いろは歌

いろは歌

 

 更新日/2017.3.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、47文字のひらがなを全部1回ずつ使った歌の代表が「いろは歌」であり、この「いろは」順に歌を詠むのを仮に「いろは順歌」と云う。これを確認する。

 五十音を覚える手習い歌として、「あめつちの歌」、「大為爾(たゐに)の歌」、「いろは歌」などがある。これを確認しておく。970年成立の源為憲「口遊(くちずさみ)に、大為爾の歌とあめつちの歌の言及があるがいろは歌はない。これにより、あめつちの歌、大為爾の歌、いろは歌の順で登場したものと推定される。 

 2013.3.23日再編集 れんだいこ拝


【天地の歌(あめつちのうた)】

 「天地の歌(あめつちのうた)」、「あめつち」、「あめつちほしそ」とも云う。文献上の初出は源順(みなもとのしたごう。911生-983没)の私家集である「源順集」(平安中後期成立)所収の沓冠(くつこうぶり)歌。上代特殊仮名遣のコの甲乙の区別は存在しないが、ア行のエとヤ行のエを区別している点から、平安初期(900年前後)の成立と見られる。中国の千字文を意識して1行に名詞が4語並ぶように作られているが、5行目で早くも動詞を使用するなど形式的にも破綻しており、6行目は無意味な語の羅列になっているなど、作品としての出来は決してよいとは言えない。しかしながら、いろは歌が普及する平安後期までは、もっぱら天地の歌が手習い歌として使用されていた。

 天地の歌(あめつちのうた)
ひらがな 漢字混じり文
あめ つち ほし そら 天 地 星 空
やま かは みね たに 山 川 峰 谷
くも きり むろ こけ(雲 霧 室 苔) 雲 霧 室 苔
ひと いぬ うへ すゑ 人 犬 上 末
ゆわ さる おふ せよ 硫黄 猿 生ふ 為よ
えのえ*を なれ ゐて 榎の 枝を 馴れ 居て

 え* - この「え」は、ヤ行の「え(je)」。

【大為爾の歌(たゐにのうた)】

 「大為爾の歌(たゐにのうた)」も手習い歌として愛用されてきた。作者は源為憲ではないかと推測されるが、未詳。冒頭が「たゐに」で始まることからこの名がある。五七調の歌で、970(天禄元)年に源為憲が著した『口遊』(くちずさみ)という書物に掲載されている。為憲は当時普及していた天地(あめつち)の歌を引き合いに出し、これを里女の訛説として退け、この歌の方が勝っていると評している。七五調を基調とする今様形式のいろは歌が登場するまで、手習い歌としての天地の歌の地位は不動であった。

 大為爾の歌(たゐにのうた)
ひらがな 漢字文 漢字交じり文
たゐにいて 大為爾伊天 田居に出で
なつむわれをそ 奈従[1]武和礼遠曽 菜摘むわれをぞ
きみめすと 支美女須土 君召すと
あさりおひゆく 安佐利(於[2])比由久 求食り追ひゆく
やましろの 也末之呂乃 山城の
うちゑへるこら 宇知恵倍留古良 打酔へる子ら
もはほせよ 毛波保世与 藻葉干せよ
えふねかけぬ 衣不弥[3]加計奴 え舟繋けぬ
  1. ^ 「徒」の誤り
  2. ^ 原典脱字
  3. ^ 「祢」の誤り

 なお、本歌は天地の歌と異なり、ア行のエとヤ行のエの区別を存しないが、最終句「え船繋けぬ」が連体止めになっていることに注目して、本来は「え船繋けぬ江」で、原歌の成立は平安初期にまで遡るのではないかと指摘する説もある。


【いろは歌】
 いろは歌
ひらがな 漢字文 漢字交じり文
いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそ
つねならむ
うゐのおくやま
けふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

【とりな歌】
 とりな歌
ひらがな 漢字文 漢字交じり文
とりなくこえす 鳥鳴く声す
ゆめさませ 夢覚ませ
みよあけわたる 身よ明けわたる
ひんがしを 東を
そらいろはえて 空色映えて
おきつへに 沖つ辺に
ほふねむれゐる 帆船群れゐる
もやのうち 靄の内








島津日新斎 急ぐなよ 又とどまるな 吾が心 定まる風の 吹かぬかぎりは
死没 永禄11年12月13日1568年12月31日
改名 菊三郎(幼名)→忠良→愚谷軒(法号)→日新斎
明応元年9月23日(1492年)伊作亀丸城に生まれ、幼名菊三郎。21歳のとき伊作、田布施城主となり三郎左衛門忠良と称し、36歳のとき髪をそり相模守入道日新斉と号する。
その後、出水の島津実久の軍と加世田別府城で戦い1539年正月これを破り、加世田城主(現南さつま市加世田)となる。
薩摩を統一し島津氏が戦国大名の第一歩を踏み出す。息子の貴久公が本宗家守護職第15代を承継し、孫の義久(16代)と繋がっていく。
義久公の弟義弘公は関が原の合戦で徳川家康本陣をの正面を突っ切って島津豊久等多くの将兵を失いながらも伊井直政などの多くの武将に負傷を与え戦場を逃れた「島津の退き口」と呼ばれる薩摩武士の勇猛を天下に示した。
日新公は文武、神,儒、仏三教をきわめ、善政をひいた「薩摩の聖君」と呼ばれる。
中でも「いろは歌」は天文8年から14年ごろの作で、藩政時代から薩摩武士、士道教化、師弟教育の教典となった。今の時代にも通じる多くの教えを含んでいる。
高校生時代を加世田で過ごした者にとっては薩摩の殿様といえば日新公だった。
三年間過ごした下宿の床の間にも第一首「いにしえの・・」という一首が掛かっていた。
いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし
楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそはたかきいやしき
はかなくもあすの命をたのむかな 今日も今日もと学びをばせで
似たるこそ友としよければ交らば われにます人おとなしき人
ほとけ神他にましまざず人よりも 心に恥じよ天地よく知る
下手ぞとて我とゆるすな稽古だに つもらばちりも山とことのは
科ありて人をきるとも軽くすな いかす刀もただ一つなり
知恵能は身につきぬれど荷にならず 人はおもんじはずるものなり
理も法もたたぬ世ぜとてひやすき 心の駒の行くにまかすな
ぬす人はよそより入ると思うかや 耳目の門に戸ざしよくせよ
流通すと貴人や君が物語り はじめて聞ける顔もちぞよき
小車のわが悪業にひかされて つとむる道をうしと見るらむ
私を捨てて君にしむかわねば うらみも起こり述懐もあり
学問はあしたの潮のひるまにも なみのよるこそなおしずかなれ
善きあしき人の上にて身をみがけ 友はかがみとなるものぞかし
種となる心の水にまかせずば 道より外に名も流れまじ
礼するは人にするかは人をまた さぐるは人をさぐるものかは
そしるにも二つあるべし大方は 主人のためになるものと知れ
つらしとて恨みかえすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ
ねがわずば隔てもあらじいつわりの 世にまことある伊勢の神垣 
名を今にのこしおきける人も人も 心も心何かおとらん
楽も苦も時すぎぬれば跡もなし 世に残る名をただおもうべし
昔より道ならずしておごる身の 天のせめにしおわざるはなし
憂かりける今の身こそはさきの世の おもえばいまぞ後の世ならむ
亥にふして寅には起くと夕霧の 身をいたずらにあらせじがため
のがるまじ所をかねて思いきれ 時にいたりて涼しかるべし
思ほえず違うものなり身の上の 欲をはなれて義をまもれひと
苦しくとすぐ道をいけ九折の 末は鞍馬のさかさまの世ぞ
やわらぐと怒るをいわば弓と筆 鳥と二つのつばさとを知れ
万能も一心とあり事ふるに 身ばしたのむな思案堪忍
賢不肖用い捨るつという人も 必ずならば殊勝なるべし
無勢とて敵をあなどることなかれ 多勢と見ても恐れずべからず
心こそ軍する身の命なれ そろゆれば生きそろわねば死ぬ
回向には我と人とをへだつなよ 看経はよししてもせずとも
敵となる人こそはわが師匠ぞと おもいかえして身をもたしなめ
あきらけき目も呉竹のこの世より 迷わばいかに後のやみぢは
酒も水ながれも酒となるぞかし ただなさけあれ君がことの葉
聞くことも又見ることも心がら 皆まよいなりみな悟りなり
弓を得て失うことも大将の 心一つの手をばはなれず
めぐりては我身にこそは事えけれ 先祖のまつり忠孝の道
道にただ身をば捨てんと思いとれ かならず天のたすけあるべし
舌だにも歯のこわきをば知るものを 人はこころのなからましやは
酔える世をさましもやらでさかずきに 無明の酒をかさむるはうし
ひとり身あわれと思え物毎に 民にはゆるすこころあるべし
もろもろの国や所の政道は 人にまずよく教えならわせ
善にうつり過れるをば改めよ 義不義は生まれつかぬものなり
少しを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく十六夜の空





(私論.私見)