辞世句3、江戸時代初期から幕末まで

 

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.3.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、辞世の句を時系列で確認する。「撰集 辞世の句集」、「辞世の句」、「武将たちの辞世の
」、「辞世の句 & 名言集 幕末編」、「
辞世「みそひともじ」集by吉岡生夫
その他参照。今後どんどん充実させていくつもりである。

 2013.3.23日再編集 れんだいこ拝


安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)
 清風払明月 明月払清風
 (解説) 1600()年没、享年**歳。

蒲生大膳(がもう だいぜん)
 「まてしばし 我ぞ渉りて 三瀬川 浅み深みも 君に知らせん」
 (解説) 1600()年没、享年**歳。

平塚為広(ひらつか ためひろ)
 「名のために 捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ うき世と思へば」
 (解説) 1600().9.15日没、享年**歳。戦国時代から安土桃山時代の武将。大力で、薙刀の名手といわれる。豊臣秀吉につかえる。慶長5年関ケ原の戦いで大谷吉継とともに西軍にくわわる。吉継より戸田勝成と共に小早川秀秋の動向を探り秀秋に裏切りの気配があれば暗殺するように密命を受けていたが秀秋に事前に暗殺計画を察知されたため、かなわなかったと言われている。 9月15日(10月21日)の関ヶ原本戦では、吉継に属して前備え360人を率い藤川の台に布陣、裏切った秀秋の部隊を相手にし数度撃退したが、脇坂安治らの裏切りや藤堂隊、京極隊の攻撃に持ちこたえることができず壊滅状態になった。為広はなおも奮闘したが、山内一豊の家臣樫井太兵衛に討たれた。小早川秀秋の家臣横田小半介に討たれたとも言われる。死ぬ前に吉継に辞世の歌(「名のためにつる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」)を送っている。(大谷吉継は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」と返歌しているが届いたかは不明)

小野木重勝おのぎ しげかつ
 「鳥啼きて 今ぞおもむく 死出の山 関ありとても われな咎めそ」
 (解説) 1600()年没、享年38歳。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、秀吉が近江国長浜城主だった頃に直参の黄母衣衆、のちに大母衣衆となり活躍した記録がある。慶長5年の関ヶ原の戦いにおいては豊臣恩顧の大名として西軍に与し、7月には大坂鰻谷町橋を守備し、のちに但馬国や丹波の諸大名・1万5000の軍勢を率いて細川幽斎が守る丹後田辺城(舞鶴城)を攻撃し、これを開城させた(田辺城の戦い)。ところが、9月15日の本戦では西軍が敗北したため、丹後田辺城から福知山城に撤退する。ほどなく幽斎の子・忠興木下延俊らの軍勢に取囲まれ開城した。籠城の間、井伊直政前田茂勝を通じて徳川家康に助命を請うていたが、忠興によって丹波亀山城下の浄土寺嘉仙庵において自刃させられた。自刃の知らせを聞き妻も自害して果てたという。首は京都三条河原に曝された。妻は島清興の娘でジョアンナの名前で知られるキリシタンであり、閨秀歌人としても知られており、高台院に仕えていた。

【細川ガラシャ(伽羅奢)
 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(綿考輯録)
 「先だつは おなじかぎりの 命にも まさりてをしき 契りとをしれ」(常山紀談)
 (先立つは 今日を限りの命とも まさりて惜しき 別れとぞ知れ)
 「露をなど あだなるものと 思ひけん わが身も草に 置かぬばかりを」
 (解説) 1600()年没、亨年38歳。明智光秀の娘で名は玉。細川忠興に嫁ぐ。1582(天正10)年、明智光秀が本能寺の変を起こし、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れると、秀吉に遠慮した忠興によって幽閉された。しかし、1584年に秀吉の計らいで忠興とガラシャは復縁し、ガラシャは大坂の細川家屋敷の忠興のもとに戻った。1587年、キリスト教に入信。ガラシャの洗礼名を貰う。関ヶ原の際、細川忠興は徳川家康の東軍についた。 西軍の石田三成は、大名が東軍につくのを阻止するために、彼らの家族を人質にとろうとした。忠興が家康に従軍して会津へ攻め上っている間に、ガラシャのもとにも三成の魔の手が迫り、大坂城に入ることを強要した。それを百も承知の忠興は、「何があっても三成の人質にはなるな」と因果を含めて出陣していた。キリシタンにおいて自殺は神に対する最大の犯罪であるので自殺の道をとらず、屋敷に火を放ち、家老の小笠原小斎の介錯によって37年の生涯を閉じた。細川家の面目を保ったことが婦徳(ふとく)の鑑(かがみ)と称えられることになった。

【大谷吉嗣】
 契りあらば 六つの衢(ちまた)に 待てしばし 遅れ先立つ たがひ(ことは)ありとも
 (解説) 1600(慶長5)年10月21日(旧暦9月15日)没、享年**歳。越前敦賀城主。関が原合戦で親友三成に殉じた仁義の武将として後世に伝えられている。辞世の句は、戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため)  棄つる命は  惜しからじ  終にとまらぬ 浮世と思へば」への返句となっている。

【石田三成(いしだ みつなり)
 「筑摩江(つくまえ)や 芦(あし)間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
 (解説) 1600()年没、享年**歳。筑摩江(つくまえ)は琵琶湖東北端の入江で三成の故郷。「芦(あし)の間に揺らめくかがり火」は秀吉と豊臣家に仕えた三成の人生の去就を表現している。

【黒田孝高(官兵衛、如水)】
 「思いおく 言の葉なくて ついに行く  道は迷わじ なるにまかせて」  
 「我 人に媚びず 富貴(ふうき)を望まず」
 (解説) 1604()年没、享年59歳。秀吉の軍師黒田官兵衛こと茶人黒田如水の辞世である。波乱の生涯を通して水の如き聡  明さによって、乱世を生き抜いた勇気ある智者といわれる。その名は「身は毀誉褒貶の  間にありといえども心は水の如く清し」にもとづく。死に臨んで何も思い残すことはない。遂に行く死という道に迷いを持たず、なるに委せて行こうという。あれこれと惑い  ながら結局は、「この世に未練はあっても悔いは残すまじ」というところに落ち着くで あろうわが辞世の大先達だと思ったりもしている。キリシタン大名。秀吉の軍師として仕え、山崎の合戦、九州征伐に功績をあげた。関ケ原では家康側につき老年ながら九州で活躍した。その後太宰府に隠居をして、福岡に教会を築いた。慶長9年3月、山城国伏見屋敷に滞在中に急病で死亡。遺言により福岡の教会で葬儀が営まれた。

新納忠元(にいろ ただもと)
 「さぞな春 つれなき老と おもうらん ことしも花の あとに残れば」
 (解説) 1610(慶長15)年没、享年85歳。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。

細川幽斎
 「いにしへも 今もかはらぬ 世の中に こころの種を 残す言の葉」
 (解説) 1610(慶長15).8.10日、京都三条車屋町の自邸で死去(享年77歳)。

島津義久
 「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」
 1611(慶長16).1.21日、国分城にて病死した(享年79歳)。

松井康之(まつい やすゆき)
 「やすく行道こそ 道よ是やこの これそまことの みちに入けり」
 (解説) 1612(慶長17).1.22日(2.23日)年没(享年63歳)。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。松井正之の次男。子に興之興長。幼名は新助、胃助。関が原の戦いでは、康之は忠興の飛び領であった豊後杵築城に城代・有吉立行と共におり、丹後へ戻るよう忠興より命を受けるも既に戻れる状況下になかったため、杵築に留まった。そして攻めてきた大友吉統の攻撃を防ぎきり、救援に来た黒田如水と合流、石垣原の戦いで勝利した。この功績により戦後、忠興より2万6,000石の知行と、速見郡の御領所1万7,000石を預けられた。優れた茶人でもあったといわれている。子孫は代々徳川家直参の身分を持ち、熊本藩の2万8,000石の筆頭家老(別格家老家)であり、さらに代々肥後八代城主に封じられた(一国一城制の例外)。

【山之手殿(寒松院)
 「五行をば その品々に 返すなり 心問わるる 山の端の月」
 (解説) 山之手殿(寒松院)。1613(慶長18).6.3日(7.20日)没、享年**歳。真田昌幸の妻。京の御前、寒松院とも。 真田昌幸の正室。真田信之・信繁(幸村)兄弟の母。 敵が来て自害を決意したときに詠んだもの。

【矢沢頼綱の母】
 「死出の山 月のいるさを しるべにて 心の闇を 照らしてぞ行け」
 (解説) 矢沢頼綱の母。1613(慶長18).6.3日没、享年**歳。山之手殿と一緒に詠んだ辞世句。

【今川氏真(うじざね)】
 「なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科(とが)にして」
 「悔しとも 羨ましとも 思はねど 我世にかはる 世の姿かな」
 (解説) 1614(慶長19).12.28日没、亨年77歳。今川義元の子。駿河今川氏当主。父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。江戸で死去。

筒井定慶(つつい じょうけい)
 「世の人の くちはに懸る 露の身の 消えては何の 咎もあらじな」
 (解説) 1615()年没、享年**歳。

真田幸村(さなだ ゆきむら)
 「定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候。我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候」
 (確実にこうと云えるほどの当てのないのが世の中の実際ですから、明日のこともどうなるかはわかりません。私たちのことなどはこの世にいないものと考えてくださいますようお願い申し上げます)
 「関東軍 百万も候え 男は一人も無く候」
 (解説) 1615(慶長20).6.3日、大坂夏の陣で戦死(享年49歳)。没、享年48歳。真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。 関ヶ原の戦いで父・真田昌幸とともに西軍として出征。のち、大阪冬の陣では出城「真田丸」に籠り、鉄砲隊を率いて徳川勢に大打撃を与え、夏の陣では家康の本陣に3度突撃するなど武名をあげた。その英雄的な活躍は江戸時代以降に講談や小説でたびたび取り上げられ、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるなど国民的人気を得ることとなる。

【徳川家康】
 「嬉しやと 二度さめて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」   
 (うれしいことに、最後かと目を閉じたが二度目覚めた。もう一眠りするとしようか。思えば、この世のことは夜明けの暁の空のようなものだった)
 「先に行く あとに残るも 同じこと 連れて行けぬを わかれぞと思う」
 「三河武士は宝を持ちません しかし あえて宝といえば 私に命を預けてくれる五百騎の武士(もののふ)たちでありましょう」
 「人生とは重き荷を背負いて遠き道を行くが如し」
 (解説) 1616()年没、享年75歳。徳川初代将軍。今川義元・織田信長と結び武田氏は滅ぼす。ついで豊臣秀吉と和し、天正18年(1590)関八州に封ぜられて江戸城に入る。秀吉の没後伏見城で執政、慶長5年(1600)関ヶ原の戦で石田三成らを破り、征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開く。元和2年1月腹痛をおぼえ、容体が悪化して4月17日死亡。棺は久能山に納められる。

島津義弘(しまづ よしひろ)
 「春秋の 花も紅葉も とどまらず 人も空しき 関路なりけり」
 (解説) 1619(元和5).8.30日(7.21日)没、亨年85歳。このとき、義弘の後を追って13名の家臣が殉死している。

鶴姫(つるひめ)
 わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ
 1621年、。鶴姫(つるひめ)は戦国時代の伊予(現・愛媛県)にいたとされる伝承上の女性。院号は蓮乗院。江戸重通の娘、結城晴朝の養女、結城秀康・烏丸 光広の正室。大井満安の娘、仁賀保挙誠の妻(1589年? - ?)。

【初代本因坊 算砂(さんさ)】
 碁なりせば コウなど打ちて 生くべきを 死ぬるばかりは 手もなかりけり
 (解説) 1623(元和9).6.13日(5.16)日没、享年**歳。

【古今夷曲集】
 「来世にて 又太夫とやなりぬべき 死ぬる時にも 目こそまひまひ」(大坂の舞太夫)
 「ほつくりと 死なは脇より 火を付て あとはいかいに なして給はれ」(俳諧師・宗朋)
 「宗鑑は どちへと人のとふならば ちとようありて あのよへといへ」(山崎宗鑑)
 「今日よりは 算用いらず 人間の 八く七十二 にて皆済」(良忠)
 「月日くれ 身はふる桶の 底ぬけぬ わがあらはこそ ゆひもなをさめ」(読人しらす)
 「我死なば 酒屋の瓶の したにをけ われてこぼれて 若かかるかに」(治貞)
 「我よはひ とはば鐘木杖(しもくづえ) かねはもたでも 南無あみた仏」(休甫)
 (解説) 

ねね 高台院(こうだいいん)
 咲けば散り 散れば咲きぬる 山桜 いやつぎつぎの 花さかりかな
 寛永元年9月6日(1624年10月17日)、高台院屋敷にて死去。享年については76、77、83などの諸説がある。なお最晩年に木下家から利房の一子・利次(一説に利三とも)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えており、遺領約1万7,000石のうち近江国内3,000石分は利次によって相続された。墓所は京都市東山区の高台寺。遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に安置されている。

伊丹道甫(いたみ どうほ)
 「あたの世に しばしが程に 旅衣 きて帰るこそ 元の道なれ
 (解説) 1625(寛永2).7.19日(8.21日)、没(享年**歳)。江戸時代中期の医師、茶人。 通称は孫兵衛、医者になってからの名 は道甫

【島津義弘】
 「春秋の 花も紅葉も とどまらず 人も空しき 関路なりけり
 (解説) 1627()年没、享年72歳。

【伊達政宗】
 「雲りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
 咲きしより 今日散る花の 名残まで 千々に心の くだけぬるかな
 馬上少年過 時平白髪多 残躯天所許 不楽是如何
 (解説) 1636()年没、享年69歳。戦国~江戸時代の人。奥州に覇を唱えるも、遅すぎた英傑独眼龍政宗として有名です。仙台藩の藩祖。関ケ原の戦いで徳川方に組して上杉景勝と戦い、慶長八年(1603)居城を仙台に移して、仙台藩の基礎を築いた。寛永13年4月、政宗は病気をおして江戸桜田の藩邸に入った。5月21日、将軍家光は伊達屋敷に見舞に訪れ、それから3日後に死亡。15人殉死、その家来5人も追い腹。・ 四十年前 少年ノトキ 功名聊カ マタ自ラヲ 私ニ期ス 老来リテハ シラズ 干戈ノコト タダ春風ニ 桃李ノ盃ヲトル

【天草四郎】
 「いま籠城している者たちは来世まで友になる」
 (解説) 1638(寛永15).4.12日(2.28日)没、享年**歳。

【松前公広】
 「来し道も 帰る道にも 只独り のこる姿は 草の葉の露
 (解説) 1641()年没、亨年43歳。江戸時代 前期の大名。慶長3年生まれ。松前盛広(もりひろ)の長男。祖父慶広(よしひろ)のあと,元 和(げんな)3年蝦夷(えぞ)地(北海道)松前藩主2代となる。

【春日局】
 「西に入る 月を誘い 法を得て 今日ぞ火宅を のがれけるかな
 (解説) 1643(寛永20).10.26日(9.14日)没、享年**歳。安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、本名は斎藤福。江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は明智光秀の妹であり、稲葉一鉄の姪である、あん。稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。

【沢庵和尚】
 「夢 百年三万六千日 弥勒観音幾是非 是亦夢非亦夢 弥勒夢観音亦夢 仏云応作如是観  沢庵野老卒援筆」
 「来し道も 帰る道にも 只独り のこる姿は 草の葉の露」
 「全身を埋めて、ただ土を覆うて去れ。経を読むことなかれ」
 (解説) 1646()年没、亨年73歳。

【柳生宗矩】
 「こうしようと一筋に思う心こそ人が誰しも抱える病である この病を必ず治そうというこだわりもまた病である 自然体でいること それが剣の道にかなう本当にこの病を治すということなのである」
 (解説) 1646(正保3)年没、享年**歳。

【小堀遠州】
 「昨日といい 今日とくらして あすかがは(飛鳥川) 流れてはやき 月日なりけり」
 「昨日といひ 今日とくらして なす事も なき身の夢の さむる曙」
 (解説) 1647(正保4).2.6日(3.12日)没(享年69歳)。大名茶人、建築・作庭師。幕府の作事奉行となり造園の指導に当たる。古田織部に茶を習い遠州流を立て、後に徳川家光の師範となる。死亡する半年前まで、約1年間に50数回の茶会を開いている。戦国~江戸時代の人。庭園造りや、遠州流など、文化面で有名。

【阿部重次(あべ しげつぐ)】
 「天てらす 月のひかりと もろもろに 行すへすゞし 曙のそら」
 (解説) 1651(慶安4).6.8日(4.20日)、没(亨年54歳)。武蔵岩槻藩第2代藩主。徳川家光のもとで老中をつとめる。阿部家宗家2代。大坂城代を務めた初代藩主・阿部正次の次男。母は佐原義成の娘。正室は三浦重成の娘、継室は松平定勝の娘正寿院。子に定高(長男)、正春(次男)、娘(松平忠倶正室)、娘(松平近陳正室)。官位は山城守、対馬守。初め舅・三浦重成(義次)の養子となったが、実兄で世嗣の阿部政澄が死去したため、阿部家に戻る。同時期に老中を務めた阿部忠秋とは従兄弟同士で、重次が本家筋にあたる。主君の家光はしばしば日光東照宮に社参しているが、江戸からの一泊目が岩槻にあたり、岩槻城主である重次が接待にあたっている。慶安4年(1651年)、家光が死去すると殉死した(同日、堀田正盛も後を追った)。家督は長男・定高が継いだ。

【由井正雪】
 「秋はただ 馴れし世にさへ 物憂きに 長き門出の 心とどむなり」
 (解説) 1651(慶安4).9.10日(7.26日)没、亨年47歳。江戸時代の日本の軍学者。

【丸橋忠弥】
 「雲水の ゆくへも西の そらなれや 願ふかひある 道しるべせよ」
 (解説) 1651(慶安4).9.24日(8.10日)没、亨年*歳。江戸時代の武士(浪人)で、由井正雪の片腕。磔刑。

【佐倉惣五郎(さくら そうごろう)】
 「弓張りの 月は端山(はやま)に 影落ちて 茨(いばら)の里の 露と消え行く」
 (解説) 1653(承応2).9.24日(8.3日)没、亨年42歳。江戸時代前期における下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主。俗称は宗吾。徳川4代将軍家綱の時代、領主堀田正信の悪政に抗し、名手総代の佐倉惣五郎が、徳川家綱将軍が上野の東照宮への参詣を待ち受け直訴。その結果、藩主の堀田は将軍に叱責されたが、佐倉惣五郎一家は妻、長男(11歳)、二男(9歳)、三男(6歳)、四男(3歳)の6名とも後手に縛られ、裸馬に乗せられて引き回された上、処刑された。一番先に、長男が「お父様、お母様、宗平は先に参ります」と凛とした最後の言葉を残し、次々に四人の子が首を刎ねられた。惣五郎、妻の二人は槍で突かれ息絶えた。江戸時代中期以降、「地蔵堂通夜物語」や「東山桜荘子」などの物語や芝居に取り上げられ義民として知られるようになった。

【宇喜多秀家】
 「涙のみ 流れて末は 杭瀬川 水の泡とや 消えむとすらむ」
 「み菩薩の 種を植えけん この寺へ みどりの松の あらぬ限りは」
 (解説) 1655(明暦元).11.20日没、亨年83歳。備前岡山の大名。豊臣政権の五大老の一人。備前宰相。このとき既に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世であった。

【真田信之(さなだ のぶゆき)】
 「何事も 移ればかわる 世の中を 夢なりけりと 思いざりけり」
 (解説) 1657(明暦3)年没、亨年92歳。上田藩、松代藩の基礎を固めた名君。真田昌幸の長男で、信繁(幸村)の兄。関ヶ原の戦いでは、信之は東軍に参加、一方、父・昌幸と弟・幸村は石田三成ら西軍に付いた。戦後信之は自分の戦功と命に換えてもと父・昌幸、弟・幸村の助命を嘆願。昌幸と幸村は紀州国九度山へ流罪となった。

【酒井忠勝】
 「死にともな あら死にともな 死にともな ご恩をうけし 君を思えば」
 (解説) 1662(寛文2).7.12日没(亨年76歳)。

【愛護若】
 「神蔵(かみくら)や 霧降(きりう)が滝へ 身を投ぐる 語り伝へよ 杉の叢立(むらだ)ち」
 (解説) 

【田辺吉長】
 「儚しや 徒(あだ)し桜の 花に置く 露もろともに 消えてゆく身は」
 (解説) 

雛屋立圃(ひなや りゅうほ)】
 「月花の 三句目を 今しる世かな」
 (解説) 1669(寛文9)年没、亨年75歳。江戸前期の俳人。松永貞徳に俳諧を学ぶが同門の松江重頼との確執により貞門から離れ独立、貞徳に対立する俳諧点者に成長し、多くの門人を擁した。作風は優美・温和で、俳諧論『河船徳万歳』、発句集『空つふて』等著書も多数ある。

【保科正之】
 「万代といはひ来にけり 会津山 たかまの原の すみかもとめて(1671、8.21詠)
 (解説) 1673().12.18日没、亨年76歳。

【乞食女】
 「ながらえば ありつる程の 浮世ぞと  思えば残る 言の葉もなし」(新著聞集)
 (解説) 1672()年没、享年**歳。寛文12年4月、京都三条橋の下で20歳あまりの乞食女の遺体が発見された。死因は自害で、かたらわには辞世の句が残されていた。これが都で評判となり、ある貴族もこれに対して歌を詠んだ。(有る貴き御方和せたまひて)「言の葉は 長し短し 身のほどを 思えば濡るる 袖の白妙」、「なきと詫る その言の葉の 残るさへ 聞に泪の 袖にあまるる」(新著聞集)

【至道無難禅師】
 「さいかくと 知恵にてわたる 世なりせば ぬす人は世の 長者なるべし」
 「とく法に 心のはなはひらけども そのみとなれる 人はまれなり」
 (解説) 1676(延宝8)年没、亨年74歳。江戸の小石川戸崎村の至道庵に没す。

東福門院和子(まさこ
 武蔵野の 草葉の末に 宿りしか 都の空に かえる月かげ
 (解説) 1678(延宝6).8.2日(6.15日)没、享年**歳。江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川 家康の内孫。日本の第108代天皇・後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。女院号は東福門院(とうふくもんいん )。

【千子(ちね) 千代子】
 「もえ易く 又消え易き 蛍かな」(俳諧玉藻集)
 (解説) 1688()年没、享年**歳。

【井原西鶴】
 「人間五十年の究まり、それさえ我にはあまりたるに ましてや浮世の月見 過ごしにけり 末二年」
 (解説) 1693年没、享年52歳。戯作者。大坂で俳諧を学び談林派の第一人者になるが、41歳の時、浮世草紙の作者となりもてはやされる。作品に『好色一代男』、『日本永代蔵』などがある。元禄6年8月大坂で死亡。その年の冬、門人の北条団水が西鶴の遺稿『西鶴置土産』を刊行し、その巻頭に西鶴の辞世の句と7句の追善発句を載せている。

【八百屋お七】
 「世の哀れ 春吹く風に 名を残し おくれ桜の 今日散りし身は」(注 死出の旅路のはなむけの花にと咲き遅れの桜を一枝手渡すと)
 (解説) 

【松尾芭蕉】
 「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」(生涯最後に読んだ俳句)
 「この道や ゆく人なしに 秋の暮れ」(亡くなる一ヶ月余り前の句)
 (解説) 1694()年没、享年50歳。俳人。伊賀の生まれ。京都に行き北村季吟に入門して俳諧、和歌を学ぶ。天和5年、江戸深川に居を定め、剃髪して俳諧の研究に努める。諸国を遍遊して、元禄7年10月大坂の旅宿にて没する。有名な「奥の細道」は元禄2年の作である。

【浅野内匠頭長矩】
 「風さそう 花よりも猶 我はまた 春の名残りを いかにとやせん」
 (忠臣蔵の根本の原因となった赤穂の殿の辞世の句)  
 (解説) 江戸時代の大名。播州赤穂藩5万3千石の藩主。1701(元禄14)年3月11日、勅使饗応を幕府より仰せ付けられ、吉良義央に教示を受けたが、不親切にされて4.21日(3.14日)午前10時、吉良義央(当時60 歳)を江戸城本丸松の廊下で切りつける。これにより奥州一関城主田村邸にお預けとなり、同日午後6時、出合の間の庭にて切腹(享年35歳)。長矩の遺体には蒲団がかけられ、泉岳寺に葬送された。赤穂藩は取りつぶしになる。これが忠臣蔵の元となる。

 本句が浅野内匠頭長矩の辞世句である。刃傷の動機について吉良上野介の意地悪がどこまで本当だったかは判らないが、浅野のみが一方的に即日切腹を命じられた片手落ちの処断は史実のようである。それだけに無念の思いは痛切であったろう。その思いを託した一首は「風に誘われて散る花も名残惜しいだろうが、それよりも春が名残惜しい私は一体どうしたらいいのか」というまことに美しい辞世である。そしてこれこそ  死の直前に詠まれたものに違いない。短時間ではあれ苦吟したのだろうか、それとも究極の刻にすっと胸に浮かんだ心境の吐露だったのであろうか。

【契沖】
 「心平等といへども 事に差別あり 差別の中心は まさに平等たるべし」
 (解説) 1701(元禄14).1月没、享年61歳。江戸時代の古典学者、歌人。13歳で高野山に登り剃髪。40代頃から古典研究を始め、「万葉集代匠記」を完成させる。病床にあった契沖が弟子の質問に答えて述べた言葉。

萱野三平重実(かやの しげざね)
 晴れゆくや 日頃心の 花曇り
 1702(元禄15).1.14日(2.10日)、没(享年28歳)。江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。通称三平(さんぺい)。討ち入り前に忠孝のはざまで自刃した赤穂藩士として有名。俳人としても知られ、俳号は涓泉(けんせん)。父は萱野重利。 元禄14年(1701年)3月14日九ツ前(午前11時頃)、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ。浅野家の江戸上屋敷(鉄炮洲上屋敷)で事件を知った重実は、早水満尭と午後江戸を出発、早駕籠で事件の第一報を赤穂へもたらした。江戸から赤穂まで普通の旅人なら17日、飛脚で8日かかるところを僅か4日で走破している。この道中、3月18日に西国街道沿いの萱野邸を通過する際、前日に亡くなった自らの母親小満の葬列に偶然にも出くわし、同行の早水満尭に「一目母御に会っていけ」と勧められるも、「御家の一大事」と涙ながらに振り切り、使いを続けたとする逸話がある。3月19日未明赤穂到着。赤穂到着後は大石良雄の義盟に加わる。 4月19日の赤穂城開城後、4月下旬頃、郷里の摂津国萱野村へ戻ったが、江戸へ下ることを願った重実に対して父の重利から大島家へ仕官するよう強く勧められる。重実を浅野家に推挙した大島家は吉良家との繋がりの深い家柄でもあり、同志との義盟や旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになった重実は、元禄15年(1702年)新稲村吉田家の姉小きんを訪ねた明くる1月14日未明、主君の月命日を自分の最期の日と決め、京都の山科の大石良雄に遺書を書き、その中で同志と共に約束を果たせぬ罪を詫び、かつ同志の奮起を祈る心を述べ、自刃(切腹)死した。

【大高源吾】
 「梅で飲む 茶屋もあるべし 死での山
 (解説) 1703(元禄16).3.20日(2.4日)没、享年31歳。江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では、金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。父は大高忠晴。母は小野寺秀和の姉(貞立尼)。弟に小野寺秀富。本姓は安倍氏。家紋は丸に三盛亀甲花菱。通称は源五・源吾(げんご)。また、子葉という雅号を持ち、俳諧にも事績を残した。

【大石内蔵助良雄】
 「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
 
(赤穂義士事典) 
 (身を捨ててでも思いを晴らすことが何と楽しいことよ。今宵、見上げる月には雲がひとつもかかっていない。私の心も同じように澄み切っている)
 「あら楽や 思は晴る 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」(介石記)
 「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」
 (解説) 1703()年没、享年44歳。江戸時代の浅野長矩の家老。赤穂浪士の頭領。通称、内蔵助。兵学を山鹿素行に学ぶ。元禄14年(1701)3月、主君長矩が吉良義央刃傷のため切腹。翌年12月、同志と共に夜吉良邸に討ち入り、明くる年の2月4日切腹。忠臣蔵の主人公のモデル。

【大石内蔵助良雄】
 「あふ時は かたりつくすと おもへども わかれとなれば のこる言の葉」
  (赤穂義士事典) 
 (生前はもう十分に語り尽くしたと思っていたけれど、いざ別れとなり、これを最後にもう二度と会うことがないと思うと、云い足りないことに気づき心残りな気持ちになるものですね)
 (解説) 1703()年没、享年16歳。主税は大石内蔵助の嫡男で父に従い吉良邸への討ち入りに参加。赤穂浪士四十七士の中の最年少であった。

【貝原益軒】
 「越し方は 一夜ばかりの 心地して 八十路あまりの 夢を見しかな」
 (解説) 1714()年没、享年84歳。黒田藩の儒者、本草学者。有名な『養生訓』を著し、それを地で行った。長崎で医学を修め、明暦1年(1655)江戸に出て、翌年より黒田藩の藩医となる。35歳で福岡に帰り、それから50年の間に247巻の著作を残した。

【小西来山(こにし らいざん)】
 「来山は うまれた咎で 死ぬる也 それでうらみも 何もかもなし
 (解説) 1716(享保元).10.3日没、享年62歳。江戸時代の俳人。通称、伊右衛門。満平、湛翁、湛々翁、十萬堂の号がある。「俳諧三物」を刊行。

【岩田涼と】
 「がってんじゃ 其暁のほととぎす
 (解説) 1717()年没、享年73歳。

【英一蝶】
 「まぎらかす 浮世の業の 色どりも ありとや月の 薄墨の空」
 (解説) 1724(享保9).2.7日(1.13日)没、享年72歳。江戸時代中期(元禄期)の画家。狩野安信に学び人物・花鳥にすぐれ、やがて独自の軽妙洒脱な画風を創始。和歌・発句もよくした。元禄11年、幕府の忌諱に触れ三宅島に遠島、赦免後、英一蝶と改名。

【近松門左衛門】
 「残れるとは 思ふも愚か 埋め火の  消(け)ぬ間仇なる 朽木書きして」
 「それ辞世 さる程さても その後(のち)に 残る桜の 花し匂はば」
 (解説) 1724()年没、亨年71歳。文芸家。 

絵島
 「浮き世には また帰らめや 武蔵野の 月の光の かげもはづかし」
 (解説) 1741(寛保元).5.24日(4.10日)没、享年**歳。江戸時代中期の江戸城大奥御年寄。名前は「江島」が正しいとされる。歌舞伎役者・生島新五郎とともに江島生島事件の中心人物である。本名はみよ

【早野巴人(はやの・はじん)】
 「こしらへて 有りとは知らず 西の奧」
 (解説) 1742(寛保2).7.7日(6.6日)没、享年**歳。江戸時代の俳人。与謝蕪村の師。のち夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)と改める。

【尾形乾山】
 「うきことも うれしき折も 過ぬれば たたあけくれの 夢計なる
 (解説) 1743()年没、享年81歳。

【無外坊燕説】
 「此界 に二度と用なし 秋の風
 (解説) 1743()年没、享年73歳。

【西讃農民一揆】
 「此(こ)の世をば 泡と見て来し我が心 民に変わりて 今日ぞ嬉(うれ)しき
 (解説) 1750(寛延3).1月没、享年**歳。水害や飢饉(ききん)により三豊地方の農民の生活が困窮し、「徳政」を求める親書を送っても握りつぶされた。「一揆(いつき)しかあるめえ」。業を煮やした農民たちはついに決起。鎮圧され、一揆の首謀者とされた大西権兵衛ら七人がすべての責めを負う。その年の夏の盛り、七人は刑場の露と消えた。

山村通庵()】
 本来の宗風 端無く達通す 眼光落地 自性真空
 1751()年、。江戸時代中期の医師。後藤艮山(こんざん)の門弟。温泉の効能に目をつけて 各地の温泉を調査し,城崎(きのさき)温泉,草津温泉を推賞した。

【平田靱負(ゆきえ)】
 「住み馴れし 里もいまさら 名残にて 立ちぞわずらふ 美濃の大牧」
 (解説) 1753(宝暦3)年没、享年50歳。江戸時代中期の薩摩藩家老。宝暦3年(1753年)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者。父は平田正房、母は島津準3男家の島津助之丞忠守の娘。諱は宗武のち、宗輔、正輔。通称は初め次郎兵衛のち、新左衛門、掃部、靱負。宝暦治水の責任をとって自害した後に、孫の平田袈裟次郎が家督相続する。

【羽川珍重(はねかわ ちんちょう)】
 「たましいの ちり際も今 一葉かな
 (解説) 1754(宝暦4).9.8年、没(享年75歳)。江戸時代の浮世絵師。

【安藤松軒】
 「蓮の実や どこへなりとも 飛び次第
 (解説) 1755()年没、享年73歳。

【仏行坊】
 「ゆこうゆこうと 思えば何も 手につかず ゆこやれ西の 花のうてなへ」(近世畸人伝)
 (解説) 1756()年没、享年**歳。仏行坊はもと日枝山無動寺の住職であったが、院務がいやで坂本に隠居して、ひたすら念仏三昧に明けくれていた。ある年の3月に、山僧が師の庵を訪ねると、また桜の季節に再び来たまえという。そこでその時期になって訪れると、ただお茶を出すだけで、何のもてなしもしない。「今日は花見だからもてなしがあると思った」と言うと、「花を見て、それでも心がもの足りないではいけない、足るを知りなさい」と説教を受ける。こうした師も、宝暦6年4月いよいよこの世とお別れが近くなると、下部の僧が師の画像をもって、これに一言書き付けてほしいと依頼する。それに答えてこの辞世の句と書いて、西に向かって合掌し亡くなられた。

【宝暦義民】
 「散る花は むかしまことの 習いかな」(夫神村組頭・浅之丞)
 「いさぎよく 散るや此世の 花ふぶき」(百姓・半平)
 (解説) 1761(宝暦11)年没、享年**歳。上田藩の民政を根底から揺るがした最初の全藩惣百姓一揆の首謀者。

【浮 風】
 「つれもあり いまはの空に ほととぎす
 (解説) 1763()年没、享年61歳。

【白隠慧鶴】
 「慎みの こころの花を 池の坊」
 「気に入らぬ 風もあろうに 柳かな」
 (解説) 1769(明和5).1.18日(12.11日)没、享年**歳。臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。諡は神機独妙禅師、正宗国師。

【虹の松原一揆】
 「種うへて 土にもどるや 土くじり
 (解説) 1772(明和9).3.31日没、享年**歳。冨田才治は唐津藩領と浜崎(天領)境の虹ノ松原に2万5千人の農漁民を集結させ、一滴の血を流すことなく一揆を成功に導いた人。首謀者であった才治と他3名は自首したにもかかわらず西の浜にて処刑された。

【加賀千代】
 「月も見て われはこの世を かしくかな」
 
(注・「かしく」は憔悴の意の動詞、「恐」の意味の名詞の転とか?)
 (解説) 1775(安永4).10.2日(9.8日)年没、享年73歳。俳人。表具師の娘で、18の時金沢の同業のもとに嫁ぐ。25の時に夫に死別し、剃髪して素園と号す。彼女は人に「炎天に火をふきそうな鬼がわら」と詠まれたが、実際は小柄な美人だったという。

【香川玄悦】
 「仏神の 恵みに叶う 我が流儀 末世の人を 救いたまへや」
 (解説) 1777()年没、享年88歳。産科医。鍼灸が得意で、独学で産科を修得し、香川流の産科の名を高めた。自ら「医は仁術」を実践した。

【木室卯雲(きむろ・ぼううん)】
 食へばへる ねぶればさむる 世の中に ちとめずらしく 死ぬもなぐさみ
 (解説) 1783().7.27日没、享年**歳。江戸時代の狂歌・噺本作者。

与謝蕪村
 しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり
 (解説) 1784(天明3).1.17日(12.25)没、享年**歳。江戸時代中期の日本の俳人、画家。

【柄井川柳】
 「木枯しや 跡で芽をふけ 川柳」(墓に彫られた辞世の句)
 (解説) 1790()年没、享年73歳。川柳の点者(判定者)。川柳という言葉はこの人の名前から来ている。宝暦7年(1757)柄井は句を募集し、これが当たり5年後には応募句が1万句を越す。これをまとめたものが『柳多留』として出版される。

【林子平(六無斎)
 「親もなし 妻なし子なし 板木なし 金もなければ 死にたくもなし」
 (解説) 1793(寛政5).7.28日(6.21日)没、享年**歳。江戸時代後期の経世論家。高山彦九郎、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」の一人。名は友直。のちに六無齋主人と号した。

【橘 以南】
 「そめいろの 山をかたみに たてぬれば 我なきあとは いつの昔ぞ」
 (解説) 1795()年没、亨年73歳。山本以南とも云う。江戸時代中期-後期の俳人。元文元年生まれ。山本秀子の夫。良寛の父。越後(えちご)(新潟県)出雲崎の名主山本家(橘屋)の養子となる。加藤暁台(きょうたい)にまなぶ。国学にも通じ,尊王論「天真録」をのこして寛政7年7月25日京都桂川で投身自殺した。本姓は新木。名は泰雄。通称は左門。別号に如翠。

【朱楽菅江(あけら かんこう)】
 執着の 心や娑婆に 残るらむ よしのの桜 さらしなの月
 (解説) 1800()年没、亨年60歳。蜀山人の追悼「執着の心が娑婆に残るなら、再び口を、あけら菅江」。

【本居宣長】
 敷島の 大和魂を 人問わば 朝日に匂う 山桜花
 「今よりは はかなき世とは 嘆かじよ 千代の棲家を 求めえつれば」
 (解説) 1801(享和元).11.5日(9.29日)没、享年**歳。江戸時代の国学者・文献学者・医師。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』を著した。紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。

鬼坊主清吉おにぼうず せいきち)】
 武蔵野に はじかる(=はだかる)程の 鬼あざみ 今日の暑さに 枝葉しおるる
 1805(文化2).6.27(7.23日)、。江戸時代の盗賊。

【木内石亭】
 「大名窮屈、公家貧乏、坊主うそつき、禰宜さみし 阿?(ノク)多羅三?(ミャク)三菩提の仏達 なさしめ給え金持ちの子に」(今昔狂歌叢書)
 (解説) 1808年没、享年**歳。江戸時代の鉱物学者、奇石収集家。諸国より珍しい石を集めてコレクションする。著書に「雲根志」がある。

木喰上人
 ゆめの世を ゆめでくらして ゆだんして ろせんをみれば たった六文
 (解説) 1810(文化7).6.5日没、享年**歳。江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家。日本全国におびただしい数の遺品が残る「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である。生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称する。特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧(ゆぎょうそう)などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。

赤尾丹治
 悪虫や 生れかはりて 弥陀の国
 (解説) 1812(文化9).10.3日(8.28日)没、享年**歳。豊前国(大分県)中津藩領の百姓一揆の指導者。

【手柄岡持(てがらの おかもち)】
 死にとうて 死ぬにはあらねど 御年には 御不足なしと 人や云ふらん
 (解説) 1813(文化10)年没、亨年78歳。本名平沢平格。秋田佐竹藩留守居。

【歌川豊春】
 「死んでゆく 地獄の沙汰は ともかくも 跡の始末は 金次第かな」
 (解説) 1814(文化11).3.3日(1.2日)没、亨年78歳。本名平沢平格。江戸時代中期の浮世絵師。歌川派の祖。秋田佐竹藩留守居。

【司馬江漢】
 「江漢が 年が寄ったで 死ぬるなり 浮世に残す 浮絵一枚」
 (解説) 1818(文政元).11.19日(10.21日)没、享年71歳。江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。初め鈴木春信に浮世絵を学んだが写生画に転じ、平賀源内と交わり、独自の銅版画法を創製。さらにオランダ人に学んで油絵で風景画を描く。66歳の時に自分の死亡広告をチラシに書いて配った。

岩泉袰綿一揆
 「身はたとえ 宮古藤原消えるとも 後の世までも 名はかんばしく」
 (解説) 1821(文政4)年.10.27日没、享年**歳。袰綿氏の悪政に対し農民57名が宮古代官所へ強訴した百姓一揆。本右衛門、清兵衛の2名が藤原の刑場で強訴の罪で処刑された。この騒動で袰綿氏の知行地は没収され藩直轄の御蔵地となり、即決で処刑した宮古代官所役人らも失脚した。二人は農神として祀られた。この句は前半を本右衛門が、後半を清兵衛が詠んだと伝えられている。

【式亭三馬】
 「善もせず 悪も作らず 死ぬる身は 地蔵笑はず 閻魔叱らず」
 (解説) 1822(文政5).2.27日(閏1.6日)没、享年**歳。江戸時代後期の地本作家で薬屋、浮世絵師。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知 られる。名は菊池泰輔、字は久徳。通称は西宮太助。戯号は四季。

【上杉鷹山】
 「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人の成さぬなりけり」
 (解説) 1822(文政5)年没、享年**歳。

【太田南畝(蜀山人)】
 「ほととぎす 鳴きつるかた身 初鰹(がつお) 春と夏との 入相の鐘(かね) 」
 「これまでは 他人事だと思うたに 今度は俺か これはめいわく(こいつぁたまらん)」
 「生き過ぎて 七十五年 喰ひつぶす  限り知られぬ 天地(あまつち)の恩」
 「どのような 難題目を かけるとも よむは妙法 連歌狂歌師」
 (解説) 1823(文政6).5.16日(4.6日)没、亨年75歳。文人、狂歌師。号は屬山人。戯作者「杏園詩集」。19歳で平賀源内に認められる。「江戸時代3百年を通して南畝ほど一般庶民から親しまれ、かつ慕われた人物はいなかった」(森銑三)。

【田上菊舎】
 「無量寿の 宝の山や 錦時
 (解説) 1826年没、亨年73歳。

【小林一茶】
 「ああままよ 生きても亀の百分の一」
 「やけ土の ほかりほかりや 蚤さわぐ」
 「盥(たらい)から 盥へうつる ちんぷんかん」
 (解説) 1828(文政10).1.5日(11.19日)没、享年**歳。江戸時代を代表する俳諧師の一人。本名を小林弥太郎。別号は、?橋・菊明・亜堂・雲外・一茶坊・二六庵・俳諧寺など。

【林八右衛門】
 「六十路ふる やぶれ衣を ぬぎすてて 本来空へ 帰る楽しさ
 (解説) 1830(天保元).9.21日(8.5日)没、享年**歳。百姓一揆指導者で牢死させられた村役人。上野国(群馬県)那波郡川越藩前橋分領東善養寺村百姓庄七の長男。5歳のとき父が病死,母の再婚先で養われる。9歳のとき祝昌寺光円につき手習いを始め,次いで禅養寺に入り恵陳を師とする。15歳で寺を出て本家林七右衛門家に寄居,18歳で本家養女菊と結婚,分家する。25歳のとき伊勢参宮し,帰村後名主となる。40歳代のころ借金,火事などで家を潰すが,やがて立て直し,53歳で再び名主となり,藩の勧農野廻り役を命じられた。文政4(1821)年,藩の増徴目的の租法変更に対し難渋願書を提出。同年11月江戸藩邸への門訴に出立した百姓の引き戻しを命じられ,中止の説得に努めた。一揆を中止させたが各村の年貢願書の案文を指導したため,翌年入牢,一揆発頭人に当たるとされ永牢の判決を受けた。牢内で勧農教訓録3巻を書き上げる。

【良寛】
 「良寛に辞世あるかあと 人問はば 南無阿弥陀仏といふと答えよ」
 「不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば 何をこの世の思ひ出にせむ」
 「御仏のまことの誓ひの弘からば いざなひ給へ常世の国へ」
 「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
 「散る桜 残る桜も 散る桜」
 「形見とて何か残さん春は花 夏ほととぎす秋はもみじば」(晩年句)
 「草の上に蛍となりて千年を待たむ 妹が手ゆ黄金の水を給ふと言はば」
 (解説) 1831(天保2).2.18(1.6)日没、亨年72歳。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。本名は山本栄蔵

【十返舎一九】
 「この世をば どりゃお暇に せん香の 煙とともに ハイ(灰)左様なら」
 (解説) 1831.9.12日没、亨年66歳。

鼠小僧次郎吉
 「天が下 古き例は しら浪の 身にぞ鼠と 現れにけり
 (解説) 1832(天保3).9.13日(8.19日)没、亨年36歳。江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名は次郎吉(じろきち)。鼠小僧次郎吉として知られる。本業は鳶職であったといわれ、義賊の伝承で知られる。武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込みついに天保3年5月5日(1832年6月3日)(日付については8日(6日)などの諸説あり)、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷(当時の藩主は松平忠恵)で捕縛された。北町奉行・榊原忠之の尋問に対し、盗んだ金銭の総額については3000両以上と鼠小僧は供述したが、本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明である。3ヵ月後の8月19日(9月13日)に市中引き回しの上での獄門の判決が下される。この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に適用される刑であり、この判決は面子を潰された武家の恨みの産物という見方もできる。なお、引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで有名人の鼠小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せた。市中引き回しは当時一種の見世物となっており、みずぼらしい外見だと見物人の反感を買いかねなかった為、特に有名な罪人であった鼠小僧には美しい着物を身に付けさせ、薄化粧をして口紅まで注していたという。処刑は小塚原刑場にて行われた。

鬼坊主清吉
 「武蔵野に 名もはびこりし 鬼あざみ 今日の嵐に 少ししおれる
 (解説) 江戸時代後期の実在の盗賊・鬼坊主清吉は、江戸で名を馳せたが京で捕らえられ、江戸で刑死した。浪曲やドラマ「鬼平犯科帳」にも登場する。

中山信名()
 「酒も飲み 浮かれ女も見つ 文もみつ 家も興して 世に恨み無し
 (解説) 1836(天保7).12.17日(11.10日)没、亨年49歳。江戸後期の国学者。幼いころ,神童の誉れ高く,『太平記』を暗誦し太平記童といわれていた。水戸藩士石川久徴に地理学を学ぶ。16歳で江戸に出て塙保己一に学び,23歳,幕臣中山平蔵(有林)の養子となり,書物御用出役から同出役頭取に進んだ。鹿島・香取神宮の古文書収集に尽くし,和学講談所の教授となり,群書類従の編纂校訂を行った。郷土関係の資料発掘に努め,新編常陸国誌など多くの著作を残した。

【柳亭種彦】
 「ちるものと 定る秋の 柳かな」
 「我も秋 六十帖の 名残かな」
 (解説) 1842(天保13).8.24日(7.19日)没、亨年71歳。江戸時代後期の戯作者。長編合巻『偐紫田舎源氏』などで知られる。

【近江天保一揆】
 人のため 身は罪とがに 近江路を 別れて急ぐ 死出の旅立ち
 (解説) 1842(天保13)年没、享年**歳。幕府の役人の年貢増徴検地に反発し、土川平兵衛らを指導者として立ち上がった百姓一揆。幕府役人に検地を10万日日延べする証文を書かせて一揆は勝利したが、土川平兵衛らは首謀者として江戸に送られ、過酷な取調べののち獄死した。土川平兵衛の辞世の句。

【英一珪】
 二三百を 生きやうと思ひしに 八十五にて 不時の若死に
 (解説) 1843()年没、享年**歳。

【平田篤胤】
 「思う事の 一つも神に 勤めをへず けふや罷るか あたらこの世を」
 (解説) 1843()年没、亨年67歳。国学者。寛政7年(1795)脱藩して秋田より江戸に出て学業に努め、のちに松山藩士平田篤隠の養子となる。1803年、本居春庭に入門して国学に志す。晩年はその尊皇思想が災いして、幕府から江戸退去命令を受け、死の2年前に秋田に戻る。

【伴信友】
 「いまわには 何をかいわむ 世の常に いいし言葉ぞ 我が心なる」
 「ついに逝く ときはきにけり 残りいて なげかん人ぞ かなしかりける」
 (解説) 1846()年没、亨年73歳。国学者。

【長島寿阿弥】
 孫彦に 別るることの かなしきも また父母にあふぞ うれしき
 (解説) 1848()年没、亨年79歳。

【滝沢(曲亭)馬琴】
 「世の中の 役(厄)をのがれて またもとに 還るは天と 土の人形」
 (解説) 1848(嘉永元).12.1日(11.6日)没、享年82歳。江戸時代後期の読本作者。「南総里見八犬伝」の作者。この作品の初編は48歳の時に発表され、完成まで28年が費やされる。その間、68歳で右目を、74歳に左目も失明した。そこで息子の嫁に文字を教え口述して原稿を書き取らせた。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。

【葛飾北斎】
 「人魂(ひとだま)で  行く気散じや  夏野原」
 
(「きさんじゃ」は気晴らしのピクニック意味)
 (解説) 1849(嘉永2).5.10日(4.18日)没、亨年89歳。江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。赤富士などで名高い浮世絵師で、92歳まで生き、大変なエネルギーで大きな業績を残した。代表作に富嶽三十六景や北斎漫画があり、世界的にも著名な画家である。

【国定忠治】
 「見てはらく なしては苦敷 世の中に せましきものは かけの諸勝負」
 「見て楽ぞ 成して苦しむ 悪業の 今罪きへて 蓮台に乗る」
 「やれうれし 壱本ならで いく本も かねが身に入る 年の暮かな」(磔のこと)
 (解説) 1850(嘉永3).12.21日没、亨年41歳。本名・長岡忠次郎。博徒 侠客。

【二宮尊徳】
 「人魂で  行く気散じや  夏の原」(注;「きさんじゃ」は気晴らしの意味)
 (解説) 1856(安政3).11.17日(10.20日)没、亨年69歳。江戸時代後期の農政家・思想家。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。「報徳思想」を唱えて「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した。

【大原幽学(おおはらゆうがく) 】
 「花散らば 散るうてなはつきて 落とし実の おほれ栄ゆる 時こそあるらん」
 (解説) 1858(安政5).4.21日(3.8日)没、亨年62歳。江戸時代後期の農政学者、農民指導者。

【安藤広重】
 「東路に 筆を残して 旅の空 西のみくにの 名所を見む」
 「死んでゆく 地獄の沙汰は ともかくも あとの始末が 金次第なれ」
 (解説) 1858年没、享年61歳。江戸末期の浮世絵師。風景版画の連作に名をなし、また花鳥画にも新境地を開いた。作は「東海道53次」「江戸名所百景」など。

歌川広重
 「東路へ 筆をのこして 旅のそら 西のみ国の 名ところを見舞(みむ)
 (解説) 1858(安政5).10.12日(9.6)年没、亨年61歳。浮世絵師。本名安藤鉄蔵。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後 に浮世絵師となった。

【月性】
 「」
 (解説) 1858(安政5).6.21日(5.11日)没、亨年42歳。江戸時代末期(幕末期)の尊皇攘夷派の僧。周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市遠崎)、妙円寺(本願寺派)の住職。諱は実相。字は知円。鹿児島湾で西郷隆盛と共に入水した僧月照とは別人。「・・・人間到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。

【月照】
 「大君のためには 何かをしからん 薩摩の迫門に 身は沈むとも」
 「曇なき 心の月と もろともに 沖の波間に やがて入りぬる」
 「曇なき 心の月も 薩摩潟 沖の波間に やがて入りぬる」
 (解説) 1858(安政5).12.20日(旧暦11.16日)没、亨年46歳。幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。早くから海防必要論を説き、多くの志士と関わった。安政の大獄時、西郷隆盛と共に薩摩の錦江湾に身を投げた。西郷は助かった。

【吉田松陰
 弟子宛
 「親を思う 心に勝る 親心 けふの音づれ 何ときくらん」
 (親兄弟当て)
 
 「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
 「かへらじと 思い定めし 旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな」
 「これほどに思い定めし 出立を けふ聞くこそ うれしかる」
 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置(とどめおか)まし 大和魂」

 (解説) 1859(安政6)年、享年30歳。処刑に際しての辞世で、門下生に宛てた辞世の句。未曾有の大事に当面してひたむきに国事へと全身を傾けていった幕末の志士たちを代表する志の歌でもあると思う。ほとんどが二十歳代の彼等で国を動かしたことを驚異に思う。「留魂緑」
 「親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何と聞くらん」
 (解説) 肉親に宛てた辞世の句。

【井伊直弼】
 「あうみ海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」
 「咲きかけし たけき心の ひと房は 散りての後ぞ 世に匂ひける」
 (国を想ってきた熱い自分の気持ちは、自分の死後、後世に理解されるだろうか)
 (解説) 1860(安政7).3.3日没、亨年46歳。井伊直弼は幕末の彦根藩主で、1853(嘉永6)年、ペリー来航時には開国を主張した。1854(安政元)年、ペリー再来航時には攘夷を主張する水戸の徳川斉昭と激論し、さらに13代将軍・徳川家定の継嗣問題では血統論から紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推し、一橋慶喜を擁した斉昭や松平春嶽らと対立した。1858(安政5)年、大老に就任し、慶福の将軍継嗣を決定した。また勅許を得ずに日米修好通商条約を締結、これに反対する斉昭ら一橋派や尊攘派を弾圧(安政の大獄)した。1860(万延元)年3月3日、登城時に水戸・薩摩浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。この歌は、死の前日に求められて詠んだもので結果的に辞世の句となった。

【高橋多一郎(たかはし たいちろう)】
 「鳥か啼く あつま武男か 真心は 鹿島の里の あなたと知れ
 (解説) 1860(安政7).3.23日(4.13日)没、亨年46歳。水戸藩士にして桜田門外の変の首謀者の一人。諱を愛諸、字を 敬卿、号を柚門、変名を磯辺三郎兵衛といった。

田中河内介
 「ながらへて かはらぬ月を 見るよりも 死して払はん 世々の浮雲
 (解説) 1862(文久2).5.2(5.29日)没(亨年47歳)。尊王攘夷派志士。儒学者および漢学者。

【長井雅楽】
 「君がため 捨つる命は 惜しからで 只思わるる 国の行くすえ」
 「今さらに 何をか言わむ 代々を経し 君の恵みに むくふ身なれば」
 「君恩に報いんとして業いまだ央ならず 自羞す四十五年の狂 即今成仏は予が意に非らず 願わくは天魔を帥いて国光を輔けん」
 (解説) 1863(文久3)年没、亨年45歳。雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。本人も藩論が二分され、内乱が起きることを憂い、自害した。高杉晋作の父・高杉小忠太とは長年世子付の同役を務めた友人同士であった。切腹の前日、小忠太へ身の潔白を訴え遺児の庇護を依頼する長文の手紙を出し、末尾に「ぬれ衣のかかるうき身は数ならで唯思はるる国の行く末」と辞世の歌を残している。

【清河八郎】
 「魁(さきが)けて 又さきがけん 死出の山 迷いはせじ 皇(すめらぎ)の道」
 (解説) 1863(文久3).5.30日(4.13日)没、享年**歳。江戸時代末期(幕末)の庄内藩出身の志士。浪士組(新選組・新徴組の前身)を結成し、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。幼名は元司、諱は正明、号は旦起、木鶏。本名は斉藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗った。山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られている。位階は贈正四位。幕末の運動家。上洛して浪士組を結成したが、それを朝廷に売ろうとして失敗。

【芹沢鴨】
 「雪霜に 色よく花の 咲きがけて 散りても後に 匂ふ梅が香」
 (解説) 1863(文久3).10.28日(9.16日)没、享年**歳。幕末の水戸藩浪士、新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。父は常陸国行方郡玉造村芹沢の郷士・芹沢外記貞幹で、鴨(光幹)はその3男である。新撰組の初期の局長の一人。土方歳三らに暗殺される。

吉村寅太郎
 「吉野山 風にみだるる もみじ葉は わが打つ太刀の 血煙と見よ」
 「曇りなき 月を見るにも 思うかな 明日は屍の 上に照るやと」
 (解説) 1863(文久3).11.8日(9.27日)没、享年27歳。幕末の土佐藩出身の志士。諱は重郷。一般には「寅太郎」と記されることが多い。土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加すべく脱藩するが、寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。釈放後、再び京都へ上り孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光を擁立して天誅組を組織して大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した(天誅組の変)。

【河上弥市】
 「議論より 実を行へ なまけ武士 国の大事ょ よそにみる馬鹿」
 (解説)  1863(文久3).11.24(10.14日)没、享年22歳。幕末の長州(萩)藩の志士。高杉の代わりに奇兵隊の総管となる。七卿落ちの一人、沢宣嘉を担ぎ、自刃。長州藩八組士河上忠右衛門の子として金谷(萩市椿)に生まれる。禄高103石。文久3(1863)年6月,高杉晋作の奇兵隊結成に参加。9月,高杉のあとを受けて滝弥太郎と共に奇兵隊総督を務めた。10月,七卿落ち公卿のひとり沢宣嘉を擁して但馬国生野(兵庫県生野町)に挙兵,10月12日,生野代官所を占拠した。天誅組が壊滅し近隣諸藩が鎮圧に動くなか,強硬論を主張して迎撃のため山口村に陣を張ったが,生野の本隊は解陣,離反した農兵に囲まれたため自刃した。その鉢巻きには「後れては梅も桜におとるらん魁てこそ色も香もあれ」と書きつけてあった。

【吉田稔麿】
 「結びても また結びても 黒髪の乱れ そめにし世を いかにせん」
 「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業(たいぎょう)の見込みあらばいつでも生くべし」
 (解説) 1864(元治元).7.8日(6.5日)没、享年**歳。江戸時代末期(幕末)の長州藩の志士。名は栄太郎。後に稔麿と改名した。久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称される(入江九一を入れて松門四天王ともいう)。被差別部落からなる軍隊を結成するなど活躍。池田屋で新撰組に殺される。

【佐久間象山】
 「時にあはば散るもめでたし山桜、めづるは花の盛りのみかは」
 「大空にみなぎる雪と見るばかり 散るも桜の盛りとはいはなむ」
 「昨日今日 明日と移ろう 世の人の 心に似たる あじさいの花」(辞世句ではない)
 (解説) 1864(元治1).7.11日没、亨年54歳。幕命を受けて上京した象山は、公武合体・開国進取の国是(こくぜ)を定めるために要人に意見を具申してまわったが、その言動が尊攘激派の怒りを買い、ついに斬殺(ざんさつ)された。

【久坂 玄瑞(くさか げんずい)】
 「時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾 知る人ぞ那起」
 (ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき)
 (解説) 1864(元治1).7.19日(8.20)没、亨年24歳。幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典は贈正四位(1891年)。

【平野国臣】
 「憂国十年、東走西馳、成否は天に在り、魂魄地に帰る」
 「みよや人 嵐の庭の もみぢ葉は いづれ一葉も 散らずやはある」
 (解説) 1864(元治元).8.21日(7.20日)没、亨年36歳。日本の武士・福岡藩士、志士。大蔵氏の流れをくむ。通称は次郎、巳之吉。諱は種言、種徳。贈正四位。攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。

【国司信濃】
 「よしやよし 世を去るとても 我が心 皇国のために なほつくばさや」
 (解説) 1864(元治1).12.10日(11.12日)没、亨年23歳。幕末の長州(萩)藩家老。名は朝相,のち親相。寄組,高州元忠の次男に生まれ,同じ寄組,国司家,禄高5600石に入る。文久1(1861)年,大組頭役となり,同3年,下関の攘夷実行に出,寄組からは特例として馬関(下関)防備総奉行となり,加判役に昇ったが,藩は8月18日の政変で京都から追われた。翌年,家老益田右衛門介,福原越後と共に上京,禁門の変に嵯峨から進撃し,中立売門で薩摩藩兵に敗れて帰藩した。幕府が征長軍を組織すると,謝罪のため,徳山の澄泉寺で切腹を命じられた。

福原越後
 かはりゆく 世のならひとも しら露の 置きまどはせる 身をいかにせん
 「苦しさは たゆる我身の 夕煙 空に立つ名は 捨てかてにする」
 (解説) 1864(元治1).12.10日(11.12日)没、享年**歳。幕末の長州(萩)藩の家老。万延1(1860)年以後,当職(国家老)に在職し,当職廃止後は,加判役の最高の地位にあり,長州藩の政治運動に当たる。文久3(1863)年の8月18日の政変による失地回復のため,翌年の禁門の変を指導し,藤の森で負傷した。帰国後,長州征討軍進撃の前に,三家老のひとりとして岩国で切腹させられた。

【中山忠光】
 「思ひきや 野田の案山子の 梓弓 引きも放たで 朽ちはつるとは」
 (解説) 1864(元治1).12.13日(11.15日)没、享年**歳。江戸時代末期(幕末期)の公家。

【真木和泉】
 大山の 峯の岩根に 埋めにけり 我が年月の 大和魂
 (解説) 1864(元治1)年7.21日(8.22日)没、亨年51歳。尊王攘夷派志士。

【武田耕雲斎】
 「咲く梅の花は  はかなく散るとても 香りは君が袖にうつらん」
 (解説) 1865(元治2).3.1(2.4日)没、享年**歳。幕末の人。水戸藩の天狗党の首領。名は正生。通称は彦九郎。号は如雲。位階は贈正四位。官位は伊賀守。松原神社 (敦賀市)の祭神。靖国神社合祀。幕末の水戸の尊王攘夷のイデオローグにして、天狗党の首領。斬首された。

【武市半平太瑞山】
 「ふたたひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
 「花は清香に依って愛せられ 人は仁義をもって栄ゆ 幽囚何ぞ恥ずべけんや 只赤心の明かなるあり」
 (解説) 1865(慶応元).閏5月11日没、亨年37歳。土佐勤皇党の指導者。即日刑が執行され、岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎の自白組4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まった。半平太ら勤王党志士が一連の容疑を頑なに否認したことで、死刑は盟主である半平太の切腹と以蔵ら自白組4名の斬首のみとなり、獄外同志やその他協力者への連累は食い止められた。切腹を命じられた半平太は体を清めて正装した後、同日20時頃に南会所大広庭にて、未だ誰も為しえなかったとも言われてきた三文字割腹の法を用いて法式通り腹を三度かっさばき、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。

【岡田以蔵】
 「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空」
 (解説) 1865(慶応元).5.11日(7.3日)没、亨年27歳。江戸時代末期の土佐藩郷士、志士。土佐勤王党。司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振(読みについては「よしふる」の他「たかのぶ」、「のぶたつ」等諸説あり不明)。幕末土佐の志士。勝海舟の護衛をしたエピソードがあるのが有名。

【高杉晋作】
 「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」
 (解説) 1867(慶應3).5.17(4.14日)没、享年**歳。江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風(はるかぜ)。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。変名を谷潜蔵、谷梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち谷潜蔵と改名。高杉の辞世句に、看病していた野村望東尼が「すみなすものは 心なりけり」と下の句を続け、晋作曰く「面白いのう」と云ったと伝えられている。

【坂本竜馬】
 「世の中の 人は何とも云はばいへ わがなすことは われのみぞ知る
 「日本を今一度せんたくいたし申し候」
 「君がため 捨つる命を 惜しまねど 心にかかる 国の行く末」
 (解説) 1867( 慶応3).12.10日(11.15日)没、享年**歳。江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。龍馬は通称。 他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある。脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。

【中岡慎太郎】
 「志とは 目先の貴賤で動かされるようなものではない 今 賤しいと思えるものが明日は貴いかもしれない 君子となるか小人となるかは家柄の中にはない 君 自らの中にあるのだ
 (解説) 1867(慶応3).12.12日(11.17日)没、享年**歳。日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。※辞世の句ではない

西村左平次
 「風に散る 露となる身は いとはねど こころにかかる 国のゆく末
 (解説) 1867(慶応3).8月没、亨年25歳。馬廻格40石の土佐藩士。1867年8月に歩兵第8小隊司令になり、小頭・大石甚吉、竹内民五郎、横田辰五郎、土居徳太郎、金田時治、武内弥三郎、栄田次右衛門、中城惇五郎、横田静次郎、田丸勇六郎ほか22名を率いて、箕浦猪之吉(ハラキリを世界に知らしめた人)率いる第6小隊とともに堺港を警備していた。だが堺事件が発生し、その責を負って妙国寺「土佐藩十一烈士ゆかりの地・妙国寺」で箕浦に続く2番目に切腹。介錯人は小坂乾。

【神保長輝】
 「帰りこん 時ぞと母の 待ちしころ はかなきたより 聞くべかりけり
 (解説) 1868(慶応4).3.15日(2.22日)没、享年**歳。幕末期の会津藩の軍事奉行添役。会津藩家老・神保内蔵助の長男。初名は直登。諱は長輝。北原雅長は弟。妻は会津藩士井上丘隅の次女、雪子。幕末会津の人。神保修理の通称。京へ軍事奉行添役として従事。鳥羽伏見の敗戦の責任を負い君命により切腹。

【滝善三郎】
 「きのふみし 夢は今更 引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ
 (解説) 1868(慶応4).3.2日(2.9日)没、亨年32歳。幕末の備前岡山藩士。 慶応4年2月9日(1868年3月2日)、1ヶ月前に起きた神戸事件の責を一身に背負い、永福寺(現・神戸市)において外国人検視7名を含む列席が見守る中、弟子の介錯によって切腹した。

相楽総三
 「思うこと ひとつもならて 死にもせバ あしく神と也て た丶らん」
 (解説) 1868(慶応4).3.26日(3.3日)没、亨年**歳。幕末の尊皇攘夷派志士。江戸出身。赤報隊隊長。

【川路聖謹(かわじ としあきら)】
 「万々一江戸大騒動、致し方無き節は、一死を以って報じ奉るのみ。我が半身不随にて、立派に切腹のことむつかしく、これは臆病者の如く残念也。されども、死は快く遂げ候積り也」
 「天津風に 背くもよかり 蕨(わらび)つみ 飢えにし人の 昔思へは」
 (解説) 1868(慶応4)年没、亨年68歳。割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。忌日の3月15日は新政府軍による江戸総攻撃の予定日であった。勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定したことを知らず、病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したとも、江戸開城の報を聞き、滅びゆく幕府に殉じたとも言われている。ピストルを用いたのは、半身不随のために刀ではうまく死ねないと判断したからではないかといわれる。横に「徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」と自書している。幕末の幕臣。日露和親条約の締結に関与。1868年、江戸無血開城を知り、割腹、ピストル自殺を図る。

【近藤勇】
 「孤軍 援(たす)け絶えて俘囚(ふしゅう)となり。君恩を顧念して 涙 更(また)流る。一片の丹衷(たんちゅう) よく節に殉じ、雎陽(すいよう)は千古 これわが儔(ともがら)。他に靡(なび)きて今日また何をか言はむ。義を取り生を捨つるは わが尊ぶところ。快く受くん 電光三尺の剣 ただ まさに一死をもって君恩に報いむ」
 (解説) 1868(慶応4).4.25日没、亨年35歳。中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。首は京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。最後は一人で斬首された新選組局長の辞世の句です。いかにも実直な彼らしく、最後ま徳川家に対するで君恩を忘れないとしているのが哀れにも思えます。ちなみに句の中に出てくる雎陽とは安禄山と戦った張巡の籠もった城。幕末に流行していた「正気の歌」にこの故事が引かれているそうです。

【沖田総司】
 「動かねば 闇にへだつや 花と水」
 (解説) 1868(慶応4).7.19日(5.30日)没、享年**歳。幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。幼名は宗次郎。新撰組一番隊隊長。幕府瓦解後、江戸に引き上げたおりに病状が悪化。闘病生活後に死亡。

石田和助
 「人生古より 誰か死無からむ 丹心を留取して 汗青を照らさむ
 (解説) 1868(慶応4).8.23日没、享年**歳。白虎隊の1人

堀 光器助(ほり みつき)
 「神かけて 誓ひしことの かなはずば ふたたび家路 思はざりけり」
 (神にかけて誓ったことが叶わないならば もう一度家路に就こうとは思わない)
 1868(慶応4).9.4日、自刃(享年31歳)。堀光器は天保九年(1838)生まれの会津藩士。通称粂之助。父清左衛門は普請奉行配下の下級武士で、粂之助は文武に優れ、会津藩校南学館の助教授であった。慶応四年(1868)戊辰戦争の際の母成峠の戦いで、土方歳三や斉藤一ら新選組隊員を含む東軍軍勢800名と西軍2200名が戦った。東軍は敗走し新政府軍が若松城下に殺到した。その結果、白虎隊(士中二番隊)や娘子軍、国家老西郷頼母一家に代表されるような悲劇を引き起こした。会津軍は籠城を余儀なくされ、他の戦線でも形勢不利となっていいき1か月後に降伏した。会津藩の劣勢が確実な状況になったことで、仙台藩・米沢藩・庄内藩ら奥羽越列藩同盟の主力の諸藩が自領内での戦いを前に相次いで降伏を表明し、奥羽での戦争自体が早期終息に向った。堀は使者として米沢城下に至り、会津藩の危急を伝え、米沢藩からの援軍を要請した。しかし米沢藩はすでに恭順を決定しており、その要請は拒否されてしまう。使者としての役目を果たせない以上、若松に戻ることは出来ないとして切腹した。堀光器の墓は山形県米沢市の竜泉寺にあり、彼の魂はいまだに若松には帰れていない。 

河井 継之助(かわい・つぎのすけ)
 「八十里 腰抜け武士の 越す峠
 (解説) 1868(慶応4).10.1日(8.16日)日没、享年42歳。幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣。北越戊辰戦争で活躍し、長岡城の攻防で足を負傷する。戸板に乗せられ会津若松へ向かう途中の塩沢村(現・福島県只見町)で破傷風により逝去した。

中野竹子
 武士(ものゝふ)の 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも
 (解説) 1868(慶応4)年、没。会津藩の江戸常詰勘定役の中野平内(忠順)の長女として江戸和田倉の藩邸で生まれた。幼少より聡明で、5~6歳の頃に小倉百人一首を暗誦して一字も誤ることがなかった。容姿端麗、男勝りの女丈夫として知られた。その妹・中野優子(まさこ)(1853年 - 1931年)も評判の美人であった。いわゆる会津美人である。平内は書道の達人で持明院流の総締方勤であり、溺愛する娘の教育に熱心であった。同藩士・赤岡大助(忠良)が文武に秀で、品性方正であるという評判だったので、竹子をその門下に入れて学ばせた。大助は竹子の利発さに驚き、平内に請うて養女に迎い入れた。竹子は14~15歳で経書や史書を修め詩文や和歌をたしなむまでになった。成長すると、同藩士・黒河内兼規薙刀術と短刀術を学び、薙刀は免許皆伝ほどの腕前であったと言う。また書家・佐瀬得所にも書を習って、備中庭瀬藩の藩主夫人の祐筆を務めこともあった。養父・大助の甥と結婚する予定であったが、戊辰戦争が始まったために復籍して、家族と共に会津に帰った。 会津若松城城下の坂下で、婦女子に学問や薙刀を教えた。竹子は庭での行水をのぞきにくる男たちを薙刀で追い払ったという逸話がある。新政府軍が城下に侵攻した際、照姫を会津坂下で捜索していたことから、若松城へ入り損ねて、母・こう子らと共に婦女隊(娘子軍)を結成することになった。古屋佐久左衛門の衝鋒隊に混ざって戦いに加わることを許された前夜、こう子と竹子は婦女隊で最年少の優子がこれに加わるのは無理ではないか、足手まといになるのではないかと話し合い、妹は特に美人だったこともあり、敵に捕まって辱めを受けるより先に殺してやろうと考えた。しかし眠っていた優子を殺そうとした矢先、同隊の依田菊子がこれを止めに入って、戦場で一緒に死のうということになった。 戦闘では、竹子は奮戦したが頭に銃弾を受けて戦死した。首級を敵に与えることを潔しとしなかったので、こう子と優子は敵を薙ぎ払い、竹子を介錯して彼女の首を回収した。なお、竹子は胸を撃たれたという説もあり、その場合はまだ息があって自ら優子に介錯を頼んだという話となる。首級は後にこう子または農民の手により会津坂下町の法界寺に埋葬された。享年は20と言われているが、18や22などの異説がある。戒名は美性院芳列筆鏡小竹大姉。

武川信臣(むかわ のぶおみ
 世にしばし 赤き心は みすてども 散るにはもろき 風のもみぢ葉
 君と親の 重きめぐみに くらぶれば 千引の石の 責はものかは
 1868(慶応4)年、当時24歳。 家老内藤介右衛門信順の三男。三彦(かずひこ)。家老内藤介右衛門、主席家老梶原平馬の実弟である。信臣は温厚な性格で文武に長じており、特に和歌の道に通じていた。鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に帰った後、藩士の帰国には従わず彰義隊に加わり、別働隊幡随院分屯信意隊長として上野で戦い、敗れた後、江戸市中に潜伏中を密告され捕らえられる。場所は以前会津藩上屋敷であった和田倉門の糺問局の獄に入れられ、隣室には公用方であった広沢安任がいた。会津藩士家老の弟という事で、拷問を受けるが節を守り、小伝馬町の獄中にて斬首。




(私論.私見)

あら玉の としの始に 散花の 名のみ残らば 先がけとしれ
辞世の句
板倉重昌
うきことも うれしき折も 過ぎぬれば ただあけくれの 夢ばかりなる
辞世の句
尾形乾山
およそ主君を諌(いさ)める者の志、戦いで先駆けするよりも大いに勝る
徳川家康
かねてより 君と母とに 知らせんと 人より急ぐ 死出の山路
辞世の句
原惣右衛門
きがかりも なくて今年の 霞かな
辞世の句
横川勘平
その匂い 雪のあさぢの 野梅かな
辞世の句
岡野金右衛門
もののふの 道とはかりを 一すしに 思ひ立ぬる 死出の旅路に
辞世の句
潮田又之丞
今ははや 言の葉草も なかりけり なにのためとて 露むすぶらん
辞世の句
小野寺幸右衛門
今朝もはや いう言の葉も なかりけり なにのためとて 露むすぶらん
辞世の句
小野寺幸右衛門
住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧
辞世の句
平田靱負
余を葬るに分を越ゆることなかれ、墓石を立てることなかれ
辞世の句
二宮金次郎(尊徳)
先立ちし 人もありけり 今日の日を ついの旅路の 思ひ出にして
辞世の句
富森助右衛門
具眼の士を千年待つ
伊藤若冲
出る日の ひかりも消て 夕ぐれに いはなんことは かなしかりける
辞世の句
矢頭右衛門七
勇なるかな 勇なるかな 勇にあらずして なにをもって行なわんや
細井平洲
化物の 正体見たり 枯をばな
横井也有
十五より 酒を飲み出て 今日の月
宝井其角
受け次(つぎ)て 国の司(つかさ)の身となれば 忘るまじきは 民の父母(ちちはは)
上杉鷹山
君がため 思いぞ積もる 白雪を ちらすは今朝の みねの松風
辞世の句
吉田忠左衛門
品もなく 活きすぎたりと 思ひしに 今かちえたり 老いのたのしみ
辞世の句
堀部弥兵衛
地水火風 空のうちより いでし身の たどりて帰る もとのすみかに
辞世の句
早水藤左衛門
地獄なし 極楽なし 我もなし ただあるものは 人と万物
辞世の句
山片蟠桃
夏草や 兵どもが 夢の跡
松尾芭蕉
夕涼み よくぞ男に 生まれける
宝井其角
No Image
天地の 外にあらじな 千種だに 本さく野べに かるると思へば
辞世の句
茅野和助
己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり
徳川家康
忘れめや 百に余れる 年を経て ことへし代々の 君がなさけを
辞世の句
小野寺十内
思ひきや わが武士の道ならで かかる御法(みのり)の 縁にあうとは
辞世の句
木村岡右衛門
思ふこと 一つも神に つとめ終えず 今日やまかるか あたらこの世を
辞世の句
平田篤胤
No Image
思草 茂れる野辺の 旅枕 仮寝の夢は 結ばざりしを
辞世の句
間新六郎
散る桜 残る桜も 散る桜
辞世の句
良寛
死にとうない
辞世の句
仙厓義梵