辞世句4、明治以降から敗戦まで |
更新日/2017.3.7日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「辞世句4、明治以降から敗戦まで」を確認する。「撰集 辞世の句集」、「辞世の句」、「武将たちの辞世の句」、「辞世の句 & 名言集 幕末編」、「辞世「みそひともじ」集by吉岡生夫」その他参照。今後どんどん充実させていくつもりである。 2013.3.23日再編集 れんだいこ拝 |
【天野八郎】 |
「北にのみ 稲妻ありて 月暗し」 |
(解説) 1868(明治元).11.8日(12.21日)没、享年**歳。江戸時代後期、幕末期の幕臣である。名は忠吉。または林太郎。諱は忠告、号は斃止。妻はつね。子は1男1女。上野で最後まで戦った彰義隊の副頭取。この句は死を覚悟して読んだもの。戦いに敗れて獄中でしたためた『斃休緑』にある句だそうです。(出典:戊辰物語(岩波文庫)) |
【土方歳三】 |
「よしや身は 蝦夷が島辺(島根)に 朽ちぬ(つる)とも 魂は東(あずま)の 君やまもらむ」 |
「鉾(ほこ)とりて 月見るごとに おもふ哉(かな) あすはかばねの 上に照(てる)かと」 (最後まで行動を共にした隊士・島田魁(かい)(1828~1900)がまとめたとされる和歌集の巻頭歌) |
「叩かれて 音の響きし なずなかな」 |
(解説) 1869(明治2).5.11日没、亨年35歳。箱館五稜郭防衛戦にて戦死。幕末時の新撰組の副長。戊辰戦争に於いて北海道まで行き、闘い、倒れる。 |
【但木土佐(ただき とさ)】 |
「雲水の 行方はいづこ むさし野を ただ吹く風に まかせたらなん」 |
(解説) 1869(明治2).5.19日没、亨年53歳。幕末仙台藩の人物。但木土佐は幕末仙台藩における藩政の最高責任者。戦争の責任者として坂英力と共に東京麻布にあった仙台屋敷にて斬刑処刑された。 |
【坂 英力】 |
「うきくもを 払ひかねたる 秋風の 今は我か身に しみぞ残れる」 |
「国のため すつる命の かひあらば 身はよこしまの 罪に朽つとも」 |
「危うきを 見すてぬ道の いまここに ありてふみゆく 身こそ安けれ」 |
(解説) 1869(明治2).5.19日没、亨年37歳。幕末仙台藩の人物。但木土佐が政務を担当するかたわら坂英力は軍務を担当していた。常に前線にあって奥羽越列藩同盟を指揮していたが、藩の降伏後責任を負い但木土佐とともに処刑された。二人とも切腹ではなく斬首されている。また但木土佐は七峰樵夫、坂英力は黄海漁夫と号している。 |
【大村益次郎】 |
「君のため 捨つる命は 惜しからで ただ思わるる 国の行末」 |
(解説) 1869(明治2).12.7日(11.5日)没、亨年46歳。幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされる。 |
【河上彦斎】 |
「君が為め 死ぬる骸に 草むさば 赤き心の 花や咲くらん」 |
君を思い 君の御法に 死ぬる身を ゆめ見こりなそ つくせ世の人 |
「豫(かね)てより なき身と知れど 君が代を 思ふ心ぞ 世にのこりける」 |
「たとひ身は 夷の国に 朽ちぬとも わが美よしのの 花は忘れじ」 |
「火もて焼き 水もて消せど 変わらぬは 我敷島の 大和魂」 |
(解説) 1872(明治4).1.13日(12.4日)没、享年38歳。尊皇攘夷派の日本の武士(熊本藩士)。諱は玄明(はるあきら)。佐久間象山を暗殺するなどして「人斬り彦斎」と呼ばれた。維新後は有終館を設立。反体制的な行動を起し、藩と新政府に危険視されて逮捕され、斬首処刑される。 |
【黒駒 勝蔵(くろこまの かつぞう)】 |
「思ひおく まぐろの刺身 鰒汁(ふぐとしる) ふっくりぼぼに どぶろくの味」 |
(解説) 1871(明治4).11.26日(10.14日)没、享年**歳。幕末の侠客、尊王攘夷派の志士。本名:小池 勝蔵(こいけ かつぞう)。黒駒勝蔵時代の悪事が露見したという理由で捕縛し、明治政府の手により後の山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首された。 |
【貞信尼】 |
「くるに似て かへるに似たり おきつ波 立居は風の ふくにまかせて」 |
(解説) 1872(明治4)年没、享年**歳。 |
【原田きぬ】 |
「夜嵐に さめてあとなし 花の夢 (夜嵐阿衣花廼仇夢)おきぬのはなのあだゆめ」 |
(解説) 1872(明治4)年没、亨年歳。妾の身分で密通をし、主人を毒殺。 |
【大前田英五郎】 |
「あらうれし 行き先とほき(知れぬ) 死出の旅」 |
(解説) 1874(明治7)年没、亨年82歳。侠客。 |
【江藤新平】 |
「ますらをの 涙を袖に しぼりつつ 迷ふ心は 君のため」 |
「ただ皇天后土(こうてんこうど)の わが心を知るのみ」 |
(解説) 1874(明治7).4.13日没、亨年41歳。日本の武士(佐賀藩士)、政治家である。幼名は恒太郎・又蔵。維新の十傑の1人。幕末佐賀藩の志士で、維新以降は政府の高官を歴任するも、佐賀の反乱の首謀者として捕まり処刑された英傑。皇天は天の神の支配するところ、皇土は地の神の支配する土地のこと云々。 |
【太田垣蓮月】 |
「願わくば のちの蓮(はちす)の 花のうえに くもらぬ月を 見るよしもがな」 |
「ちりほどの 心にかかる 雲もなし けふをかぎりの 夕ぐれのそら」 (連月尼全集全・拾遺雑集「辞世」) |
(解説) 1875(明治8).12.10日没、享年85歳。幕末の女流歌人、陶芸家。33歳で二度目の夫に先立たれ剃髪して蓮月尼と称した。父の死後陶器を作り、自詠を入れたものが「蓮月焼」として人気を博したため、金銭には困らず、飢饉などには、奉行所に匿名で寄付をしている。明治8年12月死亡。遺体は遺言通り、普段米びつに使っていた棺桶に納められ、西芳寺(京都)に埋葬された。 |
【新門辰五郎】 |
「思ひ置く まぐろの刺身 鰒と汁(河豚の汁) ふっくりぼぼに どぶろくの味」 |
(解説) 1875(明治8)年没、享年**歳。 |
【前原 一誠(まえばら いっせい)】 |
「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん」 |
「これまでは いかい御苦労からだどの よびだしの声まつむしや 秋の風」 |
(解説) 1876(明治9)年没、享年43歳。日本の武士(長州藩士)。日本の武士(長州藩士)。奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、萩で処刑された。 |
【西郷隆盛】 |
「大君の ためには何か おしからむ為 薩摩の迫門に 身は沈むとも」 |
「ふたつなき 道にこの身を 捨小船 波たたばとて 風吹かばとて」 |
(解説) 1877(明治10).9.24日没、亨年51歳。鹿児島城山(しろやま)で戦死した。 (上記 月照とともに入水のときの句) |
【稲妻雷五郎】 |
「腕押しに ならでや涼し 雲の峰」(根本家墓の墓誌) |
「稲妻の 去りゆく空や 秋の風」(横綱力士伝等) |
(解説) 1877(明治10)年没、亨年29歳。 |
【木戸孝允】 |
「さつきやみ あやめわかたぬ 浮世の中に なくは私しと ほととぎす」 |
(解説) 1877(明治10).5.26日没、享年**歳。幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。 |
【西郷 隆盛(さいごう たかもり)】 |
「ふたつなき 道にこの身を 捨小船 波たたばとて 風吹かばとて」 |
(解説) 1877(明治10).9.24日没、享年50歳。日本の武士(薩摩藩士)・政治家。 |
【村田新八】 |
「嗚呼、天なり」 |
(解説) 1877(明治10).9.24日没、享年**歳。日本の武士(薩摩藩士)・政治家。 |
【木村円解】 |
「あくまでと 思いし甲斐も なく千鳥 其の名は残れ 越の島根に」 |
(解説) 1878()年没、亨年26歳。長岡藩士 竹橋事件。 |
【高橋お伝】 |
なき夫の 為に待ちゐし 時なれば 手向に咲きし 花とこそ知れ 嬉しきも 憂きも夢なり 現なり さめては獄屋 看ては故里 子を思ふ 親の心を 汲む水に ぬるる袂の 干る隙もなし しばらくも 望みなき世に あらんより 渡し急げや 三途の河守 |
1879(明治12).1.31日、殺人犯。仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、明治の毒婦と呼ばれたが、実際は毒婦ではなく、殺人行為は相手に非があったとされている(後述を参照)。 |
【赤井景韶】 |
「青葉にて散るともよしや楓葉の あかき心は知る人ぞ知る」 |
「さてもさて浮世の中を秋の空 なき友数に入るそうれしき」 (実弟新村金十郎に対して贈った血書の辞世の句) |
(解説)1885().7.27日没、享年**歳。上越地方を代表する急進的青年民権家。明治16(1883)年の高田事件で唯一実刑判決を受け収監し、その後脱獄、人力車夫殺害で18年7月27日死刑に処せられた。 |
【井上井月】 |
「何処やらに 鶴の声聞く 霞かな」 |
「落ち栗の 座を定めるや 窪溜り」 |
「闇き夜も 花の明かりや 西の旅」 |
「立ちそこね 帰り後れて 行く乙鳥(つばめ)」 |
(解説) 1887(明治20).3.10日没、享年84歳。 |
【山岡鉄舟】 |
「腹痛や 苦しきなかに 明けがらす」。 |
(解説) 1888(明治21).7.19日没、享年53歳。江戸時代末期の幕臣。慶応4年の江戸城無血開城に貢献。130キロ離れた三島の龍沢寺に参禅するため、夜間の間に往復したしたという豪傑。明治22.7月、2年前からの胃の病が悪化して、坐禅を組んだまま往生をとげる。辞世の句は、いかにも江戸っ子らしい句である。臨終の時に見舞いに来ていた三遊亭円朝に一席喋ってもらい、それを聞きながら往生したと伝えられている。 |
【大久保一翁】 |
「なにひとつ 世のためはせで まうつしに のこす姿の 恥ずかしきかな」 (晩年写真を写すとき) |
(解説) 1888(明治21)年没、享年70歳。維新政府の官僚。 |
【山川唐衣()】 |
我ながら 何に名残を 惜しむらむ 思ひおくべき こともなき世に |
1889(明治22)年没、。 会津藩士・山川尚江の妻。名は艶。浩・健次郎兄弟の母。会津藩士・西郷近登之の嫡女として会津若松に生まれる。20歳で山川家に嫁し、12人の子を産み、うち5人は夭折したが7人の子女を育て上げ、賢婦人の誉れ高かった。夫、尚江重固が49歳で没し、剃髪して勝昭院と称した。父近登之に似て和歌をよくし、歌集も残されている。 |
【宮崎彌蔵(管仲甫)】 |
「大丈夫(ますらお)の 真心(まごころ)コメシ 梓弓(あずさゆみ) 放タデ死スル コトノクヤシキ」 |
(解説) 1896(明治29)年没、享年29歳。宮崎4兄弟の3男。 |
【樋口一葉】 |
「皆様が野辺をそぞろ歩いておいでのときには、蝶にでもなって、お袖のあたりにたわむれ、まつわりましょう」 |
「さりとはの 浮世は 三分五里霧中」 |
(解説) 1896(明治29).11.23日没、享年**歳。日本の小説家。東京生れ。本名は夏子、戸籍名は奈津。中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6か月で肺結核により死去。『一葉日記』も高い評価を受けている。 |
【勝海舟】 |
「これで おしまい」 |
(解説) 1899(明治32).1.21日没、享年**歳。江戸時代末期から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。 |
【三遊亭円朝】 |
「耳しひて 聞き定めけり 露の音」 |
「目を閉じて 聞き定めけり 露の音」 |
(解説) 1900(明治33)年没、亨年69歳。 |
【正岡子規】 |
「糸瓜(へちま)咲(い)て 痰(たん)のつまりし 仏哉(かな)」 |
「痰一斗(いっと) 糸瓜の水も 間にあはず」 |
「をとヽひの 糸瓜の水も 取らざりき」 |
(解説) 1902(明治35).9.19日没、亨年34歳。日本の俳人、歌人、国語学研究家である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。 |
【西郷頼母】 |
「あいつねの おちこち人に 知らせてよ 保科近悳 けふしぬるなり」 |
(解説) 1903(明治36).4.28日没、享年**歳。江戸時代後期(幕末)の会津藩の家老。家禄1,700石。父は西郷近思(ちかし)、母は律子、兄弟多数。妻は千重子。子は長女・細布子、次女・瀑布子、長男・吉十郎有鄰(ありちか)、三女・田鶴子、次男・五郎(夭逝)、四女・常盤子、五女・季子の二男五女。菊池氏族西郷氏。家紋は鷹の羽、また保科家の並び九曜紋を許されていた。明治維新後は保科 頼母(ほしな たのも)と改名。号を栖雲、または酔月、晩年は八握髯翁と号した。講道館柔道草創期の講道館四天王の一人である西郷四郎は養子である。幕末会津藩の家老。松平容保の京都守護職に反対する。戊辰戦争では一族全滅の憂き目にあう。 |
【尾崎紅葉】 |
「死なば秋露の ひぬ間ぞ 面白き」 |
(解説) 1903年没、亨年36歳。乃木希典の妻で夫とともに殉死する。 |
【三遊亭一朝】 |
「あの世にも 粋な年増が ゐるかしら」 |
(解説) 1903()年没、亨年57歳。 |
【藤村操】 |
「万有の真相は唯一言にしてつくす、臼く”不可解”(厳頭の感) 始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」 |
(解説) 1903(明治36).5.22日没、亨年歳。北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。 |
【山川登美子】 |
「父君に 召されていなむ 永遠(とこしへ)の 春あたたかき 蓬莱のしま」 (山川亮の「姉の思ひ出」) |
「後世は 猶今生だにも 願わざる わがふところに さくらきて来てちる」 |
(解説) 1909(明治42).4.5日没、亨年30歳。歌人。本名・とみ。 |
【伊藤博文】 |
万里平原、南満州 風光闊遠、一天の秋 当年戦跡、余憤を留む、 更に行人をして暗愁牽かしむ |
南満州にはどこまでも平原が広がっている。眺めは遠くまでひろがり、空全体がまさに秋らしい。この年になっても戦場の跡はまだおさまらない怒りをとどめている。それがいっそう旅人を人知れぬ憂いにとらわれさせるのだ。 |
1909(明治42).10.26日、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。このとき、伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らといくつか会話を交わしたが、死の間際に自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば「俺は駄目だ。誰かほかにやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが、伊藤の最後の言葉だったという。享年69歳。 |
【幸徳秋水】 |
爆弾の とぶよと見てし 初夢は 千代田の松の 雪折れの音 |
1911(明治44).1.24日、。明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者。本名は、幸徳 傳次郎(こうとく でんじろう)。 |
【乃木希典】 |
「神あかり あかりましぬる 大君の みあとはるかに をろかみまつる」 |
「うつし世を 神去りましし 大君の 御(み)あと慕(した)ひて 我はゆくなり」 |
(解説) 1912().9.14日没、亨年63歳。明治の軍人。日露戦争において二百三高地攻防などを指揮する。明治天皇崩御に際し殉死する。 |
【乃木静子】 |
「出てまして かへります日の なしときく けふの御幸に 逢ふぞかなしき」 |
(解説) 1912().9.14日没、亨年54歳。乃木希典の妻で夫とともに殉死する。 |
【岡倉天心】 |
十二万年 夕月の夜 訪ひ来ん人を 松の影 |
1913(大正2)年9.2日、。日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。 |
【徳川慶喜(江戸幕府第十五代将軍)】 |
「この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり」 |
(人生は短い夢のようなものだと聞いていたが、ずいぶんと長い年月を生きてきたものだ) |
(解説) 1913(大正2)年11月22日、没。亨年77歳。 |
【森鴎外】 |
余ハ石見人 森林太郎トシテ 死セント欲ス |
1922(大正11).7.9日、。日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将 相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士 。 |
【有島武郎】 |
「世の常の わが恋あんらは かくはかり おそましき火に 身はや焼くへき」 |
「愛の前に 死がかくまでも 無力なものだったとは この瞬間までは 思はなかった」 |
(解説) 1923(大正12).6.9日没、亨年45歳。日本の小説家。学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。1903年渡米。ハバフォード大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。代表作に『カインの末裔』『或る女』や評論『惜みなく愛は奪ふ』。 |
【大町桂月】 |
「極楽へ 越ゆる峠の ひと休み 蔦のいで湯に 身をば清めて」 |
(解説) 1925(大正15)年没、亨年56歳。酒仙・鉄脚の旅人。 |
【尾崎放哉】 |
「春の山のうしろから 烟(けむり)が出だした」 |
(解説) 1926(昭和2).4.7日没、亨年41歳。大正期の俳人。安住の地を求めて流浪した尾崎放哉は、“昭和の芭蕉”種田山頭火と共に『漂泊の俳人』と呼ばれる。両者は共に季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ。 |
【島木赤彦】 |
我が家の犬は いづこにゆきならむ 今宵も思ひ いでて眠れる |
1926(大正15).3.27日、。明治・大正時代のアララギ派歌人。 |
【芥川龍之介】 |
「水洟(みづぱな)や 鼻の先だけ 暮れ残る」 (小穴隆一著「二つの絵」の「芥川龍之介の回想」) |
(解説) 1927(昭和12).7.24日没、亨年39歳。近代日本の代表的作家。号は澄江堂主人、俳号は我鬼。その作品の多くは短編である。また、「芋粥」、「藪の中」、、「地獄変」、「歯車」など。今昔物語集、宇治拾遺物語といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。自殺直前に書いた色紙の一句。 |
【若山牧水】 |
「つれづれや 天井をはふ 百足の子」 |
「秋の夜やの そのそと人の 入りて来つ」 |
(解説) 1928(昭和13).9.17日没、亨年43歳。戦前日本の歌人。大の酒好きで、一日一升程度の酒を呑んでいたといい、死の大きな要因となったのは肝硬変。 |
【中野貫一】 |
「無理おごり 朝寝かけ事 慎みて なりはひはげめ 国は栄えん」 |
(解説) 1932(昭和7)年没、亨年83歳。日本の石油王。目黒雅叙園の資金は彼によるとの話もある。長男は数寄者の中野忠太郎。中野家は新潟県の新津油田を中心に発展した。 |
【犬養毅】 |
「話せば分かる」 |
(解説) 1932(昭和7).5.15日没、亨年78歳。新聞記者から官僚となったが明治14年の政変で下野。第1回総選挙で当選。以後、立憲改進党・進歩党・憲政本党で活躍。明治43年(1910年)立憲国民党を結成し、第1次護憲運動では尾崎行雄と並び「憲政の神様」と称され、第2次護憲運動でも革新倶楽部を率いて活躍。大正14年(1925年)同倶楽部を立憲政友会と合同させて政界を一時引退。昭和4年(1929年)政友会第6代総裁になり、昭和6年(1931年)末には内閣を組織して金輸出再禁止を実施、満洲事変の処理をはかったが、翌年の5・15事件で殺害された。辛亥しんがい革命を支援したアジア主義者でもあった。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。 |
【巌谷小波】 |
「極楽の 乗り物や 是桐一葉」 |
(解説) 1933(昭和8)年没、亨年63歳。 |
【宮沢賢治】 |
「病(いたつき)のゆゑにも くちんいのちなり みのりに棄てば うれしからまし」 |
「方十里 稗貫(ひえぬき)のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる」 |
(解説) 1933(昭和8)年没、亨年37歳。 |
【竹久夢二】 |
日にけ日にけ かっこうの啼く音ききにけり かっこうの啼く音はおおかた哀し |
1934(昭和9).9.1日、。日本の画家・詩人。本名は竹久茂次郎(たけひさもじろう)。 |
【北一輝】 |
「若殿に 兜とられて 負け戦」 |
(解説) 1937(昭和12).8.19日没、亨年**歳。社会運動家。西田税、磯辺浅一元陸軍一等主計、村中孝次元大尉とともに処刑された。 |
【木下尚江】 |
「何一つ もたで行くこそ 故さとの 無為の国への みやげなるらし」 |
(解説) 1937(昭和12)年没、亨年68歳。社会運動家。 |
【江口きち】 |
「睡たらひて 夜は明けにけり うつそみに 聞きおさめなる 雀鳴きそむ」 |
「大いなる この寂けさや 天地の時刻 あやまたず 夜は明けにけり」 |
(解説) 1938(昭和13)年没、亨年25歳。 |
【泉鏡花】 |
「露草や 赤のまんまも なつかしき」 |
(解説) 1939(昭和14).9.7日没、享年**歳。明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家。戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎(きょうたろう)。金沢市下新町生まれ。 尾崎紅葉に師事した。 |
【種田山頭火】 |
「もりもり盛りあがる 雲へあゆむ」 |
(解説) 1940(昭和15).10.11日没、享年56歳。戦前日本の俳人。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。 |
【林忠崇】 |
「真心の あるかなきかは屠りだす 腹の血潮の 色にこそ聞け」 (戊辰戦争時に降伏する際に詠んだ辞世の歌) |
(解説) 1941(昭和16).1.22日、次女・ミツの経営するアパートにて病死(享年94歳)。幕末の大名で上総国請西藩の第3代藩主。昭和12年(1937年)に旧広島藩主・浅野長勲が死去した後、忠崇は生存する唯一最後の大名となっていた。晩年は娘と同居しながら悠々自適の生活を送り、時には「最後の大名」として各取材を受けるなど幸福であったと伝えられる。死の直前に辞世を求められた際、「明治元年にやつた。今は無い」と答えたと言われる。墓所は港区愛宕の青松寺。 |
【川端茅舎(かわばた ぼうしゃ)】 |
朴散華 即ちしれぬ 行方かな |
1941(昭和19).7.17日、。東京都出身の 俳人。本名は信一(のぶかず)。当初は画家を志し岸田劉生に師事したが、病のために断念し俳句に転向、高浜虚子に師事して「ホトトギス」に拠る。 |
【萩原朔太郎】 |
「行列の 行きつくはては 餓鬼地獄」 |
(解説) 1942(昭和17).5.11日没、亨年56歳。日本詩人。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。 |
【山本五十六】 |
「天皇の 御楯とちかふ 真心は ととめおかまし 命死ぬとも」 |
「弓矢取る 国に生まれし 益良雄の 名をあらはさむ ときはこのとき」 |
「百年兵を養うはただ平和を守るためである」 |
(解説) 1943(昭和18).4.18日没、。新潟県古志郡長岡本町出身の大日本帝国海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。最終階級は元帥海軍大将。ブーゲンビル島上空で撃墜され戦死したとされている。旧姓は高野。 |
(私論.私見)