その11、文芸論

 更新日/2017.3.24日

 作詞家の藤田まさと。「岸壁の母」、「浪花節だよ人生は」など、昭和を代表する演歌を次々に生み出している。
 「詩はね。美辞麗句を格調高く並べ、百万人の為に作ろうとしてもダメなんだ。たった一人の悩み、悲しみ、訴えを書き得てはじめて百万人が耳を傾けてくれるし、泣いてくれるんだ」(星野哲郎「歌、いとしきものよ」、岩波現代文庫)。

【古典とは】
 (2003.2.15日付け朝日新聞文化欄、俳人・長谷川櫂「時のかたち」より抜粋)
 古典はいつでも誰もが学ぶべきもので「新」も「派」もない。古典というと、はるか昔に絶滅して今は博物館の冷たい大理石の台に横たわる竜の死骸か何かのように考えている人がいる。これはいささか愚かな早合点。正確にいうと、古典とは「時間を超えて生き続けているもの」。

 わずか一回の短い人生を生きている我々以上に最もよく生きているもの。むしろ我々の方が古典よりも先に台の上の死骸になる。学ばずにおく手はない。古典を学ぶとは一も二もない。幾度も自分を殺すことである。そして、言葉のはるか彼方から響いてくる言葉の声に耳を澄ます。個性、才能、自己表現。そんな恥ずかしいものを見せびらかしたい人は勝手に見せびらかしてくれ。早晩、時間がきれいに洗い流してくれる。

【石川九楊(書家)の「本居宣長から疑え」】
 石川九楊(書家)の「本居宣長から疑えー『神の国』、『三国人』発言を越えて」。
 西暦1000年頃、「源氏物語」のような女流文学が日本に生まれたのは、平仮名が「女手」と称して平安時代の貴族の女性に開放されることによって、文字と政治と思想から疎外されていた女性の視点と世界観が文として表現されるようになったからである。「やまとごころ」は、もともとこの孤島人の意識ではなく、漢字文=漢文=漢字文の漢意の中の非政治的・非思想的部分を異様に誇張して派生したものである。

 日本語には国語の前提として漢語がある以上、国語教育を強めると共に漢語教育を復活して、日本語の水準を高めることが必要。日本語の一方であり、根幹である漢語教育を疎かにすることは、日本語の衰退を招き、日本人が世界的水準で思索し、世界的に活躍する機会を奪う。知識人は歪んだ平仮名文化を自賛して自閉し、更に現在のように平仮名・国語・国文教育まで軽視されれば、子どもたちは限りなく無文字に近い生活に墜ち、原始や野蛮ににた精神世界を生き始める。

(私論.私見)
 「国語教育を強めると共に漢語教育を復活して、日本語の水準を高めることが必要」の論旨は良いのだが、ひらなが、かたかなの理解が違うと思う。ひらなが、かたかなこそ日本文の原点であり、そこに漢字を乗せて日本語を創造したのが実相なのでは。日本語をひらなが、かたかな、漢字のアンサンブル言語として磨き、英語と並ぶ世界言語として押し出していくべきではなかろうか。

 2024.4.9日 れんだいこ拝







(私論.私見)