和歌

 更新日/2017.4.11日

【出雲和歌】
 「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣根を」。

 (解説) 古事記に登場する日本最古の和歌。和歌から連歌が生まれ、そこから俳句、川柳が生まれる。

【民のかまど】
 「高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり」(新古707)
 (通釈)

 仁徳天皇が、高殿に登って国のありさまを見わたすと、民家のかまどから煙がたちのぼっている。民の生活が成り立っていることをうれしく思う。
 (解説)

 【由来】新古今集巻七賀歌巻頭。延喜六年(906)の「日本紀竟宴和歌」の「たかどのにのぼりてみれば天の下四方に煙りて今ぞ富みぬる」が誤伝され、仁徳天皇御製として伝わった歌という。例えば『和漢朗詠集』には作者不明として見え、『水鏡』『古来風躰抄』などには仁徳天皇御製として載っている。

 どの家でもその日に食べる食料すらなくなり、人々は飢えに苦しんでいた。仁徳天皇はカマドに煙すら上がらない民の生活を見ていたく嘆き、いそぎ税を向う3年間は取り立てないことにした。そして宮殿の改修などに人力をさくことを中止し、食料の生産高をあげるべくさまざまな事業に専念した。その結果3年後にはどの家々からもカマドの煙が立ち昇ったとの故事にちなむ歌。

 仁徳天皇は、「天皇が天に立つのは民のためである。過去の聖王達は一人でも民が飢えたら自分の身を責めたものである。民が貧しいのは私が貧しいことであり、民が豊かなのは私が豊かなことなのだ」といい、まず民のことを第一に考えた。民は天皇を中心としたクニ造りに賛同し、その持てる力を出し合って難波の地に強くそして平和なクニを築き上げた。仁徳天皇没後に世界最大の墳墓が築かれたのも、「仁」と「徳」の聖王として称えられ、長く続く五穀豊穣と太平の世が残ったからとされている。
 【主な派生歌】は次の通り。
後鳥羽院 [玉葉] 「見渡せば 村の朝けぞ 霞みゆく 民のかまども 春にあふ」
藤原雅経 [続後撰] 「高き屋に 治まれる世を 空にみて 民のかまども 煙立つなり」
後嵯峨院 [続後拾遺] 「足曳の 山田の早苗 とりどりに 民のしわざは にぎはひにけり」
後宇多院 [新千載] 「今も猶(なお) 民のかまどの 煙まで まもりやすらん 我が国のため」
長慶天皇 「たかきやに けむりをのぞむ 古に たちもおよばぬ 身をなげきつつ」
正徹 「かまどより たつや煙も 高き屋に のぼる霞の 色とみゆらん」
正徹 「これまでや なにはの宮の たかき屋に 煙をそへて みつの浜松」
後水尾院 「世は春の 民の朝けの 烟より 霞も四方の 空に立つらん」
与謝野晶子 「高き家(や)に 君とのぼれば 春の国河 遠白し 朝の鐘なる」

 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nintoku.html
 http://www.h5.dion.ne.jp/~spark/his/nintoku.htm


【大伴家伝承の歌】
 「海ゆかば水づく屍 山行けば草むす屍 大君のへにこそ死なめ かえりみもせず」。
 (解説)

 大伴家伝承の歌で、万葉集に収録されている。大伴氏は物部氏とならぶ古代の豪族で、天皇家の軍事大臣という役どころを果たしていた。大伴氏は有名な万葉歌人の大伴旅人、家持を輩出した後、応天門の変で完全に勢力が一掃された。

【御歌】
 「手を拍てば、下女は茶を持ち、鳥は立ち、魚は寄り来る、猿沢の池」

(解説)
 大和地方に昔から伝わる御歌。同じ拍手の音を聞いても、茶店の下女はお茶の催促と聞き取り、鳥は危ないから逃げろと聞き、魚は餌が与えられる合図と聞く。長い歴史によって作られた性格に拠り、受け取り方、受止め方が異なる。


【「後拾遺和歌集」の兼明(かねあきら)親王の「七重八重花歌」】
 「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」
 (解説)

 出典は、「後拾遺和歌集」の兼明(かねあきら)親王の句。七重八重花は、実を結ばない花であることを踏まえて詠っている。狩の途中、蓑を借りようとした太田道灌(どうかん)に、土地の娘が無言で山吹の一枝を差し出した逸話にちなむ和歌である。道灌は、古歌の意味が分からず恥をかき、以来歌道に励んだと伝えられている。


 「人を思ふ 心は雁に あらねども 雲居にのみも なきわたるかな」(清原深養父・清少納言の曽祖父)(古今集所収)
「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」(藤原兼輔・紫式部の曽祖父)(後撰集所収)

 (解説)

 清少納言は、一条天皇の皇后定子(ていし)、紫式部は中宮彰子(しょうし)に仕え、王宮で確執した。この歌は、最近のコンピューター解析により、清原深養父の元歌に藤原兼輔が替え歌している様子が判明した。平安時代を代表した清少納言と紫式部の因縁の関係が曽祖父時代からのものであることが明らかとされ、話題を呼んでいる。

 ただ人は情あれ朝顔の花の上なる露の世に   閑吟集

 「久方(ひさかた)の 光のどけき春の日に しづ心無く 花の散るらむ」(紀友則「古今集」)


 「秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(藤原敏行・古今集169)

 「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」(崇徳院)


【小野小町】

 「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」


【在原業平】
 「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」
 「つひに行く 道とは聞きしかど 昨日今日とは 思はざりけり」

【藤原定家】

 「来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」


一休宗純
 「人は武士 柱は檜 魚は鯛 小袖は紅梅 花はみ吉野」

【西行法師】
 「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」

 「生まれてはつひに死ぬてふ事のみぞ 定めなき世に定めありける」(平維盛)

 「嘆きつつ一人寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る」(右大将道綱母)


大田資長
 「急がずば 濡(ぬ)れざらましを 旅人の 後より晴るる 野路の村雨」
 (解説) 大田資長(後に江戸城を築城した大田道灌)が、父親に「短慮不成功」を分かりやすく和歌で表現せよと云われ、詠んだ歌。

【四方赤良・よものあから】

 「寝て待てど暮らせど 更に何事も なきこそ人の 果報なりけれ」

 「我が禁酒 破れ衣となりにけり さしてもらおう ついでもらおう」

 「かくばかり めでたく見ゆる世の中を うらやましくや のぞく月影」

 「らくらくと 世を渡るべき 瑞相は 耳が大きく 色気たっぷり」

 「八十や 九十や百の 若い者 鶴は千年 亀は万年」

 「世の中に たえて女のなかりせば 男の心 のどけからまし」

 「一刻を 千金づつに つもりなば 六万両の 春のあけぼの」
 「二度三度 人をやるのに なせ来ぬか あまりきねから 腹が立ち臼」

 「世の中は 色と恋とが敵(かたき)なり どうぞ敵に めぐりあいたい」


 「今は梅干婆あでも 若いときには色香も深く うぐいす鳴かせた こともある」


【本居宣長】
 「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花」

【明治天皇】
 「よもの海 皆はらからと思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」




(私論.私見)
 
良寛さんの「霞立つながき春日を子どもらと手まりつきつつこの日くらしつ」の心境です。