なるほど川柳

 更新日/2019(平成31).1.12日

 「なるほど川柳」。


門松のかはり(代わり)をするも秋田者(もの)
江戸中期から幕末まで計167編が出版された川柳集「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」の第44編
セクハラと 騒ぐ割には 男好き
うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ
はいやります 今すぐやります そのまんま
さあやるか ぼつぼつやるか もう5時か
陰口を たたく奴ほど ゴマをすり
ああいえば こういう奴ほど 偉くなり
正論を 吐かぬ聞かせぬ が出世道
ゴマすりも 実力だよと ゴマをすり
つらかりし そなたの尻も 割れ鍋に わが欠け蓋の 逢うぞうれしき(狂歌百首歌合せ)
貧乏の 神を入れじと 戸をさして よくよく見れば 我が身なりけり(新撰狂歌集)
借金も 今は包むに 包まれず 破れかぶれの ふんどしの暮れ(朱楽菅江・あけらかんこう)
江戸っ子は 五月の鯉の 吹き流し 大口叩いて 腹わたは無し
太平の 眠りを覚ます 蒸気船 たった四杯で 夜も眠れず
いさかいを しいしい腹を 大きくし
いい夫婦 今じゃどうでも 良い夫婦
離さない 十年たつと 話さない
ごみだし日 捨てに行かねば 捨てられる
先を読め 云った先輩 リストラに
僕の嫁 国産なのに 毒がある
草食と 言われる息子 金を食う
妻の声 昔ときめき 今めまい
業績を 上げるつもりが 音を上げる
今日辞める 明日辞めるで 四十年
泥棒を 捕えてみれば 我が子なり
還暦に 親が立ち合う 長寿国
孝行の したい時分に 親はなし
役人の 子はにぎにぎを よく覚え
寝ていても 団扇のうごく 親ごころ
最愛の 妻も年取り 妻難に
最高の 金利がこれでは 貯まるかい
「最低ね」 妻に言われて 40年
受信料 こんなテレビに 払えるか
待たすだけ 受診料ほど 診ない医者
いやになる 受身ばかりの 日本国
付き合って 欲しいと言える 年も過ぎ
みせかけの 激論朝まで 生テレビ
還暦と 退職 主人は ぬけがらに
飲み放題 俺の胃の中 荒れ放題
働けど働けど 頭と同じ もう毛なし
ねだられて 歌ってみれば 聞いてない
ついてこい 言った亭主が ついてくる
中高年 あれこれそれ で会話する
好きな事 やがて出来ぬ 日が来るか
亡き後は 夜の淋しさ 身にしみる
風呂上り 一人淋しく 爪を切る 
一人寝の 眠れぬ夜に 猫の声

けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ     小林一茶
 
(きょうからは にほんのかりぞ らくにねよ)
 
 
こういう句を読むと、泣けてくる。
こういう句を詠むことができる一茶というのは、なんとものすごい俳人なのだろう、と心底圧倒されてしまうのである。
 
秋、北方から海を渡って、はるばるやって来た雁たちに、
 
今日からお前たちは日本の雁なんだよ
 
くらいまでなら、誰でも言える。
しかし、
 
楽に寝よ
 
までは言えそうで言えない。
 
遥かな海を渡って来た雁たちよ。
遠く遠くをご苦労様でした。
さあ、お前たちはもう日本の雁だよ。
今日は安心してお休み。
と呼びかけている。
 
こういう句を読むと、俳句いや日本の詩歌というのは、やはり「心」こそが大事なのだ、としみじみ思う。
いくら表現技術を磨いても、いくら頭が良くても、雁たちと同じ目線でいなければ、また「雁」という「命」への共感を持たなければ「楽に寝よ」という言葉は生まれてこない。
 
一茶だからこそ、この「楽に寝よ」という表現が生まれた。
これが一茶の俳句の素晴らしさであり、余人の真似のできない世界である。
 
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 一茶と蕎麦 - そばの俳句 -  
 小林一茶の故郷は信濃国水内郡柏原村で、黒姫山(2053m)の麓の雪深い里である。この地域は、良質のソバが穫れることでも有名で、十五才で江戸の奉公に出るまでの一茶は、秋にはあたり一面に咲く白いソバ畑を見て育った。五十歳で再び故郷に戻り文政十年(1829)六十五才の生涯を終えている。
その発句(俳句)はおよそ二万句とも言われ、その中に33句とも35句ともいわれる蕎麦を詠んだ句を残している。ここでは、そのなかのおよそ半分の句を選んだ。

○「更しなの蕎麦の主や小夜砧」は、享和3年(1803)41歳の句。小夜砧(さよきぬた)の砧は、今は見られなくなったが布を軟らかくするために木槌で打つ台や打つことをいう。「小」は美称で、夜砧、宵砧、遠砧など季語である。そば生地を綿棒に巻いて打ち板の上で延しているリズミカルな音が聞こえる。今風に解釈すると、そばの主(あるじ)は更しなそばを名目にする江戸のそば屋となるが、同じ享和句帳に「更しなや闇き方には小夜砧」があり、(蕎麦の産地である)信濃の更しなであろう。

○「そば所と人はいふ也赤蜻蛉」は文化4年(1807)、ソバは他家受精作物で花が咲きだすと実に多くの虫たちが飛来する。白い花々にはどの昆虫も似合っているが、なかでも白い花の高見に留まり、ときに低空に飛ぶ赤とんぼとの風景は格別である。そばの花も赤とんぼもともに秋の季語である。

○「そば時や月の信濃の善光寺」は文化9年、江戸から故郷柏原に落ち着く五十才の句である。8月の句なので「そば時」はそばの花で、月に映える一面のそばの花と月に照らしだされた善光寺を詠んだのであろう。

○「赤椀に龍も出そうなそば湯かな」はそばの茹で湯(そば湯)を詠んだ珍しい句。漆塗りの赤い椀に入れられた濃いめのそば湯の湯気が見えるようだ。「そりや寝鐘そりやそば湯ぞよそば湯ぞよ」(釣り)鐘の音が聞こえる。そば屋ではなく、どこぞでそば切りを振る舞われたあとのそば湯であろうか。いずれも文化11年の句。そば切りを食べたあとそば湯を飲む風習は信濃から始まって江戸時代の中頃になって江戸に伝わった。

○「山鼻やそばの白さもぞっとする」は蕎麦花の一面に広がる白の起伏から妖気漂う山里の光景ともとれるが、前書きに「老いの身は今から寒さも苦になりて」とある。故郷・北信濃は冬の到来が早い。長く厳しく雪に閉ざされてしまう冬の白さを詠んだ句である。「しなの路やそばの白さもぞっとする」「そば咲やその白さゝへぞっとする」、いずれも文化14年(1817)55歳の句である。

○「蕎麦国のたんを切りつつ月見哉」は、前書きに「おのが味噌のみそ臭さをしらず」とあって、酒が入ってであろうか、つい故郷の蕎麦の自慢に夢中になりながら月見をしている。十五歳で奉公に出て信濃者の悲哀を背負った一茶は、蕎麦国のたん(自慢)を切ることは江戸の者からは「蕎麦の自慢はお里が知れる(米も穫れず貧しい)」とされるのを承知の句である。前書きからもそれを読みとれる。
文政2年(1819)8月15日は月食皆既。「亥(み)七刻右方ヨリ欠 子(ね)六刻甚ク 丑(うし)の五刻左終」(おらが春)。「そば所のたんを切りつつ月見かな」もある。

○「夕山やそば切色のはつ時雨」は、故郷の柏原に家庭をもち安住している文政2年11月の句である。そば殻を取り除いて甘皮に包まれた丸抜きの実を石臼で挽くそば粉は味も香りも色も良い。晩秋から初冬の初時雨は薄緑をおびた新そばの季節である。

○「国がらや田にも咲かせるそばの花」「田にも咲する」は文政4年(1821)の句。一見そば処の風景だが、雪深い北信濃は小麦も大麦も穫れなかった土地柄で、江戸の後期でも稲作にはあまり適さなかったのだろう。まるで現在の休耕田とソバを詠んだ句のようだ。

○「江戸店や初そばがきに袴客」「草のとや初そばがきをねだる客」、いずれも文政4年の12月の句である。先の句は新そば掻きを待ちわびる様を改まった袴で詠み、後の句は「草の戸」と「ねだる客」でがらっと趣を変えたのであろう。新そばに限らず、旬や初物を大切にし、季節の移ろいに敏感であった風景である。

○「かげろうやそば屋が前の箸の山」「そば屋には箸の山あり雲の峰」いずれも、文政6年(1823)61歳の句で、そば屋で割箸が使われだす前の、箸を洗いかえして使っていた江戸後期の店頭風景である。当時の蕎麦屋がどんな箸を使っていたかは判然としないが、竹の丸箸かせいぜい杉の角箸あたりだったようだ。ちなみに割箸(当時は引裂箸)は一茶が亡くなった文政の頃から使われだしたそうだ。ちなみに、「風流大名蕎麦 笠井俊彌著」によると、当時の川柳集である柳多留に初めて割り箸が登場するのが寛政12年(1800)だという。「割箸を片々無いと大笑い」がそれであるが、「山出しの下女割箸を二膳つけ」は文政10年(1827)で、いまだ普及の過程である。

○一茶の句としておなじみの「信濃では月と仏とおらが蕎麦」は有名だが、一茶の句でないとする説が有力で、一茶の書いた句文集にも、また、門人達の出版した「一茶発句集」や「嘉永版一茶発句集」にもこの句は出ていないそうだ。
「一茶-その生涯と文学  小林計一郎著 信濃毎日新聞社」によると、この句がはじめて発表されたのは明治30年発行の「正岡子規宗匠校閲批評 俳人一茶 東京三松堂」であり、その時に材料を提供したのは柏原宿の本陣・問屋に生まれ「七番日記」を公刊し一茶同好会主として一茶の顕彰につとめた中村六郎であった。当時の中村家は、「氷そば」というのを作っていて、おそらくこれの宣伝のためにこの偽句を作ったのだろうという。
なお、小林計一郎氏によると、明治30年当時の六郎は新進気鋭の俳人であり、さらに、著名な一茶の偽作とされる「親は死ね子は死ねあとで孫は死ね」「何のその百万石も笹の露」なども六郎の創作であろうという。


 一茶以外でも蕎麦を詠んだ句はたくさんある。その一部を紹介すると。

 松尾芭蕉は伊賀上野出身で江戸前期・寛永21年(1644)~元禄7年(1694)の俳人
○「三日月に地はおぼろなり蕎麦の花」は、かすかな月明かりに映し出される一面に広がった蕎麦花の白さを詠んだ句で、やはり妖気漂う気配を思わせる句である。

○「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」は元禄7年秋、伊勢から弟子の斗従(とじゅう)が芭蕉を訪ね伊賀まで来てくれた。蕎麦切りでもてなすことのできない心情が汲み取れる。当時は伊賀の周辺にも広い蕎麦畑があったことや、当然のことながら蕎麦は主として旬だけの食べ物であったこともわかる。(なお、この句については菩提寺である三重県伊賀町の萬寿寺のほかに、長野県松本市郊外と長野市鳥坂峠にも句碑がある。)


 江戸中期では摂津出身の与謝蕪村 享保元年(1716)~天明3年(1784)には、
○「残月やよしのの里のそばの花」は、古今集に「・・吉野の里に降れる白雪」があり、白雪でなく真っ白な蕎麦の花が咲いていると詠んだもので、桜の里にもそばが栽培されていたことがわかる。

○「根に帰る花やよしののそば畠」は、吉野の花である桜は既に散って根に帰ったが、いまは山里のそこかしこに白いそばの花が咲いている。この二句は花といえば桜の吉野でそばの花を詠んだめずらしい句である。

○「鬼すだく戸隠のふもとそばの花」は、謡曲「紅葉狩」の舞台で、鬼が集まって酒宴をひらく戸隠山の麓の気配と、そば花の一面に咲く白の妖気が漂うような戸隠の秋であろう。

○「新蕎麦やむぐらの宿の根来椀」は、「むぐらの宿の椀」と解すると粗末な宿にある根来塗の椀で、使い込んだ朱の漆椀に盛られた新蕎麦の情景であろう。次の句とともに、盛り入れたそばの上からつゆをかけたのであろう。

○「しんそばや根来の椀に盛来(もりきたる)」は、新そばの風味と根来椀の風情が重ね詠まれている。
言うまでもなく根来椀は、秀吉の根来攻めによって途絶えた紀州根来塗りが伝わり、この黒漆を重ね塗りして仕上げに朱漆を塗るのを根来塗りと総称した。使い込むと朱の漆が薄くなり黒漆が出てきて模様のようにもなる。輪島や会津に伝わったといわれる。

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エピソード

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和歌(良寛)・俳句(小林一茶)と狂歌(蜀山人)・川柳(柄井川柳)
 和歌は大、つまり日本の歌をいいます。俳句は、連歌の上句が独立して誕生した、五・七・五の歌です。
 狂歌は、和歌の形式で、風刺を主としています。川柳は、俳句の形式で、風刺が特徴です。
 和歌です。
(1)香川景樹がいます。古今調の歌風を特徴としています。
 恋と題して、次の歌が印象に残っています。
 「世中の 一花ごろも いつのまに 身にしむまでは おもひそめけむ」 
 「大かたの よその情を 見し日より こひしき人に なりにけるかな」
 「若草を 駒にふませて 垣間見し をとめも今は 老やしぬらむ」
(2)良寛さんがいます。童心にあふれる万葉調の歌風を特徴としています。
 「この宮の 森の木下に 子供らと 遊ぶ春日は くれずともよし」
 「ひさかたの 雪解の水に 濡れにつゝ 春のものとて 摘みに来にけり」
 良寛さん(70歳)のところを貞心尼(30歳)が訪れた時の和歌です。
 「これぞこの ほとけの道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ」(仏の道を教えてください)
 良寛さんの返しの和歌です。
 「つきて見よ ひふみよいむな やここのとを とをとおさめて またはじまるを」(手鞠をついて無心になりなさい)
 良寛さんの辞世の和歌です。
 「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉」
 狂歌です。
(1)蜀山人が有名です。
 「世わたりに 春の野に出て 若菜つむ わが衣手の 雪も恥かし」(蜀山人)
 「光孝と 何かいふらん 君がため 若菜を摘むは 忠義天皇」(蜀山人)
 「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」(本歌は光孝天皇)
 「いかほどの 洗濯なれば かぐ山で 衣ほすてふ 持統天皇」(蜀山人)
 「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ あまの香久山」(本歌は天智天皇)
 「あし引の 山鳥のおの したりがほ 人丸ばかり 歌よみでなし」(蜀山人)
 「足引の 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を 独りかも寝ん」(本歌は柿本人丸)
 「白妙の ふじの御詠で 赤ひとの 鼻の高ねに 雪はふりつつ」(蜀山人)
 「田子の浦に うちいでてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪はふりつつ」(本歌は山辺赤人)
 「みなの川 みなうそばかり いふなかに 恋ぞ積りて 淵はげうさん」(蜀山人)
 「つくばねの 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」(本歌は陽成院)
 「花さそふ あらしの庭の 雪ならで くものは うしの金玉」(蜀山人)
 「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり」(本歌は入道前太政大臣)
(2)石川雅望がいます。別名宿屋飯盛といい、蜀山人に学びました。
 「歌よみは 下手こそよけれ 天地の 動き出して たまるものかは」
 「力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」(本歌は紀貫之の『古今和歌集』序)
 俳句です。
(1)与謝蕪村が有名です。『蕪村七部集』は写生を重んじた客観的な句が特徴です。
 「起て居て もう寝たといふ 夜寒哉」
 「水鳥や てうちんひとつ 城を出る」
 「みじか夜や 毛むしの上に 露の玉」
(2)小林一茶です。『おらが春』が有名です。
 「我ときて 遊べや 親のない雀」
 「是がまあ ついの栖か 雪五尺」
 「めでたさも 中位なり おらが春」
 川柳です。
(1)柄井川柳が有名です。『誹風柳多留』を出しています。
 「孝行の したい自分に 親はなし」
 「役人の 子はにぎにぎを よく覚え」
 「寝ていても 団扇のうごく 親ごころ」
 「居候 三杯目には そっと出し」
 「どっからか 出して女房は 帯を買い」
 「蟻一つ 娘ざかりを 裸にし」
 「侍が 来ては買ってく 高楊枝」
 「芭蕉翁 おbちゃんと云ふと 立ちどまり」
良寛と蜀山人
 昔、自転車で学校に通っていた時があります。余り車が来ない住宅地での出来事です。若い母親らしき人が、変な顔をして、奇妙な仕草をしていました。頭が少し弱いのかなと思い、関わらないように、少しはなれて通り過ぎようとしました。その瞬間、変な仕草の母親の相手が路地から出てきました。小さい子供さんでした。
 この母親は、子供心になって、相手をしていたのです。母親は、子供を相手にするとバカになれる。これを童心というんだなと理解しました。ここには、争いがおきません。
 良寛さんが、子供と遊ぶ、或いは子供心になりきるということは、「無の心」だったということです。無の心になると、誰とでも、自由になれるということでしょうか。
 蜀山人の本名は、大田直次郎といいます、先祖代々、幕府の御徒組に属し、七十俵五人扶持でした。蜀山人の父は、自分と同じ道をたどらせまいと、学費を工面して、蜀山人に期待しました。
 松平定信が老中となると、寛政異学の禁を発し、昌平坂学問所で、正学(朱子学)を学んで、優秀な成績を修めた者を登用する制度を設けました。1794(寛政6)年、蜀山人は46歳で受験しました。合格者のうち、御目見得以下のトップは蜀山人こと大田直次郎で、銀10枚を与えられました。
 優秀な成績で卒業した蜀山人は、昼は大田南畝として、幕府に勤め、夜は、蜀山人として人生を楽しむ生活を送るようになりました。
 しかし、定規で計った様なサラリーマン武士の生活に嫌気がさし、さっさと武士を捨てました。ここが、同じ学問所の卒業生でも武士を捨てられなかった遠山左衛門尉金四郎(金さん)と違うところです。
 すべての束縛からはなれた蜀山人は、狂歌の世界で天皇をも平気で風刺する自由人となったのです。
 良寛さんと蜀山人とは、どこかフーテンの寅さんに似ている気がしています。




(私論.私見)