松尾芭蕉論

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)


 松尾芭蕉履歴

  江戸時代前期(1644-1694)の俳人。
 正保(しょうほ)元年、伊賀(いが)(三重県)生まれ。名は宗房。通称は忠右衛門。
 京都で北村季吟(きぎん)に学び、江戸に出て宗匠となり,延宝8年深川に芭蕉庵を構える。「甲子吟行(かっしぎんこう)」「野ざらし紀行」をはじめ「笈(おい)の小文」「おくのほそ道」などの旅をへて,不易流行の思想,わび・さび・軽みなどの蕉風にたどりつく

 俳諧の超・超・有名人の松尾芭蕉は実は伊賀国生まれで、父親は忍者と関係が深い無足人という名字帯刀を許された準士分の上層農民でした。母親は伊賀の三大上忍の一人である百地氏の家系です。その二人から生まれた芭蕉。出自が伊賀だったこと、『奥の細道』で毎日40キロ近く歩く体力があったことや、全国をめぐる旅費が相当必要だったであることから、忍者説が生まれました。確かに、『奥の細道』のために行脚した頃にはもう名を馳せて各地にパトロン的な存在がいたとしても、資金を工面するのは大変なことでしょう。俳諧の天賦の才能がある芭蕉に、旅費を工面する代わりに各地の様子を報告するという話を幕府が持ち掛けたとしてもおかしくはありません。

【「奥の細道むすびの地/大垣」】
 1689(元禄2)年秋、芭蕉は約5カ月にわたる「奥の細道」旅を大垣(岐阜県大垣市。中仙道や美濃路などの街道が通る交通の要衝の宿場町)で終え、「むすびの地」とした。芭蕉と大垣との繋がりは深く、俳友で船問屋を営む谷木因(たにぼくいん)との長い親交から、幾度もこの地を訪れている。二週間ほど滞在し、伊勢に向かうため、水門川(すいもんがわ)の船町港から桑名への舟に乗ったと伝えられている。次の句を遺している。
 蛤(はまぐり)の ふたみに別(わかれ) 行(いく)秋ぞ

 松尾芭蕉の句
春や来し 年や行(ゆき)けん 小晦日(こつごもり)
やがて死ぬ けしきは見せず せみの声
野ざらしを 心に風の しむ身哉
新年 犬と猿の 世の中よかれ 酉の年
初日 伊勢に居て 三國一の 初日出
正月 正月も 美濃と近江や 閏月
正月 三日月は 正月ばかり 誠にて
立春 春立つて まだ九日の 野山哉
古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
山里は 万歳遅し 梅の花
山路きて 何やらゆかし すみれ草
草臥れて 宿借るころや 藤の花
月はやし 梢(こずえ)は雨を 持ちながら
ほととぎす 大竹藪を もる月夜
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡 (岩手県平泉町)
閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の声(山形県・立石寺)
五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川(もがみがわ)
(山形県大石田町)
暑き日を 海にいれたり 最上川
五月雨を 降り残してや 光堂
あらたふと 青葉若葉の 日の光
田一枚 植えて立ち去る 柳かな
おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな
暫時は 滝に籠るや 夏の初
木啄も 庵はやぶらず 夏木立
雲の峰 いくつ崩れて 月の山
象潟(きさかた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花
若葉して 御目の雫 ぬぐはばや
世の人の 見付けぬ花や 軒の栗
語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな
野を横に 馬牽(ひき)むけよ ほととぎす
蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(しと)する 枕もと
名月や 池をめぐりて 夜もすがら
菊の香や 奈良には古き 仏たち
秋深き 隣は何を する人ぞ
この道や 行く人なしに 秋の暮れ
物言えば 唇寒し 秋の風
むざんやな 甲の下の きりぎりす
蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ
荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)
(新潟県出雲崎町)
一家に 遊女もねたり 萩と月
石山の 石より白し 秋の風
山中や 菊はたおらぬ 湯の匂
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
義朝の 心に似たり秋の風
文月や 六日も常の 夜には似ず
今日よりや 書付消さん 笠の露
早稲の香や 分け入る右は 有磯海
野ざらしを 心に風の しむ身哉
秋十(と)とせ 却つて江戸を 指す故郷
見送りの うしろや寂びし 秋の風
この秋は 何で年寄る 雲に鳥
雲の峰 いくつ崩れて 月の山
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる
あら何ともなや 昨日は過ぎて 河豚(ふぐと)汁
いざさらば 雪見にころぶ 所まで
人々を しぐれよ宿は 寒くと
海くれて 鴨のこえほのかに 白し
無季 面八句を 庵の柱に 懸け置く
かねて耳 驚かしたる 二堂開帳す

【新年】
年(とし)は人にとらせて いつも若夷(わかえび)す 寛文6年(1666)
が聟(たがむこ)ぞ 歯朶(しだ)に餅(もち)おふ 
うしの年
貞享2年(1685)
子(ね)の日(び)しに 都へ行(ゆか)ん 
友もがな
貞享2年(1685)

【松尾芭蕉の不易流行論/考】
 「不易流行」(ふえきりゅうこう)は、晩年の松尾芭蕉が、1689(元禄2)年冬頃から説き始めた俳論であり、俳諧(はいかい)の本質をとらえるための理念として提起したものである。芭蕉自身が説いた例は見られず、去来・土芳・許六ら門人たちの俳論において展開された。但し、蕉門内部においても理解が一致していたとは言いがたい。向井去来(きよらい)は、「蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分けて教へ給へる。其の元は一つ也」(「去来抄」)と説いている。末尾の「其の元は一つ也」は芭蕉の論という去来のそれではないかと思われる。貞門・談林以来の風体に一貫した正風性を認める歴史的立場に立ち、服部土芳(とほう)は「師の風雅に万代不易有り、一時の変化有り」。 去来は“不易流行”論,許六は“血脈”説を前面に打ち出して論をたたかわせており、蕉風俳論書として第一級の価値をもつ。1785(天明5)年、浩々舎芳麿により「俳諧問答青根が峰」として出版され、1800(寛政12)年、「俳諧問答」の題で再版された。

 一般には次のように解されている。句の内実には、伝統を踏まえつつ、一方では新しいものを取り入れることが大切である。趣向、表現に新奇な点がなく新古を超越した落ち着きのある変わらないものが「不易」、そのときどきの風尚に従って斬新さを発揮する変わるものが「流行」と解し、「不易」を基本にしつつ「流行」をも取り入れるのが良いとする説と説かれる。別説に、俳諧は新しみをもって生命とするから、常にその新しみを求めて変化を重ねていく流行性こそ俳諧の不易の本質であり、不易は俳諧の実現すべき価値の永遠性、流行はその実践における不断の変貌を意味するとも説く説があるが、逆さ読みであろう。こういう風に解釈し始めたら正面読み、横読み、斜め読み、逆さ読み、裏読みと云う風に際限がなくなり、やがて言葉が通じなくなるだろう。

 「不易流行」の考え方は、芭蕉の門人の向井去来(きょらい)の著書「去来抄」で説明されている。ただ、去来は「不易流行」を人の姿にたとえたりして、話をややこしくしている。「不易と流行は元は一つ」とも書いている。わかりにくい話にしている。「不易は車の後輪、流行は前輪で、どちらが欠けてもだめ。阿吽の呼吸で御すべきもの」と考えれば十分であろう。歌舞伎にしても、昔からの伝統(不易)に基づきつつ、新しいもの(流行)を取り入れている。両方がそろって初めてうまくいくと心得ている。「不易」は時代の新古を超越して不変なるもの、「流行」はそのときどきに応じて変化してゆくものを意味するが、両者は本質的に対立するものではなく、真に「流行」を得ればおのずから「不易」を生じ、また真に「不易」に徹すればそのまま「流行」を生ずるものだと考えられている。俳諧の本質的な性格を静的(不易)・動的(流行)の二つの面から把握しようとしたものであるが、新しみを生命とする俳諧においては、その動的な性格――新しみを求めて変化を重ねてゆく流行性こそが、そのまま蕉風不易の本質を意味することになる。結局、「不易」と「流行」の根本は一つのものなのであり、芭蕉はそれを「風雅の誠(まこと)」とよんでいるのである。こうした理念の成立してくる背景には、易学、朱子学、宋(そう)学の思考法や堂上歌学の不易流行論があったが、その論は具体的には『去来抄』や『三冊子(さんぞうし)』など門弟の記述によってみるほかはなく、ために、それぞれ実際には多様な解釈の幅を生じさせている面もある。





(私論.私見)