徳川家家訓、北条家家訓、毛利家家訓、伊達家家訓その他

 更新日/2018(平成30).2.17日

【徳川家家訓】
 江戸三百年の基礎を築いた徳川家初代将軍・徳川家康の遺訓。家康は、1616(元和2).4.17日、息を引き取った(享年75歳)。

 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。心に望み起ここらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ。勝つ事ばかり知りて、負くる事を知らざれば害その身に到る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり」。

(私論.私見)

 家訓は他にも色々あるが、「徳川家康の遺訓」がなぜ人の心を捉えるのか。それは、簡潔にして明快、要点を押えているからに他ならない。為に暗誦し易く、肝に銘じるに相応しい。まさに珠玉の名言集足り得ている。そう思う。

 2010.1.12日 れんだいこ拝

 意訳概要「わしの生涯で、恐ろしい人、格別ありがたい人が四人おった。一人は武田信玄公。わしに戦(いくさ)のしぶりを教えてくれた。次は織田信長公。なんと恐ろしい名であったろう。だが、このお方はわしに人間を信じさせてくれた。その次は我が師、太閤であった。太閤は我等に時の流れの変化を、その変化に、どのような姿で対処せねばならぬか教えてくれた。(伊達政宗に向かって)次がお許よ。お許は、今少し早く世に生まれてあったら信玄公、信長公、太閤にもけっして劣らぬ器量の生まれつきである。お許の器量は、今なればこそ光り出さねばならぬはず。我が亡きあと、我が将軍家を頼むぞ。(伊達政宗が泣くのを受けて)泣く事はあるまいぞ。人は死ぬが必定。死は決して恐るるに足らず。この世にあるものは命の大樹じゃ。我等は、その大樹にはえた枝なのじゃ。信玄公も信長公も太閤も、どんなに優れた人物だからとて所詮は枝の一つにすぎぬ。それが枯れたからといって大樹が枯れたわけではない。大樹そのものは年ごとに育ち、年々花を咲かせ、小枝一つが枯れ落ちても、それが肥やしとなり、さらにその大樹を繁らせていく。その身の処し方、その人の思想が後々の人々の心の支えとなり、大勢の生命の大樹を益々繁らせていくのじゃ。お許も今後はその大樹の中に入って、いかに大樹を繁らせていくかを考えればよい。肉体が滅んでも、その人の生き様が生き続けていれば死んだとはいえぬ。そう考えると生死は拘るほどのことではないのじゃ」。

【毛利家家訓】
 我が毛利家は、版図の保全のみを願い、天下を望むなかれ (天下を競望せず)。天下を支配する者は如何に栄耀栄華を誇っても、何代かのちには一門の枝折れ、株絶えて、末代の子孫まで続くことは無い。天下に旗を翻して武名を一世に挙げるよりは、むしろ六十余州を五つに分けてその一つを保ち、栄華を子々孫々まで残せ。
 三本の矢
 ある日、元就は三人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた。これが有名な「三本の矢」の逸話である。

【北条家家訓】
 可信佛神事。仏神を信じ申すべき事。
 朝早可起事。朝はいかにも早く起くべし。遅く起ぬれば、召仕ふ者迄由断しつかはれず、公私の用を欠く也。果たしては必ず主君にみかぎられ申すべしと深く慎むべし。
 夕早可寝事。ゆふべには、五つ以前に寝しづまるべし。夜盗は必ず子丑の刻にしのび入る者也。宵に無用の長雑談、子丑に寝入り、家財を取られ損亡す。外聞しかるべからず。宵にいたづらに焼すつる薪灯をとりをき、寅の刻に起行水拝みし、身の形儀をととのへ、其の日の用所妻子家来の者共に申し付け、さて六つ以前に出仕申すべし。古語には子に伏し、寅に起きよと候得ども、それは人により候。すべて寅に起て得分あるべし。辰巳の刻迄臥ては、主君の出仕奉公もならず、又自分の用所もかく。何の謂かあらむ、日果むなしかるべし。
 手水事。手水をつかはぬさきに、厠厠より厩庭門外まで見巡り、先掃除すべき所をにあひの者にいひ付け、手水をはやくつかふべし。水はありものなればとて、只うがひ捨つべからず。家のうちなればとて、たかく声ばらひする事、人にはばからぬ体にて聞にくし、ひそかにつかふべし。天にかがまり地にぬきあしすといふ事あり。
 拝事。拝みをする事の行ひ也。只心を直にやはらかに持ち、正直憲法にして上たるをば敬ひ、下たるをば憐れみ、あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持ち、仏意、冥慮にもかなふと見えたり。たとひ祈らずとも、この心持ちあらば、神明の加護の有るべし、祈るとも心曲がらば、天道にはなされ申さんと慎むべし。
 刀衣裳事。刀、衣裳、人のごとく結構に有べしと思ふべからず。見苦しくなくばと心得て、なき者をかり求め、無力重なりなば、他人の嘲成べし。
 結髪事。出仕の時は申に及ず、或は少し煩所用之れ在り、今日は宿所に在るべしと思ふとも、髪をはやくゆふべし。はふけたる体にて人々にみゆる事、慮外又つたなきこころ也。我身に由断がちなれば、召仕ふ者までも其振舞程に嗜むべし。同たふの人の尋来るにも、ととつきまはりて見くるしき事也。
 出仕事。出仕の時、御前へ直に参るべからず。御次に伺公して、諸朋輩の躰を見つくろひ、扠御自通に罷出べし。左様になければ、むなつく事あるべし。
 受上意時事。仰出さるる事あらば、遠くに伺候申たり共、先はやくあつと御返事を申、頓て御前に参、御側へはひはひより、いかにも謹で承べし。さて、罷出、御用を申調、御返事は有のままに申上べし。私の宏才を申べからず、但又事により、此御返事は何と申候はんと、口味ある人の内儀を請けて申上べし。我とする事なかれといふことなり。
10  不可爲時事。御通りにて物語などする人のあたりに居べからず。傍へよるべし。況、我身雑談虚笑などしては上々の事は申すに及ばず。傍輩にも心ある人にはみかぎられべく候也。
11  諸事可任人事。数多まじはりて事なかれということあり。何事も人にまかすべき事也。
12  讀書事。少の隙あらば、物の文字のある物を懐中に入れ、常に人目を忍びて見るべし。寝ても覚めても手なざれば、文字忘るる事あり。書くことも同じき事。
13  宿老祇候時禮義事。宿老の方々御縁に伺候の時、腰を少々折て手をつき通るべし。はばからぬ体にて、あたりをふみならし通る事以の外の慮外也。諸侍いづれも慇懃にいたすべし。
14  不可申虚言事。上下万人に対し、一言半句にても虚言を申べからず。かりそめにも有のままたるべし。そらごと言つくれば、くせになりてせらるる也。人に頓てみかぎらるべし。人に糺され申ては一期の恥心得べきなり。
15  可學歌道事。歌道なき人は無手に賤しき事也。学ぶべし。常の出言に慎み有るべし。一言にて人の胸中しらるる者也。
16  乗馬事。奉公のすきには馬を乗ならふべし。下地を達者に乗ならひて用の手綱以下は稽古すべきなり。
17  可撰朋友事。よき友をもとめべきは手習学文の友也。悪友をのぞくべきは碁将棋笛尺八の友也是はしらずとも恥にはならず、ただいたづらに光陰を送らむよりはと也、人の善悪みな友によるといふところ也。三人行時、かならず我が師あり、その善者を撰びて是にしたがふ、其よからざる者をば是をあらたむべし。
18  可修理四壁垣牆事。すきありて宿に帰らば、厩面よりうらへまわり、四壁垣ね犬のくぐり所をふさぎ拵さすべし。下女つたなきものは軒を抜て焼、当座の事をあがなひ、後の事をしらず。万事かくのごとく有べきと深く心得べし。
19  門事。ゆふべは六ツ時に門をはたとたて、人の出入によりあけさすべし。さ様になくしては、由断に之有り、かならず悪事出来すべき也。
20  火用心事。ゆふべには、台所中居の火の廻り我とみまはり、かたく申付、其外類火の用心をくせになして、毎夜申付べし。女房は高きも、賤しきも、さ様の心持なく、家財衣裳を取ちらし、由断多きこと也。人を召仕候共、万事を人に斗申付べきとおもはず、我とてづからして、様体をしり、後には人にさするもよきと心得べき也。
21  文武弓馬道事。文武弓馬の道は常なり。記すにおよばず、文を左にして武を右にするは古の法、兼て備へずんば有べからず。

ほうじょうげんあんおぼえがき
北条幻庵覚書
作者:北条幻庵(1493?-1589?)
成立:永禄5年(1562)
小田原北条氏の武将で文
化人でもあった北条幻庵
が、息女の吉良家嫁入りに
際して与えた心得書き。戦
国期の武家生活を伝える史
料的価値をもつ。
永禄5年(1562)武蔵国世
田谷の吉良氏当主氏朝(うじとも)に嫁いだのは、これまで
北条氏康の娘とされてきたが、近年は幻庵自身の娘とす
る説もある。幻庵自筆の覚書は、吉良家に伝えられたも
のが明治期に千葉県長生郡の宮崎家に移り、明治18年
(1885)当時の太政官修史館(東大史料編纂所の前身)の調
査で発見された。以後、翻刻も出版され広く知られると
ころとなったが、原本は昭和44年(1969)宮崎家から小田
原の郷土史家に寄贈され、複製本が作成された。現在、
原本は世田谷区立郷土資料館に収蔵されている。
北条幻庵は早雲(伊勢宗瑞)の末子。幼名は菊寿丸。従
来、史書の記述をもとに明応2年(1493)生まれ、天正17
年(1589)97歳で死亡とされてきたが、近年いずれも疑問
とする学説もある。ただ、長命を保ち北条五代すべてに
かかわったことはまちがいない。幼時から箱根権現の僧
になるように育てられ、大永4年(1524)近江国園城寺
(三井寺)で出家した。天文初期(1530年代)には相模に帰
国して箱根権現の別当(神宮寺の長)となり、法名は長綱
成立と諸本
作 者
(複製本)『幻庵おぼえ書』
自筆原本の複製(巻頭)
103
史料についてさらに知る−参考文献−
史料本文を読む
(ちょうこう)、後に幻庵宗哲(そうてつ)。この頃から北条氏の軍事行動にも武将
として出陣、知行地の経営にも当たり、兄氏綱、甥氏康らを支えた。一方、
幻庵は学問・文芸・風流に通じた文化人で、和歌・連歌・作庭に優れ、さら
に尺八や鞍を作る工芸の才もあった。宗牧の『東国紀行』(#18)が幻庵の京
文化との交流を物語る。小田原の久野に屋敷を構え、その系統は久野北条氏
と呼ばれる。

「北条幻庵」(ほうじょう・げんあん 1493 〜 1589)とは、戦国三大雄の一人・北条早雲の末子にして、97歳と言う長命を誇って後北条五代に仕えた戦国一多趣味な最長老。

名は「北条長綱」とも。

誕生日については異説があるがそれでも没年齢は80台後半である。

概要

北条早雲伊豆を手中にした翌々年に末子として生まれる。※北条氏綱・北条氏時・山氏広

子供を一人僧籍にいれておくと地獄に落ちない」と言う斎藤道三も習った戦国時代習もあって若い頃より箱根権現社の別当寺で修行した。のちに北条早雲が没した際、4465貫と言う一族中最大の知行の与えられ、僧籍から還俗せず所領を経営した。

の後を継いだ影が薄い事に定評のある北条氏綱が没すると、その跡を継いだ氏綱の子で甥にあたる北条氏康の後見人となり、さらにその跡を継ぐ北条氏政北条氏直に仕えて後北条氏五代100年の歴史のほとんどを共に歩んだ。幻の死の半年後、豊臣秀吉による小田原攻めが始まり、さらに半年後には小田原城が落。五代氏直の降伏によって関東で一時代を築いた後北条氏はその幕を下ろした。

長男折し、武田信玄との戦いで残った息子達二人(北条綱重・北条長順)が戦死しており、北条氏康の子・北条氏秀を養子にしていたが、北条氏秀が同盟の為に上杉謙信の養子となって名を上杉景虎めた為、孫の北条氏に後を継がせたが、北条氏は北条氏滅亡の後、最後の当北条氏直と共に高野山に入った。

※その他「北条幻庵」の詳細についてはWikipediaの該当記事exit参照の事。

趣味人・北条幻庵

若い頃から僧籍に入っていたことや、京都では作法伝奏を生業とした伊勢の者として古典や礼法に詳しく、和歌・連歌茶道・庭園等になどに通じた教養人であったが、術が得意で手先が器用な事もあってか作りも趣味としており、名人打幻」とも呼ばれ、他には一面鼓や尺八等の音曲にも才を発揮したと言われている。

※庭園造りの才は、後北条氏の菩提寺である早雲寺の庭にて現在でも垣間見る事が出来る。

北条氏康吉良ぐ際に、輿入れ時の礼儀作法についての心得を記した「幻おほへ書(幻覚書)」を持たせる等、多芸多才な教育者であった事が解る。

武人・北条幻庵

長老と言うキーワードや多趣味な点から北条幻庵は内政・教養担当と思われる事が多いが(コーエーとかコーエーとかコーエーとか)、功績はあるのに父親息子に美味しいところを持っていかれている北条氏綱の頃には、武蔵で苦戦する応援する為に度々出している、

また、関東管領上杉憲政が北条氏によって越後の長尾景虎を頼る事になり、関東管領・上杉謙信として侵攻してきた際に、最初に戦ったのは北条幻庵であり、矢をとっては無双の達人と言われ、術にも秀でていたとされており、実は文武両の武将だったりする。 

戦国大戦

「ホホホホ、おらも災難じゃのう」

戦国大戦にも北条として参戦している。五色のを蓄えた好々爺っぽい貌。武はご老体なのを考慮してか2コストでは最低の5。統率は9で伏兵・制圧を持った足軽と考えても結構スペック微妙

計略は金剛の計で、士気8の独自計略となっている。範囲は同士気の火繚乱とべると、横がでかくて縦が狭い。三国志大戦経験者向けに言うと、三国志大戦2における陸遜の「夷陵の炎」の横が狭くなったような範囲。

範囲が狭い代わりに威は高い。範囲が上方修正されても使われない彼の明日はどっちだ。

以上のようにかなり癖の強い武将だったものの、バージョンアップにて武が6に上方修正された。

元より高統率に制圧という大筒の扱いに長けた長所はあったものの、武の低さが原因で悩まされていた。だが武が上がった事によりによる火力にも期待できるようになり「微妙スペック」という地位は脱した・・・かもしれない。1493−1589 戦国-織豊時代の武将。
明応2年生まれ。北条早雲の子。大永(たいえい)6年ごろ箱根権現の40代別当となる。のち還俗(げんぞく)して北条一族の長老としておもんじられた。永禄(えいろく)5年北条氏康の娘がとつぐ際にあたえた婦女訓「幻庵覚書」の著者としても知られる。天正(てんしょう)17年11月1日死去。97歳。名は長綱。別号宗哲

関連動画

2018年11月 1日 (木)

一族とともに生きた北条氏の長老軍師〜北条幻庵

天正十七年(1589年)11月1日、戦国時代の関東に君臨した北条氏の長老&ご意見番、北条幻庵が97歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代、約100年に渡って関東を牛耳る北条氏(ほうじょうし=鎌倉時代の北条氏と区別するため後北条氏とも)・・・その祖となる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢盛時(いせもりとき)の末っ子=四男として明応二年(1493年)に誕生した(誕生年には諸説あり)とされる北条幻庵(ほうじょうげんあん)(いみな=実名)長綱(ながつな)法名宗哲(しゅうてつ)と言いますが、隠居後に名乗った幻庵の名前が有名なので、本日は幻庵さんと呼ばせていただきます。

Houzyougenan300as そんな幻庵は、幼くして近江(おうみ=滋賀県)三井寺(みいでら=滋賀県大津市)に入寺し、大永四年(1524年)に出家し、箱根権現(はこねごんげん=神奈川県)を祀る箱根権現社(後の箱根神社)別当寺(べっとうじ=神社を管理するための寺)である金剛王院(こんごうほういん)に入りました。

なんせ、この箱根権現は山岳信仰の中心的存在で、あの源頼朝(みなもとのよりとも)以来関東武士の守り神として崇められていて、大きな力も持ってますから、そこに息子を送り込んでおけば何かと有利・・・なので、当然ですが幻庵本人ではなく、父親の思惑ドップリの出家だったわけですが、そのおかげで、幻庵は、他の兄弟たちとは・・・いや、多くの戦国武将の中でも、かなり特異な立場の人物となるのです。

それは北条一門の武将でありながら箱根権現別当金剛王院の院主(いんじゅ=住職・寺の主)=僧侶であるという事・・・

もちろん、武将ですから、馬術や弓にも長け、合戦の記録も複数あるわけですが、何と言っても他者を寄せ付けないほどトップクラスだったのは和歌や連歌、茶道に築庭、さらに、見事な鞍を作ったり、石工や弓細工などなどの芸術的才能です。

中でも、連歌師の宗牧(そうぼく)とは三井寺での修行時代からの友人で、彼が小田原(おだわら=神奈川県小田原市)にやって来た時には国境まで出迎えて歓待し、連歌会を催したりしています。

そう・・・こういう芸術的お付き合いが非常に重要なんです。

連歌師という人は、歌を作るだけでなく、その指導もするわけで、指導する相手には武将もいれば公家もいる・・・それも全国各地に・・・

宗牧の場合など、公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の邸宅や摂関家の近衛家(このえけ)にも出入りし、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の間を取り持った記録も残っています。

このような独自の人脈を持つ連歌師は、複数の公家や戦国武将の間を自由に行き来し、近隣の情報を得て来てくれるわけです。

もちろん、それは情報を得ると同時に発信する事も可能・・・

たとえば、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉宗滴(そうてき)の回顧録には
「『北条早雲は、普段はめっちゃケチで金を使おうととせんけど、合戦の時には惜しみなく戦費を投入するらしい』という事を連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)から聞いた」
という話が登場しますが、この宗長という人は宗牧の師匠にあたる人・・・なので、情報は、「北条は強いんやゾ!なめんなよ」てな、けん制の意味を込めて、おそらくは意図的に幻庵から宗牧&宗長を通じて朝倉へと流された物?

しかも幻庵は、推定97歳という長寿を全うした事により、結果的に、初代の北条早雲から氏綱(うじつな=早雲の長男)氏康(うじやす=氏綱の長男)氏政(うじまさ=氏康の次男)氏直(うじなお=氏政の長男)北条5代【北条五代の年表】参照>>)に仕える事になりますから、まさに北条家の諜報機関のトップ・・・半分武将で半分僧侶という立場で様々な情報を得て、その情報で以って北条家を支えていたわけです。

逆に、他家へ嫁ぐ娘に贈るために書いた『幻庵覚書(幻庵おほへ書)では、女性としての礼儀作法や心得とともに
「僧侶や芸能関係者をむやみやたらに近付けたらアカンぞ!」
と、いかにも自分がアブナイ事やって来たからこそのアドバイス感満載な事を言っちゃってます。
(若い時に暴れまくってたヤンキー父ちゃんも、娘には、そんなヤツに引っかからんといて欲しいみたいな?www)

ちなみに、長男を早くに、次男&三男を武田(たけだ)との合戦で亡くした幻庵は、もう一人の娘に氏康の三男を婿養子に迎えて、自身の後継者としていましたが、北条と上杉の同盟のためにその三男は越後(えちご=新潟県)へと行く事になり、娘さんとは離縁・・・その彼が御館(おたて)の乱で自害する上杉景虎(うえすぎかげとら)です(3月17日参照>>)

とにもかくにも、その稀にみる才能で芸術家や公家との交流し、情報を集め、その情報を北条家の戦略に活かしていく・・・一見穏やかに芸術を楽しんでいるように見えるその姿は、ある意味、一騎当千の荒武者より怖い存在だった事でしょう。

現に、約100年に渡って関東に君臨した北条は、彼の死から半年余りで滅亡する事となります。

幻庵が亡くなったのは天正十七年(1589年)11月1日・・・享年97。

そのわずか23日後に北条が起こした真田とのトラブル(10月23日参照>>)を理由に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)宣戦布告(11月24日参照>>)し、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されるのです(12月10日参照>>)

やはり幻庵の死によって、北条の「何かが外れた感」が否めませんね〜

ただ、冒頭にも書かせていただいたように、幻庵さんの誕生年も諸説ありますし、亡くなった日付も現在では疑問視する声も出てきていますので、そうなると享年の97歳ってのもあやしくなって来るのですが、初代の早雲の息子でありながら、天正八年(1580年)に5代目の氏直が当主になってから後も、しっかりと活躍している記録が残っていますので、97歳でないとしても、かなりの長寿であった事は間違いなさそう・・・まさに、北条家とともに生き、北条家とともに去っていったと言えますね。

・‥…━━━☆

ところで、ここからは、
この幻庵さんの97歳という年齢に関連して、私個人が少々気になっている事。

幻庵さん以外にも、
先ほどの朝倉宗滴が79歳(8月13日参照>>)
他にも、
毛利元就(もうりもとなり)=75歳(11月25日参照>>)
細川幽斎(ほそかわゆうさい=藤孝):77歳(8月20日参照>>)
藤堂高虎(とうどうたかとら)=75歳(6月11日参照>>)
本多正信(ほんだまさのぶ)=79歳(9月5日参照>>)
大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)=80歳(2月1日参照>>)
などなど、ご高齢で活躍された方がけっこういてはります。

確かな統計が無いので、あくまで予想の範囲=「そうのように考えられている」というデータではありますが、戦国時代の平均寿命は37歳くらいだったとされています。

で、この方たちが話の中に出て来ると、よく言われるのは、
「平均寿命が37歳くらいの頃に80代や90代なんて、かなりのご長寿」
てな事。

もちろん、80代&90代なら、今現在でもご長寿なのですから、これに関しては正解なのですが、気をつけねばならないのは、
「平均寿命が37歳なら、50代くらいでお年寄り=お爺ちゃんの部類に入るんじゃないの?」
あるいは、
「平均寿命が37歳なら、そんくらいで死んでしまう人がたくさんいたのでは?」
という解釈をしてしまう場合がある事です。

ご存じのように、現在の日本人の平均寿命は男性=81歳、女性=87歳で、街中を歩いていても、そのくらいのお年寄りが元気に闊歩しておられますから、「平均寿命」という言葉を聞いて、その言葉通り「普通にしていたらそんくらいまで生きられる年齢」と思ってしまいますが、

実はコレ、「新生児&子供の死亡率が激減した現在」の感覚です。

ほんの少し前(太平洋戦争の頃)でも、未だ乳幼児の死亡率が高く、平均寿命は50歳くらいだったと言われていますが、だからといって50歳でお年寄りだったわけではなく、まだまだ現役でバリバリ働いてますよね。
(ただし、栄養状態が今ほど良くない時代では年齢より老けて見えるという事はあるかも知れませんが…今の50代は若いww)

以前、【七五三の由来】>>のところで、江戸時代には「七歳までは神のうち」という考え方があって、7歳の時に霊的な試練があり、そこを踏み越えれば大人の階段を上る事ができるというような言い伝えがあった・・・てな事を書かせていただきましたが、

それは、それまでに死んでしまうお子様が数多くいた生まれた赤ちゃんが、無事に大人になる確率が低かったという事で、そのために平均寿命が、今よりグンと下がってしまうというわけです。

もちろん戦国時代は、病気以外の危険も多かったですから、幻庵の場合は、半分僧侶であった事で、特に晩年は、ほとんど戦場に出て無かったおかげで、無事に長寿を全うできたという事なのでしょうけど・・・
 .

12月16日付、漢字を少し交えた仮名書きの候文(そうろうぶん)24か条から成
る。婚家・実家・夫等の呼び方に始まり、祝言と返礼の礼式作法、その後の
年中行事のもち方などをこまごまと説く。幻庵の有職故実の知識と嫁ぐ娘へ
の思いやりが感じられる。当時の東国武士の家庭生活や習俗を知る上で貴重
な史料であり、また平易に綴られた文章は国語史研究の上でも重要とされて
いる。
史料本文を読む
(ちょうこう)、後に幻庵宗哲(そうてつ)。この頃から北条氏の軍事行動にも武将
として出陣、知行地の経営にも当たり、兄氏綱、甥氏康らを支えた。一方、
幻庵は学問・文芸・風流に通じた文化人で、和歌・連歌・作庭に優れ、さら
に尺八や鞍を作る工芸の才もあった。宗牧の『東国紀行』(#18)が幻庵の京
文化との交流を物語る。小田原の久野に屋敷を構え、その系統は久野北条氏
と呼ばれる。
12月16日付、漢字を少し交えた仮名書きの候文(そうろうぶん)24か条から成
る。婚家・実家・夫等の呼び方に始まり、祝言と返礼の礼式作法、その後の
年中行事のもち方などをこまごまと説く。幻庵の有職故実の知識と嫁ぐ娘へ
の思いやりが感じられる。当時の東国武士の家庭生活や習俗を知る上で貴重
な史料であり、また平易に綴られた文章は国語史研究の上でも重要とされて
いる。
内 容
<複製本>
●『幻庵おぼえ書』1巻 立木望隆 1973 [K27.7/8]※自筆原本の複製 巻子本
<翻刻本>
◆「北条幻庵覚書」(『続々群書類従 第10』国書刊行会 1907 [081/3/10])
◆「北条幻庵覚書」(『日本教育文庫 女訓篇』日本図書センター 1977
[370.8/47/11]) ※同文館1910年刊の覆刻
◆「北条幻庵覚書」(『世田谷区史料』第2集 東京都世田谷区 1959
[K27.29/3/2])
◆「幻庵覚書」(『北条史料集』萩原龍男校注 人物往来社 1966 (第二期戦
国史料叢書1) [K24.7/17])
◆「宗哲覚書」(『神奈川県史 資料編 古代・中世(3下)』神奈川県 1979
[K21/16/3-2])
◆「蒔田の吉良氏 幻庵の覚書と其解説」(『横浜市史稿 政治編1』横浜市
1931 [K21.1/5/1])
◆立木望隆「幻庵おぼへ書」(『概説北条幻庵』立木望隆著 郷土文化研究会
1970 [K28.7/13])
◆黒田基樹「久野北条氏」(『北条早雲とその一族』黒田基樹著 新人物往来
社 2007 [K28.7/118])

北条幻庵

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北条 長綱 / 北条 幻庵
Hojo Gennann.jpg
北条幻庵像
時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 明応2年(1493年
死没 天正17年11月1日1589年12月8日
改名 菊寿丸(幼名)→伊勢長綱→北条長綱→幻庵宗哲(戒名
別名 通称:三郎、駿河守[1]
渾名:鞍打幻庵
戒名 金龍院殿明吟哲公大居士
主君 北条早雲氏綱氏康氏政氏直
氏族 伊勢氏後北条氏
父母 父:北条早雲、母:善修寺殿[注釈 1]
兄弟 氏綱氏時葛山氏広長綱(幻庵)、長松院殿(三浦氏員室)
栖徳寺殿[注釈 2]
時長(三郎)[注釈 3]綱重長順、女(吉良氏朝室)[注釈 4]、女(上杉景虎正室のち北条氏光室)
養子:上杉景虎(北条氏康の七男)
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北条 幻庵[注釈 5](ほうじょう げんあん) / 北条 長綱(ほうじょう ちょうこう)は、戦国時代武将。伊勢盛時(北条早雲)と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた4男。箱根権現社別当。金剛王院院主。

生涯[編集]

初代・早雲の時代[編集]

北条早雲の男子の中では末子となる[6]。幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺した[6]。箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られる[6]永正16年(1519年)4月28日、父から4400貫の所領を与えられた(『箱根神社文書』)。この頃の名乗りは菊寿丸である[6]

二代・氏綱と三代・氏康の時代[編集]

大永3年(1523年)に兄・氏綱が早雲の遺志を継いで箱根権現を再造営している。この時の棟札には39世別当の海実と並んで菊寿丸の名が見える[6]

大永2年(1521年)から近江・三井寺に入寺し、大永4年(1524年)に出家する(『宗長手記』)。この出家した年かその翌年に箱根権現の40世別当になったと思われ、天文7年(1538年)頃まで在職した[6]。別当になった際に長綱と名乗り、天文5年(1536年)頃から宗哲と名乗った(『藤川百首奥書』)。宗哲の名は大徳寺系の法名である(大徳寺系は宗・紹・妙・義の中から一字取ることを古格慣習としていた)[6]

天文11年(1542年)5月、甥(氏綱の3男)の玉縄城主・北条為昌の死去により、三浦衆と小机衆を指揮下に置くようになる[6]。天文12年(1543年)、「静意」の印文が刻まれた印判状を使用し始めた(『石雲寺文書』)。これは幻庵が自らの支配地強化に乗り出したものと思われ、その本拠地・久野(現在の小田原市)の地名を取って「久野御印判」と呼ばれる[6]

永禄2年(1559年)2月作成の「北条家所領役帳」[7]によれば、家中で最大の5457貫86文の所領を領有した[6]。これは次に多い松田憲秀(2798貫110文)のほぼ倍で、直臣約390名の所領高合計64250貫文の1割弱を一人で領有したことになる[8]

このように政治家か僧侶としての活躍が目立つが、馬術や弓術に優れ、天文4年(1535年)8月の武田信虎との甲斐山中合戦、同年10月の上杉朝興との武蔵入間川合戦、天文15年(1546年)河越城の戦いなどでは一軍を率いて合戦に参加しており[6]、また永禄4年(1561年)3月の曽我山(小田原市)における上杉謙信との合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言している(『大藤文書』)など、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していた[6]

永禄3年(1560年)、長男の三郎(小机衆を束ねた北条時長と同一人物説あり)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また北条氏康の弟・北条氏尭小机城主とした。しかし程なく氏尭が没し、永禄12年(1569年)に武田信玄との駿河静岡県)の蒲原城の戦いにおいて次男の綱重、3男の長順らを相次いで失ったため、同年に氏康の7男・北条三郎(後の上杉景虎)を養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して幻庵宗哲と号した。

永禄12年(1569年)、越相同盟の成立により、三郎(景虎)が越後の上杉謙信の養子となった後は、大甥である北条氏光に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・氏隆に継がせた。

最期と年齢に関して[編集]

天正17年(1589年)11月1日に死去。享年97。幻庵の死から9ヵ月後の天正18年(1590年)7月、後北条氏豊臣秀吉に攻められて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡した(小田原征伐)。

ただしこれは『北条五代記』の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。その根拠として、大永3年(1522年)に兄・氏綱が箱根権現に棟札を納めた際、幻庵の名が菊寿丸と記されており、この時点で幻庵は当時の成人と見られる15歳未満だった可能性が極めて高いことを挙げている。これが事実とすれば享年は15年以上若くなる。一説に文亀元年(1501年)生まれという説がある。また、没年に関しても現在では疑問視されており、天正12年(1584年)、天正13年(1585年)などの説もある[6]

人物像[編集]

作法伝奏を業とした伊勢家の後継者として文化の知識も多彩で、和歌連歌茶道[注釈 6]庭園・一節切りなどに通じた教養ある人物であった。手先も器用であり、作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」とも呼ばれた。他にも一節切り尺八も自ら製作し、その作り方は独特で幻庵切りと呼ばれている。伝説によれば、伊豆の修善寺近郊にある瀧源寺でよく一節切りを吹き、滝落としの曲を作曲したとも云われている[9]   文化人としての幻庵の事跡は数多い。天文3年(1534年)12月18日に冷泉為和を招いて歌会を催し(『為和集』)、天文5年(1536年)8月には藤原定家の歌集『藤川百書』の相伝者である高井堯慶の所説に注釈書を著し、天正8年(1580年)閏8月には板部岡江雪斎古今伝授についての証文を与えている(『陽明文庫文書』)。このように和歌への造詣の深さは当代一流であった[6]。また連歌にも長けており、連歌師の宗牧とは近江時代から交流を持ち、天文14年(1545年)2月に小田原で宗牧と連歌会を催した(『宗牧句集』)。

古典籍の蔵書家でもあり、藤原定家の歌集や『太平記』を所蔵していた[6]狩野派の絵師とも交流があった[6]

氏康の娘(吉良氏朝に嫁いだ)が嫁ぐ際に『幻庵おほへ書』という礼儀作法の心得を記した書を記しており、幻庵が有職故実や古典的教養に通じていた事は明らかである[6]。北条5代の菩提寺である早雲寺の庭園をつくった。

記録の残っている家臣では唯一、初代の北条早雲から5代氏直まで、後北条氏の全ての当主に仕えた人物である。庶民とも気安く接する度量があったという[6]

『北条五代記』は幻庵について「早雲寺氏茂、春松院氏綱、大聖寺氏康、慈雲院氏政、松巌院氏直まで5代に仕え、武略をもて君をたすけ、仁義を施して天意に達し、終焉の刻には、手に印を結び、口に嬬をとなへて、即身成仏の瑞相を現ず。権化の再来なりとぞ、人沙汰し侍る」と評している。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 天正2年(1574年)7月25日。法名:善修寺殿梅嶺宗意大姉[2]
  2. ^ 天文23年(1554年)4月5日没。法名:栖徳寺殿花厳宗大禅定尼[3]
  3. ^ 永禄3年(1560年)7月20日没。法名:宝泉寺殿大年宗用大禅定門[4]
  4. ^ 法名:鶴松院快密寿慶大姉。永禄11年(1568年)吉良氏広(のちの蒔田頼久)を生む。[5]
  5. ^ 正確には「長綱」と「幻庵宗哲」が名乗った正式名称であり、「幻庵」という略称は正しくない(黒田基樹の研究に拠る)。
  6. ^ 茶道は山上宗二から学んだ。

出典[編集]

  1. ^ 『系図纂要』
  2. ^ 黒田 2007, pp. 33-35.
  3. ^ 黒田 2007, pp. 34-35、150.
  4. ^ 黒田 2007, pp. 156.
  5. ^ 黒田 2007, pp. 160.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 歴史群像編集部編 『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』〈学研M文庫〉、2007年、304-308頁。 
  7. ^ 『小田原衆所領役帳 戦国遺文後北条氏編別巻』東京堂出版、1998年。 ISBN 978-4-490-30546-3に全文収録。
  8. ^ 黒田基樹「戦国時代の侍と百姓」『iichiko』No.111、2011年。
  9. ^ 尺八修理工房幻海. “滝落しの曲”. 2011年11月7日閲覧。

参考文献[編集]


【島津家の日新公いろは歌曜】
 「日新公いろは歌について」。(れんだいこアレンジ)
 「日新公いろは歌」は、島津家中興の祖で、島津義弘の祖父でもある島津忠良(ただよし)(号は日新斉・じっしんさい)が、5年余の歳月をかけ完成させたという薩摩藩の「郷中(ごちゅう)教育」の基本の精神となったとなったといわれる47首の歌である。義弘も多大な影響を受け、その後も薩摩武士、士道教育の教典となったこの「日新公いろは歌」は現代の私たちにも通じる多くの示唆を含んでいる。ここで、その47首を大意とともに確認しておく。
いにしへの 道を聞きても 唱へても わが行に せずばかひなし
昔からの為になる教えや学問も、習い口に唱えるだけでは役に立たない。実践、実行せずんば意味がない。
楼の上も はにふの小屋も 住む人の 心にこそは 高きいやしき
御殿に住んでいようと粗末な小屋に住んでいようとも、それは問題ではない。住む人の心のあり方によってこそ真価が決まる。
はかなくも 明日の命を 頼むかな 今日も今日と 学びをばせで
命は儚く明日のことは誰にもわからない。勉学修行を明日に引き延ばしてはいけない。今この時を大切にして学ぶべきだ。
似たるこそ 友としよけれ 交らば 我にます人 おとなしきひと
人は自分と似たような人と仲良くしがちだが、それだけでは宜しくない。自分より優れた見識を持つ者と交わらねばならない。
仏神他に ましまさず 人よりも 心に恥ぢよ 天地よく知る
神仏はよそにいるのではない。心の中にいるのだ。恥ずべき行動をしたら自分の良心に恥じよ。天網恢恢疎にして漏らさずである。
下手ぞとて 我とゆるすな 稽古だに つもらばちりも やまとことのは
自分は下手だと卑下して努力を怠ってはならない。稽古を積めば少しづつ進歩して遂には上手になれる。ちりも積もれば山となる。継続は力なり。
とがありて 人を斬るとも 軽くすな 活かす刀も ただ一つなり
科(罪)のないものを切ってはならないのは当たり前。罪があって刑を行うにあたっても軽々しく行ってはいけない。どう処罰し、どう加減するか、これを正しく適切に行わなければならない。
知恵能は 身につきぬれど 荷にならず 人は重んじ はづるものなり
知恵や芸能は重荷にはならないので励むべきだ。見る人はその人を登用し、己の及ばない事を恥じ尊敬するものである。
理も法も 立たぬ世ぞとて ひきやすき 心の駒の 行くにまかすな
道理が通らない乱世であっても、己は正道を行きなさい。流れにあわせて勝手放題するものではない。
盗人は よそより入ると 思うかや 耳目の門に 戸ざしよくせよ
盗人は他所から入ると思うかもしれないが、本当の意味での盗人は耳や目から入ってくるものだ。目や耳によく戸締りをせよ。
流通すと 貴人や君が 物語り はじめて聞ける 顔もちぞよき
貴人や君の何度も聞かされている話でも、初めて聞くという顔で聞くのがよい。
小車の 我が悪業に ひかれてや つとむる道を うしと見るらん
人は己の怠け心に引っ張られ勝ちで、やがては仕事が辛くなり悪癖となって下落してゆく。人はそれぞれ職分を守って、真面目その業に務めるべきである。
私を捨てて 君にし むかはねば うらみも起こり 述懐もあり
君主に仕えるには全く一身をささげて我を捨てなければ、恨みも起こり不平不満もでる。自分の一身をささげて君主に仕えよ。
学問は あしたの潮の ひるまにも なみのよるこそ なほ静かなれ
学問をするには朝も昼も間断なく修めなければならない。特に夜は静かで勉強しやすい。しっかり勉強するべきだ。
善きあしき 人の上にて 身を磨け 友はかがみと なるものぞかし
人は自分の行いの善し悪しを知ることは難しいが、他人の行いの善悪は目に付く。日頃、友人を見て良いことはこれを見習い、悪いことは反省せよ。
種子となる 心の水にまかせずば 道より外に 名も流れまじ
私利私欲にかられて世の中の事を行えば、道に外れた悪い評判もたつ。この悪の種を刈り取って、神仏の教えに従って正道を行くべきだ。
礼するは 人にするかは 人をまた さぐるは人を 下ぐるものかは
人に礼を尽くす事は、自分を正しくして己を敬う事でもある。天を敬い己を慎む心を養え。
そしるにも 二つあるべし 大方は 主人のために なるものと知れ
家臣が主人の悪口を言うのは二通りある。主人を思うあまり言う悪口と自分の利害から来る悪口である。主人たるものは良く判断し、反省の資とすべきだ。
つらしとて 恨かへすな 我れ人に 報い報いて はてしなき世ぞ
相手の仕打ちがどんなに辛くても相手を恨み返してはならない。恨みには徳を持って対処すべきである。人には無限に尽して行くのが良い。
願わずば 隔もあらじ 偽の 世に誠ある 伊勢の神垣
誠を持って事にあたれば相応の人生を歩むことができ、不正を持って事に対処すれば結局は地に落ちる。人は欺けても、天は公平に人を見ている。
名を今に 残し置ける 人も人 こころも心 何かおとらん
後世に名を残した偉人も、人であって我々と違いはない。心も同じであるから我々とて及ばないということはない。奮起して努力することが必要である。
楽も苦も 時過ぎぬれば 跡もなし 世に残る名を ただ思ふべし
苦も楽も永久的な事ではなく、一時が過ぎれば跡形もない。困難に耐えて世の為に身を粉にして尽くすべきだ。後世に名声を残す事を心がけよ。
昔より 道ならずして 驕る身の 天のせめにし あはざるはなし
昔から道に外れて奢り高ぶった者で天罰を受けなかった物はいない。人は正道をふんでおごりを遠ざけ、神を敬い教えを守っていきなさい。
憂かりける 今の身こそは さきの世と おもへば今ぞ 後の世ならん
嫌なことの多い現世は前世の報いの結果である。現世の行の報いは後の世の姿である。現世の行いを大切にしなさい。すべては因果応報である。
亥に臥して 寅には起くと 夕露の 身を徒に あらせじがため
亥(午後10時)に寝て、寅(午前4時)に起きると昔の本にある。朝早く起きて夜遅く休むのも、それぞれの勤めを果たすため。時間を惜しみ勤労すべきだ。
遁るまじ 所をかねて 思ひきれ 時にいたりて すずしかるべし
君や国のため命をかけなければならないときがやってくる。日ごろから覚悟を決めておけば、万一の場合にも少しの未練もなく気持ちが清らかであろう。
おもほえず 違うものなり 身の上の 欲をはなれて 義を守れ人
私欲を離れて、正義を守って行動せよ。私利私欲を取り去って心の鏡を明らかにすると迷うことはない。
苦しくも 直進を行け 九曲折の 未は鞍馬の さかさまの世ぞ
どんなに苦しくても、悪事を行ってはいけない。正道をいきなさい。鞍馬のつづら折の道のように曲がった道を歩んだものは、まっさかさまに闇の世界に落ち込むような目にあうものである。心正しい正道を歩みなさい。
やはらぐと 怒るをいはば 弓と筆 鳥に二つの 翼とを知れ
穏やかと怒るをたとえれば、文と武である。これらは鳥に二つの翼があるように自由に飛ぶために必要な二つの要素である。どちらか欠いても役に立たない。寛厳宜しく使い分けて政治を行うべきである。
万能も 一心とあり 事ふるに 身ばし頼むな 思案堪忍
ことわざに「万能一心」というのがある。いかに万能に達するとも一心が悪ければ役にたたない。自分の才能に自慢めいた言動をしてはならない。
賢不肖 用い捨つる といふ人も 必ずならば 殊勝なるべし
賢者を登用し、愚者を遠ざけて政治を行えと口に唱える人も、それを実行できるならば素晴らしいことである。だが、実行はなかなか難しい。
不勢とて 敵を侮る ことなかれ 多勢を見ても 恐るべからず
少数だからといって侮ってはいけない。また大勢だからといって恐れるに足りない。少人数でも一致団結すでれば大敵を破ることができる。
こ  心こそ 軍する身の 命なれ そろふれば生き 揃はねば死す
心・士気こそ戦争する者の命である。自分たちの軍隊の気持ちが一つにまとまっていれば生きることができ、揃っていなければ死を招く。
廻向には 我と人とを隔つなよ 看経はよし してもせずとも
死者を弔って極楽往生を祈るには敵味方分け隔てなく、等しく祈りなさい。読経するもよし、しなくてもよいのである。
敵となる 人こそ己が 師匠ぞと 思ひかへして 身をも嗜め
自分にとって敵となる人こそわが師匠と思いなさい。思い直して冷静に観察すれば反面教師として見えてくるだろう。すなわち手本ともなるものである。
あきらけき 目も呉竹の この世より 迷はばいかに 後のやみじは
光あふれる世界である現世でさえ迷っていては、死後の闇の世界ではますます迷うだろう。神仏道を修めて悟りを開きなさい。
酒も水 ながれも酒と なるぞかし ただ情あれ 君が言の葉
酒を与えても水のように思う者や、少しの酒で奮い立つ例もある。要は与え方の問題である。人の上にたつ者は思いやり深く、情け深くあれ。
聞くことも 又見ることも こころがら みな迷なり みなさとりなり
我々が見たり聞いたりすることはすべて己の心の持ちようで、迷いともなり悟りともなる。
弓を得て 失ふことも 大将の こころひとつの 手をばはなれず
軍隊の結束力をまとめるのも失うのも、すべて大将の心一つにある。
めぐりては 我が身にこそ つかへけれ 先祖のまつり 忠孝の道
祖を祀ることや、忠孝の道に尽くすということはやがて自分にめぐりめぐってくるものである。おろそかにしてはならない。
道にただ 身をば捨てんと 思ひとれ 必ず天の 助けあるべし
正しい道であれば一身を捨てて突き進め、そうすればかならず天の 助けがあるはずである。
舌だにも 歯のこはきをば しるものを 人は心の なからましやは
舌でさえその触れる歯の硬いことを知っている。ましてや人においてはなおさらなことである。交わる相手の正邪善悪を察する心がなくてはならない。
えへる世を さましてやらで 盃に 無明の酒を かさねるはうし
この迷いの世の中、その上に杯を重ねて酔いしれ、迷いの上に迷いを重ねて歩くのは情けないことである。真っ直ぐに先を見据え歩くべきだ。
ひとり身を あはれとおもへ 物ごとに 民にはゆるす 心あるべし
たよる者がない老人、孤児、寡婦に対しては情けをかけて一層いたわれ。人に対しては仁慈の心で寛大に接しなさい。
もろもろの 国やところの 政道は 人にまづよく 教へならはせ
治める国や村の掟は、まず民に良く教えさとした上で政治を行え。教えないで法を犯したものを罰するのは不仁の仕方である。
善に移り あやまれるをば 改めよ 義不義は生れ つかぬものなり
善にうつり、過ちは改めよ。元来、義不義は生まれつきのものではない。心のありようで義にも不義にもなる。悪いと気づいたらすぐに改めよ。
少しきを 足れりとも知れ 満ちぬれば 月もほどなく 十六夜の空
少し足りないぐらいを満足とすべし。月も満月の次の十六夜の月は欠け始める。足るを知って楽しむ心が大事である。禅の「吾唯足知」に通じる教訓。

【伊達家家訓】
 

 仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂い(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。気ながく心おだやかにして、よろづに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり。この世に客来たと思へば何の苦しみもなし。朝夕の食事はうまからずとも褒めて食うべし。元来客の身になれば好き嫌いは申されまじ。今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇(おいとま)申すがよい。


【岩崎家家訓】
 小事に齷齪(あくせく)するものは大事ならず。宜しく大事業を経営するの方針を執るべし。一度着手した事業は必ず成功を期せよ。決して投機的の事業は企つるなかれ。国家的観念を以って総ての事業に当たれ。奉国至誠の赤心は寸時も忘るべからず。勤倹身を持し、慈恵人を持つべし。能く人柄技能を鑑別し、適材適所に用いよ。部下を優遇し、事業上の利益は成るべく多く彼等に分与すべし。創業は大胆に、守成には小心なれ。

 子は親を見て育つもの、親は子を育てて育つもの、子育ては親子の一大事業。家族は幸せになるためのチームだ、みんなで協力し合おう。小さい時のしつけは一生の宝物、子のしつけは親の努め。

 お金や名声よりも大切なものを持て。毎日心がけよう笑顔の挨拶、元気のいい挨拶。家族の問題からは決して逃げるな、心を合わせてみんなで解決しよう。








(私論.私見)