水野監物屋敷にお預けとなり切腹した。切腹に際して次のような逸話がある。切腹は武家の習わしとして家格の高い者から順に行うのだが、与五郎より先に彼より身分の低い台所役・三村次郎左衛門が名を呼ばれ切腹してしまった。これに与五郎は「いささか閉口でござる」と不満をもらしたという。なお、義士の前原伊助との共著『赤城盟伝』は赤穂事件の貴重な資料として知られ、与五郎が注釈を書いた。このなかで与五郎は脱盟した浪士を痛烈に批判している。
片岡源五衛門高房 1703.3.20日、(享年37歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。三百五十石、側用人兼児小姓頭、眉目秀麗な人で、主君切腹時の唯一面会した人。
三村次郎左衛門包常  雪霜の 数に入りけり 君がため
1703.3.20日、(享年37歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。次郎左衛門は通称で、名は包常(かねつね)。七石二人扶持、酒奉行兼台所役。低い士分ながらまことの武士、忠節の人。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし赤穂城開城をめぐる藩士総登城の場にも身分が低いことを理由に差別され出席を許されなかった。さらに身分の低さゆえ同志からいやがらせを受けることもあった。しかし、忠義一徹の士だった次郎左衛門は、「身分の上下でわけへだてするなら切腹して忠義の志をみせる」と抗議、これに心を打たれた大石内蔵助は次郎左衛門の義盟参加を認めたという(別説あり)。討ち入りに際しては裏門隊に属し、大槌で裏門を打ち壊すという大役を果たした。本懐をとげ、亡き主君の眠る泉岳寺へ引き上げる途中、次郎左衛門は討ち入りでの働きを大石内蔵助に褒められたという。次郎左衛門はこのことを赤穂にいる母に手紙で伝えている。討ち入り後は三河国岡崎藩の水野監物屋敷にお預けとなり、切腹。
茅野和助常成
(かやのわすけ)
天地の 外にあらじな 千種だに もと咲く野辺に 枯ると思へば
1703.3.20日、(享年37歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。和助は通称で、名は常成(つねなり)。美作国津山藩(岡山県津山市)の森家家臣の子として津山に生まれ、森家に仕えたあと、赤穂藩浅野家に再仕官し4年目で凶変に遭うた。なお、おなじく義士の神崎与五郎ももと津山藩森家の家臣。五両三人扶持、横目付。武術の達人で自眼流居合いをよくし、また弓にも優れていた。一方、俳諧もよくし「禿峰」という雅号を持っていた文武両道の士である。和助は赤穂藩内では最も身分の低い藩士のひとりで、主君・浅野内匠頭長矩に仕えてまだ4年目と新参だったが、主君・長矩が切腹するとすぐに義盟に加わった。江戸では磯貝十郎左衛門と同居し、町人になりすまして吉良方の動向を探った。討ち入りの際は裏門隊に属し、半弓を武器に奮戦、討ち入り後は三河国岡崎藩の水野監物屋敷にお預けとなり、のち切腹。
横川勘平宗俊
(よこかわかんぺい)
まてしばし 死出の遅速は あらんとも まつさきかけて 道しるべせむ
1703.3.20日、(享年37歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。五両三人扶持、徒目付。勘平は通称で名は宗利(むねとし)。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は江戸にいたがすぐに赤穂へ戻った。はじめ殉死を唱えていたが義盟に参加し大石内蔵助に従った。のち、同志たちの決意の固さを確かめるため大石内蔵助が行ったいわゆる「神文返し」で、勘平は江戸の同志たちへの「神文返し」の大役を任されるなど大石からの信頼もあつかった。江戸では同志の堀部安兵衛と同宿し吉良方の動向を探索、独自のルートから12月14日に吉良邸で茶会が開かれるという情報を入手、これを大石内蔵助に報告した。続いて大高源五も同日に吉良邸で茶会が開かれるという情報を入手。この2つの情報から大石内蔵助は討ち入りを12月14日に決行することを決めた。討ち入りに際しては表門隊に属し、槍を使って奮戦、しかし戦闘中に負傷し、亡き主君が眠る泉岳寺へ引き上げる際には途中から駕籠を使ったといわれる(歩ける程度の軽傷だったという説も)。三河国岡崎藩の水野監物屋敷にお預けののち切腹。
潮田又之丞高教
(うしおだまたのじょう)
もののふの 道とばかりに 一筋に 思いたちぬる 死出の旅路
1703.3.20日、(享年35歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。又之丞は通称で、名は高教(たかのり)。妻のゆうは、大石内蔵助のいとこにあたる。家紋は細輪に三引。赤穂藩浅野家の家臣の子として生まれ、赤穂藩士となると郡奉行、絵図奉行を務めた。二百石。文武両道に長けた人物で、槍を得意としたほか、東軍流の剣術も習得した。親山鹿素行門下、東軍流奥村無我門下。戚筋にあたることから大石内蔵助からの信頼もあつく、赤穂城開城後も大石と行動をともにした。大石の命により堀部安兵衛らと江戸の急進派を説得に向かったが、逆に説得され急進派に転向。江戸では「原田斧右衛門」の変名を使い吉良屋敷を探り、絵図奉行の腕前をいかして富森助右衛門が入手した吉良屋敷の図面を清書したといわれる。討ち入り直前に、妻の父である大石内蔵助の叔父と息子が義盟から脱退したため、妻のゆうを離縁した(累が及ばないように配慮したためとも)。討ち入りに際しては裏門隊に属し、吉良上野介義央を討ち取るとその首を槍先にくくりつけ泉岳寺へ引き上げた。大石と同じく熊本藩細川家屋敷にお預けとなり切腹。
赤埴源蔵重賢 1703.3.20日、(享年35歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。二百石、馬廻、譜代、独身。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。但しフィクション。下戸で寡黙な人柄。
近松勘六行重 1703.3.20日、(享年34歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。 二百五十石、馬廻、討ち入りの際に負傷。忠僕甚三郎は討入りを門外で待ち十二月二十四日迄江戸に留まる。
冨森助右衛門正因
(とみのもりすけえもん)
先立ちし 人もありけり けふの日を 旅の旅路の 思ひ出にして
1703.3.20日、(享年34歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。助右衛門は通称で、名は正因(まさより)。二百石、馬廻兼使番、父の没後十四歳で長矩に仕え寵愛を受ける。俳諧をたしなむ文化人で、松尾芭蕉の高弟・宝井其角(きかく)に師事し、自身も「春帆」の号を持つ。赤穂藩御留守居役の子として生まれ、父を早くに亡くしたため幼い頃から赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕え、長矩からの信頼もあつかった。非常に母親孝行な人物として知られ、母から「いついかなる御用をおおせつかってもいいように20両くらいは持っておきなさい」という言いつけを守り、懐には常に20両をひそませていたという。また、討ち入り時には母の小袖を身につけ戦いに挑んだ。大石内蔵助からの信頼もあつかった助右衛門は、討ち入り後、吉田忠左衛門とともに幕府の大目付・仙石伯耆守の屋敷へ討ち入りを報告する大任をまかされた。その後は大石らと同じく熊本藩・細川家屋敷にお預かりとなり、老母の行く末を遺言して切腹。助右衛門は細川家にお預けになっている間に、細川家屋敷にお預けになっている17人の義士が切腹したあとは主君・長矩が葬られている泉岳寺に全員一緒に埋めてほしい、と願い出たという。これがかなえられ、赤穂浪士のうち切腹した46人は全員が泉岳寺に眠る。
不破数右衛門正種 1703.3.20日、(享年34歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。元百石、元馬廻、浪人(平時に不向きな性格が災い)、討入時の働きは義士中第一。
倉橋伝助武幸 1703.3.20日、(享年34歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。二十石五人扶持、扶持奉行、吉良邸の探索に力を尽くした人。
岡嶋八十右衛門常樹 1703.3.20日、(享年33歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。 二十石五人扶持、札座勘定奉行、実兄が原惣右衛門で清廉潔白な人柄。
武林唯七隆重 仕合や 死出の山路は 花ざかり
1703.3.20日、(享年32歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。十五両三人扶持、馬廻、祖父は明国の人。吉良上野介の養子を負傷させ、炭部屋に隠れていた吉良上野介を捕らえた功労者の一人。
大高源五忠雄
おおたか げんご
梅で香(呑)む 茶屋もあるべし 死出の山
1703.3.20日、(享年45歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。源五は通称で、名は忠雄(ただお)。家紋は丸に三盛亀甲花菱。実弟・小野寺幸右衛門、伯父・小野寺十内も義士として討ち入りに参加している。二十石五人扶持、金奉行兼腰物方兼膳番元方。首は太くて短く、あばた面であったが、「子葉」の俳号を持つ俳人で、茶道や和歌、国文にも通じる文雅の士だった。茶道と俳諧に親しみ、談林派の了我法師(桑岡貞佐)や水間沾徳の門に学び松尾芭蕉の高弟・榎本(宝井)其角とも親しかった。源五の著作として、主君・長矩の参勤交代に同行した時の紀行文『丁丑紀行』、俳諧集『二ツの竹』が有名。討ち入り前夜、源吾と出会い、其角がはなむけとして「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠み、源五が「あした待たるるその宝船」と返し討ち入りに向かっている(忠臣蔵の外伝にあたる歌舞伎の演目『松浦の太鼓』より)。平安時代から続く名家・大高家に生まれ、父の死後家督を継ぐと赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕えた。主君・長矩が刃傷事件を起こした時、同行していた源五も江戸にいたが、凶報を知るや赤穂に戻り、以後、大石内蔵助のもっとも信頼する同志のひとりとして活躍した。その信頼のあつさは、江戸にいる急進派の鎮撫や「神文返し」の使者といった非常に重要な局面で源五が派遣されていることからもわかる。

 源吾は大石内蔵助の腹心で、その命を受け同志の結束を固めるため赤穂-大坂-京都-江戸と東奔西走した。江戸では上方商人脇屋新兵衛と称し、吉良邸の動向を探るため吉良家出入りの茶の湯の宗匠四方庵宗へん(彳に扁の字)に弟子入りし、討ち入り当日の12月14日の夜に吉良屋敷で茶会の催しがあることを突き止め、討ち入り決行日の決定に重要な役割を果たす手柄を立てている。討ち入りに際しては表門隊に属し、大太刀を武器に奮戦、討ち入り後、伊予国松山藩の松平家屋敷にお預けとなり、のち切腹。享年32歳。討ち入り義士の1人、小野寺幸右衛門(義士小野寺十内の養子)は実弟である。
矢田五郎右衛門助武 1703.3.20日、(享年29歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。百五十石、馬廻(江戸定府)、討ち入り時に火鉢で刀を折り敵の刀を奪って奮戦。
杉野十平次次房 1703.3.20日、(享年28歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。八両三人扶持、札座横目、剣客、浪士中では比較的裕福だった人。
大石瀬左衛門信清 1703.3.20日、(享年27歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。百五十石、馬廻、内蔵助の曾祖父、良勝の弟で信云(のぶこと)四百五十石の孫。
磯貝十郎左衛門正久 若水の 心そむかぬ 影もりかな
1703.3.20日、(享年25歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。百五十石、物頭側用人、新参、内匠頭に児小姓として仕える。利発で器用な人柄。
岡野金右衛門包秀
(おかのきんえもん)
その匂い 雪の下の 野梅かな
1703.3.20日、(享年24歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。幼名は九十郎。金右衛門は通称で、名は包秀(かねひで)。伯父・小野寺十内、従弟・大高源五も赤穂浪士として討ち入りに参加している。家紋は釘貫。部屋住(亡父二百石)。小間物売りの美青年で、大工の棟梁の妹・お艶と恋人ととなり吉良邸の絵図面を手に入れる「恋の絵図面取り」で有名だが、虚実は不明。俳句をたしなむ趣味人で、「放水子」などの号でいくつかの句を残している。小野寺十内の弟・岡野金右衛門包住の長男として生まれ、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時はまだ部屋住みの身であったが、父とともに大石内蔵助に賛同し義盟に参加していたが、父が病死すると自ら亡き父と同じ「金右衛門」を名乗り、その遺志を引き継ぎ仇討ちにまい進した。討ち入りの際は表門隊に属し、得意の十文字槍で奮戦、討ち入り後は伊予国松山藩の松平家屋敷にお預けとなり切腹した。
勝田新左衛門武尭 1703.3.20日、(享年24歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。十五石三人扶持、札座横目、剣客、祖父は常陸笠間の農民から浅野長直に仕える。
矢頭右衛門七教兼
(やがしらえもしち)
 「出る日のひかりも消て 夕ぐれに いはなんことは かなしかりける」
1703.3.20日、(享年18歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。右衛門七(えもしち)は通称で、名は教兼(のりかね)。義士のなかでは大石主税に次いで若かった。女性に間違えられるほどの美青年だったという。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時、右衛門七はまだ部屋住みの身で、父の長助(二十石五人扶持勘定方)が義盟に加わり活動していた。しかし、その父が病に倒れ、代理として右衛門七が会議などに出席。その後、「自分が死んでも念仏もいならい。ただ、父のかわりに同志たちと必ずや吉良を討ってくれ」と遺言し父は病死してしまう。父の遺志を引き継いだ右衛門七は義盟への参加を懇願するが、大石内蔵助は「あまりにも若すぎる」という理由でこれを認めなかった。だが、右衛門七はあきらめず、切腹しかねない必死のようすについに大石も参加を認めた。討ち入りに際しては表門隊に属し、父から受け取った腹巻を身につけ、兜の奥に父の戒名をしのばせ亡父の分まで奮戦した。討ち入り後は三河国岡崎藩の水野監物屋敷にお預けとなり、のち切腹。前に大坂で病没の父に代わり義盟に加わる。
寺坂吉右衛門信行 咲くときは 花の数にも 入らぬとも 散るには同じ 山桜かな
(享年83歳)。赤穂浪士四十七士のひとり。吉田忠左衛門の三両二分二人扶持、足軽。足軽では唯一の参加者。討ち入り後に離脱。討ち入り時は39歳。討入後は泉岳寺迄の間で隊を離れ播磨に戻った唯一の生存者。晩年は寺男となり江戸で病没した。
萱野三平重實 (享年28歳)。十三両三人扶持、孝と忠の板挟みで苦悩し、亡君の月命日に自宅で切腹して果てる。
 赤穂浪士四十六士がお預けとなった4藩の藩邸。いずれも今日の東京都港区にある。
預け先 江戸藩邸 史跡 所在地
細川越中守(綱利) 肥後熊本藩 高輪下屋敷 大石良雄外十六人忠烈の跡 高輪一丁目
水野監物(忠之) 三河岡崎藩 芝中屋敷 水野監物邸跡 芝五丁目
松平隠岐守(定直) 伊予松山藩 三田中屋敷 大石主税良金ら十士切腹の地 三田二丁目
毛利甲斐守(綱元) 長門長府藩 麻布上屋敷 毛利甲斐守邸跡 六本木六丁目

【大塩平八郎の乱参加者の時世の句】

【水戸天狗党時世の句】(「烈士の詞藻」より)
亨年
朝倉源太郎 赤き我が心は 誰も白露の消にし後ぞ 人や知るらん
朝倉三四郎 四方八方に 薫りや充たん 下野の 太平山の 山櫻かな
伊藤益荒 春雨に みの覆うべき方もなく 今は笠間の 露と消ゆらむ
梅村晋一郎 古の 風に為してよ 大御稜威 振いて今の 乱れたる世を
大谷包太郎 国の為め 思ひ舍(すて)にし 今日の身を 我たらちねは 知らすやあるらん
鹿島茂平 大君の 大みこころを 安めんと 数ならぬ身を 忘れてぞ思ふ
川俣茂七郎 みちのくの 木の間がくれの山櫻 ちりてぞ人や 夫と知るらん
國分新太郎 原と萬死を期す 復た何ぞ悲しまん、只だ恨む 神兵未だ夷を掃はず、魂魄帰らず天と地とに、七たび此世に生れて 皇基を護らん
下野廉三郎 国の為め あはれ木の葉の 軽き身を 君に捧けて ゆく旅路かな
瀧川平太郎 梅鉢の 花の匂ひにおかされて 我が身の散るを 知らぬつたなさ
武田魁介 咲初めて 風に散りなん桜花 散ての後に 知る人は知れ
武田耕雲斎 討つもはた 討るるもはた哀れなり 同し日本(やまと)のみたれと思へは
田中愿蔵 霜にそむ 樹々の紅葉の錦より いと珍しき 谷の松が枝
みちのくの 山路に骨は朽ちるとも 猶も護らむ 九重の里
土田衛平 白露の 霜とかはれる今ははや 君が衣 手薄くなるらん
いにしへも 斯かるためしを 菊水の 流れ汲む 身となるぞ嬉しき
徳川の にごりに身をや 沈むとも 清きその名や 千代に流れん
直本東平 降雪(ふるゆき)に 何れを花と白梅の 薫れる色の なつかしきかな
長谷川通之介 丈夫の つる張りこめし 梓弓 引つめてこそ など撓むべき
檜山三之介 来るつはめ 帰る雁 わするなよ 又めくり逢ふ 春もなき身を
平野重三郎 つくしても 甲斐なき身を玉櫛笥(たまくしげ) 二荒の神の いかに見るらん
藤田小四郎 かねてより 思ひ染にし 言の葉を 今日大君に 告て嬉しき
藤田秀五郎 義を論して 未だ死と生とを論せず、磨き成す 報國尽忠の誠、平生記し識す 尊親の誡め、芳名を留取するは 此行に在り
藤原重友 魁の花は 嵐に散にけり 風にあふべき 枝ならなくに
昌木春雄 転びても 弓矢はすてぬ 案山子哉
山国兵部 行さきは 冥土の鬼と 一勝負
八木橋誠之進 惜まるる 時ぞ違(たが)はぬ武士(もののふ)の 潔よく行く 死出の山道
米川久蔵 たとひ身は 敦賀の里にさらすとも なとか絶ゆへき 武士(もののふ)の道
米川米吉 皇國(すめらぎ)の 御為めと思へはたちたたぬ 勲(いさほ)は問はん 日本魂(やまとだましひ)

【大発勢時世の句】(「烈士の詞藻」より)
亨年
浅田忠之進 なきあとに 誰か見るらむ 濁江(にごりえ)の 遂に澄むへき 時なからめや
天野朔之介 朽もせし 色も変らし 武士(もののふ)の 道に染たる 赤き心は
有賀半蔵 事しあらは 火にも水にも入はや と思ひ定めし 身は君の為
飯田忠四郎 君か為 思ふ心をます鏡 何か曇らむ 後の世まてに
飯村辰五郎 古郷を思ふは 旅の常なれど  國の為には名こそおしけれ
江橋五衛門 今日までは 盛の花と思へとも 明日の嵐は 知らぬ世の中
大内誠蔵 君かため 國のためにと 盡(つく)し来し 身のいかなれは 仇となりけむ
大賀甚蔵 君のため 盡(つく)せる臣の 眞心を こは誰人の へたてなるらん
大津主殿 渡り来し 加茂の川浪 思立つ 心は朽ちし 後の世まてに
大森道義 淡雪と 共に消行く 老の身に 君が八千代を 祈らるるかな
大山又三郎 いさぎよく 散るへかりける 世の人に 惜まれてこそ 花にさりけれ
岡田捐蔵 大丈夫(ますらを)の 伴うちつれて 君か為 はかなく越ゆる 死出の山路
岡部藤介 せめてはと 思ひなからの橋柱渡(はしばしわた)りも あへす朽果むとは
岡見徳三 朝顔の 日影まつまの 露なれは 心と堕て 玉と砕けむ
岡見留二郎 世の中の 憂(うき)をは舍(す)て いささらは 死出の山路の 花をなかめん
興野介九郎 一人ゆく 死出の旅路の 露けさを 哀といはん 人たにもなし
小山田任之介 たとへ身は 今此里にうつむとも なに撓(たゆ)むへき 日本魂(やまとだましひ)
柿栖次郎衛門 今更に 何か惜まん 兼てより 我身なりとは 思はさりしを
樫村雄之允 秋の野の 露と吾身はきえぬとも 増荒武男(まらたけを)の名をは汚さし
倉次金次郎 徒(いたづら)になりし 思の悲しさを 誰てふ人に かくと語らむ
栗田八郎兵衛 我仰く 君が御影のうつつには あはれ見ぬ夜の 夢となりにき
齋藤好次郎 秩父山 吹おろす風の烈しさに 散るは紅葉と 吾となりけり
齋藤左右吉 秋の野の 花に結へる 露の身の 赤き心を 世にや留めん
榊原新左衛門 君がため 思へは斯くも 鳴海潟時雨に しほる袖の露けき
太宰清衛門 武士(もののふ)の 道は違(たが)はし 何(い)つの世に 何(いづ)くの野辺の 露と消ゆとも
舘鐵太郎 数ならぬ 身にはあれとも國のため 盡(つく)す心は 神や知らさむ
立花辰之介 君かため 死ぬる吾こそ嬉しけれ 名も立花の 世に薫らまし
谷鉄蔵 人々と 契りしことは 渝らしな 死出の山路の今日の魁
床井庄三 玉の緒は たゆともいかて忘るへき 代々に餘れる 君か恵を
富田三保之介 曇りなき 神の社の増鏡よしも 悪きも照してそ知る
那須寅三 今はとて 死出の山路を急く身に 思(おもひ)おかるる君か御代哉
成瀬廣之介 國の為 越えなぬ人に先立て 死出の山路を われふみわけむ
成瀬與衛門 君か為 誓ひし人に先立て 迷ふ旅路に 今やいてまし
沼田久次郎 一筋に 張りし心は梓弓 なに弛ふへき 苔の下まで
野上大内蔵 ゆくききは いつれ野末の ひとつ石
野崎留之介 まが罪に 沈み果とも二つなき 我眞心は 神そ知るらん
萩谷平八 見よや人 見よや心の 花の露にかかる涙も 皆國のため
塙又三郎 勇ましく 散へかりけり 世の人に 惜まれてこそ 櫻なりけり
林忠左衛門 今日迄も 誰が為なれば 長らへて 憂き身にうきを 重ねきつらむ
肥田金蔵 哀れとも いはむかたなき 賎(しづ)か身は 花よりもろき朝顔の露
平方金五郎 後れしと 心に思ひしか ひありて死出の山路の 今日の前かけ
福地勝衛門 君かため 盡(つく)す心のます鏡 くもらぬ御代の 光りとやせむ
堀川元了 身は此に 朽果(くちはつ)ぬとも 皇國(すめらぎ)を あら人神と なりて護らむ
松平頼徳 思ひきや 野田の案山子の竹の弓 引きもはなたで 朽果てんとは
水野哲太郎 草の葉にをく露よりも 脆き身の君が千歳を 祝ふはかなさ
三木孫太夫 吹(ふき)かはる 風の心の烈しさを 人に知らせて 散る櫻かな
武藤善吉 世の様(さま)を みをやの君に申さんと 今日急かるる 死出の山路
森三四郎 つらしとし 憂(うき)しともいはて國のため 消えなぬ時を 松の下露
安蔵源二郎 生替り 死替りても國の仇 討(あだうた)すは止まし 日本魂(やまとだましひ)
吉田於莵三郎 神のます 高天の原に いさ行て 常磐堅磐(ときわかたわ)に 君を守らん

【水戸天狗党が敦賀幽囚中に詠んだ句】(「烈士の詞藻」より)
大和田外記  二兄國に循し親は縛(ばく)に就く、二弟今日梵中に屈す、楊柳知らず別に恨あり、依々として猶ほ自から春風に媚ぶ
瀧川平太郎  夷(えみす)うつ 功もとげず 徒(いたづ)らに 送る月日の かし惜しと思ふ
 敷島の大和心を盡(つく)しても 仇となる世を いかにしてまし
 雲の上の 人に見せばや 春雨につる 賀羽衣ぬれし姿を
 賎が夫の 柴刈鎌のつかの間も 大和魂みがく友人
武田魁介  獨り高樓に上って八都を望む、黒雲散し盡(つく)して月輪孤なり、茫々たる宇宙人無数、幾箇の男児是れ丈夫
武田耕雲斎  丹心憂國の士、断髪夷風を学ぶ、此意若し人問はば、剣を按して碧空を望む
 かたしきて 寝ぬる鎧の 袖の上に おもひぞつもる 越のしら雪
 雨あられ 矢玉のなかは いとはねど 進みかねたる 駒が嶺の雪
武田彦衛門  嘗(かつ)て聞く蠻夷我彊(ばんいわがけふ)を窺ふ、書生豈(あ)に徒に文章を事とせん、孤燈(ことう)影暗くして人眠る後、獨り拭ふ腰間(えんかん)三尺の霜
藤田小四郎  尊皇攘夷萬天を貫く、國家を安ぜんと欲して眠る能はず、聞説世人忽(たちま)ち恐怖す、奸を屠る只是れ節々の鞭
 かねてより おもひそめにし 真心を けふ大君に つげてうれしき
 さく梅は 風にはかなく ちるとても にほひは君が 袖にうつして
山国兵部  ゆく先は 冥土の鬼と 一と勝負
田中愿蔵  みちのくの 山路に骨は 朽ちぬとも 猶も護らむ 九重の里
田丸八重  引きつれて  死出の旅路も  花ざかり(田丸稲之衛門の次女)

【大発勢が幽囚中に詠んだ句】(「烈士の詞藻」より)
亨年
伊藤田宮  先立て 露と消えにし人の身を 思へはやすき 草枕哉
大窪又一郎  何事も いはての森の 下紅葉 赤き心は 人やしるらん
梶清次衛門  いささらは 涙くらへむ 子規(ほととぎす) 我も浮世に 鳴かぬ日そなき
加藤忠五郎  かねてより かくとは知りつ 國のため 今更いかで 身を惜むべき
木村圓次郎  春たては いとと思ひの増鏡 世の花鳥の 面影もかな
榊忠兵衛  富士の嶺の 雪さへとくる時もあれは 世の浮雲のはれすやはあらぬ
下野隼二郎  梅の花 咲ける軒端は変れとも 色香は共に 雪をしのかむ
永井量蔵  月影は 昔なからのものなれと 吾身の上は 照らさざりけり
根本清一  あはれ身は 行方しら浪こく船の はてむ湊も なくなりにけり
平戸喜太郎  玉鉾の 直(すぐ)なる道を一筋に ふみな違(まよ)へそ 大丈夫(ますらを)の友
福地政次郎  東路の 我ふる里に茜さす 日和の山は 忘るまそなき
眞木彦之進  去年(こぞ)の冬 刀根の川路をさまよひて 今日は如何なる 旅やするらむ
増子謙蔵  怨みても 甲斐やなからぬ 山風に 吹れておつる 木々のもみち葉
師岡亀之介  異國にたく ひもあらぬ 櫻こそ 我日の本の 匂ひなりけれ
門奈三衛門  便りなき 身のうき舟に山櫻 ちりくる花の 心ゆかしも

【堺事件に伴う辞世の句】
 1868(慶応4)年、和泉国堺でフランス水兵を殺害する事件が起り、その責を負って土佐藩士が切腹させられた。切腹に赴いた土佐藩士たちの辞世の句は次の通り。
享年
 「風に散る 露となる身は 厭はねど 心にかかる 国の行末」
 「我もまた 神の御国の 種ならば 猶いさぎよき 今日の思ひ出」
 「皇国の 御為となりて 身命を 捨つるいまはの 胸の涼しき」
 「かけまくも 君の御為と 一すぢに 思ひ迷はぬ 敷島の道」
 「塵(ちり)泥(ひじ)の よしかかるとも 武士(もののふ)の 底の心は 汲む人ぞ汲む」
 「人こころ 曇りがちなる 世の中に 浄き心の 道ひらきせん」
 「身命は かくなるものと 打捨てて とどめほしきは 名のみなりけり」
 「時ありて 咲きちるとても 桜花 何か惜しまん 大和魂」
 「魂を ここにとどめて 日の本の 猛き心を 四方に示さむ」

【西郷頼母一族の21人自刃辞世の句】
 西郷頼母は幕末会津藩の家老。松平容保の京都守護職に反対する。戊辰戦争では一族全滅の憂き目にあう。
享年
西郷頼母  「あいつねの おちこち人に 知らせてよ 保科近悳 けふしぬるなり」
西郷律子  「秋霜飛んで 金風冷たく 白雲去って 月輪高し」
西郷千重子  「なよ竹の 風にまかせる 身ながらも 撓(たゆ)まぬ節の あるとこそきけ」
西郷眉寿子 26歳  「死にかへり 幾度び世に 生るとも ますら武夫と なりなんものを」
西郷由布子 23歳  「武士の 道と聞きしを たよりにて 思ひたちぬる よみの旅かな」
爆布子
(たきこ)  
娘(妹) 13歳  「いざたどらまし 死での山道 手をとりて 共に行きなば 迷わじを」
細布子
(たえこ)
娘(姉)  「手をとりて ともに行きなば 迷はじよ いざたどらまじ 死出の山みち」
 (下の句は、姉細布子が付け加えた)

【会津藩辞世の句】
【神保長輝】
 「帰りこん 時ぞと母の 待ちしころ はかなきたより 聞くべかりけり」
 (解説) 幕末会津の人。神保修理の通称。京へ軍事奉行添役として従事。鳥羽伏見の敗戦の責任を負い君命により切腹。
【堀 光器】
 「神かけて 誓ひしことの かなはずば ふたたび家路 思はざりけり」
 (解説) 幕末会津の人。通称粂之助。君命により米沢へ援軍を請いにいくが応えられず自刃した。
【内藤信順】
 「世の中は 時雨となりて きのふ今日 ふみとどむべき 言の葉もなし」
 (解説) 幕末会津の人。戊辰戦争の際、菩提寺のある面川村泰雲寺にて信順をはじめとする一族十三人が自刃した。
【武川信臣】
 「世にしばし 赤き心は みすてども 散るにはもろき 風のもみぢ葉」
 (解説) 幕末会津の人 内藤信順の三男。彰義隊にまじり上野戦争に参加するが捕虜となる。拷問の末、斬首される。
【中野竹子】
 「武士(もののふ)の 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」
 (解説) 1868(慶応4).10.10日(8.25)没、享年22歳。会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女として江戸で生まれた。聡明で学問に長じ、また薙刀術の名手であった。戊辰戦争が始まると会津若松城下に戻り、学問や薙刀を教える。薩摩・長州藩が城下に侵攻した際、母・こう子らと共に娘子軍を結成し奮戦したが被弾。妹に介錯してもらい死んだと伝えられている。
【輪形月】
 「砲(つつ)音に 啼く音(ね)を止めし 不如帰、会津に告げよ 武士(もののふ)の死を」(詠み人知らず)
 「幾人の 涙は石に にそそぐとも その名は世々に 朽(くち)じとぞ思う」(松平容保公の弔歌)
 (解説) 
【山川唐衣】
 「我ながら 何に名残を 惜しむらむ 思ひおくべき こともなき世に」
 (解説) 幕末会津の女性。山川浩、山川健次郎、山川捨松の母。歌人として有名であった西郷近登之の長女。
【飯沼貞吉】
 梓弓 向かう矢先は しげくとも 引きな返しそ もののふの道
 (解説) 1831(昭和6)年没、享年歳。白虎隊の生き残り。

【2.26事件決起兵士の辞世の句】

【大東亜戦争戦士の辞世の句】
享年
 栗林忠道中將  国の為 重きつとめを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ口惜し
 われ往くも またこの土地に かへりこむ 国に報ゆる ことの足らねば
 (陸軍軍人)東京都硫黄島。 
 根尾久男中尉   吹くごとに 散りて行くらむ 桜花 つもりつもりて 国は動かじ 
  (神風特攻隊員)
 玄角泰彦中尉  出で立つや 心もすがし るりの空
 (回天特攻隊員)
 黒木博司大尉  国を思ひ 死ぬに死なれぬ 益良雄が 友をよびつ 死していくらん
 オノコ男子やも わが事ならず 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
 (神風特攻隊員)     
 菊山裕生中尉       ふるさとの 祭や父母は いかにます    如月の北斗 光れり祈るなり
 奥山道郎大尉  吾か頭 南海の島に 瞭さるも 我は微笑む 國に貢せば」(義烈空挺隊)
 今村美好曹長  「奥山に 名もなき花と 咲きたれど 散りてこの世に 香りとどめん」(義烈空挺隊)
 久野 正信中尉  「武士の 行くべき途は ただひとつ 散って甲斐ある 命なりせば」(第三独立飛行隊)
 「五月雨の 落つる雫も 今日はなく 我の征途を 守るらん」
 新妻 幸雄少尉  待つありて 眺むる月の 涼しさよ また咲きいでん 靖国のみや」(第三独立飛行隊)
 関三郎軍曹  「よしや身は 千々に散るとも 来る春に また咲きいでん 靖国のみや」(第三独立飛行隊)
 レイテ作戦出撃兵士  「花負いて空うち往かん雲染めん 屍悔いなく吾ら散るなり」(薫空挺隊)
 大田實  大君の 御旗のもとに 死してこそ 人と生まれし 甲斐ぞありけり
 海軍中将。1945年(昭和20年)6月13日、。千葉県長生郡長柄町出身。日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
 河合不死男海軍中尉  春なれば 散りし桜も にほふらむ げにうたかたと 消えて散るとも
 (回天特攻白龍隊)
  中田茂少尉  ふるさとに 散るとも知らで 我を待つ 老いたる母に如何に告げなん
 ふるさとに 髪を残して この心 わが父母に それと告げたり
 緒方襄中尉  うつし世の みじかきえにし 母と子が 今宵一夜を語りあかしぬ
 いざさらば 我が御国の 山桜
 母の身元にかへり咲かなん これを見つけた母は、「散る花の いさぎよきをば 愛でつつも 母の心は悲しかりけり」と返した。  
 関行男海軍大尉  教へ子よ 散れ山桜 此の如くに
 (特攻第一号)
 俣 静逸 少尉 22歳  決戦に 征くる心や 秋の空
 岡安 明 少尉 23歳  出撃や 特攻日和 蝉の声
 本島桂一 少尉 22歳  明日志れぬ 命野菊の 静かなる
 三根耕造 少尉 23歳  みんなみの 潮の八重路の つばくらめ
 原田 栞 少尉  26歳  野畔の草 召し出されて 桜哉
 奥山道郎 大尉 26歳  散る桜 残る桜も 散る桜
 新妻幸雄 少尉  26歳  待つありて 眺むる月の 涼しさよ
 吉野繁実 中尉 24歳  靖国で 会う嬉しさや 今朝の空
 佐藤栄一 少尉  母思う月はマストの右左
 福田 斉 中尉 23歳  国のため散るさやけさや今日の空
 今西太一 少尉 26歳  敵見ゆの 心知りたり 今日の快
 玄角泰彦少尉 22歳  出で立つや 心もすがし るりの色
 千葉三郎     19歳  散る花の 心を問うな 春の風 
 高山昇(崔貞根)中尉 24歳  ますらをが たてし心の 斃るとも いかでまげなむ 玉砕の剣
 許婚の梅沢ひでは、次の句を返した。「永しへに 変わらざらめや 沢の梅」
  (後藤 弘)  征き死なん陽にきらきらと春の海 
 緒方譲 23歳   すがすがし 花の盛りに さきがけて 玉と散りけん 丈夫我は(譲)
・ いざさらば我はみくにの山桜母のみもとにかへり咲かなむ(譲)(緒方家集)吉岡生夫) 
・うつし世のみじかきえにしの母と子が今宵一夜を語りあかしぬ(母・三和代)
・ちる花のいさぎよきをばめでつつも母のこころはかなしかりけり(母・三和代)
・初陣の感激高し我が翼国家浮沈の運命かかれり(兄・徹)

 (靖国神社編「シリーズふるさと靖国・いざさらば我はみくにのい山桜 「展転社)
 死するとも なほしするとも 我が魂よ 永久にとどまり 御国まもらせ
 牛島満 57歳  「秋をまたで 枯れ行く島の 青草は 御国の春に またよみがえらなむ」
 1945().6.23日没、亨年57歳。陸軍大将。沖縄戦において第32軍を指揮し自決した。温厚な性格で知られ、教育畑を歴任したが、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として武漢市、南京市攻略戦に参加し、武功を挙げた。
 本間雅晴 59歳  戦友ら 眠るバタンの 山を眺めつつ マニラの土と なるもまたよし 
 1945().4.3日没、亨年59歳。大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争(大東亜戦争)においてフィリピン攻略戦を指揮し、戦後はバターン死の行進の責任を問われて処刑された。
 左近允尚正
(さこんじょうなおまさ)
58歳  「絞首台何のその 敵を見て立つ 艦橋ぞ」
 1948(昭和23).1.21日没、亨年58歳。日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。タイ王国大使館付武官の時大東亜戦争開戦を迎える。昭和18年(1943年)9月、第16戦隊司令官に就任し南方戦線に従軍。渾作戦、レイテ島輸送作戦(多号作戦)などを指揮した。昭和19年(1944年)12月、支那方面艦隊参謀長に就任。終戦後、ビハール号事件の戦犯として逮捕され、イギリス軍により同国の植民地の香港のスタンレー監獄で絞首刑にされた。

 山下 奉文
(やましたともゆき)

61歳  「待てしばし 勲のこして ゆきし友 あとなしたひて 我もゆきなむ」
 1948(昭和23).2.23日没、亨年61歳。日本の陸軍軍人。大東亜戦争当時の陸軍大将。緒戦において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮する。日本の新聞はその勇猛果敢なさまを「マレーの虎」と評した。シンガポールの戦いの終結時に敵将イギリス軍司令官のアーサー・パーシバル中将に対して「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話は一躍有名になったが、実際にはより落ち着いた紳士的な文言・口調の会話だったという。昭和天皇は山下に拝謁の機会を与えなかった。これは二・二六事件の時の山下の行動が不興を買ったことによる。統制派・東條英機首相兼陸相から疎まれていたといった話しがある。事実、本省から前線に左遷されていた事がそのことを物語っている。軍人として不名誉な囚人服を着せられての絞首刑であった。

【国際軍事法廷極東裁判によるA級戦犯絞首刑者の辞世の句】
土肥原賢二  「有無の念 いまは全く あと立ちて 今日このころの 秋晴れの如し」
 「わが事も すべて了りぬ いざさらば ここらでさらば いざ左様なら」
 わが事も 全て了りぬ いざさらば さらばさらばで はい左様なら
松井石根  「天地も人も うらまず一すじに 無畏を念じて 安らけく逝く」

 「いきにえに 尽くる命は 惜かれど 国に捧げて 残りし身なれば」

 「世の人に のこさばやと思ふ 言の葉は 自他平等 誠(まこと)の心」
東条英機
 「さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根の 花薫るとき」
 「さらばなり 有為の奥山 けふ越えて 弥陀のみもとに 行くぞうれしき」
 「明日よりは だれにはばかる ところなく 弥陀のみもとで のびのびと寝む」
 「我ゆくも またこの土地に かへり来ん 國に酬ゆる ことの足らねば」
 「散る花も 落つる木の実も 心なき さそうはただに 嵐のみかは」
 「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」
 たとへ身は 千々に裂くとも およばじな 栄しみ世を おとせし罪は
武藤 章  「現世 ひとや(獄舎)のなかの やみにいて かの世の光 ほのに見るかな」
 「散る紅葉 吹かるるままの 行方哉」
 「霜の夜を 思い切ったる 門出かな 散る紅葉 吹かるるままの 行方哉」
板垣征四郎  「とこしへに わがくに護る 神々の 御あとしたひて われは逝くなり」
 「大神の 御魂の前に ひれふして ひたすら深き 罪を乞うなり」
廣田弘毅
 外交官・政治家。1948(昭和23)年没(享年70歳)。
木村兵太郎
 平和なる 国の弥栄(いやさか) 祈るかな 嬉しき便り 待たん浄土に
 「現身は とはの平和の 人柱 七たび生まれ 国に報いむ」
 「うつし世はあとひとときのわれながら 生死を越えし法のみ光り」
松岡洋右  「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」





(私論.私見)